ハイスクールD³   作:K/K

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尽力、全力

「一進一退……中々面白い展開になってきたじゃねぇか」

 

 モニターに映る戦いを見ていたアザゼルが勝てば負け、負ければ勝つという目まぐるしい戦い模様への感想を洩らす。

 実力からしてリアスの方が大差を付けるかと思われたが、蓋を開けて見れば、『停止世界の邪眼』を持つギャスパー。デュランダル使いのゼノヴィア。猫魈であり仙術を扱う小猫が落とされている。

 

「いいねいいね、こういうのは。酒が美味くなる」

 

 その隣りで同じく観戦していたマダは上機嫌に笑いながら、テーブルに置かれた酒瓶を手に取ると、そのまま一気に飲み干す。並みの悪魔なら酔い潰れる度数の酒を、水でも飲むかの様に取り込む。彼の前のテーブルには、レーティングゲームから今に至るまでの間に彼が飲み干した数十本の空瓶が置かれていた。

 

「つーか、ソーナ側が見せた『反転』って、お前たちが研究してた人工神器じゃなかったか?」

 

 その指摘に、アザゼルは苦虫を噛み潰したような表情となる。

 

「どこの誰かは知らんが勝手に提供しやがって……大方試作品のデータを取りたいが理由だろうな」

「試作品か。使っても問題無いのか」

「無い、とは断言出来ん。自分に無い能力を後天的に付与するのは下手をすれば寿命を縮めるし、そのせいで本来使用出来た能力が使えなくなるリスクもある。俺としてはお勧め出来んが。――ともあれ、あれをソーナ・シトリーたちは覚悟して使っているだろう」

「若い奴ってのは無茶をする」

「それで若い芽が潰れたら元も子もない。今後のゲームでは使用を禁止するか、それか俺に話を通してもらわないとな」

 

 人工神器に関して知識は、ほぼ堕天使側が独占している。天使や悪魔側にも技術提供はしていくが、それでも危険防止や安全対策を万全にするには研究者であり責任者でもある自分が判断すべきだ、という考えであった。

 

「あのがむしゃらさが面白いけどなぁ」

 

 あくまで楽しむ様子を見せるマダ。

 

「そのがむしゃらさも度が過ぎれば命を危険に晒す。自分は勿論だが相手もな」

 

 他人の生き死にを楽しんでいるともとれるマダに、アザゼルは苦言を呈する。

 

「……聞きたいと思っていたが、ギャスパーの件、何で横槍を入れた?」

 

 レーティングゲームそのものが台無しになるかもしれないという理由から、アザゼルはギャスパーの神器を封じる為の道具を作成していた。しかし、土壇場になって魔眼封じの使用がキャンセルされ、折角作った物が無駄になってしまった。理由は知らされていなかったが、先程のリアスとソーナの会話で原因がマダであることを知った。

 

「横槍って言うんだったら、お前のやってることも同じ様なもんだろうが」

「あん?」

「戦いってのは、自分と相手だけのもんだ。外野があれこれ口出しするのは気に入らねぇ。口出しし続けた結果、戦いがショーか見世物にまで落ちるのなんて見てられねぇからな」

 

 戦いというものはあくまで当事者たちのものと主張するマダ。

 

「言っておくがな。レーティングゲームってのは殺し合いじゃないんだよ。自分たちの持つあらゆる力を見せ、それぶつけ合う為のもんだ。ルールを決めるのも、第三者が審判するのも、熱が入り過ぎるのを止める為だ。相手の命を奪って上か下かなんて決める時代じゃないんだよ、今は」

 

 これはマダの言う戦いではなく試合であり、決まり事があるのは命を奪い合うことを避ける為と主張するアザゼル。

 静かな言い合いであったが、互いに互いの主張を譲らないという確固たる意思が感じられた。このまま更なる議論に発展するかと思われたが、二人揃って大きく息を吐き出す。

 

「――まあいいか。レーティングゲームのあれこれを決めるのは悪魔側だ」

「――戦いの定義なんてそれぞれだ。あれだこれだと決めつけてもしょうがない」

 

 これ以上言い争っても話が平行線のままなのが分かっていた。付き合いが長い二人からこそ出来る、会話の打ち切りである。

 あくまで自分たちはこのレーティングゲームを見学する側。それがあーだこーだと言うことこそ真剣に戦う彼らに失礼である。

 さっきまでの主張の衝突がまるで無かったかの様に話を戻す。

 

「しかし、シトリー側なんて眷属全員まさに命懸けってやつじゃねぇか。特に匙の奴なんてそれを通り越して前代未聞のことをしでかしたしな」

 

 マダが指しているのは、匙のヴリトラ覚醒のことである。その時のVIPルームは騒然としていた。匙が何をしようとしているのか真っ先に気付いたアザゼルなど、VIPルームを飛び出して、匙を直接止めに行こうとする事態にまでなっていた。

 思い出して笑うマダをアザゼルは横目で睨む。

 

「たまたま上手くいったからいいものを……失敗したら悪魔でもドラゴンでもない化け物に成り果てていたかもしれんのだぞ?」

「確かに。でけえ賭けだったな。まあ、本人がどこまでリスクを把握していたのかは知らんが」

 

 アザゼルが想定していた最悪の事態をマダも肯定する。

 決してあの時のアザゼルの判断は大袈裟なものではない。言葉通り匙がヴリトラの覚醒に失敗していたら、肉体を乗っ取られた挙句理性を完全に失った状態となり、周りの魔力を手当たり次第に取り込み、仮初の体を形成しドラゴンもどきと成って、取り込む魔力が無くなるまで暴れ続けるという未来になっていた。この場合、レーティングゲームは中断され、ゲーム主催者側によって抑えられるか、もしくは排除されていたであろう。

 当の本人が想像していたよりも遥か上の最悪の事態。それへの動きがレーティングゲームの外で起こる寸前であった。

 

「……お前、あいつに変なことを吹き込んでないよな?」

 

 疑いの眼差しを向ける。

 

「おいおい。いくら俺でもヴリトラの魂を呑め、なんて助言する訳ねぇだろうが。ゲーム開始前にせいぜいヴリトラとは仲良くしておけよとしか言ってねぇよ」

 

 マダの考えは、そうしておけば神器の中で眠っているヴリトラが戦いの熱や想いに反応し、多少は力を貸してくれるというものであった。結果としてはその斜め上の行動をされたが。

 

「しかし、不完全とはいえあれほど魂をバラバラにされたヴリトラを呼び起こすとはな……。リアス嬢を応援させてもらっている手前、あまり声を大にしては言えないが……大した小僧だ」

 

 二人の話に入ってくる新たな存在。同じ五大龍王であるタンニーンであった。現在の彼は会場に入る為に体を縮めており、掌に乗れるほどの大きさになっている。現にタンニーンが話している場所はマダの肩であり、止まり木の様に腰を下ろしている。

 

「俺とお前が直々に鍛え込んだ赤龍帝が、ヴリトラ相手にどれ程足掻くか見物だな」

 

 笑うタンニーン。その言葉に違和感を覚えたアザゼルが口を挟む。

 

「逆じゃないのか? 未熟とはいえ禁手が出来る赤龍帝に不完全な覚醒のヴリトラがどれだけ喰らい付くのかと思うもんだが?」

「ただの力押しだけではヴリトラには勝てん。何せ奴の戦い方は嫌らしいからな。今の赤龍帝とヴリトラでは相性が悪過ぎる。地獄を見るのは赤龍帝の方だな」

 

 タンニーンの断言は、アザゼルにとって不意打ちの様なものであった。確かに覚醒直後とはいえ、ゼノヴィアを手玉にとってみせた。ゼノヴィアもこれから匙が相手をする一誠も直線的な戦い方をする。そう考えるとタンニーンの言葉に説得力が増す。

 

「そこまで言うか」

「力を借りているだけならここまで言わん。恐らくだが、ヴリトラの意識も表に出てきているぞ?」

「マジか?」

 

 タンニーンは匙の戦い方を見てヴリトラの意を感じ取った。黒い炎の慣れた使い方に見覚えがある。

 

「……お前はヴリトラと戦ったことがあるのか?」

「――まあ、一度か二度な。小競り合いの様なものだ。あの頃は若かったしな」

 

 長く生きたアザゼルも初耳であった。本人は軽く言っているが、ドラゴン同士の戦いなどそれこそ天変地異に近い騒ぎと被害が起こっただろう。

 

「で、結果は?」

「引き分けだ」

「参考までに聞かせてもらえるか? ただの力押しで勝てない奴にお前はどう戦ったんだ?」

「ただの力押しが駄目なら――」

 

 そこで一旦言葉を区切る。

 

「――もっと力押しで戦ったまでだ」

 

 凄まじいまでに単純な方法、聞いたアザゼルも逆に清々しさすら感じる。側で聞いていたマダなどその解決方法に爆笑していた。

 

「ははははははははは! 下手な小細工するぐらいなら力で捻じ伏せた方が早いもんなぁ! いいねぇ! 大好きだぜ俺も。力に物を言わせるのは!」

 

 同調し始めるマダにアザゼルは頭が痛くなってくる。

 

「――と笑っちゃいたが。タンニーンの言う通りあんまし良くない状況かもな。タンニーンぐらいの力がなきゃまともに戦えねぇってことだ。未熟な彼奴だったらどんなことになるのやら」

 

 一転して真面目なことを言い出す。が、今もその顔はにやけていた。

 

「心配している割には楽しそうだな」

「可愛い弟子がこれから苦戦を強いられるんだ。喜ばしいことじゃねぇか。試練と苦難は成長の糧だぜ?」

「確かにな。ドラゴンたるもの死線を何度か越えてこそ一人前だ。ましてや赤龍帝。後々のことを考えればまだ足りないな」

 

 マダの考えにタンニーンが同意する。師として愛情みたいなものだろうが、加虐さを感じさせられる。

 とは言ってもアザゼルもタンニーンたちの考えには否定的ではない。

 歴代最弱ではないかと囁かれている一誠が強くなるには、こういった戦いを何度も経験するしかない。

 戦いの先には歴代最強と謳われる白龍皇ヴァーリが待ち構えているのだ。いつかあるだろう決戦の日まで力を付けなければならない。

 一方別の観覧席では。

 

「ほっほっほっ。これまた分からなくなってきた。面白い一戦になりそうじゃな」

 

 モニターの中で黒いラインに引き摺られている一誠を見ながら、オーディンは白い髭を撫でながら愉快そうにしていた。

 

「サーゼクス」

「何でしょうか?」

 

 側にいるサーゼクスに呼び掛ける。

 

「あのドラゴンの神器を持つ小僧じゃが」

「赤龍帝の兵藤一誠君ですか? それとも黒龍の匙元士郎君のことですか?」

「シトリー家の『兵士』の方じゃな」

 

 誰もが注目する赤龍帝ではなく、知名度が無い匙の方にオーディンの興味が向けられていた。

 

「弱者が大きく化けるのは強者との戦いじゃ。あの小僧、聖剣との戦いで壁を超えよった。レーティングゲームには時折こういうことが起こるから観戦が止められん。さてさて次はどうなる? 聖剣に続いて赤龍帝すら打ち倒してみせるか?」

「うーん。匙君には頑張ってもらいたいけど。あんまり無理したらソーナちゃんが悲しむかもしれないし……。うーん、うーん。お姉ちゃんとしては複雑なしんきょーう」

 

 匙のこれからの戦いに期待と関心を寄せる大神。一方で妹の眷属が無茶をして勝ったことに喜んでいいのか心配をすればいいのか、判断を困らせているセラフォルー。

 観客席で大物たちが様々な理由でレーティングゲームに注目する。

 そんな中で唯一例外の存在がいた。

 

「ふぅ……」

 

 モニターに映る戦いを見ながら退屈さからくる欠伸を噛み殺すのは、ロキであった。

 誰もが一定以上の熱を以て観戦する中で彼だけは冷めた眼差しで見続けている。

 レーティングゲームが開始してから数度目となる欠伸を噛み殺したとき、ロキは徐に席を立ち上がった。

 

「どうした?」

 

 その動きに素早くオーディンが反応する。ロキは、貼り付けた様なわざとらしい笑顔を浮かべながらオーディンの方を見る。

 

「流れ出る血に、少々中てられてしまいました。少し外の空気を吸ってきます」

 

 白々しい嘘に皮肉の一つでも言いたくなるオーディンであったが、ここで言い争って熱を帯びた場の空気を冷やすのを避け無言で頷く。

 一礼し席を離れるロキ。オーディンは御付きのヴァルキリーに目配せをする。ヴァルキリーはその目に込められた意味を察し、彼女もまたオーディンから離れロキの後ろに付く。

 

「お供します」

 

 自分が監視役であることを露骨に示すが、ロキは表情を変えることなく黙って歩を進める。拒絶の言葉を吐かなかったことを許可の証と勝手に受け取り、観客室から出たロキの後を追って彼女もまた部屋の外に出た。

 部屋を出るとロキが数歩先を歩いている。オーディンの命に従い、ここから先不審な動きを何一つ見逃さずに監視を続けることを、ヴァルキリーは強く決意した。

 

 そんな彼女の後姿を嘲る様な眼差しでロキは眺めていた。

 

(出来が良くてもたかがヴァルキリーの小娘如きに私の監視が務まるとでも?)

 

 誤った選択をロキは嗤う。彼女が追っているのはロキが生み出した幻影である。ヴァルキリーの目を欺くのなど、それこそ瞬き一つの猶予さえあれば十分であった。他にも悪魔側の監視する目もあったが、ついでにまとめて欺く。

 

「もう十分だろう。流石に退屈だ。死にそうになる。――赤龍帝? ふん。例え禁手を使ったとしても、あの魔人共々敵じゃない」

 

 確固たる自信を以て独り言い放つ。彼にとって赤龍帝も人修羅も脅威では無かった。

 

「――私が自惚れているとでも? ふはははは! 私の自惚れはお前の自惚れでもあるぞ? 私がお前が何を考えているのか分からないとでも?」

 

 不気味なのは先程から呟かれている独り言である。明らかにロキ一人しかいないというのに、その話し方は近くに誰かが存在している様な生々しさがあった。

 煩わしい監視の目も無くなり、ここからどの様にして時間を潰そうかと考えながらあてもなく歩き始める。

 しかし、その歩みは十も進まずに止まり、ロキの視線もまた、ある一定の方向に向けられたまま止まる。

 

「ほう? この気配……。ここはお前に出番を譲るとしよう」

 

 とあるVIPルーム。華美な装飾が施された室内で、その雰囲気にそぐわない場違いな面々がモニターに映し出された映像を見つめていた。

 シンの仲魔であるピクシー、ジャックフロスト、ジャックランタン、ケルベロスたちである。

 この部屋は、色々な意味で希少な彼女らが邪な目から避ける為にサーゼクスが用意したものである。部屋の外には数名の悪魔たちによる警護体制も敷いていた。

 

「頑張ってるねー」

 

 机に盛られた菓子に手を伸ばしながら呑気な感想を洩らすのはピクシー。

 

「ヒホ! オイラが王様になったら家来を引き連れてゲームに参加するのもいいホー」

 

 いつかを夢見るジャックフロスト。

 

「ヒ~ホ~。ギャスパーがすぐに負けてボクはつまんないよ~。あ~あ、残念ざ~んねん」

 

 友の敗退に不満を洩らすジャックランタン。

 

「グルル。コウイッタ戦イモアルノカ」

 

 野生の世界で生き抜いてきた為、ルールが有るレーティングゲームを初めて目の当たりに関心を寄せるケルベロス。

 それぞれが異なった感想を抱きながら試合の行く末を見守る。

 ――筈であった。

 

「アオォォォンッ!」

 

 真っ先に異変に気が付いたのは、この中で最も力が長けたケルベロスであった。その場から大きく跳び部屋の端まで移動すると、全身の毛を逆立てながら先程まで自分が居た場所に向かって威嚇し始める。

 ケルベロスの突然の行動に、ピクシーたちは目を丸くする。だが、そこでピクシーたちも気付いた。

 自分たちしか居ない筈のこの部屋に、見知らぬ人物が居ることに。

 

「……誰?」

「誰だと思う?」

 

 ピクシーの問いに、前触れもなく現れた人物――ロキは笑いながら揶揄う様に問い返す。

 もし、彼を知る者が居れば驚くだろう。彼の浮かべる笑みは見たこともない粗野なものであった。

 

 

 ◇

 

 

「おわああああああ!」

 

 いきなり引っ張られ、そのまま床を引き摺られていく一誠。何とか巻き付いている黒いラインを剥がそうとするが、しっかり食い込んだそれを容易く外すことは出来なかった。『赤龍帝の籠手』の能力が使える状態ならばまだ分からなかったが、禁手に向けて準備を行っている今は能力を発動することは出来ない。

 気づけばショッピングモールの中央広場まで一誠は引き摺られていた。どこまで連れられて行くのかと思い始めたとき、巻き付いていたラインが突然解除され床をそのまま滑っていく。

 摩擦によって勢いは殺され、一誠は仰向けの体勢で止まる。見上げて先には時計の柱が立っていた。

 

「よー、兵藤」

 

 声が掛けられる。それを聞くと同時に、一誠は上半身をバネの様に跳ね起こす。その直後、先程まで一誠の頭があった場所に何かが落下した。

 それを確認するよりも先に前方に向かって大きく飛び込み、着地と同時に体勢を反転させ自分がさっきまでいた場所に目を向ける。

 そこには匙が立っていた。彼の右足は床を踏み砕いており、それは何が落下したのかを表していた。

 

「匙……って匙、なんだよな?」

 

 思わず聞いてしまった。

 姿形は彼の知っている匙である。だが、赤く輝く片目。右腕に蠢く何十ものライン。首筋から頬にかけて伸びる黒い血管の様な紋様。何より全身から放たれる気配が彼の知る匙とは大きく異なるものであった。

 彼の気配に別の何かが混じっている。そんな不可思議な感覚である。

 

『この気配……まさかヴリトラを呼び起こしたのか?』

 察しが良いなドライグ。――まあ、同じドラゴンならば容易いことか

 

 何の気配かを言い当てるドライグ。そこに一誠が初めて聞く声が答えた。その声を聞いたドライグの驚きが一誠にも伝わって来る。

 

『お前……意識まであるのか!』

 くくくく。お前のその反応を聞いただけでも目を覚ました甲斐があったな。贅沢を言えばお前の驚く顔も見たかったが

『……ちっ』

 

 意地悪く笑うヴリトラ。一杯食わされたドライグが不機嫌そうに舌打ちをする。

 

『逆にこっちはお前のにやけた面を見なくて済んで良かったがな』

 

 言い返してみせるが、ヴリトラは特に気を害した様子も無く笑い続ける。

 

「え? ヴリトラって五大龍王の? 神器に封印されていたんじゃないのか?」

『だから俺も驚いている。分割された魂の状態でここまではっきりと意識を覚醒させるとは……小僧。どうやら俺達、いや俺はお前を見縊っていたらしい』

 

 匙の全身から放たれる力は紛れも無く神器の力。ヴリトラの魂の器となることで、匙自身が一つの神器と化していた。それはドライグからしても驚嘆に値する。

 評価を改めるドライグに対し、匙は照れる様に後頭部を掻き――

 

「そんなことを言われたら照れる、なっ!」

 

 ――流れる様な動作で一誠に向かって右腕を振るった。

 無数の『黒い龍脈』が束になり、一つとなって一誠に襲い掛かる。

 

「うおっ!」

 

 その不意打ちに対し身を屈めて咄嗟に反応してみせる一誠。頭上を『黒い龍脈』の束が通過していく。だが、しゃがんだ一誠にいつの間にか距離を詰めた匙が顔面目掛けて爪先を蹴り出す。

 腕を交差しそれも反応してみせる一誠であったが、腕に爪先がめり込むとその脚力に押され、腕の防御ごと顔を蹴り抜かれ、体が宙を舞う。

 鼻の奥まで痛みが貫いていくと同時に、想像を上回る匙の一撃の重さに驚く。

 何とか体勢を整え足から床に着地をしてみせる一誠に、匙は手を緩めることなく、更なる攻撃を仕掛ける為に接近する。

 近付いてくる匙の姿を捉えた一誠は、仕掛けられるよりも先に仕掛けた。

 匙が近付く前に自分から匙に向かって踏み出し、飛び掛かりながら拳を振り上げる。

 匙の顔へ打ち下ろされる一誠の左拳。当たる。そう思った時、匙の左手が割り込み拳を受け止めると、そのまま指を突き立てて掴む。

 そこで気付く。『赤龍帝の籠手』の宝玉に映る数字。匙の見ている前で六十から五十九へと数を減らす。

 

 仕留めるならさっさとした方が良い。それは禁手に至るまでの時間だ。今なら奴は能力が使えない

 

 ヴリトラの言葉を受け、匙の中に焦りが生まれる。禁手がどれほどのものかは知らないが、ヴリトラを覚醒させた自分がこれ程の力を得たのである、神滅具級の禁手など、それこそ桁が違う力であろう。

 一誠は、掴まれた左手を解放させる為に今度は右拳を匙に向けて振るう。拳の突き出た部位が匙の頬に突き刺さろうとしたとき。

 

「がっ!」

 

 足に激痛が走り、体が急停止してしまう。目線を落とせば、匙の爪先が一誠の脛を蹴り付けていた。

 痛みによる硬直の隙に、匙の肘が一誠の蟀谷に打ち込まれる。痛みと首が折れ曲がりそうになる重さに耐えようとしたが、痛みの箇所に気を向けている間に、匙の蹴りが一誠の腹部に深くめりこんだ。

 

「ぐはっ!」

 

 そのまま仰向けに倒れそうになる一誠。しかし、その動きは途中で止まる。

 一誠の左手に巻き付いたラインが彼の体を支えていた。尤も、それは相手を気遣う様な親切心からくる行動などでは無い。

 匙が腕を引くと、倒れようとしていた一誠の体が引き上げられる。勢い良く戻ってきた一誠の頬に匙の渾身の正拳が叩き込まれた。

 殴り飛ばされる一誠。このまま地面に落下するかと思われたが、飛んで行く最中再び急停止する。

 一誠を止めたのは、未だに左手に巻き付いているライン。一直線に張ったそれを匙は両手で掴み、全力で振るう。

 

「うらあ!」

「うあっ!」

 

 真っ直ぐ飛んで行く筈の一誠が今度は横向きに飛ぶ。しかも飛ばされた先にあるのは床などではなく、待ち構えるのはデパートに置かれた自動販売機。

 慌てて身を守る一誠。その直後に激突し、数台の自動販売機を巻き込む。

 破砕音と共に砕け散るプラスチックの外装。そこから飛び散る商品見本。ひしゃげた取り出し口から大量の缶が溢れ出て、傷一つ無かった自動販売機は二度と使用不可能な程に破壊される。

 残骸の下敷きとなる一誠。

 そんな状態でも匙は手も気も緩めない。

 右手のラインを数本伸ばし、無事な自動販売機に接続する。何百キロもある自動販売機は軽々と持ち上げられ、地上から数メートルの高さまで移動するとそこから振り下ろされた。

 即席の槌が動いていない一誠に襲い掛かる。

 が、直撃する寸前瓦礫を跳ね除けながら一誠が飛び出る。振り下ろされた自動販売機は、残骸の山を粉砕し、それもまた残骸の一部と化す。

 何とか逃げ延びた一誠。あと一、二秒程飛び出すのに遅れていたのなら、自動販売機が墓標の様に突き立てられていたであろう。

 

「あぶねぇ、あぶねぇ」

「よく逃げられたな。やり過ぎ覚悟でやったってのに」

「舐めんなよ。あの自販機よりも大きな岩に潰されたことがあるんだぜ、それも何度も! あれぐらい軽い!」

「……どんな特訓してきたんだ、お前?」

 

 誇る様に胸を張る一誠。匙の方は、壮絶な特訓の一端を知り、引き気味の反応であった。

 一誠も無傷という訳では無い。額に切り傷が出来ておりそこから血が流れ、額、頬と伝わり、顎から血の滴を垂らす。拭う余裕など無い。それすら命取りになる気がした。

 その時、頭上からアナウンスが聞こえる。

 

『ソーナ・シトリー様の『女王』、リタイヤ』

 

 椿姫の脱落を告げられ、匙の顔色が変わった。

 いつでも冷静であり、ソーナの右腕として支える頼れる先輩。同じソーナを慕う者として戦い切れ無かった無念を思い、奥歯が軋む程噛み締める。

 間も無くして――

 

『リアス・グレモリー様の『戦車』、リタイヤ』

 

 小猫の脱落が知らされ、今度は一誠の顔色が変わった。

 自らの力と向き合い克服しようとした小猫。彼女を倒したのは間違いなくシンである。きっと互いに納得しての勝敗なのは分かっている。だが、後輩の仇をとるのは先輩としての務めである。

 気付けば互いに走り出していた。

 己の裡に湧いた感情の行き場を求め。そして、それをぶつけ合う為に。

 

『おおおおおおおおおお!』

 

 叫び合いながら互いの拳が繰り出された。

 守ることも避けることも一切考えていない捨て身の一撃。

 拳は皮膚の表皮一枚めくりながら交差し、お互いの頬へと突き刺さる。

 全力の相打ち。その結果は――

 

「う、ぐ……」

 

 匙がよろける様に数歩後退し止まる。膝が折れそうになるが気合いで持ち応えるが、ダメージで足が震える。

 口の中で広がる鉄の味。思わず殴られた頬の内側を舌で触れる。ざらつく裂け目の感触に不快感を覚えた。

 打ち負けた。その事実が鉛の様に心に架かる。一誠は殴り合った場から一歩も引かず匙を真っ直ぐ見ている。

 神器の能力が封じられた相手に競り負けたことが、匙の中の劣等感を煽るには十分であった。

 

 ――時間だな

「え?」

 

 更にそこへ追い打ちを掛ける事態が起こる。

 一誠の『赤龍帝の籠手』。その宝玉の数字がゼロとなる。

 

「ここで立ち止まる訳にはいかないんだよ、匙! まだ俺はこのゲームでやり残したことがあるんだ! 全開でいくぜ! ブーステッド・ギアァァァァ!」

『Welsh Dragon Balance Breaker!』

 

 目の前で絶対的な力が具現化する。

 

(なんだこれは……)

 

 場を瞬時に満たす重く、濃く、赤いドラゴンの魔力。想像を軽々と上回るその力を前に呆けるしかない。

 ドラゴンを模した鎧姿の一誠。それを視界に収めただけで、まるで巨大なドラゴンの目の前に立たされたかの様な威圧を受ける。

 度を越した緊張で舌も喉も動かず、口内が血で満たされていく。

 未だ震え続ける膝。それは先程の拳によるものから、別の理由からくるものへと置き換わっていた。

 

(俺は……勝てるのだろうか……)

 

 命懸けでがむしゃらに戦い続ける最中に禁手化されたのなら、その勢いでこの様なことを考えずに戦えていたかもしれない。しかし、一誠との打ち合いに負け、僅かな動揺と間が生まれた時に至られたせいで、疑念が生まれてしまった。

 そんなこと思いたくも無い。でも考えてしまう。一度生まれたものを心の隅に追いやろうとしても、逆に意識してしまう。

 負の連鎖へと陥ろうとしている匙の思考。

 

 ――不味いな

 

 そんな匙の不安を加速させる様に、ヴリトラが弱音とも言えることを言い出す。

 

(ま、不味いって、どういうことだ……?)

 勝てる見込みが少なくなったということだ。禁手、それも赤龍帝の、だ。これで勝負は――

 

 そこから先の言葉は聞きたく無かった。これ以上追い込まれてソーナの夢が潰えてしまうことを考えたくなった。

 故に――

 

 ――五分五分といった所か

 

 ――後に続く言葉に我が耳を疑った。

 

「五分五分?」

 ああ。五分五分だ

 

 禁手の力を目の当たりにしてもそう言い切るヴリトラ。これが戦意を低下させている自分の為に言っている嘘か、本気で言っているのか匙には分からない。しかし、そんなことはどうでも良かった。

 

「あはははははははははは!」

 

 耐え切れず匙は腹を抱えて爆笑した。いきなり笑い出したことに一誠が戸惑っているのが分かったが、それに構わず匙は笑い続ける。

 臆して腰が引けていた自分を笑い。自分の裡にいる頼もしい存在に笑い。それと共に戦える自分の幸運に笑う。

 

「はははははは! はあーあ……」

 

 一頻り笑った匙は、笑い過ぎて出てきた涙を拭う。気付けば怯えも劣等感も笑いと共に何処かに吹き飛んでいた。後に残るのは、目の前の男に勝ちたいという強い戦意のみ。

 

「五分五分なら勝たないとなぁ、ヴリトラ」

 最初からそのつもりだ

 

 構える匙を見て、一誠も慌てて構える。

 禁手によって自分のペースに持ち込めたかと思えば、匙の思わぬ行動で再び流れを持っていかれている様に思えた。

 

『奴のラインには気を付けろ。禁手の状態ならばお前の力を吸い取れば体が耐え切れずに自爆しているだろうが、ヴリトラが目覚めているのならばその辺りの魔力の操作を上手くやる筈だ』

 

 先程まで巻き付いていたラインは、禁手化したときの余波で吹き飛ばされていた。同じ方法が何度も使用出来る訳でも無い。魔力や神器の力を吸収する匙のラインには特に注意を払う様に、ドライグが警告する。

 

 ふっ。戦う前から臆したか? ドライグ? 昔のお前なら何も考えずに突っ込んできただろうに。随分と丸く、大人しくなったな。いっそのこと二天龍の看板も下ろしたらどうだ? お優しくなったドライグには少し荷が重い看板だ

『――相変わらず口だけは達者だな。その弁舌の才を少しでも実力の方に回せたら、五大龍王の中で最も非力などと陰口を囁かれなかっただろうに』

 ……

『……』

 

 見えざる火花が散るのが一誠と匙には見えた。正直、当事者でなければ一刻も早くここから離れたくなる。

 

 我が分身よ。あの器ごとドライグを潰すぞ

『相棒。あの小僧ごとヴリトラを完膚なきまでに打ちのめしてやれ』

 

 下手をすれば戦う一誠と匙よりもやる気に満ちている両者。同じドラゴンとして、やはり意識せざるを得ないのかもしれない。

 そんなパートナーに苦笑しつつ、言われるまでもなく既に二人の心は戦う準備が出来ていた。

 

「いくぜぇぇ! 匙!」

「来いよ! 兵藤ぉぉ!」

 

 互いの名を叫ぶ。その姿は、さながら咆哮するドラゴンのようであった。

 一誠の背部の噴射口から魔力が漂い始めたかと思えば、それはすぐに火柱の如く噴出しその状態から一歩前に踏み込んだ瞬間、匙の視界から一誠の姿が消えた。

 

(速っ!)

 

 次に視界に映ったときには既に目の前に立ち、拳を握り、いつでも放てる構えをとっていた。

 匙は咄嗟に右手のラインを左手に巻き付け力の限り引っ張る。前部に盾として展開されるラインの束。

 一誠はそれに向かって全力の右を打ち込む。

 拳がラインの束に接触すると匙に向けて大きく凹む。匙も突き抜けさせまいと全力でラインを張り続ける。

 トン、軽い感触が匙の胸を打つ。ラインの盾越しに一誠の拳が触れていた。

 強固かつ弾力性に富んだラインの盾に一誠の拳の威力は殺されておりダメージなど無い。

 だが、そんなことは一誠にとってどうでも良かった。触れさえすればいいのだから。

 

『JET』

 

 その音声の後に一誠の拳が再び加速する。

 噴射口から膨れ上がる様に一気に魔力が噴射され、突き出した拳を更に押す。

 拳が接触した零距離から、穿つ様な一撃が匙の胸部に炸裂した。

 

「がはっ!」

 

 目が限界まで見開かれ、肺から押し出された空気が無理矢理吐き出される。

 重い。ただ重い一撃。盾で防いだ状態でこれなのだから、まともに受けていれば今頃胸骨は粉砕され、即退場となっていたであろう。

 痛みで白黒と反転する視界。しかし、匙もただでは転ばない。

 もう一撃を加えようとする一誠。その途端体に脱力感を覚えた。まさかと思い自分の体に視線を巡らせると、いつの間にか左手にラインが巻き付き、そこから力を吸い取っていた。

 急いでそれを外そうとする一誠。だがそれによって出来た隙を狙い、匙は盾の構えを解き、拳をその身に受けたまま一誠の顔面に横殴りの一撃を見舞う。

 自らの腕力に吸い取った魔力を加えての一撃。それを完璧なタイミングで入れた。

 だが――

 

「あぐあっ!」

 

 苦鳴を上げたのは匙の方であった。一誠は匙の拳を受けると同時に、左拳を匙の脇腹にめりこませていた。しかもそれだけでは無い。打ち込んだ匙の拳は、一誠の鎧の強固さに負け皮が破れ、肉が削げている。攻めた方が逆に負傷していた。

 一方の一誠はというと、多少鎧が揺さぶられたが痛みは無く、全くの無傷。

 圧倒的力の差。それを切り抜けても、龍の鎧という強固な守りが徹底的に匙を阻む。

 脇腹に食い込んだ拳をそのまま振り抜く一誠。匙の体がボールの様に飛ばされ、何度も地面を跳ねた後に雑貨品売り場の店舗に突っ込む、棚や机をまとめて倒してようやく止まる。

 

「ぐうう……!」

 

 雑貨品を掻き分け、歯を食い縛りながら立ち上がる匙。小さな動きでも脇腹から激痛が走り、傷を負った手は痛みで力が入らない。両方とも骨に亀裂が生じている可能性があった。

 

「ヴリトラ……! この傷を治せるぐらいの、魔力は、まだあるよなぁ!」

 当然だ。

 

 右腕のラインが負傷した箇所に伸び、傷に接続する。そこから流し込まれる魔力で、負傷した箇所が急速に回復していく。

 

「これなら――っ!」

 

 痛みが治まり動こうとしたとき、微かな痛みが脇腹に走る。

 

 一瞬ではこの程度が限界か。もう少し時間と魔力をかければ完全に治すことが出来るが?

「相手が悠長に待ってくれるかよ」

 同感だな

 

 匙の見ている前で、一誠が左手に巻き付いていたラインを魔力によって力尽くで断ち切ってしまう。

 

 これでさっきと同じ様な戦い方は出来なくなったな。まあ、魔力を奪ったとしてもあの鎧には力が足りず通じないだろうが。さて、どうする?

 

 それは匙を試す様な問いであった。と同時にこれからどう戦っていくかの方針を尋ねている様にも聞こえた。

 

「足りなきゃ足りない分足すだけだ! 同じことが通じないなら工夫して通す!」

 

 どう戦っていくかを頭の中で思い浮かべる。その考えを知ったヴリトラが失笑する。

 

 くっ。無茶な上に危うい戦い方だな。が、我が分身――お前の決めたことだ。存分にやれ。多少の危険はこちらが引き受ける

 

 頼もしい相棒の言葉で闘志を燃やし、雑貨品売り場から駆け出す匙。その殆どダメージを感じさせない動きに一誠は鎧の下で驚きつつ、迎え撃つ構えをとる。

 距離が離れている段階で匙は一誠に右腕を振るう。無数のラインが複雑な動きをして狙いを定まらせない様にし、あらゆる方向から迫る。

 だが、その動きも一誠が右腕を振るった瞬間、そこから放たれる魔力を帯びた風圧により触れることが出来ずに打ち返されてしまう。禁手の力の前ではラインはあまりに軽かった。

 尤も、それは匙にとって想定の範囲内のことではあったが。

 一誠がラインの接続を嫌がりそれを防ぐ動きを見せたと同時に、匙は両足に魔力を集中させる。そして、ラインが打ち返されるのとほぼ同じタイミングで強化された両足で地面を蹴った。

 一瞬でも一誠の意識が匙から逸れるのを見計らっての行動。がら空きとなった懐に匙は潜り込む。

 急加速して距離を詰めた匙に一誠はどう対応するべきか僅かに迷い、それが動きにも出てしまう。

 一誠の胸部に匙の拳が打ち込まれる。聞く者、見る者が居れば鳥肌が立たせるか顔を顰めるであろう生々しい殴打音と、保身を捨て拳が裂けてしまう程の全力。

 

「痛ぅ!」

 

 小さくだが呻いたのは一誠の方であった。『赤龍帝の鎧』によって守られている身に僅かな、だが確かな痛みを覚える。

 殴り方などが明確に変わった訳では無い。だというのにこの一撃、何故か響く。

 続け様に前蹴りが同じ箇所に命中。これもまた身体に響き、数歩ではあるが一誠の方が後退した。

 距離が空いたときに一誠は気付く。右腕のラインの内の一本が匙の心臓に伸びていることに。そのラインが何かを吸い取り、右腕に流し込んでいる。

 

「匙! お前、まさか自分の命を……魔力に変換しているのか!」

 

 一誠の問いに、匙は顔色を悪くさせながらも凄絶な笑みを浮かべた。

 

「ただでさえ俺の魔力は低いんだ。お前の魔力を奪っても足りないんだってなら、他のもん削って補うしかないからなぁ!」

 

 どうしてあそこまで響いたのか納得する。文字通り魂が籠っているのだ。今の匙の状態ならば尚更その効果は強く発揮される。

 

「お前、そこまで……」

「するさ! 命懸けってやつをな! 負けたくないんだよ! 俺の、会長の夢を笑った奴らに! そして――」

 

 片目から放つ赤い光が一際輝く。

 

「――お前に」

「何で……俺なんだ?」

 

 匙がずっと対抗意識を持っていることは知っている。だからこそ思ってしまう。何故自分なのかと。一誠自身の自己評価ははっきり言って低い。悪魔としての素質はほぼゼロであり、歴代の赤龍帝の中で最弱であることも自覚している。今、匙を上回っているのも神滅具あってこその力である。

 

 ただ運が良かっただけ。恵まれていただけなのでは? 

 

 度々そんなことも考えてしまう。

 聞きたかった。そんな自分に勝ちたいと思う理由を。

 

「そんなの――お前が強いからだよ」

「――え?」

 

 至ってシンプルな匙の答えに、最初何を言っているのか分からなかった。一誠にとってあまりに聞き慣れない言葉だからだ。

 

「俺が……強い?」

「こうやって戦ってみて改めて思った。お前は強いよ。だから挑みたい! 勝ちたい! 超えたい! そう思うのはおかしいか?」

 

 前に宣戦布告された時と同じ気持ちの高揚が、自分の中で起こっているのを自覚する。

 

「歴代最弱候補の赤龍帝だぜ? 俺は」

「だからどうした? 俺はお前を強いと思った! どこかの誰かが何と言おうと関係ねぇ!」

「偶然伝説のドラゴンを宿した運だけのダメ悪魔でもか?」

「偶然だろうが運だろうが全部まとめてお前だろうが兵藤! 胸を張れ! 俺にとってお前は越えたい目標なんだよ!」

 

 この時、一誠は鎧を纏っていることを心底良かったと思った。目標とまで言ってくれた倒すべき強敵に泣きそうな顔を見られずに済む。

 

「匙……。お前ってほんと良い奴だなぁ!」

 

 一誠の全身から今まで以上の魔力が迸る。誰かの目標となるという誇らしさと嬉しさの想いに、神器が反応する。

 ここまで言われたのなら、情けない姿など見せられる筈が無い。

 

 魔力が更に高まったか。余計なことを言ったな。我が分身

「そうか? 俺も燃えてきたけどなぁ!」

 

 一誠に呼応して匙もまた魔力を放つ。

 

「勝たせてもらうぜ! 兵藤ぉぉぉ!」

「それはこっちの台詞だぜ! 匙っ!」

 

 一誠が駆け出す。一歩で最高速に達し、構える匙の前に瞬間移動でもしたかの様に現れる。

 その速さに追いついていない匙。認識したときには一誠の拳は放たれていた。

 避けられない。そう判断した匙は後退するのではなく、逆に全力で前進する。

 頬にめり込む拳。その痛みだけで悶絶しそうになる。だが、威力が最も発揮する前に接触したことで威力を無理矢理抑え込み、更に殴ってきた腕を掴む猶予さえも出来た。

 

「ふ、ふはまへたへ」

 

 殴られている状態の為に間抜けな喋り方になってしまうが、匙たちはこの瞬間を待っていた。

 

 味わってみろ。我が黒炎を!

 

 掴んでいる手から黒い炎が灯り、一誠の腕に燃え移る。燃え盛る腕に慌てて腕を振って匙を引き離す。

 鎧で守られている為か熱は感じられない。しかし、このまま燃え続けるのは不味いと思い、ラインを消した様に強い魔力で吹き飛ばそうとした。

 

『待て! 相棒!』

 

 ドライグが制止させようとするが一歩遅く、一誠は腕に向け魔力を注ぎ込んでしまっていた。

 瞬間黒い炎は膨れ上がる様に巨大化し、より一層激しく燃え盛る。

 

「な、何が! ――あっ」

 

 一瞬眩暈が起き、足元がふらつく。

 

『その炎は魔力や神器の力を糧にして燃える! 力を送るのは逆効果だ!』

 

 ドライグの言葉で自分が先走ってしまったことを悔いる。

 

『腕への魔力を切るぞ!』

 

 ドライグによって腕への魔力を遮断されたことにより、燃え盛っていた黒い炎はあっという間に小さくなる。だが、完全には消えていない。禁手という力の塊の様なものから鎮火させるには、それこそ神器を解除するしか方法が無かった。

 匙が頬に打ち込まれている一誠の拳を引き離す。力が遮断されているせいで倍化も途切れており、片腕だけならば匙の力を下回る。

 

「しんどいのはこれからだぜ!」

 

 複数のラインが一誠の腕に巻き付き接続された。そこから一気に力が吸い取られ、前よりも強い脱力感が一誠を襲う。

 

「く、この……!」

 

 接続されたラインを吹き飛ばそうとし、気付く。未だに腕で燻っている黒炎。これがあるせいで、魔力によって吹き飛ばそうとすれば全て黒炎の燃料となるだけ。

 

「うっ……!」

 

 三度起こる脱力。放っておけば匙のラインが容赦なく一誠の力を吸い取ってしまう。

 この状況を打破するには一刻も早く匙を倒すしかない。

 しかし――

 

「おらぁぁ!」

 

 匙の拳が一誠の腹に刺さる。一誠は鈍痛を感じた。

 一誠から吸い取った魔力と命を削って上乗せした匙の魔力が合わさり、鎧を纏っていても威力を完全に消すことが出来なくなっている。

 一誠もまた反撃の肘を匙の背に下ろす。匙が空気の塊を吐く様な声を出すが、そのまま地面に倒れず逆に体を伸ばして一誠に殴り掛かった。

 迫る拳を拳で払い、流れる様な動きで匙の顔目掛けて正拳を放つ。

 防御は間に合わない。このまま直撃の流れかと思った時、匙の眼前に黒い炎の壁が現れた。

 予備動作も無く出されたそれ。無事な方の腕も黒炎に侵される訳にはいかず、一誠は慌てて拳を止める。結果、触れることなく寸止めの状態となった。

 触れずに済んだことを安堵する一誠。直後、黒い炎の壁を突き破って現れた匙の拳が一誠の顔面を殴り飛ばした。

 眉間に当たり、目の前で閃光を放たれた様に視界がぼやけ、匙の姿を見失う。

 

『動け! 相棒!』

 

 ドライグからの指示を受け、今居る位置から大きく後退しようとする。だが、そのときに何かが体に巻き付いた。

 ラインだと察したときには一気に力が吸収され、思わず膝が折れてしまった。

 

『厄介な状況になってきたな……』

 

 一誠の頭の中に浮かぶ数字の列。それは禁手を維持できる時間を表示したものだが、それが凄まじい勢いで減ってきていた。全力を出しても三十分は戦える筈だが、禁手になって五分も経過していないというのに残り時間が十五分を切っている。『黒い龍脈』の神器の力を吸い取る能力や黒い炎により、何倍もの速度で消耗している。

 

「だったら倒される前に倒すしかないな!」

 

 一誠は残り時間のことなど気にしていなかった。目の前の匙を倒せないならば、そんな時間など無意味である。

 自分に巻き付いたラインをまとめて鷲掴みにし引っ張る。しかし、引っ張った時に何の抵抗も感じず、また重みも無い。

 ぼやけていた視界がこの時になってようやく正常となる。一誠は見た。匙の右腕から生えていたラインが全て無くなっている。

 何処へという疑問は手に持っているラインが代わりに答える。切り離されたラインは一本一本が黒い蛇と化し、掴んでいる一誠の手や腕を這いずり巻き付く。引き剥がそうにも接続し半ば同化した状態になっていた。更には床からも黒い蛇たちが這いより足に巻き付いていく。

 

「貰ったもんは全部返すぜ」

 

 巻き付いた蛇たちの胴体が一斉に膨張する。何が起こるのか察したが逃げる術は無い。

 黒い蛇たちは吸収し蓄えていた一誠の魔力を爆発させ、それに一誠を巻き込んだ。

 連続して起こる赤い魔力の爆発。その破壊の中心で一誠は嬲られる。

 しかし――

 

「うおらぁっ!」

「ぐはっ!」

 

 ――爆発を貫いて現れた一誠が、そのまま匙の腹を殴る。折れ曲がる匙の体。その顔に容赦なく肘を叩き込んだ。

 体がくの字の曲がった次は首がくの字に曲がる。だが、匙はすぐに体勢を立て直して一誠の顔面を殴りつけた。

 

「少しはダメージ喰らっとけよ!」

 

 あれほどの爆発を受けても無傷な鎧に理不尽を感じつつ、その感情を拳に乗せて殴る。

 

「そっちもあぶねぇことしてんじゃねぇよ! 生身だったら死んでたぞ!」

 

 同じく容赦無い攻撃を仕掛けてきた匙に、一誠も昂る感情を乗せて殴り返す。

 

「お前ぐらいの不死身っぷりならあれぐらいで十分だろ! 寧ろ足りないぐらいだ!」

「見た目は無傷でも中に響くんだよ! お前の攻撃は!」

 

 一誠の蹴りが匙の足に叩き込まれれば、反撃の掌打が一誠の側頭部に打ち込まれる。

 

「まだまだやれんだろ! 匙!」

「全部見せたつもりはないぜ! 兵藤!」

 

 足を止め全力で殴り合う両者。一撃一撃の重さは一誠が上回る。しかし、匙は血塗れになろうとも引かず怯まず喰らい付く。

 

「そんなもんか!」

 

 歯を食い縛りながら匙は殴り返す。殴る度に体の内側が軋む音がする。命を削っているせいで体が重くなり、反して中が空になっていく感覚を覚える。既に一誠の攻撃によるダメージは匙の回復を上回っている。故にもう回復に魔力を回すのを止め、それを全て攻撃に回す。

 全力で振り抜いた拳が一誠の頬に直撃する。仰け反る一誠。ピキリ、という音を立ててドラゴンの頭部を模した兜の仮面に、僅かだが亀裂が生じた。この戦いに於いて初めて、見て分かる損傷を一誠に負わせたのだ。

 だが、それに払う代償も大きかった。

 自分自身の力と鎧の強度に耐え切れず、匙の拳は歪に変形していた。間違いなく指が二、三本骨折している。

 指が折れたことよりも、変形した拳では十分な一撃を放てないことの方が匙にとって痛手であった。

 

(――まだもう一本ある!)

 

 もう一方の拳を限界まで握り締め、一つの塊とする。

 

「骨ごと持ってけ!」

 

 一誠が仰け反っている間にもう一撃を同じ箇所に向け放つ。

 瞬間的に絞り出せる命を全て魔力に変えた先程以上の威力を秘めた拳が、亀裂の入った部位を打つ。

 再び鳴る亀裂音。しかし、頬の亀裂が目の辺りにまで浸食した程度であり、仮面を砕くには至らなかった。

 そして、匙の拳は宣言した通りに砕ける。指だけでなく手の甲まで骨が砕け、とても拳を握れる状態では無い。

 両手を潰してまで行った攻撃は、一誠の兜を砕くことすら届かない。匙は、今一誠がどんな顔をしているのかさえ分からない。

 

「まだだ!」

 

 痛みも迷いも吹き飛ばすかの様に匙が叫ぶと、その体が黒炎によって包まれる。余すところ無く黒く染まる匙はその姿で走り出す。

 黒炎による鎧。下手に触れればたちまち黒炎によって力を奪い尽される。攻撃にも防御にも転じられるものであった。

 略奪の抱擁を迫る黒炎に対し、一誠は黒炎が残る拳を突き出した。

 どうせ既に燃え移っているのだから構わないという考えでの迎撃。

 一誠の拳が匙の顔の中央に当たり――そのまま突き抜ける。

 

「あ?」

 

 顔面を貫いたというのに手応えが全く無い。すると炎の中から身を屈めた体勢の匙が飛び出し、一誠の足元に駆け寄る。

 

「うらぁ!」

 

 そこから全身の筋肉を稼働させて伸び上がり、一誠の顎を頭で射貫く。

 目の前の黒炎に気を取られていた一誠は、意識の外からくる衝撃をまともに受け、その場で動きを停止する。

 そこに追い打ちの黒炎が一誠へと覆い被さり、全身から力を奪い尽す為に燃え盛った。

 

「ど、どうだ?」

 

 焦点が定まらない目を何度も瞬かせながらおぼつかない足取りで一誠から距離を取る。頭突きのせいで頭部から出血し、幾筋の血が流れて顔を赤く染めていく。

 黒炎に焼かれ、最初はもがいていた一誠であったが、やがてその動きは鈍くなり、とうとう動かなくなり、その場で蹲る。

 体中からあらゆる力が抜けていく最中、一誠の意識は徐々に薄れていく。

 

『相棒。おい、相棒。聞こえるか?』

(――ああ。聞こえている)

『どうする? やるか? やらないのか?』

 

 意識がはっきりしなくなっていく中でドライグの声だけははっきり聞こえた。短くシンプルに問いてくる。このまま戦うのか、戦うのを止めるのかを。

 

(……やる)

『それを選べば、お前はもう戦えなくなるぞ?』

(それでも……やる!)

 

 心のどこかでまだ出し惜しみをしていたのかもしれない。匙が先を考えず今この瞬間に全てを注ぎ込む中で、無意識のうちに次の戦いの為に余力を残していたのかもしれない。

 だが、それも捨てる。ここから先は何も残さない。持てる全てを絞り、削り、懸ける。

 

『馬鹿者め。――が、俺もヴリトラに負けるのは癪だ。行くぞ。俺も馬鹿になってやる!』

「おおおおおおおおおおおおおおおお!」

 

 炎の中で一誠は叫ぶ。己の全身全霊を込めて。

 匙が見ている前で一誠を包み込む黒炎が激しく燃焼し始める。それは、黒炎が力を奪っている証拠であった。

 これ程の炎の勢いなら力を多量に消費している。だというのに炎は一向に弱まらない。一体どこからこれ程の力を生み出しているのか。

 

「まさか……」

 

 自分と同じ様に命を魔力に? 

 炎の中で蹲っていた一誠が立ち上がろうとしているのが見える。膝を突き立て、匙の方へ前のめりに体を向ける体勢。そこから炎ごと、匙に向かって突貫する。

 今にも倒れそうな程疲労している筈なのに最初のときと遜色ない速さ。しかし、それでも匙には一誠が右拳を引きながら迫って来るのが見えた。

 拳を下から上に突き上げる構え。動きは迅速。だが、避けられないものではない。

 瞬くよりも速く距離を詰めた一誠。その構え通りに、匙に向け下から掬い上げる様に拳を突き上げる。

 想像よりも速い。だが避ける。避けてみせる。拳の先が制服に触れる。その僅かな接触で制服が裂けるのが分かる。もっと体を引かなければ抉れる。もっと早くもっと早く。皮膚一枚越しに拳の感触が伝わってきた。今の感覚ならば直撃を避けられる。炎を纏いながらでも分かる、眼前を通過していく白い拳。

 

(……白い?)

 

 赤ではなく白い手甲に覆われた右手に、匙は刹那の間疑問に囚われるが、その答えはすぐに一誠自身から教えられることとなる。

 

『Divide』

 

 その途端、匙は体中に鉛でも埋め込まれたかの様な重みを感じた。今まで感じたことの無いぐらいの身体の変化である。

 匙の中のヴリトラはこの事態に、信じられないという動揺を露わにした。

 

 馬鹿な! 白龍皇の力だと!

 

 宿敵の能力を使った赤龍帝。彼らの因縁を知っているヴリトラからすれば、考えもつかなかった一撃である。

 ヴリトラの言葉で自分の力が半減されたことに気付く匙。そんな彼の目の前で一誠は突き上げた拳を引き、それに連動させて上から下に向け左拳を振り下ろす。

 見えている。分かっている。だというのに体が反応しない。ようやく体の一部が動く。しかし、遅い。自分の時間の流れだけが緩やかになったのではないかと錯覚するほど遅い。何かしなければ一誠の拳が届く。無防備な自分には、恐らくあれに耐えられそうにない。

 

(動け! 動け動け動け動け! あと一歩なんだよ! 何でも良い! 出ろ! 出ろ! 出ろぉぉぉぉぉぉ!)

 

 額に血管が浮き、奥歯がすり減ってしまいそうな程に力を籠める。鼻孔から血が流れ落ちる程の念。半減の呪縛の中で蠢くそれはやがて呪縛の殻を突き破り、匙と一誠との間を遮る黒炎の結界として形を成す。

 聖剣による斬撃すら受け止めてみせたヴリトラの結界。それを見た一誠は直感的に自分の拳が阻まれることを察する。

 引くなどという選択は一誠には無い。引けば負ける。勝つには攻めるのみ。

 そのとき、一誠はこの状況に既視感があることに気付いた。

 

(確か、間薙が小猫ちゃんのお姉さんと戦っていたとき――)

 

 思い至ったとき、一誠は天啓を得る。

 握っていた拳を開き、指の先端を鉤爪の様にして曲げる。左腕全体に在る魔力を指先のみに集中させる。

 気を抜けば暴発しそうになるほど魔力を強引に押し込め、留まらせながら目の前の結界に向けてその指を突き立てた。

 鼓膜を突き抜ける様な撓む音が両者の間で響く。

 突き立てた指先は結界を貫き、その先端を匙に向ける。

 今、匙に向けられているのは人の指ではなくドラゴンの爪。そこから繰り出されるは万物を引き裂く赤龍帝の爪撃。

 

「おおおおおお!」

 

 気迫と共に全身を投げ出す様に左手を振り下ろす。結界は爪撃によって裂かれ、爪先から放たれる収束した五本の魔力の線がその先に立つ匙の体に触れ、消える。

 一瞬の間の後制服のシャツが裂け、肌が外気に触れる。線が触れた箇所に赤い玉がポツポツと浮かび上がると、次のときにはそれらが全て繋ぎ合わさり、五本の裂傷を匙の体に刻み付けた。

 

「ッ!……」

 

 体から噴き出す鮮血、痛みに苦しむ声も呻く声すら出せない。匙の体は地面に向けて倒れていく。

 近付いてくる床。匙の目には極限状態の為か、時間が引き伸ばされてゆっくりに見えた。

 

 まだ我が声が聞こえるか?

 

 途切れそうになる意識の中で鮮明に聞こえるヴリトラの声。

 

 ここで終わるか?

 

 傷付き、血に塗れ、骨も折れ、力は底を尽きようとしている。ここまで追い込まれたのならば、後は負けを受け入れるしかない。

 

 本当にそう思っているのか?

 

 最早勝ち目なんて無い。敗北は確実。分かっている。分かっている筈なのに――

 

 お前がまだ戦えるというのなら

 

 ――想いが、心が、魂が、まだ戦いたいと叫んでいる。まだ出し尽くしていないと叫び続けている。

 

 持っていけ。我が力を

 

 一誠の爪撃を受けた瞬間、誰もが匙の敗北を確信した。故にダン、という音が何なのかドライグにも、モニターで見ている観客にも最初は分からなかった。

 それが倒れ行く匙が、床を踏み締め倒れ行く体を支えた音だと皆が理解する前にヒュン、という音が鳴る。

 誰もが砕けた手にラインを何重にも巻き付け形作った拳が風を切る音であるとは分からなかった。

 誰もが見た。戦う力などもう残っていない筈の匙が拳を振るうのを。ラインを纏った拳は、獲物を狙う黒い蛇を彷彿とさせる。その黒い蛇が喉笛に喰らい付く為に襲い掛かってくる。

 敗北を確信されてからの土壇場の反撃。それは誰にとっても完全なる不意の一撃であった。

 ただ一人を除いて。

 黒い蛇が一誠の喉を貫く――かと思われたとき、一誠の上半身が傾く。

 最小の動きにより匙の拳は兜の頬を掠めて空振り、それに絡む様に放たれる一誠の拳。

 赤い拳が匙の顔面を捉え、打ち抜く。

 渾身の一撃に合わせられた匙が、糸が切れた様にその場に座り込む。

 そして、虚ろな眼差しで一誠を見上げた。

 

「何、で……」

 

 反撃が出来た、という言葉を口に出す程の余力は、匙には既に無い。

 

「――お前が強いからだよ」

 

 匙が言った言葉が、そのまま一誠から返ってくる。

 匙という男が最後の最後まで諦める筈が無い。戦いを通してそれを知ったからこそ、一誠は最後まで気を緩めることなく戦えることが出来た。

 すると一誠の仮面から破片が落ちる。床に落ち、小さな金属音が立て続けに鳴った。最後の拳打によって亀裂が限界に達し、一誠の顔半分が露わになる。

 その表情を見て、匙は腫れた顔を歪め苦笑する。

 

「勝った、んだ……」

 

 少しは嬉しそうな顔をしろ。

 

 その言葉を残し、匙の体が床に倒れた。

 匙の体は光に包まれ、場外へ転送される。

 匙が消えると、一誠を燃やしていた黒炎も消える。

 

『ソーナ・シトリー様の『兵士』一名、リタイヤ』

 

 一誠の勝利を告げるアナウンス。しかし、一誠の胸中に喜びなど微塵も湧かない。

 自分を認めてくれた友人を倒す。分かっていたが、清々しさも満足感も何も無い。残るのは悔恨。後は今にも意識を失いたくなる疲労のみ。

 鎧によって辛うじて体を支えている状態であり、鎧が解除された瞬間に自分はリタイヤするだろうという確信があった。そして、散々匙に力を吸収されたせいで、残り時間は少ししか残っていない。

 匙を殴った拳を見る。小さく震える理由は極度の疲労だけではない。

 

『相棒』

 

 そんな一誠にドライグが声を掛ける。

 

『悔やむな。誇れ。それに値する相手だった』

 

 一誠への励ましであり、匙への賛辞にも聞こえる。

 震える手を強く握り締める。この拳から伝わってきたものを心に刻み込む為に。

 

「……そうだな。そうだよな」

 

 匙が最後まで足掻いた様に自分も最後まで足掻こう。そう思ったとき――

 床が擦れる音。

 一誠が振り返る。

 擦れる音の正体が片足を引き摺る音であった。

 

「……間薙」

 

 ――彼は現れた。

 

「あー……」

 

 一誠は自分でも気の抜けた声だというのは自覚している。しかし、無意識に出てしまっていた。

 柄にも無く悟ってしまった。ここで自分はリタイヤしてしまうと。

 

「だったら最後に一つ試してみるか!」

 

 逆に開き直り、修行の中で思いついたもう一つの技を使用することを決める。理屈では出来るが、実際に使うのも実戦で使用するのもこれが初めてである。ダメで元々の覚悟で放つ。

 

「はああああ!」

 

 一誠が気迫を込めた声を上げる。

 シンも一誠が何かをしているのは分かっていた。力が頭へと集中していく。

 初めて見る行動に警戒し、観るに徹する。未知に対して少しでも情報が欲しかった。

 魔力の光が一誠の頭部で輝く。

 

「広がれっ!」

 

 最大まで高まった光が、言葉通り一誠を中心にしてデパート内に染み渡る様に広がっていく。

 広がっていく光の上に立つシン。特に変化は起きなかった。攻撃を目的とした技ではないのか、あるいは発動までに時間差があるものなのか。

 

「成程……そういうことか」

 

 独り呟く一誠。すると小声で独り喋り始める。誰かに何かを伝えている様であった。

 伝えたいことを伝え終わったのか、スッキリとした表情で一誠はシンを見据える。

 

「これで正真正銘、本当に最後だ」

 

 ほんの少しだけ残った力を左手に注ぐ。その途端、体に重圧が圧し掛かる。

 息をすることがこんなにも苦痛なことだったことを知る。

 立つだけで足元から見えない鎖で引き寄せられているかの様だ。

 動く時に纏わる空気が粘りを持つかの様に重い。

 持てる力を全て左手に注ぎ込んだせいで、構えるだけでこれ程の苦行。

 一誠はシンに向かって駆け出す。全力で走っている筈なのに沼の上で走っているかの様に鈍く、左右に蛇行した不安定な走りであった。

 たった数メートルの距離だというのに遠い。その間にも禁手を維持する時間は容赦なく零に迫っていく。

 赤龍帝の禁手とは思えない程のキレも力強さも無く、傍から見れば無様に思えるかもしれない。何もせずに大人しくしていればこんな姿を晒さずに済んだ。しかし、それは許されない。一誠自身が許さない。全力で戦った匙。彼に勝った自分もまた最後まで全力を尽くす義務がある。

 残り時間が五秒を切る。

 

(あと少し……! あと少しなんだ……!)

 

 気力だけで体を動かす。

 ようやく拳の届く間合いにまでたどり着いたとき、残り時間は二秒。

 シン目掛け拳を振るう。残り一秒。

 

「おおおおお!」

 

 カウントが零に達した後に鈍い音が響く。

 一誠の突き出した拳をシンは構えず、避けず、黙って額で受け止めていた。

 僅かに間に合わず、拳が届く前に禁手は解除されてしまっていた。

 力を全て出し尽くした一誠。その顔色は死人の様に蒼白い。

 

「言って、おくが、お前に、負けた、訳じゃ、ねえぞ」

 

 重い舌を動かし、これだけは伝えておきたかった。

 

「そうだな。お前は匙に負けたんだ」

 

 その言葉に何処か満足した様な表情を浮かべながら、一誠は仰向けに倒れていく。

 

「後は、頼んだ」

 

 光が一誠を包み込んでいく。そのとき、シンは見た。倒れ、消えいく一誠の向こう数メートル先に、二本の剣を持ち佇む青年の姿を。

 

「木場」

 

 後を友に託し、一誠は消える。

 

『リアス・グレモリー様の『兵士』一名、リタイヤ』

 

 アナウンスが一誠の退場を告げると木場は二本の聖剣を構える。

 

「任されたよ、イッセー君。――さあ、やろうか? 間薙君」

 

 シンは勝っても負けてもこれがレーティングゲーム内での最後の戦いだと予感した。

 




あと二話でようやく五巻の話が終えそうです。色々と寄り道な話を付けたしていたので長くなってしまいました。
六巻の話はもう少しスッキリさせたいですね。

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