料理を注文し、それが出来上がるまでの間、シンたちの狭間で流れるのは沈黙であった。シンはもとより気安く喋るつもりは無く、由良はヴァーリたちを警戒している。ヴァーリの方は、さっきからメニュー表に視線を注いでいる。
故に、この沈黙を破ったのは美候であった。
「おいおい。何かの因果で折角会ったんだ、お喋りの一つでもしようぜぃ? だんまりするのは好きじゃねぃ」
美候は、シンたちと戦ったときの様な中華風の鎧ではなく、若者が好みそうなラフな格好をしており、初対面の人間なら『軽そう』という第一印象を受ける。
「お前と話すことは無い」
一言で切り捨てるシン。美候に向け、刺す様な圧を飛ばす。場所が場所でなければ一戦交えていただろう。
しかし、美候の方は飛ばされる圧に冷や汗一つ流さず、柳の様に全て受け流す。孫悟空と同じ血統であること、白龍皇ヴァーリと共に行動していることは伊達では無い様子。
美候は懲りずに再度会話を試みる。
「何でもいいから話そうぜぃ、『人修羅』。お前と、お前の仲間とは派手に喧嘩した仲だ。次は平和的に会話と洒落込もうぜぃ。何か話の種の一つぐらいあるだろう?」
「……人修羅?」
シンが聞いたことの無い異名で呼ばれたことに由良が思わず呟く。どういう意味だとシン本人に尋ねようかと考えたが、シンから放たれる圧が増したことに気付き、気圧されて聞くことが出来なかった。
「――その名で呼ぶな」
名自体が不快な訳では無い。ただ、その名の意味を知ることによって巻き込まれなくてもいい危険に由良が巻き込まれることを危惧し、それ以上は言わないよう美候に警告を飛ばす。
「んん? まあいいや。……そういやぁ、何て名前だったけ?」
「彼の名は、間薙シンだ」
シンが答えるより早くヴァーリが答える。相変わらずメニュー表に目を向けたままだが。
「ふーん。じゃあ、シン。何か俺っちたちに聞くことはあるかぃ?」
いきなり名前で呼ばれることに抵抗を覚えるが、訂正させるのも話の輪が広がりそうだったので止めた。
シンの目が料理を作っている店主を見る。たった一人とはいえ、一般人が居る所でこちら側のことを話す気にはなれない。目の前の調理に集中しているようだが、いつ何時耳に入るか分からない。
すると、美候は声を押し殺し笑う。
「安心しろ。部外者に聞き耳を立てられ無いように、ちゃーんと結界を張っているぜぃ」
シンの内心などとっくに察していた様子。シンは、カウンターの向こう側へ手を伸ばす。すると、手に蜘蛛の糸が絡みついた様な微かな感触を覚えた。美候の言ったことが正しければ、これが結界の感触なのだろう。しかし、結界を張ったというのに全くそんな素振りを感じなかった。あまりに速く行ったのか、それとも動きの中に自然と混ぜたのか。知識の無いシンには深く詮索することは無理である。
本当ならばこのまま黙っているつもりだったが、一つ気になったことがあったので渋々尋ねる。
「……どうやってこの町に入って来た?」
町には、リアスとソーナが仕掛けた術が張り巡らされており、外敵が入ってきたら察知出来る仕組みになっている。特に、堕天使の件やコカビエルの件もあって術の強化も施されている。悪魔、天使、堕天使、何かしらの異能を持つ人間が外部から侵入すれば、即リアスとソーナが飛んでくる筈である。
「ああ。あの術のことか? 二重、三重と仕掛けられて中々嫌らしい組み方をしてたねぃ。並みの奴らだったなら解こうとした時点でアウトだ。――だけど、生憎俺っちは並じゃないんでねぇ」
悪戯を成し遂げた様に歯を見せて笑う美候。
「ちょちょいと仙術を使えばあら不思議。誰にも気付かせることなく出入りが出来るんだぜぃ。何ならちょっとコツでも教えようかぃ?」
悪意は無く、無邪気とも呼べる態度であったが、その態度に由良の神経は逆撫でされる。
「……それで我が物顔でこの町を歩いていたという訳か? 随分と舐めた真似をしてくれるな」
口元が歪み、目付きに険吞なものが混じる。整った顔立ちによるそれは、標的を見据える雌獅子を彷彿とさせる。
「おー……おたくの彼女、随分と怒っているみたいだけど?」
「彼女じゃない。怒るのは当たり前だ。会長――ソーナ・シトリーの『戦車』だ」
由良にしてみれば、目の前で自分の主が虚仮にされているのも同然。それに怒りを見せるのも、眷属として至極当然のことである。
「あーあ。やっちまったかぃ」
美候にしてみれば軽口の延長であったが、知らずのうちに地雷を踏み抜いてしまっていた。
由良から怒気と戦意が立ち昇る。一方で、美候は由良の気を受けても昂ることはしなかったが、掛ってくればそれに応じた対応をする構えをしている。
一メートルも離れていない距離で、戦いの予兆が渦巻く。
シンはいつでも止める準備をしていたが、ヴァーリは一体何が彼の心を引き寄せるのかメニュー表に釘付けのままであった。
「はい。チャーシュー麵です」
シンと由良の前にチャーシュー麵が置かれた。スープで薄まった醤油の中に、黄色の真っ直ぐな麺。器の半分に厚めに切られたチャーシューが五枚並べられ、残りの空いたスペースにシナチクとネギが添えられている。
張り詰めていた空気が、全く気付いていない店主によって弛緩する。
「でもよ――」
美候が何かを言い掛けようとする。
「――美候」
このとき、ヴァーリの目がやっとメニュー表から離れ、美候に向けられる。
俺の目の前で、ラーメンを伸びさせるなどという愚行を犯さないよな?
静かな口調であったが、ヴァーリの両眼からは他者を屈服させ、捻じ伏せ、精神を焼き尽す様な眼光が放たれている。実際、向けられていない筈の由良は、その眼力によって浮き出させていた怒りを無理矢理押し込めさせられてしまっていた。
「へいへい。お前、本当ラーメンのこととなるとすぐにマジになるな」
肩を竦めただけでそれをあっさりと受け流す美候。流石の胆力と言える。
美候が口を閉ざしたのを見て、ヴァーリはまたメニュー表を見始めた。
シンは、固まっている由良の肩を軽く叩く。由良は体を一瞬震わせた後、シンを見る。その眼には屈辱の色が宿っていた。
「私は……」
眼力だけ、それも直接向けられていないというのに、ヴァーリとの力量差に怯んでしまったことが余程効いたのだろう。無理もないことである。
「冷めるぞ」
「あ、ああ……」
取り敢えずは目の前のラーメンを食べることを勧める。少しでも気を紛らわせてたいと考えて。
割り箸を手に取り、両手を揃える。
「いただきます」
「い、いただきます」
それから二人は数十秒間、ひたすら無言で麺を啜っていた。ラーメンの味は良かったがそれを楽しむ余裕は無い。殆ど作業の様なもの。由良の方は、ヴァーリたちのことやさっきの失態を気にして、味など全く分からなかった。
シンたちが食している最中に、ヴァーリたちが注文した品もカウンターに置かれる。
「はい。醬油ラーメン二つです。それと炒飯です」
「ありがとう。あと追加で塩ラーメンを頼む」
「ありがとさん。あ、俺っちも追加で餃子と唐揚げ。あと中華飯を頼むぜぃ」
「はい。分かりました」
追加注文された品を作りに再びコンロの前に立つ主人。
「――いただきます」
指先は真っ直ぐ天に伸び、後光すら放ちそうなほど厳かな雰囲気で挨拶をする。その所為の一つ一つがいちいち絵になる。
「いっただきまーす!」
美候の方は対照的に軽い感じで済ますと、食欲に導かれるまま凄まじい勢いで食べ始めた。
麺を一気に半分ほど口の中に入れると、顎を極短い感覚で動かす。五秒も満たない時間で数十回は噛んでいた。
十数秒で麺と具を全て食べ尽くし、スープを飲み干す。完食するまで一分も掛かっていない。そして、そのまま炒飯をレンゲで掬うと麺と同じ様に大口で頬張り、噛み尽くし、飲み下す。美候が食べ終わるのとシンたちが食べ終わるのはほぼ同じタイミングであった。
一方でヴァーリの方はひたすら静かであった。麺を啜る音など全く立てず、一定の間隔でラーメンを食している。
ヴァーリがラーメンを食べ終えたのは、美候と同じくらいであったが、それなりの速さで食べていたというのに、ヴァーリが着ている白いワイシャツには染み一つ付いていなかった。
変な場面で底知れなさを見せつけられる。
ラーメンを食べ終えたヴァーリは懐からメモ帳を取り出し、そこに何かを書き始めた。
米粒一つ付いていない皿の上にレンゲを置き、中断された話を再開しようとする。シンたちも食べ終わっていたので、今度はヴァーリも注意しない。というより、書くことに集中している。
一体何を書いているのかとシンと由良が疑問に思うと、それを察して美候が答える。
「ああ、これ? 気にすんな。食ったラーメンの味を記録しているだけだぜぃ。何でも自作ラーメンレシピの参考にするとか。引くぐらい細かく書いてあんだぜぃ?」
内緒話でもする様に口に手を添える。
「――んで、どこまで話をしたっけ? ああ、そうそう。結界を破るコツを教えようか、って話だったな」
「余計なお世話だ」
由良は吐き捨てるように言う。
「仮に教えてもらったとして、それを応用し術を強化したとしよう。だが、お前たちの侵入を防げなければ意味が無い。他人に教えられるようなコツだ。幾つもある手段のうちの一つに過ぎないのだろ? それなら無意味だ。いや、敵に教えを乞う時点でこちらの恥だ」
一度は萎えかけた怒りを再燃させてまくし立てる。
「すっかり嫌われちゃったなぁ」
敵対心を露にする由良に、美候は困った様に頭を搔く。これ以上この話を続けても険悪な雰囲気が増すだけと思ったのか、美候は話し相手と話題を変える。
「そういや、風の噂で聞いたんだが、お前、冥界でタンニーンとやり合ったって本当?」
どこで仕入れたのか。突然振られた話題に、シンは返答を窮する。その反応が不味かった。常人には僅かな変化でも人を超えた彼らには答えているに等しい。
「マジかー。それってやっぱり本気のタンニーン? それだったらすげぇ」
噂が真実という前提で話を進め出す。
一体どこから洩れたのかと思ったが、今思い出せばあれ程派手な戦いである。何処かで目撃者が居てもおかしくは無い。仮に情報が断片的なものだとしても、タンニーンが暴れている姿、それと同時に大火傷を負ったシンなどを繋ぎ合わせて、一つの仮説を生み出したとも考えられる。
「噂は噂だ」
「元龍王相手に生き残れるとはねぃ。まあ、当然ちゃあ当然か」
今更否定してみたが、美候はそれを信じる気が全く無く、シンの話を聞いていない。
「本当なのか? 今の話は? もし、本当だとしたら、私は君が大変なときに」
「言っただろう。噂は噂にしか過ぎない」
あくまでタンニーンとの戦いを否定する。ここで肯定しても、シンと由良とタンニーン、誰にとっても得をすることなど無い。
「タンニーンと戦ったときに気付いたんだが、足に傷跡があった。最近出来たものに見えたなぁ。鱗が削れてその下の肉がはっきりと見えていたのをはっきり覚えているぜぃ。引っ掻いた様な五本の裂傷だった。――そういやお前、黒歌の結界を素手で裂いてたよなぁ? こうやって」
美候が手を縦に振るジェスチャーを見せた。美候もまたタンニーンと戦っている最中であったが、あのときのシンたちの動きを見落としていなかった。
鋼に等しいドラゴンの鱗に傷を付けられる者など限られている。ましてや龍王に名を連ねていたドラゴンである。その頑強さは最上級。そこに空間を歪めて形成された結界を素手で引き裂いた人物が現れたのだ。結びつけるのは当然と言えた。
美候にとっては噂ではなく、最初から確信があっての話だったらしい。
シンは横目で美候を穿つ様に睨むが、美候はそれを楽しげに受け止めていた。
「気になるんだよぉ。俺っちはタンニーンと決着をつけられなかったからさぁ。そっちの勝敗はどうなっているのかがさぁ」
ヴァーリほどではないが、美候も戦いに熱と楽しみを見出す。タンニーンは美候の血を滾らせる強敵であった。そのタンニーンと戦った相手が目の前に居る。しかも、魔人という希少な存在。龍王と魔人の戦いの勝敗、気にならない訳が無い。
「同じ事を言わせるな。――噂は噂だ」
お前に話すことはなど何も無いと間接的に告げる。
それを聞き、美候は笑みのまま、その質を変える。人の警戒を解く様な笑みから、唇から犬歯を覗かせる獣の様な獰猛さを含ませた笑みへ。
「そりゃあ、力尽くで聞き出せって解釈でもいいか?」
「好きな様にしろ。どうせ無理な話だ」
途端、由良は息苦しいまでの重圧を感じる。呼吸することすら困難になり、この場から衝動的に逃げ去りたくなる。それを耐えることが出来たのは、ソーナの眷属としてのプライドと責任感、ただそれのみであった。
「はい。塩ラーメンと中華飯です。唐揚げと餃子はもう少しお待ちください」
店主が注文の品を置いた途端、その重圧は嘘の様に消えてしまい、美候も獣の様な笑みを引っ込めて、喜々とした表情でレンゲを握る。
「いただきまーす!」
人参、白菜、きくらげ、椎茸、タケノコといった野菜がふんだんに入った餡をご飯ごと口に運ぶ。熱々のそれを数秒間咀嚼した後、飲み込むとシンたちに話し掛ける。
「そっちも何か頼んだらどうだぃ? 俺っちたちだけ食べても何か味気ないんだよなぁー。折角、偶然この店で会ったんだ、奢るぜ?」
敵対関係にある相手にわざわざ奢られる筋合は無い。
「すみません。麻婆豆腐と野菜炒めと青菜炒め、それとご飯の大を下さい」
――などと言うつもりは全く無く、遠慮も容赦も無く追加注文する。
「え、じゃ、じゃあ私はエビチリと麻婆飯とかに玉に杏仁豆腐を」
シンが躊躇無く注文するのを見て、由良が少し遅れて追加する。
「……ちょっと頼み過ぎじゃない?」
「なら俺も追加で味噌ラーメンを頼む。大盛りで」
「おい!」
ヴァーリも追加で頼む。
「安心しろ。俺はちゃんと自腹で払う」
「……便乗して俺に全部奢らせるつもりだったら、俺っちたちの関係に罅が入っていたところだぜぃ」
美候はこっそりと財布の中身を確かめながら、少々の後悔を混ぜた言葉を洩らす。
いきなり大量注文をされた店主は、慌てて厨房へと向かっていった。
「――まあ、話を戻すけど。俺っちとしてはタンニーンとの戦いは結構印象が強いんだよ。龍王と初めて戦ったのもあるけど、今思い返せば赤龍帝が、赤龍帝が――ブフッ!」
当時のことを思い返していきなり美候は噴き出す。タンニーンとの戦いの中だったので戦闘に意識を向けていたが、戦いが終わり冷静になって振り返ってみれば、あのときの一誠の行動がシュール過ぎて、未だに美候の笑いのツボを刺激してくる。
「何を血迷ったかリアス・グレモリーの乳を突っついたんだよな? その直後に禁手に至ったんだから世の中分からないもんだぜぃ」
言った後に我慢出来なくなったのか美候は声を上げて笑う。その豪快な笑いは店の窓を震わせる声量だったが、美候の術で店主は一切気付いていない。シンはその笑い声に微かに眉をひそめ、ヴァーリは淡々とラーメンを食し、由良は何故か啞然とした表情でシンの方を見ていた。
「……今の話は本当なのか?」
美候の笑い声よりも一誠がリアスの胸を突いたことの方が衝撃的だったらしい。
シンは無言で首を縦に振る。
「何をやっているんだ……」
心底呆れたという声を洩らす。本人の知らぬ間に、由良から一誠への評価が少し下がった。
「いや、その後も面白くってな。赤龍帝の力と白龍皇の力を合わせて、俺っちの仲間の服を縮めて半裸状態に――」
『その話は止めろ』
美候の喋りを遮ったのは、今まで沈黙を続けていたアルビオンの声。由良はいきなり知らぬ声が上がったことに驚く。
「いや、でもなぁ」
『本当に止めろ』
アルビオンにとって本気で避けたい話題だというのが分かる。女性を半裸状態で拘束する技に自分の力が使われているという事実が余程嫌なのであろう。ドライグも『洋服崩壊』や『乳語翻訳』に自分の力を使われたことで精神に多大な影響を受けていた。
(アルビオンもドライグと似たような状況になれば、同じ様になるのか?)
普段はそういうことに無関心なシンだが、このとき妙な好奇心が彼に囁いてくる。
「そういえばもう一つ小耳に挟んだ噂があるんだが。何でも赤龍帝が人の心を読む力を身につけたとか?」
微妙に歪められた噂だが、ほぼ真実と言ってもいい。真実の方が歪んでいる様な気さえする。が、それよりもシンが気になったのは、そのことが美候たちの耳に届いていることである。
一誠の『乳語翻訳』『洋服崩壊』『洋服拘束』は、リアスからレーティングゲームに使用することを禁じられている。そのことは運営にも伝えており、もしゲーム中に使用するならば一誠のリタイヤだけでは済まず、リアスもリタイヤすることが決まっており、つまりは敗北を意味している。それだけ一誠を強く戒めている。
しかし、そのことをリアスが宣言したのは最近のことである。この情報を知っているということは、冥界の何者か、もしくは何者たちかが禍の団に情報を流している可能性が高い。
考えれば当然のことと言えた。禍の団に旧魔王派は下ったが、今もなお新しい体制の中に旧魔王派の悪魔たちが内部から崩壊させようと息を潜めている姿が容易に想像できる。
四大魔王たちにとっては獅子身中の虫。かといって炙り出す為に他の悪魔たちを締め付ける様な真似をすれば相手の思う壺。頭痛の種であろう。
政治には全く興味も関心も無いが、ただの憶測ですら面倒に思えてくる。関わらざるを得ない者たちに同情する。
「で、どうなんだ?」
「――心というか、女性の胸と会話する能力だがな」
何故こんなことを言ってしまったのか。他のことを考えているうちに口を滑らせたのか。知らず知らずのうちにストレスが溜まっていたのか。ヴァーリたちに一泡吹かせたいと無意識に思ったのか。先程の好奇心からくる行動だったのか。
後にこのときのことを振り返るシンだったが、答えは全く分からなかった。
一瞬にして静けさが満ちる。その静けさでシンは自分が何を言ってしまったのか気付くが、最早後戻りは出来ない。
「か、会話? 女の乳と? ……あはははははははははははは!」
美候が言われたことを理解すると同時に爆発する様に笑い始める。
「そんなことが……待て。もしかして、それを生徒会の皆に使ったのか?」
シンが頷くと、由良は頭痛を堪える様に眉間に皺を寄せた。
「兵藤……」
彼の知らないところで株がまた少し下がる。
『ドライグが、私の宿敵が穢されていく……』
新たな事実に打ちひしがれ、絶望に満ちたアルビオンの声。
「兵藤一誠には言ったことがあるが、正直女性の胸にそこまで情熱を燃やせる気持ちは理解出来ないな。ただ、そこから新たな力を開拓したことは素直に尊敬するよ」
いつの間にか塩ラーメンを食べ終えたヴァーリは、メモ帳にペンを走らせながら会話に入ってくる。
「歴代の赤龍帝でもそんな力を持った人物は居ない」
『……居てたまるか』
強いショックを受けているせいかアルビオンの声は若干弱々しい。初めて声を聞いたときは、ドラゴンに相応しい威厳と重圧のある声だった筈なのだが。
「面白いじゃないか。何かの切っ掛けがあれば、俺もそういう力を得ることが出来るかもしれない」
「お前も女性の胸と会話でもするのか?」
「さっきも言ったが、生憎それには興味が無いね。兵藤一誠ほどの情熱は出せない」
「ならラーメンとでも会話するか?」
大した意味があって言った訳ではない。ただ、ラーメンに対して異様な情熱を見せるヴァーリの姿を見たので思わず言ってしまった。
反応は劇的なものであった。
メモ帳にペンを走らせるのを止め、見開いた目でシンを見た後に、空になった器を見る。
「……アルビオン」
『先に言っておく。無理だからな? 無理だからなっ!』
「無理やあり得ないことを超越してこそ、誰も到達出来ない高みに至れるんじゃないかな?」
『待て待て待て待て! 思い直せ! 考え直せ! あいつらが特殊なだけだ!』
「アルビオン。お前だって二天龍の片割れだ。ドライグに出来て、お前に出来ないことは――」
『止めろっ! そこでその呼び名を出すな! 変な期待をするな!』
シンの想像以上にアルビオンが慌てふためき出す。だが、アルビオンの気持ちも空しく、ヴァーリの心は完全に決まっていた。
「間薙シン。いい助言をありがとう」
(もしかしてこいつは、イッセーとは方向性が違うだけで同類なのでは?)
爽やか笑みで礼を言うヴァーリを見て、そんな感想を抱いてしまう。
一方的だが、ヴァーリとの距離が縮まる傍らで――
『……お前の存在を、私は一生許さない』
――アルビオンとの間に深い怨恨が生まれた。
◇
「あーあー。すっかり財布が軽くなっちまったぜぃ」
会計を済ませた美候が財布の中を覗き込みながら呟く。
「ま、ポケットに入れやすくなったけどな」
愚痴かと思えばすぐにそんな冗談を言うので、大して気にもしていないのだろう。
食事を終えた四人は、ラーメン屋の前で向かい合う。店の中だからこそ戦わなかったが、外に出た今その理由も通じない。
「さて……どうしようか?」
誘っている様にも聞こえるヴァーリの言葉。周辺に民家は少ないが、それでもここで戦うとなる一般人に被害の出る危険がある。ましてやシン、ヴァーリ、美候が本気を出せば周辺など簡単に更地と化してしまう。
「腹ごなしの軽ーい運動でもするかぃ?」
重ねられる挑発。シンの隣に立つ由良は静かに汗を流していた。最悪の展開を予想し。
しかし、二人の誘いをシンは鼻で笑う。
「そっちと違って無駄な戦いはしない主義だ」
「そうか。ならしょうがない」
ヴァーリは軽く肩を竦め、シンたちに背を向ける。美候もそれに続いて背を向けた。
二人に戦う意思が無いことが分かり、内心安堵する由良。
シンもまたヴァーリたちの様に振り返ろうとしたのを見て、同じ様に背を向けようとする。
シンが振り返って最初の一歩を踏み込んだ瞬間、由良の髪が突然の突風で乱される。
風が吹き抜けていったのではない。シンが踏み出した足を軸にして百八十度反転したときに生じた風に巻き上げられたのだ。
直後に乾いた音が響く。
由良がシンの動きに反応して背後を見る。そこには、シンとヴァーリが互いに突き出した右腕を交差させていた。固められた右拳が、二人が何をしたのか物語っている。
「良い反応だ」
「あれだけ露骨だったら分かる」
ヴァーリは言葉ではなく気配のみで仕掛けることを伝え、シンはそれを難なく察する。
ようやく事態が呑み込めた由良が、慌てて止めようと声を上げるが、由良の口から『待て』という一言が飛び出る合間に、シンたちは十動く。
交差させていた腕を弾き、シンの左拳が突き上げられる。ヴァーリはそれを目で追うこともなく、上体を少し反らし最小限の動きで回避すると、空いた胴体に蹴りを放った。
迫る蹴りに対し、シンは水平に肘を突き出す。守る構えではなくヴァーリの脛を砕く為の攻めの構えであった。
しかし、ヴァーリの蹴りは途中で軌道を変え、胴を穿つ中段蹴りから首を刈る上段蹴りへと変わる。
狙う箇所を変更されたことに気付くと、シンは水平にしていた肘を九十度変更し、腕を上向きに突き出す。攻めから再び守りの構えをとった。
シンの腕にヴァーリの足の甲が叩き込まれるが、地面を掴む様にして立っていたシンは僅かに横へずれただけで済ますと、手首を返し、指先でヴァーリの足首を掴んで逃さない様にし、アキレス腱を断つ勢いで拳を突き出そうとした。
その直後、視界の下端に何かが迫ってくることに気付く。
直感で状態を維持することは不利だと感じた瞬間、躊躇う事無くシンは手を離し、攻撃を中断した。
刹那、眼前を通り過ぎていく靴底。爪先が前髪に微かに触れるのを感じた。
低空且つ高速宙返りで放たれたヴァーリの蹴り。あと少し反応が遅ければ、ヴァーリの足を一本奪っていたかもしれないが、その代償として顎を砕かれていたか、千切られていた。
少し仰け反った姿勢から着地直後のヴァーリに前蹴りを放つも、腕を押し当てられ軌道を逸らされる。
ヴァーリから反撃の拳が飛んでくるが、軌道を逸らされた脚を強引に押し当てることで体勢を崩させ、拳を拳で打ち落とす。
今度はヴァーリがシンの足を掴もうとするが、掴まる前に引き抜く。
奇しくも戦う前の体勢へと戻る二人。狙うべき箇所を片や冷徹に、片や闘志を以って狙い定めると、同時に動く。
両者の顔を打ち砕く為に放たれる拳。必殺を込めた拳は、やがて両者の眼前――
「待て!」
ようやく発せられた由良の制止の声。その後に、空気が爆ぜる音が響き、木霊する筈であった由良の声を掻き消す。
シンもヴァーリも目の前に迫っていた拳をもう一方の掌で受け止めていた。
「凄いね。少し見ないうちにここまで強くなっていたなんて嬉しいよ」
「……」
「でも、今の俺で良かったな。神滅具をこの状態から発動すれば、十秒後にはすぐにこの均衡は崩れる」
「……十秒後、お前が生きていたらな」
「……くっ」
ヴァーリは顔を俯かせたが、すぐに大きな笑い声を上げながら顔を上げた。
「あっはっはっはっはっはっはっはっは!」
笑いながら、ヴァーリは拳を引き、掴んでいたシンの拳を離した後に構えを解く。これ以上戦う意思は無いと態度で示す。
シンの方もそれが本気だと察し、同じ様に構えを解くと、その身から放たれていた強い圧が弱まる。
未だに上機嫌そうに笑うヴァーリ。対照的にシンの方は仏頂面であった。
「あーあ」
一頻り笑ったヴァーリは、先程の笑いを微笑にまで抑えてシンに話し掛けてくる。
「兵藤一誠に会ってから、本当に予想もつかないことがよく起こる。少し前まで突き付けられた現実に絶望していたのが嘘の様だ。今は未来が楽しみでしょうがない」
大人びた雰囲気は剥がれ落ち、今だけは年相応の抜けきれない幼さが見える。
「これから先君には色々な苦難が降りかかってくるだろうけど、頑張ってくれ。まあ、どうしようもないと思ったときは声でも掛けてくれ。場合によっては手伝えるかもしれない」
「随分と太っ腹だな」
「君が俺のことをどう思っているかは知らないが、俺は君のことは嫌いじゃないみたいだ」
ヴァーリは、明かりの無い夜の闇に向かって歩いていく。
「目的は全て済んだし帰らせてもらう。――試したいこともあるからな」
『本気でやるつもりか……』
絶望に満ちたアルビオンの声を残しながら、ヴァーリは闇の中に消えていく。
「んじゃま、俺っちも行くわ。じゃあな~、お二人さん。縁が在ったらまた飯でも食おうや」
ひらひらと手を軽く振って、美候はヴァーリの後を追って闇に消えていった。
二人が闇の中に消えていって数秒後、シンは溜息を吐く。その溜息に驚き、由良は肩を一瞬震わせた後、溜息一つでビクビクするほど余裕の無い姿を晒したことへの羞恥で顔を朱くする。
「帰るか」
「あ、ああ」
時間にすればそう長い時間では無かったが、由良にしてみれば密度が濃く心休まない時間のせいで何倍も長く感じられた。
静寂に満ちた夜の中、沈黙のまま歩く二人。その沈黙に耐え切れなくなったのか、由良が話し始める。
「すまなかったな」
「何がだ?」
「折角、礼の為に食事をご馳走するつもりだったのにこんなことになってしまって……」
「事故の様なものだ。お前が何一つ謝る理由は無い」
「白龍皇との戦いも全く手を出すことが出来なかった」
「それで正解だ。何も間違ってはいない」
それは優しさであると同時に、暗に足手纏いとも言われている気がした。
あのとき、由良だけがシンとヴァーリの戦いについていけていなかった。美候は二人の戦いを目で追い、いざとなれば参戦出来る準備までしていたというのに。
「それに戦いなんて大層なものじゃない。ただじゃれつかれただけだ」
一方的に遊び相手にされたことに、シンは少し不機嫌そうであったが、あれが遊び程度のものだと聞かされた由良には衝撃的であった。
例え戯れであったも、ドラゴンの戯れである。見合う相手でなければ戯れは一転して虐殺へと変わる。
隣に並ぶシンに大きな隔たりを感じてしまう。現白龍皇にとってシンは、遊んでも壊れない相手という信用があるのだ。
(……情けないな)
そう思ってしまったことに由良は自己嫌悪する。自分の無力さを突き付けられ、後ろ向きな考えになってしまっているのが分かるが、止めることが出来ない。
本来ならば謝罪の言葉ではなく、礼の言葉を言うべきなのに。
ここまで陰鬱な気持ちになるなど、食事前までの自分からは想像もつかなかった。少し高揚していたその時の自分が羨ましく思える。
せめて礼の言葉だけでも。そう決心し、口を開こうとした矢先――
「俺はこっちの道だから」
分かれ道の前でシンは自分の帰路を指す。
「あ、ああ」
「じゃあな」
「……ああ」
去って行くシンの背中を見て、結局言うことを言えなかった由良。暗い夜道よりも暗い気持ちを抱えながら、由良は一人帰路につく。
◇
「そんなことがあったんだ!」
共に作業をするイリナに昨晩あったことを軽く説明した。
「一体、どういうつもりなのかしら?」
「さあな」
やはり一誠の方もヴァーリたちと会っており、その時にディオドラについて警告をされたという。ヴァーリの言葉を全て鵜吞みにするシンではないが、それでもディオドラから漂うきな臭さはより一層強まったと言えた。
なおリアスとソーナは、自分たちの縄張りに簡単に侵入されたことがご立腹だったらしく、レーティングゲームも近い中で、急遽術式の改善を行っていた。
オカルト研究部員、生徒会メンバーほぼ総出の作業なので、本日の部活動は中止である。
その為、シンは中止に出来ない生徒会の仕事を行っているが、今日は少し事情が違う。
イリナが、生徒会の仕事をクラブの活動として手伝っていた。
何故こんなややこしいこととなったのか。それは熱心なまでのイリナの勧誘に、シンの方から妥協したことが始まりである。
保留にすると返事をしたのに、朝から放課後の間、とにかく時間さえあれば自分の俱楽部への勧誘をしてくる。
非常にしつこいので生返事で返していたが、終いには――
『貴方が、貴方が欲しいの!』
『お願い! お願いだから見捨てないで!』
『貴方が居ないと私、私……!』
――と捨てられる直前の女性の様なことを言い出す始末。そのせいで勧誘に周囲の視線とざわめきが加わって非常に居心地の悪いものとなったとき、シンは一つの考えを閃く。
『たしかクラブの目的は人助けだったな?』
『ええ、そうよ。困っている人たちを無償の愛で助けるの!』
『実際に救いを求めに来た人数は?』
『……まだ同好会レベルで正式な活動が出来ないからゼロ人』
『なら俺が最初か』
『え?』
そうやってシンはイリナに生徒会の仕事を手伝わせることに成功した。これによりしつこ過ぎる勧誘や仕事の負担が減らせる。勿論、イリナにとってもきちんとメリットがある。
生徒会に恩を与えることができ、同時にクラブとしての実績も積める。
イリナの活動について、他の生徒会メンバーに口コミで広げる様頼むと約束したので、名を売ることが出来る。
結局シンと一緒に行動するのでイリナの任務と違わない。
これらのことを説明するとイリナも納得し、現在シンと共に生徒会の仕事をこなしている。
「そういえばこの間のことで、何か分かったことはあるのか?」
「この間の? ああ、見覚えのあるって言ったことね。それがまだ分からないの」
雑談しながらも二人の作業ペースは緩まない。シンは慣れているという理由があるが、イリナはこれが初めてである。抜けている所もあるが、やはりミカエルの使徒として選ばれるだけのことはあって地の能力は高いことが窺える。
「教会の情報を調べてみたけど写真の人たちは見つからなかったの」
「記憶違いという可能性は?」
「うーん。無いとは言い切れないけど、どうしても引っ掛かるのよねー。教会で見つからないなら、今度は天界の情報を片っ端から調べるつもりよ」
諦めるつもりはなく更なる意欲を見せる。
「まあ、手助けが必要になったら言えば良い。余裕があるなら手伝う」
「ありがとう! でもいいの? レーティングゲームで忙しくない?」
「俺は出ない」
「そうなんだ。ちょっと勿体無いかも」
リアスもソーナも日常生活を送りながら、今度行われるレーティングゲームの準備を進めている。ディオドラがオカルト研究部部室に現れたときに、対戦日時は五日後という通達が丁度来た。
時間はあまり残されてはいない。
その時、生徒会のドアが開く。
「おーす。やってっかー?」
生徒会のドアを潜って軽い挨拶をしながらアザゼルが入って来た。
「どうかしたんですか?」
ソーナたちが出払っている生徒会室にアザゼルがやってきたことに少し不思議に思う。
「実はな、冥界で若手悪魔たちを特集したテレビ取材の依頼が入ったんだよ」
「はあ。そうですか」
シンが思っているよりも大きな規模で、リアスたちのレーティングゲームが注目されていることを知る。まさか、テレビに出演するほどとは思ってもいなかった。
そうなると少し心配になってくる。約一名、緊張で死にかけそうな元引きこもり眷属の存在が頭を過った。
「部長や会長もまた忙しくなりそうですね」
「他人事だなー。お前も来るんだよ」
「……何故?」
不意打ちで告げられたそれに、シンはそう返すことしか出来なかった。
◇
「ここに居たのか」
背後から声を掛けられ、曹操が振り返るとゲオルクが立っている。知性を感じさせる容貌に、今は不機嫌さを露わにしていた。
「どうした? 何か問題でも起こったか?」
「問題と言えば問題だ。連中、俺たちにもっと力を貸せと要求してきた」
ゲオルクが不機嫌な理由を知り、曹操は小さく笑う。
「笑い事じゃないぞ。新参のくせに随分と図々しい……。謙虚という言葉を教えてやりたいぐらいだ」
「謙虚な魔王というのも不思議な響きだな」
「それで? どうする?」
「手を貸してやればいいさ。でも、生憎ジャンヌもヘラクレスもジークもレオナルドもやることがある。ああ、あと俺も、な」
「……つまり俺しか残っていないという訳か」
ゲオルクは、気が乗らないという言葉の代わりに溜息を吐く。
「ということで任せたぞ、ゲオルク。――匙加減はお前に任せる」
「――分かった」
了承するが、再びゲオルクは溜息を吐いた。それを見て、曹操は苦笑しながら自分が歩いてきた方向を指差す。
「そんなにストレスを感じるなら、『彼女』と少し話していったらどうだ?」
すると、ゲオルクの眉間に皺が寄る。
「曹操。彼女と二人だけで会うなと言った筈だぞ。油断すれば骨の髄どころか魂まで蕩けさせられる」
「彼女との会話は色々と気分転換になるんだけどね。――そういうならレオナルドは良いのか?」
「彼はもう手遅れだ。生みの親よりも彼女を慕っている」
「両親以上に慕える存在に会えるなんて幸運だと思うよ。特に俺たちみたいな存在にとっては、さ」
自嘲を感じさせる曹操の言葉。ゲオルクは、それを否定することは無かった。
「『否定された者の母』『愛されざる者を愛する者』、彼女が与える愛は俺達には猛毒――いや、ある意味では薬かもしれないな。ただし、劇薬や麻薬の類だが」
「そこまで分かっているのなら――」
「だけど彼女は何もしないさ。求める者に与えるだろうが、見返りは求めない。だからこそ彼女の為に命を捨てられる連中がごまんといる」
語る曹操の姿を見て、忠告しても無意味だと悟り、眉間に皺を消す。代わりに少しだけ嫌がらせの言葉を送る。
「だいそうじょうに報告しておく」
「やめてくれ。ここが消える。同じ陣営に居ることでさえ奇跡だっていうのに」
本気で嫌がる曹操の顔を見て、ゲオルクの溜飲も下がった。
「伝えることは全て伝えた。俺は準備に入る」
ゲオルクはローブを翻す。すると、今度は曹操が後ろから声を掛ける。
「そうだ。一応、このことだけ伝えておく」
「重要なことか?」
「彼女が珍しく禍の団の動向について聞いてきた。――近いうちに彼女は動くかもしれない」