換気をしているもののやや不快な湿度を保った廊下を歩く小木曾、翔鶴の二人だったが、突然上空にレシプロ機の音を聞き、廊下の窓から外を見やった。
「あれは偵察機、か? 零水偵に見えたが」
「はい、おそらくあれは山内中将の指揮する艦隊所属の零水偵だと思います」
小木曾の心の内に浮かび上がった疑問も、たったそれだけで納得するに充分なものだった。
山内浩司(やまうちこうじ)。ここ佐世保鎮守府に小木曾よりはるか以前に着任し、その徹底した偵察とそこから得られる情報を元に編み出す戦法で数々の戦闘を勝ち抜いてきた歴戦の提督であった。
「やはり噂通りの人のようだな山内中将は。翔鶴、途中で山内中将の部屋まで案内してくれるか」
「はい、かしこまりました。……ちょうどここが山内中将のお部屋です」
翔鶴はそう言って微笑むとスッと一つの部屋の前で立ち止まり、部屋のドアをノックした。
「山内中将、いらっしゃいますでしょうか」
「ん?その声は翔鶴かね。中へ入りたまえ」
「はい、失礼します」
部屋の中から聞こえた重みを感じる低い声が聞こえ、二人は中へと入った。
「山内中将。本日着任しました小木曾提督をお連れしました」
「初めまして山内中将。本日着任しました小木曾です。どうぞよろしくお願いします」
「おお、君が例の。私も待ち侘びていたよ。ようこそ佐世保へ。長旅ご苦労だったな」
「いえ、自分はただ車に揺られていただけですので」
「はっはっは。そう謙遜することはない。私もここに初めて来た時は車に揺られていただけであったが、緊張で気疲れしたものだ。立ったままでなくても良かろう。さあ、そこへかけてくれ。今なにか飲み物を用意しよう。扶桑、悪いがお茶を用意してくれるかな」
「はい、分かりました提督」
突然後ろから声が聞こえ、ぎょっとして小木曾は後ろに振り返った。
そこには濡羽色ぬればいろの長髪と筆舌ひつぜつに尽くし難い豊満な胸を持った翔鶴の衣服とよく似たデザインの服装をした女性が立っていた。
「小木曾提督、日本茶とコーヒーどちらになさいましょうか」
「で、では日本茶で」
「はい、かしこまりました。翔鶴さんも日本茶でいいのよね? 」
「あ、私もお手伝いします」
「ふふ、それじゃあお願いするわ」
仲が良さそうに執務室奥に設置されているであろう給湯室に消えていく二人を驚いた様子で見送る小木曾をおかしそうに見ていた山内であったが、さすがに立ちっぱなしなのも落ち着かないだろうと小木曾を着席させ、自らもソファーに腰掛けた。
「翔鶴は中将とは知り合いだったのですね」
「ああ、君がここに来るより二週間ほども早くここに配属され、君をずっと待ち続けていたからね。話をする度に君はどんな奴かと想像しては、それこそ恋する乙女の様に心を踊らせていたよ」
「そうなのですか? 私にはとてもそうには見えませんが」
「きっと彼女も緊張しているんだろう。何しろ自分が初めて秘書として仕える提督である、待ち侘びていた君とようやく出会えたのだからね。きっと想像と実際の君との差を埋めるのにも必死なのだろうよ」
「もしかして、私は彼女の想像よりも劣っていたのでしょうか」
「ははは。それはこれから次第ではないかな。事実まだ君と彼女は出会って一時間も経っていないのであろう? だが、私が見るに君達は良いコンビになると思うよ」
「ありがとうございます。ところで中将。先ほど零水偵が飛んでおりましたが、何かあったのでしょうか」
「確かに我が隊の零水偵を飛ばしてはいたが、気になるかね? 」
「はい。鎮守府や陸上にある重要施設、拠点の上空と近海は陸軍の戦闘機で常時偵察が行なわれているはずです。現に私が知るだけでも二回は飛び回っているのを目撃しております。なのにどうして中将は偵察機をわざわざ飛ばしているのでしょうか」
「では逆に問うとしよう。君はどうしてだと思う。答えてみたまえ」
山内は声のトーンを落とし、試すような目つきで小木曾へ問う。
小木曾は右手を口元に添え、思案顔で考えを始め、偵察機が出なければならない理由は一つしかないと結論を出した。
「深海棲艦が出没したのでしょうか。それも、ここの近海、もしくは極めて至近に」
小木曾の答えを聞き、山内は実に愉快そうに口角を上げると大きく頷いた。
その反応を見て小木曾は胸を撫で下ろす。
「先週末から東シナ海沖で相次いで駆逐艦イ級の出没が相次ぐようになってな。生憎我が艦隊の瑞雲航空部隊は先の印援海上哨戒任務の際に痛手を被っており、零水偵しかまともに動かせない状態なのだ。まぁ、幸いにもほとんどが単艦なので、零水偵が搭載できる量の爆弾でも数回で撃破可能なのが救いだがね」
軽く肩を竦めながらそう言うと山内はどっしりとソファーの背もたれに身を預けた。
「なるほど、そうでしたか。っと、ありがとう翔鶴」
「はい、どうぞ。熱いので気をつけてくださいね」
お茶を持って来た翔鶴にちょうど良く気付いた小木曾は彼女からお茶を受け取り、一口含む。緑茶の豊かな香りが口の中に広がり、思わずほっと息を吐く。
「自分の秘書艦に淹れてもらったお茶はまた格別だろう准将。実は私がこの歳になっても提督を続けるのは扶桑が淹れてくれるこの茶を飲み続ける為だったりするのだ。やはり提督という役職であればこその醍醐味である、と思っている。だが、それを仲間内で話すと不謹慎だと言われる。だがこれくらいの楽しみ良いではないか、役得があっても。なあ、准将もそうは思わないか」
「は、はぁ。私はまだ就任初日ですので、何とも」
突然やや興奮気味に力説する山内を小木曾は驚きを隠せず、少しばかりどもりつつ答えた。
「そうだったな。いやすまん。つい熱くなってしまった。……お? 扶桑、また腕を上げたかな? 」
「ありがとうございます、提督。褒めていただくと嬉しいです」
「毎日飲んでいても、やはり注意深く観察すれば自ずと変化は見えるものさ。さて、話は戻すが、話した通り現在我が艦隊の航空戦力は非常に乏しく、また船体自体も修理に整備にほぼ出払っていて水上機の単独発着が精一杯だ。なので、君の艦隊には旗艦となる空母翔鶴の就航後に練度向上ついでに佐世保近海の偵察任務に就いてもらう事となると思う。 ……全ては大本営の決定待ちではあるがね」
「はっ、了解しました。では、万事に備えて準備を進めておきます」
その後も小木曾と山内は小一時間ほどお互いの事を話し、山内から近況をざっくりと聞くと、その頃には茶もすっかり飲み干していた。
「では中将。私達はそろそろこれで。この後も鎮守府内を歩き回って施設の場所等々を覚えなくてはなりませんので」
小木曾は山内に退室の旨を伝えると脱いでいた帽子を被り直しつつ立ち上がった。
「おお、そうか。長々と付き合わせてしまったな」
「いえ。為になるお話を中将からお聞かせ頂き、大変有意義な時間でした」
「ではな。次に会うとしたら、きっと海の上だろう。その時はまた顔を出したまえ」
「ありがとうございます。それでは失礼します」
「失礼します」
小木曾と翔鶴の二人は一礼すると、山内の執務室を辞し、鎮守府巡りの続きを再開した。
「翔鶴は山内中将と知り合いだったんだな」
小木曾は横を歩く翔鶴に目線を向けながら話し掛ける。
「はい。山内中将だけでなく、この鎮守府に就任している提督とは皆さんと知り合いです。提督が着任するまでの二週間、皆さんがとても良くしてくださいました」
「そうか。何だか随分と待たせてしまっていたようだ。すまなかった」
長い間待たせてしまったのだと改めて感じ、小木曾は謝りつつ翔鶴を見やった。
「提督は悪くないのですから、どうか謝らないでください」
翔鶴はそう言うと小木曾の顔を見て微笑んだ。