聖闘士星矢~ANOTHER DIMENSION 海龍戦記~改訂版 作:水晶◆
「ふむ。驕りや増長――と笑う事は出来んな。お前の強さにはこれだけの大言を吐くだけの資格がある」
アルキュオネウスがシュラへと向かい歩を進める。
「このアルキュオネウスと戦う資格も、な。お前の言う聖剣程ではないが、私もこの右拳には少々自信があってな」
一歩一歩、その歩みが進む毎にアルキュオネウスからの威圧感が増大する。
それは意識や感覚を超えて、物理的な圧となってシュラに重く圧し掛かる。
「……どうやら、貴様はこれまでに見たギガス達とは違う様だな」
そう、このギガスは違う。その身から感じる小宇宙は自分と同等か――それ以上。
理屈ではなく己の感覚に従いシュラが身構える。
じりじりと狭まる互いの距離。あと一歩、もう半歩で互いの間合いに入る。
そんな場所でアルキュオネウスがその歩みを止めた。
「我が名はアルキュオネウス、我らが王ポルピュリオン様に仕える三神将が一神アルキュオネウス」
先程放った拳撃の様に、アルキュオネウスが右拳を腰だめに構える。
「黄金聖闘士、
対するシュラもまた右腕を掲げ、その手は手刀の型に。
「いざ――」
「――参る」
互いの間合いへと踏み込み、両者は同時に必殺の拳を放った。
「エクス――カリバーー!!」
「“
研ぎ澄まされた刃と鍛え抜かれた穂先。
剣撃と拳撃。
打ち合わされる剣と拳。
互いの視線は相手を射抜かんとばかりに交差する。
まるでそこだけ時間が停まってしまったかの様に、両者は互いの拳を打ち合せたまま微動だにしない。
ブン、と空気を震わせるような音を――シュラの感覚がそれを捉えた。
「――くっ!?」
静寂を苦悶の声が破った。
声の主は――シュラ。
振り下ろした右手――聖剣に、最強の黄金聖衣に亀裂が生じていた。
破損した右腕の聖衣、その亀裂から鮮血が滴り落ちる。
「どうやら私の拳の方が上であったようだな」
拮抗が崩れる。
アルキュオネウスの右腕が霞んだ。
肥大し、輝きを放っていた。それは、まるで光の繭に包まれている様であった。
再びブンッと音が鳴る。
「がはっ!?」
光の繭が弾けた。
打ち合わされた互いの拳を伝わり、波動がシュラの肉体の奥深くにまで浸透する。
抵抗する間もなく、それはまるで撃鉄に撃ち出された弾丸の如く。シュラはその場から文字通り弾き飛ばされていた。
洞窟の壁面へと叩きつけられるシュラ。その身体を覆い尽くすように砕かれた壁面が土砂となって降り注ぐ。
「ぐっ……むぅ……ッ!?」
「さすがは黄金聖衣。
土砂を払いのけて立ち上がろうとしたシュラが、膝を地につけたままその動きを止めた。
「――ヒトの身体であの衝撃を耐え切れはすまい」
その直後、“肉体の内側から爆ぜる様な”衝撃を受けたシュラは、その口から、全身から鮮血を撒き散らす。
「がぁはあッ!?」
「それが神ならぬ脆弱なヒトの器の限界。カタストロフの波動の前では、最硬の黄金聖衣であろうが青銅聖衣であろうが、等しく意味を失うのだ」
そう呟いてアルキュオネウスは踵を返した。
「一度目の波動は聖衣を砕いた。しかし、二度目の波動は違う。聖衣を伝わりお前を内側から破壊したのだ」
背後では、黄金聖衣を自らの血で赤く染めその場に崩れるシュラの姿があるのだろう。それは予測ではなく確信であった。
必殺の拳――
「……?」
数歩進んだところで、アルキュオネウスはその足を止めた。
「何だ?」
違和感があった。
右腕に感じる微かな何か。
「痺れ……か? いや、これは……!?」
カタストロフを放った右腕。エクスカリバーと打ち合った金剛衣の拳に一筋の亀裂が奔っていた。
「私の金剛衣に亀裂が……」
つうと、その亀裂から紅い雫が零れ落ちる。
「あの一撃が、聖剣が私に届いていたと言うのか」
その事実に至った瞬間、アルキュオネウスは背後から巨大な小宇宙が立ち昇る。
アルキュオネウスが振り返れば、そこには全身を赤く染めたシュラの姿。
その身の傷など意に介した様子もなく。瞳に映る闘志には欠片の翳りもなく。全身から立ち昇る小宇宙はただ鮮烈。
両の脚でしっかりと大地を踏み締め、シュラは亀裂の入った聖剣を掲げる。
「……この傷は戒めだ。アルキュオネウス、お前の力を見誤った……このシュラの迂闊、傲慢の、だ」
「……立ち上がった事は賞賛しよう。だが……」
半死半生、手にするのは罅割れた剣。
馬鹿な、と。アルキュオネウスは内心で浮かんだ愚考を振り払う。
目の前の敵から感じる小宇宙は、傷を負って衰えるどころか、むしろより苛烈に熱く燃え上がっている。
「く、くくくっ。ハハハハハ!! そうか、そうであったな! お前たち聖闘士は“そう”だった!! 千年前も、今も、そうして命を賭して神の領域へ踏み込んで来る!!」
右拳を腰だめに構えながら、面白い、とアルキュオネウスは己が高揚している事を感じていた。
「立ち上がってきた以上は無策ではあるまい? ……ならば来いッ! このアルキュオネウスに三度拳を抜かせた事を誉として散るが良いカプリコーンッ!!」
アルキュオネウスの右腕が空を震わせる音と共に光の繭に包まれる。
「“
「“エクスカリバー”!」
神速の踏み込みが互いの距離を零にする。
再びぶつかり合う剣と拳。
決着は一瞬。
砕け散る“
両断される“
「相――」
相打ち。互いの拳が砕けた眼前の光景にそう結論付けようとしたアルキュオネウス。
しかし、まだ終わってはいなかった。
結論に至るにはまだ早かった。
アルキュオネウスの視界に一筋の閃光が奔った。
「な――に!?」
力を見誤った、とシュラは言った。
同じだ。
「聖剣は――折れぬ」
自分もまたこの男を見誤っていたと。“それ”を見てアルキュオネウスは思う。
この男は使い手ではない。この男そのものが――
「このシュラの小宇宙が燃え続ける限り!」
振り上げられたのはカプリコーンの“左腕”。
それはもう一振りの――聖剣。
「エクス……カリバーーーー!!」
振り下ろされた一撃は空を断ち、大地を断ち、金剛衣を断ち。
「聖剣――か。ふ……ふは、ははは……。見、事だシュ……ラ。……お前は……神に勝……」
アルキュオネウスの意識共々その肉体を両断した。
塵と化して崩れていくアルキュオネウス。
その光景を視界の隅に映しながら、シュラが一歩を踏み出し……その場に崩れ落ちる。
「ハァ……ハァ……」
カタストロフによる肉体的なダメージ。それに伴った夥しい出血。
己の全身全霊を込めて放った必殺の剣撃“エクスカリバー”。一撃必殺のそれを連続した事はシュラの小宇宙に著しい消耗を強いていた。
生命の、意思の、全ての根源であり源でもある小宇宙。
それを消耗すると言う事は、己という存在そのものを消耗するに等しい。
「まだ……立ち止まる……訳には……」
朦朧とする意識の中で、どうにかして立ち上がるべく前へと手を伸ばそうとしたシュラであったが、右腕は意に反して動こうとはしない。
(――この程度の事で――)
蝋燭の炎が燃え尽きる様に、シュラの意識は瞬く間に闇の中へと沈んで行った。
第17話
違和感は一瞬であった。
身体にかかる重力と、高熱、そして充満する硫黄の臭い。周囲の景色が一変した事で、海斗は転移を終えた事を理解した。
しかし――
「チッ!」
デルピュネの転移に強引に割り込んだ為か、海斗は自分の身体が猛烈な倦怠感に包まれている事に苛立ちを覚え舌打ちをした。
意識に対して肉体の反応が鈍い。
「小僧ッ!!」
デルピュネのヒステリックな甲高い声が海斗の耳に響く。
肩を掴んでいたはずの手は容易に振りほどかれ、僅かに開いた間合いから鋭い蹴りが繰り出された。
目は、意識はそれを易々と捉えているのに身体が動かない。反応に――追い付かない。
ガッ、と胸部に強い衝撃が響き、海斗の身体は速度を増して落下する。
「ぐっ!?」
蹴り穿たれた聖衣の胸部には亀裂が奔り、海斗はそのまま眼下に映るゴツゴツとした岩肌――洞窟の底へと叩き落とされた。
「あああああああああっ!!」
デルピュネが獣の咆哮の様な叫びを上げて両手を頭上に掲げた。そこから生じた炎が渦を巻いて球状となる。一つ、二つ、三つと大きさの異なる炎球が、更に五つ、六つと数を増し続けてデルピュネの周囲を覆う様に回転を始めた。
炎球はたちまちの内にデルピュネの身体を覆い隠す程の数となり、洞窟を赤々と照らすその姿はまるで小さな太陽であった。
「消え去れ!! 塵一つ残さず燃え尽きよぉおおおおお!!」
冷静さなどどこにもない。半ば錯乱にも近いデルピュネの叫び。自身を太陽と化して眼下の海斗へと迫る。
「――なめるなぁあぁあああああッ!!」
海斗の身体を覆い尽くした土砂から白と青の光が迸る。
咆哮と共に己の小宇宙によって土砂を吹き飛ばした海斗が姿を現し、目前に迫る太陽に対して構えをとった。
両手でエクレウスの四つの星を描くのはエンドセンテンスと同じ。しかし、最後に海斗はその軌跡を崩す様に両の拳を腰だめに構える。
ここに黄金聖闘士がいれば、大地を踏みしめて立つ海斗の姿にアルデバランを見たであろう。
立ち昇る白と青の小宇宙が螺旋を描き一つの色へと変化する。純白のエクレウスの聖衣が黄金の輝きを放つ。
「偽りの太陽如きでエクレウスの翼を――」
風を纏い吹き荒れる小宇宙は海斗の意思に従い流水へと変質し、
「――海龍の身を焼けると思うな」
天駆ける天馬の姿を経て大海の魔獣、幻想の王――海龍の姿となる。
突き出された海斗の両手から、溜め込まれた力が一気に解き放たれた。海龍の咆哮が木霊する。
瀑布の如き爆発的な勢いを持って、大地から天へと向かい起立する水の柱。圧倒的な質量を持った水がデルピュネへと襲い掛かる。
広域へと拡散する“ダイダルウェイブ”をただ一点にのみ集束させる。一点集中。
「“ハイドロプレッシャー”!!」
圧壊する金剛衣。ひしゃげ、砕け散る仮面。
「……永遠が……我の……。あの娘の力と――」
破壊の意思に満たされた小宇宙によって生み出された水。それは規模こそ違えども、神話の時代に神々が地上を破壊するために起こした大洪水のそれであった。
「――う……ぁ……」
ハイドロプレッシャーを消し去った海斗の耳に、か細い声が、呻きが聞こえたのはそのすぐ後の事である。聖衣から黄金の輝きは失われていた。
声の下へと向かえば、そこには無残に横たわるデルピュネであった者の姿。
仮面を失い露わになったのは窪んだ眼窩に剥き出しの歯茎。ひしゃげた鼻に骨と皮。
例えるならば老婆のミイラ。
妖艶な色気も艶に満ちた声も全てが偽り。
「……エキドナ、だったか。あいつとは気配が違い過ぎるからもしや、とは思っていた。
これが、神話の時代より現代まで封じられていたデルピュネの真の姿であった。
「まだ息があるな。ここがどこか、お前の正体は、何て事はどうでもいい。答えろ。セラフィナはどこにいる? 随分と広く大きな洞窟だ、先が見通せない程に深いが……ここから更に奥か?」
膝をつきデルピュネの肩に手を伸ばす。
まるで枯れ枝のようなその軽さに、これが本当に先程まであれ程荒々しい姿を見せていた者かと、海斗はその不気味さに息を飲む。
「……お……れ、ゆ……るさ……」
「……何?」
「……若……を……」
海斗の事を認識しているのか、それとも既に正気を失っているのか。
デルピュネの口から洩れる言葉は酷く断片的で一向に要領を得ない。
時間の無駄か、と海斗が諦めて立ち上がろうとしたその時、死に体であった筈のデルピュネの身体が大きく動いた。何かを掴もうとする様にその手を伸ばす。
「――ッ!?」
半ば反射的に拳を握った海斗であったが、デルピュネの目は海斗の姿を映してはいない。伸ばされた手も何もない宙へと向けられていた。
「口惜しや――」
口から血を吐き出しながら、怨嗟に、呪いに満ちた声でデルピュネが叫んだ。
「――ドルバルッ!!」
そして――
「ガハッ!」
大きく咳込み吐しゃ物を巻き散らすと、伸ばした腕を地に落とし、その動きを止めた。
程なくしてその身体が灰と化して崩れていく。
「……ドルバル? 何の事だ?」
意味は分らなかったが、少なくとも自分に向けられた言葉ではなかった。
呪いの言葉を向けられる、であるならばまだ分るのだが。
「何かの合図か? それにしては何の変化も……」
気にはなったが、その事を海斗がこれ以上考える事はなかった。
「――!? この感じは……あの奥からかすかに……小宇宙を感じた」
海斗の視線の先には先程の戦闘の影響か岩肌が崩れた場所があり、そこからも奥へと続く通路の様な物が見える。
「坑道か? 隠し通路ってわけでもなさそうだな。それなりにでかい洞穴だが、あの巨人どもが複数で動くには狭すぎて廃れた道、ってところか」
岩肌が淡く発光している事もあり、視界に関しての問題はなさそうだった。
どれ程の距離を進んだのか。
数キロか、それとも数十キロか。
どれ程の時間を歩いたのか。
数時間か、それとも数分でしかないのか。
流れる汗をぬぐいながら、代わり映えのしない洞窟内を延々と歩き続ける。
進む程に増す暑さと、奥から感じ取れる小宇宙だけが海斗に前に進めている事を実感させていた。
「この臭いは……やはり硫黄か。それにこの暑さ……。探索中に噴火、って事だけは勘弁してもらいたい……っと!」
時折、洞窟内が震えては天井からパラパラと石片が降り注ぐ。欠片の様な物から人一人分はあろうかという大きさの物まで様々だ。
邪魔になる大きさの物は打ち砕き、周囲の様子に気を配りながら歩みを進める。そうして、やがて大きく開けた場所へと辿り着く。
「……火山洞に地底湖かよ」
周囲の熱気とは正反対の涼を感じさせる巨大な地底湖がそこにあった。
ザバンと大きな音が鳴り響き、湖面に巨大な波紋が浮かぶ。
天井から崩れ落ちた破片が大小様々な波紋を生みだしている。
「……あれは“門”か?」
舞い散る水飛沫の向こうにぽっかりと空いた黒い穴。
丸みを帯びた洞窟の中で、その穴の周囲だけが“切り取られたかの様に”四角い形状をしていた。
小宇宙はその闇の奥から感じ取れる。
「あの奥か」
『――そうだ、あの奥に我らが王のおわすパレスがある』
歩みを進めた海斗の脳裏に響く声。
ぞくりと、背筋に冷たいものを感じて海斗はその場から跳んだ。
「“アクスクラックス”!!」
熱波が海斗の背中に纏わり付き、次いで圧しかかるような圧力が加わった。
「ッ……!!」
ビュオウと風を切り裂く音が聞こえた時には、海斗の身体は衝撃と共に地底湖へと叩き付けられていた。
「~~ッブ――ハッ! ゲホッ、ぐっ……!?」
幸いにも地底湖の水深はそれほど深くなく、腰まで水に浸かりながらも海斗は敵の姿を探す。
すると、先程まで立っていた場所に奇妙な影があった。
それは、蝙蝠の様な翼を広げたギガスであった。
灼熱の炎を纏った大蛇にも似た剣を右手に、悪魔の頭部を思わせる山羊の顔を模した盾を左手に持ち、赤黒い輝きを放つ金剛衣を纏っている。
「オレの名はキマイラ。“合成獣”のキマイラ」
「キマイラ、だと? 神話の化物か。……づぅ!?」
背中から感じる灼熱の痛みに思わず苦痛の声を上げる。
水面には背中の方から赤い色が広がっていた。
振り切られたように構えられたキマイラの右手、そこに握られた剣から滴る赤い雫。海斗は聖衣が切り裂かれた事を、その剣による斬撃を受けたのだと理解する。
『――だが、それを知ったところで無駄な事』
地底湖にキマイラとは違う声が響いた。
「コイツだけじゃない!? どこに――ぐあっ!!」
それまで一切の音も気配も感じさせず。
意識の外から叩きつけられた衝撃に、成す術もなく海斗の身体が吹き飛ばされる。
完全なる不可視の一撃。
重圧により聖衣が軋みを上げ、衝撃に耐え切れずに聖衣のヘッドギアが額から弾け飛ぶ。
海斗の身体は再び地底湖へと叩き付けられていた。
「がはっ!! ――ッ、だが、この程度」
気管に入った水を吐き出しつつも、追撃に備えて直ぐさま身構える。
キマイラの対面、海斗からすれば正面にそのギガスは立っていた。
頭部、胸部、両手足。その全てが魔竜の頭部を模した漆黒の金剛衣を身に纏っている。
その輝きは闇夜に流れる雲のように黒と白が流動していた。
「吾は“百頭龍”のラドン」
「……キマイラにラドンだと? また神話の化物か。それも龍、だと……」
『――あの娘と共に、お前はここで王の贄となる』
新たな声が響く。この声もまた、キマイラともラドンとも違う。
「何度も、何度も……いい加減に――」
身構える海斗の頭上から闇が落ちた。
「ッ!? 上か!!」
闇の正体は巨大な影。
天井から、巨大な顎を開いた三つ首の魔獣が海斗目掛けて迫る。
地底湖に凄まじい水飛沫が上がり、まるで爆発でも起こったかのような轟音が鳴り響き、洞窟内が振動する。
天井からは大小無数の欠片が地底湖へと降り注ぎ、音と飛沫が地底湖を蹂躙する。
「オレの名はオルトロス。“魔双犬”のオルトロスよ!」
地底湖から飛沫を撒き散らしながら魔獣が飛び出す。
魔獣が名乗りを上げる。両肩に獰猛な魔犬の頭部を模した金剛衣を纏ったギガスであった。青い輝きは暗く濁っている。
「忌々しい封印の地なれども、もはやここは我らギガスの領域! 気配を消し去る事など造作もない!!」
顎を開き獲物を睨み付ける。魔獣の顔を思わせるその兜の存在もあって、オルトロスの姿は三つ首の魔獣にしか見えない。
「そして! 我らがいる限り、お前のような虫けらがあの門をくぐる事など叶わぬと思い知れ!」
『――上等だ』
「ぬぅッ!」
オルトロスが天井へと視線を向ければ、そこには一瞬の内に跳躍していた海斗がいた。
「――全員纏めて叩き潰す」
先程とは真逆の状況。
仕掛けるのは海斗、迎え撃つのはオルトロス。
オルトロスは両手を広げ、海斗は空中にあって器用に体勢を変えると右脚に小宇宙を集中する。
互いの視線が真っ向からぶつかり、その刹那、互いに必殺の技を解き放った。
「“レイジングブースト”!!」
放たれた蹴りは、夜空に流れる流星のように光の尾を引いてオルトロスへと。
オルトロスの交差された両手から獰猛な唸りを上げた二頭の魔犬が現れる。
「“サフィロス・エネドラー”!」
魔獣は巨大な顎を開き、涎にまみれた鋭い牙と口腔を剥き出しにして、左右から海斗の身体を喰い千切ろうと襲い掛かる。
交差は一瞬。
「ぐうっ!」
「むおおおおお!?」
弾かれるように吹き飛ぶ海斗とオルトロス。
再び地底湖に轟音と巨大な水飛沫が巻き上がる。
しかし、先に体勢を立て直したのは――オルトロス。
「く、くくっ。多少はやるようだが、非力だな? オレを後退させるのが精一杯か」
オルトロスの視線の先では、海斗がゆっくりと立ち上がろうとしていた。聖衣の左肩と右脚には亀裂が走り、右脚からは少なくない血が流れている。
無傷の己と負傷した海斗。自然とオルトロスの言葉には嘲りが、眼差しには侮蔑が込められていた。
「……そうかな?」
「虚勢を張るな。お前がデルピュネと戦った事は知っているぞ? 小宇宙を消耗し、今またこうして手傷を負ったその身で、オレたち三獣将を相手に出来ると本気で思っているのか?」
そう言ってキマイラがオルトロスの横に立つ。
ラドンもまた無言のままに並び立つ。
「思う? 思っちゃいないさ。思うなんて思考は、意識はいらない。決定事項なんだよ」
額から流れ落ちる血を拭いながら、しかし、海斗の闘志に一切の衰えはない。
ダメージはある。想像していたよりも右脚の裂傷が酷い。
背中の傷も無視出来ない。
長期戦は無理だろうと判断するが、問題はない。元より長期戦などするつもりはないのだから。
海斗の身体から立ち昇る小宇宙に衰えがない事を感じ取り、ラドンがオルトロスの一歩前に進んだ。
キマイラもまた剣と楯を構える。
まさに一色即発。
僅かな動きも見逃すまいと、対峙する者達の間の空気が張り詰める。
――手負いの相手が不満であると言うのならば、わたし達が相手をしよう
洞窟内に響き渡るフルートの音色。
澄んだ音色と共に、力ある声が、ギガスの動きを止める。
「何者だ!」
「お前も――聖闘士か?」
キマイラとラドンの問いに応えるように、洞窟の奥から人影が二つ現れる。
「違う。わたし達は――聖闘士ではない」
それは黄金聖衣とは質の異なる黄金の輝きを放つ鎧を身に纏った闘士であった。
「―――
口元から金色のフルートを離し、ソレントが名乗る。
地中海に於いて、その美しい歌声で船人たちを誘い喰らったとされる神話の魔物セイレーン。
「同じく、海将軍“クリュサオル”のクリシュナ」
海皇ポセイドンの子であるクリュサオル。その名には、黄金の槍を持つ者という意味を持つ。
ソレントに続いて名乗ったのは黄金の鎧を身に纏い、黄金の槍を持った浅黒い肌の男であった。
「……海闘士、それも海将軍が二人だと……」
海斗の驚愕は、新たなる侵入者に驚きを隠せないキマイラ達ギガスの比ではない。
キマイラ達へと向けた構えを崩す事なく、海斗はちらりと背後に現れた海将軍たちの様子を窺った。
先の言葉を額面通りに受け取るならば援軍と呼べる。しかし、本来聖闘士と海闘士は敵同士であり、自分はシードラゴン――カノンと一戦を交えた身。
真意を計りかねない以上、油断など出来るはずもない。
ソレントとクリシュナが一歩一歩近付いて来る。
背後に感じる二人の巨大な小宇宙に海斗の緊張がいやにも高まる。
(――来るか?)
海斗が意識を切り替えようとしたその時、スッと二人は海斗の横を通り過ぎた。
「行きたまえエクレウス」
そして、次いでソレントの口から出た言葉に、海斗は一瞬ここが戦場である事も忘れて呆けてしまう。
「……な、に?」
「ギガスは――」
そんな海斗の様子を気に留める事なく、手にした黄金の槍を振りかざしてクリシュナが口を開く。その切っ先はギガス達へと向けられている。
「ギガスは我らが神ポセイドン様にとっても討ち滅ぼさねばならぬ敵。アテナの聖闘士、邪魔をすると言うのならばお前が手負いの身であってもこのクリシュナ容赦はせん」
「……いや、お前たち、自分の言っている事が分っているのか?」
「心配せずとも……時が来れば我々海闘士と聖闘士は戦う事になる。アテナとポセイドンの意志が相容れぬ以上、それは決定された事。しかし、今はまだその時ではない。それに、私自身無益な戦いは望まない」
そう言ってソレントは手にしたフルートをギガス達へと突き付ける。
「シードラゴンは手出し無用と言ったが、捨て置くわけにはいかない。今、我々が優先すべきは――ギガスの排除と認識している」
海闘士の真意を測りかねる海斗であったが、時間が惜しいのは事実。
「……ソレントにクリシュナと言ったか。借りができたな。お互いの立場上、返せるとは確約しかねるが……覚えておくさ。俺の名は海斗だ」
そう言って自ら名乗り――
「行かせてもらう」
海斗は門へと向かい駆け出した。
「むぅ!? 行かせんぞ!」
その動きを察知したキマイラが飛び出そうとするが、その前にクリシュナが立ち塞がる。
ラドンの前にはソレントが立ち、その行く手を阻む。
海斗の姿が門の奥へと消えた事を確認すると、キマイラがチッと舌打ちをして標的を目の前の海闘士へと切り替えた。
「吾の邪魔をするか。よかろう。聖闘士も海闘士もこの大地に生きる人間。我らの敵である事に変わりない。しかし、この状況、三対二という事を理解しているのか?」
「三体二? フフッ、違うな」
「何だと?」
ソレントの言葉に訝しむラドン。
「~~ッ!? ――オルトロスッ!!」
その耳に、キマイラの驚愕に満ちた声が聞こえた。
「二対二だ。どうやら気付いてはいなかったか。エクレウスとあのギガスが繰り出した技は相打ちではない」
ソレントが告げる言葉の正しさを証明するように、ラドンの向けた視線の先ではオルトロスの纏った金剛衣に無数の亀裂が奔り――瞬く間に四散する。
悲鳴すら上げる事なく、全身から血を吹き出してオルトロスは地底湖へとその身を沈めた。
「鋭過ぎる一撃は、斬られた事すら気付かせぬと言うが。あのギガスは既に破壊されていたのだ」
(なるほど。こうして実際に見た事で理解出来た。シードラゴンがあれ程までに危険視した理由が分る。恐るべき聖闘士。だからこそ、次に会う時は同胞として会いたいものだが……)
内心に浮かぶその想いを押し止め、ソレントはラドンへと向き直った。
クリシュナも手にした黄金の槍を構え直してキマイラと対峙する。
「さあ、始めよう。そして終わらせよう。ギガスよ、お前達のその魂、再び冥府の底へと送り返そう。この一時を魂に刻み込み――永劫に眠れ」
太陽の、光が届かぬ地の底にあって、妖しい光に灯されたパレスの最深部。
円形に形取られたその広間はまるで古代の闘技場を思わせる。
その闘技場の、例えるならば支配者の座す場所。
全てが見渡せるその場所に――王がいた。
巨大な岩石をそのまま加工して創り上げた玉座。形容するならばそうなる。
そこに腰掛けるのは煌びやかな装飾が施された外套を纏ったギガスの王ポルピュリオン。
外套越しにも分る屈強な体躯。ぎょろりと見開かれた瞳、炎のように逆立った髪、無造作に蓄えられた髭。
その容貌は、伝承に伝えられる巨人族そのものであった。
「ふむ。アルキュオネウスが敗れデルピュネも逝ったか。僅かの間に随分と多くの鼠が紛れ込んだものよ」
そう言って、ポルピュリオンは手にしたグラスを傾ける。
透き通る程に磨かれたグラスにはポルピュリオンの側に立つ人影が映り込んでいた。
「これはまた異な事を仰られたものだ。紛れ込むもなにも、元より迎え入れるつもりであったのでしょうに」
ポルピュリオンの横に控えていた純白の外套を身に纏った男が、グラスに紅い液体を注ぎ入れる。
それは穏やかな物腰と、僅かな動きにすら優雅さを感じさせる美しい男であった。
細身の身体、真っ直ぐで長い黒髪、色白にも見える肌は隣に座るポルピュリオンとの対比もあり、あまりにもギガスらしからぬ存在である。
「フッ。聡いな、お前は」
「――では、そろそろわたしが出向きましょう」
「随分と楽しそうではないかトアス」
「……分りますか?」
「分らいでか。だが、どうやら相手は黄金聖闘士ではないぞ」
「構いませんよ。『聖衣の優劣が強さの全てではない』と、かつて我等と戦ったアテナの聖闘士がそう言っていたではありませんか」
「そうか。そうであったな」
「何を身に纏おうとも強者は強者。それに、この千年、わたしが焦がれた相手でもあります」
トアスは手にした水差しをテーブルに置き、柔らかな笑みを浮かべながらそう言うと、ポルピュリオンの前へと進む。
その場に片膝をつき、頭を下げて告げた。
「全ては――我らが“王”の御心のままに」
「期待しているぞ“迅雷”のトアス。我が右手。最強の神将よ」
「ハッ」
外套を翻して立ち上がるトアス。
その身に纏われた金剛衣が露わになる。まるで孔雀の羽根を思わせる様な優雅な装飾が施され、曲線を多用されたそのフォルムは聖衣に近い。
ポルピュリオンに恭しく一礼したトアスは踵を返して歩き始める。
己が待ち焦がれた戦場へと。
頬杖をつきながら、去り行くトアスをしばし眺めていたポルピュリオン。
そうして暫く、その背中が見えなくなったところでゆっくりと口を開いた。
「そう、実に多くの鼠が紛れ込んだ。それは聖闘士や海闘士の事だけではない。お前の事でもある。なあ――ドルバルよ」
「……これはこれは」
玉座の背後からゆらりと影が蠢き実体を伴う闇となった。
闇は、ぼろ布の様なローブで全身を包み込んだ男であった。
目深にかぶったフードによってその容貌を窺い知る事は出来ない。
ただ、僅かに窺える口元には笑みを浮かべている。
ドルバル――それがこの男の名であった。
「上手くデルピュネを唆したものだ」
「肉体と魂を切り離されて冥府へと封じられた貴方がたとは違ったのです。デルピュネが封じられたのは魂のみであり、その肉体は時の流れと共に無残にも老いていた。女としては……耐えられなかったのでしょうな」
「老い、か。若さに執着する、その感覚は我には分らんな。それにしてもソーマにアンブロジア等と、よくも言ったものだ」
クククッと喉を鳴らして笑うポルピュリオン。
「目論見通りか? おかげで我らギガスと聖闘士は消耗したぞ? 我らを討つなら今が好機だ」
可笑しそうに、愉しそうに笑う。
「喰えん男よな。フッ、アスガルドだけでは満足出来ぬか」
「……さて」
ドルバルはそれ以上を語らない。
口元に笑みを浮かべたまま、じっとその場に立つのみ。
「アテナに施された我らの封印。時を経て効力が弱まっていたとはいえ、それを解いた事には感謝しよう。その礼に戦えと望むのであれば言われずとも戦おう。
だが、覚えておくがよい。我らギガスにとってこの地上の我ら以外の全ては討ち滅ぼすべき敵よ。その事を、ゆめゆめ忘れるなドルバル」
「結構。その時には……“我ら”アスガルドの
その言葉を最後に、ポルピュリオンの背後から、この間からドルバルの気配が消えた。
「フン。我ら、か。我が、の間違いであろうに」
そう呟いたポルピュリオンは、グラスに残った紅い雫を飲み干して玉座から立ち上がる。
投げ捨てられたグラスが音を立てて砕け散ったが、それを気にした様子もなく、ポルピュリオンが闘技場の中央――広間へと向かいゆっくりと歩を進める。
そこには岩で造られた祭壇があり、まるで咎人の様に手足を漆黒の鎖によって拘束されたセラフィナが、一糸纏わぬ姿で括り付けられていた。
意識はない。しかし、微かに上下する胸がセラフィナの生を伝えている。
それを一瞥すると、ポルピュリオンはその視線を祭壇の下の血溜まりに、そこに倒れる少女――エキドナへと向けた。
金剛衣は無残に砕け、仮面は真っ二つに割れて転がっていた。
海斗の想像していた通り、デルピュネとは異なりエキドナは人間であった。仮面の下にあった素顔は東洋人風の少女のもの。
しかし、美しいと形容出来たその素顔も今は血に赤く染まっている。
ポルピュリオンは無言のままエキドナの左腕を掴み上げると、真紅のルビーが填められた腕輪を力任せに引き剥がした。
「う……あっ……」
その痛みで意識が戻ったのか、エキドナの口から苦悶の声が上がったがポルピュリオンは意に介さず、そのままエキドナであった少女の身体を投げ捨てる。
「あ、がっ」
祭壇に叩き付けられた少女は、セラフィナの身体に覆い被さるようにして力無く崩れ落ちた。
「聖闘士の資質を持った者をエキドナの器とした。それは良い。しかし、その者にこのルビーを与えていたとは。ドルバルめ、下らぬ事を考える」
エキドナは――その名を与えられたのは人間の少女であった。
ドルバルによって偽りの記憶を与えられた少女は己をギガスと信じて行動していた。
綻びはジャミールの地で生じ、そして、幸か不幸かこの場で少女はアテナの聖闘士として覚醒を果たした。
聖闘士とギガス。両者が対峙して行われる事は一つしかない。
「……無謀にも我に挑んで見せた蛮勇は好ましいが、如何せん実力が伴わぬ。聖衣の無い聖闘士に何が出来るものか。いや、コレすらもドルバルの仕込みか」
そこでふと、ポルピュリオンは彼らしからぬ愚にもつかぬ事を考えた。
「神話の時代、我と対峙した聖闘士が言っていたな。聖闘士はその魂に星座の定めを刻み込んでいる、と。セイカと言ったか。この娘の定めがこうして傀儡と化した果てで朽ちる事であるならば――哀れよな」
手にした腕輪から真紅のルビーを外したポルピュリオンは、それをセラフィナの胸へと押し当てた。
途端にルビーから赤い闇――そうとしか形容の出来ない何かが溢れ出し、セラフィナの周囲を覆い尽くすように広がり始める。
「ク、クククッ。フハハハハハハハハ――」
赤い闇が、セラフィナだけではなく、倒れた少女や哄笑を上げるポルピュリオンにも迫る。
「いま暫くの御辛抱を。間もなく全ての準備が整います」
全てが赤い闇に呑み込まれる中、ポルピュリオンの声だけが広間に響き渡った。
「全ては我らが――“王”のために!」