聖闘士星矢~ANOTHER DIMENSION海龍戦記~改訂版   作:水晶◆

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間章1話 少年と少女の巻

 春が過ぎ、夏が終わり、そして秋が訪れる。

 移ろい行く季節に変わるものと変わらぬものがある中、聖域では大きな変化が起こっていた。

 

 教皇が自らをアーレス――ゼウスとヘラの間に生まれた軍神の名を名乗り、聖域の内務を取り仕切る者達の人事を一新したのである。

 女神アテナとは対極の位置にある戦神の名を教皇自らが名乗る事は、聖闘士の存在をアテナに代わり“戦う者”であるとより意識させる為であり、戦士たちへの“恐怖”と“敗走”、“戦死”と“混乱”の全てを教皇自らが背負う、との意志の表れであると。

 旧来から続く人事の一新は、半年前に起こったギガス達による聖域への襲撃事件を教訓として、また迫りつつある聖戦への備えとして、何者にも脅かされぬ強固な聖域を構築するためのものであると、関係者には説明されていた。

 地上の平和を護るアテナの聖闘士。その姿勢もあって、どちらかと言えば守勢よりであった聖域の方針から一転しての攻勢に重きを置いた、アテナの意志とは思えぬこの流れに異を唱える者は少なくはなかったが、ギガントマキアの脅威が残した目に見えぬ傷跡は深く、これまでの教皇への絶対的な信頼感も相まって、結果としてより多くの賛同を持って受け入れられる事となった。

 この流れに異を唱えた者の中には人知れず聖域から姿を消した者もいれば、口を閉ざした者もいた。聖域から距離を置く者もいれば、教皇に対して反意を抱く者も出始める。

 

 教皇アーレスの下、聖域は新たな歴史を、道を歩み始めようとしていた。その内に、澱みを抱えたままに。

 

 

 

 

 

 聖闘士星矢~ANOTHER DIMENSION海龍戦記~

 

 

 

 

 

 聖域十二宮。

 その第十一番目の宮である宝瓶宮。その離れに、現在に至るまで代々の水瓶座の黄金聖闘士に受け継がれている書庫が存在している。

 そこに収められている蔵書の多くは、代々の水瓶座の私的な、言わば趣味によって集められた物が大半を占めていた。

 従って、そこに訪れる者があるとするのならば、それは現代の書庫の主であるカミュか、彼に用のある者か、はたまた彼の同好の士であるか、である。

 

「人として降臨したアテナの世話をするのは同じである女性でなければ、とかなんとか。簡単に言えばアテナの護衛兼側仕え。専属の侍女って事だ」

 

「ふむ。役目は理解できる。が、わざわざ名を付けて区別する必要があるとも思えないのだが?」

 

聖闘少女(セインティア)な。俺に言うなよ」

 

 例外としては、こうしてカミュによって呼び出された海斗の様な者が挙げられる。

 カンテラのガラスの中で小さく揺れる炎に照らされた薄暗い室内には、隅にある机に腰掛けながら手にした本をパラパラと捲っている海斗と、脚立に乗り蔵書の整理をしているカミュの姿があった。

 海斗は紺のジャケットのジーンズといったラフな格好をしており、カミュは黒のスーツに身を包んでいる。

 当然ながら、二人のこの姿は聖域の、少なくとも十二宮にあって相応しい姿では無い。これは、カミュが“外”から聖域に戻って来たばかりであった事と、これから海斗が“外”へと出る為である。

 

「昔にも、確かにそういう立場の女性聖闘士は居たけどな。今の女性聖闘士みたいに、素顔を隠すマスクは必ずしも着けてはいなかったよ。確か、アレは元を辿れば双魚宮周辺の香気対策だったはずだしな」

 

 十二宮最後の宮である双魚宮。その周辺には魔宮薔薇(デモンローズ)と呼ばれる薔薇が敷き詰められている。花粉や棘に五感を麻痺させ、最悪死に至らしめる強力な毒を秘めた薔薇である。

 

「ま、それはともかく。助祭連中の言い分は、女神とはいえ血肉を持った一人の女性、子供だからと言ってその身の回りの世話を男がするのはどうか、ってさ。そのセインティアを見出してアテナの御側に、って声が高まって来ているらしい」

 

「十年近く経ってから論ずる事でもあるまい」

 

「この時代は女性聖闘士やその候補生が多いからな。そっちに回せる余裕があると思っているんだろう? 根っこにあるのは、連中のイオニア爺さんへの当て付けだろうが」

 

「老か。確かにアテナは我々聖闘士にとって何者にも代え難い尊ぶべき存在ではあるが、あの御仁は少々それが過ぎるきらいがあるからな。先日は修練に熱が入り過ぎ、命を落とし掛けた者がいるとも聞いた」

 

「珍しい事じゃないはずなんだが。過剰にな、やり過ぎだって事で謹慎扱いになった。これで政務において旧来の、古参の人間は居なくなった。でも、今朝方に戻ったばかりなのによく知っていたな? 表沙汰にはしないように、ってな流れになっていたはずなんだが。これが意図的なモノだとすれば……ああ、それでニコルの機嫌が悪かったのか」

 

「アレの機嫌が悪いのはそれだけではなかろうに」

 

「さてね。それで、本題は? まさか世間話をするためだけに呼んだわけじゃないんだろう?」

 

 そう言って、海斗は腰掛けていた机から立ち上がる。

 手にした本を閉じると、カミュへと向けて放り投げた。

 丁寧に扱え、と言ってカミュがそれを受け取り、そのまま書庫へと収めると脚立を下りて海斗へと向かい合う。

 

「……ここ最近の聖域の変化をお前はどう思う?」

 

「それを俺に聞くのか?」

 

「教皇のなされている事に異を唱えるつもりは無い。あの方がアテナの、聖域の、この地上の平和を常々考えておられる事は十二分に承知している。しかし、どうにも違和感がある。上手く表現は出来ないが、焦りの様な、そんな何かを感じるのだ」

 

 淡々と紡がれる言葉に対し、カミュの目は鋭い。

 その問い掛けに適当に答えようとしていた海斗であったが、その雰囲気に姿勢を正す。

 

「政治の事は分らない、それを前提にしてだぞ? 俺は今の流れを否定はしない。戦力の底上げは必要だ。一から十まで黄金聖闘士が対応すりゃあ良いってもんでもない。同時多発的に問題が起きたら、それで詰みだ。ギガスの一件にしたって、あれはある意味運が良かった。ここに黄金聖闘士の半数が揃っていたんだからな。冥闘士の動きもハッキリしない現状では、護るにしても、攻めるにしても――力は必要だ」

 

「……そうか。ならばこそ、一刻も早くお探しせねばならんな」

 

 目を伏してカミュが呟く。その言葉には力が込められていた。

 

「十一年前、この地から勾引され姿を消した――」

 

 それは、自らをアーレスと名乗った教皇より、ごく一部の人間にのみ告げられた事実。

 

「――女神アテナを」

 

 この聖域に“アテナは存在していなかった”という真実であった。

 

 

 

 

 

 間章1話

 

 

 

 

 

 沈みゆく夕日が東京の街を赤く染める。

 日に日に早くなる日没が、この国の人々に冬の到来が近付いている事を教えている。

 乱立するビルの隙間を埋め尽す様に流れる人の波は、夜の闇が迫ろうともその勢いを衰えさせる事は無い。

 むしろ、闇こそが街から放たれる光をより鮮明なものとしており、空へ空へと押し返されていた。

 そして、闇を寄せられた空は、夜空に浮かぶべき星々の輝きは、眩し過ぎる地上の灯りと人の営みが生み出した科学の霧によるカーテン(大気汚染)によって掻き消され、その輝きの残滓を僅かに地上に落とすのみであった。

 

 そんな僅かな輝きが、ビルとビルの隙間をぬって、光の中にあって闇に閉ざされた場所――路地裏の一角を照らしていた。

 その光に照らされて浮かび上がる人影がある。それは少年の影であった。

 

「あの時までは何とも思わなかった光景。今では、それがこうもおかしいと感じる。あっちの生活に染まり切っちまったんだな」

 

 星の見えない夜空を眺めながら少年が呟いた。

 染めているのであろう。星の輝きに照らされた所々黒色の見える紫がかった銀色の髪は後ろへと伸ばされ、羽織られたカーディガンの内から覗く大きく胸元を開いたシャツや、黒いズボン、身に着けられた幾つものシルバーアクセサリーの存在が、少年にどこか近寄りがたい、有体に言えば悪ガキ的な印象を与えている。

 

「で、お前らさ~~、随分と手慣れた様子だったよな? いっつもやってんのか、こんな事?」

 

 これ見よがしに、やれやれと肩を竦める少年の足下から呻き声を上げる者たちがいた。

 皆、銀色の髪の少年よりも幾つか年上に見える。黒色の学生服を思い思いに着崩した十代後半の少年たちである。

 

「う、うう……な、何なんだよテメエは……」

 

「……こっちは七人だったんだぞッ!? つ、強過ぎる……」

 

「ば、バケモノかよ……ッ」

 

 学生服の少年たちにとって、切欠は些細な、いつも通りの事であった。

 金を持ってそうな相手を見つくろい、肩がぶつかったと難癖を付け、街角の人目のつかぬ場所に連れて行き恐喝する。

 抵抗すれば、いや、抵抗しなくても暴力を振るい、許しを請う姿を見て悦に浸る。相手が女性であれば、彼らが主催する“パーティ”へと連れて行き楽しむのだ。

 これまでもそうしてきた。だから、彼らはこれからもそうするつもりであった。

 この時までは。

 

「ま、お前らから見たらそうなんだろうな。正直な、やり過ぎたかとも思ったが、どーにも、そーゆーコトは気にしなくてもいいみたいだな。知ってるか? 因果応報ってな」

 

 涼やかな視線のままに、銀髪の少年がそう言って一歩前へと進む。すると、それを見た学生服の少年たちが必死の形相を浮かべて後ずさる。

 その中でただ一人、体格のいい深く剃り込みを入れたリーゼントの少年を除いて。

 

「で、そこのこっちに尻を向けてるトサカちゃん? ポケットから出そうとしている、その光ってるモンはそのまま仕舞っときな。喧嘩じゃ済まなくなるぜ?」

 

「う、うるせエーんだヨ!! こ、これ以上ヨソモンにコケにされたままで、この秋田集英高の藻部がイモ引けるわけねーだろーがッ!!」

 

 倒れていた少年達のリーダ格であろう藻部と名乗った少年が立ち上がる。

 その手には刃渡り十センチ程の折り畳たたみ式のナイフが握られていた。

 

「やってやる! やってやるよ、舐めやがって……ッ!!」

 

 ギラリと冷たい輝きを放つナイフに反して、それを手にした少年は顔色を紅潮させ、荒く吐かれる吐息からもかなりの興奮上状態である事が窺える。

 

「ちょ、も、藻部さん! や、ヤバいよ……」

 

「そ、そうだぜ! こんなところ、もしもサツに見られたら……」

 

 銀色の髪の少年は知らない事であったが、“秋田集英高校の藻部”と言えば、この界隈では知らぬ者がいないワルとされ、同年代の少年少女たちから恐れられている。

 気にくわない者は暴力で黙らせ、自分のやりたい事をやりたいように好き勝手やってきた。そんな少年であったからこそ、自分を圧倒し、今目の前で取り出したナイフを見せてもなお怯まぬ、いや、憐れみにも似た視線を向ける相手の存在が認められず、許せず。

 

「うるせぇーーんだよ! この役立たず共がッ!!」

 

 恐怖と屈辱、羞恥と怒りを全て攻撃する意思へと転化させた。己のちっぽけな矜持を護る為に。

 片手で持っていたナイフを両手で握りしめ、相撲で言うところのぶちかましの様に突進した。

 相手が怪我をする、下手をすれば死ぬかもしれない。そんな考慮は一切無い。

 

「野郎、ぶっ殺してやるぜぇーーッ!!」

 

「ヒッ!? やべぇよ藻部さんキレちまってる!!」

 

「止めろ藻部さん! オレらは年少なんかにゃ行きたくねーんだ!! おい銀髪! 早く逃げろッ!!」

 

 路地裏に叫びが響く。

 ナイフを握り締めた藻部の巨体が銀髪の少年と重なり、この後に訪れる光景に、未来を想像し、学生服の少年たちが絶望した。

 声の無い路地裏に静寂が訪れる。

 それは一分か、十分か、それとも数秒であったのか。

 

 力を失くした様に、ずるりと、藻部の身体が地に倒れる。

 

「……阿呆が」

 

 それを見下す銀髪の少年。その右手、その指先――人差し指と中指に間には藻部が握っていたはずのナイフが挟まれていた。

 一体いつ、どうやって?

 何が起きたのか理解出来ぬままに呆然とする学生服の少年たち。

 その刃が、パキンと音を立てて砕ける。

 砕け散った破片はキラキラと輝きながら、口から泡を吹き、白目をむいている藻部の身体に降り注がれていた。

 

「オイ、お前ら。とっととコイツを――」

 

「……う……」

 

「ば、化物だぁああーーッ!!」

 

 蜘蛛の子を散らすと言う言葉がある。

 銀髪の少年が言葉を終えるよりも早く、学生服の少年たちは――逃げ出していた。

 狭い路地を押し退け合い、我先にと進む彼らには周りなど見えてはいない。あるのはただ恐怖のみ。

 

「――連れて行ってやれ、って。オイオイ、薄情な奴ら」

 

 そうして、薄暗い路地裏に残されたのは銀髪の少年と倒れた藻部のみとなった。

 

「キミ人望無いのな」

 

 空を流れる雲によって星の輝きが覆われる。

 空を見上げ、そこで伸びてきた前髪に染め残しを見付けながら、ふと、この街で、こうして星の見えにくい夜空を眺める奴がどれほどいるのかと、少年は思う。

 

「いや、アイツなら見ているか。星座やそれにまつわる話が好きだったからな」

 

 少年が思い浮かべたのは一人の少女の面影であった。

 短い期間ではあったが、共に過ごした妹の様な存在を。

 

 

 

 そんな風に少年が懐かしい過去へ想いを馳せていた為であったのか。

 その時、彼にしてみれば失態とも言えるミスを犯していた事に気付けなかった。

 

「あ、あの!」

 

 セーラー服を着た少女が接近していた事を。

 

「ッ!?」

 

 自分に向けて掛けられた声で、少年はそれに気付く。

 気配に気付けなかったという驚愕と、四年に渡る過酷な訓練により培われた技術が、無意識の内に少年の在り方を攻性なものへと変化させ――

 

(いかん! 待て!! 違う、彼女は――)

 

 初めに藻部たちに因縁を付けられたのはこの少年ではなく、二人組の少女であった。

 嫌がる彼女らに難癖を付けていたところにたまたま少年が遭遇し、藻部たちの標的を少女たちから自分へと向けさせたのだ。

 

(さっきの子らの方割れか! オレは早く家に帰れと言ったぞ!!)

 

 振り向いた少年が少女の存在を認識したその瞬間、既に握られた拳は打ち出される寸前であり――

 

「~~ッッ!?」

 

 少年は全身全霊、全力で肉体の動きを制止するも、拳は放たれ――

 

「ありがとうございました!」

 

 九十度近いお辞儀を見せた少女の頭上を素通りした。

 

「警察の人を呼ぼうって探していても見つからないし周りの人に声をかけても誰も聞いてくれないしどうしようと思っていいたらさっきの人達が路地裏から走って行くのを見てもしかしたらって――って、あの、大丈夫ですか?」

 

 肩の高さで切り揃えられた黒髪、くりっとした大きな瞳の、どこか幼さを残したそばかすのある少女であった。

 彼女に上目遣いで見つめられた少年は、誰がどうみてもおかしいと思える程に息を乱し、額に汗を浮かべている。

 

「は、ははっ、ハハハハ。いや、何でもない、何でもない。大丈夫ダイジョーブ!」

 

 それは少年をして近年稀にみる全力を発揮した結果であった。

 仮に、あのまま突き出された拳が少女に当たっていても軽く小突く程度の衝撃で済んだであろうとは分っていたが、心配し、お礼を言いに来た相手に対してするべき行動では決してない。

 

「そ、そんな事より。君は大丈夫か? 怪我は無いか? 痛い所は?」

 

 人間心にやましい事があると饒舌になると言うが、この時の少年はまさにそれであった。

 もっとも、少年の内情など知り得ない少女に分るはずもなく。

 

(見た目は怖い感じなのにやっぱりいい人なんだな)

 

 という感情を抱かれていた事を少年は知らない。

 

「ま、ともかくだ。さっきも言ったが早く帰った方がいい。また変な奴等に絡まれるのもイヤだろう? それに――」

 

 少年が親指を立てて路地の向こう、通りへと指を向ける。

 

「お迎えが来たみたいだぜ」

 

 少女がそちらを向けば、こちらへと向かい駆けて来る人影が見える。

 

「瑠衣~ッ!」

 

 ポニーテールを揺らしながら自分の名を呼び向かって来る親友の姿に「あ、明菜の事忘れてた」と少女が呟いた。

 少年は聞こえないふりをして未だ意識を失ったままの藻部へと手を伸ばす。

 

「交番の前に放り出しとくのさ。叩けばボロボロと、余罪もあるだろうしな」

 

 瑠衣と呼ばれた少女が向けた、問い掛ける様な視線に少年が答えると、彼よりも一回り大きな藻部の身体を軽々と担いで見せる。

 その光景をぽかんとして眺める少女に笑みを返し「じゃあな」と言って少年が踵を返す。

 

「あの! 待って下さい!!」

 

 足早に立ち去ろうとする少年の背に少女の声が届いたのであろう。少年が足を止めた。

 

「本当にありがとうございました。わたしは秋田集英高校一年の火場瑠衣(ひばるい)と言います」

 

 足を止めるんじゃなかった。少女の期待に満ちた目を見て少年が後悔する。

 そもそも呼び止めたのが男であれば、足を止める事すら無かったと言い切る自信が少年にはある。

 

「……あ~」

 

 名乗り返す必要は無いが、ここで名乗らない理由も無い。

 このまま名乗らずに早々に立ち去る。それがベストだとは分っている。

 

(……そんな餌を与えられた子犬の様な目でオレを見ないでくれッ!)

 

 しかし、そうすればこの少女はおそらく悲しむのであろう。

 僅かなやり取りではあったが、少年はこの少女が自分のこれまでの生活の中で縁の無かった“良い子”であると理解出来ただけに心苦しく感じてしまう。

 少年が少女の肩越しに視線を奥へと向ける。彼女の友人は間もなくここに到着する。

 

「……ハァ……」

 

 少年は溜息を吐くと、藻部を抱えたままその空いた手でがしがしと頭を掻き、短く、しかしはっきりと名乗った。

 

(メイ)だ。苗字は無い。ただの――盟だ」

 

 

 

 

 

 歩行者用の信号が赤から青に代わり、僅かに途切れていた人の波が一斉に動き出す。

 秋の夜風は肌寒さを感じる程に冷たい。しかし、人混みが生み出す熱気と喧騒に巻き込まれた盟は眉を顰めて不快感を露わにしていた。

 その雰囲気に当てられたのか、自然と盟の周りから人が離れる。誰もが無意識に盟を避けていたのだが、本人はさほども気にはしていない。

 今の盟は袖口を折り返した黒い学生服を羽織っていた。

 丈が合っていないのはこれが藻部の着ていた学生服であった為だ。本来の持主は駅前の交差点近くにあった交番の前に置いて来ている。

 

「しっかし、相変わらず師匠の手紙はワケが分らん」

 

 ズボンのポケットから取り出した一通の便箋。折れてくしゃくしゃになったそれに盟は何度となく目を通す。

 

「女神を探せってなどーゆーこった? しかも日本で? 女神ってなアテナの事か? 聖域に居るんだから違うよな。だったら何だ? 誰の事だ? 代名詞じゃなくて名詞をくれ、名詞を!!」

 

 自分で考えろ馬鹿が。盟の脳裏にゴミを見る様な目でそう言い切る師の姿が思い浮かぶ。

 四年間師事を受けた相手だ。盟は自分の想像に確信にも似た思いを持っていた。蟹座(キャンサー)のデスマスク。それが盟の師の名前である。

 盟は、この少年も海斗たちと同じく城戸光政によって集められ、聖闘士となるべく送り出された百人の孤児の一人であった。

 

「それでコイツはコイツで……ッ」

 

 盟がポケットからもう一通の便箋を取り出し広げて見た。

 

「手伝え、ってなんじゃそりゃ!! これだけか!? 何がだ! 何をだ!! 人とまともにやり取りをする気はあるのかあの野郎は!!」

 

 盟の言う通り、そこにはただ一言、日本語でそう書かれていた。余白をたっぷりと残した便箋のど真ん中に。ミミズが這った様な字で。

 そのくせに、差出人の名前だけは達筆なところに悪意を感じる。

 

「海斗め。幼馴染みだろうが四年振りだろうが知った事か。会ったら一発殴ってやる」

 

 そう呟く盟の表情には、しかし、笑みが浮かんでいた。

 横断歩道を歩く盟の周りには、いつしか何事も無かったかの様に人が集まる。

 やがて、盟の姿は道行く人々の流れの中に消えて行った。


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