聖闘士星矢~ANOTHER DIMENSION 海龍戦記~改訂版 作:水晶◆
1986年8月31日――ギリシア。
04:20――聖域教皇の間。
宮を支える円柱の配列に沿って並べられた燭台。
そこに灯されたほのかな明りが陽の光に遮られた教皇の間を淡く照らす。
中央に敷かれた紅の絨毯は、数段の段差を経てその先にある教皇の椅子の元まで真っ直ぐに伸びている。
不意に、燭台に灯された炎がゆらりと揺れた。
ジッ、と。灯りに吸い寄せられた小さな羽虫が炎に焼かれる。
周囲に他者の気配はなく、しんと、静寂が支配する教皇の間。
そこには、ただ静かに椅子に座り瞑目する教皇の存在だけがある。
ゆらりゆらりと揺れ動く炎が、教皇のマスクに陰影を与え、あるはずのない幾つもの表情を浮かび上がらせていた。
それは慈愛であり、憤怒であり、歓喜であり、諦観であり、悔恨であり、焦燥のようにも見える。
どれほどの時が経ったのか。
「……戻ったか」
教皇――サガの声だけが静かに響く。反応はない。
「――ああ、些事に過ぎん。やらせておけば良い」
そう言って椅子から立ち上がったサガは、身に纏った法衣を翻すと教皇の間の奥、アテナ神殿へと歩みを進める。
「最早猶予は無い。おそらく、これがお前に伝えられる最後の言葉となるだろう」
カチャリ、と。留め具の外れる音が響く。
サガは歩みを止めぬまま、ゆっくりとした動作で教皇のマスクに手をかける。
まるで、そこにいるであろう何者かに見せ付けるかのようにその素顔を晒した。
閉じられていたサガの目が開かれる。
「地上を、アテナを――」
ゆらりと、灯火が揺れる。
青い目が闇を映し、炎を映し――
――赤く染まっていた。
第25話
1986年8月31日――ギリシア。
09:37――聖域第三闘技場。
ペガサスの青銅聖闘士を決めるべく行われた候補生同士の戦い。
この日、長年にわたる因縁の決着を、勝者を決めるべく行われた星矢とカシオスの決戦。それは、その場に居合わせた誰もが予想だにしなかった展開を迎えていた。
「ぬぅおおおっ!」
気迫の声とともに放たれるカシオスの拳が空を引き裂き。
「おおおおおおおっ!!」
繰り出された星矢の蹴りが大地を割る。
互いに決定的な一撃を与えられぬまま繰り広げられる拳と拳、蹴りと蹴りの交差。
カシオス有利と思われていた戦いは五分と五分。
星矢の惨敗とされていた下馬評を覆す健闘であった。
「……す、すごいな」
「ああ。二人とも、繰り出す拳にも蹴りにも見事なほどに気と力が集中している」
「カシオスもセイヤも正しく聖闘士の闘法を会得しているという事か!!」
観戦していた兵たちの、候補生たちの口から洩れる感嘆の声。
東洋人、日本人であるが故に付き纏っていた星矢への蔑視も、その成長を、資質を疑問視していた声も、この結果を前に完全になりを潜めていた。
「ぐむぅぅうう。まさか、星矢がこれ程の成長を果たしていたとは。ヤツの言う通り、あの時の一撃は……偶然ではなかったと言うのか?」
胸元を押さえて呟かれたドクラテスの言葉も、試合に集中していた周囲の者たちの耳には届いてはいなかった。
聖闘士の闘法、その神髄とは、突き詰めれば“いかに小宇宙を高めることが出来るか”に収束する。
その境地に至れば体格差や肉体的なパワーなど意味を成さない。
とはいえ、あくまでもそれは真髄を極めた者、いわゆる黄金聖闘士級の者たちにとっての事である。
現時点での星矢とカシオスには当てはまらない。故に、二人には戦闘のスタイルとしてその差が大きく表れていた。
身長二百センチを超える巨漢であるカシオスは耐久力と一撃の重さで星矢に勝り、同年代の少年よりも若干小柄な星矢はそのスピードでカシオスに勝る。
「やるな星矢ぁああ!」
カシオスが吼え――
「言っただろ? 他人の心配よりも自分の心配をしろってな! これまでの六年間の借りをここで返すぜカシオス!!」
――負けじと星矢が叫ぶ。
「そうだ、全力だ! 全力で来い星矢! お前を倒し、オレはオレの強さを証明する! そして! オレはあの人の――」
――シャイナさんの隣に立つ権利を手に入れる!!
「オレは勝つ! 勝って聖衣を手に入れる!!」
――そして日本へ戻り姉さんに会うんだ!!
二人の声なき叫びが、思いが込められた拳がお互いを打つ。
戦いはまだ始まったばかりであった。
強いて理由を挙げるならば“何となく”であった。なんとなく、そこに行った方が良い気がした。勘だ。
後始末をニコルに丸投げし、怒るユーリから逃げるため、という理由もなくはない。
とにかく、海斗が闘技場に向かった理由と言えばその程度のことであった。
確かに、星矢とカシオスという数少ない知人同士の試合であるから興味がない訳でもなかったが、何か些細な用事でもあればそちらを優先していた事だろう。
勝敗はともかく、海斗にはペガサスの聖衣が誰を選ぶのかはもう分っていたからだ。
しかし、勘が外れたか、と。
闘技場の隅から共に試合を見ている相手――シャイナを横目に、気付かれないように溜息を一つ。
「あの時、星矢の小宇宙にペガサスを見た。おそらくは対峙していたドクラテスにも、だ。カシオスには悪いが、結果がどうあれ聖衣は――星矢を選ぶ」
「そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれない。勝負はまだ着いちゃいないんだ。そうやって、悟ったような事を言うから嫌いなんだよアンタの事が」
「お前がこの勝負をどう見る、って……しつこく聞くから答えたんだろうが。だから言いたくなかったってのに」
「ハン、言い訳とは男らしくないね海斗」
「……この女は……。ああ言えばこう言う……」
がりがりと頭を掻く海斗の姿を見て、シャイナは内心でほくそ笑んでいた。
その力を侮っていたわけではなかったが、それでも同期ともいえる存在が自分よりも強いという事実を認めるには抵抗があった。
思い起こすのも恥ずかしが、一度感情を爆発させて憤りをそのままぶつけた事がある。
シャイナにとって海斗はそんな複雑な感情を抱く相手であったのだが、この二年間で最も良好な関係を築いている相手でもあった。
昔ならばともかく、今では聖域でこうして軽口を叩ける相手はそうはいない。
「お、客席にニコル発見。サボり――げ、ユーリもいる? 仕事しろよ」
そう言うと、海斗はシャイナの背に隠れるようにして場内で戦っている星矢たちへと目を向けた。
ちなみに全く隠せていない。
海斗がユーリを苦手にしていることは、当人同士は気付いていないようだが、知っている人間は知っている。
ここでコイツを捕まえてユーリに突き出したら、とシャイナに悪戯心が沸き上がる。
「それで、何でこんなところで観戦しているんだ? カシオスを応援するならもっと前に出ればいいだろうに」
しかし、海斗の言葉で急速に心が冷えていくのを感じた。
「応援、ね。どの面下げてさ。アイツは……自らわたしの元を去りドクラテスの元へ行った」
二年前、聖域にギガスが現れたあの日。
戦いを終えたシャイナのもとに現れたカシオスが告げたのは別れの言葉であった。
「そして、わたしの所にいた時よりも明らかに強くなった姿を見せている」
分るだろう、とはシャイナは言わない。海斗には言わずとも分る、という確信があった。
師としての役割を失ったシャイナが得た空白の時間。それを埋めた幾つものピース、その内の一つであったのだから。
「だからさ、ここからでも十分……海斗?」
気付けば後ろにいたはずの海斗の姿が消えている。
「……まあ、いいか。わたしらしくない事を言っていたしね」
そう呟いてシャイナもまた戦いを繰り広げている二人へと視線を向けた。
どうやら徐々に均衡が破れつつあるらしい。
「……頑張りなカシオス」
呟かれたその言葉がカシオスに届いたのかどうかは分らない。
シャイナは踵を返すとゆっくりとした足取りで闘技場から離れて行った。
その途中、アイオリアに首根っこを掴まれた海斗の姿を見たような気がしたが……忘れる事にした。
「見事だな魔鈴」
腕を組み、ただじっと試合を観ていた魔鈴に呼びかける声。
「……アイオリア」
魔鈴はその聞き覚えのある声に僅かに意識を向けた。
「今まで感じる事が出来なかった小宇宙を星矢の周りから強く感じる」
そう言って、アイオリアが魔鈴の隣に立った。
飾り気のない質素な衣服、雑兵たちが身に纏う物よりもさらに簡素な革製のプロテクターを付けたその姿を見て、彼こそが聖域最強の
アイオリアとしては堅苦しい正装よりも明らかに好ましい服装であったので変えるつもりはないのだが、同格たる黄金聖闘士のミロからは威厳も自覚も無いのかと事ある毎に責められ、従者であるガランとリトスからは無言の圧力を受けているような気はしている。
しかし、長年続けて今更、との思いが無い訳でもない。
閑話休題。
「成程な、これならば“昨夜感じた”あの小宇宙にも頷ける」
アイオリアが告げたその言葉に魔鈴はようやく意識だけではなく視線も向けた。
「……アンタも居たのかい?」
「フッ、居ずとも気付くさ。どこかの誰かは隠し通せるとでも思っていたようだが?」
そこには、口元に笑みを浮かべたアイオリアと――
「……被告人は無罪を主張する。弁護士を呼べ」
――首根っこを掴まれてばつの悪そうな表情をした海斗の姿があった。
「任務の事は知っている。確かに、思うところがない訳ではないが、自由に動けるお前が適任だという事も理解しているつもりだ。全く、そういう気の遣い方だけはそっくりだな、お前達師弟は」
「……」
魔鈴には二人の交わす言葉が断片的すぎて何の事を言っているのかは分らない。
「……気を遣わせたか……悪かったよ」
「フッ」
魔鈴は海斗の謝罪をアイオリアが笑って流した様子から、大した事でもあるまいと、再びその意識と視線を試合へと戻した。
このままでは埒が明かないと考えたのか、互いに決定打を与えられない膠着した状況を打破するためか、申し合わせたかのように星矢とカシオスは距離を取る。
「二人とも、次で決める気だな」
海斗の呟きにアイオリアが頷く。
星矢たちは身構えたまま動かない。しかし、明らかに両者の小宇宙は高まり始めていた。
「ああ。しかし、少し拙いかも知れん」
海斗の呟きに答えたアイオリアはその視線を魔鈴に向け、そして観客席の中央部で、複数の側近に囲まれて試合を観戦している教皇へと向けた。
海斗が聖衣を得た時と同じく、この戦いもまた教皇の元で行われる。その全てを見届けるべく教皇自身がこの場に足を運んでいた。
「あの二人の力は想像以上だった。見事と、本来ならば喜ぶべき事だ。聖闘士としての力量は十分にある。それこそどちらも認めても良い程に」
試合を見つめる教皇に動きはない。仮面に隠された表情を、感情を読み取る事はできない。
「そんな二人が今、決着を付けるべく最大の攻撃を繰り出そうとしている。聖衣のない生身に向けてだ。これまでの牽制の一撃とは違う。下手をすればどちらかが死ぬ。最悪――」
「――二人とも、か。どうする?」
やるのか、と。言葉の内にそう含ませる海斗に、アイオリアは小さく頭を振った。
「いや、教皇程のお方がそれに気付いていないとは思えん。言い出しておいてとは思うが……このまま静観すべきなのだろうな」
そう言って視線を試合へと向けたアイオリアに対して、海斗がその視線を教皇へと向ける。
気のせいか、一瞬ではあったが、教皇の視線が自分に向いたと海斗は感じていた。
「……いや、最悪の事態は想定すべきかもな。教皇が何を考えているかなど、誰にも分りはしない」
感情のない平坦な声がアイオリアの耳に届く。
表情を消し、冷徹な視線を教皇へと向ける海斗の、その初めて見せた表情にアイオリアは思わず息を呑んだ。
(これは――誰だ? これが海斗か?)
だが、それも僅かの事。
瞬きにも満たぬ間に、アイオリアの知る海斗へと戻っていたからだ。
「ん、動くぞ。二人とも、覚悟を決めたな」
視線を試合へと戻した海斗がそう続ける。
腰溜めにした両の拳に力を籠めるカシオスと、スタンスを広げ両手を大きく開く星矢。
星矢の腕が振るわれる度に、その身から発せられる小宇宙が高まり続ける。
「あれは……!? 星矢の拳が描くあの軌跡は!」
アイオリアが初めて見た星矢の動きにまさかと驚愕の声を上げた。
「そう、あの軌跡は――ペガサスの十三の星の軌跡だよアイオリア。そう、星矢の守護星座はペガサス。六年掛かってようやく目覚めたね。さあ、わたしに見せておくれよ星矢。あんたに付き合ったこの六年間が無駄じゃなかった事を」
魔鈴の言葉に海斗も、アイオリアも黙って試合へと意識を集中する。
闘技場からは音が消えていた。
あれだけ騒がしかった歓声が、嘘のように静まり返っている。
皆固唾を飲んで見守っていた。気付いているのだ。決着の時が訪れたのだと。
「来い星矢ァ!!」
己の拳に全てを込めて、カシオスが星矢に向けて拳を突き出す。
「行くぞカシオス!! これが――俺の!!」
そして、星矢の拳の軌跡が描くその先をカシオスは見た。
青白きオーラとなって星矢の背後から立ち昇るペガサスのビジョンを。
「ペガサス――流星拳!!」
舞い上がったペガサスは天空へと駆け上がり――カシオスへと目掛けて駆け抜ける。
「星矢ァああああああ!!」
それはまさしく流星であった。
一秒間に八十五発。
その全てを受けて耐えられるはずも無く。
「勝者――セイヤ! 女神はセイヤを新たなる聖闘士と認めた! アテナに代りこの教皇が聖闘士の証である聖衣を与える!! 今日この場よりセイヤよ、お前はペガサスの聖闘士。ペガサスセイヤとなったのだ!」
この教皇の宣言によって戦いは終わった。
二百四十三年の時を経て、新たなるペガサスの聖闘士が誕生した。
そして、それは新たなる戦いが幕を開けた瞬間でもあった。
1986年×月×日
×××――×××
ここは寂れた山村であった。
時代に取り残された、その表現が最もしっくりくる、そんな村であった。
若者たちは皆村を捨て町に出た。村に残されたのは、残ったのは老人たちだけであった。
そこに居たのは年若い神父である。
ブロンドの髪と瞳の、物腰は丁寧で穏やかな性質の青年であった。
彼は人の話をよく聞き、その一つ一つに丁寧に、慈愛を持ってそれに応えていた。
「……それが、あなたが最期に望む光景ですか」
望まれれば、彼は、いつも、そこに、いた。
人々は彼を好いていたし、彼もまたそうであったのだろう。
「ならば祈り、願いなさい……その夢を。その祈りを聞きましょう、その願いを叶えましょう」
このまま時の流れに従い、人知れず静かに朽ちて行く。誰もがそう思い、静かな、穏やかな終わりの時を待っていた。
「眠りなさい、心安らかに。眠りは何も傷つけない。何も壊しはしないのです」
ベッドに横たわる老人へ、彼は瞳を閉じて手をかざす。
彼の額にぼうっと、六芒星の紋様が浮かび上がる。
そうして、この日もまた一人、穏やかに、眠るように、静かにその生を終えた。
彼がいつからこの村にいるのか。
それを知る者はいない。
彼は神父であった。しかし、誰も彼の名を知らない。
彼は神父であった。しかし、この村に教会は無い。
その事に疑問を持つ者は――いない。
この男を除いて。
「んははっ。いったいどこで暇を潰しているのかと思ったら。こりゃまた随分と“らしい”事をしていらっしゃるようで」
枯葉色の混じり始めた木々の中、その光景を眺めながら、何が楽しいのか男は喉を鳴らして笑っていた。
黒いシルクハットとスーツに身を包んだ男である。
その手には、はち切れんばかりに張った紙袋を持っており、そこから一つ、まだ青みの勝った林檎を取り出す。
スーツの袖口でそれを拭うと口に含み――
「――ッ、ペペッ。こりゃ酢っぺーな、オイ。まだちょいと早かったか」
咀嚼した林檎を吐き出すと、紙袋から新たな林檎を取り出して口に含む。今度は青味の勝っていない、真っ赤に熟れた林檎であった。
「さ~てと、そろそろ役者も揃い始めそうだな。時期としては頃合いかねぇ」
残った芯を捨て、指先に付いた果汁を舐ながら、そう呟く男の眼には暗い光が宿っていた。
「傷つけてくれなきゃあ困る。壊してくれなきゃあ困る。さあ、憎い憎い同胞よ。眠りを司るお前さんなら出来るだろう?」
そう言って、男は紙袋から新たな林檎を取り出す。
「起こしてやって頂戴よ、この眠り姫を、な。文字無きシナリオの、第二幕の開演と行こうじゃねえかよ」
黄金の輝きを放つ禍々しき林檎を。
「アドリブ、乱入、大いに結構! コイツが開幕のベルの代りだ。神も人も、全てを巻き込んだ乱痴気騒ぎを始めようぜぇ!! どいつも、こいつも、せいぜい派手に――」
――踊ってくれや。