聖闘士星矢~ANOTHER DIMENSION 海龍戦記~改訂版 作:水晶◆
夢を夢だと認識できる。それを明晰夢と言ったか。
東シベリアの凍り付いた海を、自分と共に眺めている少年の姿を見て、氷河は「ああ、そうか」と、これがそうかと理解した。
「ん、どうした氷河?」
「……いや、何でもない」
「そうか?」
そう言うと、少年はその眼差しを再び海へと向ける。
黄金聖闘士、水瓶座のカミュには氷河を含めて三人の弟子がいた。
その高い実力と高潔な精神を認められ、八十八の星座を守護にこそ持たぬものの、エレメントという自然現象から抽出された特殊な聖衣を与えられた
氷河より一年早くカミュのもとで学んでいた、いわば兄弟子にあたる少年――アイザック。
氷河とアイザックは育った環境こそ違うが、年齢も近く、師のように清く正しく真の強さを持った聖闘士になりたいと、同じ志を持ち切磋琢磨し合ったライバルであり親友であった。
だが、その二人の姿は今、この東シベリアの地にはない。
水晶聖闘士は今から二年ほど前に突如としてその消息を絶ち、アイザックは命の危機に瀕した氷河を救うべく、その身代わりとなってこの東シベリアの海に消えていったのだから。
だから、氷河とアイザックがこうして並び立つことはもう二度となく、だからこそ、これが夢だと氷河は気が付けた。
忘れられるはずがない。今目にしている光景も、親友と別れる前に見た光景なのだから。
「なあ、氷河。師のもとで、こうしてお前と共に過ごして何年になる?」
「五年だな。それがどうしたんだアイザック?」
「そうか。いや、お前とも、思えば色々とあったものだと思ってな。氷河よ、昔にも言ったが、母親のことは今も諦めてはいないのか?」
「――アイザック、オレは……」
「いや、今更詮無きことか。その熱い思いを正義のために向けていれば、お前は今頃オレよりもはるかに強い聖闘士となっていたのだろうがな。だが、お前が自らの努力によって手にした力を何のために振うのか、それを決めるのはオレではない」
「アイザック……」
「お前も師より教えられたな。敵を前にしたら常にクールでいろと。オレは、神話のクラーケンのように罪なき人を救い、悪に対しては完璧なまでの非情さと強大さを身につける。悪に対しては微塵も情け容赦はしない。それが地上の平和のためであり、それをなすのが聖闘士だからだ。仮に、お前がオレの目の前に悪として、敵として現れたのならば、オレは一切の私情を挟まずお前を討つ。だから、氷河よ――」
ああ、夢が終わるのだなと。
視界の隅から色を失い消えていく海と、徐々に輪郭を失っていく親友の姿に、知らず氷河は涙を流していた。
「――お前の手にしたその力、決して悪しきことのために振うんじゃないぞ」
そう言って氷河へと振り向いたアイザックがどのような表情を浮かべているのか。
「そうだ。オレたちのこの力は、この地上の平和を守るためにあるのだから」
氷河には分からなかった。
第29話
「……う。う、ぐぅう……」
「――さん、氷河さん!」
肩に感じる温かさと自分を呼ぶ声。
誰かが自分を揺さぶっているのだと理解した氷河は、呼び掛けに応えるようにゆっくりと目を開く。
そこには目を覚ましたことに安堵した様子の少女の姿があった。
「ナターシャ、君か……」
「よかった。ひどくうなされていたから。傷、まだ痛みますか?」
「いや、大丈夫だ。それよりも、良いのか?」
開け放たれた扉から差し込む僅かな明かりが、無機質な石室内をぼんやりと照らす。
両手足に感じる重さに視線を向ければ、頑丈さだけを重視したような、無骨で大きな鎖によって拘束されている。
空を引き裂き大地を割る力を持った聖闘士とはいえ、生身の状態でこの拘束を解くのは容易ではない。
「良いのです。兄が何を言おうとも構いません」
手慣れた様子で氷河の傷の手当てを始めるナターシャに「ありがとう」と返し、氷河はここに来てからのことを思い出す。
アレクサーに敗れた氷河が目を覚ましたのは、ブルーグラードの領主の館の外れにあるこの場所――牢獄であった。
そこで、傷付いた氷河を介抱していたのが目の前の少女――ナターシャである。
彼女はこのブルーグラードの統治者の娘、つまりアレクサーの妹であり、氷河が目を覚ますまでの監視役でもあった。
しかし、氷河が目覚めて三日目になるが、未だ彼女は兄に対して氷河が目覚めたことを伝えていないという。
『父も、私も、ブルーグラードの民の多くは、争いなど望んではいません。しかし、兄はそんな父の、ブルーグラードの生き方を嫌い、父に対して陽の当たる場所へ出るべきだと主張し続けました』
『幼い頃より神童と呼ばれた兄は、十にも満たない年齢で氷戦士最強と呼ばれていた父を超え、その成長と共に力と野心を増していき、ついには今から五年前に父から追放処分を受けたのです』
『その兄が、多くの氷戦士たちを従えてこの地へと戻ってきました。己の野心を満たすために、まずはこの地の支配から始めると、逆らうのであれば父すらも殺すと、そう宣言したと聞きます』
『昔の兄は、確かに粗野で粗暴なところはありました。それでも、実の父親に対して殺意を向けるような人ではなかった。でも。今の兄は、どこか違うのです。そうやりかねない、何か、怖いものを感じる時があるのです』
『お願いします。兄を止めて下さい。父を守って下さい。この地で兄たち氷戦士にかなう者はあなたしかいません。私に出来ることなら何だってします。だから、どうか……』
そう言って泣き崩れたナターシャの姿に嘘はないと氷河は信じた。
目覚めた時にこの場から逃げ出すことはできたが、そうせずに今もこうしてこの地に留まり、少しでも力を回復させようと大人しくしているのもそのためだ。
それに、ナターシャの話を聞いた氷河にはどうしても納得できない点があったのも理由の一つであった。
(あの時、オレと対峙したあの男からは、自分の行動に対する揺るぎない自信と意志の強さを感じた。一切の負い目のない、気高さと、真っすぐさ。そんな男が実の父を手にかけると?)
だからであろうか。手当てを終え、「また来ます」と、言い残して立ち去るナターシャに声を掛けたのは。
「ナターシャ、大丈夫だ。いくら己の野望の実現のためとはいえ、自分の父親を平気で殺せる男などいやしない。たとえ、それがアレクサーであっても」
自室で配下の男からその報告を聞いたアレクサーはただ一言、「好きにさせておけ」とだけ返答した。
「宜しいのですか? あの男――氷河はすでに目覚めております。それを知りながら、ナターシャ様は報告を行わなかった。むしろ、その手当てをするなど、これではまるで――」
「構わん。情の一つでも湧いて氷河がこちらに加わるならそれで良し。そうでなくとも、既に力の差は分かったはずだ。今度はあの時とは違う答えを返すやもしれん」
「僭越ながら、アレクサー様はどうしてあの男に、聖闘士とはいえ聖衣もないあの男に、ここまで拘られるのでしょうか……」
「フッ。そう見えるか? 大したことではない、今は力ある者の手が一つでも欲しい、それだけよ。そんな事よりも、氷の聖衣の捜索に向かわせた者たちがそろそろ戻るはずだ。出迎えの用意でもしておいてやれ。オレは父のもとへ向かう」
「ハッ!」
配下の者が下がり、一人きりとなった部屋でアレクサーは先ほどの質問の答えを思い浮かべる。それは、誰も知らぬ氷河との邂逅の時だ。
五年前、父――ピョートルから追放処分を受け、氷の大地をさまよっていたアレクサーが見た光景。それは、幼い子供――氷河が凍り付いた大地に向かって何度も何度も拳を振り下ろす姿だ。
既に氷河の拳は血にまみれ、氷河自身も苦痛に顔を歪ませている。しかし、この氷の大地は子供の拳一つでどうこうできるような生易しい存在ではない。
氷河自身は覚えていないようだったが、この時、アレクサーは「何をしているのだ」と、氷河に話しかけていた。
マーマを迎えに行くんだ。そう答える氷河の足元には分厚い氷に覆われたシベリアの海がある。よく見れば、その海の底に沈んだ一隻の船の姿が見えた。
アレクサーはその氷河の姿に無駄なことをしている、と、愚かなことをしていると思うと同時に、哀れな、とも思った。
この氷の大地のように、絶対的なモノの前には力無き者の思いなど意味がないのだ、と。
緩やかに滅びへと向かう故郷の姿が氷河と重なる。
だから、この時の、この言葉は、アレクサーにとってほんの気まぐれでしかなかった。
『オレが、この氷の大地を砕いてやろう』
この申し出に、しかし氷河は首を振った。
『マーマと約束したんだ、必ず迎えに行くって。だから、これはオレがやらなくちゃダメなんだ』
結局、幼い氷河に氷の大地を砕くことなどできるはずもなく。
無言で立ち去る氷河の姿をアレクサーは静かに見つめていた。
その日から、アレクサーは時折この場所へ訪れるようになった。
氷河の姿がある時もあればない時もあった。だが、その事については、アレクサーにとってはどうでもよいことであった。
ただこの哀れな行為の、その結末が見たいと、そう思っただけだ。
そうして四年の時が過ぎた頃――アレクサーは見たのだ。
氷河の拳が氷の大地を打ち砕いた瞬間を。
「何度言えば分かるのだ、アレクサーよ。この地が世界の英知が集まる都と呼ばれたのも遥か昔のこと。我らの使命も既に果たされた。ただ静かに暮らしていくだけよ。お前が望むような力など、この地のどこを探しても見つからん」
「昔から何度も言ったな。ならばなぜ、我らブルーグラードの民は、こんな僻地で細々と暮らしていかねばならんのだ、と」
領主の部屋――父親の部屋で、アレクサーは父と最早何度目かも分からぬ程に繰り返されるやり取りに、辟易とした様子も隠さない。
「二百数十年前の先祖の犯した罪のため? 贖罪のため? 馬鹿馬鹿しい。外の世界を見て改めて確信を得た。そんなお題目程度のことで、この死と隣り合わせの永久凍土の地で暮らし続けられるものか。真に領民のことを思うマトモな領主であればなおのことよ。あなたのやり方では、いずれブルーグラードの民は絶滅するしかないのだ」
窓の外から見える一面の銀世界は、その美しさに反して己以外の輝きを、生命の輝きを認めない。
この地は、人が生きるにはあまりに過酷すぎた。
窓から目を離したアレクサーは、こちらに背を向け続ける父へと苛立ちも隠さずに続ける。
「あなたが、これまでこの地を纏めてきたことは評価している。しかし、だからこそ許せんのだ。あなたも理解しているはずだ、このままでは緩慢な滅びを迎えるだけだと! 人は希望なく生きていけるほど強くはないのだ!! ならばこそ示さねばならんのだ――希望を!!」
「外の世界に対しての暴力による侵略行為――それが、お前の言う希望だと? 希望という言葉でお前の野心を覆っているだけではないのか?」
「だからどうした。民に対して何も示さなかったあなたがそれを言うのか? オレを否定したければ、オレとは異なる希望を示して見せろ」
「……アレクサーよ。かつて我らが祖先は、今のお前と同じことを考え、禁忌の力を用いてそれを行おうとしたのだ。その結果、このブルーグラードだけではなく、世界をも滅ぼしかけた罪深き一族なのだ。なあ、息子よ。民に他者と争い傷付け合うこともなく、慎ましくも友や家族と過ごす事ができるこの暮らしを捨て去せてまで、お前の言う希望とやらは、本当に必要なのか?」
「愚問だな――父よ」
そう言って、アレクサーは領主の部屋から立ち去って行く。
「――愚か者は、私かお前か。いや、息子を信じれぬ私こそが愚か者なのだろう。しかし、だからこそ、今のお前に話すことはできんのだ。この地に秘された悲劇を――海皇の力の事を」
そこに居たのは、ブルーグラードの民を統べる領主ではなく、全てに疲れ果てた、ただ一人の老人の姿がそこにあった。
しばらく誰も寄せるなと厳命し、配下の者を全て下がらせたアレクサーは、自室の扉の鍵を閉めると――
「ええいっ! あれほど言ってもなぜ分からんのだ、父は!!」
苛立たし気に振われた拳が机を叩いた。
一体いつからか。いつから自分と父は、こうまで分かり合えなくなったのか。
五年前に追放された時か?
違う。あの時はあれが最善であるとお互いに納得していた。
ブルーグラードの民全てが父のやり方に賛同していたわけではない。中には父を排除し、伝説の頃の栄華をもう一度、と。そう考える者もいたのだ。
そんな者たちにとって、父と互角以上の力を持ち、なおかつ外に目を向けていたアレクサーは格好の神輿であったのだ。
その動きを察し、父に自分を含めての追放処分を持ち掛けたのがアレクサーだ。
この地で民同士が争うようなことになれば、ブルーグラードは持たない。それが分かっていたからこそだった。
「そうだ、この地に民同士が争いを起こせるほどの余裕などない。だからこそ、オレは――」
――本当に、そうか?
不意に、アレクサーの背後から声が聞こえた。
「民のため? 違うだろう? お前自身が常々思っていたはずだ、世界を知りたいと、陽の当たる世界を見てみたいと」
外の世界に関心があったのは事実だ。
「窮屈だったんだろう? この地でお前の力を生かす事のできる場などない。退屈だったんだろう? ただただ、同じことを繰り返すだけの日々が」
目指していた父よりも自分が強くなったと知ったあの日。感じたことは、歓喜ではなく困惑だった。
追い駆けていたものが目の前から消えたあの時、手にした力に意味を求めた。
「お前は外の世界を知ってしまった。風邪一つで死に至りかねないほどに厳しいこの世界に比べてどうだった? 遥かに豊かだったろう? 助け合う必要なんてない。誰もが己の欲を満たすために生きている。それが許されるほどに満たされた世界が広がっていた」
アレクサーの瞳に、窓から見える銀色に輝く死の世界が映り込む。
そして、窓にはアレクサーの背後に立った白いローブに身を包んだ何者かの姿も映っていた。
「悔しかっただろう? なぜ自分たちだけが、と。怒りを感じただろう? 何の苦労も知らず、ただただ与えられた平和を当たり前のものと享受し、享楽にふけるその様が」
ボウ、と。アレクサーの額にある金色のサークレットの輝きが増した。
「お前のその怒りは間違ってはいない。我慢する必要などないのだ。お前にはそれを行う権利があり、それを行えるだけの力があるのだから」
ローブの人物の手がアレクサーの肩に触れる。
「迷う必要はない。良心の呵責など感じる必要はない。肉親の情など幻よ。お前が正しいのだ。正しいお前が成すことに間違いはない」
氷原を映していたアレクサーの瞳が――血のように赤く染まった。
ブルーグラードを目指し、銀色の世界を進む海斗たち。
先導するのはセラフィナだ。
迷うことなく進むその姿に、案内を申し出た氷戦士の男も、フレイも戸惑いを隠せない。
「こっちの様な気がして」
そう言って先へと進むセラフィナが正しいルートを進んでいることは、同行している氷戦士の男が証明していた。
セラフィナ自身もなぜ、と戸惑っていたが、「ま、そういうこともあるだろう」と、海斗だけは気にした様子もなくセラフィナの後ろを歩いている。
その海斗の背には聖衣箱があった。刻まれているのは白鳥のレリーフ。氷の聖衣――
やがて、建造物らしきものが視界に入ると、氷戦士の男が「あれがブルーグラードだ」と告げた。
「ドンピシャだったな」
「……ええ。あの、本当にセラフィナさんはここに来たのは初めてなんですよね?」
「そのはず……です。でも――」
なぜか、懐かしい気がするんです。
フレイの問いかけに、ブルーグラードを見つめながらどこか切なげに答えるセラフィナ。
その様子を横目に見ながら、海斗は氷戦士の男を呼ぶ。
「何だ?」
「ここから先はオレたちだけで行く。アンタはその辺にでも隠れとけ。氷戦士つーぐらいなんだから、カマクラでも作っとけばしばらくは持つだろ?」
「……どういうつもりだ?」
「別に。ここまでアンタを連れてきといて疑ってる、ってことは無いさ。わざわざ身内同士で殴り合う必要もないってことだ」
「お前……」
「ま、正直言えば足手まといだってのもある。9割ぐらい?」
「……お前……」
「見張りもいるみたいです。我々の目的が攫われた聖闘士の救出である以上、一戦は避けれらそうにもありませんから」
フレイがすっと指差す方向には、確かに数人の氷戦士らしい人影が建物から出てくる姿が見える。
「さて、フレイ、セラフィナ。二人とも準備は良いか?」
「いつでも」
「――はい。行きましょう、海斗さん!」