コッペリアの電脳   作:エタ=ナル

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第十話「逆十字の男」

 怖いほど人がいない地下シューティングレンジの真ん中で、わたしは目標を確認した。1000メートル先の人型のターゲットを、人だと思って打ち砕け。カイトさんが最初に出した指示だった。

 

 これは試験。わたしにとってはじめての練。見守るのはハンターチームの人達だけ。リーダーのカイトさん。セクシーなスーツ姿で、いかにもできる女性って感じのパクノダさん。剃髪で逞しいジャッキーさん。そしてアルベルトの計4名。大勢が同時に射撃できる広い空間はがらんとして、だけど満たされた存在感は寂寥を感じさせてくれなかった。

 

 ポシェットの上から卵の感触を確認して、父さんとアルベルトがくれた大切なお守りの存在に安心する。胸の中にわだかまっていた不安がすっと、卵に吸い込まれていく心地がした。よし、大丈夫。わたしはきっとやれるはずだ。心の中で拳を握って気合いを入れて、この身に施す纏を解いた。

 

 解き放たれたオーラがドレスを揺らす。血が騒ぐ。意識が熱で浮かされていく。こめかみが少しズギンとした。粘性のある、ドロリとした害意が臓腑から込み上げる。翼の具現化には未だ慣れない。だけど、もうあんな思いはこりごりだから。

 

 パクノダさんが少し顔をしかめる。この人とは、更衣室で少し話をした。彼女の鋭い視線は少し怖かったりもしたけれど、実際に接してみると意外に気さくでいい人みたい。

 

 わたしの能力についてもほんの触りだけ話しておいたけど、とても信じられないようだった。でも、それが今から実演される。

 

 まとわりつくオーラがタールのようだ。体中が純粋に、ただ、痛い。不可視の雷が全身の神経を迸って、痛覚だけが火花を散らす。あまりの痛さに、骨という骨がゴリゴリ削れる気がした。だけど、これもいつもの事。結界が壊れたあの日から、月に一度は経験している。だから平気。耐えられる。顔に出してアルベルトを心配させるようなへまはしない。そよ風に吹かれる様に涼やかに、わたしはオーラの中に立っていられる。それでも、痛い事には変わりなくて。

 

 飢饉、戦乱、黒死病。

 

 信仰、社会、寒い冬、どうでもいい死。

 

 殺人、強奪、陵辱。害意、害意、人間、人間、人間。

 

 降り積もり濃縮された怨念がわたしに訴える。辛いと。ただ、助けてと。幾重にも伸ばされた誰かの腕がわたしの心に縋り付く。これはとても無垢な願い。生まれたての赤ん坊の様に、ただひたすらに純粋で。抱き締めてくれる人を探して辺り一帯を奔走する。

 

 苦しみを訴えるオーラと一緒に、頭の中に唄が溢れる。じんわりと優しく、透き通った神聖な旋律。希望の、慈愛の、渇望の詩。人の世を普く照らそうとするそれはとても綺麗な声で、とても純真な救いだけれど。

 

 ごめんなさい。わたしはそれを願えない。

 

 心に溢れるタールの奥底、赤い気配に鼓動を重ねる。あの夜に掴んだ感覚のとおり、わたしを飲み込もうとする声ではなく、礎にされた願いの方に。力ずくの制御はもう要らない。自分の中の深い場所で、わたしは喉を震わせた。声帯。意思を伝える器官の名前。その存在理由はとてもシンプル。隣にいる人に、ただ一言を告げたくて。

 

 はじまりの枷は三つ。

 

 太古、温もりを欲した動物がいた。

 

 独りは、とても悲しかった。だから。

 

 わたしの欲望に呼応して、背中に赤い翼が具現化される。自然と、この手を伸ばしていた。脳裡に浮かぶのは一人だけ。だけど、百億のわたしが、千億の誰かを求めて手を伸ばす。千億の手と願いを重ねて、たった一つの意味を吟じる。

 

 愛別離苦。数多の星霜の果てでさえも、ヒトはこの手を伸ばすだろう。ただ一言を聞いてほしくて、わたしは喉を涸らすだろう。ずっと叫び続けたいと、滑稽な永遠を、限り無い欲望で求めるだろう。例え、その果てに不可避の別れが待ち受けてるとしても。

 

 それは決して救いではない。むしろ、苦しみをまた一つ重ねるだけ。それでも、ヒトは。

 

 掌にオーラが収束する。ターゲットに心で照準して、胸の内で言霊を唱えた。……ねえ、アルベルト。

 

『わたしは、ここにいます』

 

 はじまりの枷は三つ。彼方へ、赤い閃光が貫いた。

 

 

 

「これは……、正直想像以上だな」

 

 カイトさんが目を見開いて言った。1000m先のターゲットを文字通り蒸発させたわたしの能力は、ハンターチームの人達に驚きを持って迎えられた。アルベルトだけは、わたしを心配そうに見てくれてるけれど。

 

 将軍さんが退出した後、会議室に残ったわたしとチームの人達は、近くにあった地下シューティングレンジへ向かった。作戦の前提となるわたしの練を見るために。

 

 わたしの能力を知る人間を最小限に留めるため、地下レンジは人払いが済んでいた。もとより、念という怪奇現象を大っぴらにできるはずもない。おかげで大勢の人に注目される事はなかったけれど、歴戦のハンター達の視線は想像以上に重たかった。存在感に背中を押される様に放った能力はすこし力が入りすぎてしまったようで、それでも、ターゲット奥の壁を半壊させただけで済んだのは幸いだった。

 

「うむ。見事」

 

 腕組みしたジャッキーさんが重々しく頷いた。パクノダさんはターゲット跡地を無言でじっと見つめている。いつの間にか側に来ていたアルベルトが、わたしの頭をぽんと撫でた。それだけで十分すぎるご褒美だった。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 ブラインドから差し込む朝日で目を覚ました。寝汗と寝る前の汗にまみれた体を気怠げにシーツにくるませて、少女はベッドから身を起こした。横を見ると、男は裸の上半身を晒しながら、拳銃の手入れに没頭していた。安物の紙巻きを口に咥えながらの彼の作業は、妙に板についていた。少女は詳しくなかったが、多分リボルバーというやつだろう。黒光りする蜂の巣状の部品を丹念に掃除するその姿は、不覚ながら少し格好いいと思ってしまった。

 

「ん、起きたか? ほれ」

 

 差し出されたのはティーカップだった。中には黒い液体が半分ほど注がれ、湯気を立ち上らせている。鼻をくすぐるのはあの苦い泥水の匂いだった。脳裡に苦味が蘇る。少女は頬を引き釣らせながら、ベッドにこぼさないよう、両手でそれを受け取った。

 

「飲めと?」

 

 コーヒーを膝の上に置いて、少女は男を睨み付けた。彼女が嫌いな苦い飲料。それも、ひどく熱い。少女は軽い猫舌だった。自然に、ゆっくり冷ましながら飲む羽目になる。少女は男の嗜虐趣味に辟易した。じっくり味わえという事だろう。

 

「飲めといわれれば飲みますが、……命令なら、逆らえませんし」

 

 そう、命令といわれれば仕方ない。だが、しかし、これに比べれば例の白濁した液体の方がまだ飲み下しやすいと少女は思った。少なくともそちらの方が飲み慣れていた。微かに波打つ水面をじっと眺める。唾と、嫌な記憶が口の中に溢れた。そんな百面相が面白かったのか、男は軽く吹き出した。

 

「ほらよ、これでいいんだろう?」

 

 膝の上のカップに、角砂糖をいくつも、そして、ミルクをなみなみと追加された。黒から茶色に変化した液体をスプーンで数度かき混ぜて、男は再度少女を促す。少女はそれに困惑した。このような飲み方など、知らない。そもそも高価な白い砂糖を、苦い飲み物にわざわざ入れるなど気が狂っている。

 

「マスター?」

「いいから、飲んでみろ」

 

 軽く、ぽんと頭を叩かれた。男の笑みが癪に触った。なんだか、妙に子供扱いされてる気がしたのだ。昨晩は、あんなに少女を求めたくせに。

 

 ままよ、と少女は液体を口に含んだ。冷たいミルクを足したからだろう。温度は大分冷めていた。そして少女は驚いた。ほわりと甘く、優しい苦味がそこにあった。体の芯にこびり付いていた疲れが、静かに溶けていく気がした。賢しげな麗句はいらない。ただ、美味しいと、そう思った。隣で得意げに微笑む男には心底むかついたが、最早そんな事はどうでも良かった。再びカップに口を付けて、このまま蕩けてしまってもいいと本気で思った。

 

 しばし無言の時がすぎた。男は銃の手入れを再開している。少女は、自分の肌より少し濃い茶色の暖かい飲み物、それをちびちびと舐めていた。

 

 甘いものを口にして機嫌が良くなると不思議なもので、拳銃を弄くる男の、少年の様なキラキラした瞳が少し可愛く感じてくる。いつもは落ち着きがないと思い、内心で軽蔑していたというのに。意外に現金だったんだな、と、少女は自分を省みた。

 

 洗濯も掃除も何もせず、ベッドの上で無為に過ごす朝は柔らかかった。

 

「そういえば」

 

 少女は男に話し掛けた。その事に驚いたのは彼女自身だ。どうして自分は、親しげに話し掛けているのだろう。どうでもいい雑談をしたいと思ったのだろう。頭のどこかで冷静に混乱しつつも、思考は高速で回転する。それでも、少女には理由が分からなかった。

 

「あん?」

 

 だというのに、男は無頓着に返事をする。

 

「……いえ、どうして銃なのかなって思いまして。放出系なら、以前教わった念弾という武器があるのでしょう? ……つまらない話です。本当に、何でこんな」

「ああ、これな。なに、大した理由じゃねーよ。俺が男で、こいつが拳銃だからだ」

「は?」

 

 ぼそぼそと呟いた後半も、男には聞こえていただろう。しかし、それは綺麗に無視された。男の真意は気になったが、しかし今は回答の方が信じられなかった。あまりにおかしい。思わず、少女は間抜けな声を上げる。

 

「男根なんだよ、こいつは、男にとっちゃな」

 

 よし、わからない。大丈夫。少女は自分の正気を確認した。モヤモヤした胸の内も一気に晴れた。ついでに少女の中で男共という生き物の定義が上書きされた。そんな内心を知ってか知らずか、男は微妙な顔で少女を見つめる。

 

「んな顔すんなよ。真面目な話だぜ。いいか? 心理学的にはな、これは男のシンボルだ。理想化された、本物より遥かに都合がいい、な」

 

 言って、男は組み上がった拳銃を構えてみせた。黒光りする銃身が朝日に光る。端整な、絵画になりそうなシルエット。弾倉は全く空だったが、それでも引き金に手をかけない慎重さは、どこか上品な印象を与えていた。男の粗野な本性を、少女はいくらでも知ってたというのに。

 

「こいつは太く硬く萎えもしない。弾さえあればいくらでも射精できる。撃てば、轟音と快感をもたらしてくれる。男にとって理想的な、まさにもう一つの相棒さ。これを片手に盗みを働く。それが俺のライフスタイルだ。だから銃は手放せねぇ」

 

 そんな性器あったらたまらないなと、少女は心底で貯め息を吐いた。大体男という連中は、逞しければそれが正義だと、女が悦ぶと思ってる輩が多すぎる。かつて娼婦達もよく愚痴っていたが、原始人としての価値観をこの現代まで引きずっているのだろう。そんなものは、少女としては是非とも、洞窟の中に置き忘れて来てほしかった。

 

「男根の象徴はナイフでもいいが、拳銃の方がより原型に忠実だ、お上品なオートより、単純堅牢なリボルバーがいい。口径はもちろん大きめの奴だ。こいつを、金玉の重さを感じながら構えて撃つ。そのロマンが分からない野郎はカマだろうぜ」

 

 男は渋く笑って決めたが、言ってる事はあんまりだった。少女は深く深く溜め息をついて、思ったままの感想を吐き出した。

 

「……幼稚すぎます。子供じゃ、ないんですから」

「だろうな。だがよ、男って大体そんなもんだぜ」

 

 自分は何でこんな男と臥所を共にしてるのだろう。シーツ1枚で語り合っているのだろう。少女は苦々しく感じながら、とっくに空になったカップをサイドテーブルへ置いて言った。

 

「大体なんでこそ泥なんですか、マスター。貴方ならいくらでも高価なものを盗めるでしょうし、その気になれば表の世界で真っ当に活躍する事も容易いでしょうに」

「そりゃ、それが一番好きな生き方だからだ。お前にもあるだろ?そういうの」

 

 男に振られて、少女はどう答えていいか戸惑った。自分の奥深くをえぐられた気がして、どうにかして誤摩化したいと、そう思った。しかし結局、嘘をつく事すらできなかったので、ただ正直に洩らしていた。

 

「私は、わかりません。わからないんです。考えた事、なかったから」

「そっか。ま、そいうのもありだろうさ」

 

 深く追求されはしなかった。男は拳銃をホルダーにしまい、工具と共に少女に渡してサイドテーブルの上に置かせた。はじめて手にした拳銃は意外に重く、凶器としての存在感を主張していた。

 

「俺の能力、な」

 

 珍しく、男はポツリと静かに語った。

 

「……つまらないんだよ。調子に乗って作ったはいいけどよ、やっぱ俺はガキだったんだな。最初は荒稼ぎしていい気になってたもんだが、数年してすっかり冷めちまった。応用力がありすぎるんだよな。何でも出来ちまうんだ、この能力は。だから結局、普通に使えば人生をつまらなくする方向にしか役立たねぇ」

 

 深々と男は紙巻きを吸い、紫煙を部屋一杯に吐き出した。吸い殻を、乱暴な手つきで灰皿に押し付ける。少女の肩を抱き寄せて、首筋に唇を埋めて言った。

 

「まあいいや。今のは忘れろ。いいな」

「はい、忘れます」

 

 男の声が深く染み込む。少女はそれに従って、ここ数秒の記憶を無意識の底にしまい込んだ。少し眠いなと、そのときの彼女は自覚した。背中に回される男の腕が、力が入りすぎてちょっと苦しい。安物のパイプベッドがギシリと軋み、銀色の長い髪が白いシーツに広がった。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 熱したフライパンには油をしかず、厚めに切ったベーコンをカリカリに焼いた。それを取り出し、残った肉汁にひと欠片のバターを溶かして、刻んだタマネギをさっと炒める。甘く香ばしい匂いがキッチンに広がって、アルベルトがキッチンに視線をくれた。二人で食べる久しぶりの朝食に、今からうきうきが止まらない。タマネギが透明になった辺りで、味付けした溶き卵を流し込んだ。宛てがわれた地下司令部の一室は無機質で、素敵なムードからは程遠いけど。

 

 昨日見せた練の結果、わたしの採用が決定した。そのまま各種の説明を受け、飛行艦の艦長さん達と顔合わせをして、気が付けば深夜になっていた。アルベルトはあの後すぐに調査の方にかかり切りになってしまったから、こうして一緒に摂れる朝食の時間が、いつになく貴重に感じてしまう。

 

 わたしの能力についてもう少し踏み込んだ説明は、カイトさんにだけしておいた。ハンターチームのメンバーの中でも、あの人は特に信頼できるという印象を受けたけど、なによりアルベルトから押された太鼓判が心強かったから。

 

 とろりと固まったスクランブルエッグをお皿に移して、ベーコンとサラダ、牛乳をたっぷり入れたコーンスープと一緒にテーブルに並べる。焼いたバゲットパンにはバターを塗って、二人分のコーヒーを用意した。アルベルトはブラック、わたしは砂糖一つにミルクを少しで。このまま朝食にしてもいいんだけど、アルベルトも朝早くから幾つもの資料を広げて情報の整理に余念がないようだし、エプロンを外す前に洗い物を済ませてしまうことにした。

 

「ちょっといいかな、エリス」

「なに?」

 

 洗い物を終え、食卓に付いたときだった。アルベルトも重たかった腰を上げて食卓までやってきて、目の前の食事に取りかかろうとしていた。だけど、きっと頭の中は半分ぐらい、資料に振り分けられているんだろうなと思っていた。

 

「この任務の間、周りをよく観察して、よく、憶えておいて欲しい」

「ハンターの仕事を?」

 

 問うと、アルベルトは真剣な目で頷いた。

 

「それもある。だけどもっと具体的に、軍と、国家と、ブラックリストハンターの仕事をだよ」

「それはもちろんよ。だって父さんとアルベルトが生きてきた世界なんですもの」

 

 わたしの返答が気に入ったのか、アルベルトは嬉しそうに微笑んだ。

 

「せっかくハンター試験に合格したんだ。どうせなら一般的な社会通念における善行、それもできるだけ大きな組織やたくさんの人に恩を売れるハントがしたかったし、エリスにも経験してもらいたかった。その観点から見ると、今回の仕事は実に都合がいい。上手くやれば、エリスの立場は、今よりずっと強固になるだろう。

 ……結局の所、僕に大切なのはそれなんだ。エリスは優しいから善意とか義憤とかを感じているかもしれないし、それは全く正しい事なんだけど、僕にとってこのハントには、失敗も一つの選択肢として存在してる。リスクとリターン次第では、僕はこの国を見捨てるだろう。

 他のハンターも大なり小なりそんな感じさ。やれる範囲では手を尽くすけど、やれない範囲からはすっぱりと手を引く。それができないブラックリストハンターは早死にするだけだからね。ハンター試験の時だって、僕はイルミを見逃しただろう? あの後、彼は殺しの仕事を控えてたって言うのに。ジャッキーは、彼だけはちょっと例外だろうけど」

 

 いつもと変わらないアルベルトの声。普段通りのその表情。まるで夕食の献立を話題にしてるみたい。なのに不思議と厳かで、わたしの心を釘付けにした。

 

「だから、エリス。ハントを経験すると、この業界の光と闇が見えてくると思う。ハンターという人種がどういうものが、肌で感じていけると思う。その上で改めて君が願うなら、僕はハンターをやめてもいい。でも、仮にこの世界で生きていけるというのなら」

 

 アルベルトがコーヒーで喉を潤して、気負った様子もなく言葉を繋いだ。

 

「ブラックリストハンターでなくてもいい。二人でハンター家業を始めよう」

 

 結論はいつでもいい。焦って出す必要はないからね、とアルベルトは微笑んだ。わたしは頭が真っ白だった。たぶん、表情も間抜けだったと思う。よだれぐらいは垂らしたかもしれない。もし誰かがこの様子を盗撮していたというのなら、世界を滅ぼしても悔いはなかった。

 

 それぐらい。

 

「……嬉しい」

 

 それだけ、絞り出すのが精一杯。本当に、ただひたすらに嬉しくて。それができるといいなって、心の底から願ってしまった。

 

「あまり綺麗な仕事じゃないから、申し訳ないけどね」

「それは、アルベルトが、優しいからよ」

「僕が?」

「ええ、アルベルトは優しいわ。わたしなんかより、ずっと、ずっと」

 

 掛け値なしの本音でわたしは言った。いつになく穏やかな気持ちだった、目の前には湯気を立てる朝食がある。今からアルベルトと一緒に頂いて、ソファーに並んでほんの少しの食休みができるなら、どんな激務だって天国になる。胸元がとても暖かくて、自然とそう確信できた。

 

「エリス、最後に一つだけ、これだけは踏まえておいてくれないか」

 

 アルベルトが言った。浮かれすぎたわたしをたしなめる様に、すっと、心臓に氷の刃を突き刺された。

 

「もしかすると彼らが、いや、今の僕達と同じ立場の人間が、君を狙う事になる可能性もあるという事を」

 

 

 

 朝の打ち合わせが始まるまで時間に余裕があったから、地下司令部併設の女性士官用シャワー室を借りて汗を流す事にした。本当はアルベルトと一緒に入りたかったけど、さすがにそこまで我が侭は言わない。

 

「あ、おはようございます」

「あら、おはよう」

 

 脱衣室でばったり出くわしたのは、ちょうど出てきたパクノダさんだった。体にバスタオルを巻き付けて、髪を塗らす水気を別のタオルに吸わせている。会って丸一日も経ってないけど、わたしはこの人に好感をもっていた。にっこり微笑む表情から何気ない仕種まで嫌味のない余裕がにじみ出てて、話してみると距離感の取り方もとても上手い。これが大人の魅力ってものなんだろうなと憧れてしまう。

 

「どう? よく眠れた?」

「はい、おかげさまで。パクノダさんは?」

「あたし? あたしは昨日も徹夜だったわ。まったく、この歳になると肌にすぐ響くから困るのよね」

 

 ため息をついて苦笑するパクノダさん。肩をすくめた時、タオルの向こうで大きな胸が柔らかく揺れたけど、それを羨ましいとは思ってない。ええ、断じて。わたしだって、もうちょっとでCに届きそうなぐらいはあるんだから。うん、多分、もうちょっとで。

 

「確か、あの後はジャッキーさんと外まわりでしたよね」

「ええ、何件か気になる情報が入っていたから、その確認に行ったわ。収穫はあまりなかったけど」

 

 パクノダさんはバスタオルを巻いた姿のまま、脱衣室の椅子に腰をおろした。微かだけど、鈍さが感じられる動作だった。少し疲れてるのかもしれない。それもそうだろう。幾つもの都市を飛行船で飛び回るのは大変な仕事なのに、その上で収穫が乏しければ熟練ハンターでも負担に感じてしまうんだと思う。

 

「で、今日もまたその続きよ。ほんと、嫌になるわね」

 

 わたしも服を脱ぎながら、頷いてパクノダさんにあいづちを打った。

 

「あ、そうそう。あなた、黒いコートの男に心当たりはない? 白いファーを盛大に逆立てて、背中に大きな逆十字を背負ってるの。二十代中頃ぐらいの男性で、髪は黒でオールバック」

「……えっと、暴走族の方、ですか?」

「だったら良かったんだけどね」

 

 若干引くわたしに苦笑して、パクノダさんは説明してくれた。男性の格好に、彼女はあまり違和感を感じてないみたい。思い返してみるとヒソカやイルミさんも奇抜な格好をしていたし、ハンターの人達の基準ではわりと普通の変態さんなのかもしれない。あの状況をドレスで通したわたしも周りから同類に見られてるかもという考えが一瞬浮かんだけど、絶対、気の迷いだ。レオリオさんだって、スーツだったし。

 

「詳しくはこの後の打ち合わせで報告するけど、ここ数日、いくつかの街で不審者の目撃情報が上がってるの。貧民街を中心に回ってるらしくて、当然、そこを縄張りにする連中とトラブルになってるんだけど、人間離れした身体能力で蹂躙してるみたい。動きがかなり派手だから、誰かを急いで捜しているのか、誰かに見つかるのを待っているのか、その両方かとあたしは見てるわ」

「そうですか。ごめんなさい。残念ですけど、わたしに心当たりはないみたいです。わたしが知るハンターの人達は、同期と父の知り合いとお弟子さんぐらいですし」

「そう。いいのよ。あたしもジャッキーも見当つかないんだから。カイトとアルベルトにも聞いてみましょう。彼ら、顔が広いから」

「ええ、そうですね」

 

 優しく微笑むパクノダさんに同意して、脱いだ服と下着を畳んだ。さてシャワーを浴びようと思ったけど、その前にふと、疑問に思った事を尋ねてみた。

 

「服、着ないんですか? さっきからずっと、バスタオルを巻いたままですけど」

「……ごめんなさい、昔から肌を見せるのは得意じゃないの。特に背中は、あたし自身にも見せたくないぐらいよ。……何故かは、自分でもよく分からないのだけれど」

「いえ、わたしの方こそごめんなさい。嫌な事伺ってしまいましたね」

「真面目ね。気にする必要はないわ」

 

 気分を害した様子もなく、わたしの不作法を笑顔で許してくれたパクノダさんはやっぱりいい人だと思う。胸元がとても大胆な服を着ていた彼女のセリフにしては違和感があったけど、まあ、感性というものは人それぞれなんだろう。

 

 

 

 鋭い銀色。細長く洗練された、風を切り裂くための流麗なフォルム。広く雑然とした整備ハンガーの中、わたしの目の前に横たわる巨体は、周囲を這いずる矮小な人間など知らぬとばかりに悠然と浮かんでいる。

 

 空中衝角艦サンダーチャイルド。彼女が、今回の作戦でわたしが乗る飛行艦だった。これから昨日紹介された艦長さんに館内を一通り案内してもらって、スペックなどについて解説を受ける。それが今日の午前中の予定だった。いざという時、どんな情報が役に立つか分からないから。

 

 それが終わったら艦単位での攻撃訓練に参加するけど、この段階ではまだ実際に能力を発動させる事はないとの事。全体像の把握とプロセスの慣熟、問題点の洗い出しが目的なんだとか。

 

「ご覧の通り、本級は気嚢が小さく、飛行船としては比重が大きめの設計になっております。また大きな出力重量比を持ち、我が国で初めて遷音速巡航が可能な戦闘艦でもあります。しかしその為に大型の燃料タンクを搭載しており、機体規模に比べてベイロードは小さめです」

 

 乗り込む前に、実物を前にして基本的な事からレクチャーされる。気嚢の上にちょこんと乗ったお椀型の透明なドームが、わたしが詰める防空指揮所という場所らしい。いざ能力を使う時は、ハッチから外に出る事も可能なようだ。

 

 艦長さんの説明はとても分かりやすくて、有能で頼りがいがある人だなって印象を与えてくれる。野太い声に太い腕や厚い胸板は空というより海の男の雰囲気だけど、ちょこんとした顎ヒゲがちょっと可愛い。実はわたしと同じぐらいの娘さんがいるそうで、きっと家庭ではいいお父さんなんだと思う。だからこの人の家族のためにも、無事に家に帰してあげたかった。だけど、それを願ってしまうのは偽善だろうか。

 

 この艦で念能力の存在を明かされたのは艦長さんだけ。防空指揮所に詰めるのは基本的にわたしだけだけど、なにかあればすぐ側の航海艦橋から真っ先にこの人が駆け付けてくるだろう。そのとき、もし能力を発動中であれば、この人の命は度外視しなければいけないのだから。

 

 何を見捨てても任務達成が最優先。その為ならば、この艦が墜落する事すら許容される。わたしは何度も、カイトさんにそう念を押されていた。その意味を改めて思い知って、胸の奥が締め付けられた。まだまだ弱いなと、ハンターとしての自分の未熟さが少し嫌になった。

 

 

 

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【色なき光の三原色(セラフィムウィング) 特質系・具現化系】

使用者、エリス・エレナ・レジーナ。

 赤の光翼 悠久の渇望;愛別離苦 具現化した光に生命力を付与する。

 緑の光翼 千古の妄執;■■■■ ■■■■■■■■■■■■■■■。

 青の光翼 原始の大罪;■■■■ 具現化した翼に生命力を溜め■■■■■■■■■■■■。

長い■■をかけて鍛えられた、■■■■■■■■■ための能力の失敗作。

 

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次回 第十一話「こめかみに、懐かしい銃弾」


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