コッペリアの電脳   作:エタ=ナル

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第十一話「こめかみに、懐かしい銃弾」

 室内を夕日が染めている。狭く貧相な部屋だった。備え付けられた家具は最低限で、どれもあからさまに安物だった。天井は低く照明も暗い。おまけに男が無節操に愛飲する煙草のおかげで、紫煙の匂いが染み付いている。それでも、この辺りでは背の高いビルの一室だからだろう、窓から見下ろす眺めだけは悪くなかった。

 

 これで最後になるだろうと、少女は窓際に佇んだ。夕暮れの、排ガスと埃の匂いが漂うスラム街。幾重にも連なるビルの屋上が、壁が、橙色に染まっている。コンクリート製の四角いシルエット達は、広がるでもなくそびえるでもなく、ただその場所に在り続けていた。廃虚にも似た街並は、少女の胸に切ない郷愁を呼び起こした。

 

「よう、荷造りは終わったか」

 

 ノックもなく、男がドアを開けて帰宅した。手には紙袋を抱えている。その口からバゲットパンとワインの瓶がのぞいている事から、買い出しは一通り済ませたらしい。

 

「はい、もちろん。もっとも、あまり量はないのですから」

 

 ベッドの上を視線で指して返答した。少女の体躯でも持てる小さな鞄に、半分ほどの容積を占める衣類と最低限の生活用品が入っていた。他には、特に何もない。少女が物を持たないのは、娼館時代からの習慣である。彼女は、特定の物品に執着する事ができなかった。

 

「おし、上出来だ。なら今夜出発するぞ。腹ごしらえは今からするとして、そのあと眠れるようなら少し眠っとけ」

「分かりました」

 

 バゲットパンを切りチシャの葉とドネルケバブの切り落としを挟んでいく男の手際を見守りながら、少女は特に感慨もなく頷いた。頻繁に拠点を変えたがる男に付き合わされ、アジト替えには慣れていた。面倒だなとは思うけれど。

 

「次はどの街に行くんですか?」

「あん? また少し北に向けて進んでみようと思ってるけどよ。ほれ」

 

 ケバブの切れ端をつまみ食いして男は言った。請われ、少女が塩の入った瓶を手渡すと、ついでとばかりに彼女の唇にも1枚ねじ込まれる。咀嚼すると口腔に風味が広がった。男にしては珍しく、いくらか上等なものに手を出したらしい。それが分かるぐらいには、少女の舌も肥えてきた。

 

「……ん。また北ですか。どうして北にばかり進むのか、聞いてみてもいいですか?」

「いや、んな御大層な理由はねーけどよ。なんかロマンを刺激されねぇ? 決まった方角へ向かうってよ」

「わかりませんね。これっぽちも」

「そりゃねえだろ。雪を冠った山脈の反対側とか、青い水平線の向こうとか、雨雲を抜けた上の空とか、道の辿り着く果てとかよ。お前だって響きだけでわくわくするだろ? え?」

 

 一蹴した少女の反応が気に入らなかったのか、男はサンドイッチを皿に並べながら妙に力説した。どうでもいい事に力を入れる性質はいつもの事だったが、少女には妙に可愛く思えた。

 

「男の子ですね」

 

 それは嘘偽りのない素直な感想だったのだが、男はそれが気に入らなかったのだろう、憮然とした表情で視線をそらした。楽しい、と少女は目を細めた。簡単に済ませただけの夕食のサンドイッチが、とても贅沢に感じられた。

 

 しかし、明朝はコーヒーに入れる角砂糖を一つ減らすと男に言われて、理不尽だと少女は恨めしがった。

 

 

 

「そういえば、お前さ」

「はい、なんでしょうか?」

 

 早めの夕食を平らげ、ベッドでごろんと横になっていた少女は、隣に転がる男に話し掛けられた。少女の返事は、わずかに刺のある声色だった。肘を枕に欠伸を噛み殺す男の姿が無性に憎らしい。甘いものの恨みは深いのだ。

 

「名前、なんだっけ?」

「……は?」

 

 少女は目を点にした。驚いたのではなく、呆れたのだ。ついでに幾分の怒りも混じっていた。あえて尋ねなかったのではなく、今の今まで、興味すら湧かなかったとでも言うのだろうか。少女は反感を隠しもせず、男に対し、素っ気なく答えた。

 

「いまさらですか? ありませんよ」

「なんだよ、無いのか」

 

 とても常識はずれな会話をしているな、と少女は頭のどこかで自覚した。しかしお互いに驚きは少なく、のんびりと、普段通りのやり取りだった。それが悔しいのは秘密だった。

 

「はい。源氏名なら、年に数回は変えられてましたので沢山ありますけど」

 

 娼婦の源氏名をあれこれ考えるのが宿の主人の趣味のようなものだった。今思えば、新鮮さを演出すれば売り上げに繋がると考えてでもいたのかもしれない。しかし源氏名の頻繁な変更など娼婦達が喜ぶはずもなく、よほど気に入った案以外はすげなく破棄された。そういった名前の中で主人が諦めきれなかったものは自然、少女のところに回ってくる仕組みだった。

 

「普段はどうしてたんだよ。商売ならともかく、日常生活には困るだろ」

「あのガキとか、あいつとか、お前とか、それで十分通じてましたよ。なにせあそこに子供は私一人しかいませんでしたから」

「そっか。まあ、それもいいや、別に」

 

 この話題に、男は興味をなくしたようだった。その瞳は既に少女を捉えず、肘枕をやめて頭を枕に預け、ぼんやりと天井を眺めている。じきにその瞳も閉じられて、眠りの中に沈むだろう。少女はその事実に苛立ちを覚えた。

 

「マスター。貴方の名前も、私は聞いてませんが」

「俺? あー、俺か。そうだな、結局教えてなかったな」

 

 瞳を閉じ、眠そうな声で男は応える。ぞんざいな、面倒くさそうな態度だった。今に始まった性格ではない。しかし、少女はその顔をじっと見ていた。眺めて楽しい顔ではなかったが、とにかく少女はじっと見つめていた。自分はなぜこんなにムキになっているのか、それを不思議に思うのは後回しにする事にした。

 

「俺の名も、沢山あってな」

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 闇の中に闇がいた。一対二個の眼球は、闇より深い漆黒だった。どす黒く淀んで、どこまでも深くたゆたっていた。パクノダは、何よりもそれに脅威を感じた。

 

 眼前の男が、恐らく噂の逆十字だろう。夜更けのスラム街を調査するパクノダとジャッキーの前に滲み出るように現れた人物は、纏う空気だけで強者と分かった。白いファーの付いた黒いコートにオールバック、額には十文字が彫ってあった。

 

「もし、そこの方。私はジャッキー、こちらはパクノダ。連続死事件を追うプロハンターである。すまぬが調査に協力してもらえないだろうか」

 

 男はジャッキーを完全に無視した。一瞥すらせず、パクノダのみを眺めている。

 

「生かしたまま捕らえられようか?」

「無理でしょうね」

 

 余計な制限を設けて向き合えるような相手ではなかった。大人しく協力に応じてくれそうな雰囲気でもない。パクノダとジャッキーは臨戦態勢をとり、最大限の警戒をした。別段、逆十字の男は敵意をむき出しにしているわけではなかったが、それでも理解してしまうのだ。ハンターとしての本能が、眼前の男の凄まじさを。

 

 それでも、この二人なら戦える自身がパクノダにはあった。

 

「久しぶりだな。大事ないようでなによりだ」

「……あなた、何?」

 

 旧友に再開したかのような気軽さで、男はパクノダに声をかけた。ジャッキーが視線で問いかけ、パクノダも心当たりはないと否定する。手の中に汗を滲ませて、靴の裏で路面を踏み締めた。会った記憶は全くない。だが、しかし、その一言に奇妙な違和感を憶えたのが引っ掛かった。

 

「へー、ホントに忘れてるんだ。団長の言ったとおりだね」

「疑ってたのかい? 呆れたよ、全く」

 

 細い通りに新しい絶望が追加された。逆十字の男はジャッキーに任せ、パクノダは新手に向かって振り向いた。若い男女が二人。最悪な事に、揃って達人の域にあった。これで戦力は2対3。無論、念能力者の戦いは単純に人数で決まるものではないが、不利な要素に違いはない。

 

「なんだ? お主ら我らに何の用だ?」

 

 パクノダと背中を合わせたまま、ジャッキーが野太い声で問いかけた。よく響く声が夜の街に反響し、夜闇の冷たい静けさを強調した。

 

「別に? 大した用事じゃないよ。ただ、そちらのお嬢さんと暫くお話ししたいだけ」

 

 筋肉質な童顔の男が笑顔で答えた。それは脅迫以外の何かとは思えなかったが、念のため、ジャッキーはパクノダに確認をする。それに、パクノダは心からの拒否をこめて首を振った。

 

「断る、との事だが?」

「なら、無理矢理でもね」

「そうか」

 

 リーダー格らしい逆十字の男に視線を合わせたまま、ジャッキーは厳かに頷いた。

 

「悪を許さぬは我が誓約。そして誰かを裏切らぬも我が誓約だ。だが、罪を憎んで人を憎まぬのも我が誓約。悪い事は言わぬ。改心召されよ。狭く息苦しい人欲の道と違い、天理の道は甚だ広く、楽しいぞ」

「悪いけど、オレ達そういうの興味ないんだ」

 

 ジャッキーの善意を、童顔の男が一蹴した。隣の女が一歩進み、逆十字の男に向けて確認する。

 

「ちょいと邪魔だね。排除していいかい?」

「ああ、そうだな」

 

 肯定し、逆十字の男が一歩を踏み出す。その瞬間パクノダは戦慄した。あまりに洗練されすぎた動作だった。背中越しに感じた気配だけで、肌が粟立つに十分だった。パクノダとて凡百の使い手ではない。しかし、優れているからこそ鋭い嗅覚がある。同じ事はジャッキーも感じ取っていたが、生来の剛毅さに任せて黙殺した。

 

「よろしい。ならば私が説法して進ぜよう」

 

 ジャッキーが右手を軽く掲げた。空間が揺らぎ、錫杖が虚空から出現した。次いで現れた三鈷鈴が左手に握られる。しゃらんと、りんと、音が鳴る。

 

 これは【衆生無辺誓願度(グレートビューティフルミュージック)】と名付けられた能力だった。どこぞより愛用の楽器を取り出し奏でる能力だが、その真価はこの程度ではない。頭上の空間が大きく震え、何か巨大な存在が滲み出る。

 

「よいか、まずは聞くのだ。私の梵唄に耳を傾け、心を清くする事から始めるがいい。さすれば塵世苦海をするりと抜け、雲の白きと山の青きを楽しめよう」

 

 それは見事な梵鐘だった。全高が3メートルはあるだろうか。大きく、肉厚で、見るものに圧倒的な質量を想起させる鐘が浮遊していた。ジャッキーから潜在量の半分にも及ぶオーラを分け与えられ、鳴るべきは今かと佇んでいる。ただひたすらに壮大で、畏怖すべきは鈍重に。その周りを、大小数多の木魚と木柾と団扇太鼓が、ちりばめられる様に浮かんでいた。

 

 能力の発動は速くはなかったが、呆れるほど早く滑らかだった。3人の不審者は揃って先制をかけようとしたが、それでも尚、その隙を妨害することができなかった。

 

 これこそ、ジャッキー・ホンガンが本気で戦う際に用いる能力である。

 

「参る」

 

 屈強な体躯が跳躍した。パクノダが地を滑る様に疾走する。童顔の男は構えを取り、女は建物の壁面を蹴って駆け上がり、逆十字の男が後方に下がり支援の体勢に入った。闇に沈んだ街の片隅で、今宵、彼らの命が激しく揺れた。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 眼下には夜景。切り裂くは春風。きらびやかに輝きがちりばめられた都市の上空から、サンダーチャイルドは地上すれすれに向けてダイブを始めた。街の明かりの一角に、河の様にも見える高速道路があった。その高架橋ギリギリを目掛けて巨体が迫る。対地速度は時速200kmを超えていて、このまま地面に吸い込まれていきそうな錯覚に陥る。

 

 上から見た高速道路には車がなかった。林立する照明に照らされた路面はがらんとして、冷たい寂寥だけが流れている。完全に封鎖されたコンクリートの大動脈。そこを、真紅のスポーツカーが疾走していた。向こうもこちらを視認したのだろう。お互いにランプを点滅させて意思を交わした。

 

 これから続く長い直線が最初で最後のチャンスだった。失敗は最初から想定されていない。アルベルトもカイトさんも信じてるけど、何もできない自分が歯がゆかった。

 

 サンダーチャイルドの船体が予定のコースに収まった。高低差およそ20メートルでの高速安定航行。揺れを鎮めたというより流れの中にそっと置かれたという感触。この艦の操舵手さんは物凄く、いえ、ヒトを超越した領域で上手だった。後部のランプドアが解放され、そこから大きなネットがたなびいた。

 

 その様子を確認して、スポーツカーのルーフが爆ぜた。鋼板が風圧で吹き飛んで、後方で路面と衝突して火花を散らす。一瞬で即席のオープンカーに転じた車の車内には、二人のハンターの姿があった。

 

 運転席でハンドルを握るアルベルトと、アッパーを放った体勢のカイトさん。彼らは風圧も金属やガラスの破片さえものともせずに、こちらに向けて軽く手を上げる余裕すらあった。その様子に、わたしは少しほっとする。

 

 飛行艦の位置関係を把握して、最後にもう一度地上を確認して、次の瞬間、二人は大きく跳躍した。踏み締められた車はシャーシが曲がり、あっという間に横転して砕けていく。それでも、それに注目する人は誰もいない。

 

 飛翔。片手で帽子を押さえるカイトさんの長い髪の毛が夜景に舞って、アルベルトの冷静な眼差しが澄んだ光を瞬かせて、綺麗だなって、そう思った。飛び上がった二人は風圧に押され、だけどそれすら計算に入れて夜の大気を疾走した。アルベルトだからこそできる高度で柔軟な弾道計算。それは当然のように最良の結果を弾き出し、二人はネットに掴まった。

 

「もう……。無茶するんだから」

「はっはっは。男ってのはそういうですよ、嬢ちゃん」

 

 安心してしゃがみ込むわたしにそう言って、艦長さんが笑い声を上げた。航海艦橋が歓声に沸く。そうこうしてるうちにまもなく、後部ランプが閉鎖され二人とも無事回収されたとの報告があった。

 

「アップ20! 第ニ戦速!」

 

 下令され、艦内の空気が引きしまる。すぐにカイトさんとアルベルトもやってきて、艦隊司令部として機能するための設備がフル稼働を始めた。憲兵司令部から矢継ぎ早に現状が伝えられ、陸軍空挺師団からは部隊の展開計画が承認はまだかと届けられる。あっという間に情報を把握して、瞬く間に指示を下していくアルベルト。その様子をちらりと確認すると、カイトさんはわたしに向き直った。鋭い視線が胸に染みた。

 

「頼むぞ」

「はい。任せて下さい」

 

 たった一言。わたしはそれに全力で応える。だってそれしか、できないから。

 

「艦長さん、状況次第では近接支援に切り替わるかもしれません」

「アイマム。ウエポンベイには準備を命じておきます。幸運を」

「ありがとう。お互い、頑張りましょう」

 

 検問や要所の防衛が次々に確認されていく声を背に、防空指揮所にわたしは向かった。パクノダさんとジャッキーさんから緊急コールが発信された後、連絡が取れなくなっていた。雨は今の所降ってないけど、わたし達は予想される全てに対処する必要があった。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 ジャッキー・ホンガンは4種類もの発を修得した念能力者である。加えて念の基礎能力と身体能力も高いレベルで持ち合わせており、武術においても相当の達人である事は間違いない。であるにも関わらず、戦闘においては致命的な弱点が存在した。保有する能力が、尽く実用性を度外視されているのである。否、常人とジャッキーでは実用性の概念が全く違った。

 

 跳びながら靴を脱いで裸足になったジャッキーは、己が喚んだ浮遊する梵鐘の上に着地した。マチが壁面を立体的に機動する。念糸を繰り出し、張り巡らせながらの垂直疾走。彼女は瞬く間に間合いを削り、首筋を目掛けて手刀を放つ。なんの躊躇もない鋭い一撃。ジャッキーはそれを紙一重で躱し、しなやかな体術に目を見開いた。

 

「なんと、見事な」

 

 この女だけでもかなりの脅威だ。歴戦の経験で即座に悟ったジャッキーは、右手の錫杖を大きく振り下ろした。号令一下、全ての楽器がビートを刻む。大音響が辺りに響き渡った。木魚の奏でる素朴なメロディー。堂々たる低音の梵鐘。甲高い木柾が裏を打ち、団扇太鼓が高らかに鳴った。ジャッキー本人も左右の錫杖と三鈷鈴を手に舞い踊り、音曲のリズムに全身を委ねて唱いだした。

 

 その様子に、マチは一瞬躊躇した。念糸で空中に編み込んだ足場に身を乗せたまま、突然踊りだした大男の奇行に全身全霊で警戒した。念能力者同士の戦いであるが故に、この演奏に如何なる特殊効果があるか不明だったからである。まして、彼らには同系統を思わせる仲間がいた。

 

 しかし、躊躇はただの一瞬だった。地上にはクロロが控えている。故に、彼女が不安に思う理由は何もなかった。あるいは敵にしてやられても、それは彼女の宿命だろう。そう思いきれるだけの信頼があった。問題ない。それこそマチの直感が出した答えだった。彼女の直感は全く正しく、彼女の警戒は無意味だった。

 

 グレートビューティフルミュージックが奏でる音に、いかなる特殊効果もありはしない。ジャッキーはただ純粋に、音楽を聴かせたいが為に最大潜在量の半分という膨大なオーラを費やしていた。否、何の効果もないからこそ、聴かせる意味があると信じていた。

 

 梵鐘の上で唱い踊るジャッキー目掛け、糸を足場にマチが迫る。構造物の谷間の空中戦は、マチにとって最良の舞台だった。多少宙に浮けるからどうしたのか。マチであれば、三次元機動で自在に移動し、体術と念糸で思うがままに攻撃できる。さながら、囚われの蝶に迫る蜘蛛の様に、速度も手段も選択肢の幅も、全てが彼女に有利だった。

 

 それでも、世の中には、常識ではどうにもできない馬鹿がいる。

 

 木魚達が飛来する。ボクポクと嬉しそうに鳴りながら。立体音響を堪能させようとマチの背後に廻ってきたそれを、彼女は意図も知らずに念糸で破砕した。微かに注意が逸れたその隙に、ジャッキーは梵鐘の上から消えていた。

 

 跳んだか? マチが見上げたのも無理はない。だが真実はそこにはなく、念糸が振動を伝えてきた。気付き、マチは目を見開いた。ジャッキーはマチの念糸を完全に信頼して、それを踏み締め駆けて来たのだった。右手には長い棒状の錫杖を掲げ、左手には鋭い三叉の三鈷鈴を携えている。オーラも存分に込められていたため、マチは武器による攻撃を警戒した。

 

 直後、ジャッキーは両手を手放してなおも駆けた。宙に浮かぶ錫杖と三鈷鈴。ジャッキーにフェイントのつもりはさらさらなかった。これらはあくまで楽器である。ジャッキーは奏でるために楽器を呼び出したのであり、攻撃に使わないのが誓約だった。

 

 敵の間合いの読み間違えに、マチは内心で歯噛みした。ジャッキーに上手く立ち回られ、至近距離に立ち入られたのが苦々しい。お互いに念糸の上にいる以上、離れてしまえば相手はマチの掌の上だったが、こう食らい付かれたのでは容易に離脱できるはずもない。少なくともジャッキーが隙を見せるまでは、格闘戦に付き合うしかないのだろう。だが、マチとて格闘は苦手ではない。

 

 オーラを集中させたジャッキーの太い腕が唸りを揚げ、マチの放った渾身の拳打に迎撃される。轟音が夜闇に爆散した。爆風が衝撃波となっていた。星空が揺れ、地面が震えた。既にこれは格闘ではない。ただ純粋な破壊だった。

 

 互角。否、技では紙一重に劣り、力では紙一重に上だとマチは見切った。ならば力に任せて畳み掛けるべきである。マチは即座にそう判断した。それは、己の命を捨てる決断だった。迷う事なく打ち込んだ次の一撃に、ジャッキーの拳が激突した。しからば、更に次を放つだけだった。

 

 双方、糸の上で器用にバランスをとりながら、渾身の拳が次々に繰り出される。己の無事などどうでもいい。虚実を混ぜ得る狭間もなかった。マチも、ジャッキーも、ただ一心に打撃を繰り返している。そこに妥協は全くなかった。奥歯を噛み砕く思いで全身全霊の一撃を捻り込み、相殺されれば忘却し、次の一撃に魂を掛ける。少しでも速く、微かでも強く、瞬息でも早く拳を振り抜き、刹那より短い間隙を見抜き、虚空より微かな勝機をつかむ。瞬き一つ分の隙すらあれば確実に、どちらかの首が吹き飛ぶだろう。

 

 生と死の一線など知らぬとばかりに殴り合う二人を取り囲むように、数多の楽器が浮かんでいた。攻撃してくる気配はなく、特殊な効果もありそうにない。ただ、あるときは激しく、あるときは緩やかに曲を奏でている。耳に染み入るいい演奏だった。殴り合いに興じる自分を俯瞰する冷静な部分が、涼やかに澄み渡っていくのを感じた。ああ、こういう発かと、マチは直感で理解した。悔しいが良くできた能力じゃないかと、マチは心中で穏やかに賞賛した。穏やかで優しい殺意だった。

 

 渾身の中の渾身、全力の中の全力で腕を振るった。生涯最高と誇れる一撃。マチが今まで放ったどの打撃よりも、この拳は重く速かった。時間がひどく緩やかに感じる。静寂の支配する短い狭間に、マチはジャッキーが目を見開いたのを視認した。衝突の刹那、迎撃したジャッキーの左腕が弾け跳んだ。肉はおろか骨まで砕け、肩から先が粉砕された。今度は、マチが目を見開く番だった。

 

 ジャッキーの左腕にはオーラがなかった。恐ろしいほど速く、思いきりのいい流だった。左腕を犠牲に、ジャッキーは一歩踏み込む権利を得た。そこは、マチの懐の内だった。

 

「ぬぅん! スーパービックリボンバー!」

 

 怒号と共に、拳が鳩尾に吸い込まれる。やられた。この一撃は喰らうしかないが、即座に反撃して頭部を砕こう。例え、はらわたが破裂し飛び散ったとしても。マチは己の中でそう決めた。染み付いた反射に任せて打点をずらして威力を削ぎ、刹那の内に相手を打ち据える、筈だった。事実、打撃には見事に対処できた。

 

 しかし、全身の神経が発火して動けなかった。動けないまま衝撃で浮かんだ。全身が感電したようだった。刹那の時間が流れる中、マチは追撃を防ぐ術がない事を思い知った。ゆっくりと、ひたすらゆっくりと浮かぶ間、マチは己の死を覚悟していた。

 

 予想していた追撃はなかった。ジャッキーは微動だにせず機会を逃し、マチは落下しアスファルトに叩き付けられる寸前、クロロの腕に受け止められて、シャルナークの背中に庇われた。

 

「……悪いね。助かったよ」

「いい。それよりパクだ」

 

 クロロに促され、マチはパクノダに目を向けた。そして目を見開いた。パクノダは具現化した拳銃を片手に持って、未だ毅然と佇んでいる。マチとジャッキーが戦っていた時間は無限に等しく感じたが、正味では2分もないだろう。わずか、2分。しかしそれだけの間、クロロとシャルナークを相手に粘ってみせたのだ。いかに彼らがパクノダを殺すつもりがないとはいえ、凄まじいまでの健闘だった。

 

「まいった。凄いね、パクは」

「パクは凄いよ。昔からね」

「ああ、そうだったね」

 

 シャルナークの言葉にマチは頷く。パクノダはそれに怪訝な表情をしていて、マチは少し苦笑した。どうして自分を知ってる風に話すのかと訝しんでいるのだろう。合った記憶の全くない、完全に初対面のはずの人間が。その理由は、是が非でも教えてやる必要があった。

 

 パクノダの隣に、ジャッキーが上空から降り立った。やはり左腕は消失している。流れ出るはずの血をオーラで止め、何も問題はないと悠然としていた。纏の揺らめきにも動揺はない。あたしの獲物だとマチは思った。クロロの胸を軽く叩き、降ろしてくれと合図を送る。

 

「立てるか?」

「大丈夫、みたいだね」

 

 クロロの腕から解放され、四肢の調子を確認する。異常も違和感も全くなかった。これなら、戦闘にも支障はないだろう。

 

「彼ら、強いわね」

「うむ。予想した以上の猛者なようだ」

 

 パクノダとジャッキーが頷きあった。わずか1ヶ月程度と短い期間の付き合いのはずだが、二人は既に、信頼で結ばれた仲間だった。

 

「どうかな? 大人しく協力してくれる気にはならんかな?」

「何いってんだい? 論外だね」

「……残念だ」

 

 本気で残念がっているのだろう。ジャッキーは苦悩に顔を歪め、己の無力さを噛み締めていた。

 

「どうするの? あたしをおいて逃げた方が利口みたいよ?」

「だろうな。カイトかアルベルトであればその手もあろう。さすれば情報を持ち帰れる可能性もあろうが、しかし性に合わん。悪を許さぬという誓約以前に、性に合わんよ、パクノダ」

「ふふっ、どうも。あなたらしいわ」

 

 その様子を、マチは苦々しく眺めていた。

 

「そろそろ再開と行こうよ。オレ達もそんなに暇じゃないんだ」

 

 告げて、シャルナークが再び臨戦態勢に入る。それを止めたのがジャッキーだった。

 

「いや、方々、しばし待たれよ」

「……なんだ?」

「なに、一つ宣言しておこうと思ってな。ここに誓おう。パクノダを必ず無事に帰すと。今後、如何なる状況でも仲間を一人も失わぬと。しからざれば則ち死すと」

 

 その言葉に3人は警戒した。土壇場における誓約の追加、それも命を掛けるという強烈な。ならば、相応の力を手に入れて然るべきである。そう、あくまでジャッキーが普通の念能力者だったなら。

 

 ウルトラデラックスライフによって定められた誓約は純粋な戒めであり、念能力に影響を与えることはない。むしろ、オーラの量や能力の制御に好材料を与えないために編み出された能力だった。故に新しい制約、仲間を失わないと決めた彼の覚悟も、新たな足枷を填めただけである。対価を得ない誓約。しかし、だからこそ誓う価値があるとジャッキーは考えた。報酬を期待しての決意など、なんと味気ないものではないか。念能力の為ではなく、人生を面白くする為の誓約こそが、彼が求めたものだった。

 

 だが結局、そこまでして定めた誓約も、ジャッキーにとってはただの言葉にすぎなかった。法の為に纏せられず、空の為に纏せられず。もし誓約が現実にそぐわなくなったならば、彼は躊躇なく破るだろう。当たり前のように死ぬだろう。ジャッキーとはそのような男である。

 

「そうか。なら、オレも一つ告げておく事がある」

 

 そして、ジャッキーが求道者であったならば、クロロ達は生っ粋の盗賊であった。

 

「うむ、なにかな」

「オレ達は盗賊。欲しいものがあれば奪うだけだ」

「ぬう、なんとな……」

 

 誓約の追加で、ジャッキーが如何なる力を手に入れていても関係なかった。幻影旅団は盗賊である。旅団にとって障害の多寡は、盗みに際して考慮すべき要素の一つでしかなかった。まして他人の覚悟など、踏み潰す対象以外の何かではない。結局の所、すべき事は最初から何一つ変わってなかった。

 

「男の方から片付けるぞ。マチ、あいつの能力は使えそうか?」

「ああ、多分ね」

「よし。なら、可能であれば生け捕りにしてくれ。シャルはパクを引き着けろ」

「わかった」

「りょーかい」

 

 クロロが右手に本を具現化した。彼が何をしたいのか、パクノダにもジャッキーにも分からなかったが、何かをしたいのは理解できた。故に、二人が選んだのは先制であった。クロロほどの強者が行う決定的な何かを見逃すぐらいなら、例え罠であろうと飛び込んでいく方を選択したのだ。

 

 未だ上空に浮かぶ楽器類が、ジャッキーの意気込みに呼応して激しくリズムを刻みだした。梵鐘が大音響で響き渡り、周囲の空気を再び飲み込む。拳銃を具現化したパクノダが前衛を勤め、隻腕となったジャッキーが後ろに続いた。

 

「マチはそこで構えていろ」

 

 即席のコンビネーションで突進してくる二人に対して、クロロとシャルナークが迎撃に駆けた。シャルナークがパクノダを押さえに向かい、彼の後ろにクロロが控える。

 

 パクノダが低い姿勢で間合いをつめた。彼女の右手には、無骨な拳銃が握られている。具現化された彼女の相棒。弾丸に特殊な効果もなく、オートマチックですらなく、重く大きいだけの古風な構造。

 

 それでも、ただ、殺意があればそれでいい。

 

 重厚堅牢。人体を壊す為だけに生み出された単純性能。時代を超えた艶やかな金属。生産性を向上させ、洗練された鋭いフォルム。伝統と格式の王国が生み出した、今や遺物となった中折れ式のリボルバー。そは.455口径。覇権国家が握った蹂躙の象徴。銃火器に対して先入観のない、撃たれたショックで無力化されない人間をも問答無用で殺傷する為の設計思想。6インチのバレルから繰り出される必殺の弾丸、6連装。

 

 ウェブリー&スコット Mk.VI

 

 確かに重くかさばりはする。装弾数も少なめだった。だが、それがどうした。現代の軟弱な軍用拳銃とは、砕いた脊髄の数が、撒き散らした臓物の数が、踏みにじった希望の数が違うのだ。

 

 念とは、想いに宿る力である。

 

 具現化された拳銃に暴発などない。弾倉に直接弾丸を具現化し、シャルナークに向けて全弾放った。込められたのは十分なオーラ。飛来する6連の軌跡をステップで躱したシャルナークが見たものは、眼前に迫るパクノダだった。

 

 ハイキックが顔面に突き刺さる直前で、シャルナークは体軸を捻ってどうにか躱した。体勢を立て直すのは同時だった。掌中に隠し持つアンテナは刺せそうにない。達人同士の戦いでは、気軽にアンテナを刺せるほどの隙は滅多に生まれない。少々強引に攻め込めばあるいは成功したかもしれないが、下手な刺し方を試みて失敗し、警戒されては目も当てられない。人体操作の能力だと看破され、ならばと自害等を計られては最悪だった。とにもかくにも、パクノダは信頼する仲間である。下らない理由で損耗していい人物ではない。その懸念が、シャルナークの腕を鈍くしていた。決定的な隙が必要だった。

 

 シャルナークの躊躇を読み取ったのか、パクノダの動きのきれが一段と上がった。精錬された肢体を駆り、研ぎ澄まされたオーラが揺らめいて消えた。フェイントかと身構えたシャルナークは、すぐに猛襲する脅威に気が付いた。それは、隠を施された巨体だった。

 

 拳銃を構えながら、サイドステップで道を譲るパクノダ。即興にしてはひどく息のあったコンビネーション。豪快に振り上げるジャッキーの右腕を躱したとしても、パクノダの拳銃が襲うだろう。知らず、シャルナークは冷や汗をかいていた。だが、それも長くは続かなかった。

 

 それは突然の出来事だった。突如、コンビネーションの前提が消えた。相方が存在するという大前提。それを奪ったのがクロロだった。シャルナークを援護する位置にいた男が何をしたのか定かではない。ただ、彼が何かを行ったとき、ジャッキーの姿が消えていた。否、マチの眼前に転移していた。

 

 マチに動揺はなかった。するはずがない。団長に構えていろと命じられたのだ。だから、構えていた。全身全霊で構えていた。目の前にジャッキーが現れたとき、マチの反応はスムーズだった。一瞬で念糸を張り巡らせ、獲物を幾重にもからめとった。

 

 突然現れた厳重な拘束を、ジャッキーは力任せに解こうとする。が、筋力はマチが勝っていた。わずか紙一重の差でしかないが、その隔絶が遥かに遠い。

 

 相手の連係を逆手にとったクロロに対して、パクノダはとっさに全弾を掃射した。それは悪くない判断だったが、彼ら旅団には通じなかった。シャルナークは迷わず己の身を盾にして、全身でクロロをガードした。その堅は、もはや硬に近い意気込みだった。庇われたクロロは防御を気にせず、パクノダの側面に回り込んだ。

 

 懐に入られたパクノダ、次々と繰り出されるクロロの拳を、ただひたすらに捌くしかない。悪循環に臍を噛むパクノダに対して容赦なく、何かが肩に突き刺さった。

 

 

 

 厄介ね、とパクノダは思った。推測するに、他人を操作する念能力。状況は既に致命的だった。話をしたいと彼らは言っていたが、その程度で済まない事は明白だった。

 

「シャルナーク」

「ん? ああ。それが例の。まかせて」

 

 逆十字の男が何かを取り出し、金髪の男に投げ渡した。一つの弾丸が宙を舞った。パクノダにとって見覚えのある、いや、体の一部といえるほど慣れ親しんだシルエット。

 

「しくじるんでないよ」

「まっさか。オレを誰だと思ってるの?」

 

 ジャッキーを念糸で押さえたまま、女が鋭い目で忠告した。金髪の優男は軽く応え、渡された弾丸を弄ぶ。

 

 .45ロングコルト弾に比べて薬莢長が短く、全長も僅かに短く、特徴的な大きなリム。パクノダが見間違おうはずがない。それこそ.455ウェブリー弾。紛う事なく、彼女の愛銃の弾丸である。

 

 なぜこれを用意できたのか。何を目的としているのか。パクノダの疑問は尽きなかったが、今はなによりも呟きたい事があった。悪趣味ねと、せめて一言いってやりたかった。

 

 操作されるまま、流れるような動作で銃をブレイクする。体に染み付いた動きが皮肉だった。6個の空薬莢が勢いよく排莢され、カランと地面に落ちて空気に溶けた。渡された弾丸を装填して、パクノダは自分の死を覚悟した。微かだが、懐かしい感触の弾丸だった。破壊の意思とは別物の、何かが込められている気がした。

 

 拳銃がこめかみに押し当てられる。どうせら初撃で脳幹を撃たれたかったが、最終的な結末は変わるまい。この場所でパクノダは終わるのだろう。あまり実感が涌かないのが意外だった。彼女自身、決して鈍い方ではないと思っていたが、どうやら過信だったようだった。死に際して、パクノダには残すべき言葉もなければ執着すべき未練もなかったが、事件の解決を見れなかったのが残念だった。

 

 闇夜に、一発の銃声がこだました。

 

 

 

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【衆生無辺誓願度(グレートビューティフルミュージック) 放出系・操作系】

使用者、ジャッキー・ホンガン。

いずこより愛用の楽器を呼び出し自動演奏させる。

呼び出した楽器は誰かを傷つける為に用いる事はできず、奏でられた音は如何なる特殊効果も持たない。

演奏の技術は能力者本人のそれに準ずる。

 

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次回 第十二話「ハイパーカバディータイム」


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