コッペリアの電脳   作:エタ=ナル

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第十八話「雨の日のスイシーダ」

 地下。リノリウムに赤い河が流れている。照明は所々破裂して薄暗く、白かった壁は面影もない。分厚い鋼鉄の隔壁に、豪快な穴が開いていた。兵器による整った破壊ではなかった。もっと原始的で強引な、単純な打撃の跡だった。かつて人体だった名残りの破片が、長い通路に散乱している。壊れたスプリンクラーが一つ、延々と誤作動を続けていた。地中雨が降っていた。

 

 シャルナークとフィンクスが歩いているのは、そんな、終わってしまった世界だった。彼等以外、動く人影はどこにもない。靴が血を踏み締めるのも気にせずに、二人は肩を並べて歩いていた。足取りを邪魔する者は一人もいない。妨害できるような人間は、どこにも残っていなかった。

 

 フィンクスは大きな袋を担いでいる。身長の半分近くもあるだろうか。その荷物は、ひんやりと念入りに冷やされていた。

 

「よう、マチ。待たせたな」

「あれ、フェイタンは?」

 

 地下司令部を出て地上へ上がり、二人はマチと合流した。もう一人の仲間の姿はない。問われたマチは簡潔に答えた。死んだよ、と。

 

「例の女か?」

 

 フィンクスは最小限の確認をする。冗談などとは思っていない。そのような事、眼前の女が口にするはずなかったのだ。だが、彼女は違うと否定した。

 

「キレてその女を消し飛ばした後、オーラを使い切ったとこに狙撃を受けたんだ。死体もどこにも残っちゃいないよ」

 

 二人は顔を見合わせた。

 

「あいつらしいな」

「だね」

 

 オーラの加護あっての念能力者だ。一般人から見れば非常識なほど肉体を鍛えていたフェイタンだが、体を鋼鉄製にしたわけではない。激情に任せて能力を使用する特性の弱点を、見事に突かれた形だった。

 

 詳しくは歩きながら話すよと、マチはさっさと振り返って発とうとする。言葉は普段以上にそっけなく、動作の節々が少し重い。機嫌が悪いようだった。なんだかんだ言っても仲間の死が、胸に突き刺さっているのだろう。彼女はそういう性質だった。

 

「あ、マチ。その前にちょっとこれ見てよ」

「……なんだい?」

 

 シャルナークが指して示したのは、フィンクスの担ぐ荷物だった。下ろされて、ジッパーが彼女に向けて開けられる。マチの眼光が険しさを増した。そのままじっと数秒間、彼女は袋の中身を見つめていた。

 

「……勘だけど」

 

 十分だ。二人は無言で頷いて、マチに続きを促した。彼女の勘は極めて鋭く、旅団の皆が信頼していた。

 

「パクだと思う」

「やっぱりな」

「まあ、間違いはなかったって事で。団長にはオレから報告しとくよ」

 

 携帯電話を取り出してシャルナークが言った。最後に情報を纏めるため、親指を高速で動かして操作している。言われた通り彼に任せ、フィンクスとマチは一足先に歩き出した。未だに敵中であるこの場所で、ぞっとするほどゆとりがあった。

 

「んじゃ、オレは保冷車でもかっぱらって来るか。速度でそうなのが見つかるといいんだがなぁ」

「向こうに合流する気かい? 団長は無理に急ぐ必要はないっていってたじゃないか」

「馬っ鹿、おまえだってこんなんじゃ全然暴れたりねぇだろ。なあ?」

「あんたやフェイじゃないんだからさ。で、間に合うのかい?」

 

 間に合わせるさとフィンクスは笑った。会話の内容は物騒だったが、快活で嫌味のない笑みだった。

 

「げ」

「なんだよ」

 

 突然声を上げたシャルナークを、フィンクスが訝しげに振り返る。

 

「マチ。そのエリスって女、確かにフェイタンの能力を受けたんだよね?」

「間違いないよ。アタシの記憶が確かなら、一番強力な奴だった。どうしたんだい?」

「生きてるらしいよ」

 

 二人へ向けた携帯電話の液晶には、誰かの視点が映っている。総司令部に食い込めるような人物なのだろう。指令室の慌ただしい騒乱ぶりは地下への侵入者によるものだろうが、それとは別に、壁面の大型モニタにもう一つの重要情報が踊っていた。

 

 エリス・エレナ・レジーナ、生存確認。現在位置——。

 

 今度は、フィンクスとマチとが顔を見合わせる番だった。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

 体中が痛んで目が覚めた。胡乱な頭で辺りを見回す。白い天井、白いシーツ。蛍光灯が明々と灯る病室の中、わたしはベッドで寝かされていた。

 

「気が付きましたか」

 

 声がして、顔を向けると誰かがいた。五十歳ぐらいだろうか。白衣を着ていて、いかにも医官って格好の女性。柔和な微笑みの目尻には、隠しきれない疲れがあった。

 

 痛む腕に力を込めて、上半身を起こしてそちらを向いた。尋ねたい事は山ほどある。この場所の事、今の時刻の事、犯人や襲撃者の人達の事、そしてなによりアルベルトの事。だけど、声を出そうとして咳き込んだ。喉が、肺が、ずきずきと焼けるように痛くて熱い。

 

「急がなくても大丈夫ですよ。お水、飲めますか?」

 

 優しく笑って、女の人が水をくれた。コップを両手で受け取って、ちょっとずつ喉の奥へ流していく。それだけでもう痛いけど、水はとても美味しかった。体が水分を欲していた。

 

「お目覚め次第ワルスカ大将に取次ぐよう指示を受けておりますが、よろしいですか?」

 

 頷いた。一にも二にも情報が欲しい。一体何がどうなったのか。とにかくそれが知りたかった。わたしの意志を確認して、女性は部屋を出ていった。ふらつくように、だけど隠しようもなく足早に。

 

 その行動に違和感を感じて、改めて自分の状態を見直して気が付いた。わずかだけど、纏が緩んでオーラが漏れてる。念の使えない人間には、堪え難い嫌悪感を与えるはずのわたしのオーラが。あのおばさんやわたしを回収してくれただろう人達は、これに耐えてくれたんだ。頭が下がる想いだった。

 

 緩みかけたリボンを締めるように、纏をもう一度しなおした。見れば、ドレスもほとんど乱れてない。普通、こういうときは服を切るか脱がせるかして、怪我の確認や治療行為の一つもすると思うけど、襟元がちょっと寛げられてるぐらいだった。だけどそれだって、どれだけ決死の覚悟でしてくれたのか。本当に迷惑をかけてしまったようで、申し訳ない気持ちになった。

 

 体内にオーラを循環させると、少し体が楽になった。喉もヒリヒリと痛いけど、何とか喋る事はできそうだ。相変わらずこの体の回復力は、出鱈目なほどに高かった。

 

 落ち着いてくれば思い出す。あの、迫り来る炎の奔流を。とっさに翼で遮ったけど、余波だけで喉を焼かれてしまった。憶えている。とても怖くて熱かった。全開にしたオーラでも防ぎきれず、がむしゃらに翼を延ばして繭にした。

 

 いったいどれだけ想いを込めれば、あんなオーラが出せるんだろう。どれほど修行に専念すれば、あんな高みに至れるんだろう。生まれつき能力を持たされた私とは全然違う、人生に息づいた念だった。あの人達がやってる事には絶対賛同できないけど、ひた向きな在り方は眩しくて、憧れてしまう自分がいた。

 

 だけど、そういう真っ当な努力を積み上げる人達を、わたしは踏みにじりながら存在している。今までも、そして確実にこれからも、その中にはもちろん、アルベルトだって含まれている。

 

 考え込んでるうちにノックが聞こえた。どうぞと言うとドアが開く。一人で入ってきたワルスカさんは、わたしを見るなり破顔した。

 

「おお。元気そうじゃないか」

「ごめなさい。迷惑をかけてしまったみたいで」

 

 ガラガラの声で応対する。頭がズキンと強く痛んで辛かったけど、全力の猫かぶりで微笑んでみせた。女の子をなめたらいけないのだ。

 

「いや、こちらこそすまんな。我々のため、命がけで早期出撃してくれた恩人に対して、ろくな検査も治療もしてやれなかった」

 

 そう言って、ワルスカさんは一つのポシェットを差し出してきた。それを間違えるはずがない。わたしの大切な宝物。慌てて中身を確かめれば、卵の化石は確かにあった。ひび割れの一つも見あたらなかった。ほっとして脱力してしまうわたしを優しそうに眺めながら、ワルスカさんはベッド脇に粗末な丸椅子を置いて座った。

 

「さて。じっくり話し込みたい所だが、あいにくと私にも時間がない。手早く説明させてもらうがよろしいかね?」

 

 異論なんてあるはずない。ポシェットを抱き締めながら頷いた。ワルスカさんがやや早口でまくしたてたのを要約すると、だいたいこんな感じになる。

 

 あの時、敵の攻撃で吹き飛ばされたわたしは、衛星携帯電話の測位システム端末が生きてたおかげで素早く位置を特定してもらえ、空中衝角艦サンダーチャイルドによって回収された。その際、謎の恐怖感によって少々の停滞は生じたものの、基本的には作業に支障はなかったらしい。……本当に、凄い人達だ。

 

 そしてわたしはここ、首都中心部にある軍医大学付属病院に運ばれた。搬送されたのは二時間ほど前の事らしく、意識が戻って今に至る。ちなみに現在時刻は十三時を少し回ったところ。雨期のタイムリミットまではまだあるけど、作戦開始からはかなりロスをしてしまってる。

 

「駐屯地の方はどうなりました? それに、カイトさんとアルベルトは?」

 

 一番気掛かりだった2つを聞くと、ワルスカさんの表情が苦々しいものに変わってしまった。まさか、と血が引ける。アルベルトになにかあったのだろうか。

 

「カイト君は行方不明、レジーナ君はダメージを負って直接戦闘は厳しい状態だ。そして駐屯地だが、あの時は君に告げてなかったが、戦いの最中、我々は地下司令部への侵入を許してしまっていたのだよ。既に、敵の離脱を許した後だ」

 

 理解した瞬間、立ち上がった。ベッドから降りてドレスを整える。体の痛みなんて関係ない。行かなきゃいけない。爪先から頭の上までガンガン鐘を鳴らしたようだったけど、まともに歩けずふらふらするけど、じっとしてられるはずないじゃない。

 

「出ます。どこへ向かえばいいですか?」

「待ちたまえ!」

「……ワルスカさん?」

 

 信じられなかった。わたしが切り札だと言うのなら、いま使わなくてどうするのか。わたしにだって分かるぐらい、作戦の成否が決まる瀬戸際なのに。

 

「だからこそ、だからこそだ。切り札には切り札でいてもらわなければ困るのだ。時間稼ぎなら我々でもできる。君には、君にしかできない仕事がある。それに、最悪の事態だけはレジーナ君が防いでくれているのだよ」

 

 ワルスカさんは言った。犯人の場所を割り出し、拘束が成功している限り、我々の勝ちは決まっていると。あとはどう勝つか。その勝ち方の問題なのだと。

 

「夜までには到着できるように艦を出す。君はそれまで、全力で休んでいてくれたまえ。何か用意すべきものがあったら教えてほしい。力の及ぶ限り手を尽くそう」

 

 犯人の念能力がよほど状況にマッチしたのか、向こうでは大混乱が起きてるらしい。崩壊寸前の前線を、アルベルトが超人的な能力と努力で支えている。それを無駄にしない為にも、わたしは回復しなければいけない。万全でなければ、荷物になりにいくだけだ。ワルスカさんに、そう諭された。

 

 たぶん、それは正しい。悔しいけれど、すごくすごく悔しいけれど、今のわたしは自分の中の漏れちゃいけない声を押さえる事で精一杯で、他の事に廻すオーラが足りない。直感的に表現すれば、とてもお腹がすいている。勢いに任せて暴走させてしまったなら、新しい問題を増やすだけだ。

 

「……分かりました。シャワーと食事を用意して下さい」

 

 ベッドの縁に座り込んで、わたしは観念して休む意思を伝えた。ワルスカさんが大きく頷く。

 

「うむ。食事は軽いものかね?」

「いえ、お肉を」

「肉を?」

「はい、がっつり食べられる肉っぽい肉を山ほどお願いします。ああ、それから」

 

 ふと思い付いた。験くらい、担いでみてもいいかもしれない。

 

「もし手が空いてる方がいれば、司令部からわたしの衣装をとってきて下さい。薄い緑のドレス一式が、衣装ダンスの中に入ってますから」

 

 ハンター試験に合格した時、わたしが着ていた緑のドレス。アルベルトが選び、似合ってると褒めてくれた宝物。大切すぎてあれから袖を通す事はなかったけど、着れば、強くなれる気がしたから。

 

「ワルスカさんは、これからどうなさるんですか」

 

 わたしがベッドに横たわったのを見届けて、退出しようとする時に何気なく聞いた。

 

「そうだな。告げておかねばならないか」

 

 だけど、振り向いた視線は鋭かった。体から漏れるオーラは乏しいのに、立ち上がる気配が歴戦の念使いのそれだった。強い。わたしの五感が誤作動した。念の代わりに、壮絶な覚悟を纏わせていた。

 

「現場の人間に規程以上の奉仕を要求する際に、上がしてはいけないことはなんだと思う?」

 

 ワルスカさんが質問した。正解は、とっさには浮かびそうにはなかったけど、思い付くままに口にした。

 

「上限をわきまえない事ですか?」

「いや。切り捨てられている、と実感させてしまう事だ。一方的に要求して、彼等を都合よく利用する事だ。上が思っている以上に現場は聡い。安全な場所にいながら精神論を説いた所で、彼等の心を震わせる事はできないだろう。現場に上層部への一体感をもってもらう為には、我が身を削って報賞を出し、彼等が被る不利益を共有する覚悟がいる」

 

 具体的には、金銭であり勲章であり保証であり、最たるものは死の危険だとワルスカさんが説明する。

 

「軍人という連中はね、究極的には、隣で戦う仲間の為に死ぬんだ。国でも、金でも、遠くで待ってる家族でもなく、たまたま配属が同じになっただけの仲間の為に勇敢に振る舞う。私はもう、前線には出れない立場だが、それでも有事に安楽椅子に座ったまま部下を死地に追いやりたくはないのだよ。あの辛さはね、年寄りにはたいそう堪えるんだ」

 

 死ぬつもりですか、とは聞けなかった。わたしがしていい問いじゃないと思ってしまったから。こんな部下思いの上司さんがいれば、現場の人も笑って死んでいけるんだろうか。——それでも。

 

「ワルスカさん。もう一つだけ、お願いがあります。この卵、どうか預かって頂けませんか」

 

 化石の入ったポシェットを差し出してそう言った。ワルスカさんが困惑で眼をぱちぱちして、ちょっと可愛くて面白かった。こんな年輩の男の人でも、そんな表情をするなんて。

 

「大切なお守り、ではなかったのかね」

「はい。でも大丈夫ですよ。まだもう一つ、母の形見のお守りがありますから」

 

 首元に揺れる、翡翠のネックレスに触れてわたしは言った。

 

「それをどうするかはお任せします。誰かに預けて、保管して頂いても構いません。だけどわたしは、ワルスカさんから直接、手渡して返してもらいたいです」

「しかし、私は……」

 

 わかってる。無粋だって。場の空気の読めない、生意気なおせっかいをしてるだけって。だけど切り札が気持ちよく出撃するには、これは絶対に必須事項。自信満々にそう断言して、わたしはワルスカさんの大きな掌にポシェットを押し込んだ。

 

 

 

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 

 

 

「良かったのかい?」

 

 3t保冷車のハンドルを握るシャルナークに、中央席に座るマチが尋ねた。助手席では、フィンクスが盛大にいびきをかいている。アクセルはベタ踏みに近い暴走状態。このままハイウェイを爆走すれば、夜半には他のメンバーに合流できるだろう。その後で少々時間を食っても、荷台のパクノダは痛むまい。

 

「何が?」

「あの飛行船だよ。それが欲しくてこの国にきたんだろう?」

 

 ああそれ、とシャルナークは納得する。確かに、当初はそれが動機だったが。

 

「興味があったのはどちらかといえば技術そのものだったから」

 

 遷音速飛行を可能にする、機体に施された低ムーブ化の設計技術。それが気になったとシャルナークは言った。実機は、ついでに欲しただけだった。

 

「そうかい。ちょっと残念だね。旅団専用飛行船ってのもちょっと興味はあったんだけど」

 

 珍しい事を言い出すマチのセリフがあまりに似合わず、シャルナークが思わず吹き出した。自覚していたのだろうか。睨み付けるマチの瞳はいつもよりわずかに力がない。彼女にそんな顔をさせるならば、盗んでおいた方が良かっただろうか。自身の手で命運を決めてしまった飛行船を、シャルナークは改めて惜しいと思った。

 

 が、どちらにせよ軍用飛行船を13名で運用するという構想は、どう考えても無理がある。オートメーション化が進んだ現代とはいえ、空中戦闘艦の乗員は最低でも50名以上が相場なのだ。戦闘行為をしない前提で、冗長性を完全放棄すれば要員はぐっと減りはするが、それでも旅団では無理があった。

 

 シャルナークはくつくつと笑い続ける。そんな彼にそろそろ肘鉄を決めようかとマチが思案していた時、助手席のフィンクスが欠伸をした。指で涙を拭いてから、備え付けの時計を確認する。

 

「お。そろそろ運転交代か?」

「うーん。ちょっと早いけど頼めるかな」

 

 フィンクスはまかせろと請け負った。車を路端に止め、座る位置を交換する。その途中、ふと空を見上げたシャルナークは、何もない事を確認した。

 

 彼が押し付けてきた置き土産は、未だに作動条件を満たしてない。

 

 

 

 マンホールの蓋が開いた。内側から僅かに持ち上げられ、ゆっくりと横にずれていく。褐色の小さな掌が、下から重そうに支えている。そしてやがて、地中から銀髪の少女が這い出てきた。下水道の中を彷徨った為にあちこち汚れ、泥にまみれて湿っていた。

 

 日は暮れ、宵の始まる時分だった。新市街の夜は明るく楽しくきらびやかで、今の少女には少し寒い。住人達の息遣いがなく、軍靴と装輪がまばらに過ぎるだけなのがせめてもだった。春とはいえ、荒野の夜風はまだまだ冷たい。空に爪を立てる摩天楼が囲む街の底で、少女は孤独に上を眺めた。涙は、ついぞ湧いてこなかった。

 

 どうして教えてくれなかったのか。どうして連れて逃げてくれなかったのか。それを恨む権利は少女にはなかった。ついていきたいと願ったのは彼女のわがままだったのだし、あの男は閨物語であってさえ、愛を囁いてはくれなかったのだ。それぐらい分かってはいたのだが、それでも。

 

 今も、過去も、これかも、少女はずっと一人だった。たぶん、それが真相なのだろう。

 

 疲れて重い体を引きずって、棒のような脚で誰かから逃げる。どこへ逃げればいいのかなど知らなかった。どうして逃げているのかすら分からなかった。追われている者の本能として、ただただ逃げているだけなのだ。

 

 体の芯が痛かった。崩壊の際、地面に叩き付けられたのが原因だった。よくぞ死ななかったと今でも思う。少女は運がよかったのだ。あの時、無意識にオーラを纏うことができなかったら、直後、包囲していた憲兵達が突然混乱しなかったら、少女はここにいなかったろう。それでも、痛い。疲れた。つらい。

 

 一歩ごと、一息ごとに心が削れる。俯きながらふらふらと、よろよろと歩き続けていた。へたり込んでないのは気力ではなく、単に惰性の産物だった。

 

 国家憲兵隊の哨戒網は、何故か混乱の極みにあった。あちこちで同士打ちが相次いで、クーデターまで発生してるらしい。組織としての機能は残ってなかった。そのおかげで、少女はあてもなく街を彷徨い続けた。

 

 いつしか、少女はそこに迷い込んでいた。ビルの谷間に闇があった。街灯に照らされる通りの側に、暗闇がごろんと転がっていた。

 

 照明に乏しいその空間は、どうやら緑地のようだった。こじんまりとしていて、木々で囲まれた中に広場がある。遊歩道が通っていて、見覚えのあるベンチがあった。音はなく、ハトの姿は見えなかったが、見覚えのある、公園だった。

 

 少女の胸から想いがこぼれた。いつかの記憶が溢れてきた。

 

 神様、私はあなたの存在なんて、信じた事はなかったけれど。

 

「素敵です」

 

 少女は小さく呟いた。小さすぎて、口の中でかき消えていたかもしれない。それほど微かな、だけども切実な感謝の祈りだった。

 

 ふらふらと、吸い寄せられるようにベンチへ近付く。手をつけば、確かにそこに実体があった。幻ではない。それだけで涙が滲んできた。堅い。堅いのにどこか優しかった。座れば、ひんやりととした感触が背中に伝わる。

 

 少女は今まで知らなかった。座るとは、こんなにも楽な事なのだと。酷使した脚から乳酸が抜け、体中が癒されていく。このまま泣きじゃくりそうになった。これで煙草の匂いが嗅げたならば、彼女は確実に泣いてただろう。

 

 これからどうやって生きていこうか。少女はぼんやりと考えていた。男から渡された財布があれば、しばらくの間は食べていける。あの時これを渡されたのは、優しさの証だと信じたかった。決別の代価だとは思いたくなかった。それでも、革のそれを抱き締めるたび、小さな胸は苦しく締め付けられるのだ。

 

 このまま眠ってしまおうかと、少女は疲れた頭で考えていた。その時、生き物の息遣いが耳に入った。人間ではない。もっと野生的なものだった。

 

 ベンチに座る少女の前に、老いた野良犬が近寄ってきた。餌をねだろうとでも考えたのか。よだれと、すえた匂いを撒き散らしている。こんなみすぼらしい年寄り犬が、この街にいて無事に済むはずがない。新市街の衛生委員会に駆除されてないのなら、寝床を捜査部隊に追い出され、旧市街から逃げてきたのだろう。

 

 今は惨めなこの犬も、かつては勢力を誇りもしたのだろうか。野良犬の骨格は大きかったが、ガリガリに痩せて疲れていた。右耳は千切れ、後ろ右の足はびっこをひいて、凛々しい灰色だったはずの体毛は白い毛が多く混じっていた。

 

「おいで?」

 

 招くと、老犬は大人しくすり寄ってくる。少女は優しく抱き上げた。こんなに寂しい夜ならば、獣と添い寝するのもいいだろう。抱き寄せた体は動物の臭いがとても濃い。腕の中で静かに息をする犬の毛を、少女は手櫛で愛でて微笑んだ。どうやらオスのようだった。

 

 お腹が減ったな。少女は夜空を見上げて思い出した。思えば、朝から何も食べてない。この場にウサギのシチューの残りがあれば、どんなにか喜んで食べただろう。そんな事を思っても、虚しいだけの妄想だった。

 

 ガサリと、今度は人間の気配がした。黒い闇に映える黒い上下。少女はそれを見慣れていた。間違いなく、国家憲兵の制服だった。草を踏み分けながら近付いてくる。一人しかいないようだったが、もとより少女の適う相手ではない。念の基礎は憶えていても、格闘に活かす術がなかった。短い一人旅だったなと少女は思った。緊張を隠す事もできないまま、老犬の首をギュッと抱いた。だが。

 

「よう。ここにいたか」

 

 聞きなれた声に思考が麻痺した。気楽で、馬鹿で、幼稚で、スケベで変態な声だった。だけど、何よりも聞きたかった声だった。二度と聞けるはずのない声だった。それでも、眼の前にあるのはどう見ても、会いたかった男の顔だった。

 

「元気そうじゃないか。おい、どうした?」

 

 幻であればいいと少女は思った。幻であってほしいと少女は願った。今のうちに幻であると知れたのなら、これ以上傷付かなくて済むのだから。

 

 だというのに、彼は無遠慮に近付いて、少女の頭をぐりぐりと撫でた。特徴的な、強すぎる頭の撫で方だった。少女が間違えるはずがない。あんなにも嫌いな、……嫌いだった、撫で方だった。

 

 少女の目が見開かれ、幾度か瞬きを繰り返し、ぼろぼろと涙がこぼれ落ちた。腕に増々力が入って、野良犬が迷惑そうに体をよじる。嗚咽が漏れそうになるその前に、男を見据えて少女は言った。

 

「遅いですっ。もっと早く見つけて下さいよ!」

 

 何とかそれだけを絞り出して、後はぐしゃぐしゃに泣き出した。涙と鼻水で顔を濡らし、みっともなく顔を歪めていた。そんな表情は、男に見せられたものではなかった。犬の汚れた首筋に、少女は顔を突っ込んだ。

 

「いや、別に探してた訳じゃねえんだけどな」

 

 偶然見かければ声ぐらいかけるさと、男は臆面もなく台無しなセリフを吐き出した。だが、少女は怒りなどしなかった。会えただけで良かった。声を掛けてくれただけで嬉しかった。忘れられてなかったなら、それ以上はもう、何一つ言う事もなく満足だった。ただひたすら、うん、うん、と頷きを繰り返す。

 

 十分か、二十分か、あるいはもっと短かったか。少女が落ち着くまで、男は何も言わなかった。何かを考えるようにじっと眺め、その場を動かず立ち続けた。

 

「……座りませんか?」

 

 嗚咽の名残りが混ざった声を恥じるように、小さな声で少女が尋ねた。抱きかかえていた野良犬を地面に下ろす。懐かれてしまったのだろうか。犬は逃げる素振りもなく、彼女の足下で丸くなった。少女はベンチの左端に少しずれて、開いた場所を右手でポンポンと叩いてみせた。

 

「おう。……なんだ。ずいぶん冷てぇな」

「ええ、冷たかったんですよ」

 

 隣に男の肩の気配を噛み締めがら、少女は愚痴にも似た愛の言葉を紡いでいく。服を着替えているからだろう。煙草の匂いがいつもより薄い。それが、ほんの少しだけ残念だった。

 

「なんで、そんな格好を」

「聞くな」

 

 男は嫌そうにそっぽを向いた。なにか、恥ずかしい事情でもあったのだろうか。声色はどこか拗ねていて、柄にもなく頬が染まっていた。くすりと笑った。少女は泣き腫らした瞳で微笑んで、沸き上がってくる幸せを噛みしめていた。男の左腕を抱き締めようか、自重しようか迷っていた。これぐらいは許されるかとも思ったが、重たい女にはなりたくなかった。

 

 妥協して、男の左手を握ろうとした。我ながら度胸がないなと少女は自分に苦笑する。だが、楽しかったのはそこまでだった。恐る恐るとった掌には、何かおかしな感触ががあった。男が痛みに顔を顰める。慌てて様子を確かめれば、少女から一気に血の気が引いた。

 

 穴が開いていた。オーラの作用だろうか。出血こそ酷くはなかったが、刺し傷が手の甲まで貫通していた。

 

「どう、して……?」

 

 震えながら男を見上げると、忌々しげに振り払われた。

 

「なんでもねぇよ。これぐらい唾つけときゃすぐ治る」

 

 が、憮然とした顔がすぐに歪んだ。思わず左胸を押さえる男は、とても痛そうに少女には見えた。

 

「……脱いで」

「あ?」

 

 少女の声が冷えていく。喜びも、悲しみも、疲れも、ひもじさも全て忘れていた。

 

「服、脱いで下さい」

「おいおい。なんだってお前そんな」

「いいから脱いでっ!」

 

 胸ぐらを掴んで引き寄せて、半ば無理矢理にボタンを外して脱がせていく。男も、抵抗したければできただろうが、面倒だったのか少女のなすがままにさせていた。制服の前を開き、シャツをめくり上げたその先には、生々しく巻かれた包帯があった。あちこち、無数に紅が滲んでいる。

 

 数秒間、少女は理解できず固まっていた。そしてそのまま脱力した。また泣いちゃおうかな、なんて、そんな誘惑に溺れたかった。

 

 ひときわ酷い、左胸のシミをそっと見つめる。命に別状はないのだろうか。苦しくて心臓が止まりそうで、悲しくて。撫でて慰めてあげたかったが、触れればきっと痛いのだろう。じっと注意して見つめれば、男のオーラそのものも、どこか不安定に揺れていた。

 

「そんな顔するなって」

 

 乱れた服を直しながら、男が飄々と気楽に言った。少女には理解できなかった。どうして笑っていられるのか。なんで戦いが怖くないのか。死んでしまったらどうするのか。

 

「相手は、ハンターですか?」

「ああ、そうだろうな」

「これからどうするつもりですか」

 

 それを聞いてしまっては、この逢瀬が終わると分かってたけど。

 

「決まってるだろ。次は勝つ」

 

 そういう意味じゃなかった。そんな返事は期待してなかった。しかし、少女は理解していたのだ。男は少女の願いを分かった上で、あえてそんな答えを返したのだと。

 

「お前ももう、好きにしろ。じきに砲撃が始まるはずだ、街の外に空挺師団がいる。今は街から出ようとする人間を無差別に殺してるだけだが、動き出すのは時間の問題だ。この街にいる全員を殺すつもりでな。だから、生き延びたければ地下へ潜れ。金が足りなきゃ、これでも持ってけ」

 

 一応、貴金属だからだろうか。男は懐からスキットルを取り出して、少女の手の中に押し込んだ。それは古びた銀製で、中身がちゃぽちゃぽと揺れていた。時折飲んでた、ウイスキーの残りだろう。

 

「砲撃、ですか。そんな手があるなら、なんで今までそうしなかったんでしょうか」

「ハンターが残ってるからだろうな。最低、一人は生きてるはずだ」

 

 会話を繋げ、少しでも長く留め置きたい一心で尋ねた少女の疑問は、あっという間に氷解する。

 

「その人に負けたんですか」

「まあ、な。悔しかったぜ。無機質な眼の、そりが合わない奴だった」

 

 少女は男と一分でも、一秒でも長く一緒にいたかった。危険な場所にはこれ以上、近付かないでほしかった。だから、すがれそうな話題に飛びついた。

 

「たぶんその人、私も見ましたよ。ちらっとですけど。金髪の、若い男の人ですよね」

「どう感じた?」

 

 壊れた箪笥の隙間から伺った、あの時の記憶を少女は紡ぐ。

 

「怖かったです。私も、多くの男の人を見てきましたし、他人の感情には敏感だったつもりですが、あんな瞳ははじめて見ました。あの人には本能が、性欲が、私が一番馴染んだ色が、ありませんでした」

 

 とても異質だったから、強く印象に残っていた。少女にとって性欲とは、他者から受ける暴行の源であると同時に、人を測る物差しでもあった。老若男女、子供以外、全てに適応できる基準だった。故に少女の優れた嗅覚は、まず最初にその多寡を計ろうとするのである。

 

「男女関わらず、そんな人は今までいませんでした。奥に秘めていたり、動かしてないだけじゃなくて、存在自体が見えなかったんです。悟った聖者様のようでもなく、強いていえば幼い子供に似てましたが、幼子はあんな機械的な眼はしません。普通とはかけ離れてましたから、ですから私、あれが世にいうハンターって人種なんだなって、思いました」

 

 正直に言えば、少女は彼の瞳以外はろくに憶えていない。顔かたちも既に朧げだった。それだけ印象深かったからだ。自分が生まれ落ちてしまった世界の、今まで知らなかった一面だった。

 

「……分かった。なるほどな。大分参考になったぜ」

 

 じっと聞いていた男が言った。低く静かに、真剣に何かを考えていた。生き残る算段ではないのだろう。そんな些事、眼中にないという目つきだった。

 

「おまえは下水道にでもこもってろ。奴らに見つかったら、俺の被害者として保護してもらえ。そうすれば、その場で殺される可能性も少しは減る」

 

 少女の頭に掌をのせ、男はベンチから立ち上がる。だが、少女には確かに分かってしまった。男の動きは明らかに、傷を庇ってのものだった。素人の彼女にも理解できた肉体の不調。そんな状態でプロハンターに、街を取り巻く軍隊に、勝てるはずがないではないか。

 

「わっ、私がっ、そのハンターを倒しましょうかっ!? 雨さえ降れば、私ならっ!」

 

 必至にまくしたてた少女の胸ぐらを、男が掴んで持ち上げた。右腕一本で軽々と、小さな体が宙に浮く。ばたばたと脚を暴れさせても意味はなく、気が付けば本気で怒った男の顔が至近にあった。

 

「ガキが。あいつは俺の獲物だ」

 

 時が凍った。少女は恐怖に停止した。苦しみも痛みも慣れていたが、害意だけはいつまでも慣れなかった。まして、愛しい人からならなおさらだった。それを見てどんな思いを抱いたのか、男は持ち上げていた少女をベンチに降ろした。

 

「じゃあな」

 

 逞しい男の後ろ姿が、闇へと歩いて溶けていく。せめて、これだけはと少女は大声で叫んだ。憲兵に見つかってもいいと思った。男に殺されても本望だった。心の底から湧出した、彼女の魂の叫びだった。

 

「無茶だけはしないで下さいよ!」

 

 男は振り向きもしないまま、ひらひらと肩ごしに手を振ってみせた。どうせ、聞き入れるつもりはないのだろう。全身の力が抜け、少女はベンチに寄り掛かかった。見上げた夜空が冷たかった。悲しくて虚しくて視界が滲んだ。もう、多くは望まない。彼女はただ、あの男に生き残ってほしかった。そしてできれば、二人で旅を続けたかった。しかし、男は少女より戦いを選んだ。一緒に逃げてはくれなかった。未練さえ示してくれなかった。

 

 少女は悔しさに打ちひしがれた。ついに最後の最後まで、あの男を釣り上げる事はできなかったのだ。

 

 ごしごしと袖で涙を拭く。力が足りない。力が欲しい。この夜を切り抜け、優しい日常を取り戻すに足る力が。ぽたりと水滴が空から降ってきた。雨だ。だが、一人では能力さえも発動できない。

 

 辛かった。

 

 ぺろんと、誰かが少女の頬を舐めた。犬だった。痩せこけて、疲れ果て、今にも倒れそうな老犬だった。見れば、優しい眼で見つめている。優しい犬だと少女は思った。自分は偽善者だと自覚した。力を欲していたはずなのに、こんなにも罪悪感に苛まれる。

 

「ごめんね」

 

 オス犬の性器を探し当てて、既に勃っていた事に驚いた。小さな掌に触れられて、大きなそれが脈打っている。その気遣いが嬉しくて、悲しくて苦しくて辛かった。少女は自分の行動が、ひどく利己的で強欲に思えた。それでも、愛する男を救いたかった。あの人には生き抜いてほしかった。

 

「ごめんねっ。でも、ありがとうっ……!」

 

 感極まって少女は泣いた。野良犬を強く抱き締めながら。夜闇に降りしきる雨の中、彼女はしゃくりあげて泣き続けた。ありがとうと泣き続けた。

 

 

 

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【雨の日のスイシーダ 操作系】

雨の日限定の能力。

自らを操作し大切な記憶を破棄する代償に、自身の念を一時的に増強することができる。

正確には覚悟を裏付けする為の念能力であり、念の増強はあくまで覚悟の結果である。

そのため、失われる記憶の重大さと得られる増強効果は必ずしも正確には比例しない。

増強効果は雨が止むと失われるが、喪失した記憶は除念を受けても決して戻らない。

 

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次回 第十九話「雨を染める血」


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