コッペリアの電脳   作:エタ=ナル

30 / 48
第二十四話「覚めない悪夢」

 ホテルの豪奢な一室に、黒い人影が佇んでいる。右手に書物、遺骸の如き白い手形。左手に盗品。四海の宝物が詰め込まれた、手中に収まる極小の風呂敷。足下に柘榴。赤い化粧を施された、痙攣するだけの痛んだ肉体。その身に背負うは逆十字。かの人との類似を自ら拒否する、孤立と無価値の象徴である。

 

 寄り添わぬ人。その姿は、厳かが故に断罪に似ていた。

 

「行こうか」

 

 書物のページを開いたまま、クロロは己の部下達を見渡した。ボノレノフは頷き、フィンクスは笑い、コルトピは静かに佇んでいた。そして、アルベルトはヒソカと並んでいた。

 

 踏み出した廊下は戦場だった。異変を察知していたのだろう。黒いスーツを着込んだ彼らは、手にした拳銃や小銃で、必死の咆哮で押し寄せてきた。しかしそれは、待ち伏せと呼ぶにはあまりに儚く、挟持と呼ぶにはあまりに寂しく、なにより、旅団を敵に回すには弱すぎた。その肉は、肉であって肉ではなく、その命は、命であって命ではなかった。死にゆくだけの人体など、屠殺される家畜ほどの価値もなく、わざわざ振り向くだけの意味もない。磨かれた天然石の壁面に、鮮血の花弁が狂い咲いた。どこまでも続く長い廊下に、虚ろな遺体が散らばっていった。

 

 悠然と歩くクロロの周りを囲みつつ、幻影旅団は歩いていく。アルベルトは集団の先頭に立っていた。廊下をオーラの風が吹き抜ける。害意を練り上げた異色のオーラが、禍々しく純粋な生命の力が、世界の果てまで駆け抜けていく。それに触れた人々の体は、心は、魂は、いともたやすく凍結した。撫でられた後に残ったのは、冷えきった生命の残り火だった。

 

 恐慌状態に陥った強面の群れが、またも、銃を乱射しながら駆け込んできた。彼らの自殺に成果はない。赤が華咲き、肉が爆ぜる。天井に血と内臓の汚れが塗りたくられ、腸の内容物が悪臭を放ち、死体は無造作に転がされた。蜘蛛にとって、それは殺人という名の罪ではなかった。煩い羽虫を払うだけの、ありふれた日常の光景だった。人間の尊厳などという幻想は、ここでは全く共同されない。

 

 銃弾が降りしきる豪雨の中、フィンクスが正面から襲いかかった。次々と骨を砕いていく。鍛練の成果を濃縮された肉体は、オーラを糧に人外の性能を発揮する。反応速度と筋力だけに物を言わせた、ストリートファイトの戦い方。それは、武術と呼ぶには粗雑すぎて、洗練というには野趣にすぎた。しかし、だからこそ強い。回りくどい理屈の入る隙のない、単純至極な強さだった。

 

 その隣で、ヒソカは自在に空間を飛び、トランプで人体を切り裂いていった。派手に鮮血を巻き上げるのは、純粋にそれが好きだからだ。激痛と絶望に顔を歪ませ、人間ポンプと化していくマフィア達。数秒の余命を絶叫で浪費する生け贄の中で、異形の奇術師は愉悦に歪む。壊れていく命を楽しんでいた。

 

 ボクシンググローブをはめたボノレノフの拳が、踊るようにしなやかに打ち抜かれた。破裂する頭蓋。飛び散る大脳。次の瞬間、なめらかに流れるステップで、ボノレノフの体は敵の群れを縫うように潜り込んでいった。一拍を置いて倒れる人々。だが、彼はその様子を見もしない。自分の行いの成果など、興味もないとでもいうように。ボノレノフにとって、戦の舞踊とは最も神聖な行為であるが、同時に最もどうでもいい些事でもあった。大切なのは心だった。誇りであり意思であり生涯だった。故に、肉体の動きなどというものは、極めた果てに忘れていた。もう、幾星霜も昔からそうだった。

 

 コルトピの長髪が低く揺れた。小さな手が、武装構成員の太腿を軽く掴む。それだけで肉がごっそりと千切り取られた。大腿骨が露出し、苦痛のあまり銃を無茶苦茶に乱射した。同士打ちが始まり、その男は瞬く間に味方に殺された。しかし、そんな惨劇の合間にも、元凶となったコルトピは、オーラを纏わせた両掌を気の向くままに振るっていた。それは莫大にして余裕があった。具現化系でありながら、並の強化系が絶命を覚悟にようやく絞り出せるかどうかという威力の肉体強化を、さも当然のように維持している。常識はずれのオーラを小躯に宿す彼ならば、常にフルパワーをだそうとも、ガソリンが尽きる心配はなかったのだ。

 

 アルベルトは先陣を切っていた。苛烈なオーラを撒き散らしながら、十字砲火の待ち受けるキルゾーンへも、積極的に飛び込んでいった。誰よりも敵を恐れさせるアルベルトに、自然、火線は最も誘引される。オーラも纏わないシンプルな直線の攻撃だったが、被弾の連鎖は念能力者をも容易に殺す。しかし、アルベルトにはかすりもしなかった。全ての銃口を把握しているのではない。感じているのだ。

 

 幼い頃、彼は天才と呼ばれていた。若くして一線を退いた、武闘派で知られるブラックリストハンターの開いた道場で。そこは無論、子供を遊ばせるためのものではなかった。達人の域に達した武芸者達、プロを目前にしたアマチュアハンター、開眼寸前の能力者の卵。そんな猛者達を10人ほど集めた、少数精鋭の修行場だった。そんな中でも、アルベルトは大人達を尻目に独走していた。恵まれた血筋と良質な環境。それが、彼の持つ感性の源流だった。もしそのまま成長を続けていたら、今頃は強者の向こう側にある一線を越え、ヒソカやクロロの域へと達したかもしれない。惜しむらくはただ一つ、彼には、体質とも言える致命的な才能の欠如があったことだ。

 

 それでも、高度にデジタル化されたマリオネットプログラムの影響下にあってなお、ある程度自然な感性を維持していたのは、ひとえに当時の残留の賜物であった。

 

 超音速で迫る鉛弾の嵐をかいくぐり、執拗に照準される数多の銃口を冷えた瞳で眺めながら、アルベルトは多くの人間を殺害した。流れ弾が彼らの仲間にあたるよう、効率的な位置どりを常に頭で計算しながら、無慈悲な合理主義でマフィアを最短経路で減らしていった。旅団を先導する露払いのように、両腕を鞭の如くしならせて、手の届く全てを撲殺した。

 

 軽やかに頚椎を砕かれた男がいた。トランプで穿たれた男がいた。破裂した胸元を掻きむしる男がいた。涙を静かに流しながら、生き別れた下半身を懐かしむ男がいた。おぞましい気配に至近で晒され、心が枯れ果てた男がいた。決死の攻撃は届かない。中心を歩くクロロには、いまだ、弾丸の一つ、ナイフの一本でさえ到達してない。コミュニティーの誇る屈強で歴戦の戦闘員は、尽く無意味に散らされていった。

 

 クロロの指示でエレベータは避け、一同は階段で屋上へ向かっていった。旅団が階段を登るにつれて、戦場も上へと後退していく。床に溜まった血液だけが、重力に従って流れて落ちる。

 

 やがて、マフィアは最上階まで追い詰められた。そのフロアは、一般客で賑わう展望ラウンジとレストランだった。子供の甲高い悲鳴が聞こえ、掃射される銃声が流れてくる。待ち伏せの布陣の邪魔になると、誰かを怒鳴りつけている気配もあった。流血は将棋倒しに拡大し、逃げ惑う群集の体重さえもが凶器に変わる。真鍮製で凝った装飾の手すりに新しい脳漿を塗り付て、アルベルトはそれに聞き入った。死体が握っていた手榴弾から、信管を千切り抜いて捨てながら。

 

「あいつらだ! 旅団が来たぞ! 幻影旅団だ!」

 

 フィンクスが階段のドアを吹き飛ばした時、マフィアの一人が恐怖に叫んだ。続く悲鳴の大合唱が、広いラウンジを丸ごと揺らした。壁際で押しつぶしあうように震えていた客たちが、お互いに圧殺せんがごときにすくみ上がった。旅団が入ってきたのとは別の方向の出入り口には、人々が土砂崩れのように殺到していく。助かりたいがため、大切な人を助けたいがための一心で、暴動に近い騒乱が巻き起こり、多くの命が潰れていった。手動で防火扉を閉めようと押し込む集団と、がむしゃらに逃げようと押し返す集団のぶつかり合いは、殺しあいに近い光景だった。

 

 泥沼の混乱の各所から、死にものぐるいのマフィアが弾も尽きろと乱射する。熱く灼けた薬莢が飛び散り、銃火は恐慌をさらなる次元へ加速させた。

 

「殺せ! どけ! 邪魔だ、撃てねぇだろうが!」

 

 怒号は、号泣の嗚咽に近かった。誰も彼もが泣いていた。泣きながら絶望的な抵抗を試み、泣きながら流れ弾で蜂の巣にされ、泣きながらエレベーター前に群がる他人を潰していた。

 

「あーあ。これは酷いね♣」

「ああ」

 

 興醒めを隠さずヒソカが呟き、ボノレノフが珍しくも相槌を打った。手近な死体を盾にしつつ、フィンクスがクロロへと視線を向ける。

 

「で、どうすんだ、団長。全員やるか?」

「時間の無駄だ。邪魔な分だけ殺せ。アルベルト」

「了解」

 

 胸元のネックレスを握りしめて、アルベルトはオーラを一層強く放出した。全身の細胞が生命力を振り絞り、外界へ向けて噴出する。増量された流れに乗って、混ざりあう害意も共に拡散している。念を使えない一般人が、それに対抗する術は全くなかった。皆、凍え、怯え、精神が侵食されて乾いていく。そして、ヒトの人間性は崩壊した。脱出路を目指す狂鼠の群れは、人込みの肩に這い上がり、お互いに踏み潰しあいながらも消え去っていった。逃げ切れなかったものは倒れている。それは死亡と同義だろう。かさかさに乾いた白骨のように、永遠に心を喪失していた。我が子を捜して人の波に逆らった母親も、身を挺して恋人の盾になろうとした青年も。もの言わぬ誰かの隣に居続けた幼子さえも。

 

 だが、口から泡を吐きながら、吐瀉物にスーツを汚しながら、わずか数名のマフィアだけが、辛うじて膝立ちになってこらえていた。震える両手で銃を構えて、充血した目で蜘蛛を睨む。それは驚愕すべき偉業であった。人類の限界に迫る勇気だった。直後、額にトランプが刺さるまでは、彼らは確かに勇者だった。

 

 倒れ込む残骸を見向きもせずに、旅団は屋上へ向けて歩いていく。逃げ延びた敵にも興味はない。妨害者がひとまず消えたなら、この階層にいる意味はこれ以上なかった。

 

 屋上では風が吹いていた。ヨークシンの夜景が眼下に広がる。待ち伏せはなく、近隣のビルにも狙撃手は見えない。鋭い視線を巡らせて、一通り周囲を確認した後、団員達はあらかじめ隠しておいた熱気球一式を取り出して準備を始めた。その様子を見てアルベルトは、疑問に僅かに顔を顰めた。

 

「まさか、昨日の今日でもう一つを探し出して盗んだのか」

「ううん。これはぼくの複製だよ」

 

 コルトピの言葉に納得し、同時に彼は改めて感じた。蜘蛛のもつ最大の優位性とは、強力な戦力そのものよりも、人材の多様さにあるのだと。ハンター協会ほどの規模になってようやく抽出できようかという実力者達が、ろくな基盤もないまま所属している。いかなる出自を持つかまでは今のアルベルトには分からないが、それは、身軽さと強大さを兼ねた、どう見ても反則的な組織だった。

 

 その時、クロロの懐の携帯が震えた。

 

「ああ、オレだ。なんだ?」

 

 シャルナークの声が漏れてくる。冷静に淡々と話は進み、確認も含めてわずか十秒ほどで会話は終わった。内容は、想定の範囲内のトラブルだった。何者かにキャロルが攫われたのだ。

 

「げ、またかよ」

「またなのかい♠」

「二回目だよ、あのクソガキ」

 

 ちなみにフィンクスが証言するには、彼女が旅団の活動に参加したのは、これで入団以来四度目なのだという。まだ数ヶ月であることを考えれば多かったが、窮地に陥る確率までもが多すぎた。

 

「放っておいてもそのうち勝手に戻ってくるんじゃねーか?」

「いや、今は仕事の最中だ。フィンクスは車を調達して迎えに行け。アルベルト、お前もだ。途中でシャル達と合流しろ」

「了解。ま、仕方ねぇか。おい、行くぞ」

「そうだね、行こう」

 

 悪態をつきながらもフィンクスは動き、後ろにアルベルトが従った。

 

 

 

「幻影旅団を捕らえただと!?」

 

 ドアが壊れるほどの勢いで、クラピカが部屋へと駆け込んできた。続くセンリツは息が完全に上がっている。ポリオ物産所有のビルの地下二階、中心に拷問台が据えられた特別室には、スクワラとリンセン、バショウとヴェーゼ、そして拉致されたキャロルの姿があった。

 

「裏口を見張っていたところにリーダがね、あいつを抱えて駆け込んできたのよ」

 

 言って、ヴェーゼはクラピカとセンリツに視線で部屋の隅を指し示した。そこには、物言わぬダルツォルネの体が寄り掛かっていた。

 

「その後だ。すぐに彼は事切れた。俺達三人の成果だって、満足そうに呟いてな」

 

 セメタリービルの中でどんな駆け引きが交わされたにせよ、残るイワレンコフとトチーノも、到底生きてはいないだろう。誰も口にはしなかったが、全員が暗黙のうちに悟っていた。そして、三人がつかみ取ったこの奇跡の、唯一にして最大の結晶が、台に拘束された少女である。体にはシーツがかけられていて、肩から上だけが見えていた。

 

「ねえ、本当にこんな子供が旅団なの?」

「それなんだがな」

「ええ、ええ、ええ! そうよ、そうなのよ! 正真正銘本物の団員よ! だから、ねえ、お楽しみはまだかしら? 待ちくたびれてしまいましたわ」

 

 センリツに答えたのはキャロルだった。青い瞳がキラキラと光り、遊びましょうと誘っている。だからこそ彼らは困惑した。無邪気な容姿はあまりに幼く、旅団にしてはオーラも弱い。この歳で念能力者であるのは珍しかったし、実力も、既にある程度はありそうだった。だが、それだけだ。どこにでもいそうな普通の人材。あるいは、それより上な程度だろう。真の力を隠しているのかもしれないし、将来性を買われたのかもしれないが、なにより、強者から滲み出る匂いがなかった。魂のかもす威圧がなかった。ここにいるネオン護衛団の面々は、それぞれが修羅場をくぐっている。そこで鍛えられた嗅覚は、皆が各々信頼していた。

 

「調べたぜ、体のどこにも印はねえ」

 

 バショウは言った。センリツは不安げに沈黙し、クラピカは熱を帯びた口調で静かに尋ねた。

 

「ヴェーゼ」

「もうやった。無駄だったわ」

「無駄だった、とは?」

 

 空気が重々しく沈滞している。赤々と電灯の灯る地下室は、地上のにぎわいから孤立していた。横たわる少女を睨みながら、ヴェーゼは忌々しげに吐き捨てた。

 

「言葉の通りよ。何度試しても効かなかった。もしかしたら、誰かに操作されてるだけの端末なのかもね」

「いいえ、まさかよ! 操作なんてされてないわ! だけどあなた、キスが能力のトリガーなんでしょ? 残念ね。私、唇なんてもってませんの!」

 

 無気味な物言いに沈黙が走る。リンセンがごくりと唾を飲んだ。唯一、囚われの身のキャロルだけが、ころころと楽しげに笑っていた。

 

「そうじゃなければ、隷属してあげてもよかったのに! 素敵な念! とてもアンニュイなアイロニーだわ。あなた自身は、あまりリリカルに見えないけれど」

 

 全身から隠しきれない怒気を洩らして、クラピカはずかずかと拘束台へ歩み寄った。案じるようなセンリツの視線も、彼は全く気付いていない。コンタクトに隠された瞳の色は、ずっと前から真紅だった。

 

「失礼」

 

 躊躇も見せずにシーツをはぎ取る。現れたのは裸体だった。白く細い少女の四肢が、一糸纏わぬ肉体が、頑丈な金具で絞められていた。そこに、蜘蛛を意匠した証は見えない。

 

「確かに、体の表に入れ墨はないな。背中側もか?」

「ヴェーゼが隅々まで確認してる。オレの犬達にも探らせたが、皮下から塗料の匂いはしないそうだ。残り香すらな」

 

 スクワラが答えた。頷き、クラピカは冷たく燃える目でキャロルを容赦なく睨み付けた。子供としての扱いはとうに消えて、完全に尋問対象として処遇している。

 

「どういうことだ。答えろ」

「……もしかして、……答えなければ、拷問されるの?」

「ああ、オレはそのつもりで質問している」

 

 初めて零れた不安な表情に対しても、クラピカは容赦せずに言葉を続けた。シンプルで頑丈そうな造りの部屋は、さぞかし遮音性が高そうだ。彼女が拘束されてる台の上には、血を溜めつつはけをよくするための溝が彫られている。周りを見渡し、状況を見据えて、明るかった少女の目に徐々に涙が溜まっていった。馬鹿なガキねと、ヴェーゼは肩に篭った力を少し抜いた。おい、と咎めようと伸ばしたバショウの腕は、しかし空中で固まった。彼女の声が響いたのだ。

 

「素敵! わたし拷問されるの大好きよ!」

 

 不安な様子も、悪戯心の産物だったのだ。一変して花が咲くかんばせに、見ていたメンバーはおもわず一歩後ずさった。それは明らかに偽りのない、心の底からの歓声だった。だが、クラピカだけは微動だにせず、一言も喋らず彼女のことを見つめている。

 

「教えて! どんなお遊びしてくれるの? まずは軽く焼ごてかしら? オーソドックスに指切りかしら? 内臓を抉られるのも面白そう! ちょっと時間がかかるけど、強姦の末に孕んだ赤子を犬のように惨めに食べさせてくれたら嬉しいわ!」

「黙れ。質問してるのはこちらだ」

「怒ってるのね! ああ! なんてブリリアントな眼光かしら! 今にも泣きそうな憎悪の目ね! あなたってとってもリリカルだわ!」

「黙れと言ったっ!」

 

 顔面に、クラピカの拳が打ち下ろされた。

 

 

 

 静まり返ったホテルの廊下を、アルベルトはフィンクスに続いて歩いていた。人影はほとんど見あたらず、たまにいても、アルベルトの気配に怯えて一目散に逃げていく。シックな照明がインテリアを照らし、乾いた彼らの靴音が、単調なリズムを刻んでいた。ここは今、二人きりの密室も同然だった。

 

「どうした。隙あらば殺してやろうって顔してるぜ」

 

 急に振り向いてフィンクスが言った。獰猛な笑みを浮かべていた。だが、アルベルトは意外そうに目を見開いてみせた後、ごくごく軽く肩をすくめた。立ち止まった二人の表情は気安かったが、オーラは臨戦態勢へと変わっている。

 

「警戒してただけだよ。僕にはまだ、君を盲信できるだけの材料がない」

「……へえ。だったらどうした?」

「こんなこと言うのは何だけど、いくら団長が認めたからって、個々の心情は別だろう?」

 

 そこまで聞いて、フィンクスはつまらなそうに舌打ちした。呆れと失望が入り交じって、アルベルトに向けてぶつけられた。視線が正面から交錯して、数秒間の沈黙があった。

 

「くだらねぇ……。言っとくがな、テメェも蜘蛛に入った以上、ルールと団長の命令は絶対だぜ」

「もちろん。その覚悟がないなら入団しないよ」

 

 相手を強く睨み付けてから、踵を返してフィンクスは続けた。アルベルトも再び歩き出した。目的地である地下駐車場への通用口には、もう数分も歩かずに着くだろう。

 

「信用しろとは言わねぇが、前の九番を殺して団長が認めた、お前を仲間と認める理由は他にいらねぇ。死ねば代わりを見つけるし、裏切りには制裁を加えるだけだ」

 

 幻影旅団の方針は、昔から何一つ変わってないし変わりもしない。例え、誰が入団しようとも、彼らはずっと続けるだろう。いつか尽く死に絶えるか、代替わりの果てに、掟が磨耗しきるその日までは。少なくとも、団員はそれを信じていた。

 

「だからよ、もし他の誰かがお前を不意打ちで殺しても、そいつはオレが代わりに始末してやる」

 

 突然の言葉にアルベルトは驚き、ほんの一瞬だけ立ち止まり、小さくありがとうと呟いた。それは微かな音だったが、フィンクスの頬が釣り上がった。

 

「ま、個人的に言うならお前はかなりうさんくせぇが、物怖じしねえ性格は嫌いじゃないぜ」

「どうも。ま、新入りなんて少々疑われてなんぼだからね」

「その小賢しいところは好きじゃねえな」

 

 砕けた雰囲気で軽口を交わして、鉄製の防火扉をフィンクスが開ける。そこには、平時とさして変わらぬ光景があった。車両は並んで寝静まり、時折、ヘッドライトが通過していく地下世界の夜景。最上階で惨劇が起こっても、ホテルの営業は続いていた。閉鎖されているのは上層階だけで、下層に泊まる客達には、恐らく、緊急の連絡もないのだろう。マフィアの後ろ楯が存在し、犯罪が日常的であることを加味してもなお、あまりに鈍感な対応だった。

 

 しかし、時として鈍さは必要でもある。現世は常に理不尽で、あがく力は儚く弱い。安眠を貪るだけの家畜であるなら、暗愚さは唯一の救いになろう。隣の仲間が消えようとも、己が運命を悟らずにすめば、人の錯覚に溺れていられる。屠殺の時が訪れるまでは、泡沫の夢の中で生きていける。牙だらけの世界で生き抜くために、愚かさは人々のたずさえる知恵だった。

 

 もし、身の丈に合わぬ明敏さをもって生まれてしまうと、それはこのような悲劇となる。

 

「お、丁度いいのがあるぜ」

 

 フィンクスが近くのワンボックスを指差した。白く、大きく、真新しい。そしてなにより好都合な事に、今まさに、持ち主が乗り込もうとしているのだ。エンジンの直結は時間もかかるし面倒でもある。なにより、今時の車はあからじめそれなりの準備がいる。

 

「そうだね、あれにしよう」

 

 アルベルトは鋭くステップを刻んだ。コンクリートの床を強く蹴り、天井を駆けて接近する。唐突に舞い降りた強いオーラに、鞄を載せようとしていた若い女が気絶した。運転席にいた若い男は、慌ててドアを開けて凍り付いた。

 

「悪いけど、車はもらうよ」

 

 ガクガクと震える男の腕を掴んで告げると。アルベルトは車内から引きずり出した。女の隣に無造作に下ろす。キーは既に差してあった。乗ろうとしたところで、後ろから腰に抱きつかれた。振り向くと今の男がすがっている。何かを訴えたいのだろう。必死に口を動かしてた。しかしそれは言葉にならない。舌は萎え、顎は凍え、喉は絞まって呼吸もできない。涙と涎を流しながら、股ぐらを汚物で汚しながら、それでも、男性はひ弱な筋力を振り絞っていた。

 

「なにやってんだ?」

「いや、なんでもないよ」

 

 不思議そうに近寄ってくるフィンクスに、アルベルトは男を蹴り捨てながら返答した。拘束にもならない体は軽く吹き飛び、コンクリートの上に落下する。加減を間違えて後頭部が砕けてしまったが、それも些細な事だろう。蹴った感触で理解した。彼は、あの時点で事切れていたのだと。

 

「……なんだ。そういう事か」

 

 運転席に乗り込み、助手席に目をやったときにアルベルトは悟った。喉奥から、冷めた声を絞り出す。あの男をつき動かした原動力は、ひどく陳腐で、ありふれていて、誰もが持っていそうな理由だったのだ。

 

 

 

 地下二階に隠された拷問室で、バショウとヴェーゼは秒針の刻む時の流れに身を置いていた。会話はあまり交わされない。緊張感だけが続いている。寝そべるままのキャロルには、再びシーツがかけられていた。ただし、腕には点滴のチューブが繋がっている。二人きりの見張りでシフトを回す事に決まった際、念のため、スクワラが麻酔の投与を指示したのだ。首から下が麻痺するタイプの神経毒である。

 

「暇ですわ。ああもうっ、インプレッシブに暇ですわ! 淑女へのもてなしがなってないわ!」

 

 腕組みして台と扉の間に立ち、バショウは戯れ言を右から左に聞き流している。ヴェーゼは壁に寄り掛かって、キャロルの一挙一同を、静かな瞳で眺めていた。

 

 激昂したクラピカをセンリツが宥めて連れ出した後、試しに一通り拷問してみた。が、本人の言葉通りに喜ぶだけで、ろくな情報も聞き出せなかった。仕方なく二人体制で監視を続け、残りは、上階で休息を兼ねて今後の方針について話し合っている事だろう。

 

 結局、彼女を捕らえたという情報は、コミュニティーにすら流していない。本当に旅団員だという確信も得られていない。それだけではない。仮に団員だった場合でも、どう振る舞うべきなのか、今いるネオン護衛団のメンバーでは明確な指針を打ち出せていない。少なくとも確信できるのは、この場面での軽挙妄動は下策であるという事だけだった。なにしろこの少女の扱い次第では、陰獣をも一蹴した旅団を相手に、事を構える危険すらある。

 

「あら。あなたそこにいると危ないわよ」

 

 お髭のムッシュ、と甘い声色でキャロルが言った。バショウはその意味を即座に解し、続いてヴェーゼも警戒に入った。だが、その時には全てが手後れだった。重い扉が粉砕される。轟音の向こうから現れた巨大で精悍なシルエットに、キャロルはまぁと歓声を上げた。

 

「ようっ、ここにいたか! 探したぜ!」

 

 ウボォーギンが豪快に笑った。キャロルもつられて笑っていた。破片が体に降り注ぎ、刺さっていくにもかかわらず。

 

 襲撃に即座に対応して、バショウは懐に手をやった。インスピレーションを練り上げて、最適な効果を詠み上げる。彼の誇る念能力は、希代の応用性を秘めていた。だが、発動すらも叶わなかった。バショウがそれと気が付いた時、首は宙を飛んでいた。同郷を思わせる着流しが、視界の隅をまたたいていった。

 

 ヴェーゼは己の死亡を覚悟していた。フィンクスとマチが、彼女を壁際へと追い詰める。いや、追い詰めるという認識も持たなかった。二人はただ、相手に近寄っていたのである。彼らにとって、これは狩りにすらも届かなかった。気負うような理由は何一つとしてなく、丁重に扱う重要性も、欠片たりともなかったが故に。

 

 しかし、それでもヴェーゼは諦めなかった。決死の形相で向かってくる彼女に対して、旅団は塵も同然に見くびっていた。そこに、付け入る隙があるかもしれない。一人。誰か一人でも下僕にできれば、打開するチャンスは飛躍的に高まる。それこそヴェーゼに残された、たった一つの希望だった。だが、それすらも無惨に踏みにじられた。

 

 小柄な体躯が現れて、紫に変色した鋭い爪が、ヴェーゼを千々に引き裂いていた。全身を駆け巡る致死性の毒が、神経を強引に沈黙させる。断末魔さえ上げられず、彼女の意識は掻き消された。サディスティックに笑う子供の顔を、末期の両目に焼きつけながら。

 

「なんだい。もうちょっと休んでればよかったのにさ」

 

 片手を腰にあてながら、マチはキャロルにそう言った。彼女の幼く細い肢体は、真紅のドレスに包まれていた。点滴の針も刺さっていない。拷問台の金具がこじ開けられた様子はなく。体にかぶせられていたシーツはもちろん、いくつもあたっていた破片すら、撥ね除けられた形跡はない。全て、台の上に広がっている。

 

「この子、キスで操作できたみたいなのよね」

 

 解体した肉片を爪先で遊んで、キャロルは団員達に微笑んでみせる。赤い靴の表面に、血と肉のペーストがこびり付いた。

 

「へえ」

 

 フィンクスが興味を持って反応する。便利そうな力だと彼は思った。無論、戦闘中に唇を奪われる間抜けなど蜘蛛にはいなかったし、いても笑われるだけだろうが。

 

「面白そうだな。団長の土産にしてもよかったんじゃないか?」

「やめとくれよ。本当に気に入りそうでぞっとしない」

 

 マチはやれやれと首を振った。クロロならきっと、誰にでも躊躇なく使うであろう。女はもちろん、男であろうと必要次第で。それが美形同士なら嘆美と見る向きもあるだろうが、彼女にとっては、あまり歓迎できない光景だった。いったい何が哀しくて、知り合いのそんなシーンを拝まなくてはいけないのか。

 

「おう、無事だったか。悪かったな、オレが目を離したのがまずかった」

「なわけねーだろ。あんなんで攫われるこいつが悪りぃ」

「まあ、まあ、まあ! ウボォー!」

 

 キャロルが瞳を輝かせ、胸板へ向けて飛び込んだ。隣のノブナガは眼中にもない。頬をすりすりと擦り付けて、筋肉の感触を味わっていた。

 

「助けにきてくれたのね! 最高だわ! とても素敵なハッピーエンドだわ! ありがとう!」

「ま、どうでもいいけどな」

 

 わいのわいのと盛り上がる。拷問用だったはずの地下室に、明るい声が反響していた。

 

「あれ、もう終わっちゃったんだ。まだ生きてた?」

 

 シャルナークとアルベルトが入ってきた。手には、いくつかの電子機器を抱えている。マフィアにも明かされていないキャロルの居場所を探し当てたのは、シャルナークの準備のおかげだった。

 

「例の迷子用の首輪のログ見たらこの辺りで反応が途絶えてたから、あとは怪しいところをしらみつぶしにね。といっても、二件目でビンゴを引いたけど」

「ああ、それでこんなに早かったのね」

 

 拷問台のシーツの下に、金属製のカプセルが一つ落ちている。大きさは小指の先ぐらいで、純金のメッキかがかけられていた。キャロルの胸部に仕込まれていた、シャルナークお手製の発信器である。

 

「お礼を言うわ。だけど、迷子用はちょっとひどいんじゃないかしら」

「ははは、でも役立ったじゃん」

「もうっ」

 

 ウボォーギンの首筋に抱きついたまま、キャロルはほんの軽く拗ねてみせた。金色の髪を豊かに揺らして、シャルナークと兄妹のように笑いあった。そこに、アルベルトが時計を見ながら口をはさんだ。

 

「さあ帰ろう。団長も待ってるだろうから」

「あ、待って。ちょっと服を一着手に入れたいの。とても素敵なお洋服を見かけたのよ。目の色がとても綺麗なの」

「ま、いいけど。手っ取り早くすませなよ。アタシも一緒に行ってやるから」

 

 仕方がないとマチが一緒についていき、だったらオレもと出口へ向かう。一人留まったアルベルトは、彼らの後ろ姿に声をかけた。

 

「じゃあ、僕は表に車を回しておくよ」

「おう、頼むぜ」

 

 ウボォーギンの左手が挙がり、ノブナガが去り際に肩を叩いた。そして、部屋は急に静かになった。見渡せば、二人分の肉片が捨てられている。弔う者はだれもいない。照明を消せば、暗く深い闇に飲まれた。アルベルトは扉をそっと閉めた後、音のない廊下を歩いていった。

 

 裏に止められていた白いワンボックスに乗り込んで、アルベルトは努めて冷めた心を維持していた。胸元のネックレスを強く握る。球形の翡翠が冷たくて、暴れ出しそうだった心臓を、優しく包んで蝕んでくれた。ふと、隣の助手席を見た。そこには、金属の破片が転がっていた。幼児用の、拘束座席の止め具だった。強引に引き千切られた跡があり、わずかな血痕が付着していた。

 

 アルベルトは金具を拾ってしばし見つめた。奇跡のように小さくて、まだ柔らかい手の平を思い出した。再び翡翠を握りしめ、金具を口元に持っていった。オーラに強化された顎にまかせて、よく噛み砕いて味わった。そして、じっくり、飲み込んだ。

 

 たとえ胃の腑に入れたとて、体の一部にはならないけれど。

 

 

 

次回 第二十五話「ゴンの友人」


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。