コッペリアの電脳   作:エタ=ナル

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第二十八話「まだ、心の臓が潰えただけ」

 日暮れに騒ぎ出した夏の残響のたおやかな風が、だんだんと夜に飲まれて静まっていった。河の周りはやや冷たく、黒く流れる水の上を、街の明かりが揺れていた。遠くに聞こえる喧騒は、排ガスと人々の汗の微細な匂いは、この場所にもゆったりと漂ってくる。水域と街の境界線、斜めに護岸されたコンクリートの道ならぬ道を、一陣の風が吹き抜けていった。影は、速い。道化師と見まごう奇抜な装束に身を包んでいる人影は、尋常ならざる速さで夜を静かに駆け抜けていく。その人物の名を、ヒソカという。

 

 ヒソカの足音は皆無に近く、ただ、風を切る音だけが周囲に広がる。【伸縮自在の愛(バンジーガム)】、彼は、その能力を両の靴底に履いていた。オーラの弾性と粘着性が、最先端のレーシングカーのタイヤよりも鮮やかに、人体と地面の間に理想的なグリップを実現させる。余計な音がしないのは、エネルギーの無駄な損失が極めて少ないが故であった。圧倒的な速力でヒソカは走る。時折、頑丈そうな構造物を見つけては、ガムで自身を引き寄せて、体をさらに加速させた。

 

 ヒソカは獲物を遠望していた。じっくりと愛でるように眺めていた。数は二つ。前方を気配を消して走っている。うち一つは彼のとっておきだ。彼女が携帯電話を懐にしまうのを確認して、ヒソカは表情を歓喜に歪めた。二人との距離はいくらもない。絶をせず近づける限界線を、あと数秒で踏み越えるだろう。残り三百メートルほどの間隔を一挙に詰めるべく、ダイブをかける猛禽の如く、彼は最後のスパートに突入した。脚に巻きつけられたバンジーガムが、外付けの筋肉として収縮する。地面が爆発的に蹴り飛ばされ、ヒソカは弾丸の如く飛翔した。

 

 

 

 ノックはしばらく続けられた。おとなしく、行儀のよいリズムで叩かれていたが、明らかにしつこく怪しかった。クラピカとエリスは顔を見合わせ、お互いに短く頷きを交わした。ソファーから立ち上がって位置につく。クラピカは部屋の中央に、エリスは斜め後ろに控えるように。ドアが外側から爆ぜたのは、それから五秒も経たぬ未来の出来事だった。

 

「さあ、楽しいディナーのお時間よ!」

 

 かつてドアノブだった金属製の残骸をお手玉のように弄びながら、彼女はあっけらかんと立ち入ってきた。豊かな金髪に赤いドレスをおませに纏った、子供と呼んでいい年頃の少女だった。

 

「お前か」

 

 苦虫を噛み潰してクラピカが言う。目の前の人物の襲来ももちろん想定していたが、できれば、別の人物のほうが望ましかった。旅団の一員だという確信がなかったのだ。コミュニティーより回された写真にも、彼女は片影すらも写ってなかった。

 

「まあ、まあ、まあ! 随分とご挨拶じゃないかしら! 酷くないかしら? 私、クラピカを一生懸命探したのよ!」

 

 ぴょんと、嬉しそうに彼女は飛び跳ねて叫んだ。ふわふわに波打つ長い髪が、照明を受けて光をこぼす。優美だが、どこか作り物めいたアルカイクな微笑み。二人を値踏みするかのような青い瞳。

 

「それは、幻影旅団としての用件か?」

「まさか! 私個人からのお誘いですわ。遊びましょう!」

 

 それが罠だという認識もなく、誘導尋問も踏み抜かれる。もはや限りなく黒だという予感があった。一刻も早く断じてしまいたかったが、クラピカははやる己を押さえつけた。一つ足りない。命など惜しくなかったが、目的を遂げずに散ることも彼にはできなかった。中指の鎖を使うには、あと一つ、確実な証拠が、確信できる推理が、心からの納得がいる。それでも、忸怩たる思いが押さえきれない。

 

「せめて、名前ぐらい名乗ったらどうだ、賊」

 

 まあ、と少女は驚いた。白い頬が赤く染まる。大仰な、芝居がかった羞恥だった。ごめんあそばせと早口で言って、彼女はキャロルと名を名乗った。

 

「さあ、エスコートして頂けて?」

 

 一転、挑発的に近づいてくる。老練すら含んだ艶やかな歩み。ゆっくりと間合いをつめる足どりを再び止めたのは、横から口を挟んだエリスであった。

 

「待ちなさい。あなた、本当に旅団の一員なの?」

 

 冷え冷えした眼差しで端的に尋ねる。かすれた、乾いた熱砂のような声だった。キャロルがわずかに眉をしかめた。

 

「ええ、そうよ。あなたは?」

「わたしのことなんてどうでもいいわ。ねえ、アルベルトの名前に心当たりはあるかしら」

「まぁ……」

 

 口元に手を当ててキャロルは微笑む。エリスの無礼を暖かく許すようなませた仕草が、逆に、獲物をなぶる子猫のような、天性の残酷さを浮き彫りにしていた。

 

「ええ、もちろん知ってるわ。とても綺麗に泣く人ね。透明で、今にも壊れそうな無表情で」

 

 エリスがはっと息を呑んだ。全身が小刻みに震えている。そんな彼女をじっくりと眺めて、キャロルは、一言ずつ舌で転がすように問いを投じた。

 

「あなた、彼の、なに?」

「……婚約者よ」

 

 断言に要した微かな間を、キャロルは糖蜜の如き悦楽として受け取ったようだ。エリスの頬がさっと染まり、奥歯が強く噛み締められる。クラピカは右手の鎖に左手で触れた。しっとりと冷たい肌触りが、彼の心に染み込んだ。なら、そうね、といかにも優しげな口調で前置きして、キャロルは祈りにも似た敬虔さで天を仰いだ。

 

「婚約者さんには伝えておくけど、私、あの人の涙の味が知りたいの」

 

 年端もいかぬ少女の瞳が、下卑た感慨に恍惚と濡れる。エリスの顔から表情が落ちた。下唇をわずかに震わせながら、彼女は一歩前に踏み出した。それを、クラピカは左腕を水平に上げて留まらせた。

 

「まて。奴とは、私が先約だ」

 

 エリスと目が合う。明々と燃え盛る灰色の虹彩。その奥深い場所までじっと見つめて、クラピカは己の意志を無言で伝えた。お互いにしばらく相対して、やがて、エリスは何も言わずに半歩さがった。キャロルは、ずっと面白そうに眺めていた。

 

「コミュニティーが配った手配書には、お前の姿は含まれてなかった」

 

 距離を詰め、【導く薬指の鎖(ダウジングチェーン)】を伸ばしながらクラピカは語る。全身からオーラがほとばしって、臨戦の気配がホテルの部屋を満たしていく。

 

「ええ、失礼しちゃうわよね。それは確かに、あの場ではこの服をほとんど着てはいなかったし、あの傷は致命傷に見えたかも知れないけど」

 

 赤いドレスを翻し、紫の爪を伸ばしながらキャロルは笑う。あれに含まれるのは猛毒だろう。どのような効果があるか定かではないが、ひと掠りも好ましくないことだけは自明だった。だが、彼の持つ覚悟と渇望の前には、その程度の脅威では牽制にもならない。

 

 赤く染まった視界をクラピカは駆ける。同時にキャロルも疾走した。両者の速度は室内の距離を一気に削り、爪と鎖が火花を散らした。二人の視線が交錯する。憎しみと憧れが衝突し、殺意にからめて打ち出される。遠心力を利用し鞭のように襲う鎖を、爪が火花を散らして弾き飛ばした。毒を埋め込もうと奔る爪を、宙を舞う鎖が弾いてそらした。

 

 勝てる。息も付かせぬ連撃の中、クラピカは冷徹に彼我の実力を把握した。速さは互角。力と技術はクラピカが上だ。即決の毒爪は鬱陶しいが、裏を返せばそれだけだった。牽制が間に合わなくなった時、彼は勝利を得るだろう。

 

 しかし、敵も蜘蛛。このままで終わるほど軽くはなかった。爪で弾くのが間に合わず、腕を捕らえると思われたダウジングチェーンの一撃が、肉も骨もすり抜けた。想定外の現象にクラピカが驚く。その隙に、彼女は別の方向を見定めた。視線の先にはエリスがいた。獰猛に瞳をぎらつかせて、腰を落として床を蹴った。彼は追い掛けようと踏み込んだが、その時にはキャロルは消えていた。完全に見失った一瞬のうちに、少女の姿は背後にあった。

 

 理想的とも言える完璧な不意打ち。振り向く暇は最早ない。手後れになってからクラピカは悟った。床を蹴ったのはブラフだったと。鎖をすり抜けたのと同じ手口で、そのように見せ掛けただけなのだろう。猛毒の爪が背中に迫る。クラピカの体術では対応できず、エリスの援護も間に合わない。

 

 しかし、問題は何もなかったのだ。

 

 キャロルの腕が唐突に止まった。具現化した鎖が幾重にも絡まり、きつく巻き付いて押し止めている。クラピカが武器としていたダウジングチェーン。探索を旨とするその鎖は、彼がキャロルに捲かれたその直後に、毒爪をたやすく見付け出した。

 

「くっ!」

 

 再び鎖をすり抜けて、キャロルはバックステップで距離を取る。だが、一度見た技は予測可能だ。そもそもこの鎖は本命ではない。クラピカは至極冷静に、静かな哀れみさえも抱きながら、小指の鎖を一直線に射出した。剣状の装飾が施された先端が奔る。それは見事にタイミングをとらえ、彼女の胸の中心に、深々と突き刺さって心臓に達した。

 

「動くな。ここまでだ」

 

 静寂が部屋に訪れた。キャロルの顔に表情はない。窮地に立たされた彼女の姿を、エリスが無言で見つめていた。

 

「なにを、したの」

「掟を強いる戒めの楔だ。私に逆らえば発動し、貴様の心臓を握り潰す」

 

 審判者の如く高圧的に、クラピカは事実だけを淡々と告げる。誇張も虚偽も必要なかった。定められた法を破った時点で、鎖は自動的に裁きを下す。【律する小指の鎖(ジャッジメントチェーン)】の能力は、単純が故に絶対だった。

 

「質問に答えてもらおうか。まずはお前の能力からだ。正直に言え」

 

 あの時、彼女の腕が消えたように見えた。そして、蜘蛛の入れ墨がない彼女の身体。クラピカは答えを推測するまでに至っていたが、ここではあえて慎重に出た。もしも最後の確認ができれば、彼の優位は完全になる。無論、能力が発動しても支障は少ない。

 

「素敵。とても情熱的な念能力ね。インプレッシブだわ」

 

 キャロルはうっとりと呟いた。胸元にそっと手を当てて、熱っぽい吐息をくゆらせていた。

 

「……でも、嫌よ」

 

 言って、彼女は己が胸部に爪を沈めた。赤いドレスは破かれて、血が飛び散り、白い肋骨がひしゃげて折れる。その中から、キャロルは何かを取り出した。エリスが両手を口元に当てて息を呑んだ。子供らしく可愛い手の平の上に、小さな、血塗れた心臓が乗っている。鎖が刺さり、巻き付いていた。

 

 一拍おいてジャッジメントチェーンが発動し、手に乗った心臓が押しつぶされた。キャロルは相変わらず無事である。胸部に開いていた深い穴も、避けて汚れていたドレスさえも、全てが幻だったかのように無傷だった。常識を冒涜するあまりに猟奇的な光景に、エリスは絶句して固まっていた。しかし、クラピカはさほど驚いてない。半ば予測していた事態だった、

 

「心臓までとは。外道め。人としてそこまで終わっていたか」

「あら、女の子に対して失礼ね」

 

 そんな気遣いはどうでもいいと、心底からの怒りを込めて、彼は紅蓮の眼差しで敵を睨んだ。右手の鎖がジャラリと鳴る。圧倒的な怒りを肺に凝集して、舌先で空間を切り裂くように吐き捨てた。

 

「確信した。お前は、蜘蛛だ」

 

 能面に貼り付いたにこやかな笑みで、キャロルはこくりと頷いた。そして、エリスに顔を向けて語りかけた。年長者が若輩を導くに似た、親愛と優越感の篭った話し方。

 

「不思議?」

「え?」

「人間の脳の大きさって、年齢や体格の差がそれほど影響されないものなのよ。あんまりかけ離れてると無理だけど、細かい誤差なら、訓練次第でどうにでもなるわ」

 

 言って、彼女は紫色の爪を出し入れしてみせた。その技は、念ではなく技術の成果である。毒を喰らって体内に貯え、体を操作して爪を鋭い刃に変える。闇にまみれた世界では、さして珍しくもない特技だった。実現に要求される特記事項は、努力と才能の二つだけだ。

 

「女の子が持ってる一般的な憧れ、変身願望。私はね、憧憬があればなんにでもなれるの。コスモスの似合う少女にも、舞台で輝く女優にも、白馬に乗った王子様にも。そして、屈強無双の紳士にも」

 

 そこで一旦言葉を区切り、キャロルは赤いドレスを消し去った。少女の未発達な細い肢体に、ふわふわの金髪が揺れている。そして、クラピカを油断なく見つめながら、彼女はぴょんと軽く跳んだ。直後、幼い子供は消え去って、鍛えられた男性の裸体に変わる。それは瞬間的な芸当だった。隙あらば仕掛けようと身構えていたクラピカが、ついぞ介入することができなかったほどに。

 

「そう、このように変身できるのだ!」

 

 下着を、靴を、服の上下を、ステッキを、あえて段階的に具現化しながら、紳士は大声で朗らかに叫んだ。その喉も、舌も、肺も尽く借り物だった。彼女は脳だけで生きている。脊髄さえも具現化で済ませ、憧れに寄生して長らえていた。

 

「つまり、あいつが使っている念能力は、他者の肉体の具現化だ」

 

 憎悪を込めてクラピカは断じた。同じ具現化系の技を使う者として確信できた。リアルに飛び散ったあの血潮。白骨や内臓の暖かい色艶。表層からの観察だけでは辿り着けない、肉感的な自然さが確かにあった。それを実現するためには、視覚で、触覚で、嗅覚で、聴覚で、味覚で、入念な研究が必要なのだ。ちょうど、彼が鎖で遊んだように。だからこそ、彼はキャロルを外道と呼んだ。

 

「……だったら、具現化のモデルになった人達は」

「ああ、常識的に考えるなら、存分な実体験がないとおかしいのだよ」

 

 エリスは事情を把捉して、しかし信じたくないがために動揺している。それを察知したクラピカは、あえて突き放した口調で断言した。余計な迷いは隙を産む。相手はそこに付け込むだろう。

 

 最早ためらう理由はない。【束縛する中指の鎖(チェーンジェイル)】を展開する。一刻も早く、下衆を地上から消し去りたかった。潔癖な傾向のあるクラピカは、キャロルを幻影旅団としてだけでなく、一人の個人としても唾棄するに足る、この上なくおぞましい敵とみなすに至った。

 

「覚悟しろ。肉体の性能だけではオレには勝てない」

 

 中指に繋がれた鎖を伸ばし、彼は紳士を深く見据えながら大言した。クラピカが纏う念の様子は、先ほどとは完全に違っている。たった一つの確信だけで、彼の心情が切り替わったのだ。深海の如き深い絶望に身を焦がし、眼のない亡霊を背負いながら、灼熱のオーラを魂の奥から吹き出していた。情報を聞き出すという計略さえも眼中になく、ただ、蜘蛛を追葬者として捧げるために、荒れ狂う殺意の渦中で静思していた。

 

「最後に祈れ。それぐらいの慈悲はくれてやる」

 

 構えをとって、彼は言った。エリスも、震える手を握りしめて見つめている。激しい怒りが渦巻いていて、いつ絶が解けるとも知れなかった。仮にわずかでも緩んだならば、それだけで暴風が巻き起こるだろう。単純に、噴出するオーラの圧力のみで。

 

「さて、どうかな? ……しかし残念! あぁ本当に残念だがね!」

 

 場違いなほどに快活に、キャロルは饒舌に嘆いてみせる。右手のステッキを振り回し、革靴で床を踏み鳴らし、大仰にふんぞり返って演説の如く、頭を抑えて嘆きを吟じた。

 

「団長からあまり遅くなるなと命じられているのでね。ところがこれ以上戦えばお互いに生死をかけた決戦になってしまう。いや、実に残念だよ、私も!」

「そうか。なら、死ね」

 

 クラピカは鎖を打ち放った。細い金属製の連環に、空前絶後のオーラが秘められている。物体に対する破壊力はさほどではない。しかし、旅団に対する害意だけが、永久に束縛したいという意思だけが、規格外の威力となって現れていた。人体に対しての打撃力のみに限定すれば、一流の強化系術者にも匹敵している。無論、単純に鞭として用いた際の性能である。

 

「ふむ、思い上がった若人を戒めるのも先達の努めかっ! 面白い!」

 

 それを、キャロルは正面から迎撃した。小細工のない、手にしたステッキによるシンプルな突き。全体重をのせた単純単一の攻撃が、先端に凝集されたただの硬が、積年の憎しみに拮抗した。爆風が部屋に吹き荒れて、生命力の粒子が閃光の如く撒き散らされる。だが、クラピカは何が起こったのか理解していた。パワーで互角であるのではない。あの紳士は鎖の軌道の要を見抜き、その一点を精緻な狙いで貫いたのだ。陰湿な宿主に似合わない、愚直なまでに真っすぐな戦術。しかし、であれば、次を防げるという確約はない。荒れ狂う衝突の残骸へ向け、更なる一撃を振りかぶった。

 

「が、生憎と私の保有する細胞は脳だけでね、今回はオーラの残量も少ないから退かせてもらうよ! 悪いな! だが、悪く思わないでくれたまえ!」

 

 捨て台詞が、次いで轟音がキャロルのいた場所から聞こえてきた。刹那の後に鎖が薙ぐ。想定した場所に手応えはなく、中指の鎖は壁を打った。頑丈なホテルが大きく震える。が、そのような些事は放置して、即座に彼は床を蹴った。そこには敵の姿はなく、唯一、ぽっかりと穴が開いていた。何枚もの階層を貫いて、遥かな階下まで続く縦穴だった。それは人間の肩幅よりも小さかったが、頭部だけなら落ちていけるだけのサイズがあった。

 

 クラピカはエリスの方を振り向いた。怒りで蒼白に震えていた。きっと、彼自身も同様の状態だろう。追いかける事は無意味だった。キャロルが能力を駆使したら、人込みに紛れ込まれた時点で対処できない。負けたのだ。勝ち負けをこの場で定めるとしたら、彼らが敗者であることは自明だった。

 

 あれが、旅団。

 

 あれが、あんなものが、幻影旅団。あんな奴らに滅ぼされたのか。そう思うと、脳漿が沸騰しそうな怒りを憶えた。クラピカの頭蓋の内側に、嘲笑がいつまでも残響していた。

 

 

 

 マチは己の迂闊さを噛み締めていた。いつか裏切るだろうとは感じていた。だが、実際に裏切るほど馬鹿だとは知らなかった。異形の奇術師が宙を舞う。彼女の攻撃が見透かされる。シズクの振り下ろした掃除機を、体をねじって避けてみせる。自在に張り巡らされては収縮するバンジーガムは、二対一という状況でさえ、戦いのペースをヒソカの手中にもたらしていた。回避性能は尋常ではなく、フェイントも異常にやりにくい。なにしろ、生半可な攻撃ではオーラに粘着されて窮地に陥るだけで終わるのだ。しかし、大ぶりの一撃では察知も容易く、赤子をあやすようにさばかれた。

 

 せめて、相手の攻撃に合わせて同士討ち覚悟の大技を仕掛けようと試みたが、彼はなかなか乗ってこない。一定以上には深追いせず、二人の抵抗を楽しんでいる。奇襲しておきながらの専守防衛。その上で、彼女たちが連携しようとすれば絶妙な妨害を挟んでみせる。それは、酷く鬱陶しいスタイルだった。

 

「マチ!」

「ああ! 任せる!」

 

 後ろから聞こえるシズクの声に、手刀を念糸で防ぎながら了解した。何かをしようというのなら、全てを許容する覚悟だった。たとえ命を失っても、最後まで悔やみはしないだろう。せめて、後方支援の彼女だけは無事にアジトに帰したかった。

 

「デメちゃん! ヒソカ後方の石礫とコンクリ片、投棄されたゴミ、およびその他硬質の小物全てを吸いとれ!」

 

 鋭い歯の並んだノズルが勇ましく鳴き、シズクの掃除機が猛り狂う。標的にされたのはヒソカの背後、その更に向こうの石だった。大小さまざまな大きさのつぶてが、銃弾以上の速度で迫ってくる。その数は優に百を超える。能力者なら致命傷にはならなくとも、当たれば硬直は免れまい。しかしヒソカは振り向きもせず、ただ、気配だけで事情を尽く察してみせた。奇術師は不敵に足を止め、彼の体のごく近くを、弾は風を切って通過していく。避けたのではない。全ての弾道を完全に把握し、隙間を見つけて待機したのだ。雨粒を見切るに等しい所業である。マチは心底呆れ果て、化け物と毒づく気持ちにもなれなかった。

 

 石つぶてはマチへも飛来する。だが、これは窮地ではなく好機である。彼女は避けるつもりは全くなかった。瞬く間に念糸で盾を編みこんで、強靭な防御を完成させる。それを前方に掲げながら、マチは弾幕の中へと踏み込んだ。ヒソカの頬が吊り上った。

 

 ヒソカの拳が強烈に迫る。衝撃は念糸の盾を貫通し、彼女の体を重く襲った。激痛が走り、呼吸が止まる。強い、とマチは痛感した。しかも明らかに余裕がある。筋力もオーラも渾身ではあるまい。遊ばれていた。それが無性に悔しかった。だが、そんな事はどうでも良かった。強さも元より承知の上だ。接近戦で勝ちきれるとは考えていない。彼女が目指すのは唯一つ、旅団としての勝利である。

 

 念糸で編んだ盾がほどける。それはヒソカの腕に絡みつき、見る間にきつく拘束していく。さらに、マチは追加で糸を繰り出す。後も先も考えず、オーラを全力で振り絞る。勢いのままに密着し、絞め技で彼の肉体を固定して、その上から自分ごと糸を巻いた。鋼より硬い念糸が肌に食い込む。奇術師が喉の奥で笑っていた。

 

 ヒソカのオーラが膨れ上がった。ぞっとするほど迫力があり、鮮烈に磨きぬかれた練だった。危機感を超えて感嘆に近い。鍛錬の日々に生きるが故の、境地を目の当たりにしての純粋な憧れ。実際に殺しあって始めて分かる、本当の意味での戦闘能力。

 

 だが、届く。

 

 服越しにヒソカの身じろぎが伝わってくる。パワーの予感を秘めた雄の肉体。筋繊維が形作る熱い隆起。マチは直感で理解していた。このまま時間を与えていれば、念糸はいずれ破られると。しかし、片手間の攻撃などは悪手だった。この体勢を維持すれば、彼女は敗北に至るだろう。

 

 それでも、命を狩ることに支障はない。

 

 さあ、殺しな。相方の女性へ念じながら、マチは全霊をかけて両腕をきつく締め上げた。永遠ともいえる一瞬の間、決定的な成果を待ち望んだ。だが、変化は何も訪れず、一秒もの時間が過ぎ去っていた。馬鹿な、と、彼女の思考が真白く染まった。さらに一秒が経過する。シズクほどの実力を持つ能力者が、戦闘中に犯してよいような遅れではなかった。

 

 呆然と彼女のいるだろう方向を見る。答えはそこに存在していた。終焉であった。シズクの胸元を貫いて、誰かの右腕が突き出ている。それは背後から背骨と肋骨を掻き分けて、心臓だけを摘出していた。シズクは目を見開いて痙攣しながら、口元を小さく動かしている。掃除機のヘッドに硬を施して振り上げた瞬間、後ろから柔らかく穿たれたのだろう。具現化していた彼女の獲物が、取り落とされて儚く消えた。

 

 唐突に現れたその人物は、全身から靄のような闇を噴き出していた。夜闇の中でなお暗い、深遠の如き純然たる黒。唯一、色の残った右腕からは、オーラが湯気のように立ち昇っている。

 

 見覚えのある腕だった。

 

「アルベルト、あんた」

 

 屈辱と悔恨と憤怒を込めて、乱入者の名前をマチは呼んだ。オーラの量がいつもより少なく、禍々しさも消えている。だが、闇を脱ぎ捨てて現れたのは、確かにアルベルトそのものだった。常に身に付けていた翡翠の珠の首飾りが、なぜかどこにも見当たらなかった。

 

 アルベルトの左手が薙ぎ払われる。苦しみを終わらせようという慈悲だろうか。シズクの首を目掛けた断頭の手刀。それは、当の彼女の腕で防がれた。マチにはシズクの気持ちがよく分かった。例え無駄だと分かっていも、その方が楽になれると知っていても、残された時間で最大限、命を燃やして足掻いたのだ。

 

「おっと、ボクも忘れてもらっちゃ困るよ♥」

「かはっ……!」

 

 腕すら使わず、体重移動だけで放たれたヒソカの打撃が、マチを強かに打ち据えた。肺の空気が抜け、意識が一瞬かすれて揺れた。しかし、念糸だけは意地でも離せない。決して離してなるものかと、衝撃を殺せず放物線を描いて飛んでいく仲間の体を眺めながら、彼女は最後まで勝利のための抵抗に殉じることを受け入れた。それは決意と呼ぶには自然すぎる、蜘蛛として当たり前の在り方だった。

 

 ヒソカの体躯がぶれる。それを機と見て念糸を消した。急に拘束から開放され、敵は微か刹那だけバランスを崩した。それだけの隙で十分だった。全身全霊を己が右手に集約して、生命を賭した硬を実現する。変化自在の戦術に対抗する、愚直なまでに真っ直ぐな拳。迫り来るのはヒソカの蹴り。崩れたバランスすらも利用した、恐ろしく鋭い一撃だった。

 

 思考も、技術も、駆け引きも、全て忘れて捨て去った、最も原始的な戦いの形。都会を貫く暗い河原で、今、二人の意志が交差した。

 

 

 

「殺さないのか」

 

 シズクの体が暗い川面に没したことを見届けてから、アルベルトはヒソカにあえて尋ねた。

 

「まさか♥ 美味しくなるのはこれからなのに♥」

 

 ヒソカは楽しそうに微笑んでいる。戦いの末にマチは気絶し、バンジーガムを全身に巻きつけられて彼の肩に担がれていた。

 

「彼女は大切に閉じ込めておくよ。クロロを狩るまで手は出さない♠」

 

 それが一番堪えるだろうから、と、喉の奥で笑うヒソカ。アルベルトはわずかに不満を滲ませたが、何も言わずに頷いた。

 

「それで、彼は?」

「大丈夫。生かしてあるよ♣ データ見るかい?」

 

 携帯電話で情報を端的にやり取りし、一番肝心な用件の残り半分の首尾を確認すると、彼らは満足そうに視線を交わした。ようやく、これで最初の段階まで進めたのだ。蜘蛛の心臓は潰れたに等しい。しかし、まだ頭も多くの脚も残っている。血液の流れは悪くなっても、壊死までは簡単には辿り着くまい。目指す道のりは遠かった。

 

「それにしても、クックック……。彼には感謝しなきゃね♦」

「ああ、ハンゾーか。確かに、ね」

 

 アルベルトは心の底から頷いた。今回は本当に運が良かった。そもそもの原因は、マチとフランクリンまで参加して、思いのほか大人数の買い物になったことにある。あらかじめ想定はしていたが、対策をとるには限界があった。そこに、ポックルとポンズの乱入である。エリスの存在を口に出された時は二人の殺害まで覚悟したが、結果として全てがプラスに向かって働いた。彼らのおかげで稼げた時間で、ハンゾーの乱入が間に合ったのだ。

 

「あそこで彼がフランクリンの足止めをしてくれなかったら、ここまで最良の結果はきっと無理だったろうね。最悪、今日は諦める必要があったかもしれない」

 

 許された時間は余裕に乏しい。仮に一日を無為に過ごしてしまったら、その代償は巨大なリスクとなって後日の自分たちにのしかかるだろう。だしにされた格好になる上、生存できたかも不明な彼らには何の申し開きもできないが、アルベルトはせめて心の中では真摯な気持ちで感謝の念を捧げようと決めていた。

 

「じゃあ、またアジトで♠」

 

 マチを担ぎ、ヒソカが何処かへ駆けていった。暗闇が急にがらんとした。冷えた風が流れている。一つ、終わった。未だに先は険しくとも、段階を昇ったという充足と安堵が、アルベルトの胸を満たしていた。

 

 夜空の下、まだ少し残っている闇の残滓を彼は見やる。光を発しない絶対の黒色。全身を覆っていた念の塗料を、思案と共に観察した。

 

 現状、アルベルトは絶ができないため、常に濃厚な気配が立ち上がり、接近戦による不意打ちは不可能に近い。だが、例外となる抜道は存在する。先ほどまで使っていた手段がそれだった。全身から吹き出るオーラを片っ端からファントム・ブラックに費やして、気配と姿を隠したのだ。消耗が激しく、視界が著しい制限を受けるため、実質的に奇襲専用の切り札であった。

 

 アルベルトはファントム・ブラックを解除した。物質が生命力に還元される。しかし、本人へのオーラの回収は、マリオネットプログラムなしでは不可能らしい。この半年間、何度か繰り返した試みだったが、結果は常に同じだった。

 

 感傷に浸っている暇はない。まだ一人目を倒したにすぎないのだ。早急に隠した首飾りを回収し、何食わぬ顔で仮宿に帰らないとならないだろう。ここで裏切りを悟られるわけにはいかなかった。アルベルトはそのように自分の気持ちを切り替えて、この場を立ち去ろうときびすを返した。

 

 だが、不意に轟音があたりに響いた。流れ落ちる瀑布の如き水の音。ゆったりと流れていたはずの河の中に、巨大な渦が出現している。竜巻を逆さにしたような、大自然の猛威に近い現象だった。水位がわずかながら減っていく。

 

 やがて、渦の中心が見えてきた。河底を二本の脚で踏みしめて、彼女はしっかりと立っていた。……シズクである。メガネはない。掃除機に水を飲ませながら、眼に怒りを灯して見つめていた。

 

「ねえ、アルベルト」

 

 彼女は語る。静かに、胸から血液を滲ませながら。

 

「痛いよ」

 

 水流が爆音を奏でる中で、シズクは掃除機を握り締める。限界以上の筋力がかかり、痛んだ腕が惨烈に歪む。みしりと、アルベルトは骨の軋みを幻聴した。彼女の纏う末期のオーラに、重厚な意志が宿っていた。脳死までの数分間、あるいはほんの数十秒か、駆け抜ける姿は荒々しくもかくも気高い。動機の善悪、手段の可否を超越して、一つの存在として尊かった。

 

「デメちゃん、吐き出して」

 

 優しくささやくような声色で、彼女は己の半身に語りかけた。とたん、掃除機が甲高い絶叫を上げて振動する。吸引の動作が中断され、一泊の後、激烈な噴出に切り替わった。膨大な水が噴き出され、周囲に叩きつけられて爆発する。巨大な水柱が立ち上がるが、アルベルトに気にかける余裕はなかった。ロケットのように一直線に、猛然と彼女が迫ってきた。音速などとうに超えている。対応する時間は刹那もなく、ただ、時が止まったような暗い世界で、生死の境も曖昧な狭間で、彼は、魂を削って相対した。練。既に底の見えた命の力を、全開で燃やしてオーラを増やす。

 

 回避など始めから不可能である。防御など考えるだけでおこがましい。軸をずらそうにも速すぎる。それでも、彼岸も同然の無我の境地で、彼はシズクへ手を伸ばした。

 

 そして、空高く体を打ち上げられた。

 

 これでいい。

 

 弾き飛ばされ、宙を舞いながらアルベルトは思う。神経が焼き切れそうな痛みがあった。臓器の損傷も危惧された。だがそれでも、生命に比べれば些事であった。あの瞬間、ダメージは完全に度外視していた。絶命を避けることしか念頭になかった。局限されたタイミングで、シズクの体を覆う離脱衝撃波に打撃を加える。オーラの流れに逆らわず、方向だけをわずかに変える。ただし、彼女に対してではない。自分の体の流れを変えた。それだけが、彼に可能だった全てだった。

 

 衝撃を喰らい、弾き飛ばされることを利用して、最悪の結末を回避する。それは完全な賭けであった。失敗していれば骨は砕け、肉は大きくえぐれただろう。が、彼は未だに生きている。空中を無抵抗に飛ばされながらも、アルベルトは辛うじて生きていた。

 

 しかし、シズクは諦めてはいなかった。

 

 天高く、水流の斬撃が夜空へ昇った。突撃を避けられた彼女が放った、振り向き様の執念の一撃。それを躱す術はなかった。アルベルトにできる抵抗は一つ、オーラを纏った防御しかない。枯れ果てた井戸から更に絞り、魂を炉心にくべながら、彼は身を打つ水流にひたすら耐えた。数秒後、彼が川原に落ちた時、立ち上がる力も残ってなかった。

 

 草を踏み分ける音が聞こえた。見上げればそこには、シズクがいた。掃除機の姿は見あたらず、全身、泥水をかぶって汚れながら、ゆっくりと這いずるように歩いてきた。衣服は無惨なボロと化して、片腕は完全に砕けている。顔面は蒼白で血の気がなく、夜間にはっきりと分かるほど、死の淵に瀕して衰弱していた。恐らく、生まれたての猫より弱いだろう。

 

 それでも、追撃されたら死ぬしかない。

 

 未だ、アルベルトに反撃するような余力はなかった。オーラの残量が全くなく、生きているだけで奇跡だった。呼吸するたびに痛みが走る。体が動くようになるまでは、絶望的に時間が足りない。せめてあと数時間の時を経れば、三十分だけでも休息があれば、そんな懇願をしたところで、滑稽すぎて喜劇にもならない。決定的な瞬間は近付いてくる。

 

 永遠にも等しい沈黙が流れて、そばでどさりと何かが倒れた。シズクであった。倒れたままで目が合った。アルベルトと、シズク。二人は至近で見つめ合って、数秒間の時をすごした。やがて、彼女の眼光が濁っていき、何も言わずに死んでいった。己の全てを使い切って、何一つ残さなかった最後だった。もしも彼女にあと一歩、あと数秒だけ時間があれば、アルベルトの命は消えていた。

 

 それは、推測ではなく事実だった。

 

 

 

次回 第二十九話「伏して牙を研ぐ狼たち」


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