コッペリアの電脳   作:エタ=ナル

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第三十三話「終わってしまった舞台の中で」

 大地が砕け、万物が地の底に飲まれていく。土砂降りの瓦礫が外壁を打ち据え、轟音が絶え間なく轟き続ける。異常な振動がビルを揺らし、全体が徐々に軋んでいく。あちらこちらで火花が飛び散り、外壁の窓ガラスが砕け散り、蛍光灯が破裂していく。構内放送のスピーカーから、マフィア構成員の祈りにも似た絶叫が流れては儚く消えていった。

 

「これはこれは! 困ったねぇ! 楽しいねぇ! いやぁ、どうしようかねぇ!このままでは二人そろってベリアルじゃないかね! ははっ! それもいいねぇ!」

 

 紳士が手に持つステッキがぶれる。瞬間、九つの打撃が炸裂した。不可視の衝撃が同時に放たれ、クラピカを包み込むように命中した。弾丸のように飛ばされた彼の肉体は、コンクリート製の内壁を何枚も貫き、天井と床を突き破り、キャロルの視界から消失した。遥か先で重低音が聞こえる。

 

「ふむ……」

 

 足をとめ、カイゼル髭を撫でて紳士はしばしの休憩を入れた。これぐらいで潰れる相手ではないのは知っている。あの憎みようは尋常ではない。知らないし興味もなかったが、よほどの因縁があるのだろう。キャロルに興味があるとすれば、その意思がどう発露するかの一点である。

 

「おっと、上だね!」

 

 前触れなく天井が崩れ落ち、切り裂くような鎖の一撃が、キャロルの頭上から襲い掛かる。強烈な三連突きで受け止め相殺するが、圧力までもは消失しない。彼の靴底が床にめり込み、陥没させて崩壊させた。

 

「なんと! おおぅ?」

 

 床下の配線が引きちぎれ、コンクリートが瓦礫に変わり、鉄筋も、階下の天井の空調ダクトも、彼と共に砕けて落下する。下の階にあったオフィスに、大柄な紳士が着地した。机が飛び散り、椅子はひしゃげ、パーソナルコンピュータは破砕された。

 

「いやはや、なんとな……」

 

 見上げると、天井には大穴が開いている。二フロア上の穴の淵に、真紅の瞳が輝いていた。青い民族衣装に身を包んだ、憎悪に身を焦がす金髪の青年。中指から伸びる細い鎖が、オーラを吸ってぎらぎらと光る。

 

「ふはははは! 躊躇のない素晴らしい不意打ちじゃないかね! いや、実にいいよ!」

 

 両腕を広げ、紳士は全身で喜びを表現した。リリカルだった。信じられないぐらいリリカルだった。きっと彼は、極上の洋服に変わるに違いない。より丈夫で、より長持ちする、素敵な素敵なお洋服に。

 

「その鎖、先ほどから私の体に巻きつけようとしているが、どんな効果があるのかね! 興味があるね! さあ、さあ、さあ! 頑張って縛ってくれたまえよ!」

 

 今度はキャロルが姿を隠した。大声で挑発の台詞を残しながら、全力で穴の直下から走り去る。そして、壁や床を壊しながら、ビルの内部を縦横無尽に疾駆した。後ろから破壊の大音響が追いかけてくる。炎が噴き出し、建物がぐらつき、窓の外の夜景がだんだん斜めになっていく。防火扉を吹き飛ばしながら紳士は思った。楽しいと。これだから弱者はやめられないと。

 

 キャロルの弱さはスペクタクルだ。人は、自分より弱きものを踏みにじる時、秘められた獣性が最も出る。憎悪が伴えば最高だった。人間の人生は壮大であり、その本質は意思にある。剥き出しの本性を叩きつけられ、叩きつけ、一つに混じる際のエクスタシー。たとえ肉体は偽物だとて、心には永久に刻み込まれる。人を愛するキャロルにとって、それは、生きていく意味にも等しかった。

 

 紅蓮の炎に飲まれながら、体表を炭化させながら、紳士の体が廊下を走る。一つ下のフロアにクラピカはいる。その気配は先ほどから立ち止まって、あまりに無防備に構えている。円もしてない。火炎にまぎれたキャロルの気配は、確実につかめてないだろう。絶好の奇襲の機会であった。己が狩られるとは想定してない、一方的な優位者の傲慢な油断。それが覆された時、彼は果たして、どんな顔を見せてくれるのか。

 

「さあ、よく狙いたまえよ若人! 私の肉体は小さいからねぇ!」

 

 天井を崩して落下する。燃える瓦礫と共に落ちながら、黒く炭化し、血と脂の滲む体のまま、鍛え上げた紳士は鋭いステッキの一撃を穿った。一条の光が瞬くように、細い風穴が果てなく開いた。

 

「狙っているさ」

 

 が、絶技を、クラピカは予知していたかのように回避していた。

 

「そもそもお前の位置などは、最初から筒抜けだったのだよ」

 

 先端に小さな鉄球のついた薬指の鎖が、冷酷にキャロルを指し示している。ここにきてようやく理解した。傲慢だったのは自分だったと。中指の鎖が飛来する。もう、避けられるような段階ではなく、手心を期待できるような相手でもなかった。死。それが明確に迫っていた。

 

 刹那、ビルが不自然にガクリと沈んだ。今までの揺れとは決定的に異なる、何かが折れた瞬間だった。お互いの位置が微細にずれ、鎖の軌道が紙一重でそれた。キャロルはそれを天佑ととった。

 

 頭蓋が砕け、硬膜が破裂し、脳が剥き出しになって脳漿が飛び散る。それでも、命が消えることはなかった。紳士は少女に変身し、毒の爪を伸ばして間合いを低く踏み込んだ。クラピカはとっさに蹴りを叩き込む。キャロルは防御を考えず、わずかに体をひねって最小限にかわした。肩をえぐり、肉を切り裂いていく彼の靴先を実に甘美に味わいながら、停滞したような時間の流れで、彼女は下品に唇を舐めた。

 

 至近からの爪の斬撃は、しかし、クラピカの首を狙いながらも、とっさに左手で逸らされる。腕が伸びきった瞬間に、クラピカは後方へ離脱した。中指の鎖を引き戻しながら、鋭いバックステップで後ろへ跳んだ。キャロルの耳が鎖で削がれ、髪の絡まった血肉が銀色の光沢を赤黒く汚した。

 

 コンマ一秒単位の攻防では、長大な鞭は使いがたい。が、クラピカのセンスは尋常ではなかった。一度接近戦と決めたなら、空中を蛇行する部分部分が、無数の短い鞭のように自在にしなる。近づくことは困難で、近づいてしまえば地獄が待つ。故に、キャロルは己が左手を引き千切った。背中を見せる投球フォームで、回転の力を加えて投げる。

 

 敵へ飛来する毒の手首、その数、二十。空中に散らばるように具現化した手首を、引っ掻くように飛ばしたのだ。

 

 クラピカの右手が激しく振るわれ、鎖が縦横無尽に躍動する。それは絶対の結界であり、巨大な怪物の顎にも似ていた。少女の左手が咀嚼される。一つたりとも、一指たりとも届くまい。が、既に紳士へと成り代わっていたキャロルにとって、それは些細な事実であった。

 

「そうら! まだまだだよ!」

 

 叫び、大柄な肉体が走り寄った。右手でステッキを握り締め、鎖の圏内に踏み入れて、熾烈な攻防を再開する。瞬きさえもできない時間に、空間は火花で満たされた。衝突が連鎖し、オーラの火の粉が爆散していく。赤く輝くクラピカの眼を、闘いに上気した紅顔を、キャロルは心底美しいと思った。

 

 キャロルは少しずつながら近づいていく。限界を超える限界を踏み越え、間合いをじわじわと削っていく。いつか、ステッキの直撃が届く距離まで近寄れたら、今度こそあの肉体を穿つために。しかし、彼の思惑はそれだけではなかった。

 

 それは、たった一度の機会であった。空間を満たす破壊の渦を恐ろしく冷静に眺めながら、彼はその瞬間を見極めた。まだ、宙に浮いていた肉片の一つを、毒爪のついた指先を、無手の左手が殴り飛ばしす。たった一枚の爪が弾かれ、紫色の軌跡を描き、打ち合いの隙間を通って飛翔した。

 

 クラピカは躱すことができなかった。逃げればステッキに貫かれ、それこそ確実に終わりであろう。彼にできたのはたった一つ、ギリギリの狭間で鎖を揺らし、ほんの一つの鉄輪で、軌道を微細に変えることだけだった。結果、指先は首の皮一枚を微かに撫でて、わずか一筋の血を流した。そのとき、キャロルは勝ちを確信した。

 

 爪に仕込まれたのは神経毒だ。まず全身を麻痺させて、次に、徐々に命を蝕んでいく。超即効性でありながら、遅効性の致死効果。その性質は実に悪辣で、指一本動かせないような状態で、数日間は死ねないのだ。戦闘手段としても極めて優れ、解毒薬があれば交渉にも使える。極めて致命的でありながら、殺すも生かすも自由自在。

 

 この体の少女を生んだ一族は、幾億の毒物を賞味し尽くし、幾千、幾万の命を犠牲にし、その境地にまで辿り着いた。今でも鮮明に思い出せる。その執念、奪った未来、幼い決意。実に、美味であった。

 

 だが、クラピカが倒れる予兆はなかった。鎖が消える。反動が突然消失した為に、キャロルの体勢が否応なく崩れた。渾身のショートアッパーをクラピカは放つ。あやまたず、紳士の顎を殴り上げた。脳が揺れてキャロルは止まり、続く回し蹴りを無防備で食らった。紳士の体が吹き飛ばされた。

 

 廊下を十数メートルも転がってから、キャロルはどうにか起き上がった。追撃がないのが幸いしたが、今のは死んでおかしくない隙だった。しかし、それ以前におかしいのだ。キャロルはクラピカの様子をじっと見詰める。崩壊寸前のビルの中、彼は未だに立っている。己が両膝を震わせながら、激増した憎悪を宿してキャロルを見ていた。

 

 たかが一指、爪一つ。されど、確かに体内に毒は入った。

 

 キャロルはこの毒が気に入っていた。便利なことは折り紙つきだが、なによりも、苦しむ姿を楽しめた。絶望に染まる瞳を眺めるのが、彼女の至福の時間だった。だから幾度も試した。何人をも相手に堪能した。分量にも効能にも齟齬はない。彼以上に優れた相手でも、耐えた者はいなかった。

 

 毒に耐性がありそうな様子もない。それでも、彼は膝をつかなかった。支える杖も、寄り添う仲間も、帰る希望さえ持たないままに。彼は、未だに床に倒れていない。少量とはいえ絶命の毒に、鉄の意志だけで抗うのか。崩壊しつつあるこの舞台で、ただ、憎しみのためだけに戦うのか。

 

 その姿に、キャロルは、敬虔な信徒のような感銘を受けた。

 

 数十年ぶりに彼女は思った。弱さではなく、強さで、他ならぬ彼と競いたいと。武に生きた一人の者として、何の意味もなく戦おう。そんな気持ちを、キャロルは見つけた。

 

 紳士の姿でキャロルは構える。言葉はもはや要らなかった。眼前に、剣のようにステッキを立てて、敬意を込めて戦いに捧げた。

 

 クラピカの鎖が水平に薙いだ。キャロルは即座に掻い潜って躱す。それは深すぎる踏み込みだった。バランスを全く顧みない、立ち直りを考えない重心移動。が、次の瞬間、そこにいたのは背の低い少女だ。キャロルに、人体の常識は通用しない。廊下の壁に鎖が当たり、反動を利用して斜めに高速で切り返してくる。彼女は避けようとしなかった。袈裟懸けに裂かれる肉体を放置し、慣性で頭部だけが放物線を描く。そして紳士が前転し、勢いを利用して立ち上がった。

 

 クラピカの瞳は朦朧としている。だが、熱だけは微塵も冷えていない。鎖が根元から波打って、新たな攻撃がキャロルへ襲う。大腿骨を自ら折りつつ、人間に不可能な動きで避けた。

 

 具現化を繰り返しながら戦闘は続いた。紳士に、少女に、姿を変えながらキャロルは挑んだ。間接を逆方向に捻じ曲げて、骨を砕きがらありえざる角度でステッキを振るう。クラピカとて負けてはいなかった。既に鎖さえ囮に使い、具現化と解除を繰り返して自分から間合いを捨ててかかる。接近しては赤い眼光にまかせて肉弾戦で圧倒し、離れては鎖を強烈に振るう。

 

 クラピカの意識は既にない。夢うつつのまま戦っているのだ。真紅の瞳を輝かせたまま、彼は脳髄を介さずに、魂だけで動いている。

 

 美しい様相の闘いではなかった。泥臭いだけの野蛮な決闘。知恵を持つだけの猿の争い。クラピカは少女の金髪を掴んで顔面を殴り、キャロルは顎だけで空を飛んで噛み付いた。十秒後も知れぬ摩天楼で、脱出も考えず殴打しあった。それでも、キャロルはそれを綺麗だと誇った。

 

 敗北は唐突に訪れた。掌底で叩かれた大柄な紳士の胸部から、光の粒子がこぼれ出した。限界である。キャロルは宙に浮かされながら、ああ、と一言感嘆を洩らした。紳士の体が壊れていく。生命力に回帰していく。もう二度と、具現化されることはないだろう。廊下を飛ばされながらキャロルは悟った。少女の体一つでは、クラピカが相手では闘いにもならないということを。

 

「……まいったね。いや、まいったよ」

 

 膝から下は既になく、立つこともできずにキャロルは呟く。紳士の言葉は独り言で、クラピカには決して届かない。だが、彼は未だに倒れずに、憎悪のさなかに佇んでいる。迸るオーラが激しく渦巻く。この階の廊下も炎が回り、瞬く間に瓦礫を燃やしていく。紅蓮の明かりが彼を照らした。赤く輝く闇の中、幽鬼の如く存在していた。

 

 それはあまりにリリカルすぎて、消え去りつつある紳士の体で、彼女は、最後のステッキを振るったのだ。

 

 

 

「困ったわ。ええ、ほんと、困ったわ」

 

 崩れていく摩天楼に背を向けて、キャロルは寂しそうにそう嘆いた。

 

「卑怯じゃない、こんなのって。あなたちょっと、リリカルすぎるわ。……はじめてよ、こんな気持ちになったのは」

 

 すぐそばにクラピカが倒れていた。毒は完全に体を巡った。四肢は完全に麻痺しており、纏すらほどけ、垂れ流すオーラさえもが弱弱しい。今なら絶対にものにできる。それはとても美味しそうで、とても素敵な洋服になろう。だが、彼女は。

 

「永遠に憧れていたいから、あなたのことは諦めますわ」

 

 怖かったのだ。いつか、彼に抱いた憧れが、ただの親愛に変わることが。脳に纏った彼の記憶が、今日のように砕けることが。

 

「……そこのあなた」

 

 そばに停めてあった乗用車の陰に、キャロルは穏やかに声を掛けた。

 

「出てきなさい、スーツの殿方。さもないと、殺すわよ?」

 

 それもいい、と彼女は思った。気分はひどく沈んでいたが、言いようのない怒りがあった。淑女らしさを取り戻すには、八つ当たりの相手が必要だった。しかし、そんな思惑を知りもせず、相手はすごすごと這い出てきた。長身で鼻先に丸いサングラスを載せた、黒い髪の似合う青年だった。

 

「あなた、この人の知り合い? さっきからずっと見ていたけれど」

 

 男は纏を不安定に揺らしつつ、神妙な顔で頷いた。念能力者としては論外で、体もそれほど鍛えていない。一般の常識程度は隔絶してたが、旅団の水準からみれば塵でしかなかった。

 

「……クラピカを、……どうするつもりだ」

 

 冷や汗をかきながら彼は言った。一応だが、力関係ぐらいはわかるらしい。ギリギリで合格と言えるだろうか。キャロルは内心で懸案してから、ずいぶんナイーブになっているなと自嘲した。能力に追加するのを諦めただけだ。生死など、別にどうでもいいではないか。

 

「別にどうにも? ほしけりゃ持ってきなさい。邪魔しないから」

 

 言って、彼女はクラピカを置いて歩き出した。男はそろそろと彼に近づき、容態を確認して驚愕していた。その方面の知識があるのかと思い当たり、ナトバ族の毒よ、と一言告げた。

 

「あ、そうそう。あなた、絶はできる? やってみなさい」

 

 従わなければ殺すだけだと、彼女は爪を出して脅してみた。が、結果は散々に近かった。辛うじてオーラは抑えてあるが、あちこちに微量の漏れがあり、完璧とはお世辞にも言い難い、

 

「下手ね。覚えたて?」

 

 聞けば、今夜覚えたばかりらしい。初心者と思っていたがそれ以下だった。才能があるやらないのやら。キャロルは少し楽しくなって、とある方向を指差して言った。

 

「なら、あちらの方向にお逃げなさい。そして、これからの二分は死ぬ気で絶をし通しなさい。クラピカは、……まあ、それで見つかったら仕方ないわね」

 

 言い捨てて、キャロルはそれっきり彼らから興味を無くした。男はクラピカを背負って駆けて行ったが、もはやそれもどうでもいい。なんとなく楽しくはなってきたが、それと同じぐらい憂鬱でもあった。

 

「あら、こんばんわ」

 

 先ほど男が逃げた方向とは反対から、シャルナークとフランクリンが歩いてきた。隠れようなどとは微塵も思わず、濃厚な存在感をそのままに、いつもの散策のように戦場を横切って近寄ってくる。

 

「あれっ、アルベルトは?」

「あら……? まあ、まあ、まあ! そういえばはぐれてしまったわ! どうしましょう。困ったわ!」

 

 いつものテンションではしゃぎながら、自分のペアの不在を誤魔化す。シャルナークは少々顔をしかめたが、まいっか、と気楽に妥協した。

 

「んでさ、それより、このあたりにスーツ着た男が逃げて来なかった?」

「マフィアならそこのへんにいくらでもあるじゃない。死体だけど」

「んー。マフィア……、じゃないような気がするんだよなぁ」

「どうかしら。見てないように思うけど、もしかして殺してしまったかも」

 

 もともと、大して意味のある獲物というほどでもなかったのだろう。追い詰めたと思ったのになぁ、と和やかに落ち込むシャルナークには、悲壮感というものが欠如している。少し悔しい、その程度のノリのようである。そのことにフランクリンも突っ込んだが、そっちも逃げられた癖にと反撃されていた。

 

 居心地がいいとキャロルは思った。自分には、これぐらい泥臭い付き合いが似合っている。だから感傷は感傷のままで、とりあえず、思い出に仕舞っておくことにした。それに釣ることを諦めた魚よりも、今は、もっと差し迫った用事があった。

 

「ねえ、私、外れてもいいかしら? この服、最後の一着なのよ。最低でも一着、早めに調達しておきたいの」

「え、マジ? 壊れかけ一つじゃなかったっけ?」

「ええ! そうだったけど、二着いっぺんに壊れちゃったの!」

 

 飛び跳ねながら、キャロルは叫んだ。こちらは手に入れてから日が浅く、そうすぐには崩壊までいかないだろうが、万が一も見越して予備が欲しい。なにしろ、ストックが尽きれば命がないのだ。

 

「帰るにしても、団長に連絡入れといたほうがいいんじゃねぇか?」

「あ、そうね。お貸し願える? 私また携帯なくしちゃったみたいだから」

 

 より正確には持てないのである。戦う前なら所持できるが、戦闘中には私物は持てない。よって、稀に盗品を用いる程度のことはするが、恒常的な所持は不可能だった。ところが、フランクリンのものを借りてコールしたが、どれほど待っても応答がない。お楽しみの最中かもしれないねと、シャルナークが可能性を指摘した。仕方ない。彼はそう言い、独断で彼女の帰還を許諾した。

 

 

 

 レオリオは焦りを隠せなかった。背中のクラピカは意識がない。体を麻痺させる毒を受け、処置が遅れれば生命が危うい。追っ手のおかげでポンズとはぐれ、仲間内最強のハンゾーさえも、生死すらもが不明だった。だが、最大の危機はそれらではなかった。

 

「どうした? お前も使えはするんだろう」

 

 立ち塞がるのは異形の男だ。浅黒い全身に包帯を巻き、ボクシングのパンツにグローブをつけた、好戦的な念能力者。旅団の一員としか思えなかったが、今は賞金よりも何よりも、生き残りたいと彼は願った。

 

 踊るように男が消える。目ではとても追いつけないが、ゴキブリのように左へ逃げた。避けた場所に影が舞い、アスファルトの路面が軽々と割れた。レオリオは荒く息をつき、顎から汗を何滴もたらした。あがく様子は無様だったが、辛うじて、今は何とか生きている。相手が遊んでなかったら、そもそも、消えたと認識する前に死ぬだろうが。

 

「見苦しいな」

 

 虫けらのようだと、蜘蛛の団員が侮蔑して言った。うるせぇよ、と、レオリオは心の内だけで吐き捨てた。口に出すことを臆しはしないが、それだけの体力が残ってなかった。

 

「お前の誇りはその程度か。安いな」

 

 だが、それでも、許せない言葉は存在する。

 

「……ふざけるなよ」

 

 もとより、彼は単純で短気だった。小ざかしい計算などとは無縁だった。反論を我慢するような上品な真似は、生きてる限り、彼にできようはずもなかったのだ。それが、レオリオという男の性根である。

 

「俺一人ならまだしも、男が背中にダチを背負って、ハイそうですかと死ねるかよぉ!」

 

 怒鳴り声と共に、オーラが急激に増加した。全身の細胞が沸き立って、集った生命力が開放へ転じる。彼は知らない。これが、音に聞く練と呼ばれる技術だと。相手も知るまい。彼が、初めてそれを行なっているとは。

 

「ほう」

 

 男が頬を吊り上げた。それは戦士の目つきであった。ここに来てようやくレオリオは、相手に敵とみなされたのだ。

 

「吼えたな。それでこそだ」

 

 敵の体の包帯が落ちる。腕、脚、腹、肩、首筋、頬に顎。そこに存在したのは穴であった。体の向こう側まで貫通する、黒く暗い何かの穴。何もかも飲み込む洞窟のようで、全てを吹き飛ばす風穴にも見える。気がつけばレオリオは息を呑んで、得体の知れぬ敵の体を注視していた。

 

「お前の叫び、ほんのわずかだがオレに響いた。いいだろう、精霊と一族の名にかけて誓う。お前が死ぬまで、背中のそいつに手は出さないと。……下ろしていいぞ。足掻いてみせろ」

 

 実に勝手な言い分だった。その傲慢さに怒りが湧いた。眼前の男は、たかだか戦闘力で勝るだけで、よく知らぬ人間を勝手に見下し、格下とあざ笑って舐めている。

 

 なにが、響いた、だ。偉そうに。

 

 そう強がって見せるものの、レオリオは冷や汗が止まらなかった。実力の次元が違いすぎる。だがしかし、オーラが増して初めて分かった。相手は十分の一の力も出していない。勝てる勝てないでは既にない。何秒戦闘が持続するか、どこまで手加減してもらえるか、そのような水準の勝負である。

 

 レオリオにもプライドは存在する。できるなら意地を張りたかった。だが、背中のクラピカを巻き添えにはできない。彼は屈辱を噛み締めながら、相手の慈悲を信じて仲間を下ろし、道路の隅にそっと置いた。敵は盗賊。極悪非道。それでも、誠意を信じるしか術がなかった。

 

 バタフライナイフを懐から出し、刃を開いて低く構える。相手にとっては、チワワが爪楊枝を咥えた程度の脅威であろう。手の平が嫌な汗で湿っていた。

 

 突如、相手は奇妙な踊りを始めた。足取りに合わせ、どこからともなく音楽が鳴る。レオリオはすぐに気がついた。あれは笛だ、と。全身に開いたいくつもの穴が、空気を鳴らして奏でている。念能力者との戦いは初めてだったが、それが敵の能力であるとは、今の彼にも理解できた。しかし……。

 

 止めるか。いや、止めてしまっていいのだろうか。そんなところから分からなかった。知識が足りない。経験が全く存在しない。闘技場で戦いに接する機会もなく、師匠の教えを受けたことすらない。そもそも彼にとって念能力とは、ほんの数日前までは、纏だけを指す言葉だった。だが、そのような状態のレオリオにも、たった一つだけ分かることがあった。念とは、意志が動かす力である。

 

「うおぉおおおおおぉぉぉ!」

 

 咆哮しながらナイフを握り、レオリオは己が左肩に突き刺した。痛い、そしてひたすら熱かった。脳細胞が絶叫し、眼球の裏側がスパークする。更に力を込めて捻り込み、骨に到達するまで傷口を抉る。血が噴き出してシャツが汚れ、スーツに黒い染みが広がった。

 

「ああぁあああぁぁ! ってぇよクソォ!」

 

 一気にナイフを引き抜いて、握ったままの右手で額を殴った。そうしなければ立ってもいられず、転げまわってしまいそうだった。涙が熱い。呼吸が荒い。よだれがダラダラとこぼれている。だが、確かに心は一つになった。痛覚による集中のブースト。雑念の合唱。街角の不良のような不合理の方法。それでも、オーラは飛躍的に増加した。レオリオは本能によって見出したのだ。彼が手にした力の名を、人は、覚悟と呼んでいる。

 

 敵の準備も整っていた。蛮族の仮面に双刃の石槍を両手で持ち、レオリオの行動を眺めている。クラピカは全く動かない。かつて世話になった仲間の命を、今度は、彼が守らなければならなかった。

 

 レオリオは躊躇せずに走り出した。もう、これ以上時間を浪費できない。解毒するタイミングは早いほどよく、他の仲間達も気になった。そしてなにより、あまりに消費が早すぎて、体内に残る彼のオーラが、いつ尽きるとも知れなかった。

 

 ナイフを握って全力で駆ける。体が異常に軽かった。相手は試すように待ち受けている。体術も重心も関係ない。戦術も奇策もどうでもよかった。自分の血に濡れたバタフライナイフを、体の一部のように錯覚していた。トラックがひしゃげるような金属音が、夜の街路に重く響いた。がむしゃらに振るった一閃が、敵の持つ槍に食い込んでいた。ただ、それだけ。石槍を半分ほど切り裂いて、彼の渾身は止まってしまった。相手が無造作に槍を投げると、レオリオは体ごと飛ばされていった。

 

 アスファルトの路面に尻餅をつく。気力を絞り尽くして呆然としていた。肩の痛みまでをも忘れている。戦場の雰囲気はとうに失せ、石槍が空気に溶けて消えていった。敵の姿は元に戻り、再び体に包帯が巻かれた。何一つ言葉はなかったが、喉奥でくくと笑っていた。

 

 丁度そのとき、オールバックで目つきの悪い、ジャージの男がやってきた。

 

「なにしてんだ、団長からそろそろ集まれってメールきたぜ」

 

 親しげに会話を交わす様子から、この男も幻影旅団の団員と知れた。ペアを組んででもいたのだろうか。二人一緒に、どこかへ立ち去るようだった。

 

「なんだこいつら、殺すのか?」

「いや、いい。殺すと次が楽しめないだろ」

「へぇ、そんなにかよ。どれ」

 

 ジャージの男が目を見開き、じろじろと無遠慮に眺めてくる。包帯の男は一つ頷き、得意げな様子で追加した。

 

「やらないぞ。オレが先に目をつけた獲物だ」

 

 ケチだなんだと戯れあいながら、二人の男は去っていった。彼は思考が追いつかず、惰性でクラピカを背負い上げた。脱力した友人の重さだけが、現実感を与えていた。

 

「助かった、のか……?」

 

 レオリオの洩らした呟きに、答える者はいなかった。

 

 

 

次回 第三十四話「世界で彼だけが言える台詞」


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