ある一つの外史を紡ぐ   作:バレンシア

1 / 6
第一話

 昨日から降り続いた雨が大地を濡らす。

 つい最近までの快晴―――を通り越してもはや日照りといっても過言ではないほどの晴れ晴れとした天気が嘘のような曇天が空を覆い尽くす。

 鬱々とした天気に自然と気分が落ち込むなか、豪奢な屋敷の廊下を一人の男が歩いていた。

 齢は大体二十代の後半。中背中肉の男は、目元にかかる程度に伸ばされた黒髪を僅かに揺らす。

 男は廊下に面する一室の前で足を止めた。

 

「失礼します」

 

 二度のノックの後に、男は扉を開いて部屋の中に入る。

 最初に男の視線の中へと飛び込んできたのは、一人用にしては明らかに大きすぎる部屋そのもの。この部屋の持ち主である少女の性格からは逸脱している。

 それに、部屋に備え付けられた調度品はどれも第一級の品ばかり。農家の者が一生をかけたとしても、男の目の前に並んでいる調度品のたった一つですら手に入れることは不可能だろう。

 目も眩むような品物の山は、しかし、部屋の主の趣味とはかけ離れたものばかりだと、男は知っている。

 小さな溜息と共に、男は膨らんでいる寝台に目をやった。

 寝台の膨らみは丁度人間一人分が隠れられる程度。それも男ではなく女性のサイズならば、そこに隠れている人間は必然的に絞られる。

 

「…まったく、貴女はいつの間にこんな悪戯を覚えたのですか?」

 

 男は額に手を当てながら呟いた。

 そして何故かその視線を寝台から離し、足元へと向けた。

 一見しただけでは男の足元には何も見えない。普通に絨毯が敷いてあるだけだろう。だが、よく目を凝らしてみれば、男の足元には細い「ナニカ」が張り巡らされていた。

 それは紐というよりは、もう少し細い糸のようなものだった。

 地に膝をついた男は、まるで自分の足を引っ掛けることを目的に仕掛けてあったかのような糸を回収すると、そのまま箪笥に視線を向けた。

 

「―――」

 

 誰もいない箪笥に話しかけたとなればそれはただの狂人の所業だが、そこに人の存在を認めたのならば、それはそのまま『会話』となる。

 そして男の行動に呼応するように、箪笥の影から一人の小柄な少女が姿をみせた。

 美しい少女だった。金色の髪が風に揺れ、意志の強い青い瞳がまっすぐ男を射抜く。整った顔は小さく、可愛らしいくせに全体的に鋭角的な印象を与える。

 笑っていれば人形のようなにも思える少女は、自身の不機嫌さを隠すことすらせず、腕を組んで半眼のまま男を睨む。

 

「…相変わらず貴方の反応は面白くないわね」

「申し訳ございません」

「謝罪を求めた訳じゃないわ。頭を上げなさい」

「失礼します」

 

 少女―――曹孟徳が不機嫌さを隠さないことに比べ、面を上げた男は朗らかな笑顔を浮かべていた。

 

「…どうして分かったの?」

 

 孟徳は、箪笥の陰から男の傍にある寝台へと歩み寄ると、毎日侍女が選択しているために白く清潔な掛け布団を捲る。

 人間一人が丁度納まる程度のその膨らみの中からは、紐でくくられた布団が姿を現した。

 

「騙せるとは思っていなかったけれど、まさか一瞬で見破られるとも思っていなかったわ」

 

 孟徳が挑むような視線で男を見る。

 相手の全てを見透かそうとする孟徳の瞳に、男は笑みを絶やさず頷いた。

 

「簡単なことですよ」

「…それはこの曹孟徳の考えがつまらないものであったということかしら?」

「滅相もありません。私には孟徳様の考えの底など到底分かりませんよ」

「では何故、貴方はその糸に引っ掛からなかったのかしら?」

 

 再度、曹孟徳は男に問う。

 真っ直ぐ見つめてくる孟徳の瞳からは威風すら感じられる。

 挑発的な視線を向ける孟徳に対して、平凡でしかない男はやはり朗らかに笑って告げた。

 

「今更改めて申すほどのことでもありません。長年、側近くでお仕えさせていただいているこの私が、果たして主である孟徳様の存在に気付かぬ道理がありましょうか?」

 

 男が孟徳に、ひいては曹家に仕えて既に二十余年。人生の大半を共に過ごした主の考えは、未だに男には理解することが出来ない。天賦の才を持つ当代一の天才だと男が考えている孟徳に、平凡に過ぎない男の考えが至れるわけもない。

 しかしそれでも、主である孟徳の背中を誰よりも見てきたという自負が男にはある。それは臣である身にとって何物にも代えられない喜びであり、また幸せである。

 仮に孟徳が死ねと命じれば、男は黙って死ぬだろう。自らの命を引き換えにしても惜しくはない主の姿を間違える臣下などいてはならない。

 要するに、なんの論理的な根拠も男にはありはしない。ただなんとなく、感覚的に分かったというだけのこと。

 男の言葉の意味を理解した孟徳は、愉しそうに口元を緩めた。

 

「フフ、それもそうね」

「納得していただいたようなら恐悦至極にございます」

 

 男は主に向かって頭を下げる。

 

「では朝食の支度が出来ましたので、ご用意を」

「ええ。分かったわ。すぐに行くから部屋の外で待ってなさい」

「承りました」

 

 一礼の後、男は孟徳の部屋から退出し、すぐ横の壁に寄りそうように立った。

 すると、まるで男の退出を見計らったかのようなタイミングで、腰まで伸ばした金色の髪をたなびかせた女性が歩いてきた。

 

「これは曹嵩様。孟徳様に何かご用事でしょうか?」

 

 相手は曹家の棟梁にして孟徳の母、曹嵩巨高。

 孟徳とよく似た流れるような金色の髪。透き通るように美しい白魚のような肌。女性にしては高い身長は、彼女の姿を一層際立たせている。

 男の目の前に現れた妙齢の美女は、なにより、娘とは似ても似つかぬ豊満な胸の持ち主であった。

 

「ええ。食事の前に少しだけ華琳へ伝えておきたいことがあるのよ」

 

 曹嵩は上品な笑みを浮かべる。

 

「申し訳ございませんが、孟徳様は現在朝食のためにご用意をなされているので、もう暫くお待ち下さい」

 

 恭しく頭を下げた男に、曹嵩は頭を上げるように言った後、困ったような表情をみせる。

 

「…相変わらず華琳も貴方に甘えているようね」

「そんなことはありません。私の方こそ、いつも孟徳様にご迷惑ばかりお掛けして申し訳ないという気持ちが募るばかりでございます」

「謙遜しなくてもいいのよ。貴方が側についてからのあの娘は、周囲に対して少しだけ優しくなったわ」

「そのようなことはありません。孟徳様はもとより心の優しいお方です」

 

 他人と話をする際、まず相手を持ち上げることは曹嵩が会話をする上での癖のようなものだ。

 所詮、側仕えに過ぎない男が曹孟徳という人物に与える影響など大したものではない。曹孟徳にはもともと様々な才能があったし、なにより、孟徳は最初から優しかった。ただ表現する方法が苦手だったというだけなのだ。

 それは男が長年、こうして彼女の近くで仕えることで知ったことの一つだった。

 

「待たせたわね、紫呉」

「孟徳様」

 

 男―――紫呉が曹嵩と話していると、身嗜みを整えた孟徳が部屋から出てきた。

 その姿は普段と何一つ変わらぬ凛々しさと存在感を放っている。カリスマ性を備えた未来の英傑は、正しく英傑としての素養を人一倍持っていた。

 

「朝食の前に少しだけ構わないかしら、華琳」

「母上…?」

 

 孟徳が曹嵩を物珍しげに見る。

 曹家といえば朝廷にも顔の利く大宦官の家柄。曹嵩にいたっては一億銭もの投資によって三公の一、大尉にまで上り詰めた女傑である。

 大尉といえば、漢の軍事を統べる者の頂く官職。これほどまでの繁栄を手にした一族は少ない。たとえその身が官職を辞した後であろうとも、人脈を作ろうとして接触してくるものは多い。娘である孟徳ですら普段はあまり会う機会の得られない人物である曹嵩が、わざわざ朝の早くから自室の前にいれば、当然のことながら、千里を見渡す孟徳でさえも困惑の色を禁じ得ない。

 

「…分かりました」

 

 孟徳が困惑した表情を浮かべたのは僅か一瞬のことだった。

 すぐさま常の自分を取り戻した孟徳は、一歩、母親に道を譲る。

 英傑であるならば誰しもが感じる強烈な「機」の予感。未来の英傑たる孟徳も、この時ばかりは肌を焼くような大きなうねりを感じていた。

 

「紫呉。朝食は後に回すわ。母上に茶を出したら貴方も下がっていなさい」

「はい」

 

 曹家の棟梁である曹嵩と、その娘にして次代を担う曹操。

 曹家の頂点に立つ二人の密談の場に、ただの使用人に過ぎないと自他共に認める紫呉は、明らかに場違いな存在であった。

 紫呉は二人に一礼すると、茶を取りに行くためにそのまま歩を返す。

 だが数歩ほど歩いた後に、紫呉の肩に柔らかいものが触れる。

 振り返った先には、笑顔のまま紫呉をみつめる曹嵩がいた。

 

「下がる必要はないわ、紫呉。華琳もそうだけど、今日話そうとおもっている内容は、華琳に仕える唯一の臣下である貴方にも関わりの深い話なのよ」

「…それはつまり」

「貴方も部屋に入って話を聴くのよ」

 

 真剣さが込められた美しい瞳は、相手を石化させるほどの魅力がある。

 真正面から力強く見つめられた紫呉は、曹嵩から視線が逸らせない。

 呆然と、紫呉の黒い瞳が曹嵩を見つめていたのは果たしてどれほどの時だったのか。次に紫呉が意識を取り戻したのは、孟徳が大きく咳払いをした時だった。

 

「孟徳様?」

「…貴方も入りなさい」

 

 若干ながら機嫌が降下した孟徳の勧めに従い、紫呉も二人の後に付いて部屋に入る。

 一度言い出したら頑固なのが曹嵩の良いところであり、また同時に悪いところでもある。

 娘として育ってきた孟徳のため息が、今までの苦労を如実に物語る。

 

「では、僭越ながら失礼いたします」

 

 迷うことなく奥の椅子に座った曹嵩と、扉に近い側の椅子に座った曹操。机を間に挟んで座る両者のうち、紫呉は孟徳の背後に控えて立つ。そこに不自然さはない。孟徳も、それが当たり前だと今更なにも言わない。

 ただ、そんな二人の自然な様子に、曹嵩は母親として口元に浮かぶ笑みを隠すことができなかった。

 

「…なにかしら?」

「いえ。ただ、ね」

 

 曹嵩の視線が上がり、その瞳が再び紫呉に向けられる。

 

「紫呉。貴方はもう私の後ろへは立ってくれないのね」

 

 本来の身分であれば、紫呉は曹嵩の背後に立つのが道理。普段から孟徳の背後に控えている紫呉も、給金の出所はあくまでも曹嵩の懐。形式的には、紫呉は曹嵩の命によって曹操の身の回りの世話をしているに過ぎない。

 

「…一言『後ろに立て』とお命じになられるのであれば、私に否という答えはありません」

 

 対する紫呉の回答は非常に硬い。

 一族の長への回答としては大変失礼なことこの上ないが、当の曹嵩自身は気分を害することなく、むしろ気分をよくしたようだった。

 

「フフ。冗談よ、冗談。だからそんなに睨まないでね、華琳」

「…何の話をしているのか私には理解できないわ」

「あらそうなの?」

「…ええ」

 

 一人楽しそうに、そして愛しそうに微笑む曹嵩の表情は、まさに母親のソレ。娘の成長を見守る母親は、いつの世であっても強い。

 この問答では自身の敗北を悟った孟徳は、一度だけ額に手を当てると、その青い瞳を細めた。

 

「それより母上。今日は大切な話があるのでしょう?」

 

 張り詰める空気は限界まで引き絞られた弦のようだ。先ほどまでの親子としての空気が一瞬にして棟梁と後継者のものに変化した。

 そのすべては孟徳より放たれる覇気に溢れた存在感の成せる業。

 

「そうね―――これを見てくれる?」

 

 英傑という点では、現時点で孟徳を上回る曹嵩にとって、娘の威圧など髪を撫でる微風に等しい。まったくの無問題。表情一つ変えずに懐から一通の書状を取り出した。

 当時の「紙」は貴重品。通常の竹簡ではなく、貴重な「紙」を使っていることからも、今回の話が非常に重大なものであることが見て取れる。

 

「…これは?」

「漢の左中郎将、皇甫嵩義真からの援軍要請よ」

 

 皇甫嵩将軍といえば、知勇兼備の名将としてこの大地にその名が轟いている凄腕の将軍。漢の守護者にして常勝将軍。彼女を称える言葉は数え上げればキリがない。

 そんな彼女が現在どこにいるかといえば、彼女は漢の正規軍を率いて豫州は穎川方面の黄巾党と戦っているという話だ。

 穎川ならば曹家一族が根を張る兗州の陳留とは隣接した地域。馬を飛ばせばすぐに着くだろう距離にある。

 

「率直に訊くわね、華琳。貴女はこの書状のことをどう思う?」

 

 試すように下から見上げる曹嵩に、躊躇うことなく―――一瞬の逡巡すら挟まずに曹操は答える。

 

「千載一遇の好機」

「その根拠は?」

「一つは名を売るにはこれ以上ない絶好の機会であること。一つはあの皇甫嵩将軍に恩を売ることが出来ること。一つは地方に根を張る豪族たちと渡りをつけられること」

「…なるほどね」

 

 孟徳の話を聴いた曹嵩は、腕を組み、天井を眺めて暫しの思案。長年、中央の官吏や宦官たちと権謀術数の限りを尽くしてきた曹嵩の決断は早く鋭い。

 その曹嵩を以てしても、今回の件に関して決を下すことには重い意味がある。

 この書状への返答いかんによっては、曹家は権謀術数渦巻く政争に巻き込まれかねない。中央政界から引退した身としては、果たしてどの辺りまで携わってもよいものか。

 残念ながら、今の曹嵩には既に中央政界での政争を乗り切るだけの力が失われていることは、曹嵩自身も自覚していた。

 中央へと返り咲くには、曹嵩はいささか年齢を重ねすぎていた。

 

「…貴方の意見も聴いて構わないかしら?」

 

 次に曹嵩が発した言葉の先は、孟徳の背後に控えていた紫呉に向けられていた。

 

「私如きがお二方の議論に口を挟むことなど、畏れ多いことです」

「曹家の棟梁であるこの曹巨高が貴方の発言を許すわ」

「…しかし」

 

 尚も逡巡する紫呉に、振り向かないまま孟徳が告げる。

 

「構わないわ。意見を述べなさい、紫呉」

「孟徳様?」

 

 唐突な言葉に紫呉の言葉が止まる。

 

「母上は貴方の言葉を求めているのよ。確かに貴方は私の臣下として振る舞っているのかもしれないけれど、元来、貴方は母上に拾われているのよ。その母上が発言を求めたのだから、貴方には答える義務があるのではないかしら?」

「…その通りでございます」

「分かったのなら、疾く、意見を述べなさい」

「…はい」

 

 では、と一度間を置いてから紫呉が口を開く。

 孟徳のように千里を見渡す目を持っているわけでも、曹嵩のようによく働く頭を持っているわけでもない紫呉が答えられることは少ない。よって、その答えは自らの信じるものを口にするだけ。

 

「応じるべきです。理由はただ一つ、孟徳様にはこれからの未来を乗り切れる力があるからです」

 

 孟徳の可能性と力を最も信じているのは己であるという自負。そして彼女と他の者たちとを比較したとき、自ずと答えは出てくる。

 現在この地において彼女を越える才覚を持つ者は皆無であると信じるからこそ、紫呉はその背中を押す。

 

「当然ね」

 

 そして紫呉の言葉を聴いた孟徳の表情にも笑みが浮かぶ。

 自信に満ちた表情には、確かに満足感と充足感、そして幸福感があった。

 

「…ちょっとだけ妬けちゃうわね」

 

 頬を膨らませ、唇を尖らせた曹嵩の頭に懐古するのは昔の思い出。政界の中、自ら先陣を切って民たちのために働いていた頃、果たして自分にこれだけの信頼を寄せてくれた人間が側にいただろうか。

 過去の寂しさを感じると共に、紫呉を華琳の側近へ配したことは間違いではなかったという喜びが曹嵩の身に染みた。

 

「―――決まりね」

「母上?」

 

 唐突に呟いた曹嵩に、孟徳は懐疑的な視線を向ける。

 曹嵩がこれだけ満面の笑みを浮かべることは珍しい。娘である孟徳ですら、最近は殆ど見ることが叶わなくなってしまっていた表情がそこにはあった。幼い頃、優しく頭を撫でてくれた時の忘れられない表情だった。

そして同時に孟徳は気付いた。

 これから母親は一族すべてに関わる一大決断を行うのだと。

 そして「機」を視るに敏な孟徳の分析は、正に正鵠を射ていた。

 

「華琳。私は今日この時をもって曹家の棟梁の座から降り、隠居することにするわ。これからの曹家は貴女に全てを任せるわ。今よりこの曹家の全権は貴女、曹孟徳のものよ」

「―――」

「私は隠棲するから、後は貴女の好きなように頑張りなさい」

 

 母性に溢れ、包み込むような表情で曹嵩は娘を見つめる。

 すべてを娘に任せ、達観した視点から曹嵩は事象を俯瞰する。

 現役を退き、母親としての義務も終えた今、もはや曹嵩にとってやるべきことはすべてやり終えたと思っていた。

 

「母上、それは…っ!」

 

 しかし孟徳としては困惑を通り過ぎて驚愕に値する発言だった。

 

「えぇ、そうね。ようやく貴女の翼を広げる時が来たのよ。ごめんなさいね、華琳。私の器では、貴女が自由に飛び回るには小さ過ぎたみたい」

 

 明るく言う曹嵩だが、その本心は果たしてどう思っているのだろうか。

 親として娘の力になりたいと思う気持ちは強い。それでも、親である自分がいる限り、娘が家督を継ぐことはできない。そして力になりたいと思う気持ちとは裏腹に、自分の存在が娘の足を引っ張っているという事実を、曹嵩は誰よりも分かっていた。

 彼女自身も優秀であるからこそ、娘の秀逸さは誰よりも理解していた。

 その結果として導き出したのが隠棲。すべてを娘に譲るという選択だった。

 

「―――分かりました」

 

 言葉をつまらせた孟徳だが、ようやく口を開けばそんな言葉を発していた。

 それは母親が、曹嵩という人間が、どれほどの覚悟を持って伝えたのかを理解しているからこそ出た言葉だった。

 才能ある政治家として、また、子を愛する母親としても口にしたくない言葉を告げた曹嵩の覚悟を理解できない曹孟徳であろうはずがない。

 

「今、この場をもって私が―――この曹孟徳が、己が野望を成就させるために曹家を継ぎましょう」

 

 孟徳は、真っ直ぐに曹嵩という個人を見据えて、告げる。

 かねてより進むべき道は決めている。合理的に他者を切り捨てられる自分に、古来より儒家に伝わる「王道」は似合わない。むしろ自分が取るべき道は、武と智によって天下を納める「覇道」こそが相応しい。

 

「私が天下に覇を唱えるということは、多くの血が流れるということ。私がこれから歩んでいくのは誰かの犠牲の上に成り立つ『覇道』よ。これから来るだろう乱世を、私は徳だけではなく力を以て他を治める王になるわ」

「好きになさい。今より曹家の当主は貴女なのよ、華琳。私は貴女の残した道に打ち捨てられたとしても悔やむことは無いわ」

 

 親が親なら娘も娘。決して折れることのない信念を持つ孟徳の覚悟のほどは相当なものだ。

 優秀な二人だからこそ、その結果によってもたらされる影響の大きさもよく分かる。

 それらすべてを背負って、新たな棟梁が立ち上がる。

 

「では、曹家の当主として最初の命を下す―――紫呉!」

「はい」

 

 最初の命令を下す者は昔から決めていた。

 長年連れ添った相棒。もはや己の半身といっても過言ではない男に孟徳は最初の命令を下す。

 

「皇甫嵩将軍へ伝えなさい!『援軍要請承知。曹家当主である曹孟徳が、全力を以て今すぐ駆けつける』と!」

「委細承知致しました。直ぐに兵をやりましょう」

 

 孟徳の言葉に紫呉は大きく頷く。

 

「曹嵩!」

「な、なに?」

 

 次いで孟徳が「曹嵩」を呼ぶ。

 相手はもはや「母親」ではない。曹家の棟梁である孟徳にとって、有用で、利用できる人間なら誰でも使う。そして曹嵩もその一人に過ぎない。曹孟徳に家督を譲るということは、つまりそういうことなのだ。

 

「貴女に最後の仕事を伝えるわ。『かつて培った人脈を使い、朝廷と連絡を取りなさい』。そして『官軍として兵を率いるに足る官位を曹孟徳に与えるような働きかけ』を行いなさい」

 

 単なる小娘が兵を率いていても意味がない。相応の官職を持っていて、初めて民衆へと伝わるものがある。民衆は、義勇軍よりも正当な働きをしてくれる官軍を待っているのだ。

 

「―――分かりました。当主の指示に従いましょう」

 

 ついさっきまで「母親」であった曹嵩が、棟梁の指示に従い頭を下げる。

 

「紫呉」

「なんでしょうか?」

「行くわよ、ついてきなさい」

「御意」

 

 何処に、とは告げない。そんなもの、今更聞かなくても紫呉には十分分かっている。既に何年も前に交わした会話の焼き増しに過ぎない。一層意志を強めた青い瞳と僅かに視線を交えるだけで、たったそれだけのことで、すべては伝わる。

 部屋から去ろうと立ち上がった孟徳に従い、紫呉も彼女の背後に立つ。

 そして部屋から去る間際、孟徳は一度だけ立ち止まり、しかし、背後の「母親」を振り返ることなく呟く。

 

「母さん。これから私たちが切り拓いていく道を後ろから見ていて頂戴。曹孟徳の名に誓って、必ず母さんに戦のない大地をみせてあげるわ」

「―――そう。楽しみに待っているわね」

 

 娘の門出を祝う母親の言葉は、そのまま直接娘の心へとストンと落ちる。

 前を向くと決めた孟徳は、決して後ろを振り返ることをしない。これより先は、一切の後悔や懺悔を封じることになる。最も上に立つ者が迷っていては、国家や軍というものは機能しない。適切に、そして迅速さこそが上に立つ者には求められる。

 部屋を出た孟徳は、自身の部屋の扉を背に再び立ち止まった。

 

―――一秒。二秒。三秒。

 

 たっぷりと三秒間だけ顔を伏せた後、まだ幼さを残した小さな少女は誰よりも強い意志をもって「覇道」を歩む王となる。

 歩み始めた一歩は小さいが、彼女にとっては時代を馳せるための大きな一歩となる。彼女の歩みはそのまま多くの者たちにとっての未来を拓く道となる。

 「覇道」を歩む王―――「覇王」となるべく歩み始めた少女の後ろに付き従う紫呉は窓から射し込む輝きに手で影を作る。

 さっきまで降っていた雨はいつの間にかすっかりと上がり、雲間からは新たな王の出現を歓迎するかのような太陽の輝きが大地を照らしていた。

 

 

 

 

 

 

 同日。

 普段はめったに張り上げることのない男の声が、曹家の屋敷の中にけたたましく響く。

 常とは異なる紫呉の姿に、すれ違う他の使用人や警護の兵たちが驚いた顔をしているが、今の紫呉の視界には入っていない。開け放たれた屋敷の廊下を下品にならない程度に足音を立てながら早歩く紫呉が目指しているのは、この屋敷の中で自らに与えられた唯一の部屋。二桁に上る使用人たちの中でも特に孟徳付きの使用人である紫呉に与えられた個人の部屋だ。

 現在、その部屋には紫呉ではない人物が一人、静かに椅子に座り、机に向かって読書をしているはずだった。

 目的の部屋まで真っ直ぐに廊下を進んだ紫呉は、もはやノックも無用とばかりに勢いよく扉を開いた。

 そこにはやはり、予想に違わず一人の小柄な少女が行儀よく椅子に座っていた。

 

「…屋敷の中を走るなんて、あまり感心できませんよ、兄さん」

 

 少女は紫呉の姿を認めると、読んでいた本を横に置き、顔を紫呉の方へ向ける。

 静謐とした、決して冷静さを失うことのない黒い瞳が紫呉を捉えた。

 しかし絶賛興奮状態の紫呉の勢いは、呆れたような少女の口調に構わずに用件を告げる。

 

「今すぐ伝令を飛ばしてくれ」

「―――宛は?」

 

 何を言っても今は無駄だということを一瞬で悟った少女は、ため息をこぼしながら紫呉の言葉に耳を傾ける。

 

「夏候惇様、夏候淵様の夏候家のお二方。それに現在長安におられる曹仁様と曹純様、曹洪様にも一報を伝えてくれ」

「分かりました」

 

 側にあった竹簡へ紫呉の告げた人物たちの名前を書きとめた少女は、ふと、手に持った筆を止めた。

 

「…どうやら『紙』を使用した方がいいみたいですね」

「ああ。伝令も特に健脚で信用できる者を頼む」

「分かっています」

 

 兄である紫呉とは比較にならない頭脳を持つ少女は、既に紫呉の伝えたいことがわかっているようだった。

思わず少女の口からは舌が鳴る。

 昔からずっと兄が待っていたこの瞬間は、少女にとっては訪れてほしくない瞬間でもあったのだ。

 

「…用件の内容は大体予想できますが、一応、兄さんに訊いておきます」

 

 少女はそこで一拍の間を置く。

 木漏れ日に照らされた少女の白い髪が美しく光りを帯びる。

 

「―――書状の中身は?」

「『麒麟、機を得る。兵を率いて穎川に集え』。他の者たちならいざ知らず、あの方々ならそれだけで理解するには十分のはずだ」

「分かりました」

 

 返事と共に少女はすぐさま「紙」を用意して再び筆を持つ。

 

―――麒麟、機を得る。

 

 曹家に連なり、孟徳のことを認めた者たちが一日千秋の思いで待っていた言葉。親の庇護の下、ただひたすら爪を研いでいた天才が飛翔する時がやって来た。

 

「俺はこのまま町に出て兵となる者たちを集めてくる。冬華(ふゆか)、お前は書状が書けたら孟徳様の下へ行ってくれ」

 

 反転。

 さっき潜ったばかりの扉を再び潜り、紫呉は冬華の返事すら聴かずに去って行った。

 どちらかといえば文官に寄っているはずの兄が見せた行動力に多少の驚きを覚えながら、冬華は開いたままの扉を閉めるべく腰を上げた。

 冬華の身長はそれほど高くはない。主である孟徳と比しても僅かに劣る程度だ。

 まだ幼さを残す妹は、兄からの頼みを決して断らない。そしてその反面、兄は妹に対して絶対の信頼を与えていた。

 しかし兄の背中を見つめていた時の彼女の心境は複雑だった。

 

「―――まったく、兄さんは」

 

 本当に仕方のない人ですね、と誰かが見ているはずもないのに冬華は服の袖で緩みそうになる口元を隠した。

 兄の力となれる日をどれだけ夢見たことだろうか。

 返しきれない恩を背負うということは一種の贖罪にも似ている。「彼」が彼女の「兄」となって以降、その力になろうと学問を学んできた冬華は、しかし、それがこういったこと」に活かされないことを望んできた。どうせなら、平和な世の中でこそ、自らが得た力を兄のために使いたかった。

 だがしかし、冬華の想いに反して、時代の流れとも運命ともいう一種の潮流が彼女の願いを許さなかった。 やはり恩を多少なりとも返すことができる「機」を得られるのは戦場となってしまった。

 既に袖を下ろした冬華の口元はいつもの彼女となんの遜色もない。ともすれば普段よりも冷たい、という感想すら出そうになるほどの無表情に戻る。

 

「華琳。どうしても貴女は兄さんを戦場に連れて行くのですね」

 

 冬華の呟きに返す声は無い。

 

―――十五年。

 

 それが冬華と「兄」の兄弟として過ごした時間であり、また同時に冬華が華琳と出会ってからの時間だ。

 華琳のことを憎んでいるかと問われれば、冬華の答えは否だ。しかし、では嫌っているかと問われれば、冬華の答えは悩むことなく肯定する。そんな微妙な関係が、冬華と華琳の距離なのだ。

 そして両者の間には必ず紫呉という人間が入ることになる。

 

「―――」

 

 紫呉の飛び出した扉を閉めた冬華は、再び黙って椅子に座る。

 こうして考えていても事態が好転するわけでもない。悩むことはいつでもできるが、悩んでいて何もしないのでは事態は先に進まない。

 取り敢えず、冬華には兄から任された仕事がある。冬華もよく知るあの喧しい二組の姉妹に華琳がついに立つという情報を届けなければならない。

 今日という日のために、兄がどれほど準備を重ねてきたのかは、最も近くにいた冬華が一番よく知っている。全ては曹孟徳という名の麒麟児が世に出るために、あの男は身を粉にして頑張ってきたのだ。

 

「…華琳のため、ということが気に入りませんが、これも兄さんの望みですから仕方ありませんね」

 

 身体の内に溜まった不満をすべて外に出すかのような大きなため息は、自分でもやるせなさを感じるが、それも仕方がないと冬華は妥協する。

 兄が一人の人間として「華琳」に惚れていることは、この屋敷の人間ならば誰もが知っている事実だった。

大体、そうでなければ四六時中あの華琳と同じ空間にいるなんて耐えられるものではない。屋敷の者は微笑みながら二人の様子を見守っているが、視点を変えれば、敬愛する兄がいいように使われているだけのように見えなくもない。

 それでもこの身は紫呉という男の「妹」となった身なのだ。個人的な趣向でやらねばならないことをせずに兄から恨まれるようなことはしたくない。

 冬華は紫呉に言われた内容をそのまま書状として認(したた)め、最後に一言添えると、二通の書状を伝令兵に預けて深く椅子に腰かけた。

 これからは忙しくなるだろう。華琳の集められる兵はそれなりになるかもしれないが、募った兵というのは往々にして学がない。武官はそれでいいかもしれないが、文官はそうもいかない。大宦官を輩出した曹家の総本山たるこの屋敷の使用人をもってしても、識字率は高いとは言えない。

 己の未来を見据えた冬華は、晴れ渡った空に憎い女の未来を重ね、再び大きなためいきをこぼすのだった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。