―――豫州。
正史において、魏の誇る「覇王」曹孟徳が本拠地とした「許昌」を有することから、三国時代でも屈指の活気に満ちた州へと成長を果たすことになるこの州は、しかし、現在ではいまだ黄巾を巻いた族たちが暴れ回る土地の一つに過ぎなかった。
時は184年。
現在の中華の大地を支配する漢の皇帝より直々に豫州方面を任せられ、その証として右中郎将を拝命した朱儁公偉は、目の前に広がる光景に思わず感嘆にも似たため息を漏らした。
「―――ほう。所詮は賊軍とばかり思っていたが、どうやらあまり侮ってばかりもおれんらしい」
朱儁が自ら率いてきた漢の兵は約十万。その大半は平和にボケた寄せ集めの兵に過ぎない烏合の衆だが、その中には予てより朱儁に付き従い、様々な戦場で功績を上げてきた歴戦の勇者たちも少なからず存在している。朱儁率いる直属の兵およそ一万は、この広大な中華の大地においても精強と名高い猛者が集っていた。
対する賊軍は、朱儁がざっと見た限りでも約十五万。よくもこれだけ集められたものだと、漢の将軍である朱 朱儁も張角と名乗る敵の首魁の手腕を認めざるを得ない。非常に腹立たしいことではあるが、一定水準を超えるカリスマ性を持たぬ者にはこれほどの人数は集められない。
景色は壮観。気分は爽快。武を生きる糧とした身―――否。男としてこの世に生を受けたからには、これほどの戦場を前にしてその血が滾らぬ所以は無い。
「兵数の差は約五万か。ふむ。丁度良い、揉んでやろうぞ、賊どもめ」
視界一面を埋める兵たちを見渡しながら、朱儁は自身の無精ひげを乱暴に撫でた。
武の才能がない男は、無骨に自分の身体をひたすら痛め抜き、その末にこうして漢の一軍を任されるまでの信頼と能力を得るに至ったのだ。不器用な男が渡り歩いた戦場の数は数えきれない。漢に住む民の平穏を守るために殺した者は、百を超えたこと頃で数えるのを止めた。過去に悔いはない。十万もの兵を預けられるなど、男として感涙にたえない。
「―――しかし友よ、やはりお主の参陣は間に合いはしなかったか」
想いを馳せる相手はこの広大な中華の大地を統べる漢のため、共に背中を預け合い、共に同じ釜の飯を食い、共に武の道を極めんと競い合った一人の女。燃えるような赤い髪と憂いの込められた赤い瞳は、忘れたくても忘れられないほどの強烈な印象を与える。
そんな目立つ外見をした彼女だが、なによりも朱儁の頭に印象深く残っているのは彼女の屈託のない少年のような笑みだった。女性に対して「少年のような」というのも些か機嫌を損ねられかねないのだが、彼女が笑うと確かに町の悪がき共を彷彿させるのだから強ち冗談ではもない。
本来であればこの戦場で共に槍を振るうはずであった女は、しかし、今はこの場にはいない。
「お主にはお主の戦場があるように、俺には俺の戦場がある。すまんが義真よ、この戦場の華は俺が頂くぞ」
現在、朱儁にとって無二の友である皇甫嵩義真は、同じ豫州の潁川方面を担当しているとはいえ、別の戦場で槍を振るっている。
故に、普段なら朱儁の言葉に返ってくる明るい声も今は聴こえない。
そんな他愛もない事実に若干の寂しさを感じるが、勢いよく首を振ることで朱儁は女々しい己の弱さを振り払う。
弱将の下に強兵が揃うことは無い。将の弱気な態度は、大戦を前にして敏感となった兵士たちにはすぐに伝播し、そして拡大する。たとえそれが演技だとしても、将であるならば平気な顔をしていなければならないのだ。
生憎と、朱公偉という人間は精神的に強靭であった。多少の不利など根性と気合で引っくり返せばそれでいいという剛毅な人間だ。たった一人の女がいないからといって崩れるような男ではない。
たとえ普段なら戦の前には必ず背中に感じる女の手のひらの感触がなくても、皇帝陛下より与えられた信頼と漢の将という誇りにおいて負けられない。
「朱将軍!ついに敵が動きました!敵、先頭は右翼!次いで左翼も動いています!」
「―――で、あるか」
部下の必死な声に、朱儁は漸く重い腰を上げた。
兵法の常道では既に官軍の敗北は決まっている。数はそれだけで力となる。単純な数の勝負ならば既に官軍に勝利は無い。兵数で勝ることができなかった官軍は、もはや力任せに真正面から当たることはできない。
―――しかしそれでも、だ。
官軍が賊軍に対して小手先の策を弄して勝って何が天下の官軍か!賊の勢いが各所で削がれている今こそ、真正面から敵に当たり、打ち破ってこその官軍ではないのか!天よ御照覧あれ!我らこそ、天の子孫にして中華の大地を統べる一族に従いし天下無双の「漢軍」なり!!
「者ども進めえええええ!!我らの背には百万の民がおるのだ!決して負けることなど許されぬ!!家族を守り、村を守り、国を守ってこその官軍だ!命を惜しまず名こそを惜しめ!この戦、負けることはこの朱公偉の名において絶対に許さん!!」
雲一つない晴天の下、肌が焼けるような熱気に身を焦がしながら、朱儁は腰に佩いていた鞘から剣を一気に引き抜いた。
煌めく白刃は、皇帝陛下より直接賜った天下に二つとない稀代の名剣。邪魔にならない程度に施された装飾が、天に掲げられることによって周囲に煌びやかな光沢を放つ。
黄巾族十五万に対するは漢の右中郎将、朱公偉率いる官軍十万。
総勢二十五万の人間による、官族入り乱れての大戦が幕を開けた。
◇
潁川の地で黄巾の乱最大の大戦が始まった頃、少し離れた場所では砂塵を舞い上げながら走る一団があった。
「もっと速く走りなさい!!」
総勢およそ五万。騎馬隊を中心とした一団は、一糸乱れぬ統率力を発揮しながら広大な中華の大地を力の続く限り走り続ける。
先頭を行くのは赤い髪を首の後ろで一つに纏めた女だった。
彼女の心を表しているかのような赤い髪を振り乱し、彼女はただ一心不乱に前だけを向いて馬の腹を蹴る。
片手で馬の手綱を操り、片手で血の付いたままの剣を掲げる彼女の猛々しさは、この中華随一だと付き従う兵たちは自認している。天より与えられた光を受けて輝くのは彼らの誇りである紅蓮のような赤い髪。同じく燃えるような赤い瞳は既に次の戦場を見据えている。
彼女の部隊に一兵たりとも弱兵はいない。ここにいる兵は、そのすべてが彼女自身による鬼の鍛錬を耐え抜いてきた精強な兵たちばかりだ。副将にいたっては、他の将軍たちからの度重なる誘いをすべて断り、更に昇進の勅を辞してまで彼女に自らの武を託した頑固者だ。
しかしそんな彼らをして、彼女のこれほど焦った表情はただの一度たりとも目にしたことは無かった。
彼らの知る常の彼女は、一言でいえば傍若無人にして天真爛漫。いつも厄介ごとを持ち込み、人を巻き込む癖にそれでもどこか憎めない。そんな女性であった。
「くそっ!まさかこんなことになるとはな!?」
女―――皇甫嵩は艶のある桃色をした唇を強く噛んだ。
こんなことになるのなら、昨日、偵察隊の話を聞いた後、勢い勇んで兵を動かすべきではなかった。朱儁の制止を振り切るように、賊の討伐に向かうなど、愚かしいにもほどがある。最も信頼していた男の言葉を無視するなど、あってはならないことだったのだ。
「皇甫嵩将軍!それ以上はお止め下さい!!」
「―――っ!?」
唐突に掴まれた腕。思わず息を呑んだ皇甫嵩の視線の先には、必死な目をした副将の姿があった。
「将軍。悩まれるのは結構ですが、自傷行為は見逃せません」
「―――」
副将の視線を追って、皇甫嵩は自らの唇にそっと指を添えた。
武人として生きてきたにもかかわらず、皇甫嵩の指は細くて白い。唇より流れる彼女の血は、白い指に良く映える。
皇甫嵩は指に付いた己の血を舐め取った。
「すまん、面倒をかける」
「いえ。これが私の仕事でありますので」
唇に残った血を手の甲で拭い、皇甫嵩は手に持っていた剣を大きく一度だけ振った。
そして、剣を持ったまま両手で頬を思い切り叩いた。
気持ちがいいほど軽快な音が、場違いなほど小気味よく、騎馬の一団の中で響き渡った。
「―――よし、副将!」
「はっ!」
「今の私はどうだ!?」
「普段と変わらず凛々しくあられます!」
「ならばよし!」
先頭を走る二人の問答に、すぐ後ろを行く男たちは苦笑いを浮かべながら眺めている。
これだからこの大将はいい。過ちや悔いを決して後へは引きずらず、いつも自分たちをその小さな背中で以て引っ張ってくれる。本当は誰よりも優しいのに、彼女が部下に弱音を吐いたことは一度もない。いつもあの快活な笑みを浮かべて部下の背中を思い切り叩きに来る。
今も、隣を走る副将が背中を叩かれ馬から落ちそうになっている。
本当に気持ちのいい女。間違いなく、そして疑いを挟む余地すらないほどに、この一団にいる兵たちは、誰一人としてあの女に惚れていない者はいない。
「さあ急げよ、者ども!我らが朋友を黄巾の賊如きに殺させるな!!」
剣を振り上げた皇甫嵩の背後から地響きのような歓声が響く。
誰もが皆、皇甫嵩の悲しむ姿を見たくない。
駆ける兵団およそ五万騎は、阻むもの無き中華の大地を我が物顔で走り抜ける。
目指す先には同じ「漢」を守護する者たちが戦う血で血を洗う決戦場。潁川郡どころか中華の大地を染め上げるほどの大合戦が彼女たちを待っている。
「遅参はもはや仕方がない!しかしその代償は戦働きで果たすのが我らが軍勢だということを教えてやるのだ!!」
再度響き鳴らされた地響きを連れ、皇甫嵩は更に騎馬の速度を上げていく。
◇
末期の叫びが絹を裂き、舞い散る鮮血が青空を飾る。
黄巾族との戦いが開始されてから既に三十分ほどの時が過ぎていた。
戦況は芳しくない。やはり五万という戦力差は朱儁の予想に違わず大きな影響力があった。
「将軍!右翼から援軍要請です!このままでは保ちません!?」
「中軍より五千の兵を連れていけ!今しばらく持ちこたえさせろ!!」
「敵、前軍より斉射が来ます!!朱将軍!伏せて下さい!!」
「ええい!俺のことは構わん!!全軍に盾を構えさせろ!!」
続々ともたらされる伝令の嵐は、すべてが一様にして自軍の不利を伝えるものしかなかった。
いかに朱儁が一人、中軍において気をはいたとしても、それに続く兵がいなければ意味がない。皇甫嵩のように武の達人というわけでもない朱儁など、二十五万もの兵の中にあっては僅か一人の個人に過ぎない。直属の兵およそ一万は朱儁と共に中軍で待機しているからまだ動いてはいないものの、戦火のただ中にいる兵の質は、その実、あまり黄巾族たちと変わらなかった。。
そういう意味では、いかに十万もの兵がいたとしても、朱儁は孤軍奮闘しているのも同然な状況に置かれていた。
「…まさかこのような状況になろうとはな」
帝より右中郎将を拝命した際、印綬と共に頂戴した宝剣を握りしめながら朱儁は唸る。
苦戦することは承知の上で戦いを挑んだが、これほどまでの劣勢を強いられることになるとは、流石の朱儁をもってしても予想の更に上をゆく。
たとえ腐っていても、朱儁が率いているのは中華の大地を制した天下の官軍だ。たかだ賊軍ごときに後れを取るなどなど、これ以上ないほどに甚だしい。いかに中央が腐敗していても、常に武を磨いてきた武人である朱儁にとって、これほどまでの屈辱的な展開は経験したことがない。
悔しさと腹立たしさ、そしてなによりも己の不甲斐なさに、朱儁の唇からは本人も気付かぬ内に血が流れ出していた。
「朱将軍!この場は一度お引き下さい!!将軍さえ生きておられれば、また再起の機会もありましょう!!」
部下の叫びは既に朱儁の耳には届いていない。
「漢」の御旗を掲げての大戦に、敗北の二文字は許されるはずもない。天下の乱れた今だからこそ、漢でも屈指の将軍と評される身に敗北などあってはならない。もはや皇帝陛下に言い訳のしようもないほどの戦をしてしまっている最中ではあるが、しかし、これほどの屈辱を受けて尚、自らの身の可愛さに任せて軍を引くなど、朱儁の頭の中の選択肢にはありはしない。
「―――俺も出る」
故に朱儁が選択したのは「撤退」ではなく「前身」の二文字。味方の士気を鼓舞するために、大将自らが前面に出る。
ついに中軍の馬上より朱儁は一歩前に出た。
命を惜しむな名を惜しめ。戦前に誓った魂の叫びに従い、朱儁も自ら剣を握って軍を前に押し出していく。
「将軍!ここは撤退を―――!っ!?」
「否!ここで引いてはならん!我らの背には多くの民の命が掛かっているのだ!!」
朱儁は大きく剣を振り上げ、勢いよく振り下ろす。
その剣圧はもはや突風だった。才能の欠片すら感じられない一振りだが、それでも無骨に振り続けてきた練磨の一振りは、眼前に迫った敵の気運すら切り裂き、自らの生きる道を切り拓く。
「これより中軍を二つに分ける!中軍左翼の五千、及び中軍後方の一万は副将に従い敵の右翼を食い破れ!!」
止むことのない喧騒の中、腹の底から出された重低音が戦場に響く。
「前軍は中軍前方と共に敵を引き連れ陣を下げろ!敵の陣をできるだけ伸ばした後、左右の軍に呼応して反転する!!」
朱儁の頭の中で戦の変化が線となり、次第に一枚の絵を描いていく。
「中軍右翼の五千は俺と共に来い!我らは敵の左翼を貫く一個の槍となる!!」
瓦解した戦場を立て直すには、大将が槍を手に前線に出て戦うことがなによりも簡単で、かつ、即効性のある戦術である。そしてこの身は畏れ多くも武を極めたとして皇帝陛下より誉れを受けし豪の者。弱兵ごときに負けはしない。
「漢の右中郎将、朱公偉これにあり!民を苦しませる黄巾の賊共がっ、貴様らの求める大将首はここにあるぞ!!多少なりとも武に自負のある者は疾く、俺の前に出ろおおおおおおおお!!」
右手に槍を構え、左手に剣を備えた朱儁は、その優れた膂力に物を言わせて己の得物を振り上げる。そして両の手より振られたたった一度の攻撃で、合計六人の首を飛ばした。
馬上は徒歩の兵に比して何倍もの戦力があるが、それでも下から突き上げてくる徒歩の兵が振るう刃は脅威になる。
しかし朱儁にあってはそんな心配など杞憂に過ぎない。右の一突きで二人が、左の一振りで四人の賊が死を迎える。年齢こそ四十を僅かに下回る程度だが、今の朱儁は二十といってもおかしくはないほどに若々しい活躍ぶりを発揮していた。
戦場は常に変化し、まるで生き物のように姿を変えていく。
先程までの劣勢を巻き返すために動いた朱儁率いる官軍本隊の活躍によって、戦況は大きく官軍に向かって傾きつつあった。
だが、それでも尚、賊軍の左右を破るほどにまでは至ってはいなかった。
「将軍!囲まれています!」
「ならば蹴散らすまでだ!これより我が軍は敵の陣中を突き抜ける!続けえええええ!!」
叫びながら朱儁は幾度も槍を振るい、剣を薙ぐ。
皇帝陛下より授かった宝剣は、朱儁の人並み外れた膂力でもって何度振るわれても、流石に刃こぼれ一つしなかった。思わず戦中であるにも拘らず、ため息が漏れるほどに美しい刀身は健在だった。
およそ天下に第一級であろう宝剣に対して、槍は朱儁が思っていたよりも簡単に折れた。二桁も人間を突き殺せば、槍の刀身なんてものは直ぐに折れる。槍が折れる度、朱儁は打ち取った敵兵から新たな槍を奪い、振るい、また折れては次に待ち構えている敵から槍を奪っては敵に振るい続けた。
その姿は正に鬼神の如き。長く戦い続けてきた朱儁の生涯においても、明らかに最も優れた技量を発揮している瞬間が続いた。
すると、ついに待ちわびていた瞬間が朱儁の視界の隅に映った。
「おお!見て下さいっ、将軍!我が軍によって敵の右翼が打ち破られたようです!!」
「うむ!!」
敵軍本隊を間に挟んだ向こう側。半分に割った中軍の残りを率いていた副将が、ついに敵の右翼を突き破った様子は、逆側にいる朱儁たちの目にもハッキリと見てとれた。
もはや残り少ない勝機はここしかない。
朱儁は盛大に声を上げて叫んだ。命の炎を燃やすかのような朱儁の声は、喧騒のただ中である戦場においても一際よく響いた。
「味方が敵の右翼を破ったぞ!全軍この機を逃すな!勝機は今、この瞬間をおいて他になしと知れええええええええ!!」
朱儁の言葉に従い、陣を下げていた前軍及び中軍前方が反転し、伸びきった敵の頭を叩く。そして敵陣を突き抜けた左右の両翼より逆落としに間延びした敵の中心に突撃を加える。
作戦は想定以上に上手くいった。歴戦の勇者である朱儁でさえも、自らの逆転勝利が頭の片隅をよぎった。兵にいたっては既に戦後、勝利の後のような雄叫びを上げて敵に迫ろうとしている。
これは勝った。五万という事前の兵力差を押し返し、序盤の苦戦を乗り越え、官軍としての誇りを持って勝利をもぎ取った。家族を守り、町を守り、国を内乱より守った。
踊り狂う剣が左右より敵の中軍を貫き、その後にはこれ以上ないほど美味い勝利の美酒に酔いしれる。
そんな未来を兵たちは幻視する。
この内乱における最大の戦に参加するだけではなく、更に生き残り、果てには朱儁という漢が誇る第一等の将軍と共に勇者として勝利を得た。
すべての兵が内乱の終結と己の栄達を夢見て歩を進めた。
―――しかし、舞い上がった兵たちに突き付けられたのは、夢のような未来ではなく、非情な現実であった。
「うおおおおおお―――――お?」
戸惑いの声は果たして誰のものであっただろうか。
勝利を確信した瞬間に訪れた光景は、兵たちが現実として受け入れるには多少の時間を要した。
「…お……ま………え…………」
腹に刺さった鋭利な刃物。その先には血が流れ出そうなほどに握りしめた手が見える。霞ゆく視界の中、戦場を勇敢に戦い続けた兵は視線を徐々に上へとあげていく。戦場を走り回った際の土が付着した具足。もはや見慣れてしまうほどに見た鎧。そして敵の攻撃から急所である頭を守ってくれる兜。すべてに見覚えがあった。
朱儁が率いる部隊において、敵の中心へと第一に先駆けた男の腹に剣を刺した男は、虚ろな目をしていながらも確かに同じ朱儁将軍を主として戦ってきた同志であった。
「………な……………ぜ……………………」
男の問いに返す言葉はなく、男が言抱いた戸惑いは戦場の轟音に溶けて消えていく。
倒れ伏す男の視界の隅では、自らが命を預けると誓った主の姓を表す「朱」の一文字が翻っていた。
◇
「…どういうことだ、これは」
皇甫嵩が漸く戦場に駆け付けた時、既にすべての戦闘は終了していた。
凄惨たる大戦であったことは見るまでもない。
戦場には多くの死体が無残にも転がっていた。おそらく戦後の後始末すらせずに黄巾族の者たちはこの場から去って行ったのだろう。腹立たしいが、最低限の学すらない賊に儒の教えを説いていても仕方がない。それは諦めるしかない。
しかし、無視できないこともまた存在する。
それはたとえば、転がっている死体の多くは官軍に支給されていた鎧を身に付けていることであり、またそれは賊との決戦であったにも拘らず、死体に鎧や兜がつけたままになっていることである。
「…ありえない」
呟いた皇甫嵩の一言に、周囲を取り巻いていた男たちはお互いに顔を見合わせ頷き合った。
本来、賊とはつまり食い詰め者たちの事を指すと言っても過言ではない。飢饉や天災などで田畑を追われた民が最終的に行きつく先が賊であり、今ならばおそらく黄巾族が最も規模の大きなものになるだろう。
彼らは殺した軍人の鎧や兜、或いは剣など武具の類を放ったらかしにすることはまずない。
何故なら、それらはそれなりにと高値で売れるからだ。
それなのに、今回の決戦場の跡には多くの官軍兵士の死体が転がっているというのに、大半の兵が鎧や兜を身に付けたまま転がされている。こんなこと、常ではありえないことだった。
「将軍」
「ああ」
副将の声に、皇甫嵩は地面に転がる死体から視線を外す。
ざっと見た限りだが、この場に朱儁の持つ牙門旗はない。それはつまり、朱儁の生存を意味しているも同然のことである。戦場には間に合わなかったが、戦自体にはまだなんとか間に合ったらしい。
「全軍転進!」
皇甫嵩の号令に従い、五万の騎馬たちが再び一つにまとまる。
その速度たるや凄まじい。五万もの騎兵たちが僅か一時間もかからず普段から慣れ親しんだ陣形を取る。
大将である皇甫嵩を穂先に、鋭利な槍を彷彿させる陣形は「鋒槍(ほうそう)の陣」とも呼ばれる。豪将の一突きは万の兵の恐れを引き出させる無双の槍。精兵と名高い皇甫嵩の騎馬集団が自らの身体を一個の槍と成すこの陣形は、多くの戦において無敗の陣として知られていた。
「どうなされますか、将軍?」
「そんなもの、既に決まっているだろう」
陣を敷いている間にも、先発した物見兵たちから間断なく情報が皇甫嵩の耳にもたらされる。
得られた情報を総合すると、もはや一刻の猶予もない。
命からがら戦場から撤退した朱儁は、潁川の中にある長社という城に籠城しているようだった。
「…まさか、あの男に籠城という手段を取らせるとはな」
朱儁といえば、籠城戦よりも野戦で大きな力を発揮する将軍として有名な男だ。多少の不利などものともしないあの屈強な戦い方と精神力は、皇甫嵩をしても見習うべき点が多い。それになにより、あの男は籠城戦のように相手の行動を「待つ」という戦の方法が苦手であり、かつ、嫌いなのだ。
友として生きてきた皇甫嵩ですら、朱儁が籠城戦を行う光景など、ただの一度としてみたことがない。
そんな男に籠城戦を取らせた潁川の黄巾族は間違いなく強い。
「油断も慢心もしない男を籠城させるとは、中々に敵もやる」
知らず、皇甫嵩は唇を舐めていた。
あの朱儁をここまで追い詰めた敵との決戦を前に、武人としての血が滾る。
「将軍!全軍進軍の用意が出来ました!」
そして皇甫嵩の内なる心の声を聴いていたかのようなタイミングで兵たちの用意もすべて済んだ。後は剣を手に、駆け付けるべき戦場まで一気に駆け抜けるだけ。
「よし!では今度こそ行くぞ!!全員私に続け!我らが友の窮地を救ってやろうじゃないか!!」
返答は雄叫びとなって彼女の背中を前に押す。
先陣を飾れず、戦場に間に合わず、これで友の無事な顔を拝めないのでは、あまりに恥ずかしくて周囲の者たちに顔向けすることができない。皇帝陛下より左中郎将の位階を拝命したこの身は漢の守護者。無二の友人にして漢でも指折りの将軍を死なせたとあっては、どうして再び皇帝陛下へと謁見することが出来るだろうか。
駆ける。駆ける。駆ける。
もう既に道のりは然程のものではない。ただ真っ直ぐ前だけを見て駆け抜ければいい。そうすれば、あっという間に着くことだろう。
だからこそ、皇甫嵩の気持ちも自ずと逸る。
私が行くまで死ぬなよ、朱儁!私はまだまだお前と共に戦場を駆けていたいのだ!私を残して死ぬことは絶対に許さないからな!!
深紅の瞳に強い意志を込め、皇甫嵩は長年連れ添った愛馬の背を撫でる。
今日は随分と遠くまで走ってきたが、今少し、お前の力を貸してくれ。
疾走する一団の中、一際大きな馬の嘶(いなな)きが、漢の太平を願い、散って行った兵(つわもの)どもの亡骸の上を響き渡る。
俄然やる気を出して疾走する愛馬の上で、皇甫嵩は額に流れる汗をぬぐう時間すら惜しいとばかりに剣を握りしめる。
友が生きているという自信はあるが、それでも彼女の心は鎮まることを知らず、刻一刻と焦りを増幅させてゆく。少しでも気を緩めれば、悪夢も真っ青なほどの嫌なイメージが頭によぎってしまう。
「自信がある」ということと、「不安がない」ということは、決して同じ意味ではない。どれほど信頼している人間のことであろうとも、絶対的に拭うことのできない不安は必ず付き纏う。
皇甫嵩は頭を振って嫌なイメージを振り払う。
「副将!残りはどの程度だ!?」
「残りは約八里!もうすぐ前方に城が見えるはずです!!」
副将の言葉に皇甫嵩は馬上で大きく頷いた。
彼女の人一倍優れた視力は、既に遥か地平の先に長社の城を捉えていた。
「全軍槍を構えろ!このまま敵軍を抜き、城内の味方と合流するぞ!!」
そう言って皇甫嵩も剣を鞘に戻して戟を両手で構え直す。
将軍として「常勝」という誉れをほしいままにしている皇甫嵩は、また、同時に一人の武人としても一騎当千の強さを誇っている。かつての内乱の折、彼女の部隊約五百名で以て反乱軍三千人を相手取った戦いは、今も洛陽をはじめとする様々な都市で語り草となっている。
残り六里。
皇甫嵩の視線が鋭さを増し、その紅蓮の瞳に肉食獣のような獰猛さが加わった。炎を纏うが如く光り輝く赤い髪に、背後を駆る武人たちの士気も弥が上にも増していく。
残り四里。
ついに部隊の全員が長社の城を視界に捉える。
共に漢のためにと剣をとった仲間が籠る城。抽象的な言葉は具体的な映像を結ぶことでより一層の効果を与え、兵たちの気勢は俄然上がっていく。
残り二里。
もはや止まらない。すべての者が槍を構え、弓に矢を番え、抵抗を抑えるために姿勢を低くする。
大将の命令は「味方の軍と合流する」ことの一点のみ。無用に刃を振るうよりも、とにかく遮二無二敵の囲いを突き抜けることこそが肝要となる。すべての刃が前面に突き付けられ、兵団そのものを槍と見なした「鋒槍の陣」が油断しきった敵軍に喰いつく。
「全軍、駆け抜けろおおおおおおおおおお!!!」
大将である皇甫嵩の命の下、一個の槍は崩れることなく敵陣を食い破る。
中華随一の突破力を誇る皇甫嵩率いる騎馬軍団は凄まじい勢いで戦場を駆ける。誰も無駄に敵へと突っ掛るようなことはせず、ただ大きな叫び声と共に皇甫嵩の後ろを駆け抜ける。
それでも皇甫嵩の進む直線上において、剣が、槍が、弓が届く範囲の敵に対しては一切の容赦はしない。
彼らの通った後には、無残に突き殺され、射殺され、斬り殺された黄巾族の死体だけが転がっていた。
勝負は一瞬のうちに決した。
皇甫嵩たちの突撃を許した黄巾族は、蜘蛛の子を散らすように四散した。
一度も戦場に出たことがない人間を相手にしているかのような錯覚さえ抱くほどに、敵からはまったく手応えがなかった。真正面からぶつかり合うわけでもないのに、そんな敵を前に、中華の大地全土へと勇名が轟いている皇甫嵩率いる騎馬集団が後れを取るはずもない。
敵陣を一気呵成に駆け抜けた皇甫嵩たちは、無事に、そして悠々と城門前へと辿りついた。
「城兵よ、門を開けろ!守将朱公偉が無二の朋友、皇甫嵩義真が援軍に駆け付けたぞ!!」
叫びに呼応して、城壁の内側から歓声が上がる。
そして閉ざされていた城門が開き、中から男が一人、馬に乗って城から出てきた。
見間違えるはずがない。その男は確かに朱公偉、正にその人であった。
「朱儁!!」
「すまんな、皇甫嵩よ。結局、お主に世話をかけることになってしまった」
「ははは!その堅物な思考は確かに我が友、朱公偉に違いない!」
距離を縮めた朱儁の背に、颯爽と皇甫嵩の手が吸い込まれ、軽快な音と共に赤い紅葉が出来上がる。
明るい声と悪がきのような笑顔、そして、この相手の悩みをすべて吹き飛ばすかのような快活な張り手。
朱儁の口元にも自然と笑みが浮かんだ。
「私たち二人が揃ったんだ!さあ、反撃開始だ!!」
「うむ。これからが本当の決戦だ!」
二人の大将の叫びに、場内と場外、城壁を隔てた両側から鬨の声が沸き起こる。
両軍ともに待ちわびたこの瞬間。漢の国を守護してきた二人の英傑が同じ戦場に舞い戻る。
両将軍の再会に、濃厚であった敗色は既に露となって散った。
いまだ不利な状況下においても、兵たちは腹の底から叫びを挙げるのだった。