雲一つない青空の下、肌を焼くほどの強烈な日射しが大地を照らしていた。
徐々に強くなる風は大地に敷き詰められた砂を巻き上げ、官賊問わず将兵の視界を遮る霧のような役割を果たす。一歩でも外に出れば瞬時に喉の渇きを訴えるように乾燥した空気が辺り一面を満たしていた。
朱儁率いる官軍が敗北した野戦での戦いより既に数日が経過していた。長社の城での籠城戦を決断した朱儁は、城中に存在する玉座の間で皇甫嵩と共に顔を突き合わせて話し合いを行っていた。
「―――やはり酷いな、これは」
「そう、だな」
机を間に挟んだ両者の表情は非常に硬い。
長く同じ戦場を駆け廻り、戦時中の緊迫した雰囲気に慣れ親しんでいるはずの二人にしては珍しく、玉座の間は張り詰めたような緊張感が支配していた。
「こちらの兵は十万弱。対して敵の兵は偵察部隊の報告によれば、およそ十二万は下らない」
「籠城戦を行うのならば気にしなくてもよいと思うが・・・」
「ああ。単純に籠城戦だけを考えれば気にする人数差じゃない。兵法の定石では、攻城戦を行う際には守備兵の三倍以上は必要になるからな」
しかし、と皇甫嵩が一度言葉を切る。
「今回ばかりは生兵法は危険すぎるだろうな」
腕を組み、深く椅子に腰かけながら皇甫嵩が呟いた。
「そんなことはない。相手は碌な訓練もしていない賊軍だ。野戦では奴らに遅れを取りはしたが、籠城戦では負ける気はせん」
「「負ける気がしない」という感情論と「負けない為に最善を尽くす」という方法論は根本的に議論の土台が違う。それに実際のところ、私の連れて来た兵はともかく、お前の兵は大半が戦意を取り戻したに過ぎないという程度なんだろう?」
「まあ、な」
「それなら厳しい現状に大差はないよ」
落ち着き払った皇甫嵩の様子に、朱儁は小さく唸り声をあげた。
戦場での経験という面をみれば、朱儁は漢の将軍の中でも随一だと言ってもいい。現在の漢という王朝の中を眺めてみても、およそ朱儁の実力は五本の指に入るだろう。
だが、そんな朱儁をもってしても皇甫嵩のような自然体ではいられなかった。
机の上で数を数えるだけでも、官軍の兵力は賊軍の兵数よりもおよそ二万は少ない。戦場での上策はあくまでも敵より多くの兵を揃えることに尽きる。質では優に賊軍の上をいくとはいえ、数字上の不利はどうしても否めない。
ただ、それでも今回の戦は前回とは異なって「籠城戦」であるということは官軍にとっての朗報だった。籠城戦には三倍の兵を用いることが攻城側にとっての常道だ。たったの二万しかない兵力差では、城に籠った官軍を負かすことなどほぼ不可能に近い。官軍は亀のように城に籠って援軍を待つだけで構わない。
しかし、視点によっては圧倒的に有利な立場に立っているにも拘らず、朱儁の顔は一向に晴れることはなかった。
「お前の顔を暗くしている理由はなんだ、朱儁」
「―――」
果たしてこの問答は、今日だけで既に何度目のことになるのだろうか。
決して口を割ろうとしない朱儁に対して、皇甫嵩は深いため息を漏らす。
「朱儁。生真面目で頑固者のお前のことだから、何か言いたくない理由があるだろうことは私だってよく分かっているつもりだ。私だって本当ならお前を問いただすようなことはしたくない」
まっすぐに皇甫嵩の赤い瞳が朱儁を見つめる。
「でも、今はなにより時間が惜しい。頼むからあの野戦で何があったのか教えてくれ。どうしてお前の軍はこんなにも士気が低いんだ?」
燃えるような赤い髪が、朱儁の目の前で机へと流れた。
無二の親友が頭を下げる姿は大きく朱儁の心を打った。握り締めた拳から血が流れ出すことに気付かないほど、朱儁は何かに耐えるかのような表情で友の頭を見つめた。
「・・・お主が俺たちを助けるために駆け付けてくれたことには感謝している。だが、どんなことがあったとしても言えんこといはあるのだ。散って逝った者たちの名誉のためにも、俺が口を割ることは出来ん」
皇甫嵩の肩に手を置き、朱儁は彼女の頭を上げさせる。
無二の友としての誓いを立てた皇甫嵩に真実を話さないことは「朋友の信」に反する行為だという自覚は当然のことながら朱儁にもあった。事実を吐露してしまいたい気持ちに駆られるが、なんとか踏み止まる。友に真実を告げないことも苦しいが、死者に鞭打つような行為は更に朱儁の心を深く抉るのだ。
「今しばらく戦況を観察しよう。どの道、冀州で盧植将軍が黄巾族を抜けば援軍が得られるだろうからな」
これ以上の追及にはお互い耐えられなかった。
あの赤い瞳で見つめられると、どうにも朱儁は弱い。齢二十ほども年下の小娘を相手にして、歴戦の兵である朱儁が全く手も足も出せないというのはなんとも情けない話だが、どうしても朱儁は皇甫嵩には勝てないのだった。
「分かった。お前の意見を容れよう。今はまだ城内に立て籠もっていれば耐えられる」
「・・・すまん」
「気にするなって!お前は私の相棒なんだから、もっとビッとしろ、ビッと!」
「―――っ!?」
再び朱儁の背中に打たれた皇甫嵩の手のひらが、小気味よい音を鳴らした。
唐突な衝撃に、思わず朱儁が皇甫嵩を振り返ると、彼女はいつもと変わらない快活で気持ちのいい笑顔を見せた。
「さ、城壁に行くよ、朱儁!そろそろ奴らの攻撃が始まる頃だ!」
「―――ああ」
玉座の間から城壁に続く道を二人は歩く。
時折すれ違う兵たちに余裕に溢れた笑みを見せながら歩く皇甫嵩に対して、朱儁にはそれほどの余裕を見せることは出来なかった。
先日の戦場で起きた不可思議な現象にまったく納得できる説明ができない。あの時、確かに左右からの逆落としと正面からの追撃によって黄巾族は壊滅するはずだった。急ごしらえでも間違いなく作戦自体は成功していた。敵の右翼を打ち破った副将たちに呼応して動き出したのだから、正にあの瞬間までは確かに作戦通りに事は進んでいたのだ。
「―――っ」
朱儁の奥歯を噛みしめる音が小さく廊下に響いた。
背中を預けた仲間を信頼できない者に大将は務まらない。そして大将に対する敬意無くして強い軍団は出来ようはずもない。少なくとも、朱儁は共に戦場を駆け巡ってきた仲間たちを信頼していたし、仲間たちもまた朱儁を尊敬していた。
しかし、現実の話としてあの現象は戦場の只中で起きてしまった。憂慮するまでの事でもない。本来、朱儁は皇甫嵩に対して真実を余すことなくすべて告げ、次に来る黄巾族との戦いに臨めばいい。それが正しい選択である。そんなことは朱儁も分かっていた。
「―――皇甫嵩よ」
「ん、なんだ?」
振り向いた少女の瞳に浮かぶ一抹の寂しさを、もはや長い付き合いになる朱儁には容易に読み取れてしまう。
そして、そんな寂しさを悟らせないようにと貼り付けた笑みに、朱儁の心もまた引き裂かれるような痛みを与えられるのだった。
「・・・いや、なんでもない」
「なんだそりゃ」
僅か二十にも満たない少女が戦場で働く姿は兵の士気を向上させ、一層の奮起を約束する。
彼女の武は、一騎をして万を超える軍の士気に関わるほど戦場での影響力が高い。それほどの武を持つ者は、この広大な中華の大地においてもそうはいない。失うにはあまりにも惜しい能力だ。
しかし友であり、また彼女の武を認める者の一人としても、やはり彼女には子どもを成し、育み、見守ってやることこそが最も幸福な生き方ではないかと思ってしまう。
「・・・皇甫嵩よ、お主は―――」
朱儁の手が皇甫嵩の頭に伸びかけた時、二人の耳に大きな喧騒が届いた。
「な、なんだ!?」
「まさか、黄巾族の攻撃かっ!?」
顔を見合わせた二人は城内を走り、目下最前線である城壁の上に走った。
するとそこにはなにやら言い争っている兵たちの姿があった。
「貴様ら!いったいそこで何をしている!!」
腰に佩いた剣を抜き、皇甫嵩が一団の側へと駆け寄っていく。
突然現れた指揮官の姿は、興奮した兵たちの頭を冷やす効果があった。民を引き連れたモーゼが川を割るかのように、皇甫嵩の前だけ兵たちが左右に分かれて道を作っていく。
正に彼女の―――皇甫嵩義真という女の存在感には、歴戦の勇将である朱儁をして目を離せなくなってしまう程のものがあった。
自分のような努力に努力を重ねた勤勉家とは異なる先天的な天才肌。若干十三歳にして将軍の位を頂戴し、十八となった今では己に並ぶ中郎将を拝命した中華随一の武才を持つ者。それが皇甫嵩義真という女の正体なのだと、改めて理解させられる。
「あ、皇甫将軍!」
「副将!お前が付いていながら何があった!?」
まず皇甫嵩が話しかけたのは、自らの部隊を纏める副将の男。常に冷静沈着な男の判断は幾度となく皇甫嵩の危機を救ってきた。己の部隊で皇甫嵩が最も信頼する者の一人だった。
「はっ!申し訳ありません!」
「謝罪はいい!それより何があった!」
男が下げた頭をそのまま叩き、皇甫嵩は話の続きを促す。
すぐさま背筋を伸ばした男は、皇甫嵩へと現状を報告する。
「じ、実は、兵の一部が逃げるために城門を開けようとしたので事情を聴いておりました!」
姿勢を正した男の言葉を理解するのに、皇甫嵩はおよそ三秒もの時間を要した。そして一瞬の空白の後に皇甫嵩は思わず疑問を口にした。
「―――はあ?」
「で、ですから、兵の一部が城門を開けようとしたので事情を・・・」
「・・・この状況で城門なんて開けてみろ。すぐさま包囲されて命なんて残らんと私は思うんだが?」
「私もそう思います」
皇甫嵩の素直な感想に、男もまた同様だと言葉を返す。更に皇甫嵩の背後では朱儁も大きく頷いていた。
現在の長社の城は完全に黄巾族の兵によって包囲されている。城門を開けたとて、黄巾族の包囲から抜け出す手段などない。
そもそも現在の「漢」という王朝に対して不満があるから蜂起した黄巾族に官軍の兵士が投降しても、そこには拷問か死ぐらいしか道はないだろう。
「・・・正気か?」
「分かりません」
皇甫嵩の疑問に男は淡々と答える。
「そうか、もういい。ここからは私が直接会って話をつけよう」
「ですが」
「いい。それが一番話が早い」
男の静止を振り切り、皇甫嵩が手足を抑えられた兵の前に立つ。まだ壮年である男の瞳には、これから敵兵と戦うという強い意志は感じられない。それどころか戦場にいる者として最低限は持っているはずの緊張感の欠片もない。
「お前か、城門を開こうとしたという奴は」
「・・・」
男は答えない。大将の皇甫嵩に対して決して好ましくない視線を返すだけだった。
「答える気はないと言う事か?」
「・・・」
やはり男は答えない。ただ不貞腐れた子どものような視線を皇甫嵩に向けるだけで、決して口を開こうとはしない。
「貴様!皇甫将軍が訊ねているのだ!無礼であろう!!」
ついに近くにいた兵の一人が語気を荒げた。
皇甫嵩の軍の中に彼女を敬愛しない者など一人として存在しない。全員が「人間」としての彼女に惚れていた。故に男の態度は、そんな皇甫嵩を尊敬している兵たちの神経を過剰に逆撫でする。
「お前らは黙っていろ。今、私はこの男と話をしているんだ」
その気持ちはありがたいがな、と皇甫嵩は兵たちを制する。
まだ言い足りないらしい兵たちは強く拳を握りしめる。しかし兵たちにとっては敬愛する皇甫嵩の言葉は絶対だ。兵たちは男を強い視線で睨みつけるくらいしか出来なかった。
「もう一度だけ訊くぞ。たとえ城門を開けたとしても周囲は黄巾族に包囲されていて逃げることは叶わない。それなのにお前は一体全体、城門を開けて何をするつもりだったんだ?」
「・・・」
やはり男は答えない。無意味な問答もこれで三度目。今、この瞬間にも黄巾族が攻めてくるかもしれないというのに、果てしなく空虚な時間が過ぎていく。
流石に焦れた朱儁が兵を掻き分け男の前に立つ。今まで兵たちの背後に立っていた朱儁の姿が初めて男の視界に入った。すると、ふてぶてしいまでに何も言葉を発しようともしなかった男の表情に突然変化が生まれた。
「しゅ、朱将軍!助けてくれ!俺はもう耐えらんねぇんだ!?」
地獄で救いを得たかのように男は話を始める。男の瞳に朱儁の存在は正に地獄の底に垂れ下がった蜘蛛の糸のように映った。絶望しかない地獄で縋ることができる唯一の救い。男は朱儁の鎧の隅を握りしめて叫ぶ。
「助けてくれ!俺はもう嫌なんだ!このままじゃ発狂しちまう!!」
「話は聴く。だからまずは落ち着け!」
「もういやだ!俺はもう誰も疑いたかねぇんだよぉ!!」
「―――っ!?」
男の泣き言に、朱儁は奥歯に強く圧力がかかるのを感じた。
強靭な精神力を持つ朱儁の口からは決して洩れることのなかった情報が、一人の兵士の口から周囲に知られることになってしまった。ある程度想定していた事態だが、状況は朱儁が想定していた以上に加速していた。
早かった。あまりにも早すぎた。このままでは男の言葉の意味も分からぬ内に不安だけが軍の中で広がっていってしまう。それだけは避けねばならない。
朱儁は意を決して拳を振り上げた。そして朱儁は涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった男の顔に思い切り拳を叩きこんだ。
「朱儁!?」
すぐ横で皇甫嵩が驚いているが、朱儁は彼女の言葉には答えず近くにいた兵へと指示を出す。
「こやつは牢にでも叩きこんでおけ!これから戦が始まるというのに、このような腑抜けを戦に出すわけにはいかん!!」
それは普段の朱儁の様子からは想像できないほどに怒髪天を抜く勢いだった。
指示を受けた兵士は有無を言わせぬ朱儁の勢いに押され、なにも言うことなく黙って男を立たせた。男から向けられる視線には果たしてどのような意味が込められているのか。
怒鳴りつけるように指示を出した朱儁は、兵たちによって牢へ運ばれる男を一瞥することなく、踵を返して再び城内へ戻っていった。
「お、おい!ちょっと待てって!朱儁!」
そして肩を怒らせて歩く朱儁の背中を皇甫嵩が追っていく。
朱儁をこのまま一人にしてはいけない。長年の付き合いがある皇甫嵩の勘が告げていた。もし仮にこのまま朱儁を一人にしてしまえば、きっと人一倍責任感の強いこの男は自分で自分を追い詰めるだろう。
そういう男だからこそ、皇甫嵩も朱儁を信頼しているのだが、今はその責任感の強さが本来とは逆の効果を発揮していた。
「朱儁!なあ、朱儁って!!」
興奮している時、人間は無意識のうちに歩調が速くなるらしい。急ぎ足で朱儁を追っていた皇甫嵩がその背中に追いついたのは、さっきまでいた場所からそれなりに歩いた先の廊下だった。
「お前、今、何考えてる?」
「―――」
下から見上げてくる皇甫嵩の視線は、ついさっきまでとは比べ物にならないほどの意志の強さがこめられていた。有無を言わせぬその深紅の瞳は、まさに圧倒的な存在感を相手に与える。
その表情は、無二の友人に向けるものではなく、一軍を預かる大将としての表情を浮かべていた。
「私も帝より黄巾族討伐の命を与えられ、一軍を任された身だ。実害が出てしまった以上、すべて話してもらわねば困る」
「―――」
皇甫嵩は朱儁の腕を握りながら告げる。こうなった皇甫嵩は一切の誤魔化しを許さない。その手を振り払うことなどできるはずもない。
「『―――』」
そして彼女の口から呼び名れている「朱儁」という名ではなく、かつて交えたはずの真名が告げられる。
もはや朱儁は口を閉じておくことが出来なかった。
◇
「なっ!?それは本当なのか!?」
「・・・ああ。事実で間違いはない」
再び場所は戻って玉座の間。
向かい合う朱儁と皇甫嵩の表情は実に対照的だ。片や諦めにも似た表情を浮かべる朱儁に対して、驚愕の事実を告げられた皇甫嵩は勢いよく立ち上がったせいで座っていた椅子すら倒してしまう。
「あの男はお前の信頼厚い男だったはずじゃないのか!?」
「・・・相違はない」
「そんな男が、戦時中に謀叛だとっ!?」
話題の人物は、先ほどの戦で一軍を率いていた朱儁の軍の副将だった男だ。皇甫嵩や朱儁には劣るが、それでもその胆力と武の腕を見込まれ、朱儁自らの勧めにもよって今回、黄巾族討伐部隊の副将を任された男であった。
かねてより朱儁と共に兵を率い、その抜群の指揮能力によって命を救われた兵士は数知れない。もはや朱儁にとっては片腕と言っても過言ではない存在だった男は、しかし、先の戦において朱儁軍の敗北を決定づけるきっかけを作った。
「あの瞬間、俺も自軍の勝利を予見した。だが、確かにあやつは勝利を目前としながら我らに刃を向けたのだ」
「・・・朱儁」
先の戦のことを考えると、自然に朱儁の拳には力が入る。
朱儁にとってもまさかという想いが第一だった。自らの部隊において最も信頼していたはずの男が起こした突然の謀叛。予想だにしなかった事態に、朱儁の頭はこれ以上ないほどに混乱していた。唐突に突き付けられた刃は先程まで味方だった者が振るっていたものだった。大将である朱儁ですら混乱していたのだから、部隊が打ち崩されるまでにそう時間は掛からなかった。
「先程騒いでいた男も、おそらく先の戦で友人でも手に掛け疑心暗鬼に陥ったのであろう」
「・・・お前の軍の士気が妙に低かったのは、そういう理由か」
「ああ、すまん」
「―――いや」
頭を下げる朱儁に、皇甫嵩は肩を竦ませながら小さく息を吐いた。
「お前の事だ。どうせ馬鹿みたいに部下を想ってのことだろ。深くは聴かないけど、ちゃんと理解はしてるよ」
「・・・すまん」
「気にするなって!」
更に深く頭を下げた朱儁の背中を皇甫嵩が勢いよく叩く。
「それより問題はこれからについてだ」
「ああ」
過去を振り返ることよりも、現実として今、起こっていることを考えなければ道はない。過去を省みることも必要だが、それ以上に未来を見れない人間には成長がない。
二人は周辺の地理をまとめた地形図を見ながら頭を捻る。この困難を乗り越えるためには何か必勝の作戦を考えなければならなかった。
「籠城戦では兵の士気の低下が伝播するのは異常に速い。絶望的な状況に陥る前に、私たちは打って出ないとならないわけだ」
「だが、我らの周囲は黄巾族によって完全に包囲されてしまっているぞ」
「ああ。でも手を拱(こまね)いているだけなんてのは、私の性分には合わないからな」
そう言うと、皇甫嵩は懐から一通の書状を取りだし朱儁に見せた。
今回の戦における皇甫嵩が用意した『虎の子』は、朱儁でも知らない。敵を騙すにはまず味方から。味方にも悟らせない皇甫嵩の手腕に、朱儁も目を剥く。
「・・・これは?」
「陳留にいる女傑、曹巨高に宛てた援軍要請の書状の返書だ」
「返答は?」
期待を込めた朱儁の問いに、皇甫嵩はいつもの笑みを浮かべて答える。
「援軍は来る。それに、兵を率いるのは噂に聞く曹家の麒麟児、曹孟徳らしい。ひょっとしたらもう既に近くまで来ているかもしれないな」
表情を和らげた皇甫嵩は地図上の一点を指差しながら朱儁に告げる。
「援軍が来た時、私たちが亀のように城内に閉じこもっているわけにもいかない。噂が本当であるなら曹操は既に近くに布陣し、こちらの様子を伺っているはずだ。士気を保つことが難しい以上、行動するなら一両日中しかない」
皇甫嵩の言葉に朱儁も無言で頷く。
作戦は決まった。完全な見切り発車だが、タイミングとしては今を逃せば次は無い。時間を掛ければ掛けるほど、事態は悪化の一途を辿っていく。もはや二人に迷っている時間など無かった。
「朱儁、お前は直ぐに兵たちに腹いっぱいの飯を食わせてやってくれ。出撃は今夜、日が没した時を見計らって行う」
「ああ。ついでに火はそのままにしておこう。敵に夕餉の煙で出撃の時を悟らせたくはない」
「頼む」
bこれより先は待ったなし。後ろを振り向くことさえ許されない大博打。敵を壊滅させるか味方が全滅するかの二者択一。戦は天の味方した方に大きく針が振れるのだ。
大きな方針が決まり、朱儁が玉座の間から退出しようと歩を進める。
しかし、不意に浮かんだ疑問にその歩みを止めた。
「皇甫嵩よ。お主は何をするつもりだ?」
訊ねた朱儁に、皇甫嵩は悪戯が成功した悪がきのような笑みを浮かべた。同時に朱儁の背中に冷たいものが流れる。この女がこういう真似をするときは必ず何かとんでもないことを考えている時だ。
そして、そんな朱儁の予想に違わぬ答えを皇甫嵩は答えた。
「朱儁。お前は田単(でんたん)という男を知っているかな?」
黄巾族約十万に対する官軍は同じく約十万。
潁川郡における決戦の第二幕にして終幕となる大戦が幕を開ける。