ある一つの外史を紡ぐ   作:バレンシア

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第四話

 朱儁や皇甫嵩が今後の方針を決めた頃、長社の城が僅かに見える距離にある丘の上には皇甫嵩の予想通り『曹』の旗を掲げた一団がいた。

 

「孟徳様。城より煙が上がりました」

 

 物見に向かった兵によって伝えられた情報を紫呉が華琳の耳に入れる。

 

「ええ。私からも見えているわ」

 

 華琳は集団の先頭に立ち、丘の上から長社の城を見つめていた。

 大人しく天幕の中で話を聞くよりも、実際に自分の目で見た方が城の様子はよく分かる。城から上がった煙を見つめながら、華琳は余裕を感じさせるように口元を緩めた。

 

「秋蘭。貴女ならあの煙をどう見るかしら?」

 

 華琳が横に立つ妙齢の女性に問う。

 

「はっ。おそらく時間的に見ても夕餉の煙でしょう」

 

 華琳の問いに答えたのは、透き通るような青空のように美しい水色の髪をした女性だった。整った顔立ちは小さく、細い瞳と鋭角的な輪郭は見る者に理知的な印象を与える。また一目見るだけで男を魅了するような豊満な体は大きなスリットが入った青い服装に包みまれ、非常に蟲惑的だ。

 しかしそんな彼女の肩には、明らかに不釣り合いなほど無骨な弓が提げられていた。

 『秋蘭』と呼ばれた女性の名は夏侯淵妙才といった。華琳にとっては信頼できる臣下の一人にして、曹操軍随一を誇る弓の名手だ。彼女の弓の腕前は、止まっていればたとえそれが豆粒だろうと見事に射抜くとさえ言われている。

 そして同時に彼女は、特に武官の多い曹操軍にあって数少ない優秀な頭脳を持つ将軍でもあった。

 

「そうね。私もその意見に同意よ」

 

 秋蘭の返答に、華琳は満足したように大きく頷いた。

 華琳の問いはほとんど確認という行為に近い。誰よりも優れた頭脳を持つ華琳の思考は、他の追随を一切許さない。余人が一つの考えに至る時、既に華琳は十以上の考えを導き出すことが出来る。故に、問いに対する最も優れた解答は、既に華琳の頭の中で構築されていた。

 

「物見の報告によると、城壁に掲げられている旗は『朱』と『皇甫』の二つ。曹嵩様の受け取られた書状に認められていた通りなら、恐らく城内に籠っているのは右中郎将の朱儁将軍と同じく左中郎将の皇甫嵩将軍でしょう」

「で、あるならば、何もせずに座して死を待つ者たちではないわね」

 

 両者は共に漢を支える将軍として中華の大地に名を轟かせる将軍たちだ。特に皇甫嵩は若干十三にして将軍となった知らぬ者なき天才児。軍略において彼女の右に出る者は今の漢には存在しないとさえ言われている。そんな皇甫嵩がいながら、ただ漫然と構えているはずもない。

 今まで朝廷と関わりを持っていなかった華琳だが、多くの間者を放って情報を得る努力は一時たりとも怠ってはいない。かの有名な皇甫嵩ならば、面識はなくとも華琳の頭の中にその人物像は明確な形となって像を結んでいる。

 故に分かる。あの女が真綿を絞められながら少しでも長い生を得るより、いっそのこと、清々しい死を選択する類の人間である、と。

 そして才ある者の宿命として、どれだけ覚悟を決めても死ぬことは無く、最終的には勝利という功績をもたらすからこそ、今の名将としての彼女がある。

 

「・・・」

 

 顎に指を当てた華琳はそのまま思考の渦の中へ己の意識を埋没させる。

 皇甫嵩義真は今の華琳にとっては偉大な先達だ。戦における経験など足元にも及ばない。きっと戦場での雰囲気や空気を察する能力にいたっては、今の華琳ではおよそ比することすらおこがましいだろう。そんな彼女が何を考えているのかを推測することは、自らを才ある者として自覚する華琳をしても難しい。

 しかし、城内との連絡が途絶えている以上、少なくとも「推測」を「仮定」の域に置ける程度には練磨しなければ、万が一の時に対応することができない。

 華琳と皇甫嵩の最たる共通点は、互いに突出した天賦の才を与えられていることにある。山の頂上へ至る道程は人によって異なるが、共に山頂付近にいれば出会う機会も多いのが必定。故に華琳も思考を回す。次代を担うものとして、先を行く皇甫嵩に負けてはいられない。

 そして埋没した思考の果てに、華琳の意識を現実へと押し戻したのは、流れるような黒髪を揺らした一人の女性だった。

 

「華琳様!華琳様が悩むことなどありません!」

「―――春蘭」

 

 華琳を呼び止めた女性は春蘭、別の名では夏侯淳という。曹操軍ではおよそ及ぶ者無き武を持つ彼女は、猛獣のような黒い瞳を爛々と輝かせ、腰に佩いた宝刀『七星餓狼』を引き抜く。

 天に掲げた刃は彼女の誇りだ。一生の主と見初め、心も体も絶対の忠誠を誓った目の前の少女から頂戴した愛の証は、剣を抜けばそれだけで春蘭の身体には無双の力が漲ってくる。

 

「たった一言『行け』と命じていただければ、華琳様第一の臣であるこの春蘭が!必ずや!敵を壊滅させて見せます!!」

 

 膝を地につけ、頭を下げた春蘭はその身に宿る闘気を抑えることすらせずに華琳に向かい合う。

 これは華琳にとっての初陣だ。初めて兵を率いて戦に出るのだ。第一の臣を自認する春蘭は、これからの戦において他の誰よりも熱く燃えていた。

 

「さあ華琳様!この春蘭に一言『行け』とお命じください!!」

 

 身にまとった赤い衣に負けないくらい情熱的な瞳を向けられた華琳だが、その表情は非常に落ち着き払っており、涼しいものだった。

 

「秋蘭」

「はっ」

 

 呼ばれたのは春蘭の妹である秋蘭。

 静かに華琳の横に控えていた秋蘭は、苦笑いを浮かべながら姉の肩に手を置き、顔を上げさせる。

 

「む、なんだ、秋蘭。いかにお前の願いであろうと先陣の誉れだけは譲ってやることはできんからな!」

「―――やれやれ、姉者はまったく」

 

 その真っ直ぐでひたむきな想いは美しい。常ならば自慢の姉だが、今回ばかりは暴走を許容することはできない。

 

「いいか、姉者。今回の戦は華琳様にとっては初陣だ」

「それぐらい私も分かっているぞ!華琳様の初陣だからこそ、その先陣はこの私が勤めなければならんのだ!」

 

 拳を力強く握りしめたまま興奮冷めららない様子の春蘭に、妹である秋蘭は目線を合わせながら努めて冷静に告げる。

 

「まあまずは聞け、姉者」

 

 コホン、と秋蘭は一呼吸あける。

 

「確かに姉者の武は我が軍の中では一番だろう。それは誰も否定しないだろう。しかしこの度の出征は華琳様の初陣だ。姉者の武ではなく、華琳様の指揮で勝たなければ意味がない」

「・・・どういう意味だ?勝てば同じではないのか?」

「結果だけ見れば姉者の言う通りだが、そこに含まれる意味合いは少しだけ違う」

「―――むぅ」

 

 難しいことを考えることには適さない春蘭の頭は、秋蘭の言葉を理解するには容量が不足していたらしい。腕を組み、必死に考える春蘭だが、残念ながら答えを導くことはできない。

 

「―――ああ、姉者は可愛いなぁ」

 

 ただ、必死に悩む姉の姿を見ながら、秋蘭は頬を赤く染めて見惚れていた。

 彼女の姉は残念な頭の持ち主だが、妹の秋蘭からすれば、だからこそ我が姉は馬鹿可愛い。真っ直ぐ純粋に育ったがために、春蘭は今一つ思考力が成長しなかった。そんな春蘭が普段使わない頭を一生懸命使っている様子は本当に馬鹿可愛い。あまりにも馬鹿可愛いので、思わず妹であるはずの秋蘭が無意識の内に頭を撫でてしまうこともしばしばであった。

 姉妹二人の微笑ましい姿を横目に、華琳は口元を緩めて紫呉を見る。

 

「久しぶりに会ったけれど、あの子たちは変わらないわね」

「そうですね。夏侯淵様も夏侯淳様もお変わりないご様子で安心しました」

 

 戦場を前にして、曹操軍の雰囲気は悪くない。

 結局、華琳が集められた兵は全部で都合六千人といったところだった。陳留の町だけではなく、周囲の町や郡にも曹家の麒麟児が立つという話を流し、ようやく集まった六千人。朝廷から預かっている兵が三万であることを考えれば黄巾族の実に五分の一に過ぎないが、それでも一騎当千の猛者が率いる曹操軍は賊軍如きに負けはしない。

 それに、この軍には頼もしい軍師もいるのだ。

 

「貴女はどう思うかしら、冬華。皇甫嵩や朱儁はどのような策を以て黄巾族を破るのか、貴女には推測できる?」

 

 挑発的な物言いは、相手の力量を認めているが故のこと。

 机上での軍略戦の勝敗は華琳が勝ち越しているものの、冬華との勝負はいつも華琳を楽しませてくれる。

 現在は文官としての仕事を主に扱ってはいるが、もし冬華が軍略にのみ携わるようになったらどうなるのか。人間が持つ才能を愛する華琳にとって、冬華の存在は将来が楽しみな逸材でもあった。

 そしてそんな冬華は現在、酷くつまらなさそうに長社の城を眺めていた。

 

「私は皇甫嵩将軍ではないので分かりかねます」

「別に正確に言い当てろとは言っていないわ。私はただ、貴女に推測してみせなさいと言っているのよ」

「・・・」

 

 冬華はすぐ横で挑発的な表情で見下ろしてくる華琳を睨み上げた。

 本当にこの女は憎らしい。思わず何も言わずに天幕へ帰ろうかという衝動が冬華を襲うが、ここは理性を動員して我慢することにした。理由は簡単。華琳の横には彼女が敬愛している兄がいるからだ。

 昔から世話を掛けてばかりだった兄の前で無様な姿は見せられない。特に華琳に負けて逃げ帰るような姿を見せるぐらいなら、冬華は舌を噛み切って死ぬだろう。

 兄と華琳の絆の固さは知っているが、だからといって冬華が納得できるかどうかはまた別問題なのだ。紫呉にとっての無二の妹として、冬華は紫呉と華琳の関係性をまだ認めてはいない。

 

「・・・城から打って出ることは決定的でしょうね。相手はあの「常勝」と誉れ高い皇甫嵩将軍ですから、きっと何か策があるでしょう」

「そこまでは私も同じ意見よ」

 

 どこか嬉しそうに華琳が頷く。

 同時に、冬華の機嫌が急降下していく。

 

「仕掛けるとすれば昼ではなく夜。それも日没後少し時間が経った後、というのが有力かもしれません」

「根拠は?」

「夜も更ければ軍は松明に火を点します。また物見の兵や警邏の兵も割くでしょう。ならば兵が寝静まった夜更けより、兵たちが気を緩め始めた日没後が好ましい」

「なるほど。でもそれだけではないでしょう?」

「・・・昔から賊と称される者たちは勝利という言葉に弱い。きっと城を包囲した時点で勝った気になり、酒盛りでもしてることでしょう」

 

 しかも彼らの相手はあの誉れ高い皇甫嵩と朱儁という漢が誇る名将軍たちだ。本来ならば賊如きが触れることすらおこがましい。彼らの気分が浮かれていることなど想像するに易かった。

 

「それが貴女の意見ということね」

「ええ」

 

 満足げに頷く華琳に対し、冬華の機嫌は更に急降下していく。そして冬華はそんな自分の心情を隠すことなど一切しない。司令官の機嫌が上昇すれば後方の統率者の機嫌が降下するというなんとも面倒な展開が繰り広げられていく。周囲で見ている近衛兵たちはもう気が気ではないだろう。

 必然的に、近衛兵たちの視線はこの場を平和に治められる男へと向かう。

 

「―――」

 

 しかし兵たちの期待を裏切り、その男は間断なくやって来る伝令兵たちに対応していて二人の少女の様子を窺う余裕もない。

 頼むから、少しだけでもいいから妹に気を回してやってくれ。

 近衛兵たちにとって冬華という少女は、その小柄な体格も相まって愛でるべき存在として認識されている。だからこそ彼女のファンは意外と多い。なんでも、華琳と紫呉の間でヤキモキしている姿が愛らしいらしい。素直ではない彼女がイライラしながらも務めて冷静に指示を出す姿に悶絶した兵はもはや数えられない。

 すると想いを一つにした近衛兵たちの願いが叶ったのか、伝令兵の対応をしていた紫呉が華琳と冬華の傍へと寄って来た。

 

「孟徳様。この地域の住民たちの話によれば、どうやら黄巾の賊たちは既に勝利したかのように、城門前の陣中で毎日酒宴を行っているようです」

「そう」

「・・・」

 

 報告を聴いた華琳は実に嬉しそうだが、逆に言い当てた冬華の機嫌はさらに下がった。

 

「ならばこちらの行動は決まったわね」

「そうですね。もはや考えるまでもないと思います」

 

 二人の軍略家が決を下す。

 相手は戦の最中でありながら酒宴を開く愚か者の集団だ。これが正規の軍であり、また優秀な将軍に率いられているなら警戒しなければならないが、相手はまともな将軍など存在しない。たかが農民上がりの賊軍に過ぎない。幾度もの修羅場を潜り抜けてきた皇甫嵩や朱儁がこの機を逃すとも思えない。

 

「春蘭、秋蘭」

「「はっ!」」

「全軍に食事の用意をさせておきなさい。戦は日没後、皇甫嵩が噂通りの英傑なら城内より何かしらの合図があるはず。物見の兵も増やしておきなさい」

「分かりました!」

 

 元気よく答える春蘭がまず走って兵たちの下へ向かう。そしてそんな子どものような姉の姿を後ろから眺めながら秋蘭も続く。

 

「冬華は兵糧の管理を徹底しておくように兵に言い渡しておきなさい」

「分かっています。ついでに天幕の中以外での火の使用も禁じておきます」

 

 淡々とそう告げた冬華もまた、春蘭や秋蘭と同じように与えられた陣に戻っていく。その姿は普段の理知的なものとは異なり、どちらかといえば拗ねた子どもを思わせる。彼女の護衛のための兵たちが微妙にハイテンションで後の付いていく。

 

「フフ、嘘のつけない性格ね、お互い」

 

 すぐ傍にいる紫呉にすら聞こえない声で華琳が呟く。

 そしてすぐさま紫呉を振り返る。

 

「紫呉」

「なんでしょうか?」

 

 冬華の背中を見送りながら華琳は紫呉を呼ぶ。

 

「貴方も行きなさい」

「―――はい?」

「貴方も行きなさい、と言ったのよ」

 

 華琳が珍しく紫呉に胡乱な瞳を向ける。

 人間の持つ特定の感情に鈍いこの男は、まるで女性のことを察するということができない。それも何を考えているのか、自分と身近な女性になればなるほど相手の気持ちが読めなくなっているらしい。

 今も妹の冬華があれだけ寂しそうな背中を見せているというのに追いもしない。臣下としては満点でも、兄としては失格だ。

 

「し、しかし私にはまだやらなければならないことが」

 

 尚も渋る紫呉に、今度は華琳が少しばかり語気を強めて言う。

 

「これは命令よ、紫呉。これより戦が始まるまでの間、ずっと冬華の傍にいなさい」

「ですが」

「兄を名乗るのなら、あの娘の不安ぐらい察してあげなさい」

 

 話はこれまでとばかりに華琳は近衛兵と共に自らの天幕に戻っていく。

 紫呉とは二十余年。冬華とは十五年。本当に世話の焼ける兄妹だと思ったことは一度や二度の話ではない。鈍感な兄と素直ではない妹の組み合わせは、周囲の者にとっては非常に面倒をみたくなるような気にさせる。

 

「よかったのですか、曹操様」

 

 近衛の少女の言葉に、華琳は常ならば見られない優しい微笑みで返した。

 

「あの兄妹は時に誰かが間に入ってあげないとダメなのよ」

 

 どうも華琳もあの二人のこととなると弱くなるらしい。ずっと共に育ってきた紫呉や実の妹のように思っている冬華は『曹孟徳』が『華琳』という一人の少女として接することができる数少ない存在だった。捨てることなどできようはずもない。

 かつて『曹孟徳』として覇王となる覚悟を決めた時、一度は『華琳』を切り捨てようとした。冷徹に判断を下せない『華琳』は、天下を目指すには不必要な要素だと思った。だからこそ、余分なものは切り捨てようとした。

 しかし、そんな華琳を止めたのは紫呉であり、また冬華であった。

 あの時、泣きながら自分を抱きしめた紫呉の温もりは決して忘れはしない。

 あの時、怒りながら自分を殴った冬華の手の感触は今でも覚えている。

 以来、華琳は二人に対して勝手に借りがあると考えていた。あの二人がいなければ現在の自分はいない。こんなにも優しい世界を見られる自分を永遠に失うところだった。

 

「『弱さを切り捨てた者よりも、弱さを受け入れた者の方が強い』」

 

 呟いた言葉は近衛の耳にも入らないほど小さなものだった。それでも華琳の心を温めるには十分な効果を与えた。

 背後で一組の兄妹の仲睦まじい声を聴きながら、華琳も夜に向けて準備を進めていく。

 まずもってやらなければならないのは情報の統括―――紫呉がやっていた仕事の代わりだ。

 

 

 

 

 

 

「―――時間だ」

 

 長社の城にある玉座の間で、朱儁と向かい合っていた皇甫嵩が静かに告げた。

 あれだけ爛々と大地を照らしていた太陽は既に空になく、代わりに幻想的な月明かりが二人のいる城内を照らし続けている。

 晴れ渡ったここ数日のおかげで星明りもいい。姿を隠して敵に襲い掛かるにはまたとない絶好の状況が出来上がった。

 

「最後にもう一度だけ訊いておく。本当に私の考えた策に乗っても構わないのか?」

 

 皇甫嵩に不安はない。自らが練った策を信じられない人間に将軍の座に座る資格はない。むしろ策を練ったからには自信がある。

 しかし完璧に作戦を遂行していっても、自分たちだけでは策の成る確率は七割がいいところだろう。最後の三割は完全に他人任せ。来ているのかも分からない曹操軍を当てにするのだから絶対に成功するとは断言できない。

 それでも皇甫嵩の策が現在考えられる中では最良のものであることは、朱儁も理解していた。だから皇甫嵩の問いに対する答えは既に決まっている。

 

「当たり前だ。これ以上の問答はもはや不要。俺はお主を信頼している。同じ漢に仕える将としても、一人の武人としても、お主以上の者を俺は知らん。そのお主が考えた策だ。たとえこの戦で死ぬことになろうとも、俺に後悔はない」

 

 己の覚悟を示す朱儁の言葉はまっすぐ皇甫嵩の胸にも響いた。信頼する武人というのなら、皇甫嵩とて朱儁の名を上げる。お互いに認め合い、真名を交わした者同士にしか分からない絶対の信頼感が二人の間にはあった。

 

「それにこれ以上の心配も不要だ。お主の策は必ず成る。余人ならいざ知らず、お主自ら判断した結果の策ならば、もはや俺は不安も不信も抱くことはない。安心しろ。この城を出た後、次にお主と会うのは勝鬨を上げた後だ」

 

 正面に座る朱儁は力強く頷きながら言う。英傑としての才覚が二人に戦場における「機」を悟らせる。時間は今、この時を置いて他になし。

 

「―――そうだな」

 

 そして絶対の信頼を以て伝えた朱儁の言葉は皇甫嵩の瞳にも力を与える。

 

「私も自分の策を信じよう。これからは一切の不安を断ち切り、策を成すために全力を尽くす。我が真名を交わした唯一の男、朱公偉の信頼に応えよう」

 

 二人の前にある机には二つの盃が並んでいる。

 これより先は命を懸けた大戦。絶対的な不利を覆すのは武人の本懐でも、死の可能性はそれだけ高くなってくる。一度城外に出ればいつ死が襲ってきてもおかしくはない。戦場を前に背中を預け合う二人は、お互いの盃に酒を満たした。

 そして二人はその無骨な手に盃を持つ。

 

「ははは、なんだか照れるね」

「―――」

 

 あまりこういう事に慣れていない皇甫嵩は照れ笑いを浮かべるが、朱儁はいたって真面目な顔のまま盃を掲げる。

 お互いに願うことは決まっている。この策の成功と戦の勝利。そしてお互いの身の無事。戦が終わった後、笑って再会することが最も好ましい。

 

「私はお前の身の壮健をこの盃に誓うよ」

「ならばお主の身の無事は俺が盃に誓おう」

 

 二人は腕を交わし、自らの盃に口をつける。

 深みのある芳醇な香りが口の中に広がる。蔵の中に残してあった酒の中では一番のものを持って来た甲斐があった。都の美酒には到底敵わないが、戦場の雰囲気に酔っている二人にはこれぐらいが丁度いい。

 喉を通り抜けた酒が臓腑に沁み渡る。酒の力は偉大なものだ。恐怖を薄れさせるし、不安も払拭できる。そしてなにより普段ではまずしないような大胆な行動もとることが出来る。

 具体的に言えば、いい年をしていながら漢のために独り身を貫き、戦場に生きて戦場に死のうとしている無骨で不器用な大馬鹿者の唇を、まだ年若い乙女が強引に奪うぐらいのことができる。

 

「じゃあまた後で会おう!戦友よ!!」

 

 飲み干した盃を地面に叩きつけて颯爽と立ち去る炎髪灼眼の戦乙女が見せる快活とした表情は、思わず朱儁を見惚れてさせた。

 しかし直ぐに意識を取り戻した朱儁は僅かに笑って盃を地面に叩きつける。これでは本当に命を捨てられなくなってしまった。少なくとも、戦が終わった後に一言何か文句でも言わずにはおれなくなった。

 

「者ども!出るぞ!!」

 

 愛用の槍を手に、朱儁は長年連れ添った漆黒の愛馬に騎乗する。

 皇甫嵩の部隊とは違い、朱儁の率いるこの部隊の兵たちは、お世辞にも士気が高いとは言えない。先の戦の影響はあまりにも大きい。取り返しのつかないほどの爪痕をこの部隊に残した。

 

「此度の戦の目的は敵中を突破し、外に待つ曹操殿の部隊と合流することである!」

 

 閉じられた城門を前に、朱儁もまた皇甫嵩と馬を並べてその時を待つ。

 

「しかしだからと言って黄巾族の者どもを放っておくことなどは出来ん!いいか者ども!目の前の敵は残すことなく蹴散らし進め!我らの守るべきものを奪い、犯し、蹂躙してきた賊どもに正義の鉄槌を下してやれ!!」

 

 ざわめいていた兵たちは、いつの間にか朱儁の言葉を黙って聞いていた。

 

「貴様らは天子様より『漢』の旗を与えられし精兵だ!我らの背には天子様より預かった百万の民がいるのを忘れるな!誇りある『漢』の兵として、最期の時まで戦い抜くのだ!!」

 

 振り上げた剣に、兵たちは鬨の声ではなく自らの武器を天に掲げることで応えた。

 

「これより出撃する!」

 

 閉じられていた城門が大きな重低音と共に徐々に開いていく。

 視界の先では連日連夜に及ぶ酒宴の騒がしい声と松明の明かりが霞んで見える。

 朱儁は思い切り吸い込んだ空気を一気に吐き出すように叫んだ。

 

「かかれええええええええ!」

 

 先陣を切るのは人間でも馬でもない黒い影。角に剣を付けられ、尻尾に松明を結びつけられた牛の一団が暴れ狂いながら敵陣に押し寄せる。その数およそ千頭。理性無き蹂躙者によって黄巾族の兵たちは困惑の窮地に立たされた。

 更に重ねて朱儁は叫ぶ。

 

「総員、進めええええええええ!!」

 

 馬蹄の音が大地を駆ける。

 月明かりに煌めく刃を手に、一糸乱れぬ兵団は敵の陣地へ襲い掛かる。すべてを飲み込む十万のうねり。広大な大地を覆い尽くすほどの波は酒に酔った黄巾族のものたちを突き、刺し、踏み潰しながら真っ直ぐ駆けていく。兵団の走り抜けた後には死体しか残らない。

 

「弓兵隊は鏃(やじり)に火を点せ!天幕、兵糧、なんでもいい!とにかく射かけてすべてを燃やせ!燃やし尽くせ!すべてを灰に変えるのだ!!」

 

 剣を手に叫ぶ朱儁は馬を止めることなく指示を出す。勝負は半刻。すべてを狩るには油断してはならないし、躊躇していてはならない。

 逃げ惑う黄巾族を蹴散らしながら朱儁の軍は歩みを進める。

 同時に朱儁は大きく横に迂回した皇甫嵩の軍を見つめる。

 

「あちらも優勢のようだな」

「はい。伝令によれば、皇甫嵩将軍も破竹の勢いで進軍中とのことです」

「よし!我らもこのまま進むぞ!」

「はっ!!」

 

 目の前に立ちふさがる敵に向かって朱儁は再び槍を振るう。

 燃え盛る戦場はただそれだけで朱儁の血を滾らせる。戦場に生きる根っからの武人ならば、誰もが刹那の時を生きている。

 止めどなく流れていく戦場の景色を目に焼き付けながらも朱儁の軍は進む。

 戦いはまだ始まったばかりだ。

 

 

 

 

 

 

 ―――同時刻。

 

「城門、開きました!」

 

 天幕の中で事務仕事を行っていた華琳の耳に、伝令兵の声が大きく響いた。

 華琳は跳ね上がるように顔を上げた。すぐ横で同じく顔を上げた紫呉と視線がぶつかる。お互いに大きく頷く。それだけで二人の意思の疎通は十分だった。

 片や華琳は前線で指揮をすべく愛用の鎌である『絶』を握って天幕を出る。

 片や紫呉は物資の最終確認をするために妹である冬華の下へ走る。

 あわただしく動く軍の中で、華琳は目敏く夏候姉妹を見つけた。

 

「春蘭!秋蘭!出撃の準備をしなさい!!」

「いつでも行けます!」

「右に同じく」

「なら出るわよ!私に付いてきなさい!」

 

 現在の曹操軍は、長社の城を窺うことが出来る丘の上で身を隠していた。これから出撃の準備を整え、冬華と最終打ち合わせをしていては時間が足りない。皇甫嵩と朱儁の軍が戦の勝敗を決定づける前に参戦し、そしてその決定打となることが華琳の今後には必要だった。

 

「春蘭!貴女は騎馬六千を率いて戦場に先行しなさい!」

「はい!我が剣と真名に誓って賊どもを蹴散らしてみせます!!」

 

 華琳の指示に答えた春蘭は、勢いよく最前線へと駆けていく。

 

「秋蘭は遊軍として同じく兵六千を率いなさい。動き方は貴女に任せるわ。春蘭が動きやすいように手伝ってあげなさい」

「はっ!」

 

 秋蘭もまた華琳の指示を受けて自らが率いる軍の下へと駆けていく。これで前線は問題ない。およそ賊軍ごときにあの姉妹は止められるわけがない。

 走り去った二人の背中を見送った華琳は、不意にその場で立ち止った。 

 

「曹操様?」

 

 近衛兵が心配そうな顔で華琳の様子を窺う。

 華琳は瞳を閉じていた。

 

「―――いえ、なんでもないわ」

 

 その間は果たして何秒ほどであっただろうか。

 再び瞳をあけた華琳は、すぐに前を向いて走り出す。勝負の時だった。この場を逃してしまっては、恐らく皇甫嵩や朱儁に命一つの借りを作れることなどもう一生涯ないだろう。

 睨むような華琳の視線が戦場へ向けられる。

 雌伏の時は終わり、大空に飛び立つ時が来た。

 暗闇の中、遠くに見える戦場では命の灯が輝いている。

 

 

 

 

 

 

「朱将軍!敵の後背よりこちらに向かう兵団あり!旗印は『曹』に『夏侯』の二つ!間違いありません!あれは我らの援軍です!!」

「やはり来たか!?」

 

 部下の言葉に朱儁は弾かれたように敵陣の奥を見つめる。そこには確かに『曹』と『夏候』という二種類の旗が見えた。

 

「流石は曹家の麒麟児。機を見るに敏なり」

 

 二本の旗の下、曹操軍はまっすぐ戦場に向かって丘を下ってくる。

 

「全軍反転!!」

 

 あらん限りの声を張り、朱儁が叫ぶ。 

 これで策は成った。後は敵を蹴散らし、後の禍根を除くのみ。

 

「我らはこれより敵大将、波才を討つ!者ども、続けええええええええ!!」

 

 一路反転。

 敵陣深く切り込むために朱儁は槍を振るう。

 先の戦でどのような業を使ったのは知らないが、ここにいる黄巾族の者は誰一人この場から逃がすわけにはいかない。不可思議な業を使う者は排除しておかなくてはならない。

 

「しゅ、朱将軍!まもなく曹操軍が来ます!!」

「なに!?」

 

 振り向いた朱儁の視線の先には既に敵に掛かろうとする曹操軍の騎馬隊の姿が映った。あまりにも速すぎる進軍。さっき遠くに見えたばかりだというのに、もうこんな近くまで来ているなどありえない。

 しかし現実は無常。困惑する朱儁など知らぬとばかりに曹操軍の騎馬隊が黄巾族に向かって牙を剥く。

 

「我が名は夏侯淳!曹孟徳様が一の家臣にしてすべてを切り裂く大剣なり!命の惜しくない者は疾く我が前に進み出ろ!!」

 

 獣の如く黄巾族を喰い破る曹操軍の中でも特に最前線に立つ春蘭の勢いは凄まじい。『七星餓狼』の一振りで五人の首が飛ぶ。そして返す刃で更に五人。合わせて十人の者の首が一瞬で飛んでゆく。

 曹操軍の騎馬隊は、朱儁たちの戦前の誓いが馬鹿らしくなるほどの圧倒的な破壊力を誇る。

 しばし呆然としていた朱儁の下へ、一人の金色の髪をした少女が馬を寄せる。

 

「貴方が漢の右中郎将、朱儁将軍で相違ないかしら?」

「・・・お主は?」

「この度、曹家を継いだ曹孟徳よ」

「お主が曹家の麒麟児か」

 

 溢れる才覚と肌の焼けるような威圧感は、今まで朱儁の出会った者たちの中では皇甫嵩と並ぶほどのものだった。いや、或いは本気の皇甫嵩ですら才覚という意味では敵わないかもしれないとさえ感じる。第一級の将軍である朱儁にはハッキリと曹操の纏う「覇気」が目に見えた。

 

「この場は私たちに任せて将軍は一度下がって陣の立て直しを。この場は私が引き受けましょう」

「・・・よかろう。ここはお主に任せよう」

「承知。では私もこれより残った黄巾族の殲滅に向かいます」

「ああ、くれぐれも油断なきようにな」

「はっ」

 

 愛馬『影(えい)』を駆る華琳は、兵たちを追い抜き愛鎌である『絶』を握る。

 

「我が名は曹孟徳!民衆の糧を奪い、恐怖を植え付けし黄巾の賊よ!無駄に命を散らしたくない者は去りなさい!!」

 

 叫びながら『絶』を一振り。たったそれだけで目の前にいた黄巾党の首が四つ飛ぶ。そして同時に『影』の馬脚によって二人の兵が死に絶えた。

 

「我らはこのまま敵の殲滅に当たる!」

 

 叫ぶ華琳に呼応して、曹操軍の兵たちが腹の底から雄叫びを上げる。

 そしてそれらを見送った朱儁は、僅か三万六千の兵で十万もの黄巾族を殲滅していく曹操軍の姿を離れた場所より見守っていた。

 

「・・・凄まじいな」

 

 感嘆の想いが胸を占める。同じ武人として、これほど用兵の妙を心得ている者には憧憬の念を抱く。これほどの才覚がもし自分にあれば、とつい嫉妬の思いに駆られてしまう。

 暫しの時、そうしていると、やがて見慣れた赤い髪の少女が馬で駆けてきた。

 

「朱儁!」

「皇甫嵩か」

 

 傍によってお互いの無事を喜ぶ二人だったが、それも直ぐに終わりを告げる。生き残れたことは素晴らしい。それに圧勝しているのは諸手を上げて喜ぶべきことだ。しかしあまりにも呆気ない幕切れは、二人の心を重くしていた。

 

「因果は巡る、か」

 

 それはかつて朱儁の師が己を越えた朱儁に対して告げた言葉だった。因果は巡る。師を越えた己のように、いずれ自分も誰かに越えられていく。 時代の波が揺れ動く。皇甫嵩や曹操を見ていると、次代を担う者たちであるという想いが朱儁の胸を馳せた。

 己が生きた時代の終焉。黄巾族の出現と共に一つの時代が終わったことを朱儁は強く感じていた。

 荒れ果てた荒野に吹く風は、砂塵を舞い上げ辺りを覆う。

 因果は巡り、運命の輪は動き出す。

 次代を担う少女は大きく翼を広げ、飛翔してゆく。

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