今日も夜、歩くことにした。
夏でありながら涼しさを失わない夜風が秋の趣を感じさせたのか、それとも独りで過ごす夜に寂しさでも感じたのか、或いは空に浮かぶ月があまりにも美しかったからなのか、理由は自分でも分からない。
それなのにこうして夜、ぼんやりと歩いている私はどうやらかなりの気分屋らしい。
特にこれといった目的も無く散歩するなど、本来、私の趣味ではなかったはずだ。
私は昔から何事に対しても意味と根拠を求める癖がある。一つの事象に対して様々な角度から意味と根拠を求めて思考を巡らせる。
我ながらつまらない人間だと思う。特に意味にも無く外を出歩くなど、本当に普段の私からすれば考えられないことだ。
「―――」
屋敷の玄関を抜けて外に出ると、そこはもう一切の光がない暗闇が支配していた。活発で情熱的な昼間とは隔絶した冷たく暗い夜の世界が広がっている。もうすぐ今日が昨日に代わろうかという時間に、私は一人、夜を歩く。
竹林の葉が風に揺れてざわめき、静かに流れる川のせせらぎが森の中で美しい音色を奏でる。動物でさえ寝静まった空間の中で、私の足音は妙に周囲に響いていた。
気配を探りながら私は森の中を一人で歩く。
こうして一人で歩くのは、きっと私が一人になりたいからだろう。普段自分が置かれている環境に不満など一切ない。私自身が考えても、或いは他の誰かが考えたとしても、きっと私は恵まれているだろう。
ただ、それでも忙殺される日々の中、たまには一人の時間というものが欲しかったらしい。
「―――」
一人でいる時、私の心には自問が尽きない。
いつも悩み、考え、答えを出せずに終わりの時が来る。別にそのこと自体に苦悩はない。それで構わないのだ。答えを出すことを求めて自問しているというよりは、私の行為は思考遊戯とも言える一種の遊戯に近い。ただ、様々なことを考えているだけ。その時が楽しいのだ。
旅の商人も使う通りから離れて小道に逸れる。たった一本道を違えただけで、もうそこには獣道しかありはしない。辛うじて道だと言えるような場所をさらに深みへと進んでいく。
草を分け、木々の間を進み、岩を乗り越えると、川のある水辺に辿り着く。爽やかな風が私の髪を優しく撫でる。
石ばかりが堆積した川縁を私は歩く。
ここが目的地というわけではない。もとより目的地など存在しない。所詮は思いつきの散歩に過ぎないのだから、私にだって何処に行けば満足するのかなど分からない。
ひょっとしたら私は一人になりたいというよりも、むしろ、一人なのだと思いたいのかも知れない。あまりにも幸福な日常を送っているからこそ、そんな当たり前の日常に対して疑念を持ってしまうのかもしれない。
どちらにしろ、やはりこの問いにも答えは出せそうにない。
「―――」
空から降り注ぐ月明かりを受けて川が宝石のように輝く様を見ながら、私は尚も一人で歩き続けた。
私は今年で齢十八に至る。敬愛する主に身を捧げると誓ってからは、既に十年以上の月日が過ぎていた。
今にして思えば、幼い頃より自らの才覚を自覚していた主に、まだ幼かった自分が惹かれていったのは当然であった。人間もまた他の動物と同様に、己よりも優れた相手というのは本能的に悟ってしまう。私の場合、それはまだ幼き日の主であった。たった一目見た瞬間に、私は己が彼女に敵わないことを悟った。それほどまでにあの方は他の誰よりも優れた人間だった。
―――川縁は森に比べて尚、静まり返っている。月明かりに照らされた川の上で、二匹の蝶が舞っていた。
不意に、誰かの顔が頭に浮かんだ。
込み上げてくる感情が私の口元に小さな笑みを作る。
最近、こうしてあの男が頭に浮かぶことが多くなった。なにがあるわけでもないのに、時折、唐突にあの男の顔が頭をよぎる。今ではこうして夜、一人で歩いている時でも何かの拍子にあの男の顔を思い出してしまう。
「―――」
男の顔と共に、私の頭には以前に会った出来事が思い出されていた。
あれは私が齢十五になった頃だろう。女も十五になれば子が成せる。故に周囲から多数の縁談の話が持ち込まれた。
当然、私の答えは決まっていた。しかし、今は主ともども忙しい身の上だと何度話を断っても、縁談の話はむしろ増える一方だった。ハッキリ言って億劫なことこの上ない。周囲に角が立たない様に断る作業は、肉体的な疲労はそれほどの苦ではないが、精神的な摩耗は想像を絶した。
そこで私は一計を講じた。
結果、周囲は大いに納得していなかったが、それでも私に手を出せる状態ではなくなった。それ以降、もはや私の下に縁談が持ち込まれることは無くなった。そして私にとっては任された仕事に集中できるようになり、これ以上ないほどの理想的な環境を手に入れることになった。
しかし、理想とはあくまでも仮想の域であって夢でしかなかった。私が一計を講じて手に入れた平穏を邪魔する者が現れた。それは私もよく知る人物だった。昔から―――本当に昔からよく知る一人の男だった。
まだ幼い頃、あれだけ懐いてきたにも拘らず、いつの間にか奴は生意気にも私の身の回りの世話までするようになっていた。まさかこんな日が来るなんて、あの頃の私は想像すらしていなかっただろう。もう今となっては三日に一度はあの男の作る食事を食べているかもしれない。笑顔で何かと私の世話をしたがるその男を、私は本当に愛していた。
―――そうだ。私は本当にあの男を「愛していた」のだ。
果たしてこの想いが恋慕の情なのか、それとも家族に対する無償の情なのか、未熟な私には分からない。胸の奥で渦巻くこの感情を、正直、今の私は持て余していた。
思い返してみれば、あの男との付き合いの長さは、敬愛する主よりも私の方が僅かに長い。さりとて親密な仲になった覚えは一度もない。強いて言えば姉弟が丁度いいところだろう。
だが、隣から私を見上げていたはずの少年は、いつの間にか私の身長を追い抜き、ついには私を隣から見守るような男に育っていた。
不安げな瞳は柔和なものへと変わり、常に怯えていた表情は笑みを絶やさぬものへと変化していた。
―――月明かりの下に人影が見えた。
不覚にも、あの男の顔が鮮明に頭に浮かんだ。
―――人影は私に気付き、その顔を綻ばせた。
後になって考えてみれば、この時、どうして私は。
―――男は黙って盃を掲げた。
こんなにも満ち足りた気持ちになったのだろうか。
◇
「―――ん」
ぼんやりとした意識のまま、冬華はベッドから身を起こした。
彼女は部屋の中にいた。兗州は陳留郡、曹家が所有する屋敷の中にある紫呉と冬華に与えられた部屋だ。
周囲に人の気配はない。だから隣のベッドには当然、誰の姿もない。
部屋は暗かった。いや、もとより、この部屋を照らすものなど鬱陶しいまでに輝く太陽の明かりぐらいしかない。暗闇だけが、今の彼女を覆っていた。
「ぁ―――」
悩ましげな吐息を漏らし、冬華はそのまま隣のベッドへ倒れ込んだ。
仄かに残った温もりに身を任せ、冬華はぼんやりと自身の長い白髪を見つめる。ベッドに広がる白髪は、今は闇に紛れてその光を失っていた。窓の様子を窺うに、まだ朝日が昇るほどの時ではないらしい。
もそもそと首だけを動かした結果、冬華の視界には、昨晩、遅くまで読み耽っていた書物が積まれた机が見えた。
再びもそもそと首を動かし、冬華は置いてあった枕に顔を埋めた。身近な匂いが胸いっぱいに広がり、彼女の心を満たしていく。
「―――ん」
再び漏れた吐息と共に、漸く冬華の意識が浮上してきた。
過去から現在に至るまで、彼女は極端なまでに朝に弱かった。起きた直後はまともに頭なんて回らない。朝食なんてもってのほか。世界そのものに霧がかかったかのような感覚に襲われる。
それでもなんとか手繰り寄せた意識を、尚も勝手の利かない身体に定着させる。
鉛のように重たい身体を疎ましいと思ったことは無い。何故なら彼女のこのような姿を見られる人間は限られていたからだ。
身体の機能を取り戻すにはまだもう少し時間がかかる。幸いなことに、今の彼女を追いたてるものは何もない。そのままベッドの上で身を転がすと、冬華は瞳を閉じた。眠るわけではない。ただ、この心地よい
「―――」
そろそろ、時間だ。
瞳を閉じてベッドに横たわったまま、冬華の思考のみが勝手に働いた。朝が極端に弱い彼女の目覚めは、しかし、朝日が出るよりも断然早い。まだうっすらとしか覚醒していない思考と相変わらず言うことを利いてくれない身体を強引に覚醒させる。
視界の隅に人影が映った。
―――予定通り。
彼女の一日はこうして始まる。
朝に弱い彼女がいつも遅刻しないのは兄が起こしてくれるからに他ならない。敬愛する兄の気配を傍に感じながら、自身を揺する兄の手によって起床する。それがいつもの彼女の一日の始め方―――だった。
「フフフ。随分と嘘が上手くなったようね、冬華」
耳に響いたのは、普段の呆れが混じったため息を漏らしながら起床を促す兄の声ではなく、冬華の中では出来れば耳にしたくない相手の頂点を断トツで突っ走る女の声だった。
折角、心地よい
「起きているんでしょう、冬華。残念だけれど、いくら待っても紫呉は来ないわよ」
「・・・」
複雑な感情を胸に、冬華は瞳を開けてもう一度身体を起こした。
そこにいたのは予想通りの人物だった。金色の髪を左右で巻き、憎らしいほど自信に溢れた顔をしている。可愛い顔をしておきながら、なんて憎らしい女なのだろうか。
「おはよう、とは言ってくれないのかしら?」
皮肉混じりに告げられたような気がした。
「・・・おはようございます」
負けじと半眼で返すと、女は笑みを深めた。
「ええ。おはよう、冬華」
女―――華琳は冬華にとって昔から天敵に似た存在だった。年齢的に少し華琳の方が年上ということもあり、昔からどう足掻いても冬華は華琳に勝てなかった。武など比するまでもないが、多少の心得を自負する智ですら敵わない。冬華にとって華琳という存在は絶対に越えられない壁だった。
「どうして貴女がここに?」
「紫呉が忙しそうだったから仕方なくよ」
図々しくも兄の椅子に座って話し出す華琳に、冬華の機嫌はどんどん下がる。その席は彼女のために用意されたものではない。冬華が兄のために選び、そして用意したものだ。
しかも今は冬華にとっては最悪と言ってもいい時間帯だ。眠気と苛立ちによって凄まじい勢いで彼女の理性が削られていく。
しかし、それでも冬華は最後に残った理性をどうにかかき集める。華琳を前に、理性的な判断を失ってしまえば待っているのは敗北の二文字しか存在しない。
「よく言いますね。どうせ貴女が押し付けた仕事でしょう」
「それは有り得ないわ。そも、この曹孟徳の仕事は余人に代替が可能なほど楽なものではないもの」
「む」
「紫呉がしているのはあくまでも紫呉にしかできない仕事よ」
「・・・」
本当に腹立たしいことこの上ないが、やはり何度やっても敵わない。こんな些細な言い合いであっても彼女は自らの敗北を許さない。
冬華は一度だけベッドを振り返る。本当なら、もう少しでいいから兄の温もりの中で眠っていたかった。
最後に名残を惜しむようにベッドを見ると、冬華はゆっくりと腰を上げた。
「朝から貴女の顔を見て、とても不快な気分になりました」
「奇遇ね。私は朝から貴女の顔を見ることが出来てとても気分がいいわ」
「ハッキリ言って迷惑です」
「私はむしろ歓迎しているわ」
ああ言えばこう言う、とは正に今の華琳のことだろう。しかし同時に冬華の反論もまた、常の彼女の論調とは違って感情的だった。必死にかき集めたはずの理性も既に霧散してしまったらしい。
まったく懐く気配のない少女の恨みがましい視線は、華琳にとってはいじらしいものにしか感じないということに、当の冬華自身は気付いていなかった。
「・・・秋蘭はどうしました」
こういう時、二人の間に入る人間は決まっている。兄の紫呉か、或いは夏侯淵―――すなわち秋蘭だ。
今までの慣例上、大体、彼ら二人の内のどちらかが必ず華琳の側に控えているはずなのだ。勿論、秋蘭はともかくとして、兄に関して冬華はその立ち位置を未だに認めてはいない。
「秋蘭なら今は出迎えに行っているわ」
「出迎え?」
「ええ。昨日、書状が届いたのよ。柚子(ゆず)と蜜柑(みかん)からね」
―――柚子。そして蜜柑。
なんとも美味しそうな果物の名前だが、二人はれっきとした人間の女性だ。
姓は曹、名は仁、字は子孝。真名を柚子という女性は、華琳にとって従姉に当たる。年齢のほどは華琳よりも僅かに上であり、紫呉と同じ程度になる。
軽くウェーブの掛かった金色の髪を背中に流し、春蘭や秋蘭にも負けない柔和なラインを描く体を緑色のチャイナドレスで包んでいる。
彼女は、もし華琳が成長したら、と予想させるに十分な姿をしていた。
対して姓を曹、名は純、字を子和。真名を蜜柑という少女は、柚子にとっての妹、華琳にとっては従妹に当たる。年齢のほどは華琳よりも僅かに下であり、冬華と同じ程度になる。
他の一族の者の例に漏れず金色の髪をしているが、蜜柑の場合は姉と違って肩の辺りで切りそろえており、その小動物のように愛らしい容姿を露出が控えめな桃色のチャイナドレスで包んでいる。
前回の戦には間に合わなかったが、二人とも春蘭や秋蘭と同じ華琳の『覇道』に賛同した者たちだ。冬華の出した書状を受け取り、急いでやってきたのだろう。
「柚子はいいとして、蜜柑もですか」
「フフ。ええ、もちろんよ。そもそも、蜜柑が来なければ柚子だって来ないでしょ?」
「はい。その意見には同意します。彼女たちは二人で一組ですから」
仲のいい姉妹は既に一組いるが、彼女たちは夏侯姉妹に勝るとも劣らず仲がいい。「底抜けに明るく自由奔放な姉」と「上品で健気な可愛らしい妹」の姿は曹家にあっても評判だ。
「貴女の場合は少し複雑かもしれないけれど」
二人の少女を頭の中で思い浮かべていた冬華だが、華琳の意味深な言葉に思考を一度停止させる。
「複雑?」
「ええ」
あの二人が来るからといって冬華に不利益なことは特にない。お気楽な阿呆と数少ない友人が増えるだけだ。
その上、一定水準以上の学がある柚子と蜜柑が加入することで文官の負担は減少するだろう。今まで冬華が担っていた負担分が減少すればもう少し時間に余裕ができる。そうなれば兄と共に街に出かけられる機会も増えるだろう。服装や装飾品に興味のない冬華だが、兄が一緒となれば話は別だ。普段なら休日にすることなんて精々が曹家の倉庫や町の書店などで漁った書を読み耽るか書を紙に写すくらいのものだが、兄がどうしてもというならば装飾品を身に付けることも吝かではない。
それに趣味が少ないことは彼女の兄も同じだ。休日に彼がしていることなんて数えるほどしかない。例えば読書。或いは料理。或いは―――・・・。
そんなことを考えていると、唐突に冬華の思考が止まる。華琳の顔を見ると、彼女は冬華の嫌いな笑みを浮かべていた。
「思い出したかしら?」
「・・・」
冬華は何も語らない。
だが、それも承知で華琳は言葉をつづけた。
「そう。蜜柑は昔から紫呉によく懐いていたでしょう?」
「・・・そう、でしたね」
まだあの姉妹が陳留にいた時、幼い蜜柑はよく紫呉へと懐いていた。それ自体は別に構わない。紫呉は面倒見がいいが故に子供たちに人気がある。そんなことはもはや周知の事実だ。
問題なのはむしろ蜜柑が懐く切っ掛けにこそあった。
かつての紫呉は今とは比べ物にならないほど無表情だった。喜怒哀楽の感情をすべて母親の胎内に忘れてきたかのように表情がなかった。その姿は思わず見る者に恐怖すら抱かせた。
だからこそ、最初に紫呉と出会った時の蜜柑は怯えていた。そして紫呉自身も蜜柑に対しては無関心だった。少なくとも、蜜柑が紫呉に懐くことはないだろうと周囲の人間たちは予想していた。
しかし、そんな周囲の予想に反して蜜柑は唐突に紫呉へと懐いてしまった。その間、紫呉の無表情が治ったということはあったが、あまりの蜜柑の変わり様は、曹家で一時、大変な騒ぎとなった。それこそ正に、まだ幼かった冬華が思わず兄を取られたと錯覚してしまうほどの懐きようであった。
「油断していると、今度こそ大好きなお兄ちゃんを本気で取られるかもしれないわね」
当然、華琳は紫呉が面倒見のいい男であることを知っている。蜜柑の紫呉への懐き具合もよく知っている。どれだけ冬華が衝撃を受けたのかもよく知っている。それでも彼女は余裕に満ち溢れた笑みを絶やさない。
当の本人である紫呉と最も一緒にいる時間が長いのは他の誰でもない。華琳なのだ。それにどれほど自分ではない誰かに紫呉が優しくしようとも、最後には自分のところに戻ってくる。そんな絶対的な自身が彼女にはあった。
それはすなわち、冬華にとって目下最大の脅威は蜜柑ではなく華琳ということだ。
「安心しなさい、華琳。兄さんは決して私を置いていったりなどはしません」
「それは兄妹の信頼かしら?」
「いいえ、確信です。確かに昔の私なら取り乱したかもしれませんが、今の私はそこまで弱くはありません。兄さんは人の面倒を見るのが好きな人ですから、きっと蜜柑の面倒も最終的には見ることになるでしょう。ですがそれはそれ、これはこれ、です」
兄と妹としての絆を結んだばかりであったあの頃と今は違う。既に兄妹の契りを結んでから十年以上の月日が流れた。その間、華琳には一歩だけ後塵を拝するが、それでも少しずつ築いてきた絆は決して脆くはない。
「逆に私が問いましょう」
冬華はまっすぐ華琳を見返す。
「貴女は果たして己の半身とも言える兄さんを失った時、それでも『華琳』でいられるのですか?」
自身でそう問いながらも、既に冬華の中で答えは決まっていた。すなわち華琳の答えは不可能という一言に尽きる。
紫呉という男は、言うなれば『曹孟徳』にはなくて『華琳』にだけある数少ないものの一つだ。覇王としての『曹孟徳』ではなく、一人の少女としての『華琳』を構成する要素と同じなのだ。要素は一つでも欠けてしまえば明瞭な結果を表さない。だからこそ、現在の『華琳』は紫呉無しでは成り立たない。
そして、華琳が導き出した解はやはり冬華の予測と寸分たりとも違わない。
「―――無理ね。もし、仮に紫呉が死んだとすれば、私は間違いなく今の『華琳』というヒトガタを切り捨てて『曹孟徳』へとこの身を染めるでしょうね」
華琳の言葉に淀みはない。ただあるがまま、客観的に己を分析した結果だけを伝えていた。
『華琳』も『曹孟徳』も同じ人物を指す言葉だが、そこに含まれた意味合いは果てしなく大きな違いがあった。
冬華もよく知る現在の『華琳』は、華琳自身が長い月日をかけて紫呉と共に形作ったものだ。だからこそ現在の『華琳』という王の形は、実のところ酷く脆い。たった一人の男の死で容易く壊れてしまう程度のものだった。
それは『覇道』を歩む者にとっては決定的なほどの弱さだった。効率を考えるのならば、まず最初に切り離さなくてはならない部分だという自覚は華琳にもあった。他の道ならいざ知らず、少なくとも『覇道』を歩む者にとって、弱点などあってはならない。
しかしそれでも華琳は現在の王の形を止めようとは思っていない。なんだかんだと現在の形を作るための紆余曲折があったものの、今の状態を非常に気に入っているからだ。
「でも大した差はないわ。私にとっては『曹孟徳』という側面も『華琳』という側面も、所詮は私個人の別側面に過ぎない。賽を振って出るのは一つの面だけだけど、そもそも賽には六つの側面が存在することと同じなのよ。今は『華琳』と『曹孟徳』が上手く混じり合っているけど、振り子が傾くのなんて一瞬よ」
今でこそ気に入っているが、後の事など華琳にも分からない。この後、十年後、二十年後、三十年後、自分が同じである証拠などない。良くも悪くも変化するのが人間だ。そして成長の方向なんて誰にも分からない。
だからこそ、ひょっとすれば放っておいても華琳は『華琳』を手放し『曹孟徳』の方へと振り子が傾くかもしれない。
しかしそんな未来のことよりも、実際に目の前にある問題の方が優先順位は高い。
例えばそれは―――・・・
「ただ、間違いなく断言できることが一つだけあるわ。それは、紫呉が死ねばきっと貴女は生きていないということよ、冬華」
生きる意味や意義すら他者に依存しきっている少女への対応だ。
「・・・貴方には関係ないでしょう、華琳」
「前から言っているけど、私は貴女の事が大切なのよ。だから貴女が私の気に入らない行動をとるなら口を出すのも当然ね」
「勝手なことを言わないで下さい」
「私が昔から勝手な人間だということは貴女もよく知っているでしょう」
得意げに笑う華琳には冬華も手が出せない。
常に向けられ続けている一方的な好意は冬華にしてみれば迷惑以上の何物でもないが、だからといって追い出すわけにもいかない。
要するに、冬華にしてみれば華琳は酷く面倒な相手なのだ。
「だから私は勝手に貴女の世話を焼くし、こうして口も出す。今まで何度も言ってきたけれど、ここでもう一度告げておくわ。血の繋がりは無くても、私は貴女の事を妹だと思っているわ、冬華」
「―――っ」
頬に触れた手に、冬華は反応することが出来なかった。
「本当に可愛い子ね、冬華」
「な、にを」
「もっと胸を張って生きなさい、冬華。紫呉に依存して生きていくのではなく、もっと確とした自己を持ちなさい。貴女はこの世で唯一、他の誰もが持たない権利を有しているのよ」
そのまま手を頬から耳へ、そして頭の後ろへ動かすと、華琳はしっかりと小柄な少女の身体を抱きしめた。
己よりも小さなその背中には、華琳が想像すらできないほどの壮絶な過去がある。
抱きしめた瞬間に感じた僅かな震えは、彼女が『人間』に対してまだ拭いきれない恐怖の念を抱いているからだ。揺れた瞳には怯えの感情すら読み取れる。
この少女が心の底から信じられる『人間』は、未だに兄の紫呉しかいない。だからこそ彼女の―――『冬華』という名を与えられた少女を救うために、華琳は自ら嫌われ役を買って出る。
「ゆっくりでも構わないわ。少しずつ兄離れしていきなさい」
流れるような白髪を梳く華琳の手付きは優しい。
彼女の心を投影しているかのような繊細な髪質は、少しでも力を入れてしまえばそのまま摘み取ってしまうかもしれない。
だからその分も華琳は身体に回した腕に力に込め、強く彼女を抱き寄せる。
「貴女の傍には私がいることを忘れないで」
胸に抱いた少女が僅かに震えたような気もするが、気にしない。
そっと呟いた耳元から唇を離し、華琳は少女の温かい頬へと親愛の口づけを落とした。