ある一つの外史を紡ぐ   作:バレンシア

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第六話

 鶏の鳴き声が日の出を告げる。

 幻想的なまでに妖しく輝いていた月明かりが失われ、地平線の彼方に半熟の卵を押しつぶしたかのような太陽が顔を覗かせる。

 霞が掛かった早朝の景色は非常に淡い。仄かな温もりを連れてくる風は、城内にある家々の壁を撫でていく。いまだ明瞭に明けることのない空の下、今日もまた一日が始まっていく。

 

「すいません!ちょっと遅れました!」

 

 まだ城内の誰もが夢の中で心地よい眠りについている時間に、城門へと続く道では若い少年の声が響いた。

 

「おー、やっと来たか」

「遅刻だぞ」

「すいません!」

 

 まだ若い少年に数人の男たちが声を掛けた。

 少年を待っていた男たちはこの城に使える兵士だった。既に壮年の域に差し掛かった男たちは、少年にとっては上司にあたる。自らの失態に頭を下げる少年に、男たちは特に咎めることなく先を進めた。

 城門を守る兵たちは、他の住民たちに先んじて起床する。仮に兵たちも他の住民と同じように眠っていては、万が一の際にとっさの対応が出来ない。そのため、彼ら兵士の朝は早い。

 しかも現在、この城では当番制で夜中も城門を見張る任務があった。どんな時でも気を抜くことを許さない城主の徹底ぶりが見て取れる。

 

「今日もいい陽気ですね」

「ん?ああ、そうだな。あまりの陽気に思わず欠伸が出ちまいそうだよ」

「バーカ。そりゃ昨日、飲み過ぎたんだよ!」

「そうそう。いつもの馬鹿共相手に飲み明かしてるからだよ」

「なんだと、テメェ!」

「朝っぱらから、やめとけ」

 

 わいわいと、周囲の民家に影響が出ない程度の声を響かせながら男たちは城門へと向かう。

 城門を守る任務に就いている彼らが行うべき最初の仕事は城門を開くことにある。誰もまだ起きていない静かな市街地を歩き、四つある門の内、西側の門を開くことが彼らの仕事だった。

 男たちは特に咎める者もいないため、比較的のんびりとした歩調で西門へと向かう。このまま行けば、おそらくあと五分ほどで着くだろう。まだ時間は定刻よりも僅かに早い。着いてから急いで準備をすれば、十分に間に合うような時間だ。

 

「それより聞いてくれよ!」

 

 男たちの内、まだ若い男が興奮冷めやらぬ様子で仲間に話し掛ける。

 

「俺さ!昨日、偶然だけど食事処で曹操様に会っちまったんだよ!」

「曹操様に?」

「おう!我らが主、曹孟徳様にだ!」

 

 男が拳を握りしめながら語る。その瞳は爛々と輝き、まるで子供が友人に対して自分のことを自慢するかのように熱を帯びていた。

 

「マジかよ!?」

「なんだよそれ!ズルいぞ、テメェ!」

「くそっ!俺も会ってみてえ!」

 

 男の話を聞いた仲間たちは、みんなが一様にして悔しさにうなり声をあげた。

 陳留という城において「曹孟徳」という名前は一種の神格化にも似た現象が起きていた。

 昔から―――それこそ華琳がまだ幼かった頃から、陳留では「曹家の麒麟児」として華琳のことを崇めていた。生まれ出でた瞬間に大空に黄龍が舞っていたとか、或いは母親が日輪を飲み込む夢を見たとか、華琳に関する逸話を挙げれば切りがない。その上、容姿端麗にして頭脳明晰、武芸は百般に通じ、騎乗させればどんな名人よりも巧みに操る。その多芸にして博識な様は、常人から見れば正しく「天賦の才」を与えられた特別な人間のように映った。

 

「だが、夏候惇様や夏候淵様も曹操様に劣らず素晴らしい!」

「確かに!」

「異議なし!」

 

 そして華琳以外にも、この城には容姿にも武芸にも秀でた女性たちがいる。その代表はやはり華琳と馬を並べることの多い夏候姉妹だろう。お互いが異なる魅力を持つ姉妹は二人揃って兵士たちには大人気だ。

 特に妹の秋蘭は、どこか手の届かない高嶺の花を思わせる華琳や、そんな華琳しか目に入っていない姉の春蘭とは異なり、兵士たちからしてみればまだ身近な存在であり、かつ社会的常識もあるということで一際人気が高い。

 

「俺は夏候惇様のあの豊満な胸に顔をうずめて眠りてぇ!」

「馬鹿野郎!夏候惇様と言えばなんといってもあのスリットから覗く脚線美だろうが!」

「なんの!俺は夏候淵様のあの冷たい視線で見つめられるだけでもう・・・っ!」

 

 男たちが口々に自分の好みを主張する中で、唯一、若い男だけは真摯に自分の夢を語った。

 

「俺だっていずれ出世すれば、曹操様や夏候淵様の側近くに仕えることだって夢じゃねぇ!」

 

 拳を突き上げて男は秘めていた夢を告げた。

 別に関係を持つだの婚姻だのという不可能な話に興味はない。そもそも一兵士に過ぎない己が彼女たちの内側に入っていくことが不可能なことぐらい、男にも分かっていた。

 だがせめて、憧れた女性たちを命懸けで守るぐらいの甲斐性は持っていたい。男としてのせめてもの矜持だった。

 

「ま、頑張るのはお前の自由だからな」

「だな。俺らの中じゃお前が一番優秀だし、応援ぐらいはしてやるよ」

「頑張って下さいね、先輩!」

 

 意外にも暖かい仲間たちの反応に、男は体を震わせた。本当に自分は仲間に恵まれている。誰もが抜群に優れた才能を持っているわけではないが、それでもこうして暖かい心を持っている。

 男は一度下を向き、そして再び顔を上げる。

 

「おう!」

 

 満面の笑みを浮かべて男は答えた。

 反転した男の目には、目的地である西の城門が目に入っていた。

 仲間たちの暖かい言葉に、男の心は羽が生えたように軽かった。ここ数日、なにか歯車が狂ったかのように運の悪い出来事が続いたが、その悪い流れも今日で終いだ。今日からはまた心を入れ替えて働こう。そんなことを男が考えていた。

 しかし、本来なら誰もいないはずの城門の前に二つの人影を見つけたことで、彼の顔色は大きく変わることになった。

 

 

 

 

「も、申し訳ありません!ただいま開門いたします!!」

 

 近寄ってくる集団の内、一際年配とおぼしき男が急いで走り寄ってきた。

 

「いえ、お気になさらないで下さい」

「紫呉の言うとおりだ。特に急ぐ用でもない。まあ、のんびりとやってくれ」

「は、はい!申し訳ございません!」

 

 男は慣れた様子で、しかしあまりに突飛な事態を前に、緊張を隠すことも出来ずに頭を下げた。

 城門前に並んでいた二つの人影の正体は、紫呉と秋蘭の二人だった。

 この陳留という城において、紫呉と秋蘭を知らない者はいない。紫呉は華琳の傍に常に付き従っているし、秋蘭はもはや言うに及ばず。陳留の夏候姉妹と言えば、色々な意味でもはやこの町の名物姉妹だ。

 誰もが知る有名な二人を前に、年配の兵が頭を下げながら開門の準備をするために急いで指示を出す。

 

「おい!お前ら!ちんたらやってんじゃねえ!」

「は、はい!」

 

 他の兵に比べて十ほど年齢の高い男は、二人に恐縮しながらまだ若い少年たちに指示を出す。

 そして残りの兵たちが男の指示に従い城門を開いていく。

 

「では行くか」

「はい」

 

 広大な城門が開く際に鳴り響く重低音を耳にしながら、紫呉と秋蘭は城外へと向かって足を進めていく。

 仲良さそうに話をしながら歩いていく二人に頭を下げなから、男の視線は一人の女として魅力的な肢体を持ち、また大きく開いたスリットから惜しげもなく晒されている秋蘭の太腿に向いていた。

 無意識のうちに男の喉が鳴る。

 男は秋蘭のことを軍上層部の人間として尊敬していた。個人の武力も優れている上に、集団戦闘における指揮能力もまだ同様に優れている。弓を持てば百発百中の腕前を持ち、騎乗能力も高い。本当に優秀な将軍だと思っている。

 しかしそれ以上に、これほどまでに極上の女はそうそういない。それは敬意などというものとは全く別次元の話だった。

 しかし、不意に男の視線が何者かに遮られた。

 男は不思議に思って視線だけを上へと向けた。そこには素知らぬ顔をしながら秋蘭と話を続ける紫呉がいた。

 男は軽く舌打ちしながら再度、視線を下に向けた。

 

「どうかしたのか、紫呉?」

「いえ、なんでもありません」

 

 首を傾げる秋蘭に、紫呉は微笑みながら答え、話の続きを促した。

 柚子、そして蜜柑との待ち合わせの場所は城から少し歩いた場所にある茶屋だった。

 そこは昔、まだみんなが陳留にいた頃に通っていた懐かしい思い出の店だった。当時は朗らかな笑顔のよく似合う老婆が団子を売っていた。既にその老婆は引退したらしいが、店自体は息子夫婦がまだ経営しており、久しぶりの再会の場所としてこれ以上の場所は無い。

 

「二人はもう来ているでしょうか?」

「さて、柚子が余計なことに首を突っ込んでいなければ既に到着していてもおかしくはない時間なのだがな」

 

 紫呉と秋蘭も懐かしい顔を思い描きながら連れ添い歩く。

 城門を出れば後は道なりに歩けば直に着く。再会した時の二人の行動を考えながら歩いていると、自然と秋蘭の口元にも笑みがこぼれる。

 しかし、そんな秋蘭の上機嫌は唐突に急降下することとなった。

 正に紫呉と談笑しながら城門を潜ろうとした時、秋蘭の耳に決して許すことが出来ない不穏な言葉が届いた。

 

「ちっ、『慰み者』が偉そうに―――」

「―――っ!?」

 

 敢えて秋蘭に聞こえるように言ったのかどうかは定かではない。

 だが、秋蘭が振り返った先にいた年配の兵は、明らかに侮蔑の意思を込めた視線を紫呉に向けていた。

 

「貴様っ!?」

 

 秋蘭が腰に佩いた剣を抜こうと手を伸ばす。

 男は、予想した以上に怒りに染まった秋蘭の形相に驚き、困惑し、腰を抜かしかねない勢いで三歩、後ろへ下がった。

 

「そこを動くな!今にその首、切り落としてくれる!!」

 

 既に秋蘭の瞳は明確な敵意と共に男を捉え、殺気を込めて睨みつけていた。

 このまま放っておけば、秋蘭は特に難もなく男の首を宣言通り切り落とすだろう。男と秋蘭とではまともに打ち合っても僅か一合の後に勝負は決する。所詮は一般の兵士に過ぎない男と曹操軍の中でも一・二を争う武を持つ秋蘭とではもはや比較にすらならない武力の差が存在した。

 だからこそ、そんな男の命を救ったのは、秋蘭の横にいた紫呉本人であった。

 

「お止め下さい、妙才様」

 

 秋蘭の瞳が紫呉の顔を捉え、次いで、手にしていた自身の剣へと視線が移る。そこには秋蘭が剣を抜く前に柄へと手を当て、抜刀を邪魔する紫呉の指が添えられていた。

 紫呉は怒りに染まった秋蘭を憂いの込められた表情で見下ろした。

 

「私が兵たちから嫌われていることは私自身もよく存じています。もう慣れてしまったことですから、妙才様がお怒りになることではありません」

「―――紫呉、お前は」

「私はどのように言われても構いません。ですから貴女が心を痛めるようなことはありません」

「―――」

 

 笑って言い切る紫呉を前に、もはや秋蘭に出せる言葉は無かった。

 思えば、予兆は以前から確かにあった。

 例えば訓練時、文官の仕事も兼ねていた紫呉が近くを取る度に小さな笑いが起きた。

 例えば共に町に出た時、警邏の兵が紫呉を見ながらこそこそとよく話をしていた。

 例えばこの間の戦の折、兵が紫呉を見る目は決して良いものではなかった。

 数え上げればキリがないほどの小さな前兆を積み重ね、今日、ついにこうして秋蘭の耳にも届くような形となって悪意が表れた。

 華琳や秋蘭、春蘭たち将軍に、華琳直属の近衛兵、曹家にいる屋敷の使用人たちまでは紫呉の評判も悪くない。町の商人や農民たちもまた同様だ。

 しかし、その対象が多くの一般兵たちに及ぶとそうもいかなくなる。その中でも特に男の一般兵たちにとっては、紫呉は最も嫌っている人間だと言っても過言ではない。

 特に目立った功績もなく、そもそも出自すらよく分からない男が主である華琳の側近くで働く栄誉を与えられ、偉そうに周囲へ指示を出している姿は兵たちの嫉妬心を著しく擽った。

 しかも華琳を中心とする曹操軍の幹部たちは一様にして美少女ばかりだ。身分上の名誉ばかりではなく、色事上の関係においても紫呉は兵たちから目の敵にされていた。

 

「今、曹操軍が上手く機能しているのは、孟徳様や妙才様が決定的な出来事を起こしていないからです。もしここで妙才様があの男を斬ってしまっては、下手をすれば曹家軍は内部より崩壊していきます。その結果、貴女の評価は地に落ちる。きっと周囲は貴女を軽蔑してしまうでしょう」

「―――っ」

 

 客観的な意見が述べられる紫呉はまだ冷静さを残していた。むしろ直接侮辱されたわけではない秋蘭の方が冷静さを失っている。

 小さく舌を打つという普段では見られない一面を見せた秋蘭だが、次第にその瞳からは怒りの色が失われていく。

 しばらく剣の柄に手を当てていた紫呉も、秋蘭が次第に落ち着いていく様子を見ながら手を離した。

 

「行きましょう。私たちの仕事は曹仁様と曹純様を迎えに行くことです」

 

 その場から離れるために引いた手はやはり冷たい。

 少し沈んだ表情を浮かべた秋蘭を先導して紫呉は城門から伸びた道を歩いていく。

 感情の起伏が激しい、或いは表情豊かなのは本来、秋蘭の姉である春蘭の役割である。ここまで秋蘭が感情を露にし、そして感情に導かれるがままに表情を崩すことは珍しいどころか滅多にないだろう。

 だからこそ、紫呉も彼女の想いに応えるために少しだけ自らに課した戒めを解くことにした。

 想いは一言。感謝と謝罪を込めて。

 

「―――姉さん」

 

 最後の一線は決して横を見ないこと。

 

「―――え?」

 

 それでも戸惑っている「姉」の姿が目に浮かぶ。

 

「すまない。そして、ありがとう」

 

 告げた言葉に反応して、繋いだ手が少しだけ強張った。

 彼女を「姉」と呼ぶのはもう何年振りになるのかも分からない。かつて『華琳』と共に誓いを立てて以来、同時に秋蘭を「姉」と呼ぶこともなくなった。年齢でいえば秋蘭の方が紫呉よりも年下になるが、それでも彼女は確かに紫呉にとっては「姉」であった。

 待ち合わせ場所までの道中、二人の手が離れることは無かった。

 

 

 

 

 

 

 紫呉と秋蘭が予想した通り、二人が約束していた茶屋まで行くと、既にそこには数枚の皿を重ねて団子を食べる二人組がいた。

 

「やっほー、紫呉。随分と久しぶりになっちゃったわね」

 

 二人の存在に気付いた柚子が軽く手を振る。

 対する秋蘭は苦笑を、そして紫呉は頭を下げて応じる。

 

「お久しぶりです、子孝様」

「相変わらず固いわねぇ、紫呉」

「申し訳ございません」

「いいわよいいわよ。私だって華琳に睨まれたくないしね」

 

 翳りのない笑みだった。

 からからと気持ちよく笑う柚子は手に持った団子を食べる。積み重ねられた皿は一枚を残してすべてが柚子の隣にあった。つまりそれは柚子がほとんど一人で団子を食べていたことを示している。もとより、もう一人の方は一般的な少女と比べても小食の部類に入る。

 更にもう一本、団子を手に取った柚子は、隣に座った蜜柑の口元にその団子を差し出した。

 

「はい、あ~ん」

「ね、姉さん!?」

 

 姉の暴挙に赤面しながら無理だと否定の意を込めて手を振るのは妹の蜜柑だった。

 愛らしさを感じさせる小動物のような仕草と家庭的な趣味を持つ彼女は、いつも自由奔放な姉に振り回されている。昔から彼女がこうして妹大好きな姉によって周囲を気にせず赤面させられる場面は少なくない。

 

「ななな、何するのっ、いきなり・・・っ!?」

「えー、いつもしてるじゃない、これくらい」

「だ、だからってそんな、こんな所で・・・」

 

 挙動不審になった蜜柑が見るのは目の前にいる紫呉と秋蘭の二人だった。

 姉妹だけなら普通にする行為でも、目の前に他の人間がいる状態では、極度の恥ずかしがり屋である蜜柑には耐えきれるものではなかった。

 更にその対象が男性である紫呉ならば、恥ずかしさは一層増してくることも必然であった。

 

「ほら、あ~ん」

「うぅ」

 

 羞恥で真っ赤になりながら蜜柑が見上げた先には、ため息を漏らして視線を逸らした紫呉がいた。その心遣いに感謝しながら、蜜柑は小さな口を団子の入る大きさまで開けた。

 

「あ、あ~ん」

 

 両手を祈るように組み、蜜柑はその小さな口を突きだした。

 しかし、彼女の口から発せられたのは団子を食べた後の称賛の言葉ではなく、哀しく響いた歯の鳴る音だった。

 

「・・・姉さん?」

「ああもう!ホント、かっわいいわぁ!」

「へ?きゃっ!?」

 

 いきなり抱きついてきた柚子に蜜柑が短く悲鳴を挙げる。

 

「あはははは。か~わ~い~い~!」

「あうあうあう」

 

 頬を摺り寄せ、優しく髪を撫でる柚子に、もはや蜜柑はされるがまま。抵抗すら許されずひたすら柚子の心の赴くままに可愛がられている。

 しかし蜜柑も柚子の行動が嫌だというわけではない。ただ、恥ずかしがり屋な蜜柑は周囲に人がいる場所でこういったことをされると途端に言葉に詰まり、顔が赤くなり、わたわた手だけが宙を踊るのだ。

 故に、今回も彼女は嫌ではないが恥ずかしいという複雑な想いを心に抱いたまま助けを求めて手を伸ばす。

 

「し、紫呉く、た、助け―――」

「―――はあ」

 

 柚子と蜜柑は仲のいい姉妹だが、二人が紫呉と共に一緒へ町に繰り出す時にはいつも柚子によって蜜柑が引き摺られていた。そしてそんな二人の様子をいつも紫呉は後ろから見つめていた。昔から紫呉は、柚子にとっては体のいい荷物持ちであり、また、蜜柑にとっては暴走した姉に対する防波堤の意味合いが強い存在であった。

 そしてどうやら今回もその役割の域を出ないらしい。

 

「子孝様」

「あ、紫呉もやる?もうこの子ったら、ホント可愛いんだから!」

「は、はう!?」

「・・・やりません」

 

 額を抑えながら答える紫呉に、隣の秋蘭が苦笑する。

 

「柚子、いい加減もうやめておけよ」

「はーい。秋蘭に言われちゃ仕方ないわね」

 

 紫呉だけではなく、ついに秋蘭からも制止の声がかかると、流石の柚子も抱きしめていた蜜柑から体を離した。

 同年代では最も落ち着いていて精神的な成熟が早かった秋蘭には、みんな何かと面倒をかけてきた過去がある。それは柚子も同じであり、だからこそ、自由奔放な柚子をもってしても秋蘭にはなかなか頭が上がらない。

 そして顔どころか首や耳まで真っ赤になった蜜柑は遠慮気味に、けれどしっかりと紫呉の服の袖を握りしめながらその背に身を隠した。

 

「大丈夫ですか?」

「は、はい」

 

 柚子が秋蘭からもはや何度目になるかも分からない注意を受けている横で、蜜柑は紫呉と共に心をどうにか落ち着けようとしていた。

 

「茶でも貰ってきましょうか?」

「い、いえ、大丈夫です。もう少しこうしていれば落ち着くと思いますので、その、えと、すみません」

「気にしなくても構いませんよ」

「・・・すみません」

 

 顔を俯かせながらも、蜜柑の視線はしっかりと紫呉を捉えていた。

 幼い頃から柚子に振り回されてきた蜜柑は、こうして僅かながらも安息の時を得る。決して嫌いじゃないが、それでもずっと振り回され続けていると疲れてしまう。だからたまにこうして一息入れる瞬間があると肩の力が抜けていく。

 茶を飲みながら団子でホッと一息とまではいかなくとも、蜜柑は暫くの時をそのままのんびりと過ごす。

 太陽は既に昇り、今日も清々しい晴天に恵まれていた。

 茶屋の脇に生えている木に留まった鳥の鳴き声に耳に傾け、商人の荷馬車や旅の者たちが行き交う姿をただぼんやりと眺める。

 ここ数日の多忙によって寝る時間すら惜しんで働いていた身のとって、何もしない時間がこれほど続くことなどまずなかった。

 茶屋の椅子に腰かけながら見上げた空は、雲一つないくらいに晴れ渡っていた。

 

「あ、そういえば」

 

 静謐とした雰囲気の中、口を開いたのは秋蘭の説教から解放された柚子だった。

 

「旅の途中に面白い子に出会ったのよね」

「面白い子?」

「そうなのよ」

 

 相変わらず団子を片手に話を進める柚子に、茶を飲んでいた秋蘭が応じる。

 

「お人形を頭に乗せた小さくて可愛い子と、眼鏡をかけた気の強そうな可愛い子、それに槍を持った相当強そうだけど可愛い子の三人組なんだけど」

 

 一人、二人、三人、と指折り数えていく柚子は、全員を数え終えたところで紫呉と話をしている蜜柑の方へ顔を向けた。

 

「あ、でももちろん一番可愛いのは蜜柑だからね。私は蜜柑が世界で誰よりも大好きよ」

 

 屈託のない笑みと共に告げられた告白に、姉の言葉と分かっていても蜜柑は顔を赤くさせた。

 

「あ、ありがとうございます」

「うん」

 

 赤面した蜜柑の表情に満足したのか、柚子は再び秋蘭と向かい合った。

 

「どうやら士官先を探しているみたいだったから、一応、華琳のことを勧めておいたわ」

 

 いいのよね、と柚子は秋蘭の方を見る。

 

「ふむ。華琳様はこれから世に出ていくという御方だ。これより先、戦力はいくらあっても困ることは無いだろう」

「特徴は後で纏めておくけど、私の名前を出すように言ったから、注意しておいてあげてね」

「ああ、了解した」

 

 話が一段落したところで、柚子は最後の団子を口にする。これにて注文した団子はすべて完食。昔ながらの味を保ったまま営まれているこの茶屋は、今回もまた柚子の舌を満足させる味だった。

 

「さて、それじゃあそろそろ行きましょうか」

 

 団子を食べ終えた柚子が最初に席を立つ。

 

「あんまり待たせちゃっても華琳の機嫌を損ねるだけだし」

 

 それに、と柚子は蜜柑の隣から向けられる視線の主に向かって告げる。

 

「紫呉を長々と連れ出して冬華から睨まれるのも嫌だものね」

「・・・申し訳ありません」

「いいの、いいの。あの子はそういう『いじらしいところ』が可愛いんだから」

 

 ウインクしながら柚子は座り続けて固くなった体を伸ばして筋肉を揉み解す。

 ここまで歩くことは適度な運動になったし、丁度いい腹ごなしも出来た。身内とはいえ、これより相対するのは乱世の奸雄にして天賦の才を与えられた稀代の傑物だ。しかも同時に、彼女は自然体であっても相手を威圧する存在感を放つ迷惑千万な自動疲労蓄積人間だ。

 戦の前の癒しはこれにて終幕。陳留の城に着いた後には忙殺されることが確定しているはずだ。その証拠に、要領のいい秋蘭こそいたって普通だが、紫呉は随分と痩せたように見える。きっと華琳や秋蘭に回す仕事を出来るだけ厳選すべく、多くのことに気を遣っているのだろう。それこそ、隠しているようだが、彼の表情は隣に座る蜜柑が思わず表情を陰らせるほどに悪い。

 

「それより紫呉も少しは休みなさいよー。働き過ぎても頭の中が煮詰まるだけで、いいことなんてないんだから」

「以後、気を付けます」

「はい、よろしい」

 

 紫呉と話をしながら柚子が蜜柑の手を取り立ち上がらせる。

 

「それじゃあ紫呉、お会計よろしくね~」

「ね、姉さん!?」

「あはははは」

 

 食べるだけ食べて、会計はすべて紫呉任せ。妹からの制止の声も無視して柚子は蜜柑の手を引き先を歩く。

 後ろから聞こえてくるのは大きなため息と苦笑の声。本当に、昔と変わらない光景が広がっていた。

 自分たちが変わらないように、また後ろの二人も変わらない。

 昔と変わらないことに安心を覚えつつも、柚子の頭は眉間に皺を寄せる主の姿を思い描く。

 きっと彼女もまた同様に凄みは増しても本質的なところは変わっていないのだろう。自分では他者に冷たい人間だと思っていても、その実、心の中に潜む他者に対しての甘さを誤魔化しきれない不器用な子。『王』と『少女』の狭間で揺れる不安定な精神を誰にも悟らせないように自分の内側に溜め込む極端に息抜きの下手な子。それが柚子の知る『華琳』という人間だ。

 数年ぶりの再会に向けて踏み出した一歩は、知らず、普段の彼女のものよりも大きくなっていた。

 

 

 

 

 

 

「随分と突然の訪問ね」

 

 紫呉と秋蘭が懐かしい顔ぶれと旧交を温めている頃、華琳は自らの屋敷の応接間にて珍しい客人に相対していた。

 

「まあね。その点に関してはちょっと申し訳ないと思っているよ」

 

 何の前振りもなくいきなり陳留の城中に現れた人物は、華琳もかつて戦場で一度だけ会ったことのある人物だった。

 燃えるような赤い髪と強気な瞳。身体は女性らしい柔和なラインを描き、健康的な白い脚を惜しげもなく周囲に晒している。

 炎髪灼眼。四獣の一、朱雀の化身とさえ噂される無双の武は、現在の混迷した漢という大国の守護者として民衆から絶対的な支持を集めている。

 もはや国家としての統治能力の無さを疑う余地がないほど低迷している漢がいまだに国家の体を成している理由の一つは、間違いなく彼女の存在にあるといって過言ではないだろう。

 

「漢の武神と称される貴女に直接訪問されるなんて、この曹孟徳も有名になったものね」

「ははは。あれだけの戦働きを見せつけられて貴女の存在を忘れろと言う方が無理な話だね」

 

 両者は共に椅子へと腰を下ろして向かい合う。

 

「私が参陣しなくても、貴女ならば労せずして勝っていたでしょうけどね」

「賛辞は受けよう。私は褒められることが好きなんでね。褒め言葉は遠慮なく受け取ることが私の主義なのさ」

「ええ、そうなさい」

 

 お互いに茶を片手に対照的な笑みを浮かべる。

 

「それで?皇甫嵩義真ともあろう者が、まさか単なる世間話だけをしにわざわざ来たわけでもないのでしょう?」

「もちろん。のんびりと諸国を巡って旅をすることも魅力的な話だが、今はそうも言っていられない状況だからな」

 

 中華の大陸は現在、混迷の極みにある。

 後に『黄巾の乱』と言われる内乱も最盛期の勢いこそ失われたものの、まだ終焉の時を見るまでには治まっていない。先の戦によって豫州の黄巾族は壊滅的打撃を被ったこともあり、もはや残党を狩る程度で済むが、他の諸州にはいまだ黄巾族が健在である。

 例えば荊州南陽郡には共に戦ったあの朱儁が直ぐに向かったという話は華琳の耳にも届いているし、そもそも首魁である張角の故郷とされる鉅鹿のある冀州では、盧植という将軍が謎の更迭によって去った後、官軍の大敗を招いている。また青州は既に黄巾族の一大拠点となっており、その数は百万人にも上るという噂が大陸には流れている。

 結局のところ、まだまだこの内乱は続いているのである。

 そして華琳の目の前にいる皇甫嵩は現在の漢において華琳も認める第一級の将軍。皇帝からの信望も厚い上、他方面に向かった将軍たちからの信頼もある。少なくとも、皇甫嵩という人間は、今、無駄に使える時間は一時たりともないはずなのだ。

 

「―――なるほどね、大体の事情は読めたわ」

「ほう」

 

 華琳の呟きを聞き逃さなかった皇甫嵩が、湯呑みを机に置き、華琳を上から見下ろす。

 その表情は、奇しくも曹操軍に在籍する将軍たちならば普段からよく見慣れた表情だった。

 それは相手の力量をはかる際に華琳自身もよく浮かべる表情であり、また同時に相手の答えを試そうとする挑戦的な笑みに他ならない。

 

「曹家の麒麟児と噂に高い貴女の読みを是非ご教授願いたいものだ」

「フフ、授業料は高くつくわよ」

 

 皇甫嵩に対する華琳の答えも悪くは無い。

 普通の将軍であれば激昂してもおかしくはない華琳の言葉だが、皇甫嵩は楽しそうに首肯するだけで特に気分を害してなどいなかった。

 

「貴女と腹を探り合ってもつまらないから答えだけを言うわ。要するに貴女は、この曹孟徳の手が借りたいと、そういうことでしょう?」

 

 足を組み、茶で喉を潤した華琳は満足そうに自らの考え出した解を皇甫嵩へと提出する。

 

「流石だな、曹操。正にその通りだ」

 

 そして華琳の提出した解に、皇甫嵩もまた満足そうに頷いた。

 

「そこまで頭が回るなら、私が君を何処へ連れて行こうとしているのかも予測できているはずだな?」

 

 再び問いかける皇甫嵩に、華琳は短く一言だけで答える。

 

「冀州広宗郡」

「ああ。まだ公式な発表はされていないが、この度、私は天子様より冀州方面の黄巾族討伐の命を拝命した。ついては、私の独断で官軍の副将としてお前の名を推薦しておいた」

「・・・よく許可が下りたわね」

「私だって今まで無駄に戦ってきたわけではないということだな」

 

 冀州方面といえば、つい先日、黄巾族を相手に官軍が敗北した地だ。いまだ大規模の黄巾族が跋扈している。

 勝手に兵を動かすことを許されていない華琳が功績を上げるにはまたとない機会であると同時に、場合によっては中央進出の足掛かりとも成り得るだろう。

 そしてなにより、皇甫嵩の副官という地位は誰もが喉から手が出るほど欲しい地位の一つだ。望んでも得られない地位が向こう側から提示されたのだ。この好機を逃す手はない。

 

「いいわ。貴方のその願い、確かに聞き入れた」

「それはありがたい」

「白々しい仮面はもういいわ。どうせ既に決まっていることでしょう」

「おや。なんだ、ばれてたのか」

「私の知る『皇甫嵩義真』という人間は、ただ武の力のみを頼りにした猪ではなかったというだけの話よ」

「なるほど」

 

 皇甫嵩は華琳の得た情報に対して否定も肯定もせず、ただ頷きをもって返した。

 しかしそれは決して彼女の傲慢などではない。むしろ幼い頃より戦場の第一線で戦い、かつ、生き抜いてきた者としての自負であり、武人としての誇りから来る自信だった。

 それは華琳のような知識から来る自信ではない。もはや『常勝』とすら言われるまでに至った絶対的な経験に裏打ちされた自信が、自然と彼女の態度を強気なものにさせていた。

 

「君には期待している。おそらく黄巾族との戦も、大規模なものはこの度の戦で終わるだろう。精々名を上げておけよ」

「ええ。今更貴女に言われるまでもないわ」

「それもそうだな」

 

 これにて両者の会談は終わる。

 共に次代を担う才覚を持っていたとしても、現状の華琳では皇甫嵩に遠く及ばない。

 先に世に出た皇甫嵩は既に天才として広大なこの大陸に名前が知られる漢随一の将軍だが、対する華琳はいまだに陳留郡に居を構える一豪族に過ぎない。

 両者の実力には大きな差があった。治世において平穏な人生を送っていれば決して超えることができないほどの開きが両者の間には存在した。

 この後、華琳が覇を以て大陸を制していくには必ず立ち塞がることになる大きな壁を前に、態度だけなら華琳は一歩も臆することなく堂々と渡り合った。

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