例えば、いつものように日常を過ごしていて、あ、今日は何だかラッキーだぞ! と、ちょっとした嬉しさを感じることがある。
一般的な“幸福”と言うモノは
逆に、自分にとってあまりにも出来過ぎて事が運んでいると、逆に恐ろしさを感じて来る。
何か前兆のような……大きい幸運に比例して、大きい不運も襲って来るのではないか? という錯覚が思考をよぎる。
部屋に備え付けのバスルームから発生するシャワーの流れる音が鮮明に耳に入って来る。
「…………え、オレ……死ぬのかな?」
シガは、演奏ルームや宴会ルームに比べて一回り小さい、就寝を主に行っている自室からベランダに出て夜風にあたっていた。
「…………」
ものすごく、もやもやする。耳を塞いでもシャワーの音が聞こえて、ソレを浴びているマトイの姿が――
「うがぁぁ」
思わず頭をベランダに打ちつける。頭を冷やせ! 冷やせオレ!
節約の為に、買いこんでいた小麦粉を二人仲良く浴び、シガはマトイに風呂に入る様に勧めた。そのままでは気持ち悪いだろうし、汚したままメディカルセンターに送るのも悪いと思ったので、もらい湯を促したのだ。
“じゃあ……お湯、もらおうかな”
散らばった小麦粉を片付けて、宴会のルームの残りの片づけも終えて、雑念を消す為にベランダで夜風にあたっているのだが……
「……くそ……ダメだ」
健全な男子であると自覚し、それ相当の妄想しか出来ない。最低だ。最低だよ、オレ。情けないよ、オレ。だって、好意を感じている女の子が、自分の部屋でシャワーを浴びていたら、その手の期待をしちゃうじゃない?
それが普通だと思うんだよね。うん。オレ同性愛者じゃないし、女の子大好きだし。一緒に寝たいと思ってるし――
けど……
「……悲しむところは見たくない」
やっぱり、ソレが一番強い意志だ。彼女を悲しませるような事だけは絶対にしたくないのだ。
「左腕は外して置くか」
少しでもそう言った要因は減らしておこう。片腕なら少しは煩悩的な気持ちも紛れるだろう。
「……シガ――」
左手を
そこには代わりの着替えである、適当なシャツとズボンを着たマトイが居た。シガのサイズに合っているので、彼女には一回りほど大きく袖から手が出ていない。
「あ、ごめん。勝手に入っちゃって……」
「い、いや! 別に気にしてないから!」
と、腕を外した事で多少は軽減されるハズだった煩悩は……湯上り、たぼついた服、火照った顔を持つ彼女の雰囲気によって再び膨れ上がって行く。
「この部屋って……」
そんなシガの葛藤を知らずにマトイは扉近くの本棚を見上げていた。
そこには、ナベリウスやリリーパなどの環境情報をまとめた情報誌、オラクルの歴史やアークスの情報などが実本で治められている。
「……こういう雑誌って、普通は記録媒体だと思っていた」
メディカルセンターでは、雑誌の閲覧は全て端末によって行われる。その方が場所も取らず、物資の搬入の手間も省けるからだ。ちなみに、メディカルセンターだけでは無くオラクル全体で、この手の雑誌は殆ど無くなりつつあるのだ。本棚に至ってはインテリアになりつつある。
「普通はそうだよ。その方が場所もかさばらないし、端末一つあれば事足りるからね」
しかし、シガは左腕の訓練の為にこう言った実在の雑誌を手に入れて日常的に使用しているのだ。
オーラル曰く、左腕は機械的な電気信号で繋がっており、生身の腕のように筋肉や骨によって常に繋がっている訳ではない。その為、腕を動かす事を意識的に行い、左腕の動作に相違性が出ないように“ボディ・イメージ”を身につける様に言われているのだ。
「左腕の為?」
「最初はそうだったけど、今は少し違うかな」
シガは右腕で『ナベリウスの総景』と書かれた本を取るとマトイに手渡す。マトイは手渡された本を開くと、惑星ナベリウスの景色を写真に収めたページが目に飛び込んで来た。
木々の生い茂る道。
子供と寄り添って歩いているフォンガルフル。
日陰に群れで昼寝をしているガロンゴ。
「――――」
画面を挟んだ端末での閲覧とは何かが違う。その理由は解らないが、こうして自分の手で持ちページをめくることが、その気持ちを呼び起こしているのかもしれない。
「どう? 意外とハマりそうでしょ」
「すごいね。なんだか……行ってみたいって気持ちになる」
「記録媒体だと、何故かそう思えないんだよな」
気持ちを共感してくれたマトイにシガは『リリーパの夜景』と書かれた同種の雑誌を取る。その時、髪の毛に残っていた小麦粉がポロっと落ちてきた。タオルで拭ったと思っていたが、やはり一度さっぱりする方が良いだろう。
「とっとと。オレも風呂に入りますか」
はい、とマトイに『リリーパの夜景』を手渡す。
「適当に見てていいよ。ちょっと風呂に入るから、その後でメディカルセンターに送って行くよ」
「うん。ありがとう」
マトイはシガを待つ間、いくつかの雑誌を見繕う。
『ナベリウスの総景』『リリーパの夜景』『アムドゥスキアの地形』。その他にもタイトルで興味を惹かれた雑誌を持ってベッドに腰を下ろした。
メディカルセンターでは、こう言った雑誌を開く機会はほとんどない。だから、少しだけ新鮮な体験だった。
「…………シガはこんな場所に出向いてるのかな」
写真の中では平和そのものの惑星の光景。けど、きっとこんな綺麗な光景ばかりではない。寧ろ、危険の方がずっと多いハズだ。
メディカルセンターで、怪我をして運ばれるアークスの人を多く見る。中には意識の無い人や、血まみれで目を向ける事が出来ない程の怪我を負った人も見たことがあった。
「…………」
置かれているシガの『
「…………」
マトイは雑誌から目を話して、どうしようもない感情から座っているベッドに横になる。
彼の匂い。ずっと、前から彼の事を知っている。記憶は無くても、感情は覚えていた。彼の傍に居るだけでいい。ソレだけでいいのに……彼は先に行ってしまう。
「……私は――」
眼に映るのは、いつも笑いかけてくれる彼の笑顔。そして、ゆっくりと瞳が閉じて行く。
耐えた……耐えたぞ!
シャワーを浴びながらシガは、魅力120%のマトイに手を出さないように理性を保つことが出来ていた。
危なかった。ヤバかった。両腕揃ってたらそのまま抱きしめてても、おかしくなかった。オレってこんなに辛抱強くない人間だったっけ……
「ある意味、最大の試練だ」
油断すればすぐ、本能に身を任せようと理性が引っ込み始める。シャワーをお湯から水にして頭を冷やす事にしよう。
「…………やれやれ」
いつもの調子で、左腕でノズルを手に取ろうとして今は
まだまだ、越えるべき存在もやるべき事もたくさんある。そして、彼女の命を狙う奴も――
「…………」
鏡に映った自分の顔。そこには奴につけられた右眼を縦に通る傷がある。オーラルさんは整形で消せると言ったが、残しておいてもらった。
奴の強さを、恐怖を忘れないように。そして倒すために……
“シガ……貴様は必ず殺す。彼女も、だ”
「させねぇよ」
凍土で奴に言われた言葉を思い出し、鏡に映った傷に向かって強い意志をぶつけた。
シャワーを止めて、浴室から出ると服を着て、タオルで頭を拭きながら自室へ向かう。その際に欠伸が出たので時間を確認すると、もう夜も深くなっていた。
「早く送って行くかな」
ふと、浴槽から出る際に脱いだ服を入れておく為の籠に目が行った。そこにはマトイの着ていた服――ミコトクラスタの端が見える。
「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………履いてる……よな?」
後に色々と決定的な誤解を受けそうなので、早く送り届けてあげよう。
「マトイー、帰ろうかー」
服を入れたバックを手渡そうと自室に入る。しかし彼女は、スースーと寝息を立てて眠っていた。今日は珍しく楽しそうにしていたので、それなりに疲れたのかもしれない。
「…………起こせないなぁ」
寝顔は初めて見るが、超絶可愛い。これを起こすのは罪だ! 罪なんだ! 罪なんだけど……
「……あっちの部屋で寝よう」
ただでさえ、魅力的なのに一緒の部屋に居てこれ以上自分を押さえられる自身が無い。理性が消し飛ぶ前に少し距離を取ろう。
「っと、その前に――」
彼女が風邪をひかないように毛布を掛けてあげた。風邪でも引いてしまったら本当に目も当てられない。
「……シガ……」
自分の名を呼ぶ寝言に思わず毛布を掛ける手が止まる。
毛布を首の下まで掛けて、もう一つの毛布を取ると部屋の電気を消した。そして、宴会ルームで壁に背を預けて照明を落とす。
「…………嘘ついちまったな」
本当はマトイを護るだけの力があればそれだけで良かった。
けど……それはまだ叶わない。オレでは彼女を【仮面】から護りきれないと自分でも理解している。
だから、今はこれでいい。ここにいれば、オーラルさんやフィリアさん――アークスの皆がマトイを護ってくれる。その中で、彼女が道を決めて歩んでくれれば、それがどんな道でも応援するつもりだ。そして何より――
「君の悲しむ顔は見たくない」
悲しませたくない。けど、彼女を護る為にアークスを続けて、その力に手を届かせなければならない。だからせめて、どんな形でも生きて帰って彼女を安心させるためにこう言うのだ。
ただいま――と。
とりあえず、宴会編は次で終わる予定。予定です。
次はオーラルに映ります。
次話タイトル『How to walk road あなたの意志とわたしの見ている世界』