――俺、村雨彩牙は記憶がない。
あの日、病院で目覚める以前の記憶がなかった。
幸い一般知識はあったけど、自分の名前以外は何も思い出せなかった。何処で暮らしていたのか、何をしていたのか、何故病院に担ぎ込まれるような怪我をしていたのか、何もわからなかった。
よくまあ落ち着ていられるものだと言われたけど、実際そんなことはなかった。
本当は、何者なのかもわからない自分に強い不安を抱いていた。そしてこれからも、後見人のいない状況でどうなってしまうのだろうとも思っていた。
だけどその時、俺が倒れていた道場――園田道場の先生と奥様が言ってくれた。
「家に来ないか?」
園田先生の家には同じ年頃の娘さんがいるという話を聞いていたから、本当にいいのかと思った。
だけど嬉しかった。こんな身元も知れない自分を受け入れてくれることが、素直に嬉しかったのだ。
それに本当のことを言うと、人の温もりに飢えていたのだと思う。自分が何者かもわからないまま、誰も自分を知る人がいないということが、どうしようもなく寂しくて、恐ろしくて、耐えられなかった。
だから申し訳なさを感じつつも先生の話を受け、園田家のお世話になることにした。
園田家の人々はとても良くしてくれた。
自分を剣の門下生にしてくださった先生の教えはとても厳しいものだったが、そこには強い人間になってほしいという愛情が感じられた。
奥様はとても優しい方で、どこの馬の骨ともわからない自分をとても良くしてくれた。
そして年が近い、園田家の一人娘――海未。
彼女はとても心の綺麗な人だった。他人にも自分にも正しくあろうとし、だけど決して優しさを忘れない――大和撫子を体現したような人で、とても可憐だった。初めて会った時、思わず見とれてしまったのは秘密だ。
最初の頃はとても警戒されていたが、剣を習うようになってからは徐々に鳴りを潜め、早朝と晩に一緒に稽古をするようになり、普通にとりとめのない会話もするようになった。
そんな会話を交わしていく中で、ありのままの彼女の姿により一層惹かれるようになった。
園田家の人々、そして高坂さんや南さんをはじめとした周りの人たちは本当によくしてくれた。だからいつかしっかりと恩返しをしたいと思うようになった。
そう思いながら生活していた、ある日の夜だった――
「……今のは?」
自室の壁に架けていた、倒れていた自分が着ていたというボロボロの白いコート。
なんとなしにそれに触れた瞬間、ふとどこからともなく不穏な気配を感じた。その気配は段々と強くなり、気付いた時にはそのコートを纏い、これまた倒れてた自分が持っていたという“髑髏を模した石の指輪”を指に嵌めて家を飛び出していた。
気配を辿って走っていくと、さっきまではただ不穏だったその気配は次第に邪悪なものだと感じるようになり、何故かはわからないが急がなければと強く思うようになった。
気配の元はそれほど離れていなかったため、思ったよりはすぐに着いた。
気配の元には、凄惨な光景が広がっていた。
「いやあぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
血に染まった女の人が腰を抜かし、怯えるように震える身体を引きずって後ずさっていた。
女の人の前には、見るも醜悪な怪物が立っていた。怪物の足元には男物と思われる千切れた服と、ピンク色の物体、そして血だまりが広がっていた。
そんな非現実的で余りにも凄惨すぎる光景を見ても、自分の心に恐怖は浮かんでこなかった。
代わりに浮かんできたのは悲しみ、怒り、そして――怪物に対する“憎悪”だった。
そして自然な動きでコートの内側から一振りの“剣”を取り出し、怪物に向かって駆け出していた。
「うおおおおおお!!」
気づいた時には全てが終っていた。
女の人は逃げていた。怪物は見るも無残な姿で自分の足下に転がり、やがて霧散するように消えていった。
そんな自分の姿は、普通の人間ではなかった。狼を模った、黄金の鎧を身に纏っていた。
還れ。無意識のうちにそう念じた瞬間、鎧は分解して宙に消えていった。
あの怪物は何なのか、自分のこの鎧の姿は何なのか、わからないことだらけだと言うのに不思議と自分の心は落ち着いていた。
――いや、違う。自分は知っている、そうだ、思い出した。
あの怪物は“ホラー”。人に憑依し、人を食らう魔獣。
そしてあの鎧は“ガロ”。ホラーを倒せる、ただ一つの牙。
思い出したのはこれだけだった。なぜそんなものを自分が持っているのか、なぜ自分が戦うのかわからなかった。
だが戦わなければと思った。ホラーを狩るのは、自分の宿命なのだと。
そして――こうも思った。
――ホラーが憎くて仕方ない。
ホラーに食い散らかされ、助けられなかった男性の残骸を見つめ、強くそう思った。
そしてそれ以来、夜にホラーの気配を察知しては家を抜け出し、ホラーを斬っていった。
そんな日が続いたある日、奥様に頼まれたお使いで遅くなった帰り、またもホラーの気配を感じた。気配を感じた先にはホラーになったと思しき男。
そしてそのホラーに襲われている、高坂さん、南さん、そして海未の姿があった――
**
「――おはようございます」
「あ……」
「おはよう、海未ちゃん」
――朝、音ノ木坂への通学路
海未と穂乃果、そしてことりの幼馴染3人の姿があった。
「いやー、今日もいい天気だねぇ。 こんなにいいと、なんかいいことがありそう!」
「そういえばお母さんが言ってたよ、廃校確定は延期になったって!」
「本当ですか!?」
「ぃやったー! これであとはもっと有名になって、入学希望者が増えれば!」
「ええ、廃校からは完全に免れます!」
廃校確定という危機を脱し、喜びに包まれる3人。それからもとりとめのない話をしながら学校へと足を進めていく。
いつもの時間、いつもの通学路、いつもの3人。いつもと何も変わらない日々。
だが何故だろうか。3人には目に映る世界が昨日までとは別物のように感じた。
ふと、穂乃果の視界にあるものが入り込んだ。
「あ……海未ちゃん、その絆創膏……」
「ああ、大丈夫です。ただの擦り傷ですよ」
「それって、やっぱり昨日の……」
そこまで言いかけて、ことりは思わず口を噤んだ。
それまで楽しげな表情をしていた海未と穂乃果の表情にも影が差す。
3人の脳裏に浮かぶのは昨夜の出来事――怪物に襲われたこと、その怪物を倒した黄金の騎士のこと、その騎士の正体――彩牙のこと。
「……夢じゃなかったんだね、あれ」
「……」
夢であればいいと思っていた。
あんな恐ろしい体験、あんな怪物がこの世に潜んでいるという事実、それらがすべてただの夢であればどれだけ幸せだっただろうか。
だが現実はそうならない。昨夜の出来事は全て何も嘘偽りない、現実に起きた出来事だった。
3人の脳裏に、昨夜の出来事が再び浮かび上がる。
**
――昨夜
「すっかり暗くなっちゃったな」
「……そうですね」
「高坂さん。南さんは?」
「うん、とりあえずは歩けるみたい」
陽も沈み、街路灯の灯りだけが暗闇を照らす住宅街。
その中を彩牙が先導する形で海未、穂乃果、ことりの3人が歩いていた。彩牙はいつもと変わらぬ表情と声色だったが、海未たちはそうはいかなかった。
殺されかけたのだ、何もわからない、醜悪な怪物に。彼女たちの中で、今までの人生で最も恐ろしい出来事となったのは間違いないだろう。
海未はちらりとことりを見る。
3人の中で一番状態が悪かったのはことりだった。愛らしさに満ちた顔は恐怖で青ざめ、体は未だ小刻みに震えている。
穂乃果に支えられることで、辛うじて歩けている状態だ。
ひどい有様だ。海未はそう思った。こんな状態を引き起こしたあの怪物は一体何だったのか。
そういえば、彩牙はあの怪物を“ホラー”と呼んでいた。
ホラー――“恐怖”。なんともおあつらえ向きな名前だと海未は思った。
現にその恐怖によって自分たち――特にことりの精神はここまで追い詰められたのだから。
では彩牙は?そのホラーと戦い、倒した彩牙は一体何者なのか?あの黄金の騎士は?なぜ自分の夢に出てくるものと瓜二つなのか?
考えれば考えるほど、疑問が泉のように湧いて出てくる。その答えを知っているかもしれない人物は、今目の前にいる。
そう思い、海未が口を開こうとした時だった。
「南さん、ちょっといいかい?」
彩牙がことりの手を取っていた。対することりはよほど精神的に参っていたのか、男性に手を握られたというのにほとんど無反応だった。
そんなことりの手を両手で優しく包むと、彩牙は微かに力を込めた。
「……わ! 光ってる?」
小鳥の手を握る彩牙の手が微かに光り始め、その光はことりの手、腕を通じ、全身へと及んだ。
全身を包んだ光がゆっくりと収まると、露になったことりの顔色は先程までの青ざめていたものとは正反対の、赤みを帯びた健康的なものになっていた。
そしてゆっくりと目を開けると、きょろきょろと辺りを見回し、しっかりとした足つきで立っていた。
「……あれ? 私なんで……」
「ことりちゃん、大丈夫なの!?」
「う、うん。今のって……」
「自分の気を分け与えて他者の気力を蘇らせる術さ。ついさっき思い出したやつだけど、上手くいってよかった」
――やはり、彼は何か知っている。
この状況について、自分たちが巻き込まれたものについて。
「彩牙くん、あなたは何者なんですか?」
「……」
「あなたはあの怪物を“ホラー”と呼んでいましたよね、何が起こっているのか知ってるんでしょう!?」
「そしてそのホラーと戦ったあなたは、あの黄金の騎士は一体何なんですか!?」
「海未ちゃん落ち着いて!」
鬼気迫る表情の海未を引き留める穂乃果。
海未はいつの間にか彩牙に掴みかかっていたことに気が付いた。熱くなりすぎてしまっていた。
彩牙は乱れた胸元を軽く整えると、静かに口を開いた。
「……そう、奴らはホラー。魔界から現れ、人に憑依し、人を食らう魔獣だ」
「ま、魔界? それって漫画とかに出てくる、あの魔界?」
「ああ、ホラーは陰我の満ちたオブジェをゲートとして、魔界から現れる」
「陰我……?」
「妬み、恨み、悲しみ、憎しみ……そういった人間の負の感情が凝り固まった邪心のことだ。ホラーはそういった陰我をもった人間の心の隙をついて憑依するんだ」
「さっきのホラーもシザーを多用していたから、きっとシザーがゲートになったんだろう。元は美容師か何かだったのかもな」
なるほど、と海未は思った。
確かにあのホラーはよく見ると美容師を彷彿とさせるような意匠をしていた。それにあのホラーが言ったことが本当なら、憑依された男は恐らく最近世間を騒がしていた連続殺人犯だろう。
それならばホラーに憑依されるのも納得がいった。殺人鬼などホラーからしてみれば格好の餌なのだろう。
「そして俺が纏ったあの鎧は“ガロ”。ホラーを倒せる唯一の力だ」
「ガロ……?」
「……」
「あ、あの……それで?」
急に黙りこんだ彩牙におずおずと尋ねることり。
じいっと見つめる3人を前に、ばつが悪そうにぽりぽりと頭をかいていた。
「……ごめん、思い出せないんだ。何故俺がガロの鎧を持っていたのか、わからないんだ」
3人は忘れていた。彩牙は記憶喪失だったのだ。
思い出したのはそれだけで、他のことは何も思い出せなかったのだ。
誤魔化している――と一瞬思ったが、彩牙の表情は嘘をついている人間のそれではなかった。
そして海未は、新たな疑問を浮かべていた。
「……わからないのに、なぜ戦うのですか?」
「海未ちゃん……?」
「理由もわからないのに、どうしてあんな恐ろしい怪物と戦えるのですか?」
「ひょっとしたらその鎧の持ち主が別にいて、ホラーと戦うべきなのはその人ではないのですか?」
「あなたが戦わなければいけない理由が……どこにあるのですか?」
「……海未」
結局、困ったような笑みを浮かべたまま、彩牙がその質問に答えることはなかった。
そして今日のことは忘れた方がいいと告げ、彩牙は穂乃果とことりを送り届け、海未と一緒に帰っていった。
互いに気まずい空気を漂わせ、一言も言葉を交わすことがないまま。
**
――時は戻り、今
「……彩牙くん、どうして戦うのかな」
「わかりません、あの後も何も話せませんでした」
「ひょっとして、自分でもわからないのかな……」
穂乃果は、彩牙のことを放っておいてはいけないような気がした。自分たちを助けてくれて、ただ一人ホラーと戦う彩牙のことを忘れ、何事もなかったかのように過ごしてしまってはいけないように思った。
ことりは、彩牙のことがわからなかった。戦う理由がわからないのに、なぜ命を懸けてホラーと戦おうとするのか、なぜそこまでできるのか理解できなかった。
そして海未は、そんな彩牙のことが悲しいと思った。何故戦うのかわからないまま戦う力を手にし、ただ一人誰にも知られることなく戦おうとするその姿勢が。
傍から見れば、人知れず怪物から人々を守る、とても気高い行為のように見えるだろう。
――だが海未にはそれがとても、とても悲しいものに感じた。
「……私たちもできること、何かあるんじゃないかな」
「穂乃果ちゃん?」
「あんなおっかない化け物と戦ってる彩牙くんをさ、一人にしちゃいけないと思うんだ」
「しかし、私たちにできることなど……」
穂乃果の言うことは正しいことだとは、海未も思った。
しかし自分たちは一介の女子高生だ。ホラーと戦うことはおろか、ホラーを前にするだけで恐怖で足が竦んでしまう自分たちに、一体何ができるというのか。
「忘れないでいること、支えてあげることはできるよ! 彩牙くんはみんなを助けるヒーローなんだから、その分私たちが支えてあげなきゃ!」
「穂乃果……」
穂乃果には敵わない、海未はそう思った。
こうして自分の気持ちを素直に表すことができるのは彼女の美点だと思った。
怯え、尻込みしてしまう自分とは大違いだと。
「……そうですね、私もそう思います」
「だよね!」
「でも、そういうことは自分のことをしっかりできてから言いましょうね。今日の課題、ちゃんとやってきたのですか?」
「あ」
辺りに響く情けなさを多分に含んだ穂乃果の悲鳴と、呆れたような海未のため息。
そんな二人を眺めることりの表情には、影が差していた。
「……」
言いたいことはあれど、言い出せないような気弱さを秘めて。
**
「――ハアーーーッ! タアーーーーッ!!」
海未たちが学校に通っているのと同じころ、彩牙は園田家の道場で一人素振りをしていた。
己の中の雑念を取り払うかのように、見つからない答えを見つけようとするかのように。
ただ我武者羅に、竹刀を振り続けていた。
――なぜ戦うのか。俺は何故ホラーと戦うんだ?――
昨夜、海未になぜ戦うのかと問われた時、彩牙は答えることができなかった。
戦わなければと思ったのは事実だ。だが何故そう思ったのか自分でもわからなかった。
ホラーが憎い、確かにそう思ったのは間違いない。だが何故そこまで憎いのだろうか。人を食うことが許せないのは勿論だが、それだけではないような気がする。
それに憎いから戦う、ただそれだけなのだろうか。何か、もっと大切な何かを忘れているような気がした。
何故、何故、何故――
いくら考えても、浮かんでくるのは「何故」という疑問ばかりだった。
自分という人間がわからない。自分のことなのにわからないことが多すぎる。
気づけば竹刀を握る手も強く、剣筋も粗くなっていた。
「――剣に迷いがあるな」
「! 先生……」
彩牙の剣をそう指摘したのは、同じく道着に身を包んだ寡黙な壮年男性だった。
彼こそがこの道場の主で、彩牙が先生と呼び慕う――海未の父だった。
彼は防具を取り出すと彩牙に渡し、その正面に立つと竹刀を構えた。
相手をしろ、ということか。そう汲み取った彩牙は防具を着け、竹刀を構えた。
しかし一つ疑問がわいた。海未の父は防具を着けていなかった。普段ならばしっかりと着けていたのに、だ。
「先生は防具を着けないのですか?」
「今のお前相手に必要ない」
ばっさりと切り捨てられ、彩牙は自分の頭に血が昇るような感覚を覚えた。
自分はそこまで弱く、頼りのない男なのかと。次の瞬間には竹刀を振り上げ、一気に駆け出していった。
彩牙の竹刀は海未の父の頭を捉えていた。一本もらったと思った、次の瞬間だった。
「――ハアッ!」
「っ……!?」
彩牙の竹刀は外れ、その代わり海未の父の竹刀は的確に彩牙の面に一本とっていた。
彩牙の剣は掠りさえもしなかった。
何故と思うより先に、悔しさと反骨心が湧き出てきた。
「っ、もう一本お願いします!」
「いいだろう」
それから何本も試合をしたが、結局彩牙は海未の父から一本もとることができなかった。
それどころか回数を重ねるたびに彩牙の剣は精細さを欠き、雑になっていき、完膚無きにまで打ちのめされた。
そうして終いには力尽きたかのように道場の床に倒れこむ彩牙の姿があった。
「何故一本もとれなかったか、わかるか?」
「……俺が実力不足だから、ですよね」
むしろそれ以外何があるのか、そう思った。
だがそうではないと言うかのように、海未の父は静かに首を横に振った。
「そうではない、むしろお前の実力は私以上だ」
「そんなこと! 現に俺はこうして先生から一本も……!」
「お前が一本も取れなかったのは、お前の剣が目的を見失っているからだ」
「……俺の、剣が……?」
「剣は振るう者の心を映す鏡。剣を見ればその者の心のあり様がわかる」
それには聞き覚えがあった。海未の父がいつも言っていた言葉だ。
剣には人の心のあり様が嘘偽りなく現れる。信念の通った剣は何物をも貫く強き剣となり、迷いのある剣は何一つ斬ることのできない弱き剣になると。
「お前の剣には迷いがある、剣を振るう目的をお前が見失っているのだ。今のお前の剣ではいくらやっても私から一本取ることはできぬ」
「ならば……俺はどうすればいいのですか、目的がなくとも俺は剣を握らねばならないのです!」
「俺は何を目的に剣を握ればよいのですか!」
気づけば語気も荒く、師に対するものではない態度で叫んでいた。
自分のことがわからないというのに、戦う理由、目的、それらをどうやって見つければよいのか。
迷っている間にもホラーは現れ、自分はそれと戦う。ホラーは自分が戦う理由を見つけるのを待ってはくれない。ならば迷いがあろうと戦わなければならない。そんな思いが彩牙の中に渦巻いていた。
だから海未の父がホラーのことを知らなくても、そう叫ばずにはいられなかった。
そして対する海未の父は顔色を何一つ変えぬまま、静かに口を開いた。
「それはお前が見つけることだ、理由とは他人から与えられるものではない」
「っ……!」
突き放されたような、そんな感覚を彩牙は覚えた。
「だがあえて言うなら……迷う時は自らの剣に問え」
後は自分で考えろ、そう言い残して海未の父は道場を後にした。
迷いがある自分の剣に、何を問えばよいのか。何一つわからない自分に、本当にそんなものがあるのか。
誰もいなくなった道場で一人、彩牙は自問自答を繰り返した。
「……“彼”のように強くなれ、彩牙」
そんな彼を見つめる呟きは、誰の耳にも入ることはなかった。
**
「……おいおい、ホントにあの噂信じてんのかよ」
「いいから行ってみようぜ、もし本当だったらすっげえお得じゃん」
――夜、暗闇に包まれた街
人気の全くない、住宅地からも離れた一角に二人の男の姿があった。どちらも若く、その表情には暗闇に怯える面と、それ以上に隠しきれない快楽に期待する面が混在していた。
男たちがこの場に来たのはある噂を聞き付けたからだ。
夜な夜な、人気のないこの場所に美しい女が現れては男を誘い、どんな相手でも分け隔てなく股を開くという。なんとも性欲旺盛な男にとって都合のいい願望が形になったような噂だった。
この男たちも半信半疑ではあるがその噂を嗅ぎ付け、仮に本当だったら自分たちもそのおこぼれにあやかろうとする、悪い意味で若さに溢れた男たちだった。
「それにしても、こんな倉庫ばっかのとこにヤラセてくれる女が本当にいんのかねえ……」
「……お、おい。見てみろよ」
男の一人が指を差した方向には、ポツンと立った街灯に照らされた一人の女性がいた。
整った顔立ちに、すらっとした脚。豊満な胸にくびれた腰、そして大きく出たヒップ。そんな男を魅了してやまない身体を包むのは、ほとんど布一枚と変わらないようなドレスといった、妖艶な美女だった。
女は男たちの元に歩み寄ると、そのうちの一人に胸を押し付けるかのように抱き着いた。
「へ、へへ……本当にいたんだ」
「ねえ、お兄さんたち……暇ならちょっと気持ちイイことしていかない?」
胸を押し付けながら、シュルシュルと女の纏っていたドレスが落ちていく。
やがて女の生まれたままの姿が露になり、縛り付けるものが無くなった白い乳房が男との間で潰れるように変形する。
それを見た男は悦に満ちた表情をし、目の前のご馳走に思わず舌なめずりをした。
「いいぜ……後から金よこせなんて言うなよ?」
「そんなものいらないわ……私が欲しいのは一つだけだから」
言い終わるや否や、女は抱き着いていた男の口に深い口づけをした。
舌と舌が絡み合う深いキスをしたまま男が女の肢体を弄ろうとした
その瞬間だった。
「……!? ~~!~~~~!!」
口を塞がれたまま、言葉にならない悲鳴を上げる男。
何かが、何かが自分の口から吸い取られていく。そんな感覚を覚え、女を引き剥がそうとするが吸盤で張り付いたかのようにびくともしない。
そう、男はキスをしている口から吸い取られ、女に食われていた。
自分の血、体液、内臓、肉、骨――命を、魂を食われていたのだ。
やがてチュルンという音と共に男の全ては食い尽くされ、後に残ったのは男だった皮だけだった。
「ごちそうさま♡」
「あ、あ、うわあぁぁぁぁぁぁぁ!!」
その一部始終を見ていたもう一人の男は悲鳴を上げながら一目散に逃げだした。
女から逃げ出そうと、来た道はどこだったかなど考えずにただひたすらに走った。
そうして曲がり角を曲がった直後
仲間を食ったあの女が立っていた。
「たっ、助け」
命乞いの言葉を言い切る暇もなく、男の口は女のキスによって塞がれた。
そして仲間の男と同じように、自分の全てが吸い尽くされ、食われる感覚を覚えながら彼の意識は闇へと落ちていった。
「……ふう、ごちそうさま。性に満ちた若い男ってホント美味しいわぁ」
食事を終えた女は口の周りを拭き取ると、今しがた食った二人の男の皮を手に取ると宙に浮かせてこねこねと混ぜ合わせ、一枚の布へと変化させた。
そしてそれを先程脱ぎ捨てたドレスと同じように、その身に纏った。
そこまでした直後、満腹で幸せそうだった表情は訝しげなものに変化していった。
「……でも、なんだか飽きてきちゃった。たまには別の人間でも食べようかしら」
「そう、例えば若い女の子とか……」
「うおおおおおおっ!」
そこまで言いかけた時、一つの影が躍り出て女に斬りかかった。
女はドレスを硬質化させてそれを防ぎ、大きく飛びのいて距離を取った。そして雲に隠れていた月が顔を覗かせ、その影の姿を露にした。
影の正体は彩牙だった。
「なあに、魔戒騎士? 嫌ね、丸腰のレディに斬りかかるなんて恥ずかしくないの?」
「ホラーが何を言う!」
彩牙は女――ホラーとの距離を詰め、赤い柄の剣――魔戒剣を振り下ろす。
女ホラーは先程と同じようにドレスを硬質化させ、魔戒剣を打ち弾く。そこから一閃、また一閃と魔戒剣とドレスの打ち合いが続いていく。
やがて打ち合う間隔が短くなっていくと、遂には火花を散らす鍔迫り合いの形になった。
「荒っぽい男ねぇ。そんな魂のこもってない剣じゃちっとも感じないわ」
「ふ ざ け る なぁ!!」
湧き上がる怒りに身を任せ、魔戒剣を押し込める力を更に強くする彩牙。
しかし女ホラーはドレスを僅かにずらすことで魔戒剣を受け流し、力の行き場を失った彩牙は前のめりになり、その背中めがけて蹴りを叩きこむと女ホラーは倉庫の屋根の上に飛び乗った。
「私はもっと多くの人間を食べたいの。あなたみたいな女のリードもできない弱い魔戒騎士の相手なんてやってられないわ」
「待て!!」
すぐに追おうとしたが、女ホラーは見下すような高笑いを残して夜の闇に消えてしまった。周囲から気配も消えてしまった。
逃げられてしまった。折角追いつめたというのに、いいように踊らされるだけで全く斬ることができなかった。ホラーにみすみす人間を食わせてしまい、また食わせるチャンスを与えてしまった。
何故なのか。自分に力が足りないからなのか、自分に迷いがあるからなのか。迷いがあっては、自分はホラー一体すら斬ることができないのか。
自分は――何故ホラーと戦おうとするのか?
そうして彩牙は逃げたホラーを探しながら自問自答を繰り返した。
しかし結局答えはおろか、ホラーを見つけることもできずに夜明けを迎え、そのまま帰路に就いた。
足取りが重いまま園田家の前まで辿り着くと、そこには道着を着た海未が立っており、心配そうに彩牙を見つめていた。
「彩牙くん、こんな時間まで何を……?」
「……」
彩牙は答えない。
答えるだけの気力が出てこなかった。
「……もしかして、またホラーなのですか? どうしてそこまで……」
「……ごめん、海未。ちょっと一人にしてくれ」
「奴を倒さないと……今度こそ、絶対に逃がさないように……」
「彩牙くん……」
その日。
彩牙は初めて、早朝の稽古に顔を出さなかった。
**
「じゃあ穂乃果先輩、また明日ニャー!」
「うん! 花陽ちゃんも凛ちゃんもまたねー!」
学校の帰り道。
穂乃果は後輩の凛と花陽に別れを告げ、帰路についていた。
普段だったらそこに海未とことりの姿もあるのたが、海未は弓道部の方の用事があり、ことりもなにやら用事があるらしく、結果的に幼馴染組では穂乃果一人になっていた。
とはいっても途中までは凛と花陽が一緒だったため寂しくはなかった。ただ何と言うのか、いつもの3人ではなかったことが穂乃果にとって“ずれ”があった。
たまにはこういう時もあるよね。と気を取り直しながら歩いていると、見覚えのある背中が見えた。
腕に抱えたあのボロボロの白いコートは間違いない。穂乃果の知る限り、夏真っ盛りのこの時期にあんなものを持って出かけている人間など一人しかいない。
「彩牙くん?」
「あ、高坂さんか……」
彩牙だ。
だがその表情は先日助けられた時に比べると、随分とやつれているように見えた。平静を保とうとしているが、どうにも隠しきれていないようだった。
「ねえ、大丈夫? 顔色悪いよ?」
「いや、大丈夫だよ。心配される程じゃない」
嘘だ、明らかに無理をしてる。彩牙の言葉に穂乃果はそう思った。
そして、昨日の朝言った自分の言葉が思い出される。
――支えてあげることはできる。一人にしちゃいけない。
「ほら、暗くなる前に早く――!?」
そうと決めたら善は急げ――!
穂乃果は彩牙の手を取り、駆け出していた。
「こ、高坂さん!?」
「大丈夫大丈夫! まだ時間あるし、美味しいもの食べていこ! 海未ちゃんもことりちゃんもいないから一人だと退屈だし!」
*
「あーんっ。美味しー! ね、ここのクレープ美味しいでしょ! お気に入りなんだ♪」
穂乃果に連れられてやってきた場所は、秋葉原の一角にあるクレープ屋だった。人通りの多い大通りから外れた小さな通りに小ぢんまりと構えていたその店は知る人ぞ知る穴場のような雰囲気を持っていた。
美味しそうにクレープを頬張る穂乃果につられるように、彩牙も手にしていたクレープにかじりついた。
――美味しい。それが率直に出た感想だった。
上手く言い表せないが、優しい味がした。見れば、クレープ屋の店主は朗らかな笑顔を浮かべる壮年の女性だった。きっと彼女の美味しく食べてもらいたいという想いがこめられているからなのかもしれない。
そういえば甘いものを食べるのはいつごろぶりだっただろうか。自然と表情が綻んでいた。
「あ、やっと笑った! よかった、さっきからずーっと元気ない顔してたし、海未ちゃんも凄い心配してたもん」
「海未が?」
「そうだよ、今日だって朝方まで帰ってこなかったって。そんな時間まで何してたの?」
「……」
「……ひょっとして、あのホラー……っていうのと?」
「……ああ」
やはり彼女も何故戦うのかと聞いてくるのだろうか、そして自分はそれに答えられないのだろうか。
そう思っていると、穂乃果は太陽のような笑顔で言った。
「おつかれさま! でも海未ちゃんに心配かけさせちゃだめだよ?」
「……え?」
「それにちゃんと休まないと体が持たないよ。 私もよく休むんだけど、海未ちゃんには『穂乃果はだらけすぎですっ!』ってよく怒られちゃうんだ~えへへ」
穂乃果は何も聞いてこなかった。
戦う理由も何一つ。ただその笑顔には彩牙を労う想いだけが溢れていた。
「……聞かないのか? 何故俺が戦うのか」
「え? だって彩牙くんが戦うのは――
――みんなを守るためでしょ?」
「……!」
守る。
その言葉を聞いて、彩牙の頭の中に一筋の光が差し込んだ。
そう、まるで失くしていたパズルのピースを見つけたような――
「……高坂さん、一つ聞いていいかな?」
「なに?」
「高坂さんや海未たちのやってる……スクールアイドル、だったっけ? なんで始めようと思ったんだ?」
「それはもちろん! 学校を守るためだよ!」
また一つ、光りが差し込んだ。
「私たちの学校が廃校になっちゃうかもってのは聞いたよね? スクールアイドルで有名になって入学希望者が増えれば学校が守れる! そう思ったからなんだ」
「……どうして、そこまでして守ろうとするんだ?」
「それはね……
……学校が、音ノ木坂が大好きだから!」
差し込む光が一つ、また一つと増えていく。
「そういえば私たちと彩牙くんってなんだか似てるね。私たちは学校を守るためにアイドルをやってて、彩牙くんはみんなを守るためにホラーと戦う」
「彩牙くんも、守りたい人がいるから戦うんでしょ?」
光が溢れだし、闇を照らしだした。
溢れだす光の中で見えたのは、ガロの鎧を持つ真の意味。
そしてすらっとした長い髪を揺らす、凜とした少女――
「そうか……そうだったのか」
光の中ではっきりと見えた。
何故戦うのか、自分がホラーと戦う理由が。
「ありがとう高坂さん! おかげではっきりわかったよ!」
「えっ? 私、何かした?」
きょとん、と首をかしげる穂乃果。彼女は彩牙にしてくれたことをわかっていないようだった。
だけどそれでいいのかもしれない。普段から彼女への説教や愚痴を漏らす海未が、何だかんだで穂乃果と一緒に居続ける。
その理由が、彩牙はわかったような気がした。
素早くクレープを食べ終えると、彩牙は持っていた白いコートを羽織りだした。
「さあ、今日はもう帰って。 もうすぐ夜が訪れる」
「ホントだ……彩牙くんは、今日もホラーを……?」
「ああ。だから早く――」
「あ、またここのクレープ食べようね! 今度は海未ちゃんたちも一緒に!」
「……気を付けてね!」
「……ああ!」
穂乃果の声援を背に、彩牙は駆け出す。
奴は――あのホラーは、きっと“彼女”を狙う。何故かはわからないが、そうだという確信があった。
だから急ごう、彼女の下へ。彩牙は力強い足取りで駆け出していった。
陽が沈み、夜が訪れる。
人の時間から、ホラーの時間へと。
**
暗闇が世界を包む夜。
その夜よりも更に暗い闇の中、一匹の獣が光を見つめていた。
獣が見つめるはイルミネーションや街灯に照らされた喧噪の中を行きかう人々。
男――あれは食べ飽きた。次。
女――顔は悪くないが肉付きがない。次。
あの女はあまり美味しくなさそう。次
そうして獲物を品定めしていると、一人の少女に釘付けになった。
あの女だ。顔もいい、肉付きもそこそこいい感じだ。
そして何よりも、美味そうな匂いがする。そう、あれは同胞の血の匂い。故郷の匂いだ。
あれよりも美味なご馳走があるだろうか――いや、あるわけがない。
獣は動く。
腰まではある長い髪を揺らして歩く少女を狙って――
*
「すっかり暗くなってしまいましたね……」
街灯で照らされた夜の街を、海未は一人歩いていた。
今日はμ’sとしてではなく、弓道部としての活動があった。久しぶりの弓道部での活動、思うこともあってついいつもより遅くまでやってしまい、気付けば夜になっていた。
穂乃果もことりもいない、一人での夜の道。言い知れぬ不安に思わず身体がぶるっと震え、同時に思い起こされるのは先日ホラーに襲われた記憶。
あの時は彩牙が助けてくれたが、もし今、またホラーに襲われたらどうなってしまうのだろうか。また彩牙が助けてくれるのだろうか。
――いけません。今の彩牙くんに戦わせては……
そこまで考えて、海未は思わず首を振った。
今の彩牙を戦わせてはいけない。戦えば、きっと二度と戻ってこれなくなるかもしれない。
今朝、明け方に帰ってきた彩牙の心は恐ろしく憔悴していた。外から見ても一目瞭然なほどに。
そうさせてしまったのは自分だ。自分の些細な言葉が、彩牙を思考の迷路に追いやり、追い詰めてしまった。
理由がわからないのに戦う。それは歪なもので、どうしようもなく悲しいと思う。だからといって無理に問い詰めるような真似をしていいのだろうか。潰れてしまうのではないだろうか。
まずは謝ろう。せめて彼の心が平穏を取り戻せるように……
「あらお嬢さん、こんな夜道に一人?」
「えっ? な、なっ……!?」
そう考えていた時、後ろから声をかけられた。振り返るとそこには妖艶な雰囲気を纏った、一人の女性が立っていた。
綺麗な人だ。と思うと同時に、破廉恥だとも思った。なにせ女性の姿は布のようなドレスを纏っただけの、ほとんど裸のようなものだった。
見ている自分までもが恥ずかしくなり、顔を赤くした海未は思わず目をそらした。
そんな海未を女性はじいっと見つめる。その瞳が一瞬妖しく光った。
「可愛いとは思ったけど……こうして近くで見ると本当に可愛いわね、私の好みだわ♡」
「なっ、何を言うのですか!? だいたいあなたは一体――」
「……本当、今すぐ食べちゃいたいくらい」
「……え?」
その時、女性の纏う雰囲気が変わった。
瞳が妖しく光り、周囲の空気がゆらゆらと揺れているように見える。自分を見つめるその目は可愛い女の子を見るようなものではなく、まるで獲物を狙う獣のようだった。
この感覚に、海未は覚えがあった。そう、つい先日感じたばかりの――
――まさか、ホラー!?
確証はない。だが海未の直感がそうだと告げていた。
逃げなければ。本能がそう警報を鳴らしていたが、足の震えが止まらない。走れない。動けない。まるで蛇に睨まれた蛙のように。
できたのは精々後ずさりするだけだった。しかしそれも壁際に追い込まれたことですぐに終わってしまった。
「ああ……まさかこんなご馳走にありつけるなんて夢にも思わなかったわ」
女性の口から涎が垂れる。人間のものとは思えない生臭い息が海未の顔に吹きかけられる。
もはやホラーであることを隠そうとする気は皆無だった。
目前に迫った“死”に、海未はただ震えることしかできなかった。
「いや……やめ、やめてください……!」
思わず漏れた助けを、ホラーは聞かない。
ホラーはただ目の前のご馳走を食べるため、その柔らかな唇に口づけを――
「――彼女を離せ」
――できなかった。
後ろから肩を掴まれ、振り返った瞬間。その顔面に強烈な拳が叩き込まれ、殴り飛ばされたからだ。
海未は女ホラーを殴り飛ばした人影を見て、目を見開いた。
そこにいたのは自分の言葉が原因で、思考の迷宮に囚われていた少年――
――村雨彩牙が、立っていた。
「さ、彩牙くん……!」
「早く行って」
彩牙はそれだけ言うと、立ち上がろうとする女ホラーと対峙した。
「で、でも貴方は……!」
戦えないのではないか。理由が見つけられないのではないか。
そう言おうとして、海未はその言葉を飲み込んだ。
彩牙の目を見たからだ。
今の彩牙の目は、答えが見つけられず、迷っている人間のそれではない。
――答えを見つけ、迷いを吹き飛ばした、強い人間の目だった。
「……俺なら大丈夫。さあ、早く行くんだ」
「……わ、わかりました! 信じてますから、帰ってきてくださいね!」
――ああ、そんな目をされては、信じるしかない。
彩牙の無事を祈り、そして信じて海未は駆け足でその場を離れた。
そうしてその場に残ったのは彩牙と、女ホラーのみとなった。
彩牙は魔戒剣を抜き、構える。
「昨日の貸しを返しに来たぞ」
「くっ……魔戒騎士め……!」
女ホラーはドレスを硬質化させ、しなやかに変形する鉄板のように振るう。
彩牙は迫りくるドレスを魔戒剣で弾き、女ホラーとの距離を詰める。
昨日であったら迫るドレスを全て力押しで斬り裂き、ただ我武者羅に、力任せで攻めていただろう。しかし今は体をずらしてドレスを避け、必要な時だけ剣で斬り、弾くという、緩急をつけた戦いをしていた。
昨日とはまるで違う戦い方、徐々に迫りくる彩牙に女ホラーは焦っていた。
そうして女ホラーとの目前にまで迫ると魔戒剣を振り下ろし、対する女ホラーは手元のドレスで受け止め、鍔迫り合いとなった。
「どうだ。 今度はちゃんとエスコートできてるだろう?」
「――っ! 舐めた口をぉぉぉ!!」
彩牙の挑発に乗り、ドレスに込める力を強くする女ホラー。
その瞬間、彩牙は剣の重心をずらし、込められた力を無にした。それにより、力の行き場は失った女ホラーは大きく前のめりとなった。
――まるで昨日の焼き直しのように。ただ一つ違う点は、互いの立場が逆であること。
その隙に彩牙は女ホラーの背中を取り、がら空きとなったそれを魔戒剣で大きく斬り裂いた。
斬り裂かれ、よろめく女ホラー。彩牙はその動向を窺うように、魔戒剣をじっと構える。
「く……なぜだ! 何故貴様は我らと戦おうとする!」
「……」
「元々我らを人界に呼び寄せたのは陰我、つまりは人間の心だ! そんな人間どもの尻拭いのために、何故貴様が戦う!」
――確かに、それは一理ある。
ホラーを呼び寄せるのは人間の欲望、業。自業自得とも言える。果たしてそんな人間の尻拭いのために戦う必要があるのか?
だが彩牙の目は、意志は、心は揺るがない。それらを踏まえても、彼には戦う理由があった。
「――決まっている」
目を閉じ、浮かび上がるのは記憶喪失だった自分を受け入れ、助けてくれた人々。
園田の先生、奥様、この街の人々。高坂さん、南さん、そして――海未。
その人たちが、ホラーに苦しめられる。襲われる。食われる。
それだけは見たくない。それだけは許せない。その光景を防ぐことができるのは、ガロの鎧を持つ自分だけ。
ならば――やることは一つだけ。
「守りたい人たちがいる。それだけだ!!」
そう、それだけでいい。戦う理由など、それだけでよかったのだ。
それだけで、自分はいくらでも戦うことができる――!
「うぅぅぅああぁぁぁぁぁ!!」
獣のような雄たけびと共に、女ホラーの姿が変わっていく。
ドレスが繭のように変化して女ホラーの体を包むと一拍胎動し、中から羽化するかのように新たな姿を露にした。
それは美しい翅を持つ蛾のようだった。しかし美しいのは翅だけで、その身体は肉が醜く崩れ落ちた女性のような姿をしていた。まるで醜い心を、美しい顔で誤魔化すかのように。
それが女に憑依したホラー――ドレイモスの真の姿だった。
そして彩牙もそれに応えるように魔戒剣で円を描き、ガロの鎧を召還する。
変化した魔戒剣――牙狼剣を構え、昂る気を鎮めるかのように静かに息を吐く。
一幕呼吸を置き、月が雲に隠れて辺りを闇が包む。
その瞬間、両者は飛び出した。
ドレイモスはドレス――布状に変化した肉の一部――を伸ばし、鞭のようにガロに叩きつける。
ガロはドレスを難なく斬り裂き、ドレイモス目がけて走る。一本、また一本とドレスが斬り裂かれる。ガロの足は止まらない。
伸ばしたドレスの内一本が牙狼剣を捉え、幾重にも巻き付いた。ガロの瞳が大きく見開かれる。ドレイモスは牙狼剣を捉えたドレスをぐいっと持ち上げ、ガロの身体を宙に放り出す。
『何!?』
ガロは宙に放り出されなかった。放り出されたのは牙狼剣のみだった。持ち上げられる寸前、ガロが自ら牙狼剣を手放したのだった。
ドレイモスの表情が驚愕に包まれる。
隙だらけとなったドレイモスに、ガロは一気に距離を詰める。ドレイモスの胴体ど真ん中に、ガロの拳が叩き込まれる。そのまま上空に向けて殴りぬいた。
ガロの繰り出したアッパーによって、ドレイモスは宙に殴り飛ばされた。その後を追うようにガロも跳び上がる。
殴り飛ばされた軌道上には、今しがた宙に放り出された牙狼剣が待ち構えていた。
殴り飛ばされた勢いと重力により、ドレイモスの片翅は牙狼剣によって引き裂かれた。同時に牙狼剣に巻き付いていたドレスも引き裂かれた。
そのまま落下する牙狼剣を、跳び上がっていたガロが再び手にする。
ドレイモスの下まで到達するとそのまま牙狼剣を振りぬき、ドレイモスの身体を一刀両断する。
真っ二つになったドレイモスが断末魔と共に、宙に溶けるように消えていく。
しっかりとした足取りで着地するガロ。同時に雲に隠れていた月が再び顔を覗かせた。
月光が、ガロのくすんだ金色を照らし――
一瞬、僅かに透き通った輝きを放った。
**
園田家の玄関前、そこで海未は立っていた。
制服から着替えないまま、心配そうな顔つきで門の入り口をじっと見つめていた。
「海未さん、そろそろ家に入られたらいかがですか?」
「すみませんお母様。もう少しだけ待たせてください」
「――彩牙くんが、まだ来てないのです」
母が家に入るように促したが、海未は入らなかった。
ただひたすらに、彩牙を待ち続けていた。
――彼は大丈夫だろうか。
また怪我をしたりしないか、心配はあった。けど不思議と、不安と思うことはなかった。
きっと、あの目を見てしまったからだ。迷いを振り切り、確固たる意志をもって戦いに臨むあの目を。
だから彼はきっと帰ってきてくれる。そんな確信に近い思いがあった。
だから待とう。彼が無事に帰ってきてくれることを信じて――
やがて、闇の中から一つの影が現れる。
闇の中から現れたそれは、街路灯の灯りに照らされてその姿を露にした。
海未はその姿を見た瞬間、その表情を笑顔で輝かせた。
「彩牙くん!」
「……ただいま、海未」
現れた影――彩牙に駆け寄る海未。
彩牙の姿は先程別れた時と同じ、五体満足の姿だった。
家に帰った彩牙と、それを待っていた海未。
今朝と同じ構図のその光景は、決定的な違いがあった。彩牙の目には迷いがなく、海未の表情は明るかったのだ。
そして彩牙の無事を確かめると同時に、海未は深く頭を下げた。
「どうしたんだ?」
「すいません、彩牙くん……私が余計なことを言ったせいであんなに憔悴させてしまって……」
迷いを振り切れたとはいえ、自分が彼を追い詰めてしまったのは事実だ。
だから謝ろう。許してくれないとしても。
それが海未の判断だった。
それに対し、彩牙は穏やかな表情で答えた。
「……いや、どのみちいつかはぶつかる問題だったんだ。むしろ海未が指摘してくれたお陰で吹っ切れたよ」
「ありがとう、海未」
彩牙の言葉に顔を上げる海未。
目には僅かながら涙が浮かんでいた……が、その表情には一点の曇りもなかった。
「彩牙くんは、これからも戦うのですか?」
「ああ、でももう大丈夫。俺にも戦う理由ができたから。――いや、そうじゃないな。最初からあったんだ、気付かなかっただけで」
「彩牙くん、その……」
「ん?」
「……いえ! 何でもありません」
――戦う理由を教えていただいてもいいですか?
そう尋ねようとして、海未は考え直し、聞くのをやめた。
今更聞くようなことでもない気がしたからだ。彼がしっかりと答えを見つけたのなら、その胸に秘めさせたままにした方がいいと思ったのだ。
それに案外、自分たちとあまり大差ないのかもしれない。
そう、自分たちがスクールアイドルを始めた理由と同じような――
「さあ、もう家に入りましょう。お母様もお父様もお待ちしてますよ」
「ああ」
そうして二人は並んで、園田家の玄関をくぐっていった。
「……黄金騎士、か……」
そんな二人を、闇の中から見つめる影が一つ。
「それにあの少女。そうか、彼女が……」
「……」
「……これは、一番都合のいい展開になったな」
**
――彩牙の部屋。
自室に入った彩牙は石の指輪を抜いて机の上に置き、白いコートを壁に架けた。
身体が軽くなり、ふぅと息を吐きく。
硬くなった筋肉をほぐそうと簡単なマッサージをしようとした瞬間――
『……なんだここは。随分と立派な部屋のようだが』
「っ! 誰だ!!」
――まさかホラーか?
そう思い、辺りを警戒する彩牙だが、それらしい気配は感じられなかった。
『おい小僧、何をしている。ここだここ』
また聞こえた。金属越しに喋っているような、くぐもった男性の声だ。
部屋中を見回すが、特に怪しい点はない。
――いや、一つだけあった。
今さっき、机の上に置いた指輪だ。
ついさっきまでは石だったそれは抜け殻のように石の殻を脱ぎ捨て、鈍い光を放つ銀色になっていた。
髑髏を模ったその銀の指輪は、目と口の部分をカチカチと動かしていた。
「……お前が、喋っているのか?」
『おいおい、なんだその反応は。まさか俺様のことを忘れちまったなんて言うんじゃないだろうな』
“指輪”は、意志を持っているかのように彩牙を小馬鹿にしたように話していた。
訝しげに見つめていると、やがて改まるように口を開いた。
『しょうがない奴だ。いいか、忘れたのならもう一度教えてやる』
『俺様の名はザルバ。魔導輪だ』
***
ザルバ「おい小僧、お前記憶喪失なんてどういうことだ? ホラーはお前の都合なんか考えちゃくれないぞ」
ザルバ「仕方ない。こうなったら俺様がもう一度一から教えてやるとするか」
ザルバ「次回、『魔戒』!」
ザルバ「これを読んでるお前さんもだ。決して聞き逃すなよ」
魔戒指南
・ ホラー・ドレイモス
妖艶な美女に憑依したホラー。人間に口づけして皮以外の“全て”を文字通り吸い込んで捕食し、残った皮をドレスにして身に纏う習性がある。
その正体は美しい翅を持ち、それに反して肉が醜く爛れた肥満体の女性のような体のホラー。ドレスのようになった自らの肉の一部を硬質化し、鞭のように振るって敵を攻撃する。