オヤジが生き返ったとか、過去から来たのかとかいろいろ言われてますが、そんなことは重要じゃない。
重要なのはオヤジが脱ぐのか脱がないのか、それだけです。
・・・・え?ファイナル?一般?
うっ、頭が
「お、お待たせしました……ご主人様……」
「……ああ」
カチャリと、彩牙の前に紅茶が差し出される。
その紅茶を差し出したメイド――南ことりはまずいものを見られたかのように、いつも以上におどおどとして居心地が悪そうにしていた。
対する彩牙もそんなことりの様子を肌で感じ取り、どこか気まずさを感じていた。
気を取り直そうと、出された紅茶を口に含む。深い味わいが口の中に広がり、気分が落ち着いてくる。
そんな時、思い詰めたような表情でことりが口を開いた。
「あの、彩牙くん! ここでバイトしてること、海未ちゃんたちには……」
「……言ってほしくないのか?」
彩牙の問いに、こくりと頷いた。
「ワケを聞いてもいいかな?」
「……笑わない?」
「笑うわけないだろ」
「ええっとね……バイト始めたのはμ’sを結成した頃なんだけど……」
それからことりは話した。
始めたきっかけは衣装が可愛かったこと、穂乃果や海未と比べて自分には何もないというコンプレックスがあったこと。
そして知られたくない理由は――まだ二人に……いや、μ’sの皆と横に並べられるという自信がないこと。そんな状態で知られてしまったらまた置いていかれそうな気がして怖かったからだというのだ。
それを聞いた彩牙は不思議に思った。
海未から聞いた話では、衣装を考え、作っているのは他でもないことり本人だという。詳しいことはわからないが、曲にあった衣装を考える発想力とそれを形にする腕は、十分誇ってもいいものではないのだろうか?
「……わかったよ、海未たちには秘密にしておく」
「あ、ありがとう……!」
とはいえ、ことり本人がそれで満足していないのなら自分がとやかく言うことではないのかもしれない。
ことり自身がこうしようと決めた道、それを邪魔するのは無粋なのではないか。
そう思い、これ以上追及するのをやめることにした。
「でも、南さんは何もない人なんかじゃない。気づいてないかもしれないけど、それだけは忘れないでほしい」
「そんなこと……」
「ある。きっとそのうちわかるさ」
だが、これだけは言っておきかった。
ことりが自分で決め、自分なりに自信をつけようとして始めたこと。だからこそ、このことを記憶に留めてほしかった。
何も持たない人間など、この世にはいない。いたとしても、それはただ気づいていないだけなのだと。
「――ミナリンスキーさーん! ちょっといいかしらー!?」
「あ、はーい! それじゃあ彩牙くん、ゆっくりしていってね」
ちょうどその時厨房から呼ばれ、そう告げるとことりはぱたぱたと駆け出して行った。
その背中を見ながら、はて、と彩牙の中に疑問が生まれた。
「……“ミナリンスキー”?」
『……ほう、なるほどな』
「知ってるのか?ザルバ」
『いや、知らん』
「オイ」
「ねえ南さん、あのカッコいい人誰?彼氏?」
「ぴいっ!? そ、そんなんじゃないです!」
「えー? それにしちゃあすごい真剣な雰囲気で話してたよね、別れ話?」
「違いますっ! ただの……その、お友達ですっ!」
一方、ホールから抜けたことりは厨房に入るや否や、先輩のメイドから質問攻めにされていた。先程の彩牙との会話がよっぽど男女のもつれ話か何かのように見えていたようだ。
実際に内容を聞いていればそんなことはないのだが、接客などで忙しく、耳を傾ける余裕はそうそうなかったようだ。
そしてことりは先輩たちの言葉を必死に否定する中で、彩牙の言葉を思い出していた。
――何も持たない人じゃない、気付いていないだけ――
……本当にそうなのだろうか。確か服飾には興味があって、可愛い衣装が好きで、よく作ったりする。ステージの衣装も考えて、μ’sの皆から感謝されたこともあった。
でもそれだけだ。穂乃果のように人を引っ張る力もない、海未のようにしっかりとした意志を持っているわけでもない。自分はただ、二人に置いていかれないようにしがみつくことしかできない。
そんな弱い自分を、変えたいと思った。
――私、やっぱり何もない、弱い人間だよ……穂乃果ちゃんや海未ちゃんがいなきゃ何もできない。
それに……彩牙くんのように、怖いことにだって立ち向かえない……
ことりは、自分という人間に自信が持てないでいた。
そんな彼女には穂乃果や海未、そして人知れず戦う彩牙の姿は眩しすぎたのかもしれない――
**
「海未、ミナリンスキーって知ってるか?」
「ミナリンスキー……ですか? ええと、どこかで聞いたような……」
その日の晩。いつものように海未と稽古していた合間、彩牙はそう尋ねた。
その問いに記憶を掘り起こそうと考え込み、やがて思い出せたのか得心を抱いたような表情で答えた。
「思い出しました、にこ先輩がサインを持っていました。なんでも秋葉原の伝説のメイドだどか……」
「伝説のメイド?」
「はい。なんでも数か月前に突然現れたらしく、聞いた話では完璧な接客対応、可愛らしい容姿に脳が蕩けるような甘い声。その上歌唱力もかなり高いとか……まあ、どこまで本当かわかりませんけど」
なるほど、と彩牙は思った。海未の語ったミナリンスキーは完全にことりと一致していた。
みんなに知られないように考えたのか、あるいは名付けられたのかはわからないが、なんともことりらしい愛称だと思った。
そして同時に、そこまで有名であるのにまだ自信を持ちきれないのだろうかと思った。
「しかしどうしてそんなことを?」
「ああ。今日秋葉原に出たら偶然耳にしてさ、何のことかなと思って」
「そうでしたか……」
ことりとの約束もあり、ことりがそのミナリンスキーであることは話さずに誤魔化した彩牙。海未は追及してこなかったが、その代わりというのか、彼女の表情には僅かに陰が差していた。
「どうしたんだ?」
「……ああ、いえ。ことりのことなのですが……」
海未の言葉に一瞬ドキリとした。
まさか上手く誤魔化しきれなかったのだろうか?ヒヤリとそう思っていると、彼女は続けて口を開いた。
そしてその危惧は杞憂であったと思い知った。
「最近、一緒にではなく練習も休んで一人で帰ることが多くて……勿論、ことりにだってプライバシーはありますし、何か用事があるのだってわかります。ですが……」
「心配、なのか?」
彩牙の問いかけに、こくりと頷いた。
「最近のことりには何というか……少し壁を作られているような感じがして……。何か思い詰めているんじゃないかと心配で……」
「……そうか」
海未の言葉は的を獲ていた。
彼女の懸念した通り、ことりは自分という人間に対して弱気というか、ことり曰く“何もないこと”に非常に思い詰めていたようだった。
メイド喫茶で隠れてバイトし、克服しようとするほどには。
ことりが不安を抱いていたことをガワだけとはいえ、言い当てた海未。
そんなにもことりのことを想い、心配している海未だからこそ、彩牙は聞きたいことがあった。
「海未はさ、南さんのことをどう思う?」
「ことりのこと……ですか?」
「ああ。頼りないとか……そう思ったことはあるか?」
ことりは自分のことを穂乃果や海未に比べて何もないと言っていた。
ならば逆に、海未はことりのことをどう思っているのか。言い方は悪かったが、海未の気持ちが知りたかったのだ。
その問いに一拍ほど考えるそぶりを見せたのち、少しむっとした表情で海未は答えた。
「いくら彩牙くんでも怒りますよ。むしろ私の方こそことりに頼ることが多いくらいです」
「そうなのか?」
「ええ。私、お恥ずかしいですが引っ込み思案というか人前に出るのが苦手なところがありまして、尻込みしてしまうことが多いんです。でもことりは怖気づくことなく、率先して前に出ることができるんですよ」
それは意外だと彩牙は思った。
ことりも言っていたように、海未はしっかりとした意志を持つ性格だったため、人前が苦手というイメージがなかったのだ。
「スクールアイドルだって最初は恥ずかしくて本当に嫌でした。でも穂乃果と、そしてことりが私を引っ張っていってくれたんです」
海未の脳裏に浮かぶのは穂乃果がスクールアイドルを始めようと言い出した、あの春。
あの時、ただ学校を守りたい一心でひたむきに努力する穂乃果と、そんな彼女に一番に協力し、自分も加わるように後押ししてくれたことり。
あの二人がいなければアイドルをすることがなく、こんなに充実した日々を送ることができなかった。それどころか人見知りを治せないまま過ごしていたことだろう。
「だからことりが頼りないなんて私は思いません。それどころか私以上にしっかりしているところだって多いんですよ?」
にっこりと、嘘偽りのない表情で語る海未。
その様子から、海未からのことりに対する信頼の高さが感じられた。
「……そうか。悪く言って、ごめん」
「いえ、わかっていただけたのならいいのです」
海未の話で彩牙は確信した。
ことりは何もできない人間などではない。それはこうして目の前にいる海未が証明してくれている。
あとはことり自身がそれに気づき、自分の持つ“強さ”を信じることが出来るか否か……それに掛かっていた。
――気づいてくれ、南さん。君を頼りにしている人は確かにいるんだ。
**
「店を畳め……? どういうことよ!」
――ここは秋葉原。その一角にある、とあるメイド喫茶。
カーテンの閉められた窓から漏れる微かな光だけが照らし、薄暗く他に誰もいない店内で二人の男女が言い争いをしていた。
女はこのメイド喫茶の店主。壮年一歩手前の容姿に、露出の非常に少なく、高級そうな生地を使用したメイド服を纏っていた。
対する男はメイドの喫茶が参入しているこのフロアのオーナー。派手な色合いのシャツを着た、軽薄な笑みを浮かべる壮年男性だった。
「どうしたも何もそのままの意味だよ。こんな店続けても金が飛んでいくだけだからやめろって言ってんだよ」
「それが理解できないのよ! ここまで英国侍女を忠実に再現した素晴らしい店をどうしてやめる必要があるのよ!」
女の反論を、煙草をふかしながら鬱陶しそうに聞く男。
すう、と煙草を深く吸うと女の顔に近づいて煙を撒き散らしながら口を開いた。
見下しているような、愚か者を見るような表情で。
「あのな、お前のそのこだわりとやらを追求した結果がどうだ? 英国貴族のマナーがどうだこうだで女の子どころか客にまで堅苦しさを強制してよ、客は来なくなるし、女の子も憔悴してどんどんやめていっただろうが」
「大体よぉ、店の内装まで馬鹿みたいに金使いやがって。英国貴族に古くから伝わるだか何だか知らないが、たかだか皿一枚にウン十万? こんなので店が続けられるわけないだろうが!」
「何を言ってるのよ! 私の店はそこらの萌えだか何だかの客に媚びたような偽物の店とは違う、英国侍女の本当の姿を再現した“本物の”メイド喫茶なのよ! 本当の姿を再現するには従業員だろうと客だろうとマナーには従ってもらうし、内装の一つ一つにも本物の家具を使うのは当然でしょ!」
男の言葉に反論をまくしたてる女性。
それに対する男の反応は冷ややかで、やれやれと呆れたように肩をすくめていた。
男からしてみれば、女の言うことはただ自分の願望を他者に押し付け、営業の何たるかも知らない愚か者の戯言にしか聞こえなかった。
「そんなんだから客にも女の子にも逃げられるんだよ。お前の言う“本物”なんて誰も求めちゃいないし、俺にとっちゃ……そうだな、ミナリンスキーちゃんの方がよっぽど本物のメイドに見えるぜ」
「……なんですって?」
ぴくりと、女の肩が震えだし、その表情は鬼のような形相に代わっていく。
ミナリンスキーの名は彼女も知っていた。数か月前突然現れて伝説のメイドと呼ばれる、彼女にとっての“偽物”の代表格。
“本物”たる自分がその“偽物”以下――
気づいた時には男の首元につかみかかり、湧き上がる激情に身を任せて締め上げていた。
「がはっ……!」
「私があの偽物以下だと! あんな小娘に私の店が劣るだと!? メイドのことを何も知らないくせに知ったような口をきくなぁ!!」
「こ……のっ……離せ!!」
ふりほどき、女を突き飛ばす。
突き飛ばされた女は壁際のサイドボートにぶつかってうずくまり、その拍子に掛けてあったイギリスから取り寄せたという年代物の皿が女の傍に落ちた。
「ったく、殺す気かよ……言っとくけどな、いくら反対したって無駄だぜ。ここはもうカラオケボックスに建て替えることが決まってるんだからな」
「……なんですって?」
「昔馴染みのよしみでスタッフに入れてやろうと思ったが……気が変わった。お前みたいな自分勝手なヒステリー女なんて知ったことか、そのへんでのたれ死んでしまえ」
くるりと、もう話すことはないと踵を返す男。
それを背にして蹲る女の表情は――自分への理不尽な仕打ちに対する怒り、“偽物”を祭り上げ、“本物”を認めようとしない世の中に対する憤り。
そして――自分の城を壊そうとする男と、偽物の分際で本物を脅かそうとするミナリンスキーに対する憎しみに満ちていた。
――ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな!! どいつもこいつも私の“本物”を否定して!!
何が萌えだ!高尚なメイドをそんな低俗なもので穢して! そんなものを本物のメイドと認めてたまるか!
憎い憎い憎い!! この男もミナリンスキーも私以外の偽物メイド――
――す べ て が 憎 い !!
『そうだな、認めてはいけないなぁ』
「!?」
幻聴か。いや、そうではない。女にはその声がはっきり聞こえた。
視線を動かせば、そこにはついさっきサイドボードから落ちた皿が――行商人を名乗る男から買った、英国貴族の家に伝わっていた年代物“だと言われる”皿が怪しげな光を――
――いや、“闇”を纏っていた。
『お前は間違ってはいない、お前の求めるものは確かに“本物”だ。そんなお前が“偽物”以下などと認めていいはずがないよなぁ』
「あ、あなた……わかるのね? 私の求める“本物”の素晴らしさが!」
『ああわかるとも。お前の“本物”は素晴らしい。それが理解できない愚か者など……許していいのか?』
「……許せるものか……! 私を認めない者など、あってはいけないのよ!!」
『そうか……ならば私を――』
『“闇”を受け入れよ!!』
一気に噴き出す闇。
闇に包まれ、闇と一体になっていく女。
背後で起きている異常事態に気づかないまま、男は扉を開ける。
「――へ?」
その瞬間、男の表情は驚愕に包まれ――
「――ぎゃあぁぁぁぁぁぁぁあぁぁぁーっ!!」
――悲鳴が、誰もいないメイド喫茶に木霊した。
いや――一人だけいた。一体いつの間にいたのか、その悲鳴を聞いていた男がいた。
闇のような黒いフードを深く被り、表情を全く窺うことができない男は、ぽつりと呟いた。
「……これでまた一つ、“餌”が増えた」
**
「……」
一人。誰もいない教室で今までになく真剣な表情で机に向かうことり。
真っ白なノートを前に瞑想するかのように瞳を閉じ、息を深く吸い、意識を集中させる。
そしてカッと目を見開き、その口から紡がれたものは――!
「チョコレートパフェ、美味しい! 生地がパリパリのクレープ、食べたい……ハチワレの猫、可愛い……五本指ソックス、気持ちい……いぃぃ……」
……何とも形容し難い、呪文のような言葉の羅列だった。
その言葉を真剣な表情でノートに書き並べていったが、自分でもおかしいと気づいたのかすぐに涙目になり机に突っ伏したのだった。
「思いつかないよぉぉぉーーっ!!」
ぐすんと、自分のセンスの無さに涙ぐむことり。
そんな彼女を教室の外から穂乃果と海未が心配そうに見つめていた。
「思ったより苦戦しているようですね……」
「うん……」
「……やはり、今からでも代わってあげた方が……」
「駄目だよ! これはことりちゃんが一人でもしっかりできるってことを、私たちと何ら変わりないんだってことを知ってもらうためなんだから」
「……そうでしたね。ことり、頑張ってください」
ことりがしているのは怪しげな呪文の作成では断じてない。
――作詞である。
これまでは海未が担当していた作詞を、今はことり一人でしているのだ。
そもそもなぜことりが作詞をすることになったのか?
端的に言ってしまえば、メイド喫茶でバイトをしていることがμ’s全員にバレてしまったのだ。それも彩牙がメイド喫茶を訪れた翌日に。
何故バイトをしていたのか、そして何故隠していたのか。穂乃果たちが問い詰めると、ことりは彩牙に語ったことと同じことを――自分に自信が持てなかったことを打ち明かした。
勿論、穂乃果たちは即座にそのことを否定した。ことりは自分たちと何ら変わらない、ずっと同じ肩を並べて立っているのだと。
その言葉にことりは「ありがとう」と返したものの、その表情は晴れず、自信を持つには至れなかった。
そこで穂乃果たちはことりに自信を持ってもらうため、秋葉原での路上ライブで歌う曲の歌詞をことりに考えてもらおうと提案したのだ。今までになく楽しいライブになりそう、μ’sのステップアップになるのだと理由を添えて。
そうしてここ二、三日、授業や昼休みの間もずっと新曲の歌詞を作ろうと奮闘しているのだが――
「ほーしいならばくーれーてやーるぜ♪ ………うぅぅ、やっぱりこんなんじゃないよね……」
これである。
思いの外――いや、かなり悪戦苦闘していた。よもやここまで作詞のセンスがないとは流石に穂乃果も思ってもみなかった。
本音を言えば今すぐにでも手伝いに行ってあげたい。しかし下手な手助けをしようものなら、ことりは結局自分では何もできないと思い込んでしまうだろう。
それでは意味がないのだ。ことりが自信を持つことができなければ、何の意味もない。
だから穂乃果と海未はただ、彼女の姿を見守っていた。
そして一方、ことりも悩んでいた。
いい歌詞が思い浮かばない。フッと思い浮かんだフレーズを並べてみても脈絡のない文章ができるだけ。秋葉原らしい歌詞を作ってほしいと言われたが、本当に自分にできるのかと自信を無くしかけていた。
――やっぱり私なんかじゃ無理だよ……
そう思い、深くため息をつく。ふと時計を見るとバイトの時間が迫っていることに気づいた。
いけない、遅れちゃう――! そう思い、急いで机の上を片付けているとバッグの中から一枚の写真が顔を覗かせた。
それはあの日――μ’sの全てが始まったあのファーストライブの日、その時の衣装に包まれた穂乃果、海未、そしてことりが写っていた。ライブ前、三人とも緊張している様子はあるものの、曇りのない満面の笑みを浮かべていて、微笑ましい気持ちが込み上げる。
懐かしいと思うと同時に、ことりの中にある疑問が生まれた。
――私、どうして穂乃果ちゃんと海未ちゃんに並びたいって思ったんだっけ?
二人に置いていかれたくないという気持ちは確かにあった。だがそれだけではない。もっと大事な理由があったような気がする。
その疑問の答えを探すべく、記憶を思い起こしてみる。
何故並びたいと思ったのか?二人と一緒になれたと思った時――そう、例えばこの写真にあったあのファーストライブの日、三人で一緒に歌ったあの時、自分は何を思ったのか――
「……あ……!」
――そうか、そうだったんだ。
今気づいた。何故ことりは穂乃果と海未に並びたいと思ったのか、何がしたいのか。
そして――これからどうすればいいのか。
頭の中に覆っていたもやがある程度晴れ、立ち上がると教室の外でこちらを見つめていた穂乃果と海未の姿が目に移った。
ちょうどよかった――そう思い、二人の下に歩み寄るといつになく真剣な表情で口を開いた。
「ことりちゃん……?」
「あのね、穂乃果ちゃん、海未ちゃん。お願いしたいことがあるの!」
**
彩牙がことりの働くメイド喫茶を初めて訪れてから数日が経った。
彩牙はあれからもあのメイド喫茶を度々訪れていた。エレメント浄化の息抜きというのか、メイド喫茶の明るくも落ち着いた雰囲気がいつの間にか彩牙の癒しになっていたのだ。
そして店を訪れるようになってから、ことりとも話すようになっていた。
はじめの頃はどこか彩牙におどおどしていたことりだったが、何度か話しているうちにほんの少しではあるが平静を保ったまま話せるようになっていった。
ことりが特に声色を弾ませたのは、穂乃果と海未についての話題だった。二人のことを嬉しそうに、そして誇らしげに語るその姿から、負い目こそは感じているものの心の底から二人のことが大好きなのだと彩牙は実感した。
そうしたある日のこと。
その日も彩牙は件のメイド喫茶を訪れていた。
「いらっしゃいませ、ご主人様……」恥ずかしそうに小さな声で出迎えたそのメイドは彩牙の姿を見るや否や、時間が止まったかのようにピタリと止まり、やがてやかんが沸騰するかのようにみるみるうちに顔を赤く染めていった。
対する彩牙もこの光景に既視感を抱きながら、目の前のメイドに驚いていた。
そのメイドはよく知る顔だった。いや、よく知るどころではない。なにせ彩牙は毎日彼女の顔を同じ屋根の下で見ているのだから。
そう、そのメイドは――
「……海未……?」
「あ あわわ あわわわわわわわわわわわ」
「あ、彩牙くんだ! いらっしゃいませぇっ!」
海未だった。
その後ろでは同じメイド服を着た穂乃果が元気一杯に挨拶していた。元気ではあるが、どちらかというとメイドというより大衆食堂の店員のような雰囲気だったが。
そして海未はといえば、まるで茹蛸のように真っ赤になり視点が定まらず、あぅあぅと呂律が回らない状態に陥っていた。俗に言うパニックである。
「なななななな、何で彩牙くんがここにいるのですかぁっ!?」
「それはこっちの台詞だよ」
「あ、彩牙くんはここ最近よく来てくれるんだよ。言ってなかったっけ?」
「一言も聞いてませんっ!!」
もう無理です!皿洗いしてますっ!
そう言い残して海未は厨房に驚くべき素早さで一目散に逃げこんでしまった。ポツンと一人、彩牙はその場に取り残された。
「もうっ! しょうがないなぁ海未ちゃんは」
「ははは……それで、どうして高坂さんたちが?」
「私がお願いしたの」
「南さんが?」
「うん。……あ、席に案内するね」
席に案内されたのち、彩牙は穂乃果とことりからことのあらましを聞いた。
秋葉原で路上ライブをすることになったこと。その新曲の歌詞をことりが作ることになり、非常に苦戦していたこと。そして作詞の手掛かりを見つけるため、穂乃果と海未がことりのバイトの手伝いをすることになったこと。
話し終えたのち、穂乃果は海未を連れ戻してくると言い厨房に戻り、席には彩牙とことりが残された。
「そうか、ここのところ上の空だったのはそれが理由か……」
「うっ……そ、そんなに顔に出てた?」
「ああ。……でも、今はそうでもないかな。何か掴みかけているんだろ?」
確かにここ最近、ことりは仕事中でも何か考え込むそぶりを見せ、上の空になりがちだった。そしてその表情も、隠そうとしていたがやや影が差していた。
だが今は違った。影自体はまだ残っているが、パズルのピースを見つけたかのように明るい表情が大部分を占めていた。
「……うん! もうちょっとで見つかりそうなの、どんなことを歌詞にすればいいのか!」
――チリンチリン
晴れ渡ったような笑顔でそういった時、来客を告げる鐘の音が鳴った。
それを聞いた直後、ことりは伝説のメイド・ミナリンスキーとして来店の出迎えに向かった。
「お帰りなさいませ、ご主人様♪ ……あ、みんな!」
「こんにちは、穂乃果さんと海未さんがいるっていうから来ちゃった。……それで二人は?」
入ってきたのは金髪の少女を筆頭にした、海未と同じ音ノ木坂の制服に身を包んだ6人の少女たち――μ’sの残りのメンバーだった。
金髪の少女――絵里がきょろきょろと辺りを見回すが、彼女の目当てである穂乃果と海未の姿は見つからない。その理由に応えるべく、少し困ったような表情でことりが口を開いた。
「それが海未ちゃん、恥ずかしくって厨房に逃げちゃって……穂乃果ちゃんが今連れ戻しに行ってるんだけど……」
「惜しいなぁ。穂乃果ちゃんと海未ちゃんのメイド姿、是非ともカメラに収めやかったけど」
そう答えたのは悪戯そうな笑みを浮かべつつも、ふんわりとした雰囲気の少女――希。
そう、以前彩牙が神田明神で出会ったあの少女である。
彼女の姿を見た瞬間、思わぬ再会に彩牙は思わず立ち上がった。希も気づいたのか、驚いたような表情を彩牙に向けた。
「「君は!?」」
「わぁ、ハモッたニャ!」
「え、え? 希先輩と彩牙くん、知り合いなの?」
きょろきょろと、二人の間で視線をせわしなく泳がせることり。
まさか既に知り合いだったとは思わなかったのだろう。知り合いといっても、互いの名前も知らない間柄ではあるが。
「うん、前に珍しい狸さん見た時に一緒になってな」
「ああ。まさか南さんの友達だったなんて驚いたよ」
「それで、あなたは……?」
「おーい! 海未ちゃん引っ張ってきたよーっ!」
「離してください! メイドとはつまり給仕なのですから皿洗いをするのです!ホールに出る必要はないでしょう」
絵里がちょうど尋ねた時だった。
無理です!恥ずかしいです!と真っ赤にして泣き喚く海未を、文字通り引っ張って穂乃果が戻ってきたのだ。
彩牙達全員の視線がそちらに向かい、穂乃果もμ’sメンバーが視界に入ると「お!」と声を弾ませた。
「みんな来てくれたんだ! ありがとう!」
「ねえ穂乃果先輩、この人知り合いなの?」
ショートカットの少女――凛が彩牙に視線を向ける。
その問いに、あ!といったような表情をすると、穂乃果は彩牙の肩に手を置いた。
彩牙のことを話したことはあったが、実際に会わせたことはなかったのだ。
「そういえばみんなは会うの初めてだったね。この人が彩牙くん、海未ちゃんの家で暮らしてるんだよ!」
「ええと……村雨彩牙だ。海未にはいつもお世話になっているよ」
スッと、頭を下げてお辞儀をする彩牙。それに対するμ’sメンバーの反応は様々だった。
興味津々に見つめる者、少し縮こまる者、興味なさげな者、訝しげに睨む者と十人十色の反応だった。
その中で真っ先に前に出て、手を差し出した人物がいた。
――東條希だった。
「そっか、君が噂の彩牙くんやったんやね。ウチ、東條希。海未ちゃんのよしみでこれからもよろしくな♪」
「……ああ。よろしく、東條さん」
差し出された握手の手をしっかりと握り返す。
希はニコニコと優しい笑みを浮かべ、彩牙を見つめていた。
そんな彼女に続くように、絵里と凛、そしてつられるように花陽が彩牙の前に出て来た。
「海未さんから話は聞いてたわ、私は絢瀬絵里。よろしくね、彩牙さん」
「凛は星空凛だよ! 彩牙さんって、毎日早起きして海未先輩と稽古してるんだっけ?凛には無理だニャー……」
「あの……小泉花陽といいます……よ、よろしくお願いしますっ!」
「よろしく、絢瀬さん、星空さん、小泉さん」
最年長らしく余裕のある態度の絵里、元気いっぱいの凛、おどおどした様子の花陽と、三者三様の様子で彩牙と挨拶を交わす。
そして彼女たちの後ろで興味なさげに髪をくるくると弄る赤毛の少女――真姫に視線を向けるとこちらに気づいたのか、視線を僅かにそらしながら呟くように応えた。
「……西木野真姫よ。よろしく」
「あーっ!真姫ちゃんそんなツンケンしちゃだめだよ!」
「うえっ!? ちょ、別にそんなわけじゃないわよ!」
凛に押し寄られ、焦ったように弁明する真姫。そんな彼女の様子に、気難しいというか素直な気持ちを出すのが苦手な子なんだなと彩牙は思った。
そして最後に残ったツインテールの少女――にこは彩牙を睨むようにじっと見つめた後、一度振り返って向こうを向いた。
そして彩牙に振り向き直ると――
「にっこにっこにー♡ あなたのハートににこにこにー、笑顔届ける矢澤にこニコー☆ にこはー、μ’sの皆もだけどー、アイドルだから恋愛ごとはご法度なのー♪ つまりー、何が言いたいかっていうとー、家族公認だか何だかどうか知らないけど海未と一緒に暮らしてるっていうんなら付き合ってるなんて誤解されないように気を付けるのよ、わかったわね!」
愛嬌に満ちた表情と言葉づかいから一転、厳しい表情で睨みつけるように早口で捲し立てるにこに思わず気圧される彩牙。
にこの抱くアイドルへの熱意――プロ意識とも言えるそれにただ圧倒され、まるで強力なホラーと対峙したかのようなプレッシャーを感じた。
「にこ先輩また言ってるニャ」
「何よ! アイドルは清純なイメージが大事なんだから、周囲の人間もそれに気を使うのは当然でしょ!」
「だからって初対面の人にそれを言うのもどうなのよ」
ワイワイと彩牙を尻目にして騒ぎ出す凛、にこ、真姫。そしてそれを心配そうに見つめる花陽と、一歩引いて見守る絵里と希。
μ’sは皆性格がバラバラで、一見纏まりのないグループに見える。だがしかし、不思議と彼女たちに関してはこれが一番良い関係のように見えると彩牙は思った。
海未が早朝と晩に稽古の時間を作ってまでμ’sの活動に取り組む理由が、少しわかった気がした。
そう思っていると、今まで彩牙達を見守っていた穂乃果とことりが、彩牙の隣にやってきた。
「ね、彩牙くん。μ’sの皆のこと、どう思った?」
「そうだな……みんないい人で、何より楽しそうだなって思ったよ。海未が夢中になるのもわかる気がする」
「あ。そうそう海未ちゃんといえば……」
思い出したように、パタパタと海未に歩み寄ることり。
メイド服を着た自分を晒すのがよっぽど恥ずかしいのか、海未は顔を真っ赤にしながら小動物のように震えて縮こまっていた。
ことりはそんな海未を引っ張ると彩牙の目の前に連れ出した。ひゃあっと、海未の小さな悲鳴が上がった。
「彩牙くん、海未ちゃんのことどう? 可愛いでしょ?」
「さ、彩牙くん……見ないでください……」
もじもじと、恥ずかしそうに縮こまる海未と、それを見つめる彩牙。
気が付けばμ’sメンバーも先程までの喧噪をピタリと止め、二人のことを――彩牙の反応をじいっと見つめていた。
彩牙は海未を見つめる。
普段は道着に身を包み、凛々しい顔つきで竹刀を振る彼女が今、フリルの付いた可愛らしいメイド服に身を包み、恥ずかしそうに顔を赤らめ、縮こまっている。
普段の海未とは違う魅力を引き出しているようなギャップに気づいた彩牙は――
「……に、似合ってるよ。海未……」
「う、うぅぅぅぅ……」
まるで思春期真っ盛りの少年のような反応しかできなかった。
対する海未も恥ずかしさで更に赤くなり、まるで恋愛に奥手な少年少女の構図ができあがっていた。
ニヤニヤとするような笑顔を浮かべ、二人を微笑ましく見つめる穂乃果やことりたち。
そして――
「……なにこれ」
目の前の青春漫画のような構図に戸惑う――いや、若干呆れたようなにこの呟きが響き渡ったのだった。
*
「ふぅ……」
色々一悶着あったがどうにか落ち着き、彩牙は今ゆったりと紅茶を飲み、リラックスしていた。店内を見回せば他の客に交じってμ’sメンバーが思い思いに過ごしている。
メイド姿の穂乃果や海未と会話する絵里と希。我関せずというように紅茶を飲むが、一人でいることは許さんと言わんばかりに凛と花陽に押し寄せられる真姫。何故かサングラスとマスクを装備しているにこと、様々だった。
「はい、お待たせしました。彩牙くん」
「っと。ありがとう、南さん」
そこに、頼んでいたケーキを携えたことりがやってきた。
カチャリとテーブルに置くと、ことりはこの店を、訪れる人々を、一緒に働いているメイドを、そして穂乃果たちμ’sをじいっ見つめる。
その表情はとても優しく、楽しそうで――そして、非常に充実している人間のそれだった。
その様子を見ていた彩牙が、思わずつられて顔を綻ばせるほどには。
「楽しそうだな」
「えっ? そ、そう……かな?」
「ああ。前から思っていたけど、ここで働いている時の南さんはいつも以上に輝いている気がするからさ。……好きなんだろ?この場所が」
彩牙がそう言うと、ことりは一瞬呆気にとられたような表情を見せ、またすぐに優しげな表情を見せた。
そしてゆっくりと、ともすれば自分に言い聞かせているかのように口を開いた。
「……うん、そうなの。ここにいると違った自分に……新しい自分になれてるような気がするの。どんなに変わろうと……変わったとしても全て受け入れてくれるような気がする……楽しいって気持ちにさせてくれる」
「だから私、ここが好き。この店の人や、街の人たち。穂乃果ちゃんや海未ちゃん、μ’sの皆も、みんなみんな大好き!」
だからこんなに楽しいのかも。はにかんだようにそう答えたことりに、彩牙は微笑ましいと思った。
そしてそれと同時に、ある疑問を抱いた。
「……南さん、本当に作詞に手こずっていたのか?」
「え? う、うん……そうだけど?」
不思議そうに答えることりに、彩牙は得心を抱いた。
ことりはやはり気づいていなかったのだ。自分は何もない人間ではないことを。答えは最初から自らの内にあったことを。
「簡単なことだよ。南さんが言ったその気持ちを、そのまま歌にすればいいだけなんだ。歌ってのは自分の気持ちを相手に伝えるものなんだろ?」
「……!」
その言葉にことりはハッとして、同時に自分の中に欠けていたピースを見つけた。
穂乃果と海未に並びたいと思った理由――それは一緒に居ると楽しいと思ったから。そしてその思いを強くしてくれる、楽しくなるために変わろうとする自分を受け入れ、支えてくれるこの場所が、人が、μ’sの皆が大好きだから。
そのことに気づいた時、今まで全く思い浮かばなかった歌詞が――自分の思いが、自然と心の中に浮かんできた。
「……気づいたかな?」
「……うん! 彩牙くんや穂乃果ちゃんの言ったとおりだった。私には何もないなんてこと、なかった」
「この胸には、私だけの思いが……みんなが好き、みんなと楽しくなりたいってことを伝えられるものが、確かにあったんだ!」
――ありがとう!
そう告げて、ことりは穂乃果の――μ’sのもとへとパタパタと駆けて行った。その表情に一点の曇りもない笑顔を浮かべながら。
その姿を見て、もう大丈夫だと彩牙は思った。あとはことりが、μ’sの仲間と力を合わせて乗り越えていけると。
そんな確信にも近い思いを抱き、ケーキに舌鼓を打っていると――近くの席から女子高生たちの話し声が彩牙の耳に入った。
ただの会話なら気にも留めなかっただろう。だがしかし、その会話は違った。
「ねえ聞いた? “紅の館”のNo.1メイドのサクヤさん、あの人行方不明になったんだって!」
「聞いた聞いた! それらしい前兆とか全くなかったんだよね! 仕事中、神隠しにあったみたいにフッといなくなったって!」
「怖いよねー、ここのミナリンスキーちゃんもそんなことなきゃいいけど」
普通ならば何か言うにやまれぬ事情があったのか、人間同士のトラブルに巻き込まれた等と思ったことだろう。
だが彩牙はある懸念を抱いた。……もしや、ホラーが関わっているのではないかと。
「正解じゃ。ホラーの仕業じゃよ」
「っ!? なっ……お、オルトス様!?」
いつからそこにいたというのか。
彩牙の向かいの椅子には、番犬所の神官――オルトスがカジュアルな服に身を包んでさも居て当然と言わんばかりにジュースを飲んでいた。
周囲を見回すと、ことりたちやほかの客、店員はオルトスに気づいていないようだった。彩牙は周囲に悟られないように、できる限り小声でオルトスに問い詰めた。
「な、何故神官であるあなたがここに!?」
「ほほ、儂だって引きこもってるだけでは退屈じゃからの。ちょっとしたショッピングじゃよ」
『こいつは神官の中でも変わり種でな、こうしてたまに番犬所を抜け出しては街中をぶらついてるのさ』
「そういうことじゃ。あんなところに引きこもってたら退屈で死んでしまうわ」
番犬所の主であるあなたがそれを言うのか。
呆れたような表情で彩牙はそう思ったが、すぐに気持ちを切り替えた。今オルトスは何を言ったのか、そのことを考えると気を引き締めずにはいられなかった。
「ホラー、ですか」
「ああ、さっきの話に出てたメイドをはじめ、既に何人か喰われてるようじゃよ」
酷い話じゃのう――ケタケタと愉快そうに語るオルトスが取り出したのは赤い封筒――指令書。
オルトスのその表情に訝しげな視線を向けながら指令書を手に取り、睨むようにそれを見つめると次の瞬間、オルトスの姿は目の前から消え失せていた。
まるで最初から誰もいなかったかのように。
――しっかり使命を果たすのじゃよー、黄金騎士ガロー。
「……一方的だな」
『そういう奴だ。付き合い方はしっかり考えておけよ』
一歩的に指令を出されたものの、彩牙にはそれを断るつもりは毛頭なかった。
ホラーが現れたと言うのなら、それを斬るのが自分の使命なのだから。
そう思い、“妙な厚みのある”指令書の中身を確認すべくトイレに立った。
大勢の客と店員の中、そんな彩牙の様子を一人だけ認識していた人物がいた。
彩牙の前に当然現れ、ふと視界が遮られた直後に消えていたオルトスを、“彼女”は見ていた。先程話した時とは一変して、まるで射殺さんとばかりに鋭い眼光を覗かせる彩牙に、唖然としていた。
――彩牙くん……キミっていったい……?
“彼女”――希は、新しい友人である彩牙が覗かせた一面に、ただただ困惑の表情を浮かべていた。
**
「それじゃあミナリンスキーちゃん、それ片づけたらもう上がっていいわよ」
「はーい!」
あれから数日経ち、バイトで日が暮れ始めたころ。
店長にそう言われ、「うんしょ」と、空のダンボール箱を両手で抱えることり。倉庫にあるダンボール置き場に折りたたんで置くと、ふぅ……と可愛らしい声と共に僅かに垂れた汗を拭った。
今、ことりの心はいつも以上に晴れ渡っていた。
あれほど難航していた歌詞作りはあの日、彩牙や穂乃果の言葉を受けてあっという間にできた。頭でっかちで考えていた思いつきの言葉ではない、心から伝えたいと思った、自分の素直な気持ちを込めた言葉がこめられた歌詞が。
そうして路上ライブの場所を押さえ、曲が、衣装がドンドンと出来上がり、練習を重ね――今、ライブを明後日に控えていた。
そして今日もライブの宣伝を兼ねてメイド喫茶のバイトに勤しんでいた。ここ数日は穂乃果も海未も一緒だったが、今日は生憎と二人とも家の都合で来ることができなかった。
しかしことりには不安は微塵もなかった。そう思ったりする以上に、明後日のライブが楽しみで仕方がなかったのだ。
早くみんなと歌いたい――ことりの胸はそんな気持ちでいっぱいだった。
「早くみんなと歌って……沢山の人にこの気持ちを届けたいなぁ……」
「……ミナリンスキーさんね?」
「――えっ?」
突然後ろからかけられた、聞き覚えのない声。
振り返るとそこにはここのメイド喫茶のものではない、見知らぬメイド服を身に纏った壮年の女性が立っていた。
灯りを背に逆光になっているせいか、妙に顔色が悪く見える――そう思った。
「あの、あなたは……?」
「ミナリンスキー……本名、南ことり、9月12日生まれ。音ノ木坂学園に通う2年生、母は同学園の理事長。スクールアイドル・μ’sとして活動、衣装担当をしており、メンバーの高坂穂乃果と園田海未とは幼馴染。子供の頃の夢は幼稚園の先生……」
「な……なに言ってるんですか……!?」
――怖い。それがことりが抱いた気持ちだった。
この女性はなんなのだろうか、本名どころか誕生日や昔の夢まで知ってるなど、どう考えても普通ではない。悪質な熱狂的ファンか――それはそれで非常に恐ろしいが、この女性はどうも違うように感じた。
ブツブツと呟き続けるその表情には、吉色や興奮だとか――そういう感情がない。代わりにあるのは虚無と言えばいいのか、ただ冷たいとしか感じられなかった。
「……メイドを始めた理由は衣装が可愛い、自分を変えたい。伝説のメイドと呼ばれる身でありながら、メイドに専念する気はなく、あくまでスクールアイドルがメイン…………
……ふ ざ け る な っ !!」
「ひっ!?」
突如、それまで無表情だったものから一変、まるで般若を思わせるような憤怒に満ちた表情に変貌した。
一方的な、理不尽とも言える怒りをぶつけられ、ことりはただ震えることしかできなかった。
「メイドに専念していないばかりか、よりにもよってあのアマチュアもいいとこのスクールアイドル!? こんな偽物以前のゴミが伝説なんて、メイドを見る目も落ちたものね!」
「わ、わた……し……ゴミなんか じゃ……」
震えて言葉が出ない。
女の悪意に晒されることりは、蛇に睨まれた蛙のような恐怖を味わっていた。――では、蛇に睨まれた蛙はその後どうなるのか?
その答えは一つだけだった。
「もういいわ。あなたも紅茶にしようと思ったけどもういらない。軽々しくメイドの世界に踏み込んだことを悔やませながら喰ってあげるわ」
「な、なに言って……!?」
その直後、ことりは己の目を疑った。
女がメイド服をはためかせると、窓のない屋内だというのに風が吹き荒れた。あまりの暴風に髪を押さえ、目が開けられなかった。
風が止み、目を開けると周囲の光景は一変していた。倉庫であったはずのその場所は、まるで英国貴族の屋敷を彷彿とさせるような豪華絢爛な部屋へと変貌していたのだ。
そしてことりは、大きなテーブルの前にかけられた椅子に座らされていた。
「な、なにこ……っ!? う、動けない!?」
立ち上がろうとしても、まるで金縛りにでもあったかのように指一本動かせなかった。
辛うじて動かせるのは口と視線だけ。瞼を閉じることもできなかった。
せめて瞼を閉じられたらどれだけ幸せか――この直後、ことりはそう思うことになる。
目の前では女が陶器製の華美な装飾の施されたポットから、ティーカップに紅茶を注いでいた。その動きは優雅で一分の隙も見当たらない、見る者を魅了させるようなものだった。
しかしことりが目を奪われたのは女の動きではない、女が注いでいる“紅茶”だった。
それは紅茶と呼ぶにはあまりにも赤すぎた。まるで血と見間違うかのごとく。
その紅茶からは“声”が漏れていた。女の人の、助けを、命乞いを求める声が。
「助けて」「食べないで」「パパ」「お母さん」「なんで私が」「嫌だ」――「死にたくない」
ことりは目を、耳を塞ぎたくて仕方がなかった。
――嫌! やめて! 聞かせないで! その“人”たちをどうするの!?
やがて紅茶を注ぎ終えると、女はそのティーカップを口元に近づけ、香りを楽しむ。紅茶からの悲鳴が一層大きくなる。何が起きるのか、ことりにももうわかってしまった。
「やめ……!」
止めようとしても時すでに遅し。
女はティーカップを口につけると紅茶――人間を、ごくりと一気に飲み込んでしまった。断末魔の悲鳴と共に。
目の前で人が死んだ――その事実に、ことりは深い悲しみと――次は自分の番だという恐怖に包まれた。
自分を包み込む冷たい恐怖。その感覚に、ことりは思い出した。数日前に味わったものと、全く同じ恐怖であることを。
目の前の女が人を喰らう魔獣ホラーであることを――嫌が応にも理解した。理解してしまった。
「さて、お次は……」
ナプキンで口元を拭い、捕食者としての視線をことりに向ける女。
コツ、コツと、ゆっくりと歩み寄ってくる女を前に、逃げようとことりはもがく。
しかし動けない。ことりの身体は、椅子に座られた状態から僅かにも動くことができなかった。
「やだっ、やだぁっ! 穂乃果ちゃん!海未ちゃん! 助けっ、助けてぇっ!」
「無駄よ。この結界には誰も入ることができないし、誰も見つけることができない。あなたはもう、籠の中の小鳥よ」
もがけどもがけど、身体はピクリとも動かない。
そうしているうちに女はことりの目前にまで迫っていた。
濁った瞳が、涙に濡れ恐怖に染まったことりの顔をじいっと覗きこむ。
「あなたみたいなゴミは……そうね、ミンチにしてからミートボールにしちゃいましょうか」
「ひっ……!」
スウッっと、女の手がことりに伸びる。
指を動かすことも身をよじることもできないことりは、その死をもたらす手に怯え、叫ぶことしかできなかった。
「やだ……やだ……! 誰か……
――誰 か 助 け て ぇ っ !!」
――その瞬間
「なにっ!?」
ガラスの割れる音と共に、一振りの“剣”がことりと女の間を斬り裂くかのように舞い降り、突き刺さった。
それに続くように舞い降りてきたのは、ことりの視界一面を覆い尽くさんばかりの、“白”。
“白”は突き刺さった剣を抜くと流れるような動きで女を斬り裂き、ことりから引き離す。それと同時に、ことりは金縛りから解放された。
そうしてことりは“白”の正体を知る。
“白”はボロボロの白いコートだった。風にたなびくそれは、ことりには天使の翼のように見えた。
そのコートを身に纏い、ことりを庇うように立ち、女を睨みつけるのは一人の騎士――
「――彩牙くんっ!」
「無事か、南さん!」
『ようやく見つけたぜ。随分と追いかけ回らせてくれたもんだ』
――魔戒騎士・村雨彩牙が立っていた。
下がっていろ――手を振ってそうジェスチャーするとそれを読み取ったことりは一歩二歩と下がっていった。
そして女は獣のような形相で彩牙を睨み、それに見合う獣のような声で口を開いた。
「魔戒騎士か! 何故法師でもないお前に私の結界が……!」
「残念だったな。こっちにはお優しい上司からのお恵みがあったんだよ」
そう言って彩牙が取り出したのは、魔界文字が刻まれた赤い札――魔戒符。オルトスから渡された指令書に同封されていたものだ。
それにより、彩牙はこのホラーが張った結界に侵入することができた。
『それに俺様もいる。もうちょっと結界の気配を隠す努力をするべきだったな』
「貴様らのような本物気取りの偽物が私に指図するのか!」
ザルバの言葉に舐められたと受け取ったのだろう。激昂した女が手をかざすとどこからともなく現れたモップや包丁、ポットなどのメイドが使うような家事道具が怪しげな光を纏って無数に浮かび上がり、それらを彩牙めがけて一斉に射ち出した。
迫る家事道具に怯え、驚き、思わず頭を抱えてしゃがみ込むことりを傍目に、彼女の前に立つ彩牙は魔戒剣でそれらをすべて叩き斬っていく。
『おいおい、メイドが物を粗末に扱っていいのかよ』
やがて射ち出す家事道具が切れたのか、新たな家事道具を呼び出す女。
その隙を彩牙は見逃さず、一気に距離を詰める。女は辛うじて呼び出した包丁を射ち出すが、彩牙はそれを弾き返し、弾き返った包丁が女の肩に刺さると同時に魔戒剣が女の身体を斬り裂いた。
「――ちっ!」
斬られた傷を押さえ、忌々しそうに舌打ちをした女ははハタキを取り出し、振るった。
するとハタキから夥しい量の煙が噴き出し、辺り一面を真っ白に染め上げる。ことりが咳き込む中、彩牙は――
『小僧!』
「ああ!」
狼狽えることなく、懐から取り出した青い札を煙の中に放った。そして警戒を解かぬまま、身構える。
やがて煙が晴れると、そこは英国貴族の部屋のような結界ではない、ことりの働くメイド喫茶の倉庫の中だった。
戻ってこれた、助かった――その事実に安堵したことりは腰が抜けたようにその場にへたりこんだ。
死に直面した恐怖から脱した安堵――それが込められたことりの吐息がその場に響き渡った。
*
「はい、南さん」
「うん。ありがとう……」
メイド喫茶からの帰り道。
ホラーに狙われたことりを守るべく、彩牙が付き添って歩いていた。
道中、自販機で買った飲み物をことりに手渡す。自分の分のお茶に口をつけながら、彩牙は隣のことりの表情を覗き込んだ。
その表情は暗く、恐怖に沈んでいた。ライブに向けて楽しそうに、充実していたときの笑顔が微塵も感じられないほどに。
しかし無理もないだろう。ホラーに名指しで狙われ、喰われる寸前までいったのだ。気丈にいろと言うのが無理な話だ。
だがことりの表情に込められた気持ちはそれだけではないと彩牙は感じた。何か辛いことを……そうすることにぐっと耐えるような。
まさかと思い、彩牙は声をかけた。
「……まさかとは思うが、明後日のライブ中止にしようとか考えてないか?」
その言葉にことりは一瞬、驚いたように目を見開いた。
そして自嘲するような表情を浮かべ、口を開いた。
「しょうがないよ……だって、私がいたらあのホラーにみんなを巻き込んじゃうもん。私のせいで穂乃果ちゃんが、みんなが酷い目に合うくらいならライブなんてしない方がましだもん……」
「……それでいいのか? あんなに楽しみしてたじゃないか」
「……」
沈痛な表情を浮かべたまま、黙り込むことり。
自分が我慢すればみんなを危険に巻き込まずに済む――そう無理をしているのは明らかだった。
――妥協。自分の気持ちに気づかないのではなく、自分の気持ちに嘘をついている。
だからこそ、彩牙は――
「……そうか。南さんの思いというのはその程度だったんだな」
「っ!」
敢えて厳しい言葉を選んだ。
「結局、南さんが伝えたい想いっていうのはホラーに脅かされたくらいで諦める程度のものだったのか。その程度でよくライブをしようなんて気になったもんだ、だったら最初からライブなんて――」
「…………しだって……」
「私だって、本当はライブがしたい!!」
彩牙の言葉を遮るように、ことりの叫びが辺りを包む。
その瞳には涙を浮かべていたが、同時に憤りを籠めた目をしていた。
彩牙の言葉と、それ以上に弱気になった己の心に向けて。
「本当は歌いたい! この胸に秘めた思いを、気持ちをみんなに伝えたい、みんなと歌いたい!みんなのおかげで作れた曲だって、みんなのことが大好きだって! それは誰にだって負けない気持ちだもん!」
「でも、だからってそれでみんなが傷つくのは嫌、みんなが私のいざこざに巻き込まれるのは嫌! みんなが大好きだから、だから……!」
「――なら、やればいいじゃないか。ライブを」
「――え?」
ことりの想い、嘘偽りのない本音。本当にやりたいこと。
彩牙は、それが聞きたかった。
「そこまでやりたいと思っているのにやらない理由がどこにある? 南さんは自分の大好きだという気持ちを伝えたいからライブをする。何もおかしいことはないだろ?」
「で、でも……ライブをしたらまたあのホラーが……今度はみんなも……」
「――大丈夫、奴は俺が斬る」
想いを歌にして伝え、人々を笑顔にするのはアイドルの使命。
そしてホラーを斬るのは、魔戒騎士の使命。
「奴には二度と君の前には立たせない。決して君たちを傷つかせない。君たちのライブは、何が何でも俺が守る。だから、南さんは自分のしたいことを思う存分にやればいい」
ことりは言った。ライブをしたい、想いを伝えたい。
ならばそれを脅かさんとする魔獣を斬るのは、魔戒騎士たる自分の役目。
それが、彼女たちのように人々の心を突き動かす手段を持たない自分ができる、唯一のことだった。
「でも……」
どこか躊躇するように呟くことりの震える両肩をしっかりと掴み、彼女の瞳をまっすぐ見据え、彩牙は言った。
「――俺を信じてくれ」
**
「――いよいよだね、ことりちゃん」
「……うん」
秋葉原での路上ライブ当日。
ライブ会場となったことりの働くメイド喫茶近くの通りに、ライブ衣装――メイド服のそれに身を包んだ9人の少女――μ’sの姿があった。
夕暮れの優しい光が辺りを包み、横一列に並んだその中央――センターに位置することりは瞳を閉じ、想いを馳せる。
思えば、メイドを始めたのは自分に嫌悪感を持っていたからだ。幼馴染の二人がいなければ何もできない自分が嫌で、変えたいと思ったから。
でもそうじゃなかった。穂乃果が、海未が、μ’sのみんなが、彼が教えてくれた。自分は何もない、何もできない人間ではないと。そしてそんな自分を、変わろうともがいていた自分を笑うことなく受け止め、見守り、支えてくれたこの街が、人々が、途轍もなく愛おしく思った。
きっと今、この瞬間、あのホラーが自分と仲間たちを喰らわんと息を潜めてこちらを窺っていることだろう。だがことりは少しの不安も恐れも抱いていなかった。
そのホラーと同時に、あの騎士が自分たちを見守ってくれているからだ。自分たちのライブを、あのホラーから守ってくれる。
そんな確信があったから、ことりの心に迷いはなかった。彼女の心にはこの夕暮れのように優しく、暖かな光が広がっていた。
だから――ことりは歌う。
――Wonder Zone、君に呼ばれたよ、走ってきたよ
――きっと、不思議な……夢がはじまる……
曲名は『Wonder Zone』
変わろうとする姿を受け入れ、見守ってくれるこの街と人々に向けた、大好きだという気持ちを歌った、ことりの、みんなの歌――
「ミナリンスキーめ……あんな真似をして、メイドの面汚しめ……!」
――そして、路地裏から忌々しそうに見つめる一つの影。
メイド服に身を包んだ、壮年の女性。ことりを襲ったあのホラーだった。
ミナリンスキーも、メイドを汚すあの仲間も喰ってやる――そんな思いと共に踏み出したとき、女の前に一つの影が現れた。
「行かせないぞ」
『前も思ったが、夕方だってのに随分と早起きなホラーだ』
――彩牙だった。
「また貴様か魔戒騎士! あれから何度も先回りしおって!おかげであれから私は一人も喰えなかったんだぞ!」
「それはよかった。この札のおかげでお前の行動は丸分かりだったからな」
そう言って彩牙が取り出したのは女に張り付いたものと同じ青い札。
あの日、逃げようとした女に張り付けたあの札は女の行動を彩牙の持つ札に伝える、発信機の役割を果たしていたのだ。
そのおかげであの日以来、このホラーに一人も喰われずに済んだ。
「とは言え、これ以上は逃しておけない。お前は今ここで俺が斬る!」
「ふざけるな! 貴様のような偽物を庇う奴に、粛清を邪魔させてたまるか!!」
その叫びと共に女の身体が弾け飛び、ホラーとしての姿が露になる。
メイド服を彷彿させるヒラヒラとした上半身に、猫のような関節の下半身。獰猛な猫の顔を持ったホラーだった。
『なるほど、ヴィクトリスか。自分の価値観にこだわり続ける陰我にはぴったりのホラーだ』
ホラー・ヴィクトリスが唸り声と共に飛びかかると同時に、彩牙も魔戒剣を天に掲げ、ガロの鎧を召還する。
牙狼剣とヴィクトリスの爪がぶつかり合い、狼と猫が牙を剥いて互いを睨み合う。そうして鍔迫り合いになったのも束の間、ヴィクトリスはガロの身体を蹴り、大きく飛び退いた。
そしてその反動を利用してビルの壁を蹴り、大きく飛び跳ねた。
――ライブ真っ最中のことりたち目掛けて。
『させるか!』
しかしそれを許すガロではなかった。
読んでいたのかヴィクトリスの軌道に先回りし、その身体に強烈な蹴りを叩き込んで元の路地裏の中に蹴り戻した。そしてガロも路地裏の中に戻ると同時に、ヴィクトリスが虚空から呼び出したナイフや包丁がガロを襲い始めた。
牙狼剣を振るい、それらを弾き飛ばしていくガロ。ヴィクトリスはナイフや包丁を放つと同時に新しく呼び出していたため、弾切れを起こすことなくガロを襲う。
このままでは防戦一方、疲労が溜まっていくだけだった。
『――ならば!』
ガロは牙狼剣を振りかぶると、回転を加えて大きく投擲し、駆け出した。
円を描きながらガロの前を飛ぶ牙狼剣はヴィクトリスが放ったナイフや包丁を弾き飛ばしていき、ガロを守護する。
その光景に驚愕したヴィクトリスは更に大量のナイフや包丁だけではない。モップ、ポット、皿、燭台――ありとあらゆる家事道具を呼び出し、ガロを飲み込まん勢いで放つ。
しかし、それでも牙狼剣は――ガロの足は止まらない。
『己以外を認めようとしない、貴様の陰我――』
やがて、大量のナイフや包丁等を押し負かし、ヴィクトリスの目前に到達したガロ。
己の前で回転する牙狼剣を手にし、それまで押し留めていた家事道具を全て弾き飛ばした。目の前で大量の家事道具がバラバラに弾け飛び、思わず顔を庇うヴィクトリス。
次にその瞳に映ったのは――今にも牙狼剣を振るわんとする、ガロの姿だった。
『俺 が 断 ち 切 る !!』
一閃。
横一文字に振るわれた牙狼剣はヴィクトリスの首と胴体を両断した。
黒い粒子となり、消滅していく胴体。残った首も怨嗟の表情を浮かべながら信じられないといったような声色で呟いていく。
『何故、だ……私の信じるものが、本物のメイドだというのに……何故、あんな偽物が……!』
『お前の言う本物がただの独りよがりだからだ』
ヴィクトリス――ホラーに憑依された女は自分の価値観を絶対のものと信じ、他者の価値観を決して認めず、排除していた。
しかしことりは違った。全く違う価値観の者――仲間とそれを認め合い、手を取り合って進んできた。
他者を決して認めず、己を認めようとしない者は全てを敵と見る――だからこそ、この女はホラーに憑依されたのだ。
もはや話すことはないと、ガロはヴィクトリスの首を斬り裂いた。
縦一文字に斬り裂かれ、縦に真っ二つとなったヴィクトリスの首は怨嗟に満ちた断末魔と共に消滅していった。
そして彩牙も、ガロの鎧を解除した。
――その時だった。
「っ!?」
背後から襲い掛かる殺意。咄嗟に反応した彩牙が振り向きざまに魔戒剣を振るうと、闇色の光が斬り裂かれた。
光が消滅し、その正体が地面に落ちる。それは真っ二つになった、漆黒の魔戒符だった。
そして――魔戒符を放った存在が露になる。
「見事だ。 未熟とはいえ流石は黄金騎士といったところか」
それは闇色のフードを被った男だった。
表情は窺えず、辛うじて見えるのは鋭く光る眼光のみ。闇の中から現れ、光が一切感じ取られないその男は、まるで闇そのものであると言わんばかりの佇まいをしていた。
「何者だ!」
『今の符……まさか魔戒法師か?』
魔戒剣を構える彩牙。
魔戒剣を向けられても、男はピクリとも狼狽えるどころか身構える様子も見せず、悠々とした態度で佇まっていた。
「私はホラーを愛で、共に歩む者……また会おう、黄金騎士よ」
「っ、待て!!」
慌てて駆け出すも時すでに遅し。
転移の術を使ったのか、光と共に男の姿はその場から消え失せてしまった。気配も何も感じ取ることができなくなった。
悔しそうに表情を歪ませる彩牙。
路地裏の外の通りでは、既にμ’sのライブが終わりを迎えようとしていた――
「――へえ、あれが黄金騎士か。初めて見た」
――そしてその様子を、ビルの屋上から覗いていた人影があった。
『声をかけないのですか?』
「いいさ。どうせそのうち会うことになるだろうし」
「――楽しみは、後にとっておいた方がいいだろ?」
**
「彩牙くん、ことりと何かありましたか?」
「え?」
ライブの終わった帰り道。
穂乃果とことりとも別れ、園田家に向かう中、突然海未がそう切り出した。
何故そんなことを?そんな疑問に満ちた視線を向けると、海未は当然というような表情で口を開いた。
「ことりが彩牙くんと普通に話していたからですよ。この間までは碌に目を合わせることもできなかったのに、何かあったと思うのは当然です」
「そうなのか?」「そうです」――そう返す中、彩牙は記憶を掘り返してみる。
確かに少し前まではことりは彩牙とあまり目を合わせようせず、どこか怯えたような様子を見せていた。だが今は違った。穂乃果や海未、μ’sの仲間と話す時と変わらない笑顔を見せていた。
「……別に大したことはないさ。ちょっと相談に乗っただけだからさ」
「そうなのですか?」
「そうだよ」
訝しげに彩牙の顔を除く海未。
少し間そうした後、まるでからかうかのような、それでいて子供を見守る母のような優しげな笑みを浮かべた。
「……わかりました、そういうことにしておきます」
くるりと彩牙に背を向け、少し前を歩く海未。
そんな彼女を、彩牙が少し困ったような表情で見つめた、その時だった。
(……小僧、話がある)
(ザルバ?)
ザルバが頭に直接話しかけてきたのだ。
海未はザルバのことを知っているのにそうするということは――海未に聞かせては不味い話なのかと察した。彩牙がそう考えたことを感じ取ったのか、ザルバは話を続けた。
(あのお嬢ちゃん、ホラーの返り血を浴びたな? 何故斬らない)
「――何を言ってるんだ!!」
ザルバの言葉の余りの内容に、思わず声に出して叫んでしまっていた。
びくりと、驚いた様子の海未が振り返った。一体何事かと表情に現れていた。
「ど、どうしたのですか!?」
「あ……い、いや……ごめん、なんでもないんだ」
そうですか――いまいち納得しきれていない様子だったが、向き直った海未は再び歩き始めた。
深呼吸し、心を何とか鎮めると、彩牙は再びザルバに話しかけた。憤りの感情と共に。
(どういうことだ! 何故海未を斬らなければならない!彼女はホラーじゃないんだぞ!)
(……そうか。やはりそれも忘れていたか)
憐みの感情が込められた、ザルバの声。
(いいか小僧、よく聞け。ホラーの返り血を浴びた人間は奴らにとって最高のご馳走になり、ホラーに真っ先に狙われるようになる。
……そして、ホラーの返り血を浴びた人間は、地獄のような苦しみと共に――)
そこまで聞いて、まさか、と彩牙は思った。
聞きたくない。聞かせないでくれと。
(――100日後に死ぬ)
***
絵里「人の出会いは素晴らしいことだと思うわ」
絵里「出会いは新しい世界を見せてくれるもの」
絵里「でも時には問題の火種を起こすこともあるのよね……」
絵里「次回、『波紋』」
絵里「出会いは重なり、大きな波になっていく」
魔戒指南
・ ホラー・ヴィクトリス
寂れたメイド喫茶の女店主に憑依したホラー。
憑依した人間の陰我に応じ、非常に利己的な性格を持ち、自らの価値観にそぐわない人間を結界に引きずり込み、その魂と肉体を紅茶に変えて捕食する。
また、捕食する際には紅茶になった人間の悲鳴や嘆きを十分に堪能してから捕食することを好む性質を持つ。
ナイフ、包丁、ハタキ、ティーセット……メイドに関連するあらゆる家事道具を召還し、それらを相手にぶつける安全帯からの一方的な攻撃という戦法をとる。