過ごしてきた日々が飛鳥をここまで辛くさせてしまっているのかもしれません。別れっていうのは悲しいものですからね。
「ただいまー。」
扉を開けた部屋は真っ暗で、僕の声だけが虚しく響いた。
「頭では分かっているつもりでも習慣というものは別に働くということか。」
おかえりと言ってくれる相手がいるっていうことはとてもありがたいことだったのか。
「失ってみてから初めて気づくことがあるなんて言うけど、そんなもの感じたくはなかったな。」
悲しいものは悲しい。嫌だ。けれどそう思っても仕方ない。さとりにはきっとさとりなりの事情があったのだろう。服やお金などを置いたままだし。
そうか!僕はハッとした。置いたままというのはきっと取りに帰るということだ。今は少し用事があるだけで…。
「それはない。プロデューサーが言っていたじゃないか。彼女はもう帰ることはできないと。」
そうだよね。そうだった。一瞬緩んだ頬はすぐにいつものさとりのような表情に戻った。
僕は鞄を玄関に置いたまま、浴室の扉を開けた。ゆっくりとジャージ、Tシャツ、下着と順番に脱いでいく。浴室は肌寒く身体が震えてしまう。けれど逆に今はそれが心地よく感じた。シャワーのハンドルを回す。最初は冷たい水が降りかかるが徐々に温かくなっていく。
さとりがいなくなってから一週間。生活はただ一カ月前に戻っただけさ。朝起きて学校に行き、帰ってからレッスン。そのあとはみんなでご飯を食べに行ったり、レシピを見ながら自分で作ったり。そして読書したり絵を描いたりしてほどほどの時間に寝る。胸躍った独り暮らしじゃないか。そんなには多くないけど事務所からの収入もあり、お小遣いは昔よりは各段にある。不満なんてなかった。楽しかった。その生活がまたできるっていうのは充分幸せなことだ。
「そう幸せなのさ。」
なのになぜだろうこのぽっかりと胸に穴が開いたような感覚は。僕は瞳を閉じ、さとりがいたときのことを思い出す。家事はできて料理も上手いのだけどレパートリーが日本料理ばかりだった。ある日僕が「さとりって和食好きなのかい?たまには他の料理も食べてみたいな。」って言うと次の日学校が早めに終わり部屋に帰ると『基本の洋食』って本を読みながらパスタを茹でていたな。しかも温度計で温度を測りながら。
僕はふふっと笑う。
帰ってきた僕に気付いたさとりは「このあるでんて?って何ですか?いつまで経ってもパスタから出てきませんし。ただ柔らかくなっているだけですし。」そう言って首を傾げるのだった。そこで僕は珍しく噴き出してしまったな。そんな僕を見て「知っているようですね。さあ早く教えないと麺が伸びてしまいますよ。」と言ったさとりをがおかしくて再び笑ってしまったな。
「詳しいことは詳しいのに。知らないことはてんで知らないんだから。」
僕の頬は緩んだままだ。
「そろそろ出るか。」
ふと給湯器を見ると時刻は一二時三七分。浴室に入ってから三十分以上も経っていた。
浴室から出ると部屋は外の気温と変わらないくらい寒かった。
「入る前に暖房をつけておくんだった。」
暖房を入れると服を選ぶ。特に外出する予定もないのであまり華美でないものにした。寒かったのでヒートテックの上にT-シャツ、パーカー。下はスウェットパンツ。
ピンポーン。
チャイムが鳴る。もしかしたら荷物を取りに来たのかもしれない。いくら用事っていってもそれくらいの時間はあるだろう。せめて今までの感謝を言いたい。そしてどんな用事なのかを聞きたい。僕にできることなら手伝うことが恩返しになるだろう。
もう一つの頭では低い可能性だと分かっていながらも、僕は淡い期待を胸に扉を開けた。そこには桃子が立っていた。
「なんだ桃子か。」
「なんだって何よ。ちょっと入らせてもらうわよ。ってさむっ。」
「それは今暖房つけたところでさ。」
「それで。さむさむっ。」
桃子はまっすぐこたつに向かってスイッチをつけた。
「家に帰らなくていいのかい?」
「今日はいいの!それよりテレビつけてよ。」
辺りを見渡すとテレビの台の上にあるリモコンを見つけた。
「そこにあるじゃないか。」
「届かないから取ってって言ってるの。」
「少しこたつから出ればいいだけだろう?」
「もうこたつに入ったから出れないの。」
気持ちは分かるけどさ…。僕はやれやれと首を振りリモコンを取る。
「これでいいかい?」
「よきにはからえー。」
桃子はリモコンを受け取るとチャンネルを吉本新喜劇に変えて寝ころんだ。
「それ好きなように任せるとかそういう意味だった思うけど…。」
「そうだった?なんかご苦労であったみたいな労いの意味だと思ってた。」
「まあ言われてみればそんな気もするけど…。」
「…。」
「…。」
桃子はこたつの上で手を組み、顔を置いた状態でテレビを見ている。僕はこたつに置いてあったファッション雑誌をペラペラとめくる。
「これ先月号か。今月号は…。」
棚を見渡すが先月号、先々月号、…と並んでいるだけだった。
「まあいいか。また学校の帰りにでも寄ればいいし。」
桃子の方を見るがテレビを見たままだ。僕もこたつに入りテレビを見る。借金取りに金を返せと迫られているところだった。
「お金…。」
まだ沢山残ったままだ。僕は洋服箪笥を見て呟く。
「ねえ飛鳥。さとりってなんで帰っちゃったのかな。」
「用事があるらしい。」
「それって家族のことなんじゃない。」
「そうかもしれないね。」
それはないだろう。さとりには親はいないのだから。
「家族って難しいよね。桃子のとこも喧嘩ばっかりしてるし。」
「僕は…母さんしかいないし、こっちに来てからは長い休みに会うくらいだから。…たまに寂しいと思うときがあるね。」
「お母さんの容態はどうなの?」
「概ね良好らしいよ。といっても退院はまだ先になるらしいけど。」
「そう。」
番組はなんやかんやでお金を返しハッピーエンドを迎えた。桃子はうーんと背伸びをするとこちらを振り向く。
「ねえ本当に何も聞いていないの?」
「残念ながらね。」
「うーん飛鳥にも言ってないなら人に言えないようなことなのかな。」
「誰しも人に言えないような悩みがあるものさ。さとりも例外ではなかったということだろう。」
「まあ世の中色々あるしねー。」
「そうそう。それでも言って欲しかったというのが本心だけど。」
「どうにかして連絡って取れないかな。」
「厳しいんじゃないかな。」
「携帯とか手紙とか家に行ってみるとか。」
「!?携帯か!」
僕は慌てて家の中を探す。さとりが置きそうなところは…。
「どうしたの!?急に。」
うーんここにもないとなるとやっぱり持って行ったままか。僕はスマホを取り出した。電話いやLINEの方がいいか。
「もう飛鳥!」
桃子が少し怒ったような顔をしている。
「どうしたの急に!何か思いついたなら桃子にも言ってよ。桃子も心配なんだから!」
「そうだね。ごめんごめん。名案が浮かんだから少し焦ってしまったよ。」
僕は深呼吸をする。焦ってもしょうがない。クールにいこう。
「さとりは携帯を持ったままなんだ。」
「携帯くらい持って帰るでしょ?」
「まあそうなんだけど。」
一呼吸置いてから話す。
「…ということは連絡ができるってわけさ。」
「うん。あっ分かった。GPS機能で今どこにいるか分かるってことね。」
「そうさ。だからLINEか電話で…。ん?…GPS?」
「LINEか電話だと出れなかったり返信できないかもしれないでしょ。でもGPSで居場所を突き詰めて直に会いに行けばそんな心配はないよね!」
僕は少し固まって得意そうな顔をしている桃子を見た。確かにその通りだ。さとりが連絡に答えてくれる可能性は低い。けれど会ってしまえば無理やりにでも話をすることができる。
「桃子。君の言う通りだね。GPSとは盲点だったよ。」
「普段の飛鳥だったら気付いたと思うよ。でもまあ。これを機に桃子のことをもっと尊敬することね。」
「そうだね桃子先輩。」
「よろしい。じゃあ早速調べてみようよ。」
「えっとどうやってやるんだっけ。あまり使ったことない機能だからよく分からなくてね。」
「先輩にまかせて!」
桃子は僕のスマホをひょいと取ると何やら操作し始めた。
「桃子小さいときから芸能界にいるから、何かあったら心配っていうことでGPS機能のついたケータイを持たされてるの。でも友達と遊びたいときもあるでしょ。そんなときはGPS機能切ったりしてたから使い方ちゃんと知ってるんだよ。」
「なるほど。それで。」
「よし出た!えっと、はちさかじんじゃ?」
「八坂神社か。よし着替えて早速向かおう。桃子も来るだろう?」
「当たり前でしょ!」
僕たちはこうして部屋を飛び出した。
今回もお楽しみ頂ければ幸いです。質問感想要望等あればご気軽にお願いします。
P.S 次回さとり様と対面です。