少し遅くなりました。」
私が飛鳥の部屋に入ると部屋は薄暗く、窓やベランダは開いており肌寒い。そして開いたベランダから外を眺めている飛鳥が目に留まる。
「飛鳥?どうして窓を開けているんですか?寒く…」
「さとり少し話があるんだ。」
私の言葉を遮るように飛鳥は言葉を続けた。
「さとりはシェイクスピアのリア王を読んだことはあるかい?」
「昔一度上演を見たことがあります。」
藪から棒になにかしらと思った。飛鳥の心からはリア王について話したいということと何か強い意志を感じられた。何か言いたい事があるようね。心当たりはないわけではないけれど。
「それは羨ましいね。僕は書籍を読んだことしかなくてね。…それで僕はリア王を読んで思った訳さ。どうしたらコーディリアは幸せに慣れたんだろうってね。」
「それは姉を見習って素直な言葉を言うべきではなかったのでしょう。」
なるほど。桃子のことで言いたいことがあるというわけですね。
「優しい嘘か…。しかしそれではコーディリアは救われるかもしれないがリア王の運命は変わらない。結局はゴネリルとリーガンに裏切られてしまうだろう。」
「けれど全部を救うなんてことは出来ませんよ?現実とは非情なものです。」
そう考えているうちは幼いと思う。現実はそんなに甘くはない。しかし単にそう思ってるというわけではないようね。
「そうだね、それは強欲というものだ。現実というものは常に取捨選択を要求してくる。」
「そう…ですね。」
そしてこれは私が長い人生で学んだものでもある…。世界は弱肉強食で弱いものは淘汰されてしまう。人の命というものは酷く脆く、儚い。私は幾度も壊れてしまうのを見てきた。
…その度に何度この力を呪ったか分からない。
「でもだからといって諦める理由にはならないだろう?例え可能性が一パーセントしかなくても…いや例え可能性がなくても自分で作り出せばいいじゃないか?」
飛鳥は振り返って言った。
「それは無謀というものです。では仮に失敗したときの可能性を考えてみましょう。コーディリアが正直に話してリア王に追放されます。リア王はゴネリルとリーガンに裏切られ狂気に陥ってしまう。シェイクスピアの筋書き通りの展開となるわけです。」
「失敗なんてものはどんなときでも付き物さ。だからといって考慮しなくていいっていうわけでもないとは思うけど。」
「けれど人生においては失敗は何度も起きるものです。成功する方が少ないとも言えるでしょう。」
「少し疑問に思ったのだけどいいかな。」
「どうぞ。」
「何故失敗をしては駄目なんだい?」
「駄目というよりも失敗してしまうということは多かれ少なかれ悲しみを伴うものです。ないに越したことはないでしょう?」
「僕はそうは思わないよ。いや確かに失敗が悲しみを伴うことはあるだろう。だけど人は乗り越えることができる。これは借り物の言葉だけど言わせてもらうよ。人は失敗を糧に成長できるってね。」
「それは取り返しのつかない失敗をしたことのない人の言葉です。もし失敗によって命が失われたらどうするんですか?」
「場合にもよるけれどそうだね。それが僕の失敗によって人の命を奪ってしまったというなら。」
飛鳥は少し考え込んで言った。
「僕という存在そのものを使って償うかな。」
「…命というものは償えるものではないですよ。」
私は重く言葉を吐き出した。
「それはそうだね…。ごめん僕が間違っていたようだ。」
飛鳥沈痛な表情を浮かべて俯いた。
「だから私は嘘でも幸せになれる人がいるなら嘘を吐きます。」
「そういう考えもあるの…かな。どうやら僕が未熟だったようだ。」
飛鳥はそう言うと暖房をつけ、ベランダの窓を閉め始めた。
「もう一つ聞きたいことがあるんだ。」
「何ですか」
私も開いている窓を閉めながら答えた。
「さとりは自分のことは好きかい?」
私は間髪を入れずに答えた。
「嫌いですよ。自分のことは。」
「それは…悲しいな。」
飛鳥はそれがまるで自分の痛みであるかのように悲しむ。
「けれど難しいことなのかもしれないな。」
飛鳥の中では色々な考えが渦巻いているようだ。自分のことを好きといえる人間に私になって欲しいと思う反面私が背負っているであろう悲しみを想像すると言葉にするのは酷く酷なものだと思い口にできない。
桃子のことも単に悲しんでいる人がいるのを見ていられなかったからのようだ。
「飛鳥は優しい人間なんです。だから私を認識できるんですよ。」
私は飛鳥を抱きしめて言った。
「な、なんだい急に。」
「飛鳥の考え自体は素敵なことです。できるならその方がいいでしょう。私もこれからはできるかぎりそうしましょう。」
「いや、えっとなんていうか、その…。」
飛鳥は瞳に涙を含ませている。
「私はは自分に正直でありたいだけ…。だって自分を偽るなんて辛いよ。嫌だよ。悲しいよ。」
「そうですね。でも飛鳥、私はこういう性分なんです。これだけ生きているとなかなか変わりませんよ。それに慣れというものもあります。」
「それは嘘!つらいことは…つらいし…悲しいこ…とは…悲しいじゃん。」
飛鳥は声にならない嗚咽を漏らしながら言う。
「…そうですね。でも人間は乗り越えていけるのでしょう?大丈夫ですよ。私は人よりも丈夫ですから。」
「そんなこと言って…。もう!」
飛鳥は涙を手で拭いながら私とは反対の方を向いた。それからしばらくこらえたような嗚咽の音だけが響いた。そしてこちら振り向くと紅く泣き腫らした顔で飛鳥は言った。
「さとりの考えは間違っているとは思わない。でも私は嫌だ。だからいつか必ず変えさせるから。」
「…そうですか。」
「今は駄目だったけど私諦めないからね。」
「分かりました。そんな日が来ることを望んでいます。」
珍しく私から出た願望だった。私はそんな自分に気付くと酷く滑稽で笑い出した。
「なに?急に笑い出して。」
「いえ…なんでもありま…せん。…それにしても飛鳥は本来の一人称は私だったんですね。」
「いや、ちがっ。」
飛鳥は赤面した。
「僕!僕さ。少しどうかしていただけさ。それを言うならさとりだって急に抱きしめてきたけど身長足らないから抱きしめるっていうより抱き着くって感じだったよ。」
「そうでしたか?まあそれはそれとしてご飯にしませんか?少し土産があるんですよ。」
「そうだよ。…そうだねお腹も空いたし。お土産ってどこに行ってきたんだい?」
「少し旧友のところへね。鍋はありますか?」
「小さいものなら。」
「二人なので十分ですよ。…今晩はすき焼きですよ。」
私は袋からお肉を取り出して言った。
嘘って難しいですよね。最後までちゃんと騙してよって言葉があるように気付かせなければ幸せなのかもしれません。それを言うならそもそも幸せって何よという話にもなりますし。
飛鳥は日頃からこういった哲学をしているのかなと思っています。一見痛いようなことでも本人としては考えに考えを重ねた結果であるから信じているということかなと。
此度もお読み頂きありがとうございます。また次回もお楽しみ頂けると幸いです。
PS.飛鳥のCD発馬まで後二十日