11月上旬、水曜日。日が落ちれば、随分と冷え込むようになった。天候は雲一つないが、都会の夜空に星は浮いていない。
平日の市川パーキングの深夜は、週末とは比べ物にならないほど、静まり返っていた。
高峯のあに指定されたこの日。時刻は天辺を過ぎた頃に、ヘレンと留美は、テスタロッサで。拓海は真奈美を乗せてソアラで。市川パーキングに辿り着いた。
パーキングで待ち構えて居る2台のポルシェ。ルーフCTRイエローバードと、964型のポルシェターボ。
(……相川千夏は、着いて来ただけだろうな。しっかし……この面子じゃ、あたしのソアラがみすぼらしく見えるぞ……)
高級車の群れに、少し嫉妬する拓海だった。
わざとらしく、CTRの隣に停車したテスタロッサ。乾いたフラット12の排気音が、静かなパーキングに響き渡る。そして、ソアラも隣に陣取った。
マシンから降りると、高峰のあ、相川千夏の両名が出迎える。
「……ようこそ。最終ステージへ」
のあは、おどけた様に言うが、冷たい視線のまま4人を見ていた。
「……ふふ。良い夜になりそうね」
含み笑いを見せながら、ヘレンはのあと視線を交錯させた。
「まともに、挨拶するのは初めてね。高峯のあです」
「……ヘレンと呼んで頂戴」
互いの自己紹介は、簡素だ。そんな能書きは必要ない。
今ここで、お互いの波長を感じられるから。百の言葉を交わすよりも、きっと確かだと解るから。
「……行きましょうか」
「ええ」
のあの言葉に、ヘレンは頷いた。
2台の猛獣が、雄叫びを上げる。
ツインターボのフラット6と、NAの水平対向12気筒。
ドイツの英雄と、イタリアの誇り。世界を引っ張り続けてきた、スーパースポーツの両雄が、湾岸線を舞台に火花を散らす。
CTRがゆっくりと動き出すと、テスタロッサもそれにならった。
「……行ったわね」
千夏は、遠ざかる赤いテールを眺めながら呟いた。
「追いかけないのか?」
「10分後には、私のポケベルに連絡が入る筈よ。それを過ぎたとしたら……巡航速度で追いかけるわ」
拓海の問いに答えた千夏は、どこか不安を隠せていない様だった。
「……今は信じようじゃないか。彼女達をね」
真奈美は、願いを込めてそう言った。
3,4リッターのフラット6に二つのターボチャージャーを組み合わせ、カタログデータは469psと記載されているが、実測では500psを超えるモンスター。加えて、CTRの重量はテスタロッサよりも400kg近く軽量な車体。
3速全開。ヘレンの視界から、見る見る内にテールランプが離れていく。
しかし、ヘレンは意外と冷静だった。
(……初めての時よりも、ついていけるわ)
道の先を見据え、4速へシフトアップ。一度ドロップしたタコメーターが、旋律と共に上昇していく。
200kmを超え、風を切り裂く音が一層大きくなる。テスタロッサは、ひたすら前へ前へ走ろうとする。
走る事を宿命とする跳ね馬は、より速くとドライバーを攻め立てる様だった。
「……ディズニーコーナーを抜けてから、一回目を使うわ」
「オーケー……」
留美の指示に、ヘレンは答えた。
長く右旋回する、ディズニーコーナー。
RRという古典的なレイアウトは、リア2本のタイヤに6割強の重量が乗っかる分、強力なトラクション性能を発揮する。
しかし、2272mmのショートホイールベースかつ、トレッドの狭い930ボディの場合、長く旋回するコーナーでの安定感に難が有る。旋回中にリアタイヤが、ほんの僅かでもグリップを失えば、一気にテールが滑りコントロールは不可能になる。
のあは、5速のままブレーキング。きっちり210kmまで落とし、ヒールアンドトゥを使って4速へシフトダウン。フロントに荷重を乗せて、ゆっくりとステアリングを切る。
進入から、一定の舵角とブーストが落ち切らない程度のスロットル開度で、丁寧にクリッピングポイントを舐める。
立ち上がりもアクセルは焦らない。ゆっくりとアクセルを入れて、少しづつリアに荷重を乗せていく。
トラクションに優れるポルシェは、基本に忠実なスローインファストアウトを徹底する事で、もっとも速く走らせるマシンなのだ。
立ち上がって全開。のあは、右車線にマシンを寄せてから、ミラーでテスタロッサのヘッドライトを確認した。
(……コーナーで詰められてる)
その差は、縮まっていた。
CTRに比べ、二回り以上に恰幅の大きいテスタロッサ。ノーマルボディの剛性不足を解消する事で、ワイドトレッドとロングホイールベースの利点を生かせる。つまり、より高速域の安定感を身に付ける事が出来たのだ。
ストレートに入り、テスタロッサはCTRの後方を捕える。そして、5速へシフトアップ。
「……一回目。行くわよ!!」
ナビシートの留美が声を張り上げた。燃調コントローラーのダイアルを捻った。
同時に、ヘレンはステアリングのミサイルボタンを押して、ナイトロ噴射。
「……ッ!!」
5速5500rpmまでドロップしたF113Bが、唸りを上げながらスピードを乗せていく。
650psと真奈美が伝えた、最高出力。その加速Gで、ヘレンと留美の体はシートに押し付けられる。
これまで、体感した事が無い位凄まじい力だった。以前が片手で押されてる位の感覚だったとすれば、今は両手両足を使って思いっきり押し出されている程、感じられる加速度が違う。
急激に視界が狭く感じられる中、ヘレンはステアリングを握り、ルーフのテールランプを見据え続けた。
CTRが6速へシフトアップ。しかし、ミラーに反射するする光が、グングンと迫り来ている。
(……近づいてくる!?)
NAでありながら、ツインターボを凌ぐ加速力をみせるテスタロッサに、のあは初めて動揺を見せる。
(何故なの!?)
相手のカラクリが解らない以上、のあには手の打ちようが無い。
辰巳ジャンクションを、270kmで通過。ここでテスタロッサが、CTRのスリップストリームに入った。同時にナイトロのスイッチをオフ。
280km。ヘレンは、ギリギリまでスリップを効かせて、速度を乗せる。
290km。CTRの左に出て、テスタロッサが横に並んだ。
300km。高周波と化した風切音を切り裂く様に、12気筒のNAのエキゾーストノートが、湾岸の闇夜に響き渡る。
(……仕方ないわ)
のあは、アクセルを緩めて、一度テスタロッサを先行させる。
今度は、テスタロッサの背後にCTRが喰らい付く。
しかし、この時点では、のあが考えていた展開とかなり異なっていた。
(最高速の伸びはともかく、CTR以上の中間加速を見せたわ……。音を聞く限り、NAで間違いない筈なのに……)
ぴったりと後ろに張り付いて、テスタロッサの動きの一つ一つを見極める。
(ま、いいわ……)
まだ手は有るとばかりに、ヘレンを追い立てる。百戦錬磨の女王たる由縁は、最高速の速さもさることながら、いかなる状況でも冷静さを失わない事につきる。
(……一般車を、上手くかわせるのかしらね)
のあは、じっくりと獲物を狙うハンターの様に、テスタロッサの一挙手一投足を見逃さない。
赤いテールランプの群れが見えた。300kmから、一旦減速して速度は220km程度まで下がる。
100kmで走る障害物を、縫う様に追い抜いて行く2台。テスタロッサの真後ろにぴったりと喰らい付いたまま、CTRが追いかける。
「……ッ」
ヘレンは、チラチラとミラーで後ろを見る。
走りの熟練度と言う部分では、ヘレンは未熟だ。
以前のバトルでは、他のトップランナーを真正面から押し切れたとはいえ、駆け引きに関して言えばヘレンは素人同然。
こういった接戦では、弱さを露呈する。
「……」
ヘレンは、またもミラーを見た。出来る限り、CTRの動きをうかがっている。
後ろに迫りくる、女王のプレッシャーは、並大抵では無い。
「大丈夫よ。……マシンを信じて走りなさい!!」
留美は、ゲキを飛ばした。
「…………」
ヘレンは何も答えない。
「……フェラーリが好きなんでしょ!? 世界レベルにふさわしいマシン何でしょ!? だったら……トップエンドまで踏み抜きなさい!!」
そこまで言われ、ヘレンの口元が僅かに緩んだ。
「……ええ。任せなさい!!」
そう答えた時、ヘレンはミラーを見るのを止めていた。
有明ジャンクションを通過。
まだ一般車は消えない。残すは、東京湾トンネルと、その先の左コーナー。
(……左コーナー先で、1,5までブーストを上げる。そうすれば、抜ける……)
のあは、右手でコンソールボックスから生える、機械式ブーストコントローラーのダイアルの位置を確認。勝負所はそこしかないと見据えていた。
それは、テスタロッサも同じだった。
「左コーナーを抜けたら、二回目を使うわよ」
「……オーケー!!」
燃調コントローラーのダイアルに、留美の左手が伸びた。
東京湾トンネルを抜け、左コーナーへ差し掛かる。
230kmでの左旋回。一番左車線を走るトラックを追い抜けば、一般車は居ない。
コーナーを立ち上がると同時に、一般車の姿が途絶えた。水銀灯とアスファルトだけが立ち並ぶ、ストレートがそこに広がった。
オールクリア。
テスタロッサがナイトロを噴射すると同時に、CTRもブーストを上げて勝負をかける。
(……6速へ!!)
CTRは、左コーナーを5速で立ち上がり、6速へシフトアップ。
一回分のシフトで、ゼロコンマ何秒だけ、ブーストの立ち上がりが遅れた。その一瞬のラグで、テスタロッサが半車身だけリードを奪った。
5速のままコーナをクリアしたヘレン。アクセルを踏みつけ、目一杯の燃料と亜酸化窒素と空気を、燃焼室に送り込む。
爆発した排気ガスが、12本のエキゾーストマニホールドを叩いて、ソプラノのミュージックを奏でる。
流麗なボディは、風圧に負けじと加速を続ける。
250km。
260km。
スピードメーターもタコメーターも、グイグイと上昇を続ける。
270km。
280km。
大井ジャンクションを通過。
僅かだが、CTRはジリジリと離されていく。
(……速い)
のあは、ちらりと追加メーターで、エンジンのコンディションを確認。
(油温も油圧も問題無い……。ただ、排気温度が上がってるわ……ブーストも1,3までタレてる……)
中速域でトルクの出るツインターボの特性は、200kmオーバーの速度域で強力な加速力を生み出すが、高回転域での伸びはテスタロッサに比べ少し劣っていた。
エンジン特性の差が、ここで出てしまった。
290km。
295km。
テスタロッサがジリジリとリードを奪う。黄色い怪鳥が、初めて後塵を拝んだ瞬間だった。
300km。
305km。
ヘレンが叫んだ。
「……見えたわ!!」
高速道路上を横切る、大井ふ頭の連絡道路。
湾岸ランナー達が決めた、チェッカーフラッグだ。
5速、8200rpm。時速310km以上。
防音壁に響いた甲高いエキゾーストノートは、紛れも無く勝利の雄叫びだったに違いない。
市川パーキングに待機する三人。テスタロッサとCTRを見送って、きっかり10分経ってからだ。
千夏の持つポケベルのアラームが鳴り響いた時、まずは安堵の息を吐き出した。
(長い10分だったぜ……)
拓海は、真っ先にそう思った。このまま連絡が無ければ、万が一の事態さえも考えられたのだから、無理も無いだろう。
「……彼女からは何と?」
真奈美が聞くと、千夏は何も答えずに、ただポケベルに送られたメッセージを見せた。
“マケタ”
そのメッセージを見た時、拓海と真奈美は反射的にハイタッチを交していた。
2台は大井南ジャンクションを降りて、海浜公園の近くに車を停めた。のあは、先に公衆電話を使ってポケベルでメッセージを送った。
無事だという事だけ報告し、のあは再びヘレン達と対峙する。
「テスタロッサの……あの加速力は一体、どんな秘密が隠されているの?
あの音は、NAのままの筈よね?
いくら5リッターだからと言って、あそこまでの加速力を生み出すのは、不可能なはずよ……」
のあは、捲し立てる様な口調でテスタロッサの秘密を聞きただした。
「……ナイトロオキサイドシステムよ」
「……ドラッグレースで使うあれの事?」
「そうよ。勿論、一晩で使い切ったけれどね。NAでターボを上回る加速力を身に付けるには、ナイトロ以外に考えられなかったわ」
留美に言われ、のあはフッと笑みを見せた。
「……呆れたわね。今日一晩だけ速ければ良いって事だったの?」
「そうなるわ……ね? ヘレン?」
「ええ、そうよ」
話を振られ、ヘレンは得意顔を見せた。
「……今日の所は、私の負けね。だけど……また走りましょう。
まだ、私は降りる気は無いから……」
そう言い残し、のあはCTRに乗り込んだ。
空冷フラット6のエキゾーストを木霊させて、夜の街へと消えて行った。
「……私達も帰りましょうか」
「……そうね」
そして、テスタロッサに乗り込んだ。