次の土曜日から、ヘレンは湾岸に行く事を止めた。まずは、テスタロッサの本来の性能に戻す為に、テストをしなければならないからだ。
拓海は締め切り前で忙しく、合流するのは難しい様で、ナビシートには留美が座る。
練馬から常盤自動車道へ。湾岸線ほどでは無いが、それなりに直線も有る。何よりも、交通量が少ない。テストするには、十分なロケーションだ。
練馬から乗り、谷田部ジャンクションまでの往路は完熟走行を兼ねたコンディションチェック。
「……素晴らしく安定する様になったわ」
ヘレンは舌を巻いた。
「当然よ。アライメントをチェックするのは基本中の基本だわ。それと、空気圧は規定値より高めにしておいたから、ステアリングの操作は慎重にね」
「……どういう事かしら?」
「テスタロッサは、車体重量が重いのよ。それに高速走行になれば、タイヤにかかる負担は通常より大きいの。空気圧が規定だったとしても、タイヤがたわんでまともに走れなくなるわ。
タイヤバーストの対策の一つよ」
「……そう」
ヘレンは、今一つピンと来ていない様だ。
そして、谷田部ジャンクションで一旦降りる。今度は東京へ戻る復路だ。
高速道路に、他の車の気配は無い。ろくに明かりも無く、頼りになるのはヘッドライトの光のみだ。
「……全開」
その一言を皮切りに、ヘレンはギアを5速から3速へ。アクセルをジワリと踏みつける。
5500rpmから、ぐんぐんとタコメーターが上昇。3速6800rpmで、メーター読み160キロを少し超える。4速へシフトアップ。ドロップしたタコメーターは再びグイグイと上昇をする。
180キロを超えても、テスタロッサの直進性は高い。国産スポーツカーとは、比べ物にならない程、どっしりと安定していた。
「4速で、200キロをキープして」
留美はヘレンに、そう指示を飛ばした。
「……わかったわ」
4速、6000rpm付近で、一定の速度を保つ。200キロでも、テスタロッサの直進安定性は、素晴らしい物だった。
とは言え、法定の倍の速度で10分も走れば、ステアリング操作にもかなりの神経を使う。ヘレンは全神経をドライビングに集中させ、暗闇を切り裂くヘッドライトの光を睨み続ける。
そして、復路のゴール地点。柏インターの手前の守谷サービスエリアに、テスタロッサは滑り込んだ。
留美は自動販売機で買ったポカリスエットを、ヘレンに渡した。
「ありがと……」
高速域のドライビングはただでも神経を使う。まして、テスタロッサの車幅は1980mm。普通車とは、比べ物にならない程広い。流石にヘレンは疲れた様子だった。
「…………」
一方の留美は休憩を取らず、テスタロッサの巨大なエンジンフードを開いた。左手にはプラグレンチが握りしめられている。
まだ熱を帯びているエンジンルームに手を突っ込み、手早く一本のプラグを外す。
街灯にさらさせたプラグの頭は、白く焼けていた。
「……やっぱりガスが足りてないわね」
プラグの頭を見つめて、留美は言った。
「……まだ問題が有るの?」
「問題だらけよ。山積みだわ」
ヘレンには、死刑宣告に聞こえる様な台詞だった。
翌日。どうにか仕事を終わらせて、拓海が整備工場に着く頃には、完全に営業時間を過ぎていた。もっとも、テスタロッサの整備自体は営業時間外に行うので、あまり問題にはならない。
「すいません、遅くなりました」
そう言いながら、拓海はシャッターを潜った。
乱雑に詰まれた廃タイヤに腰を掛けるヘレンに、工具類を整理する留美。そして、リフトで上げられたテスタロッサがそこに居た。
「問題無いわ。どの道、テスタロッサを仕上げるのは、かなり骨が折れそうよ」
留美はポーカーフェイスのまま伝えた。
「一つ聞いておきたいわ。山詰みの問題って、単に整備が悪いだけじゃないのかしら?」
ヘレンは、留美に聞きただす。
「それも、問題点の一つよ。だけど、それ以上に問題が多いのよ」
一旦区切ってから、留美は言葉を続ける。
「湾岸線で最高速を出す事は、単純に馬力が有ればいい訳じゃないのよ。
パワーを上げれば、それだけ他の部分の負担が大きくなるの。ミッションやクラッチ、デフにドライブシャフト。パワーを路面に伝える為の駆動系が、馬力に負けてしまえば壊れてしまう。それでは、馬力を上げる意味が無いでしょう。
勿論、ボディを支えるサスペンションだって強化しなければいけないし、ましてやブレーキはノーマルじゃまるっきり役不足ね。
これだけ重量がある車なの。加速もそうだけど、それ以上に減速する事が不得手だわ。トップスピードを出す以上、万が一の時に止まれない車に乗る事は、自殺行為に等しいのよ」
留美の意見は、的を得ていた。車とは、走る、曲がる、止まる、と言う三つの要素を兼ね備えて、初めて成立する。それは、F1でも軽自動車でも変わらない。
「……姉御。他に良い方法は無いのか?」
拓海は、思わず聞いてしまった。
「一番手っ取り早い方法は、このテスタロッサを売って、GT-Rに乗り換える事よ。
この車なら、かなり高額で引き取って貰える筈よ」
元も子も無い意見だった。
「…………」
拓海は押し黙ってしまう。
「……嫌に決まってるわ。フェラーリじゃなきゃ、意味が無いのよ」
ヘレンは、啖呵を切った。
「そこまで拘る理由、聞かせて貰えないかしら?
どこぞの金持ち達みたく、変に見栄の為に買った訳じゃ無いんでしょ?」
留美に言われ、ヘレンは口を開く。
「……私は二歳の時に、イタリア系の父親と日系の母親と、横須賀のベースに移住したらしいわ。空軍のパイロットだった父親は、大のF1好きで良くその事を話してたわ。
父親の書斎には、マリオ・アンドレッティとジル・ビルヌーブの等身大のポスターが飾ってあった事を、良く覚えているわ。
イタリア系移民だからかは知らないけれど、父親は熱狂的なティフォシだったわね。フェラーリチームが優勝するだけで、翌日はバーベキューだったわね……。何時も母親が呆れてた。
だけど、8年前……。私がまだ横須賀のハイスクールに通ってた時だったわ。
たまたま、本国に仕事で帰国していた時……強盗に撃ち殺されたのよ」
「…………」
「……父親は、何時かフェラーリで大陸を駆け抜ける事を夢見てた。その夢は、永遠に叶う事は無くなってしまったのだけれどね……」
「……そう」
留美は、ポーカーフェイスのまま相槌を打つ。
「……私にとってのF1は、フェラーリなのよ。真紅のマシンが、一番最初にチェッカーフラッグを受ける事なの。
また、跳ね馬は蘇ると信じているわ」
そこまで語ると、ヘレンは少しだけ顔を伏せていた。
拓海は、少しだけヘレンの事を勘違いしていた事を理解した。湾岸をフェラーリで走る事にこだわる理由に、考えもしなかった信念がそこに有ったから。只の酔狂じゃ無かったのだから。
「仮に、ポルシェやGT-Rと五分でテスタロッサを走らせるとして。時間もお金も、どれ位かかるかわからないわよ?
それでもやるの?」
留美は、真っ直ぐにヘレンを見つめた。
「……いくらでもやるわ。フェラーリは、ナンバーワンじゃ無ければいけないのよ」
ヘレンは言い切った。
「解ったわ。だけど、少し時間を頂戴。テスタロッサの資料は、殆ど持ち合わせていないのよ」
留美の口元が、少しだけほころんだ。
「……姉御」
拓海は、何故だかはわからないが胸が熱くなった。
それから、三人でテスタロッサのモディファイが日々が開始された。テスタロッサは裏の廃車置き場の隅に、シートをかぶせて保管した。
毎日、営業時間が終る夜7時に集まって食事してから、深夜近くまで作業をする。
拓海の仕事が抜けられない時は、ヘレンが。ヘレンがバイトで抜けられない時は、拓海が。どちらか一人が、必ず助手に付いた。
留美は、黙々とテスタロッサの整備を行った。
まずは、テスタロッサの本来の性能を引き出す為のメンテナンスだ。山積みの問題点の一番のネックは、元のコンディションが悪い事。元が悪いままチューニングした所で、性能は上がる訳が無いのだ。
その中の問題点の一つで留美が指摘したのは、買った時から装着されていたケーニッヒのマフラーだった。
レーシングマシン並みの快音を奏でるマフラーだけに、排気効率は高い。所謂、ヌケが良いと言われるマフラーだ。
「……ただ、ノーマルエンジンにこのマフラーだと、抜けすぎるのよ」
テールからはみ出る、2本のマフラーを見ながら留美は言った。
「ヌケ過ぎる?」
拓海は間抜けな顔で聞き返した。
「……元々の燃料噴射量を、ノーマルマフラーに合わせて調整しているんでしょうね。
排気効率は上がっても、噴射される燃料の量が足りていないのよ。つまり、燃焼室内の混合気が足りなくなるって事なの。
このマフラーのままじゃ、恐らくノッキング(異常燃焼)を起こすわね」
「……そんな事言っても、ノーマルのマフラー何て持って無いわよ?」
ヘレンはそう言うが。
「……だったら、燃料を増量するだけよ。勿論、燃やす燃料が増えるなら、火花も大きくする必要があるかしらね」
留美は人差し指で、丸い金属の筒をピンと跳ねた。
水平対向12気筒のティーポF113Bユニットは、ボッシュ製KEジェトロニックの機械式インジェクションによって燃料を噴射している。機構自体は、80年代の車両として比較的オーソドックスだと言える。
まずは点火系を一新。ディストリビューターとイグニッションコイルの交換、及びプラグコードの強化。イタリア製のマレリの純正新品も検討に入れたが、これだけで約30万円にも上ったため、アメリカ製のOEM品で我慢した。ただ、それでも20万円近くした。プラグはNGKの7番を12本揃えて、エアーエレメントは純正新品。
決め手の燃調は、定評のあるレビックの燃調コントローラーを二機掛けで制御し、A/F系も取り付けた。
F113Bユニットは、水平対向12気筒なのは周知のとおりだが、エンジンの全て左右対称に作られている。ECUも片バンクを一個で制御しているという、凝った作りなのだ。
兎に角、部品の値段の高さに三人とも開いた口がふさがらなかった。
しかし、一通りの作業を終え、もう一度テスト走行へ。
二度目の常盤自動車道。前を走るテスタロッサを、後ろからソアラで追う。
12気筒の咆哮は、以前よりも力強く聞こえた気がした。
谷田部までの往路で、マシンをじっくり温める。そして、復路へ。
今回も、4速で時速200kmをキープする。ただ一つ違うのは、留美がデジタル製のストップウォッチをぶら下げていた事だ。
何度かタイムを測定し、そのタイムをメモ帳に走り書きしていった。
テスタロッサが200kmで走る後ろを、ソアラで付いていく。とは言え、ソアラでの200kmはかなりキツイのか。途中から、拓海はジリジリと離されていった。
そして、守谷サービスエリアに到着。前回のテスト同様に、留美はプラグを一本外した。
前回真っ白だったプラグは、今回は少し黒っぽい。
「……少し濃いわね。まだ薄く出来そうね」
そう呟いて、留美はプラグを元に戻した。
エンジンフードを閉めて、次に留美が行ったのは走行中にメモ書きしたタイムの計算だった。メモ帳の数字を睨みながら、電卓を叩く。
ヘレンと拓海は、黙ってその動作を見ていた。
「時速200kmだと、200000メートル……。割る60の割る60で……秒速は55,5メートル。1キロ……1000メートル割る55,5は……約18秒。
計測したタイムが……おおよその18秒6が平均ね。というと……1000割る18,6は、53,76で……かける60のかける60の割る1000は……193,536キロになるわね」
「姉御……何の計算してるんだ?」
謎の計算式に、拓海は疑問を浮かべる。
「……単なる算数よ。距離と時間と道のりのね。小学校で習ったでしょ?」
「……覚えてないなぁ」
拓海の反応に、留美は呆れた顔を見せる。
「……その計算に何の意味が有るのよ?」
ヘレンはそう聞きただす。
「あくまで参考でしかないけれど、200kmの速度で1キロの区間を走ると、理論上は18,01秒になるわ。
一定の区間の平均タイムを出す事で、どれ位の速度が出るのかの基準を作りたかったのよ。
実際メーター読みだと、どうしても誤差は出やすいし、全開で飛ばしてる時にメーターを見ている余裕なんてないでしょう?
ちなみに、今の200kmの巡航だと、実際の平均速度は193kmだったわ」
「……つまり、その計測した区間を全開で駆け抜ければ、このテスタロッサが何キロ出ているのかが正確に解るわけね」
ヘレンは、ニヤリと笑った。
「その通りよ」
対照的に、留美は相変わらずポーカーフェイスを保っていた。