開店前の朝8時。
整備工場裏手の廃車置き場に、テスタロッサは収まっていた。まだシートは被せられていない。
ヘレンは、始発の電車で仕事に向かった様で、この場に居なかった。
「……ミッションですか?」
拓海の言葉に、留美は頷いた。
「ええ……4速が飛んだわね。」
拓海は顔を苦々しくする。
「とは言っても、テスタロッサ自体ミッションが弱いのよ。ミッションのメインシャフトが弱い事は良く言われるけど、設計自体も特殊なの」
留美は地面に小石で大き目の長方形を書き、その下に小さく正方形を書いた。
「テスタロッサの流れをくむ、365GT4/BBや512BB。これと同じ、水平対向の12気筒を搭載するミッドシップのフェラーリだけれど。
これらは、エンジンの下にトランスアクスル、つまりミッションとデフが一体になったユニットなのだけれど。かなり独特のレイアウトを取っているのよ」
「って事は、こっちのデカい方の四角がエンジンで、その下がミッションとデフ?」
「そうよ。エンジンと駆動系が、二階建ての構造になっているの。
このレイアウトなら、これだけ大きなエンジンであっても、車体をコンパクトに収められる。ただし、重心はかなり高くなるわ」
留美は、上下の四角を一本の曲線で結びながら、解説を続ける。
「エンジンで発生した駆動力を、ヘリカルギアで一度Uターンさせてミッションに伝える。
そこからミッションを通じて、ファイナルギアからデフで左右に駆動力を配分して、ドライブシャフトがタイヤを回すようになってる……」
「……ふむふむ」
「このレイアウトの特性上、部品の数が普通より増えるわ。
部品点数が増えるという事は、それだけ摩耗する部分が増える。恐らく、何処かしらのベアリングにガタがきていた可能性が有るわね……。
高速域で走る時は、ほんの僅かな精度の狂いで、そこに大きな負担がかかるのよ」
留美はそう勘ぐった。
「……それと、電話で言ってたいい報告ってのは?」
拓海は改めて聞く。
「今回、初めて計測区間を全開で走らせたわ。メーター読みで300kmは出ていたけれど、実測は少し落ちてる。だけど、ほぼ誤差の範囲と言っても良いレベルよ。
5か所で測った内、最速が12秒21。最遅が12秒82。平均が12秒47。
これを前の計算で当てはめていくと、最速が294,8km。最遅でも280,8km。平均では288,6kmをマークしているわ。
元から変わってたマフラーと燃料のリセッティングで、ほぼカタログ値と遜色が無い。幸いにもエンジンは当たりを引いた様ね」
「……じゃあ、ノーマルの性能はほぼ引き出している……」
「エンジンに関しては、ね」
拓海の言葉に、留美はそう告げる。
「それにね。もう一つ重要な事を発見したわ。
ヘレン……彼女は天才だわ」
留美は断言した。
丁度拓海がCTRの助手席に座っていた時と同じ時間帯の事だった。
昨晩の常磐道でのテストの時だった。一通りのメンテナンスを完了させてから、テスタロッサを全開で走らせるのは初めてだ。
谷田部で折り返して、巡航速度を保つ。
「……思いっきり行くわよ」
ヘレンはそう告げて、2速にギアを入れる。アクセル全開。
7000rpmまで軽々と回り、その素晴らしいエキゾーストノートが車内になだれ込む。
3速にシフトアップ。各ギアを切り分けた、アルミのゲートが金属音を立てる。時速は160キロを超え、4速へ。ここから200kmオーバーの領域へ飛び込んで行く。
4速のまま、なだらかな右コーナーを加速していく。
先に何か、白い影が見える。右車線をトロトロと走る、白い一般車両だ。法定巡航速度より遅いのか、丸で止まっている様に感じる。
白い影が見る見る近づいてくる。パッシングを浴びせても、丸で譲る気配が無い。
「……チッ」
ヘレンの出した舌打ちは、風切り音で留美には聞こえなかった。
そして、左にウインカーを出して、中央車線にレーンチェンジする。だが、白い一般車は想定外の動きを見せる。
「……!?」
後続車の接近に気が付いたのが遅かったのか、今更になって車線を変更してきた。テスタロッサの動きに、ほぼ被せる格好になってしまっている。
「……まずいわ!!」
留美が叫んだ。
前方との距離は、推定100メートル。速度差は100km以上。一般車両に追突するまで、約3秒の時間しかない。
ヘレンは一瞬のアクセルオフから、ハンドルを左に切り足した。テスタロッサの鼻先が左車線を向く。
右横に白い一般車の影を写しながら、今度は右へハンドルを切る。
だが、急激な荷重移動によって、車両のヨーイングは急激に変化した。テールヘビーなテスタロッサのリアタイヤは、グリップ限界を超えてしまう。鼻先は右方向へ持ち直しても、それ以上にリアは左方向へと流れ始めていた。
「……アクセル!!」
怒鳴る様に留美が言った。
しかし、ヘレンはそれよりもゼロコンマ何秒か早く、アクセルを踏み抜いていた。
一気にアクセルを踏んで、リアサスペンションを沈み込ませる。リアタイヤに荷重を乗せる事で、コーナリングフォースを稼ぎ出したのだ。
そして、左方向にステアリングを切り、カウンターを当ててヨーイングをおさめる方向に持っていく。
左方向にかかる横Gが、瞬間的にフワリと止まった。
この瞬間にアクセルを一瞬緩め、カウンターを進行方向に戻す。そして、もう一度アクセルを踏み込んだ。車速は170kmまで落ちていた。
再びテスタロッサは、真っ直ぐに走り始めていた。この間、僅か5秒。
200kmでのカウンターステア。そんな芸当は狙って出来る訳が無い。これで天才でなければ、余程運が良いか奇跡に違いない。
「……今のは怖かったわよ?」
思わず留美は言葉を漏らしていた。
「……ええ。流石に焦ったわ」
ヘレンも引きつった顔で答えた。
その内容を話す留美は、心なしか嬉しそうだった。
「へぇ……。ただの大口叩きって訳でも無かったんだな」
「ドライビングと言うのは、アクセルで加速して、ブレーキで減速して、ハンドルを切って曲がる。だけど、この三つの動作を複合させて、車を如何にコントロールするかという事なの。
特に、車の構造を理解してドライビングを変えていく事は重要な事よ。
いい機会だから、説明しておくわ」
そう言って、留美は地面に別の長方形を書いた。
「この四角は?」
「車を真上から見た、簡単な図よ。先に断っておくけど、これは全て後輪駆動車の場合の話になるわね」
そう付け加え、留美は解説を始める。
「車で一番重い部品はエンジンになるわ。エンジンの搭載位置によって、車の曲がり方は大きく異なるのよ。
ちなみに、車の真ん中を軸にして曲がる力の事を、ヨーイングと言うわ」
「ヨーイング……」
拓海は頼りなく呟く。
「四角の上が進行方向とするでしょ。普通の自動車は、進行方向に対して、前にエンジンが有る。前が重いという事は後ろが軽い。よくフロントヘビーって言われてる事よ」
「あたしのソアラなんかも、よく言われるな……」
「その通り。後ろが軽いという事は、リアタイヤに重量が乗っかっていないの。所謂、荷重が乗っていないと言う事よ。
例えば……思いっきりハンドルを切った時なんかに、荷重が少ない分リアタイヤが流れやすい。その割にフロントが重くて、進行方向へ慣性の力が働くから、ノーズの動きは鈍い。
つまり、アンダーステアを誘発しやすいけれど、オーバーステアも起きやすい。
反面、後ろが軽いからリアタイヤの慣性の力は小さくなる。しかも、前に重心が有るから、フロントタイヤの慣性は進行方向へ働く。
つまり、テールが流れやすいけれど、流れを止めるのも楽という事。何よりも直進安定性が良くなるわね。
纏めて言うと、発生したヨーイングのコントロールがしやすいと言う事よ」
「ん~……良くシルビアとかのFR車がドリフトしやすいって理由と同じ?」
「簡単に言えばそうなるわ。
今度はテスタロッサの場合……ミッドシップね」
「……ほうほう」
「進行方向に対して、ほぼ真ん中が重いという事は、四つタイヤに対して均等に荷重が乗るの。
さっきとは真逆で、ハンドルを切ってもテールは流れにくくなるし、フロントタイヤに慣性が働きにくいから、ノーズの反応も早い。
F1の様なフォーミュラーカーや、グループCと呼ばれるプロトタイプカーの様に、走行性能だけを求めれば、確実にミッドシップレイアウトに行きつく。
ただし、一度テールが流れ出してしまえば、ど真ん中が重心になるから、スピン状態になった時の回転は早い。要するに、ヨーイングの力が強く働きすぎる傾向が有る。
イコール、コントロールは極めて難しくなるし、直進安定性は悪くなりやすい」
「……つまり。テスタロッサは、テールが流れたらコントロールできないって事か」
「単純に言えばそうなるわね。今回は、ヘレンの腕で助かったけれど、あんな事繰り返してたら、車と命が幾つあっても足りないわ」
そう言われ、拓海はある事に気が付いた。
昨晩、高峯のあの助手席に乗っていた時。
例え前を塞がれる形になっても、のあは絶対にハンドルは切らなかった。迷う事無く、ブレーキペダルを蹴り飛ばして、パッシングを浴びせていた事を思い出した。
「なあ、姉御。もしポルシェで飛ばしてて、思いっきりハンドルを切ったらどうなる?」
「……そうね。RRのポルシェは、車体の一番後ろにエンジンが有るから、リアタイヤの安定性は一番あるわね。車体の最後方に重いものが乗っている分、一番流れにくい特性と言えるわ。俗にトラクションが優れているって事。
ただし、一度でも流れたらコントロールする事は確実に不可能でしょうね」
「……そういう事か」
「勿論、これは単純な原理の話よ。実際には、エンジンの搭載位置だけじゃ無くて、タイヤのグリップ力や、駆動輪の位置でも大きく変わってくるわ。
少し位は車の構造を理解して運転しないと、湾岸を走る時だけじゃなくて、普段乗りの時でも事故を起こす確率を減らせれるわ。例えば、雨が土砂降りの時とかね」
小難しい話だが、何となく留美の言いたい事は理解した。
ここで、拓海の中で以前から疑問に思っていた事を、留美にぶつけた。
「ところで、姉御。何で、あたし達に手を貸してくれるんだ?
まして、ここまで手間のかかる車だと、姉御の負担は相当にでかいんじゃねぇか?」
そう言われ、留美は少し考え込む素振りを見せた。
「……何故かしらね。
……きっと、私自身も大人になりきれていないのよ。単に、全力で何かに憑りつかれてみたかったかもしれないわね。
現役でやってた頃みたいに……」
そう答えた留美は、自嘲的な笑みを作っていた。