翌週、土曜の夜。寒波到来にも関わらず、とある喫茶店は異様な熱気に包まれていた。
九時を過ぎたくらいに、ヘレン、拓海、留美、そして真奈美は喫茶店にやって来た。四人掛けのテーブルで、コーヒーを飲みながら談笑をしている。
今現在、ここに来店している三十人弱の客は全員顔見知り。
何百万もつぎ込んだ改造車で、湾岸線を突っ走る走り屋達。すなわち、湾岸ランナー。
大体、八時前後から集まり始めると、一般客は居辛い雰囲気が流れ出す。十時あたりになれば、大体のテーブルは走り屋達で占領されてしまう。
拓海は、横目で一番奥の窓際のテーブルを見る。
「……今日は来てねぇんだな」
そう呟いた。
湾岸ランナー達にも、カースト制の様な物が存在する。
女王、高峯のあをトップとし。そのCTRと同等レベルの速さを見せる走り屋。更にその下の走り屋、そして予備兵。
速い奴が称えられる、単純なピラミッドだ。
「……幸いね。まだ、ジョーカーは切れないもの」
そう呟いた、留美。まだ、引き出しを全て開けた訳では無い様だ。
「……彼女が居ないならチャンスだな。ヘレン君にとっても、私にとってもね」
真奈美は、ニヤリと笑う。
CTR撃墜に近い一人だけ有り、女王の居ない夜ならば他のランナーを蹂躙できる。そんな考えが、真奈美の脳裏をかすめる。
「手は抜かないわよ?」
ヘレンはそう告げる。
「それはお互い様さ」
真奈美は、そう返した。
テスタロッサの慣らしをする間。ヘレンは湾岸の走り方を、真奈美にレクチャーしてもらった。
湾岸で突っ走る事は、単純に全開を続ければいい訳では無い。完全に踏み切れるとしても、三十秒。余程長くて、精々一分弱が限度。
高速域で走れば、エンジンの負荷は通常走行とは比べ物にならない。水温も油温も、限界値を簡単に振り切ってしまう。
それに加え、一般車両を追いついたら、強く減速しなければいけない。その間は、アクセルワークとステアリングで、一般車を追い越していく。つまり、高速域のコーナーリングを続けていくのと同じ事。
そして、一般車がばらけた瞬間。再び加速競争が始まる。200km、或いは250kmからの中間加速。そして、トップスピードまでの伸び。
更には、先行する車のテールに張り付いて、空気抵抗を減らすレーシングテクニック。スリップストリームを、如何にして使うかと言う駆け引き。
単にエンジンだけ速くても、意味が無い。ブレーキ、サスペンション、タイヤ、そしてドライバーのテクニック。あらゆる要素が揃わなければ、湾岸を攻める事が出来ない。
イコール、マシンのトータルバランスが問われるのだ。
通路を挟んだ反対のテーブルで、日産のチューニングで名を売っているRS山元で仕上げたガングレーメタリックのGT-Rを駆る、木村夏樹が取り巻き達と話し込んでいる。
身振り手振りを交えながらの話の内容に、拓海はそっと耳を傾けた。
先週の半ば、どうやらRE天宮の原田美世とサシでやり合ったという事だ。これは、今宵に集まった走り屋達の、大きな話題の一つだった。
木村夏樹は、見た目から想像つきにくいが結構なお嬢さんらしく、高峯のあ程では無いが資金力は豊富な様だ。
ほとんどの走り屋は身形を気にする事は無いが、彼女は髪の毛をリーゼントに決めて、ブランド物の皮ジャンとジーンズを着こなしている。高校生の頃、イギリスに留学してロックに没頭していたという事を、拓海は聞いた事がある。
実家が、裕福層でなければそんな事出来る訳が無い。
彼女の愛車は、最新型のR32スカイラインGT-Rを、老舗のチューニングショップのRS山元で仕上げた。実質的なワークスカーと言っても差し支えは無いマシンだ。
R32GT-Rの場合、元々ツーリングカーレースで勝つ為に設計されており、殆どの部分が市販車としては、オーバーキャパシティなレベルの耐久性を持っている。ほんのちょっとした改良で、軽く400psを超えるパワーを発揮できる。タービン交換やエンジン内部まで手を出せば、600psに迫るという驚異的なスペックを持つ。
しかし、チューンドGT-Rには新たな問題点が出てきている。
市販車では驚異的な耐久性を持っていても、フルチューン仕様では流石に耐えきれない部品も出てくる。チューンドGT-R場合、特にエンジン以上に駆動系のトラブルが多く見られた。
クラッチが滑ったり、ミッションがブローしたり、デフギアがぶっ飛んだりする事も有る。トルクスプリット4WDのアテーサET-Sは、驚異的なトラクションを生み出す反面、駆動系への負担が大きくなると言う欠点も生み出していた。
事実、Gr-Aレースで戦うGT-Rの場合も、ミッションや駆動系にトラブルが出る事が多かった。
山元氏が組み上げたRB26は、夏樹の豊富な資金力に物を言わせて、信頼と実績のあるワークススペックのレースパーツをかき集め、一つ一つを丁寧に組み込んだ一品。
例えパワーがあっても、耐久性が無ければ意味が無い。職人気質のチューナーが組み上げたエンジンは、最高でも500psに届くかどうか。ゼロヨン仕様のRB26に比べれば、見劣りする感は否めない。しかし、とにもかくにも耐久性は抜群だった。
空気抵抗の大きいセダンボディのR32では、湾岸での最速は280km前後。もっとも、280kmで毎週コンスタントに走れるというスペックは、他のランナーから見ても要注意の走り屋の一人だ。
夏樹は相手を見つけては、エンジンのタフさと気合で湾岸を戦い抜いていた。
一方の原田美世は、RE天宮で働くRX-7乗りだ。
東名レース時代からストリートを走り、ロータリーの神様と謳われる天宮氏に憧れ、中学卒業と同時にボストンバッグ一個で上京し、弟子入りを志願したと言われる。
天宮で叩き上げだけあって、走りの方もチューニングの方も、湾岸トップランナーと呼ぶにふさわしい走り屋だ。
自らの手で仕上げた真っ赤なRX-7は、コスモ用の20Bにエンジンを換装。3ローターサイドポート仕様に加え、TD06のビッグシングルタービン仕様で、他のマシンと遜色のない所までパワーを引き上げた。
が、この3ローターエンジンがかなりの曲者だった。
載せ替えた当初の湾岸では、毎週の様にトラブルが発生していた。元々ロータリーエンジンは熱量が大きく、特に水温が上がりやすいという弱点があるが、3ローターは尚更熱に弱かった。
ラジエーターやオイルクーラーを大容量化してオーバーヒートの対策を練れば、今度はローターとハウジングの圧縮漏れを防ぐアペックスシールやサイドシールが、爆発力に耐え切れず破損する。ある程度ブーストが安定する様になれば、今度はミッションがブロー等々。
毎週、走る度に何処かが壊れた。しかし、翌週には必ず直して湾岸にやってくる。
試行錯誤を繰り返し、度重なるトラブルを乗り越えて、RX-7を一線級のマシンに仕上げていた。
しかし、そこで立ち止まる様な真似を彼女はしない。例え何度もエンジンを壊しても、怯まずパワーを追い求める。耐久性は後から付いてくる。
それが原田美世のやり方だった。
そして、先週の半ば。
RX-7のタービンを、更に大容量のTD07に変更してシェイクダウンしていた時だ。運悪く、夏樹のR32に鉢合わせた。
まだセッティングの途中だったため、美世は上手くかわそうとしていたが、執拗に夏樹のR32に絡まれてしまう。
美世はセッティング半ばだったが、ついにブーストを思いっきり上げてしまう。不安材料が多いままで、相手の挑発に乗ってしまったのだ。
夏樹は、確信犯だった。セッティング中だと解りきった上で、勝負を仕掛けたのだ。
その結果、RX-7のエンジンはハイブーストに耐え切れず、アペックスシールが悲鳴を上げた。
途中でエンジンが根を上げてしまえば、リタイアは免れない。これは、レースの世界と同様に、負けを意味する。
湾岸ランナーは、単なる車好きの集まりとは、一線を超えている。
喫茶店の中で談笑しているものの、内心では如何にして相手を蹴落とすかを目論んでいる奴ばかり。
今現在も、原田美世と下町のマフラー屋で働く桐野アヤと、大御所レーサーがオーナーを務めるショップの番頭を務める東郷あいが、仲良さげに談笑している。
いずれも、CTR撃墜を目論む、湾岸のトップランナーだ。
「……Zは空気抵抗は少ないけど、オーバーヒートしやすいんだ」
「アタイのスープラは、ディズニーコーナーで一車線横っ飛びしちまってさ……」
「3ローターにしたら、フロントヘビーになって曲がらないんだよね~」
個々に、戯言を口走る。だが、それは建前上の事。
本心では、相手の腹の中を、三人とも探り合っているのだ。今夜は、どんな秘策を練ってきているのか。
少しでも自分を有利にする為にも、すでに駆け引きが始まっているのだ。
当然、そばで聞き耳を立てている連中だっている。
一見は何の役にも立ちそうも無い戯言ですら、一字一句聞き逃さない様にしている。
土曜の夜、この喫茶店で車のチューニングと、競争の事以外の話をしない奴はいない。例えつまらない戯言の中にも、愛機をチューニングする為のヒントが隠れているかもしれない。もしくは、肝心な事をポロリと溢してしまうかもしれない。
皆、虎視眈々とその瞬間を狙っている。
チューニングのノウハウは、そんな戯言の積み重ねによって蓄積されていくのだ。
今ここに居る人間は、皆一匹狼であり、獲物を突け狙うハンターであり。そして、死肉を待ちわびるハイエナなのだ。
黄色い怪鳥の翼をへし折るべく。我こそが女王を蹴落として、明日の王座を夢見る奴ばかり。
前哨戦を終えた木村夏樹も。ロータリーで驚異の320kmを狙う原田美世も。コルベットで打倒を狙う木場真奈美も。東郷あいも、桐野アヤも。
そして、赤い跳ね馬を駆るヘレンも。
誰もが、高峯のあが駆るルーフCTRの首を狙っているのだ。
時刻が十時を過ぎた辺りから、皆そわそわと落ち着きが無くなる。この喫茶店の営業は夜一時までなので、オーダーストップにはまだ早い。
どこからともなく熱が帯びて、その熱が伝染病の様に一人一人に移って行く。
空気がしびれる様に張りつめて行き、あの場所に行かなければならない気分になってくる。
走り屋達にしてみれば、ピーターパンが招いたワンダーランドであり、シンデレラが訪れた舞踏会であり、浦島太郎が誘われた竜宮城である。
それが、首都高速湾岸線なのだ。
ショータイムの時が刻一刻と迫っている。
全員がそれを感じる事が出来たのなら、GOサインを誰かが勝手に出す。
「さあ、湾岸だ」