オーバーロード ~破滅の少女~   作:タッパ・タッパ

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2016/9/9 「来ているのは」→「着ているのは」訂正しました
2016/9/9 一カ所「ジェット」となっている箇所があったので「ジエット」に訂正しました
2016/10/9 文末に「。」がついていないところがありましたので、「。」をつけました


第53話 すれ違い

「うわー、凄いねー。ナーベお姉ちゃん」

 

 興奮したように目を輝かすクーデリカ。

 それに対して、つないだ手を引っ張られるようにして進むナーベラルはというと、口元がひきつりそうになるのを必死でこらえている様子だ。

 

 

 今、彼女たち、ナーベことナーベラル・ガンマと、マリーアことクーデリカは帝都アーウィンタールの市場を歩いていた。

 

 

  

 彼女、ナーベラル・ガンマは、人間を下に見る事が普通であるナザリックにおいても特に人間に対する侮蔑がひどかった。まったく人間の名前を憶えようともしなかった。

 このままでは任務に支障が生じかねないと懸念したセバスがアインズに相談したところ、主から一つの提案がされた。

 

 人間たちの多くいる市場において、上位者であるセバス以外の他の者と共にナーベラルを行動させることにより、ナーベラルの意識改革並びに人間社会にとけこむ訓練を行ってはどうか。

 

 アインズから出されたその案を聞き、セバスはそれならばとクーデリカをつけることを思いついた。

 

 平民の富裕層と呼ばれる者達へのクーデリカの顔つなぎも一段落した。

 そして、その間、特に捜査の手が及ぶことも危険な事も共に無かった。

 そこで新たな段階として、次はより広く一般の人間たちの周知へと駒を進めてもいいかと判断された。

 

 他にフォローする人間がいない状況下で、逆にナーベラルの方がフォローにまわらざるをえない存在としてクーデリカをつけることにより、先に述べたナーベラルの訓練とクーデリカの周知を同時にこなせるという考えであった。

 これは案外、良い案に思えた。

 

 そして、それをセバスから説明されたナーベラルにとって拒否するなどという選択肢はあるはずもなく、こうして2人で手をつなぎ、行き交う人でごった返す市場を散策する羽目になったのである。

 これがセバスの、そしてアインズの考えであるという事から、ナーベラルはこれも任務であるとして必死で我慢していた。

 額に青筋を浮かべながらも。

 

 そんなセバスの狙いやナーベラルの感情になど思いを馳せることもないクーデリカは、ただひたすらはしゃいだ様子であった

 クーデリカは貴族であったため、帝都に住んでいたと言っても、このような市場になど来たことは無い。その為、目に映るもの全てが新鮮で、きょろきょろと見回しては目を輝かせ、あちらこちらへと足を向けていた。

 

 さすがに今日はパーティーに行くのではないため、2人が着ているのはドレスではないが、それなりに値が張りそうな見事な仕立ての上下である。そんな服を着ている二人はこの場ではいささか浮いた存在であった。ナーベラルの容姿も原因ではあるのだが。

 

 

「あっち。ほら、あっちに美味しそうなのがあるよ。行ってみようよ!」

 

 また何か見かけたらしく、クーデリカはナーベラルの透き通るような手を掴むと、そちらへ引っ張っていった。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 

 

「おー。結構凄いね」

 

 ベルはそう、ソリュシャンとマルムヴィストに声をかける。

 ソリュシャンは「そうですね」とただ肯定し、マルムヴィストは「まあ、この辺りの区画は一般人が買い物に来るのが多いみたいですからね。もう少し離れた北市場に行くと、また客層が変わるようです」と説明をした。

 

 

 今、彼女たち、ベルとソリュシャン、それにマルムヴィストは帝都アーウィンタールの市場へと足を踏み入れていた。エドストレームはお留守番である。

 

 ベルの計画通り、マルムヴィストの顔色を(うかが)いに来た連中に、アルシェの妹たちの捜索をふった所、話を聞いた者達は皆一様に色めき立った。こちらのご機嫌をとるには、その少女たちを捜すのが一番だと、考えたようだ。

 そして、その話は燎原の火のごとく、瞬く間に広がって行った。

 おかげで、わざわざホテルまで来て、目を瞑ったままそろそろ足を踏みだすような、相手の喜ぶツボを見つける探り合いをするような輩はぱったりとなくなった。下手に訪ねて来て、あれこれしゃべった結果、うっかりこちらの勘気を買うような事を口にしてしまう危険を冒すよりは、明確にこちらの望んでいる成果を持ってきたほうが確実だと判断したようだった。

 

 

 そうして来客が途絶え、時間が出来たベルはついに帝都の街中を大手を振ってうろつくことが出来るようになったのである。 

 まあ、前回の件から、必ずソリュシャンがそばにつくことが条件とはなったのであるが。

 

 とにかく、そうして3人は、見知らぬ街の活気ある市場の姿に、若干戸惑いつつも楽しみながら歩いていった。

 

 

 そんなベルの鼻先をくすぐるものがあった。

 見ると屋台がいくつも出ており、その中の一つ、串焼き屋が発する匂いのようだ。なにやら茶色いたれを付けて焼いている。そのたれが火であぶられると、食欲を誘う匂いが周囲に漂う。

 

「あれ、食べよう」

 

 ベルの言葉に、ソリュシャンは「そんな市井の物など……」と眉をひそめたが、自身も食欲を誘われたマルムヴィストがさっと店に近寄る。

 そして、何気なく前にいた人物の後に並ぶと、店の男ががたりと物音を立てた。

 うん? と目を向けると、露店の男はぶるぶるとその身を震わせていた。

 

「よ、ようこそ、いらっしゃいました! マルムヴィスト様!」

 

 びしりと腰を深く折って頭を下げる。

 どうやら、この店はただの露店ではなく、どこかの犯罪組織が手がけている店だったようだ。

 

「ああ、串焼き3つな」

「はいっ! ただいま!」

 

 大きな声で返事をすると、それこそこれ以上ないほど大急ぎで商品を用意する。前にいた男が「おい、俺の方が先にいたのに……」と口にするも、そんな声を無視して、焼きあがったばかりの串焼きを3つ手渡す。

 

「あんがとよ。いくらだ?」

「いえっ! マルムヴィスト様からお代はいただけません! 無料で結構でございます」

 とそのいかつい顔いっぱいに追従(ついしょう)の笑みを浮かべた。

 

 普通の人間ならば、かえって恐縮して「いや、代金は払うよ」と言うところだろうが、マルムヴィストとしてはこんな対応は慣れたものである。

 

「そうかい。じゃあ、貰っていくぜ。それで? お前の名前はなんていうんだ?」

「はいっ! ファサード一家のカッツと言います! お見知りおきを……」

「なるほど。カッツな。憶えておくぜ」

「はい! ありがとうございますっ! 例の捜索の件もお任せくださいっ!!」

「ああ、期待してるよ」

 

 再度、深く頭を下げる店主を置いて、マルムヴィストは串焼きを手にその場を離れた。

 

 

 顔をあげた男の視線の先で、戻って来たマルムヴィストがベルとソリュシャンにアツアツの串焼きを手渡している。少女の方は貰った串焼きに上からガシガシとかじりつき、もう一人の目を見張るような美しい金髪のメイドは手渡された串焼きを胡乱気(うろんげ)な表情で見つめた後、一息に飲み込んだ。それも、串ごと。

 その様子に男は目を丸くしたものの、そんな異様な行為もまた、あの絶世の美女ならば、という気分にさせた。

 

 そうして、ソリュシャンに目を奪われる店主に向かい、先に並んでいた騎士風の男は、釈然としない思いを抱きつつも、自分の注文した分を要求した。店主の目は未だ、雑踏の向こうに消えていく3人組――特にソリュシャン――に注がれつつも、新たな串を金網の上に並べ、焼き始めた。

 

 しばしの時を置き、再び香ばしい匂いが立ち込め始める。

 焼きあがるのを待っている騎士風の男の口内に唾がたまっていく。

 

 そうして、もう出来上がるかと思われた時、店主の男に声がかけられた。

 

「串焼きを2つ貰えるかしら?」

「ああ、はいはい。ちょっと待ってくださいね。こちらの騎士さんの分が今焼けますんで……」

 

 そう言って目線をあげた店主のカッツは声を失った。

 彼の目の前にいたのは、先ほど、マルムヴィストと共にいた金髪のメイドに勝るとも劣らない美しい女だった。

 

 射干玉(ぬばたま)のような黒い髪。まるで人形のような卵型の顔。その目、鼻、口、全てが精密に計算されたバランスを持って完成された芸術品と言ってもいい。

 今、その眉にはわずかに険がこもっているが、それもまた、彼女の美しさを損なうどころか、ある種の美を感じさせた。

 

「聞こえなかったかしら? この串焼きを2つ、ちょうだいな」

 

 その声に何も考えず、焼きあがった串焼きを渡そうとして――ハッと我に返った。

 

「あ、すいません。実はこちらの騎士さんが先……で…………」

 

 カッツは再び目を大きく見開いた。

 彼が目にしたのは、その美しい黒髪の女性が手を引く少女。

 

 初めて見る顔である。

 だが、その顔はよくよく憶えていた。

 配られた手配書で。

 

 

 ――ギラード商会が探していると言っていた、手配書に書かれた少女だ……。

 

 

 ごくりと生唾を飲み込んだ。

 

 

「……それで、串焼きは?」

 

 再度の催促に、慌てて焼きあがったばかりの串焼きを手渡す。

 「あ、……だから、俺が先……」再び騎士がつぶやくが、そんな言葉は耳に入らない。

 「いくらかしら?」と尋ねられたが、頭が回らなかった彼は、思わず「……いらない……」と答えてしまった。

 女性は「そう?」とだけつぶやくと、串焼きを片手に、少女と共に歩み去った。

 

 

 カッツはその後ろ姿を食い入るように見つめた。

 

 ――どうすべきか?

 今すぐ、マルムヴィストに知らせるか? 先程串焼きを渡してから、それほど時間は経っていない。まだ、さほど離れていないはず。今から走って追いかければ、間に合うか? そうするか?

 

 しかし、彼は頭を振って、その考えを否定した。

 

 ――いや、そんなことをしても意味がない。それだと、ただ探していた相手の情報を教えただけという事になる。それだけでは大してこちらを取りたててはもらえないだろう。それよりは捕まえてから引き渡した方がいい。捜していた人物の確保までやったら、覚えは良くなるだろう。それに、見たところ、あの女と少女の2人だけのようだ。捕まえるのは難しい事ではない。だが、念のため、一家に声をかけて仲間を集めてからの方がいいだろう。

 

 

 そんなことを考えていると、いかにも貧相な感じのする男がやって来て、「串焼きをくれ」と声をかけてきた。

 そんな男にカッツは目もくれず、「串焼き? ああ、勝手に焼いて食ってけ!」と言い捨て、屋台をそのままに、わき目もふらずに急いで仲間の許へと走り去った。

 

 

 

 あとに残されたのは、唖然として露店の前にたたずむ貧相な男と先ほどからいる騎士の2人。

 

 だが、貧相な男の方はというと、「勝手にって言うなら、勝手に貰っていくぜ」と鼻歌交じりにさっさと網の上で焦げかけている串焼きを2本手にとった。そして(かたわら)の油紙で包むと、ザックはさっさと立ち去った。

 

 

 一方、騎士の方はというと、「勝手に焼いて食っていけ、と言われてもなぁ……」と腕を組んで悩んだ。

 見ての通り、彼は帝国に仕える騎士である。そんな彼が誰もいない露店にある商品を勝手に食べているようなところを見られたら、泥棒でもしているのではないかと思われ体裁が悪い。

 

「串焼きは諦めるか……」

 

 そう言うと、帝国四騎士の1人、『激風』ニンブル・アーク・デイル・アノックは頭を掻きつつ、腹ごなしが出来そうな別の露店を捜して歩み去った。

 

 

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 

 

「あ、ジエット君、おかえりなさい」

 

 アルシェは首だけで振り返り、午前の仕事を終えて、一旦家に帰って来たジエットに声をかけた。

 その様子を見たジエットは大いに狼狽(うろた)えた。

 

「あ、アルシェお嬢様! お嬢様がそんな事をしなくても結構です」

 

 慌てて駆け寄り、台所でアルシェが洗っていた食器を手にとる。

 どうやら、後で洗おうと思って放っておいた家族の分の食器まで、全て洗ってくれていたらしい。

 ジエットは、貴族であるアルシェにそんなことまでさせてしまった事に、恐縮しきりだった。

 

「いや、私は泊めてもらっている身。気にすることは無い」

「そ、そういう訳にも……」

「それに私はもう貴族じゃない」

 

 その言葉には、うっと声が詰まった。

 アルシェのフルト家は現皇帝ジルクニフによって貴族位を奪われた家系であり、そうした元貴族の家の窮状はジエットの耳にも入ってきている。

 学院でもアルシェの他に、何人もの学生が退学を余儀なくされた。本当は学院を卒業して後、ちゃんとしたところに召し抱えてもらえば給与もいいため、一時的に借金してでも学院にとどまったほうがいいのだが、やはり様々な理由によりそういう道を選べなくなる者もいるのだ。

 

 そんな暗い思いにとらわれていると、コフコフとせき込む声が聞こえた。

 慌てて、奥の部屋に駆け込むと、彼の母がベッドから身を起こしていた。

 

「母さん、無理に起き上がらなくていいよ。最近、調子が悪いんだろ?」

「大丈夫よ。それに、アルシェお嬢様がいらっしゃっているのに私が寝ているわけには……」

「お嬢様のお世話は俺がやっておくから。ほら、横になって」

 

 ジエットは横たわる母の胸元まで布団をかけてやり、部屋を後にした。

 閉じた扉に背をつけ、大きく息を吐く。

 そんな彼をアルシェは見つめていた。

 

「お母様の具合、そんなに悪いの?」

「……ええ、普通の〈病気治癒(キュア・ディジーズ)〉では治らない特殊な病気らしくて……」

 

 会話もなく黙り込む2人。

 その耳に、壁の向こうで彼の母が苦しそうにせき込む音だけが届く。

 

 

「……あ、……これ、泊めてもらった分のお礼」

 

 差し出したアルシェの手を、ジエットは押さえた。

 

「いえ、お嬢様。こういうことをしてもらうためでは……」

「ううん。本当なら、私はどこかで宿をとるはずだった。これは宿代」

 

 そう言って、ジエットの手を掴み、その手に数枚の金貨を握らせる。

 ジエットは手の中の金貨を眺め、アルシェに尋ねた。

 

「……あの、……なんで俺の家に泊まる必要があったんですか? 貴族じゃなくなったとはいえ、あの家はまだありますよね。なら、帰ることは出来るはずです。どうして、帰らなかったんですか? それに、何日か家に泊まってますけど、日中はどこかに行って、そしてくたくたになって帰って来てますよね? 何か事情があるんですか?」

 

 その言葉にアルシェは身を固くする。

 ジエットとしても、アルシェ自身が口にしないという事は、そうしないだけの理由があるのだろうという事は理解はしていたが、それでも尋ねずにはいられなかった。

 

 

 再度、2人の間に重苦しい空気が漂う。

 

 その重圧に耐えかね、失礼なことを言って申し訳ありませんでした、と謝ろうかとジエットは思ったのだが、彼が口を開こうとした刹那、アルシェの方が先に口を開いた。

 

「ごめん……言ったら、君を巻き込むかもしれないから、黙っていた。……でも、この問題は私一人の手には余る……私一人の力では解決できないのは分かっていた。……たぶん、話してしまうと君を巻き込んでしまう。私の事は卑怯者と思っていい。でも……力を貸してほしい」

 

 そう言って、深々とそのブロンドの頭を下げた。

 その姿に慌てたのはジエットである。

 

「あ……い、いえ、頭をあげてください、アルシェお嬢様。俺に出来る事ならなんでもしますとも」

 

 泡をくったように早口でしゃべる。

 その言葉に、アルシェは下げたままだった頭をようやく上げて、彼を見つめた。

 

「ごめん。ありがとう」

 

 彼女はその無表情な顔に僅かながら笑みを浮かべた。

 対して、そんな顔を向けられたジエットは大いに狼狽(ろうばい)して、誰が見ても分かるほどその顔を赤くした。

 

「い、いや……いいですよ。そんなに気にしなくても」

 

 そこで彼は気を取り直し、ごくりと生唾を飲み、先を促す。

 

「……それより、その理由っていうのを話してくれませんか」

 

 再度、沈痛な表情に戻ったアルシェはポツリポツリと言葉を発し、これまでの、そして今置かれている状況を説明する。

 

 

 あらかた話を聞き終わったジエットの心に灯ったのは憤りであった。

 

 ――こんなにまでアルシェお嬢様が身を粉にして金を稼いでいるというのに!

 

 

 ジエットはかつて、働いていた母に連れられ行った事のあるフルト家の事を思い返す。

 

 確かに旦那様はやや貴族であることを鼻にかけるきらいがあった記憶がある。だが、それでも、アルシェの話にある現在の事情も理解できずに散財し続けるような愚かな男という印象はなかった。その頃、すでに母には病気の片鱗が見られたが、彼は周囲の反対にもかかわらず、母の事をクビにしようともせずにいた。

 しかし、かと言ってアルシェの話を嘘だともいうことは出来ない。フルト家の窮状の話は、風の噂には聞いていた。

 おそらくだが、貧すれば鈍すの言葉の通り、貴族位を追われた事で、かえって貴族の位にあったことに囚われ、まともな判断が出来なくなったのであろうか?

 まあ、理由はどうでもいい。

 原因はどうであろうと、そいつがクズになったのはそいつの責任だ。

 

 そんな事より、今アルシェが探しているという、妹たちの事だ。

 たしか、小さな双子の女の子がいたことは記憶の端に引っ掛かっている。

 最後に見たのは2、3年前だから、たぶん彼の記憶より大きくはなっているだろう。

 

 何の気なしに、そう考えていたジエットは、アルシェから見せられた現在の妹の姿を映した紙に釘付けになった。

 

 その幼い姿はまさに、数日前、彼が香辛料を届けに行った先で行われていたパーティーで見かけた、モーリッツ家の老人と共にいた少女であった。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「ふっ」

 

 声とともに振り払われた拳で、路地裏に積まれた廃材の山が吹き飛ぶ。

 その破片がまだ宙にある中をナーベラルは突っ切って駆ける。

 

 彼女の視線の先には一人の男の背。

 そして、その男の脇から、ぶらぶらと揺れるクーデリカの手足がわずかに覗いていた。

 

「〈魔法の矢(マジック・アロー)〉」

 

 魔法の発動と共に、光の矢が男の背めがけて飛ぶ。

 だが、その矢が届く前に、また男が路地を曲がった。魔法の矢はすぐそばの石壁に穴を穿(うが)つ。

 

 チッと舌打ちをすると、ナーベラルは足元のごみを蹴り飛ばしながら、更に足を速める。

 

 

 

 今、彼女が追跡劇を行っている原因は、つい先ほど、ナーベラルとクーデリカが市場の散策をしていた際にさかのぼる。

 

 あれこれと見て回りながら歩いているうちに、いつしか少々人通りの少ない所まで来てしまった。

そこでさすがに歩き疲れたらしいクーデリカの為に、どこかに座れるような場所はないかと辺りを見回していた時、不意に掴んでいたクーデリカの手が離れた。

 また、何か見つけてそちらに走って行ったのかと、ナーベラルがややうんざりした顔で振り向いたその先には――見知らぬ男に抱きかかえられ、口元を抑えられたままどこかに連れ去られようとするクーデリカの姿があった。

 

 ナーベラルはとっさに〈龍雷(ドラゴン・ライトニング)〉を唱えようとして――思いとどまった。

 ライトニング系の呪文では、抱えられているクーデリカを巻き込んでしまう。

 それに〈龍雷(ドラゴン・ライトニング)〉は第5位階魔法だ。ナーベラルがナザリック外での情報収集の任務に就く際、あまり高位の魔法を使うと目立ってしまうため、基本的に魔法は使用せず、使ったとしても出来るだけ低位階の物のみ。彼女自身の生命の危険がない限り、魔法を使用する際には最大でも第3位階までとするように、と言いつかってある。第1位階の〈魔法の矢(マジック・アロー)〉ならともかく、第5位階の〈龍雷(ドラゴン・ライトニング)〉は拙い。

 

 そのわずかな躊躇の間に、男は路地へと駆け込んでしまった。そしてナーベラルは、その後を追って細い家々の隙間に飛び込んでいった。

 

 

 

 そうして、追いかけているのであるが、なかなかにその距離が詰められない。

 遮蔽物の無い直線ならば、それこそあっという間であるのだが、ここは見通しがきかず、幾重にも折れ曲がる細い路地である。さらにそこら中に板切れやら角材やら、穴の開いた鍋などの鉄くず、汚れたぼろきれ、その他いちいち言う気にもならないようなゴミがその辺に投げ出されており、それもまた走る彼女の足をいちいち邪魔した。

 対してクーデリカを抱えた男は、そんな路地裏を自分の庭のように縦横無尽に縫うようにして走る。

 ナーベラルとしては男を見失わないようにするのが精一杯であった。

 

 いっそ〈飛行(フライ)〉の魔法で上空から回り込もうかとも思ったのだが、この辺りは屋根の軒が伸びている家も多数あり、上空からだとかえって路地を走る男を見失う可能性がある。

 その為、彼女はその内に男が疲れ果てるか、路地を抜けでるのを期待してひたすら根競べのように走り続けていた。

 

 

 やがて彼女の願いが通じたのか、ついに逃走劇は終了する。

 

 クーデリカを抱えた男は、ハアハアと荒い息を吐いた。

 さすがに子供一人を抱えて走り続けるのは体力的に堪えたらしい。

 家々と路地の間に出来た少々広くなった空間。その壁際に寄りかかるようにして、その足を止めた。

 

 比して、ナーベラルの方はというと、ほとんど息も乱れていない。

 疲労を無効化するようなアイテムは保有していないのであるが、やはり根本となる体力が違う。僅かに汗をかき、その前髪が幾本か額に張り付いている程度である。

 

 

「さて、鬼ごっこは終わりかしら?」

 

 走り回ったことで乱れたスカートの裾を手で治し、ゆっくりと歩み寄る。

 振り返ってそれを見た男は、へへっと笑った。

 

「ああ、もう鬼ごっこは終わりさ。ここがアンタの終着駅だよ」

 

 男の声とともに、その広場につながる路地から、武器を手にした男たちがぞろぞろと現れる。男たちはその顔ににやにやと下卑た笑みを浮かべた。

 

「へへへ、嬢ちゃん。ファサード一家のシマにようこそ。アンタ、ずいぶんと別嬪(べっぴん)さんだねぇ。なあ、こいつは好きにしていいんだろ?」

「おう。渡さなきゃいけないのはこの娘だけだからな。行きがけの駄賃だ。こいつは俺たちのアジトに連れ帰ろうぜ」

 

 男たちから歓声が上がる。

 そして、その中でも一際大柄な男が「さあ、嬢ちゃん。痛い目を見たくなきゃおとなしくするんだ」とナーベラルに手を伸ばした。

 

 

 瞬間――。

 

 

 ――男の身体が空を舞った。

 

 男の巨体は広間を横切り、路地の向こうへと吹き飛んだ。

 いったい何が起こったのか。男たちはその目ではっきりと見ていたにもかかわらず理解できなかった。

 まさか、あんな細腕の女が繰り出したアッパー一発で、大の男がゴミクズのように跳ね上げられるとは。

 

 声もないチンピラたちの視線を集めていた黒髪の美女は、眉根を指で押さえ、頭を振った。

 

「まったく、あきれるくらい低俗な会話ね。ゴキブリどもの知能にはテンプレートとしてそんな会話が詰め込まれているのかしら?」

 

 辛辣な嘲り声に、呆然としていた男たちも色めき立つ。

 

「ゴ、ゴキブリだと」

「ああ、あなた方をゴキブリなんて言ったら、恐怖公に失礼ね。それは訂正するわ。そうね、ゴミムシ……まだ、少し高尚すぎるかしら? ……ナメクジ……カマドウマ……まあ、面倒だからウジ虫でいいわ。ウジ虫ども、さっさとかかってきなさい。一匹ずつ潰してあげるから」

 

 言うと同時に、〈魔法の矢(マジック・アロー)〉を発動する。

 クーデリカを抱えて立ち止まっていた男の顔面に、その矢は今度こそぶち当たった。男は鼻血を流し悲鳴を上げて後ろに倒れ込んだ。その拍子に拘束が緩み、クーデリカの身体が自由になる。

 「壁際に下がっていなさい!」と叫んだ。

 その声にビクンと体を震わせたクーデリカは慌てて壁の方へと身を寄せた。

 

 

 

 チンピラたちの心に、闘ってはいけない相手にケンカを売ったのでは、という思いがよぎったが、それは一瞬だった。

 暴力の世界で生きる彼らにとって、舐められては生きていけない。自分の直感より、数の暴力を信じたのだ。

 そして彼らは武器を構えて、中央に一人立つ女性に襲い掛かった。

 

 

 しかし、彼らはすぐに直感を信じるべきだったと後悔した。

 この絵画から飛び出してきたような美女は、まるで魔神のような存在だった。

 

 ナザリックの戦闘メイド、ナーベラルガンマは魔法職に特化しているのであるが、わずかだが戦士としての職業(クラス)も保有している。だが、それ以上に63レベルという、この世界に生きる者達と比べて圧倒的なまでに高いレベルからくる能力差というものは、まさに絶望的なまでの戦力の開きを生んでいた。

 

 彼女の振るう腕の一撃で大の男が軽々と吹き飛ぶ。そして彼らが振るう剣閃は、その姿をとらえることも出来ず、よろめき、つまずき、ぶつかり合い、無様な姿をさらすだけであった。

 だが、さすがに多勢に無勢。ときおり振り回される刃が彼女の身体をとらえることもあったが、せいぜい皮一枚を切り裂き、わずかに血をにじませるに留まった。

 ナーベラルが得意の魔法を使うまでもなかった。

 

 ただ一つだけ、ナーベラルが難渋したことは、殺さないように手加減する事であった。自身の力があまりにも強すぎるため、素手とはいえ下手に殴りでもしたら、簡単に人間は死んでしまう。こちらが襲われた側であると言っても、さすがに大量の死体が出来ては後々、誤魔化すのも面倒だ。それに官憲に痛くもない腹を探られたくはない。

 その為、死なない程度に弱い攻撃で打ちのめすに留めざるをえず、そうすると、襲い来る暴漢たちを全員まとめて気絶させるのは中々に困難であった。

 

 そうして戦闘はいつ終わるとも知れずに続いていた。

 だが、やがて広場にいた者達の耳に、こちらに向かい、走って近づいてくる足音が聞こえた。

 数名の新手が路地を抜けて広間へと入ってくる。

 

 暴漢たちは最初、ようやく自分たちの援軍が来たのかとほくそ笑んだ。

 おそらく他の犯罪組織の者達だろう。娘を攫った分け前が減るのは業腹(ごうはら)だが、今は協力してでも、この女を倒してしまおう。

 そう考えた。

 

 だが、やって来た者達が躊躇することなく自分たちに襲い掛かってきたのを見て、その考えが誤りであることにようやく気がついた。

 

「大丈夫ですか、ナーベ」

 

 周囲で繰り広げられる戦いを横目に、セバスは彼女に声をかけた。クーデリカが攫われた後の追跡中に、ナーベラルが〈伝言(メッセージ)〉でセバスに状況を伝えていたのだ。

 そして、その腕の傷を見て、眉をひそめた。

 

「怪我をしているのですか?」

「いえ、大した事はありません。それより、あの娘を……」

 

 振り向いたナーベラルは目を丸くした。

 

 

 そこにクーデリカはいなかった。

 

 

 

 ――自分は確かに壁際にいろと言ったはずなのに。

 

 慌てて周囲を見回す。

 だが、視界の範囲内には金髪の少女は見当たらない。

 

 

 そんな彼女の様子を見て、セバスも状況を悟った。

 

「ナーベ。〈物体発見(ロケート・オブジェクト)〉の巻物(スクロール)を。私が許可します」

 

 セバスの言葉に懐から巻物(スクロール)を取り出す。巻物(スクロール)が炎に包まれ焼け落ちると同時に魔法が発動する。

 

「あちらです。あちらの方向距離にして80メートルの所にクーデリカが」

 

 セバスの視線を受け、言われずともルベリナは数名の部下を連れてそちらへと駆けて行った。

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 

 

 

 ザックはようやく走る足を止めた。

 その腕に抱えていた少女を地に下ろす。

 はあはあ、と荒く息を吐き、額に流れる汗をぬぐう。

 

 そして、まだ呼吸も整わぬままにザックは、傍らに立つ少女の肩をがっしと掴んだ。

 

 彼があの広場の戦闘から連れ出した少女。

 安宿で彼の帰りを待っているはずの幼子へと怒気のこもった目を向けた。

 

「なんで、こんなところにいるんだ! 勝手に宿を出てきたのか!」

 

 思わず声を荒げるザックに、言われたクーデリカは怯えた表情を見せた。

 

 

 

 彼がその場を通りかかったのは偶然だった。

 隠れ潜むウレイリカの為の食料を買い込んだ後、宿へと帰ろうと路地を歩いていた際、どやどやと武器を手に駆けていく者達の姿を見た。

 ザックとしては厄介ごとに関わりたくはなかったのだが、彼らが向かった先は、ちょうど宿へと向かう際に通らなければならない道の近くであった。

 そこで、出来るだけ近寄らないようにと足音を忍ばせて、一応何をやっているのかと広場を覗き込んだところ――突然吹き飛んできた大男の下敷きとなった。

 

 その後、ザックは何とかのしかかる男の身体を押しのけ、その下から這い出ることに成功した。そして、再び同じような事に巻きこまれまいと壁際に張り付き、ちらりと広場の方へと目をやると、どうやら誰かが武器を持った男たちと戦っているらしい。もう少し覗き込めば誰と誰が戦っているのかは分かるだろうが、先ほどの二の舞になる気はないし、もうこれ以上関わり合いになる気もない。

 

 ザックはそっと、その場を離れようとした。

 その時に、ふと壁際に立つ少女を見つけた。

 

 

 その姿を見て彼は愕然とした。

 我が目を疑った。

 

 そこにいた幼い少女はまさに、彼が今、安宿で保護しているウレイリカに間違いない。

 

 ――いったい、なぜこんなところにいるのか?

 そんな疑問が頭をよぎったが、彼は危険を承知でもう一度、広場の奥へと目を向けた。

 どうやら戦いはまだ続いているようだ。こちらに注意を払っている者はいない。

 

 ザックは決断し、路地から手を伸ばすと少女の身体を抱え上げた。驚いて少女が悲鳴を上げようとしたため、慌ててその口をふさぐ。

 

 その時、遠くから複数の人間が走り寄ってくる足音が聞こえた。

 何者かは知らないが、ザックに味方する者でない事だけは確かだ。

 

 そしてザックは、少女を抱えてその場から逃げ去った。

 

 

 

 ザックは憤りのこもった視線を、膝をついて目線を合わせた少女に向けていた。

 クーデリカは男に睨みつけられ、何も言えずに目に涙を浮かべている。

 

 ザックは記憶をたどる。

 たしか数時間前、彼はウレイリカのいる安宿の部屋にいたのだが、食料を買い込んでくる必要があったため、独り出かけようとした。

 そうして、扉を開けて一歩廊下に出たところ、ザックが出て行くのを寂しがったウレイリカが走って来て彼の足にしがみついた。彼は思わずたたらを踏み、廊下を通りすがった強面の男とぶつかりかけた。その男に睨みつけられ、ザックは愛想笑いを浮かべて誤魔化しつつ一度部屋へと戻り、ウレイリカにこの部屋で待っているよう言い含めて、市場まで出てきたのだ。

 もしかしたら、その時の強面の男――どう考えてもその筋の人間にしか思えないような人物――によって、部屋に少女が1人いることがばれて攫われでもしたのだろうか?

 あり得ない話ではない。

 

 そこまで考えたところで、ザックは頭を振って考えるのを止めた。

 所詮は想像に過ぎない。とにかく今ウレイリカは怯えているようだから、落ち着いてから話を聞けばいい。

 ザックは大きく息を吐き、立ち上がった。

 

「まあ、いつまでもこんなところにいたら危ねえな。とにかく行こうか」

 

 そう言って、顔に笑みを浮かべ、手を差し出す。

 だが、クーデリカは見知らぬ男が差し出した手を握ることなく、その身を震わせ後ずさった。

 

 ザックはその仕草に怪訝(けげん)な表情を浮かべ、そして奇妙な事に気がついた。

 

 その髪。

 ザックは特にウレイリカの編んだ髪をほどいたり、そして櫛で梳いたりなどはしていなかった。その為、ウレイリカの髪はやや乱れてきていた。だが、目の前の少女は丹念に手入れされ、油までつけられたような美しい髪をしている。

 それになにより服だ。

 ウレイリカは攫われた時そのままの、上質ながら少しほつれ始めている服を着ていた。ザックとしても、さすがにサイズもよく分からない子供服を買うことは出来なかった。だが、今、目の前の少女が来ている服は、まさに卸し立てとでもいうべき新しいワンピースだ。

 

「おい、その服は一体どうしたんだ? ウレ――」

 

 言いかけた刹那、ザックの横っ面が殴り飛ばされた。

 

 抵抗する術すらなく地面に崩れ落ちるザック。

 倒れた彼の事を、ルベリナは容赦なく蹴り飛ばした。そして追いついて来た部下たちに視線を送る。部下たちはルベリナの代わりに、地べたに転がるザックを袋叩きにした。

 

 そんな彼らには目もくれず、彼は怯えた瞳の少女に目をやった。

 

「だいじょーぶかい? クー……っと、マリーア」

 

 その言葉にクーデリカは、抑えきれなくなった涙と共にルベリナに抱きついた。

 幼い身にこれまでの荒事はつらかったのだろう、そのままぼろぼろと涙をこぼし、声をあげて泣き続ける。

 

「はいはーい。もう安心だよ。さあ、戻ろうね」

 

 言ってルベリナは来た道、セバスらの許へと足を向ける。

 「この男はどうします?」と部下たちに聞かれたが、放っておけと命じ、さっさとその場を離れた。

 

 

 

 その場に残されたのは、さんざん殴られ蹴られたザックただ一人。

 彼は顔中を腫れ上がらせ、口から血を流し、力なく地面に転がっていた。

 

 口の中に溜っていく鉄の味を感じながらつぶやいた。

 

「……なんでぇ……ウレイリカじゃなかったのかよ……」

 

 あの少女はウレイリカではなかった。

 とても似ていたが、別人のようだった。

 確かあの男は少女の事をマリーアと呼んでいた。

 聞いたことのない名前だ。

 ウレイリカから家族の名前は聞いたことがある。姉がアルシェ。そして、ウレイリカは双子で、片割れがクーデリカ。

 ウレイリカが語った家族の名の中に、マリーアというのは無かった。

 つまり、全くの他人という事だ。

 

「……つまりただの勘違いかよ……無駄な事をして、無駄に殴られただけか……」

 

 自分の愚かさを自嘲気に笑った。

 

 

 やがてザックはその身を起こす。

 そして、懐に先ほど買った串焼き――すでにすっかり冷めてしまっていたが――があるのを確かめると、痛む身体を引きずり、ウレイリカが待っているであろう宿へと歩いていった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「ふう」

 

 ナーベラルは汚れた服を着替え、身支度を整えると、モーリッツ邸の自分にあてがわれた部屋を出た。

  

 あの後、彼女らは急いでこの館に戻って来た。

 そして帰る道すがら、しばらくの間、クーデリカは邸から外出しない事。クーデリカの守備に注力するという方針を決めた。

 そして皆で邸に返った後、全員で居間に集まり、再度、細かい方針の打ち合わせをするということになったのであるが、その際、それほど深手ではないとはいえ、腕を剣で幾度か斬りつけられていたナーベラルは、先に怪我の治療や着替えなどをすませてくるようにと言われた。

 そして、とりあえず最近よく着ているドレスへと着替えの終わったナーベラルは居間への廊下を歩いていた。

 

 

 その時、玄関のノッカーが鳴らされた。

 おや? と思う間もなく、2度、3度。

 更には扉をノックする音がせわしなく何度も響く。

 

 やれやれと思いつつ、ナーベラルはそちらに足を向ける。

 

 そして、やや苛立ちもこめ、バンと扉を開けると、そこには拳を振り上げていた女性の姿が。

 何も、扉を開けたとたん襲いかかろうとしたわけではない。いくら呼んでも誰も出てこないため、焦れてきたアルシェは頑丈な戸に拳を叩きつけようとした瞬間、その扉が開かれたため、突然の事にその姿勢のまま凍りついたのである。

 

 

 アルシェとナーベラル。

 しばし、2人は見つめ合う。

 

 ナーベラルは胡乱気(うろんげ)な視線だが、アルシェの方は驚愕に目を見開いている。その体は小刻みに震え、半開きの口元からは「……あ……ぁ……」と意味をなさない言葉が漏れ出ていた。

 

「……そんな……あ、ありえない……まさか、第8位階魔法まで使えるなんて……」

 

 そのつぶやき声を聞きとめたナーベラルは、その目を細めた。

 

「当家に何か御用でしょうか?」

 

 ナーベラルが冷たい声で問いかける。

 彼女としてはわざわざ家にやって来た人間(ガガンボ)、それも礼儀も知らずに幾度もドアをたたくなどという事をする輩には、優しく応対してやるいわれなどない。それに、何も言っていないのに、自分が使える魔術位階を言い当てられた事による警戒心があった。

 

 声をかけられたアルシェは、氷柱から滴る水が背筋を打ったように、びくりと身を震わせる。

 思わず、腹の奥から食道を駆けあがってくるものを感じた。ゴポゴポとした水音がその身を伝って聞こえてくる。

 だが、気を取り直した彼女はそれを再び飲み下し、胃の奥へと戻した。

 

 彼女は大きく息を吐き、へその下に力を入れると、目の前の見目麗しい女性に向き直った。

 

「あ、あの……私はアルシェ・イーブ・リイル・フルトといいます。ここに妹が、クーデリカかウレイリカがいると伺って参りました。私は彼女達の姉です。妹たちに会わせてください!」

 

 そう一息に言い切った。

 

 万感たる決意を胸に抱えた言葉であったが、それを受けたナーベラルの顔に浮かんだのは嘲笑であった。

 

 

 ――クーデリカの姉などと、ずいぶんと見え透いた嘘を吐くものね。

 

 

 ナーベラルは、ルベリナからの情報により、クーデリカの素性については聞き及んでいた。

 

 クーデリカは双子の片割れウレイリカと、姉であるアルシェとの3人姉妹。

 だが、その姉であるアルシェはというと、ワーカーとしてエ・ランテルを訪れた際にズーラーノーンのアンデッド騒ぎに巻き込まれて死亡している。

 

 

 死んだはずの姉の名を名乗る女が、突然にもクーデリカの捜索が広まったタイミングで現れる。

 それもついさっき、力づくでの襲撃を受け、それを退けたばかりのところに。

 

 あまりにもあからさますぎるというものだ。

 

 

 それに――。

 

 

 ナーベラルはアルシェと名乗る女の装備に目をやる。

 

 

 それに、彼女の身に着けている装備はあまりにも貧相だ。

 これもルベリナからの報告であるが、クーデリカの姉であるアルシェが所属していた『フォーサイト』というワーカーチームは、冒険者で言えばミスリル級に匹敵する実力の持ち主だったと聞き及んでいる。

 ナーベラルも一般人に偽装しての情報収集という任務の為、この世界の様々な知識を身に修めている。そんな彼女の知る限り、ミスリル級冒険者というのは、かなりの実力者に分類される存在だ。

 と、なれば当然、その手にした武器、その身に纏う防具はかなりの性能を持つ物――ナザリック基準では完全にゴミレベルだが――を揃えているのが当たり前である。

 しかし彼女、アルシェとやらの身に着けている代物は、この世界の基準からしても、明らかに大したものではない。

 手にした杖、厚手の服にゆったりとしたローブ。

 およそ駆け出し程度の者が持つような装備でしかない。

 これで歴戦のワーカーであると言い張り、成りすますというのは笑わせる。 

 

 おそらくは先ほど、強引にクーデリカを誘拐しようとして失敗したために、今度は少々毛色を変え、クーデリカの姉を騙り、肉親のふりをして引き取ろうとする作戦に出たのだろう。

 そして、さすがにミスリル級冒険者に匹敵する者達が身に着けている装備は、そうそう手が出ない額になってしまうため、安物の装備をそろえて取り繕ったというところか。 

 

 大方、この娘はその辺の普通の女に、冒険者風の衣服を身につけさせただけなのであろう。今、ナーベラルを前にして怯えた様に震える身体を必死で抑えている姿を見るに、無理矢理、この役と演技を強要されたのだろうという事は想像に難くない。 

 

 

「そのような名の者は当家にはおりません。お帰り下さいませ」

 

 そう取りつく島もなく冷たく言い切り、ナーベラルは扉を閉めようとする。

 だが、その閉まりかけた扉をアルシェはがっちりとつかんだ。

 

 その端正な顔に苛つきの色を隠さないナーベラルに対し、アルシェは必死で食い下がった。

 

「ほ、本当に私はクーデリカとウレイリカの姉のアルシェなんです。妹に会わせてください! ここにいるという話は聞いています! あの――グハッ!?」

 

 

 アルシェの腹部に、ナーベラルの拳が突き立った。

 体をくの字に曲げ、後ろによろめくアルシェ。

 その咽喉を掴み、片手で持ち上げる。

 

 アルシェの足が宙に浮く。

 ギリギリと首の骨がきしむ音が聞こえる。アルシェの顔に苦悶の表情が浮かび、手足をばたつかせてもがき苦しんだ。

 

 そんなアルシェの耳元に、ナーベラルは口を近づけた。

 

「いいこと? あなたの事情など私は知らない。これ以上、こちらに近寄らないようにね。……次は、殺すわよ」

 

 その殺気交じりの言葉は、ワーカーとして幾度も視線をくぐったアルシェですら凍りつくほどであった。

 

 

 そして、アルシェの身体を無造作に投げ飛ばした。

 女とはいえ人1人分の体重である。それがまるで小石のように軽々と投げ飛ばされた。

 アルシェの身体がほぼ水平に飛び、門扉を超えて、向かいの家の壁に音を立てて叩きつけられる。

 そのままずるずると崩れ落ち、アルシェは道端に倒れ込んだ。

 

 そんな彼女の姿になど興味もなくなったナーベラルは扉を閉め、屋敷の奥へと消えていった。

 

 

 

 コツコツと足音を立てて廊下を歩き、やがて皆が待つリビングへと辿り着く。

 そこには、すでに他の者達が雁首(がんくび)をそろえていた。

 

「どうしました、ナーベラル? 先ほど、来客があったようですが?」

「大した事ではありません。クーデリカを狙う輩が玄関先に現れただけの事です」

 

 その言葉に、セバスはうぬと声を発した。

 

「まさか、家までかぎつけられたという事でしょうか?」

「その可能性はありますねー」

 

 呑気そうに言うルベリナを横目に、ナーベラルは居間を横切り、腕に負った怪我の治療とその際に切り裂かれてしまった服を着替えるために一時的に外していた、着用者のステータスを隠蔽する効果がある指輪を手にとり、いつもの左手中指へとはめた。

 

 

 そんな彼女を視界の端に収め、セバスが今後の方針を語る。

 

「とりあえず、家までばれているというのなら、クーデリカを一人にしておくことは出来ませんね。最低でも私かナーベラル、もしくはルベリナが家に残るようにしましょう」

 

 その言葉に皆、深くうなづいた。

 

 

 その後、あれこれと話し合っていると――。

 

「ナーベお姉ちゃん」

 

 見ると戸口から寝間着姿のクーデリカが顔をのぞかせていた。

 

「どうしました?」

 

 セバスが優しく問いかけるが、彼女は枕を胸に抱いて(うつむ)いたままだった。

 困惑した表情を浮かべるセバス。

 その横からナーベラルが足を進めた。

 立ち尽くすクーデリカの許まで歩みよると、いつもの冷たい瞳ながら、穏やかな口調で彼女に声をかけた。

 

「眠れないのかしら?」

 

 こくりとクーデリカが頷く。

 ナーベラルは一つ息を吐くと、その小さな手を取った。

 

「では、私がついていてあげるから眠りなさい。あなたを怖がらせる奴はいないわ」

 

 そうして2人でクーデリカの部屋へと歩いて行った。

 

 その光景を驚いた様子で見つめるルベリナ。

 そして、穏やかな笑みを浮かべるセバスであった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「う……。うっ、うぅ……かはっ……」

 

 胸に走る痛みに、苦悶のうめきをあげ、アルシェは壁に手をつき身を起こす。

 道路に転がったため、その身は土埃で汚れているが、それを払い落す気力すらない。

 

 何とか壁に身を寄せて起き上がり、荒い息を吐く。

 立ち上がった彼女の目に映るのは目の前の邸。

 

 

 家に泊めてもらっていたジエットから偶然、クーデリカらしき姿を見たという情報を得ることが出来た。

 最近この街に来たモーリッツという人物であるが、この絵そっくりな少女を自分の家族であると周囲の者達に紹介しているらしい。

 

 もちろんジエットの見間違いの可能性もある。その為、自分の目で確かめようとモーリッツが住んでいる邸にやって来たのだが――。

 

「ううっ」

 

 戸口から現れた存在を思い返し、彼女は耐えきれず、道のわきの排水溝に嘔吐した。

 

 

 あの時、扉を開けて出てきた女性。

 寒気すら覚える程に整った美貌の持ち主であったが、アルシェが畏れたのはその魔術。

 一見たおやかな、その身に宿していたのは第8位階という桁外れの魔法。

 

 

 アルシェには生まれながらの異能(タレント)がある。

 それは相手の習得している魔術位階を見ただけで分かるというものである。

 

 そんな彼女をして、第8位階の使い手などこれまで見たこともなかった。

 かつて師としていた、帝国最強の魔法詠唱者(マジック・キャスター)三重魔法詠唱者(トライアッド)』フールーダ・パラダインでさえ、第6位階までしか使えないのだ。

 第8位階魔法の使い手など、伝説やおとぎ話の中の存在だ。

 

 なぜ、そんないるはずもない第8位階魔法の使い手がこんなところにいるのか?

 それも、クーデリカがいると思しき貴族の家に。

 

 そして同時に驚愕したのは、その膂力。

 決して大柄とは言えないアルシェの身ながら、その身体を片手で掴み上げ、投げ飛ばしたのだ。そんな芸当はロバーデイクですら出来ないだろう。彼は絶対にそんなことはしないだろうが。

 

 余人の到達することすら叶わない第8位階魔法を習得し、また彼女の知る限り最も力のあるものをも凌駕する怪力の持ち主である美貌の女性。

 彼女はいったい何者なのだろうか?

 

 

 

 ひとしきり胃の中のものを吐き出したアルシェは、革袋の水で口をゆすいだ。身体を動かすたびに、先ほど壁に叩きつけられた身体が悲鳴を上げる。

 

 

 とにかく、そんな存在がいるなら、一旦、退かざるをえない。

 まずはそのモーリッツという家の情報を探ることが重要だ。

 

 

 しかし――とアルシェは考える。

 

 しかし、どうやって調べればいいのだろう?

 モーリッツというのは帝国の貴族ではないようだが、やはり貴族を調べるには貴族の伝手があった方がいい。

 だが、アルシェの家は貴族位を追われた家である。現役貴族の家に行っても話は聞かせてもらえまい。

 となると――。

 

 

 アルシェはその足を学院に向けた。

 

 学院はすでに退学してしまっているが、現在も在籍している生徒の中にはアルシェの知己の者がいるはずだ。こう言っては何だが、かつてアルシェは学院でも有名人だった。彼らに頭を下げて頼めば、多少の情報程度ならば融通してくれるだろう。

 

 辞めた身として学院の中には入れないだろうが、入り口付近で張っていれば、誰か知り合いが出てくるところは見つけられるだろう。その者に頼んでみよう。

 

 

 アルシェは痛む身体を抱え、その場を離れた。

 

 


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