オーバーロード ~破滅の少女~   作:タッパ・タッパ

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2016/9/16 「人間の見回す」→「人間を見回す」 訂正しました
2017/3/29 「拳の後」→「拳の痕」 訂正しました


第54話 すれ違い―2

「うわああぁっ!」

 

 ザックは精一杯の雄たけびを上げて、男に襲いかかった。

 突然の事に男は驚き、とっさの反撃一つ出来なかった。

 ザックの手にした木の棒が、男の頭に振り下ろされる。

 男は慌てて、手で頭を抱え込むようにしてその一撃を防いだ。だが、その拍子に少女を捕まえていたその手を放してしまった。ウレイリカの身体が拘束から解放される。

 少女は泣きながら、未だ恐怖と興奮に足を震わせるザックの胸に飛び込んだ。

 

 

 

 ザックがギリギリのタイミングで帰って来たのは本当に偶然だった。

 宿で待つウレイリカのために食料品を買い込み、彼女の好きなクチナシの花束を買って宿に戻ると、叫び声が聞こえた。

 その声は聞き間違えるはずもない、最近ずっと一緒にいた少女ウレイリカのものだった。

 

 ザックはその辺の棒っ切れを手に階段を駆け昇ると、今度は一転、こそこそと音をたてぬように廊下を進んだ。

 その叫び声は間違いなく、彼とウレイリカの部屋から聞こえてきた。ザックは足音を忍ばせ、戸口から中を覗き込む。

 その中では強面の男が4人――1人は彼が今日出かける前にぶつかりかけた男だ――が暴れるウレイリカを捕まえ、連れて行こうとしているところであった。

 

「間違いない。こいつは手配書のガキだぜ」

「ああ、こいつを差し出せば、俺たちの憶えもよくなるな」

「どうだい? 俺の目端も聞くだろう?」

「ああ、確かにな。今、帝都中の犯罪組織がこいつを捜しているんだ。真っ先に見つけられたのはラッキーだったな」

 

 彼らはそんなことを話しながら、自分たちのたてた手柄、そしてその結果による未来を想像して、にやにやと笑いあっていた。

 

 

 

 ザックの心は揺れ動いた。

 

 ウレイリカを助けるべきか? それとも見捨てるべきか?

 

 

 今すぐ逃げた方がいい。

 見ただけでも、ウレイリカを捕まえている男は荒事になれているというのはよく分かる。身に着けた服の下から盛り上がる筋肉は、ザックのひょろりとした細腕とは雲泥の差だ。

 それに4人もいる。

 仮に相手がたった一人でも勝てる気がしない。

 更に言うならば今のザックは、先ほど勘違いで助けようとした少女の関係者に、散々殴る蹴るの暴行をうけたばかりだ。その服の下にはあちこちに怪我をしており、ちょっと動くだけで痛みが走る有様だ。

 とうてい歯が立たないのは火を見るより明らかである。

 

 それは分かっていた。

 よく分かっていた。

 頭では分かっていたのであるが――。

 

 

 気がついた時には、叫びながらザックは男に飛びかかっていた。

 その気迫に押され、不意を突かれた男達は思わず気が動転してしまい、その隙にウレイリカをその腕に奪還することは出来た。

 さすがに、いくら体格に優れているからと言って男達は4人とも素手である。ただの木の棒と言えど、振り回される武器にわずかだが怯んだ様子を見せた。

 

 だが、すぐに男達は気を取り直し、体勢をたてなおした。

 突然の事に意表を突かれたものの、部屋に踊り込んできたのは、先ほど少女と一緒にいた貧相な男ただ一人だ。こんな奴が自分達に歯向かおうなど、身の程を教えてやらなくてはならない。

 男達は先の屈辱を振り払うかのように怒りに震え、目の奥に凶暴なものを宿した。

 

 ザックは片手にウレイリカを抱え、必死で手にした棒っ切れを振り回す。

 しかし、武器とはいえ、所詮はただの木の棒である。重量のある金属でも、研ぎ澄まされた刃という訳でもない。

 

 男たちは目くばせし合い、その身を低くし、一気に突っ込もうと身構える。

 殴られることを覚悟で襲えば、一度は殴られるだろうが、容易く制圧できる。それにこちらは4人もいるのだ。全員で一息に襲い掛かれば、防げるものでもない。

 

 

 そんな男達に対し、ザックは手にした棒を頭上まで掲げると、勢いよく振り下ろし――。

 

 

 ――そのまま、投げつけた。

 

 

 これにはさすがに男達も虚を突かれた。

 投げつけられた男は、とっさに腕で頭を守る。

 大した痛みでもないが、その衝撃に一瞬身体を縮こまらせた。

 

 

 その隙にザックは走った。

 ウレイリカを抱え、男の横をすり抜けて部屋を飛び出る。他の男が慌てて追いかけようとするが、よろけた仲間の身体が邪魔で戸口から出るのに、一瞬間が空いてしまった。

 

 そして、ザックは勢いそのままに階段を駆け下り、宿からの脱出を果たした。

 宿の入り口には部屋にいた連中の仲間らしき男たちが数人たむろしていたが、突然飛び出してきたザックに驚き、その行く手を(さえぎ)ろうとする者はいなかった。

 後ろから追ってくる男たちの怒声を背に、ザックはウレイリカをその腕に抱え、ひたすら走った。

 

 

 

◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「いや、こういうのはどうなんでしょうか?」

「なに、そんなに深く考えることは無いって。ただ、飲み食いするだけなんだからな」

 

 やや日が傾きかけた帝都アーウィンタールの歓楽街を2人の男が歩いていた。

 陽気な笑みを顔に浮かべる、腰に数種類の武器を下げた若い金髪の男と、首から聖印を下げ、がっしりした体躯ながらも今は周辺の空気に落ち着きをなくしている、壮年と言ってもいい年齢の男性。

 

 

 ワーカーチーム『フォーサイト』のヘッケランとロバーデイクである。

 

 彼らは今、若い女性たちが(なま)めかしいダンスを踊る、あまり年若い少年少女の教育にはよくないような酒場へ向かうところであった。

 

 

 

 事の発端は彼らの定宿、歌う林檎亭でのことである。

 

 エ・ランテルからしばらくぶりに返ってきた後、たんまり稼いだ後という事もあり、彼らは特に仕事をするでもなく、のんびりと骨休めをしていた。

 日がな一日、ベッドで惰眠をむさぼったり、普段はいけないようなちょっと高級な店に食事に行ったり、朝から酒を飲んだりと怠惰な時を過ごしていた。もちろん、次の冒険の為に良い装備をそろえたり、減ってしまった消耗品の買い足しも行ってはいたのだが。

 

 しかし、これまで忙しい日々を過ごしてきたこともあり、なんとなくそうしてゆったりと過ごす事に退屈を憶えてきてしまっていた。

 だが、帝都に返ってきてからアルシェはどこか――詳しくは知らないが、おそらくは帝都にある自宅だろう――へ行ったきり宿に姿を見せようともしない。

 当初は、翌日には顔を出すといっていたのに。

 何かあったのだろうかとも思ったのだが、実家がどこにあるかはプライベートな問題として聞いていなかったため、確認する(すべ)もなかった。

 つまり、メンバーが1人いない以上、フォーサイトとしての今後の方針を決めることも、なんらかの行動も起こせないという事だ。

 

 その為、特になにするでもなく日々を過ごすほかはなかった。

 

 

 

 そんなある日のこと。

 イミーナが情報を仕入れてくると言って出かけた後、残った男2人はのんびりと話をしていた。そうしたところ、話題は自然とエ・ランテルでの事になり、やがて冒険者チーム『漆黒』の話になり、やがてそのうちの美しい女神官ルプーの事になった。

 

 ロバーデイクが彼女に惚れてしまっている事は、ヘッケランらも知るところとなっており、自身とイミーナの件でしょっちゅう揶揄(からか)われていた意趣返しという事で、度々その事をつついていた。

 普段は落ち着いた様子のロバーデイクも、その話になると慌てだすので、面白がり悪乗りするヘッケランをイミーナが止めるというのが最近の定番であった。

 

 そして、イミーナがいぬ間にまたその話題となり、そうしてあれこれ話が飛ぶうちにどういう訳か、じゃあロバーデイクがいざという時に慌てぬよう、半裸の女性がいる店に行って耐性をつけようという結論になってしまった。

 

 そうして2人は、傾きかけているとはいえ、まだ日が空にあるうちから歓楽街に繰り出すことになったのである。

 

 

 自信満々に歩くヘッケランの後ろを、押し切られる形となったロバーデイクが続く。

 彼は大きな体でため息をついた。

 

「いや、これって意味あるんでしょうかね?」

「まあまあ、言ってみりゃ分かるさ。お前だって、そういうところは初めてじゃないんだろ?」

「ええ、まあ。昔、知り合いに連れられていった事はありますがね……」

「行った事あるんなら、そう気にすることもないだろ。これから行くのは別におかしなところってわけでもないんだぜ。ただ、裸の姉ちゃんが踊っているところに……!?」

 

 話していたヘッケランに、突然、路地から飛び出してきた男がぶち当たった。

 歴戦の戦士であるヘッケランの方はよろけただけで体勢を立て直したものの、追突した方の男は勢いよく地面に転がった。

 

「おい! どこ見て歩いて、っと。……ん?」

 

 悪態をつこうとしたヘッケランの目が、石畳に倒れた男の腕の中にいた少女に向けられた。

 

 ――なんだろう?

 なにか……はっきりとは結びつかないが誰かの面影があるような……。

 

 

 だが、男の方はというと、そんなヘッケランの視線から少女を隠す様に抱え直す。そして、再び駆けだそうとした。

 しかし、男の逃走は路地から続いて飛び出てきた男たちによって妨げられた。

 

 いかつい顔つきの、いかにも悪漢とでもいうべき10人弱の男たちが、少女を抱えた痩せた男に追いつき、痩せた男は殴り飛ばされた。

 再び地面に転がった男に殴る蹴るの暴行を浴びせ、男の手から金髪を三つ編みに纏めた少女を奪い取る。少女は悲鳴を上げて男に手を伸ばすが、起き上がろうとした男はチンピラたちに蹴り倒された。

 そうして、少女は男たちの手によって連れ去られようとしていた。

 

 

 その光景をヘッケランは眺めていた。

 その心境はやれやれというものである。

 詳しい事情は知らないが、借金か何かのトラブルであろう。かわいそうだが、自分に何の利益もない(いさか)いに首を突っ込む気はなかった。

 

 だが、ヘッケランはうっかり忘れていた。

 今、自分の隣にいる男は、そんな自分にとって何の利益にもならない諍いだろうと、自分の良心のままに行動する男だという事を。

 

 

「待ちなさい!」

 

 その場に響いた声に、皆驚いて声を発した者に目を向けた。

 ロバーデイクはその巨躯の胸を張り、堂々とした態度で言った。

 

「私は詳しい事情は知りません。皆さんにも何か事情があるのかもしれません。ですが、少女が涙を流すような行為を黙って見過ごすわけにはいきません!」

 

 その言葉に男たちは呆気にとられた。

 そして、口元に笑みを浮かべた。

 (あざけ)りの笑みを。

 

「よう、神官さん。こいつはアンタにゃあ関係ない事だ」

「そうだぜ。こちとらには、こちとらのルールがあるんだ。余計な事には首を突っ込んだら、大やけどするのがオチだぜ」

「ああ、せいぜい神殿ででも、いい世の中になるように祈っていてくれや」

 

 示し合わせた様に、全員で鼻にかかる笑いをあげた。

 

 

 

 その笑いは次の瞬間、凍り付いた。

 

 男の1人が吹き飛んだ。

 その頬にはロバーデイクの握りしめた(こぶし)の痕が、まざまざと残っている。

 

 殴られた男の腕の中からウレイリカが抜け出し、倒れたままのザックの許へと駆けよる。ザックは彼女を腕の中に迎え入れ、痛む身体をおして立ち上がった。

 

 

 ロバーデイクは、仲間が一瞬のうちにやられ、息をのむ男たちに静かに語りかけた。

 

「申し訳ありませんが、私は祈るだけでは世の中は変わらないという事を重々承知しています。私の手の届く範囲は小さいですが、その小さな範囲を守るためだけでも力を振るわせていただきますよ」

 

 その言葉にヘッケランはあちゃーと天を仰いだ。

 なんで何の得にもならないことをやって、誰かの恨みを買わなくてはならないんだろう。

 

 

 彼はため息一つ吐くと――チンピラの1人を殴り飛ばした。

 

 

「しゃあねえな。付き合ってやっか」

 

 ヘッケランは気楽な口調で言った。

 

 

 

 チンピラたちは色めき立った。

 突然現れたヘッケランとロバーデイクの2人はザックの仲間であり、彼らがいるところまで必死で逃げたのだと思ったためである。

 

 男たちが見たところ、目の前にいる男2人はかなり強そうだ。しかし、こちらはまだ幾人もの頭数がある。全員で一斉にかかれば、こちらの方が数が多いのだ。倒せないことは無い。

 そう考えた彼らは2人を囲むように位置すると、いちどきに襲い掛かった。

 

 

 

 勝負は実にあっさりついた。

 

 たとえ素手だとは言え、ミスリル級冒険者に匹敵する実力の2人の前に、街のチンピラ数人など赤子の手をひねるようなものであり、数倍程度の数の多寡などハンデにすらならなかった。

 

 

「さて、終わったようですね。お怪我はありませんか? 私は神官なのでお怪我は治せますが……」

 

 そう言って振り返ったロバーデイクであったが、その視線の先には誰もいなかった。

 

「ちっ。お前らのために戦ってやったっていうのに、礼の言葉すらないのかよ」

 

 そう、ザックは2人が戦っている間に、これ幸いとばかり再び逃げ出していた。

 残されたのは地に伏し、うめき声をあげる男たちだけだ。

 

「まあ、彼らにもいろいろ事情があったのでしょう」

 

 そうロバーデイクは言った。

 彼はヘッケランとは異なり、胸に淀むものはない。

 

「とにかく、泣いていた少女を助けたという事でいいではないですか」

 

 そう言って晴れやかに笑う。

 そんな表情を見て、またヘッケランのいたずら心がうずいた。

 

「まあ、確かにな。これで何の憂いもなく、女の裸を楽しめるな」

 

 その言葉に、再度ロバーデイクは慌てた。

 

「いや、ですからね。そういう訳では……」

「だから、気にするなって。深く考える必要はいないって。俺たちはただ飲み食いする。その横で女たちが踊ってるだけだから」

「いや、問題はそう……」

 

 そこまで口にしたところで、ロバーデイクは顔をひきつらせた。

 対してヘッケランの方はというと、変わらず自信気に語っていた。

 

「だからな。あれこれ考える必要もないんだって。な? 裸のねーちゃん、特に胸の大きい姉ちゃんたちの踊りを楽しんでいればいいんだよ」

「あ、あのー、ヘッケラン。その辺にしておいた方が……」

「やっぱり巨乳の姉ちゃんの踊りってのは見ごたえがあるぜ。動くたびにブルンブルン揺れるからな。やっぱり小さい胸だとな。見ても面白みがないし」

「い、いや、あのですね。もうそのくらいで」

「いや、やっぱり胸は大きい方がいいよな。ルプーさんもチェインメイルの下とか、あれ絶対詰め物無しの巨乳だぜ。あんな胸マジであるんだな。いっやあ、あの胸は男なら誰だって憧れるってもんだなあ、おい。……ん? なんだよ。どうした? まあ、そんなことよりしばらく一緒に動いたんだから、水浴びとかの時に何とか見ておけばよかったな。うちの女勢はさっぱりないもんな。アルシェはまだしも特にイミーナ。もう小さいどころか、本当にあるのかってレベルだしな。……え? だからどうしたって……」

 

 先程からちらちらと自分の後ろに目をやるロバーデイクの視線の先を追う。

 振り返った自分のすぐ背後には、その場にいないはずの人物。

 

 情報を買いに出かけ、たまたま通りで喧嘩している者がいると目を向けたら、実は仲間たちであったために近寄って来た、基本的に大きな胸とは無縁である森妖精(エルフ)とのハーフの女は、にっこりほほ笑んだ。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「本当にやるんですかい?」

 

 顔に傷のある髭面の男。いかにも大胆不敵で、およそこの世に怖いものなどないという風体(ふうてい)であるが、今その顔には不安の色が覗いていた。

 

「当たり前だ。このまま、舐められていられるか!」

 

 問われた若い男が怒気を発する。

 脳裏にはあの時の屈辱の光景がフラッシュバックする。

 叫んだ拍子に、くせ毛の金髪が揺れた。

 

 

 男は帝都の裏社会で生きてきた。

 まだ若い年齢ながら、無鉄砲なまでの強引さと何物にも恐れないというふてぶてしさを併せ持ち、暴虎馮河の勇といってもいい振る舞いで、急速に勢力を伸ばしていた。

 その勢いはすさまじく、古くから帝都に根をはり、権勢を誇ってきた硬直した組織を追い落とし、そして代わりにその隙間に食い込んでいき、いずれは裏社会の一角をも占めるのではないかと噂されていた。

 

 だが、その評価は一転地に落ちることとなった。

 

 

 きっかけはしばらく前の事。

 裏社会の者達がたむろするホテルの一角で、見知らぬ男に絡んだことである。

 

 彼らとしては、自分たちの無分別な危険さ、そのほんの少しばかりのアピールのつもりであった。

 ちょっとした遊びでしかなかった。

 しかし、その代償は信じられないほど高くついた。

 

 

 彼らが絡んだ伊達男。

 ただの気取った金持ちと(あなど)った優男。

 しかしてその正体は、隣国リ・エスティーゼ王国において悪名名高い八本指、その中でも最強の六腕として知られた男。

 『千殺』マルムヴィストだったのである。

 

 

 アダマンタイト級冒険者にも匹敵すると言われた強さの前に、男は醜態をさらした。

 用心棒の男は目玉をえぐられ、若きボスはその目玉入りの紅茶を飲むことを強要された。そして、断ることすら出来ず、言われるがままにそれを飲み下そうとして目玉がのどに詰まり、皆が見ている前で倒れるという醜態をさらしてしまったのである。

 

 

 男もこれまで幾度も死線を潜り抜けてきた自負があった。

 どんな相手を前にしても、恐怖を感じた事などなかった。

 

 だが、マルムヴィストという本当の強者を前にしたとき、恐れを知らないはずの彼の身体は、深夜、ベッドの下の暗闇に怯える幼子のようにただ震えるしかなかった。

 

 

 当然、その姿はその時、ホテルのエントランスにいた者達全員に目撃されていた。

 そして彼らの口から、いきがっていたその男が無様に震え、さらに卒倒した話は、瞬く間に広がって行った。

 

 それから、彼を待っていたのは嘲りの視線であった。

 どこに行っても侮蔑と嗤笑(ししょう)がついて回った。彼が通り過ぎたその後ろではせせら笑いが交わされた。

 彼はもはや、舐められてしまったのである。

 

 

 

 その状況をひっくり返すには、復讐するしかない。

 自分たちであの『千殺』マルムヴィストを殺して、力を誇示する以外に、この世界で彼らの生きる道はない。

 だが――。

 

「か、勝てるんですかね? あのマルムヴィスト相手に」

 

 髭面の男は、思わず自分の片目を(まぶた)の上から撫でた。

 あの後、神殿に行き、少なくない金を積んだことで幸いにも傷跡一つなく治ったのであるが、あの時の、一瞬で眼球がえぐり取られ、吹き出る血と体験したこともない激痛にのたうった経験は今思い出しても身震いする。

 

 そんな弱気にかられた男を、ボスは地面に唾を吐きつつ、睨みつけた。

 

「ビビんな! マルムヴィストったって人間だ。勝ち目はある」

「で、ですが……」

「大丈夫だ。今、マルムヴィストはガキとメイドと一緒に街をぶらついている。ホテルに残ってるのは娼婦みたいな女1人だけだ。そいつを人質にして、マルムヴィストを罠にかける」

 

 それが彼が立てた計画だった。

 マルムヴィストは強い。

 おそらく今集められる自分の手下全員で襲っても勝てはしないだろう。

 だが、馬鹿正直に真正面から戦う必要はない。自分達は高邁な騎士ではない。相手の弱みにつけ込む。人質を取る。それが自分たちの戦い方だ。卑怯というのは、彼らにとっては賛辞の言葉だ。手段など択ばない。そんなやり方で、自分たちはここまでのし上がってきたのだ。

 

 

 金髪の男は周りの人間を見回す。

 ホテルから一ブロックほど離れた場所の路地に、自分に忠実な部下たちおよそ30人が武器を持って集まっていた。

 

「お前ら、覚悟はいいな?」

 

 その言葉に、殺気だった目を持つ男たちは一斉に頷いた。

 あのホテルは犯罪に関わる者達が使う場所であり、あの場では多少のケンカ程度ならともかく、基本的に戦闘はご法度である。あまり派手な事をすると、暗黙のルールを破ったとして、裏社会からも追放されることになる。

 そんな場所に襲撃をかけ、ホテルの部屋から人を攫う。

 闇社会にもある暗黙のルールをも平然と破る事で名を馳せてきた彼らでもなければ、やろうとすらしない事だ。

 

 それでも成功すればいい。

 もし、失敗でもしたら、それこそ彼らの名は完全に地に落ちる。

 ルールを破ったうえに敗北したものに、手を貸すものはいなくなる。それは、ボスだけではなく、構成員一人一人にとっても同じである。後ろ盾がいなくなったはぐれ者など、裏社会でどんな扱いを受けるか、想像するだけで震えが走る。

 

 

 やるからには成功させなくてはならない。

 誰もが緊張に喉を鳴らした。

 

 男はそんな手下たちの様子を見ると、再びホテルに目を向ける。

 そして、突撃の号令をかけた。

 

 

 

 武器を手にした男たちが(とき)の声をあげながら、一斉に道路を走る。その勢いのまま、ホテルの入り口に殺到する。慌てたホテルの者が制止するより早く、階段を駆け上がった。

 2階……3階……4階、そして5階へと。

 目当ての南側の部屋。両開きの扉の前に皆が集結する。

 視線を巡らせると、皆無言のまま首を縦に振った。

 そして、そのしっかりとした造りの黒檀の扉を蹴り開け、室内へとなだれ込んだ。

 

 

 

 

 部屋の中には、調べの通り、マルムヴィストはいなかった。

 フリルのついたドレスを着た少女も。目を見張るように美しい金髪のメイドもいなかった。

 室内にいたのは、奥の籐椅子に優雅に腰かけた、薄絹を身に纏った女ただ1人。

 

 

 その様子に男たちは安堵した。

 万が一の覚悟はしてきたとはいえ、マルムヴィストと直接やり合うことはしたくなかった。

 

 ボスである金髪の男は、額の汗をぬぐい、自分の幸運を神に感謝した。賭けに勝ったという事だ。

 さあ、次はこの女を人質にして、マルムヴィストを誘い出さねばならない。いかにあの男とはいえ、待ち伏せして一斉に毒のついた矢じりで狙われれば命はあるまい。

 それと……。

 

 彼、そして他の男たちも、椅子にゆるりと腰かけ足を組む、退廃的な色気をまとった女に好色そうな目を向けた。

 実に(なま)めかしい肌の女だ。マルムヴィストの情婦の1人なのだろうが、人質として使う他にも、マルムヴィストを待つ間の暇つぶしにも使えるだろう。

 

 そんな男たちの情欲と凶暴さを交えた視線にさらされながらも、彼女は悠然と椅子に座ったままだった。

 

「よお、アンタ。アンタはマルムヴィストの知り合いなんだろう? おとなしく来るんだ。抵抗しなけりゃ、痛い思いはしねえ」

「抵抗しなけりゃ、優しくしてやるよ」

「ああ、暴れないで、ちょっくら全員の相手をしてくれるだけでいい」

 

 そう言って、男たちは下卑た笑いをあげた。

 

 

 だが、それを聞いても彼女は特に反応も見せなかった。

 そもそも、突然室内に侵入してきた武器を持った男たちにも怯えることなく、ゆったりと傍らの卓に置かれた器具で水タバコを吸っている。

 婀娜(あだ)めいた仕草で、ふぅーっと紫煙を吐き出してみせた。

 

 まったく恐怖の色を見せないその姿に、暴力を生きる旨とする男は苛立ちを感じた。

 

「おい! 状況が理解できてんのか? お前にはマルムヴィストを殺すための人質になってもらうんだよ!」

 

 その言葉に女はようやく反応した。

 その美しい顔に笑いを見せた。

 愚者を嘲笑う憫笑(びんしょう)を。

 

「何がおかしい!?」

「何がおかしいって? 全部よ。何もかも全部がおかしいわ。あなたって有名なコメディアンなのかしら? 道化でもなければ、そんな台詞は吐けないわね」

 

 言葉にすら色気が漂うような美しい声であったが、その声色に乗ってくるのは傲慢さすら感じられるほどの嘲りであった。

 予期せぬ相手からの蔑みの言葉に男の顔が怒りに染まる。

 

「おい、てめぇ! 女だからと言って、安全だと思ってねえよな。すこしばかり、痛めつけても人質としての価値は変わらないんだぜ!」

 

 凄んで見せたその言葉に対して返って来たのはさらなる嘲笑だった。

 

「あはははは! なんておかしいのかしら。身の程知らずを見るのは面白いけど、あなたは特に格別ね。『少しばかり、痛めつけても』ですって? 猿が人間様に道具の使い方を教えてやるというようなものだわね」

 

 そう言って、更に甲高い笑い声をあげた。

 

 

 すでにその場にいた者達は剣呑を通り越した殺意の目を向けていた。その顔は怒りのあまりどす黒く染まり、すでに先ほどまでのぞいていた情欲の炎などはどこかにいってしまっている。

 

「なるほど。一度、体に教えてやらなければ分からないらしいな」

 

 男たちは武器を構え、部屋の入り口など、女の逃げ場をふさいだ。

 それを見ても、彼女はクスクスという笑いを顔に浮かべるだけで立ち上がろとさえしない。優雅にその艶美(えんび)さを感じさせる足を組み替えた。

 

「そうね。体に教えてあげるというのはいい考えだわ。でも、教えてはあげるけど、あなた方は2度とそれは活かせないわね」

 

 そう(うそぶ)く彼女の傍らにある卓。その上に無造作に置かれた数本の鞘から、誰も手に触れる者すらいないのに三日月刀(シミター)が音を立てて飛び出した。

 

「そういえば、自己紹介がまだだったわね。私は『踊る三日月刀(シミター)』のエドストレーム。さあ、私の前で優雅に踊って見せて」

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「うわぁ……」

 

 ベルは目の前の光景につぶやいた。

 

 帝都に来てからようやく大手を振って街を歩けるようになり、意気揚々と街に繰り出し、あれこれ買い食いなどして良い気分で帰って来たベルたちを迎えたのは、泊まっている部屋一面にぶちまけられた鮮血と転がる死体であった。

 

「おかえりなさい、ボス」

 

 血の海を挟んで向こう側では、籐椅子に腰掛けたエドストレームが優雅に水タバコを吸っている。

 

 部屋中に立ち込める血の匂いに、せっかくの楽しい気分もウンザリとしたものに変わってしまい、とりあえず窓を開けて換気させた。

 

 

 とにかくこの惨状の原因を尋ねると、初日にマルムヴィストに絡んできた男が手下を連れて復讐しに来たので返り討ちにした、とエドストレームは事もなげに語った。

 

 証拠として、その辺に転がっていた首の中から、恐怖に歪んだ顔の金髪男の頭を、自身の空飛ぶ三日月刀(シミター)で突き刺し、ベルの前に持ってくる。

 しかし、そんなものを見せられても、いちいち顔なんて憶えていない。マルムヴィストの方を振り向くと、彼も少し困ったような顔で首をひねった。

 

 

 まあ、とにかくそちらはどうでもいい。

 転がる首の元の持ち主に興味はない。

 そんな事より気にしなくてはならないのは……。

 

 

「返り討ち自体はいいけど、これはなあ……」

 

 足元の血だまりに転がっていた生首を足の先でつつくと、先が丸くなっている黒い革靴の先がどす黒い血で汚れた。絨毯の乾いている部分になすりつける。

 見回すともう壁から何から、金の額縁に入れられた美しい絵画にも、品のいい高級そうな家具にも、壁際にかけられた瀟洒(しょうしゃ)な垂れ布にも、ありとあらゆるもの全てに血の赤が飛び散りまくっている。

 

「どうやって掃除するんだ、これ?」

「まあ、こんなホテルでしたら〈清潔(クリーン)〉の魔法を使える奴とかいるでしょうけど。さすがにこの有様じゃあ、数日がかりの仕事になるでしょうな」

 

 ベルの言葉にマルムヴィストが答える。

 

「数日なあ……。それで、その間、この部屋に泊まるのか? こんな有様の所に?」

「いんや。こういう裏の人間が使うところで派手な抗争はご法度ですよ。組織間での暗黙の了解ですし、ホテルとしても止めなきゃいけません。ですが、制止することも出来ずにこうして部屋まで通してしまったんですから、ホテルにも責任ありってことで、たぶん言ったら部屋を変えてくれるでしょうな」

「まあ、それならいいけどね」

 

 ため息交じりに、こうなった原因を作った当のエドストレームに目をやると、「なに、ベル様に副流煙を吸わせてるのかしら」とソリュシャンに腹パンを食らっていた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 とりあえず、ホテルの従業員に事の次第を知らせると、マルムヴィストの言った通り、平身低頭し謝罪してきた。彼らはすぐに死体を片づけ、部屋の清掃を始めた。

 そしてマルムヴィストの予想通り、すぐには全て片づけられないという事で、1階上の6階に部屋を移してくれた。

 

 

「ふうん。前の部屋よりは大きいんだね」

「まあ、ここがこのホテルで一番いい部屋みたいですからね。ホテル側としても、謝罪のつもりなんでしょう」

 

 ぷらぷらと部屋の中央で所在なさげに会話しながら、きょろきょろと部屋の飾りを観察する。

 そうこうしているうちに、例のソリュシャンのチェックが終わったようだ。やはり盗聴器など、怪しいものは見つからない。

 この襲撃事件は完全に偶発的なものであり、部屋が汚れたことを口実にして何かの仕掛けをしていた部屋に替えるといったことでは無いようだ。

 

 

 ぼふんと音を立ててソファーに腰を落としたベルを横目に、ソリュシャンはマルムヴィストに言った。

 

「じゃあ、マルムヴィスト。下の部屋からこの部屋に、荷物を全部運んできなさい」

「俺が!?」

「あなた以外に誰がいるというの。まさか、か弱い女性陣に運ばせるというのかしら?」

「いや、エドストレームはともかく、ボスやソリュシャンさんは俺より力があるんじゃ……」

「なにか、言ったかしら?」

「いえ、今すぐ運んできます!」

 

 マルムヴィストは慌てて、部屋を飛び出て行った。

 エドストレームは我関せずといった面持ちで、壁際に寄りかかり、部屋に用意してあったワインを口にしている。下手に口を出すと自分の方に矛先が向きかねないからだ。

 

 そんな彼らの様子を見ていたベルは……。

 

 

 ――ん? そう言えば……ザックもいたな。

 

 

 と、この場にいない人物の事を思い出した。

 

 

 そうだ。自分たちとともに帝都に来て、このホテルに宿泊していたのは、今ここにいる4人だけではない。ザックもいるのである。

 あいにく、彼はまた一人でどこかに出かけたままなのであるが。

 

 ――そうだな。部屋が変わったのをあいつにも知らせておかないとな。

 

 そう考え、ベルは〈伝言(メッセージ)〉を使おうとしたが……。

 

 

 ――あー、やっぱいいか。そこまでしなくても。

 

 と考え、使うのを止めた。

 

 

 あまり、自分たちが〈伝言(メッセージ)〉で頻繁にやり取りしているということは、一応ザックはナザリックに属しているとはいえ、広く人には知られたくない。

 それに正直、ザックに知らせるために〈伝言(メッセージ)〉を使うのはMPがもったいない。

 

 そもそも、ザックが下働きとして自分たちと一緒の部屋に泊まっている事はホテルの従業員も知っているのだから、ザックが帰ってきたら受付の人間が教えるだろう。

 

 だから、いちいち教えなくてもいいや、とベルは気楽に考えた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 はあっはあっはあっはあっ。

 ザックは息を切らせて、必死の面持ちで走る。

 腕には布きれで身体を隠したウレイリカを抱えて。

 

 あの後、襲撃をからくも逃れたザックとウレイリカは、ある場所を目指していた。

 すなわち、ザックが最近泊まっているホテル。

 彼の主、ベルのいるところである。

 

 

 当初は、ベルの許にウレイリカを連れていったら、どんな目にあわされるか分からないと思い、そうする事は避けていた。

 下手に連れて行きでもしたら、彼のかつての仲間、『死を撒く剣団』のような末路が待っている可能性があると考えていた。

 

 

 だが、今やそんなことなど言っていられない。

 

 

 先ほど、ウレイリカを攫おうとしていた男たちは言っていた。

 『手配書のガキだ』、と。

 『今、帝都中の組織がこいつを捜している』、と。

 

 どういう訳かは分からない。

 何故、ウレイリカが捜索されているのか、さっぱり意味が分からない。

 だが、一つだけ言えるのは、ウレイリカが狙われたのは一人で安宿にいた攫いやすい少女だからなどという理由ではなく、なんらかの明確な意図をもってしたものであるということだ。

 

 

 窮地に陥った彼が最後に頼る事が出来るのは、彼が恐れ、近寄る事も出来るだけ避けていた彼の主人しかいなかった。

 

 ――とにかく、主であるベルに頭を下げて頼み込もう。

 なに、あの少女とて鬼ではない。しばらく一緒にいて話を聞いた限り、人間らしい心も持ち合わせているようだ。悪事も働いていない、そして闘う事も出来ない幼子であるウレイリカの事を無下(むげ)には出来ないだろう。

 

 

 ザックはそれが甘い考えである事は分かっていた。ただの希望的観測に過ぎないことは十分理解していた。

 だが、このままでは、また別の場所に隠れ潜もうとも、再度襲撃を受けることは目に見えている。

 この帝都で安全な場所といっても、土地勘のないザックには、あの部屋しか思い浮かばなかった。

 彼としてはあの気まぐれな少女が、懐に入った窮鳥に慈悲をくれることを願うばかりであった。

 

 

 

 そうしてザックは、ホテルが見える路地までたどり着く。

 ウレイリカにかけた布きれを、誰にも見られないように今一度かけ直した。

 

 そこで呼吸を整え、あと一息だと気合を入れ直した。

 

 

 そして、ホテルまでを一気に駆ける。

 入り口に飛び込むと、そのまま階段を駆け上る。

 途中、ホテルの受付が「お客様……!」と声をかけてきたが、止まる訳にはいかない。

 2階、3階、4階、そして5階。

 ザックは疲労を訴える太ももに喝を入れ、最後のラストスパートをかける。

 

 そうして、転がるように扉を開けて室内へと転がり込んだ。

 そして、部屋の中の人物に声をかけようとして――。

 

 

 

「うわああああーーー!!」

 

 彼の口からほとばしったのは悲鳴であった。

 

 

 

 彼の目の前に広がっていたのはまさに惨劇の後。

 血の海に沈んだ室内であった。

 

 

 

 ザックは目の前の光景に、へなへなとへたり込んだ。

 

 

 ――ま、まさか殺されたのか!?

 あの全員が!!

 

 彼は信じられなかった。

 彼の知る限り、今回の同行者は八本指の六腕『千殺』マルムヴィストに『踊る三日月刀(シミター)』エドストレームである。それに当のベルとソリュシャンもまた桁外れの強さをもっていた。

 そんな強さの人間たちでさえ、こうして殺害されてしまったのか? いくら強いとは言っても、個人の強さでは、犯罪組織を敵に回してはひとたまりもないのか?

 

 

 見回してみるが、すでに赤黒く変色している血だまりの中には死体は見つからない。そちらはすでに回収されて、およそ想像したくもない見せしめに使われているのだろう。

 いや、死体ならまだいい。

 最悪の場合、まだ生きていて、その上で見せしめに使われている場合も……。

 

 

 ザックは自らの想像に身を震わせた。

 その震えを感じ取り、胸元のウレイリカが身じろぎした。

 

「どうしたの? ザック?」

「な、何でもない。だから、見るな」

 

 ザックは慌てて、彼の悲鳴に何があったのかと外を覗き込もうとした彼女の顔に布をかけ直した。

 

 

 ――そうだ。混乱してはいられない。とにかく、ウレイリカを何とかしなくては。そのためには……。

 

 

 ザックは自分に割り振られた部屋、脇にある使用人用の部屋に飛び込んだ。

 だが――。

 

「な、ない! 俺の荷物……金がない!?」

 

 彼は帝都に来るにあたって少なくない額の金銭を小遣いとして渡されていた。

 一度に全部持ち歩いていると、強盗や恐喝などにあった場合、全て奪われてしまう可能性があると考えたため、普段持ち歩くのはその日一日使う分だけで、それ以外はこの宿に置いていった。

 

 だが、その荷物がすべてなくなっている。

 この部屋を襲撃したものが荷物まで持って行ったのであろうか?

 

 ――拙い。

 今、ザックの財布にあるのは銀貨が数枚だけだ。これだけでは何もできない。

 街を脱出することすら出来ない。

 

 

 彼は思考の混乱するまま、しばらく呆然とその場で立ち尽くしていた。

 そんなザックに後ろから声がかけられた。

 

「お客様」

 

 びくりと身を震わせ、慌てて飛び退(すさ)るザック。

 振り返ったその目の先には、先ほど受付にいたホテルの従業員だ。

 彼はザックの様子にも動ずることなく、落ち着いた様子で言葉をつづけた。

 

「お客様、実はこの部屋にお泊りになられていた方々なのですが……」

「し、知らない!」

 

 突然のザックの叫び声に、さすがに従業員の男も目を丸くする。

 だが、ザックはウレイリカをしっかと抱えながら、じりじりと後ずさりして距離をとる。

 その様子に困惑しつつも、再度説明しようとした従業員に背を向け、脱兎のごとくザックは逃げ出した。

 

「知らない! 俺はこの部屋に止まっていた奴らとは関係ない!」

 

 叫ぶと同時に、彼はウレイリカを抱えて部屋を飛び出ていた。

 その背に「お客様! この部屋にお泊りになられていた皆様方は一つ上の階に……」と声がかけられたが、そんなものを聞いている余裕はない。

 

 

 

 ザックは腕っぷしが強いわけでもない。

 魔法が使えるわけでもない。

 金も持っていない。

 当然、どこかへ顔がきくわけでもない。

 そして、華麗な解決策を思いつくような頭脳も持ち合わせてはいない。

 

 もはや彼を支えるものは何もなかった。

 いざとなれば頼れるだろうと考えていた後ろ盾も、すべてなくなってしまった。

 

 今、彼は見知らぬ土地で、足手まといであるウレイリカを抱え、ほとんど金もない状態で、犯罪組織からの襲撃に怯えなくてはならないのだ。

 

 

 彼は転がるようにホテルを飛び出していった。

 そして、絶望があふれ出す心を抱え、夕闇迫る帝都を駆けて行った。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「こちらになります。簡単なものですが」

 

 手渡された資料をパラパラとめくって目を通す。

 そして、アルシェはうなづいた。

 

「うん。ありがとう、ランゴバルト」

 

 言われたランゴバルトは、その整った顔に一瞬喜びの表情を出しかけたものの、それを慌てて取り繕った。

 かつて帝国魔法学院において天才の名をほしいままにしていた――例え今はしがないワーカーの身であるとしても――アルシェから礼を言われた事に、彼は内心飛び上がりたいほど喜んだのであるが、貴族としての立場を考えたのである。

 

 彼は若干わざとらしさが漂うものの咳払いをして浮かびかけた笑みを誤魔化し、更に話をつづけた。

 

「申し訳ありません。なにぶん急ぎの事だったので、集められたのは本当に表面的な噂のみになってしまいました」

「いや、これでも十分。そもそも頼んだのは昨日の午後だったのに、一晩挟んだ、たった半日ほどでここまで調べてくれたのには感謝に堪えない」

 

 

 

 昨日の事であるが、学院の授業が終わり、帰ろうとしたランゴバルトが門を通り抜けたところ、そのすぐ脇にフードをかぶった怪しげな人物がいるのに気がついた。

 最初は、なんでこんなところに、こんな薄汚い格好をした奴がいるんだと不快に思ったのだが、なんとそいつはランゴバルトを見かけると一直線近づいて来た。

 物乞いにしてはおかしな行動に鼻白み、まさか暗殺者かと、いつでも〈魔法の矢(マジック・アロー)〉を打てるように身構えていると、そいつは彼の前でフードを外して見せた。

 

 

 その顔を見たランゴバルトは、目を丸くした。

 

 そこにいたのは、帝国魔法学院の歴史上屈指の天才と呼ばれ、将来を嘱望されていたのに、現皇帝の施策により実家が貴族位を追われたために学院を離れることとなった人物。

 

 アルシェ・イーブ・リイル・フルト、その人であった。

 

 

 当然ながら、ランゴバルトもまた彼女の事は見知っていた。

 彼もまた魔術の才に優れ、今でさえ第1位階魔法を完全に使いこなす程の腕前であったが、目の前の少女はそんな次元を凌駕していた。以前、学院に在籍していたころでさえ第2位階魔法を使いこなし、いずれ第3位階魔法の習得すら遠い未来の話ではないと噂されるほどであったのだ。その魔術の才能は群を抜いていた。

 当然、ランゴバルトもまた学院にいたころは、将来の為の伝手を作ろうと実家の地位を利用し、彼女とも親交を結んでいた。

 そして、実家の家柄は良くとも三男という立場であり、自分の居場所を魔術に求めたランゴバルトにとって、わずかに年上ながら、ほぼ同年代で自分が選んだ魔術の道の先を行くアルシェの事を、いつしか純粋な敬意のこもった視線で見るようになっていた。

 

 

 そんな彼女が久しぶりに姿を見せ、そしてランゴバルトに頼んできたのだ。

 現在、帝都にいる王国の貴族、モーリッツ家について知りたい、と。

 

 なぜ、そんな相手が気になるのかと問いかけると、実家からいなくなった彼女の妹が、どういう理由かは分からないが、その家にいるらしいのだ、と答えた。

 

 

 話を聞いたランゴバルトはその頼みを快諾(かいだく)した。

 彼は即座に伝手を使い、モーリッツとかいう者達についての話を集めた。

 

 その結果、現在帝都に滞在しているモーリッツ家のセバス・デイル・モーリッツという男は、王国の貴族とはいえ落ちぶれた家の三男坊であり、帝国貴族ではなく、裕福な平民たちの方に顔をつないでいる人物であるという事が分かった。なんでも、継げる程の領地もないため商売を始めたところ、そちらは軌道にのり成功をおさめた。今は、そちらは息子に譲り、姪たちと共に各地を旅行して回っているらしい。その姪というのはナーベという目を見張るように美しいが性格にやや難がある娘と、マリーアという可愛らしい金髪の少女の2人だという。

 だが、話を集めていくと、少々奇妙な事があった。確かにセバスの姪という女性はいたのであるが、最初に紹介されていたのはナーベだけであった。それが、ほんのわずかに前からマリーアという少女をあちこちの集まりなどに連れてくるようになったという。

 

 そのマリーアという少女が姿を見せることになった時期を考えると、おそらくアルシェの双子の妹の内、ウレイリカではなくクーデリカの方だろう。

 

 

「もう少し、時間をいただければ、もっと詳しく調べられるのですが」

「いや、それには及ばない。本当にありがとう」

 

 これ以上、調べてもらい、ランゴバルトに危害が加えられることになってはいけない。

 

 昨日モーリッツ家に行った際に出会ったあの女性のことが、アルシェの脳裏をよぎった。

 あの第8位階魔法まで使用でき、そして桁外れの膂力を持つ、美しい謎の女性。

 彼女はいったい何者なのか? 話に出てきたナーベなのか、それとも別の護衛の1人なのかは分からないが、とにかく深入りさせるのは危険極まりなかった。

 

「ランゴバルト。本当にありがとう。感謝する」

 

 アルシェは深々と頭を下げた。

 それに対しランゴバルトは彼女の事を、女性として扱うべきか、それとも尊敬する先輩として扱うべきか迷い、慌ててしまった。彼の頭の中には、貴族位を追われた、ただの平民として扱うなどというものはなかった。

 

 

 

 そうしてロべルバド邸を立ち去るアルシェの背を見送っていたランゴバルトに声をかけた者がいた。

 

「誰かいたのか?」

 

 その声にランゴバルトは慌てて振り返った。

 そこにはしっかりと身だしなみを整え、品のいい服装に身を包んだ初老の男が立っていた。

 

「は、はい。父上。アルシェ様がいらっしゃったので……」

「アルシェ? フルト家のアルシェか?」

 

 彼はフンと鼻を鳴らした。

 

「フルト家はもう貴族位を追われた家だ。平民相手に『様』などつけるな」

 

 吐き捨てるように言う。

 彼の後ろについていた、ランゴバルトによく似た若い男――彼の兄――もまた(さげす)むような表情を浮かべた。

 

 尊敬する人物への侮蔑の言葉であるが、彼はそれに対して何も言葉を返せなかった。

 彼はあくまでロべルバド家の三男でしかない。父、そして兄に口答えできる立場ではないのだ。

 

 そんなランゴバルトにはもう目もむけることすらなく、「フン。フルト家の者など聞くだけで忌々しい」とつぶやきながら、通り過ぎる。

 「それで? 没落した家の娘が何をしに来たのだ? 金でも無心しに来たのか?」と顔も見ずに尋ねた。

 

 問われたランゴバルトは黙っているわけにもいかず、アルシェに頼まれた事をそのまま話した。

 

「いえ、最近帝都に滞在しているモーリッツという王国貴族の家に、アルシェさ――アルシェの妹であるクーデリカらしき少女がいるようで。その家についての情報が欲しいと頼まれたので、少々調べてさしあげ――教えてやりました」

 

 

 

 その刹那――。

 

 

 ――ランゴバルトの父の足がピタリと止まった。

 

 

「……今、なんと言った?」

 

 ひび割れた声で聞き返す父。

 突然の事に驚きの様子を隠せないランゴバルトとその兄であったが、当の父親はそんな彼らの動揺など気にも留める様子もなく、自らの息子に詰め寄った。

 目を白黒させるランゴバルトに対し、息せき切って問い詰める。

 

 

「今、言ったな? アルシェの妹と? つまりフルト家の娘が、フルト家のクーデリカが今、そのモーリッツとやらの家にいるという事か!?」

 

 

 


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