オーバーロード ~破滅の少女~   作:タッパ・タッパ

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2016/11/3 文末に「。」がついていない所がありましたので「。」をつけました


第61話 破滅の少女

「ふざけるなあっ!!」

 

 ナザリック地下大墳墓。その最奥である第10階層にある玉座の間に憤怒の声が響く。

 

 

 本来ならば、至高なる御方を表す旗が並ぶ、神聖にして(おごそ)かなるこの場において声を荒げるなど、()の方々に対する不敬極まりない行為であり、ナザリックに属する者であれば、一般メイドから末端のスケルトンに至るまでその行為を看過することなど出来はしない。

 

 だが、今、怒りに身を任せ、声をあげるのはこの墳墓の主、アインズ・ウール・ゴウンその人である。

 

 この地において、彼の御方こそがすべての法であり、善悪の基準となる。

 その方が激怒しているのならば、それこそが最も正しいものであり、それを一体だれが止められようか。

 

 

「こ、このナザリックに仕える、配下であるナーベラルを寄ってたかって攻撃し! あまつさえ怪我を……顔に怪我を負わせるだとぉ!?」

 

 アインズは激昂するままに言葉を紡ぐ。

 その体からは、もはや抑えることすら出来なくなった、彼の保有する様々な状態異常の特殊技術(スキル)が無分別に発せられていた。

 

 

「これが! たとえ、この世の誰であろうとっ! 許されるはずがぁ、許されるはずがないっ!!」

 

 

 アインズの怒りが、室内を荒れ狂う。

 その場にいた守護者たちは、己が身を打つビリビリとした感覚に息をのんだ。

 彼らは特殊技術(スキル)としてのオーラの影響はうけずとも、自らが絶対の忠誠を誓うアインズの憤怒、その発露を目の当たりにし、総身に震えが走った。

 

 

「この帝国は滅ぼす! もはや、許しては置けぬ!! ……ベルさん、いいですよね?」

 

 皆の目がアインズの腰かける玉座の隣に立つ、至高の御方の御息女として、現在ナザリックにおいてナンバー2の地位にある少女に向けられた。

 

 

 その場にいる全員の視線が集まる前で、問われたベルは陽気な声をあげた。

 

「あははー! いいんじゃない? やろう、やろう。楽しそうだねー!」

 

 そう言ってベルは、ケラケラと笑った。

 

 

 その様子に、その場にいた者達、守護者並びにプレアデスの面々は満足げにうなづいた。 

 至高なる御方の頂点に立つアインズの意思こそ絶対のものであり、それに逆らうことなく同意したベルの答えは彼らをして当然と思えるものであった。

 

 だが――。

 

 

 ――おや?

 

 

 その笑い声を聞いた彼らの中に、内心、首をひねった者達がいた。

 それは守護者やプレアデスらの中で、ベルと接する事が多かった者、デミウルゴスやソリュシャンなどである。

 

 

 ――ベル様がここまで陽気に笑われた事など、今まであっただろうか?

 

 

 普段のベルを知る彼らは今日の彼女の様子に、はっきりと形となるものではないが、何か腑に落ちぬような、奇妙な違和感を覚えていた。

 

 その感覚は、この場にいた者達の中でベルと最も接していた人物、アインズもまた感じていた。

 負傷したナーベラルの件で際限なく噴き出しては強制沈静していた怒りの衝動がわずかに途切れ、若干ではあるが落ち着きを取り戻した。

 

 傍らのベルをまじまじと見つめる。

 

「ん? どうしました?」

 

 頭蓋骨の正面を向けられたベルは、その虚ろな眼窩を見つめ返し、目をぱちくりとさせた。

 

「いえ……ええっとですね。……うむ。では、今後の事……帝国に対して対応だが、アルベドよ。向こうの戦力はどの程度とみる?」

 

 問われたアルベドは淀みなく答える。

 

「はい。アインズ様。此度(こたび)の一件、ナーベラルが交戦した戦力こそそれなりのものであるとはいえ、ソリュシャンらが相対した敵兵は死者の大魔法使い(エルダーリッチ)とオールドガーダー、それと屍収集家(コープスコレクター)だけで難なく壊滅しております。今回の戦闘報告、並びにセバスらが帝都において収集した情報を(かんが)みますと、デスナイト300、ソウル・イーター300もあれば、十分に帝都の殲滅は可能でしょう。ただ、街一つを完全に壊滅しようとすると、そこに住む人間たちが蜘蛛の子を散らしたように逃げる事も予想されます。それらも始末しようとなるとオールドガーダー3000、それと死者の大魔法使い(エルダーリッチ)300程度も追加で必要かと思われます。唯一警戒しなければならないのは帝国の主席魔法使いとかいうフールーダという人間でしょうか」

「ふむ。しかし、そのフールーダというのは第6位階魔法までしか使えんと聞いたが?」

「はい。もちろん我らからすれば歯牙にかける必要すら感じない小物でございますが、放っておけば下級アンデッドたちの包囲を食い破る可能性もあります。ですので、あらかじめ集眼の屍(アイボール・コープス)数体にスケリトル・ドラゴン数体、それとペイルライダーを派遣し始末しておくのが良いかと思われます」

「道理だな。うむ」

 

 アインズは一つうなづくと、居並ぶ臣下の者達に目を向ける。

 

「では、皆よ。これより、我がナザリックは帝国に対し、全面戦争に……」

「あ! ちょっと待ってください」

 

 戦争の開始を宣言しようとしたアインズの言葉を遮ったものがいる。

 それは誰であろう、ベルであった。

 

 

 誰もが、その少女に目を向ける。

 幾多の視線には、程度に差こそあれ、一体どうしたのだろうという疑念が込められていた。中には不快と敵意の感情のこもったものまで混じっている。

 

 なにせ、唯一このナザリックに残った至高なる存在、アインズが下そうとした宣言、言葉を遮ったのだ。

 例え、至高の41人の血を引く娘とはいえ、それはけっしてよろしくない行為である。

 特にアルベドなどは、表情こそ変えぬものの、その目はドラゴンすらも(すく)みあがりそうな瞳で睨みつけていた。

 

 

 しかし、そんな視線を気にすることもなく、ベルはアインズに話しかけた。

 

「少し落ち着いてくださいな。そんな事にナザリックの戦力を大々的に動かすのは反対ですよ」

 

 その言葉は、さすがにアインズも見過ごすことは出来ず、険のこもった視線を向ける。

 

「ベルさん。そんな事とはなんですか。帝国はナーベラルを傷つけたんですよ。これを黙っているわけにはいきません」

 

 アインズの言葉に、一同頷いた。

 この場に並ぶ者達の中には昨夜負傷した、当のナーベラル・ガンマも加わっている。

 すでにその身はペストーニャの手により完全に回復しているものの、治癒したからと言って彼女が受けた屈辱が無くなる訳ではない。

 

 

 だが、ベルは特に意に介すこともなく言葉を返す。

 

「ええ、ええ、もちろん。ボクとしても、このままにしておく気はありませんよ」

 

 そう言ってにこにこと笑いながら、パンと手を叩いた。

 

「でもですね。せっかくならば、ただ帝国を滅ぼすんじゃなくて、ナザリックの利益も考えるべきでしょう?」

 

 「ほう」とアインズの口から言葉が漏れた。

 皆、この少女が何を言いたいのか、続く言葉に耳を傾けた。

 

「帝国に対し、ナザリックの戦力を差し向ける。もちろん、勝利は確実でしょうね。よっぽどの隠し玉でもない限り」

「もしや、帝国には何かあるかもしれないという事ですか?」

「さて、どうでしょうね?」

 

 聞いていた者達は、その答えには鼻白んだ。

 

「まあ、分かりませんが、その可能性はあるという事ですよ。まあ、あちこちに配下の者達を潜伏させて調べた結果、帝国に関しては大丈夫でしょうが。でも、念には念を入れましょう。それに帝国だけでなく、今後の展開についても考慮しましょう」

 

 アインズは玉座の上で座る位置を直した。

 

「なるほど。……つまり、ベルさんはこの件に関して何らかの考えがあるという事ですか?」

「ええ、ありますとも」

 

 ベルは自身気に首肯した。

 

「帝国に対しては、我々ではなく別の者に矢面に立ってもらいましょう。完全に危険がないと分かるまで、こちらはあくまで裏で糸を引くだけです」

「どこかの第三戦力をぶつけるという事ですか?」

「はい。石橋が本当に安全かどうかは、叩いてみるだけではなく、他人に渡らせてみるのが一番です」

 

 その答えにアインズは深く頷いた。

 

 確かにその方が安全だ。

 ナザリック旗下のものを動かすというのは手っ取り早いが、もし強者がいた場合、戦闘によってナザリックの戦力が減少する恐れがある。しかも、下手をしたらこちらの存在、特にこれまで秘匿していた、この拠点たるナザリック地下大墳墓の位置をばらしてしまう事にも繋がりかねない。

 その点、誰か別の者をけしかけて帝国に被害を与えつつ、様子を見るというのは実に理に適っている。

 

 

 アインズは居並ぶ者達に向かって威厳ある態度で語った。

 

「うむ。では、ベルさんの案を採用しよう。今後、この件はベルさんを総指揮者とし、全権を委任する事とする。皆よ、異論はあるか?」

 

 むろん、異論のある者などいるはずもない。

 

 父であるベルモットの代わりとして彼女がここナザリックに来てから、それほど長い時を過ごしたわけではない。

 だが、例え期間は短くとも、ナザリック地下大墳墓がかつてのグレンデラ沼地から見知らぬ土地へと転移するという異常事態の中で、これまでベルは知恵をしぼり、幾多の策を考え、ナザリックに貢献してきたことは誰もが知るところである。

 

 ――この少女が立てた策ならば大丈夫。

 

 皆の心の内には、そんな安心感があった。

 

「はい。では非才の身ながら、この対帝国作戦において総指揮を担当させていただきます。とりあえず、各種準備や情報の確認もあるので、後ほど個別に任務を割り振りたいと思います」

「ああ、では一度解散としよう。ベルさんからの任務はナザリック防衛に次ぐ優先事項とするため、各自、呼び出された場合は、その命に従うように。以上だ」

 

 アインズから下された言葉に、皆、深く頭を下げた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 ナザリックの第九階層。

 その一角に並ぶ、至高の41人と称されるギルメンたちの部屋。

 その内の一つ、ベルモットの部屋が、彼の娘であるベルの使用する部屋とされていた。

 娘というのは建前であり、実際には当の本人であるのだが、とにかくそこが定められた彼女の私室である。

 

 

 今、彼女の室内にはフヒヒとか、クケケとか、およそ少女らしくない笑い声が響いていた。

 

 

 部屋にいるのはベルただ一人。

 普段はソリュシャン、もしくは持ち回りで一般メイドがついているのだが、今日に限っては重要な作戦を立案するためとして、人払いをしていた。

 

 そして部屋の中にたった一人いるベルは、机の上に様々な資料や地図を並べ、それらを見返しながら、自らの頭の中から浮かんできた様々な案を紙の上に書きなぐっていた。

 

 その表情は楽しいパーティーに向かう前のようにはしゃいでいるようでもあり、また、人をだまし罠にかけようとする詐欺師が独り酒を口にしながら浮かべる暗い笑みのようでもあった。

 

 

 そう、ベルははしゃいでいた。

 

 これまで、やりたくても出来なかった大々的な遊びをこれから行うのだ。

 転移して来てから、出来なかったこと。

 この世界に対して、自分たちの持っているその力を存分に振るうのだ。

 

 自分の指示や判断によって、考え一つでこの世界がどう変わるのか? 想像しただけでベルは背筋にゾクゾクとした感覚を覚えるほどであった。

 

 

 これまでであれば、そう派手に動くことは出来なかった。

 先ほど皆の前で語ったように、どこかに隠れ潜む存在への警戒があったのだが、各地に送り込んだ配下たちが集めた情報により、少なくとも自分たちに匹敵する表立った強者はいないという事が判明していた。せいぜい警戒すべきはアーグランド評議国のドラゴン達、それとリグリットという老婆くらいのものだ。

 だが、それでもナザリックの安全を第一に考えているアインズの懸念を完全に払拭(ふっしょく)するほどではなく、今までの方針を大きく変え、行動を起こすには至らなかった。

 

 

 しかし、今回は違う。

 

 帝国の騎士との戦闘によるナーベラルの負傷。

 これに激怒したアインズ自身が、ナザリックの総力を挙げて帝国の殲滅を宣言したのだ。

 そして、その全権をベルに任せたのである。

 つまり、ナザリック全体の総意として、全軍を動かすことが出来るのだ。

 

 タイミングよく転がり込んできた絶好の機会に、ベルはほくそ笑んだ。

 

 

 これまでは、少しずつ手を伸ばし、この世界に侵食していくだけだった。

 ならば、もう一歩、踏み込んでみよう。

 状況を一段階進めて、こちらの身は隠匿したままながら、この世界の国々に仕掛けてみよう。

 巣にこもっているかもしれない強者がいるなら、近くに火事でも起こしてやろう。それで、慌てて出てきたのならば、こちらの策略であったことは秘密にして友好を計ってもいいし、弱そうならば倒してしまってもいい。

 どちらにせよ、これから事態は大きく動く。

 

 

 ベルは今後、起こりうるであろう様々な展開を頭に思い浮かべ、それを紙に書き連ねながら、にやにやと笑いを浮かべていた。

 

 

 

 しかし――はしゃぎつつも、ベルの心の内には一つだけ得心のいかないものがあった。

 

 

 ベルはひとり呟いた。

 

「それにしても、……なにをあんなに怒ってたんだか」

 

 

 確かにナーベラルは帝国騎士団と戦いになり、深手を負った。

 自分の味方であるナザリックの勢力に属する者が攻撃を受け、負傷したというのは、ベルにとっても、それなりには腹が立つものである。

 

 だが、あくまでそれなりでしかない。

 

 怪我をしたと言っても、回復魔法を使えばそんなものはすぐに治る。

 それに例え死んでしまったとしても、生き返らせればいいだけの話だ。

 無論、NPCの復活には金貨が必要になり、それはナザリックの保有する財産の減少という事になるのだが、宝物庫に収められている財宝の額から考えれば、大したことなど無い。

 

 それを考えれば、別に怒る程の事でもないのだ。

 

 

「そんなにマジになってもなぁ……」

 

 ベルはそのほっそりとした顎を撫でて、小首をかしげた。

 

 

「……たかが、ゲームのキャラになぁ」

 

 

 そう、ベルにとってナザリックのNPC達は、所詮はゲームのキャラなのだ。

 まるで生きているかのように話し、考え、行動しているが、あくまでユグドラシルというゲームの中で自分たちが設定したキャラが動いているに過ぎない。

 自分たちにとっては味方キャラであり、その忠実な性格や行動に愛着こそ湧きはすれども、アインズのようにそこまで妄執(もうしゅう)し、守るべき存在であるという考えは持っていなかった。

 

 

 そのベルの感覚はゲームに過ぎなかったユグドラシル時代から変わらないものであった。

 

 

 アインズ・ウール・ゴウンの一員として活動していたときも、彼はナザリックの構築にはそれほど熱をあげていなかった。

 

 他のギルメンたちはナザリック地下大墳墓の設備を作る事に夢中になっていた。

 このPKギルドの拠点たるナザリック攻略を目指し、襲いくる侵入者たち。彼らを撃退するため、ダンジョンのあちこちにトラップやモンスターを配置し、防衛網を構築するという実利部分だけではなく、ロールプレイの一環としてナザリック内の住環境の整備にも力を入れていた。

 第九階層には各種商業、サービス施設が軒を連ねているし、ゲーム内では味覚を感じることなど出来ないのだが、実際に使う事はなくとも雰囲気のある飲食店なども複数作られていた。

 皆、もし本当にこのナザリック地下大墳墓が、各所に配置したNPC達の生活する場所だったのならばと考え、自分たちの生活環境の悪さに対する不満と理想の生活に対する憧れも込めて、そういった施設を整えることに熱中していた時期があった。

 

 しかし、当時のベル=ベルモットはその行為には、いまいち乗り切れていなかった。

 ユグドラシルには夢中になってはいても、あくまでゲームの中でしかないという冷めた考えが頭にあり、そこまで熱心にはなれなかった。

 アインズ・ウール・ゴウンの仲間たちと各地を冒険し、様々な敵と戦い、財宝を集め、防御の布陣を考えるのは楽しかったが、そういったあくまで雰囲気に過ぎない無駄施設の設置には消極的であった。

 

 

 ナザリックのNPCを作る際もそうだった。

 各人が作成するキャラクターに使えるレベルを公平に割り振るため、くじ引きをする事になった。さすがにギルメン全員が100レベルキャラを作れるほどには、NPCの制作可能レベルがなかったためである。

 その際、ベルモットは見事100レベルキャラを1体作る権利を引き当てた。

 皆からは羨ましがられたが、……彼は少々困ってしまった。

 そんな権利を入手しても、特に作りたいようなキャラもいなかったからだ。

 

 その為、「女の子に男装させたキャラがいいかな? いや、男の娘も捨てがたい。あー、どっち作ろう!」と悩んでいたぶくぶく茶釜に、自分の100レベルキャラ作成の権利をあっさりと譲り渡したのである。

 

 

 ベルにとってナザリックというのものは、ただ単に味方拠点であるという認識しかなかった。

  

 ナザリックに強い愛着と憧憬があり、NPCたちをかつてのギルメンの残滓ととらえ、彼らを守らなくてはならないという強い思いにとらわれていたアインズと異なり、ベルはこのナザリックには、それほど思い入れもなかったのである。

 

 

 

 そのような昔と変わらなかったものの他に、大きく変わったものもある。

 

 この世界への転移はベルにとって大きな変化をもたらしていた。

 アンデッドの性質を得たことにより、食事や睡眠が不要となり、疲労なども無縁のものとなった。

 また、人間などに対する共感もなくなったことにより、人の生死を見ても何も感じる事はなかった。

 

 本来、生ある人間として感じていた感覚、感情から突如、切り離されたのだ。

 

 

 

 思い入れも大してない所にいて、ゲームのキャラに囲まれ、特に守るべきものもおらず、さらに様々な肉体的な欲求とも制約とも無縁の状態。

 

 

 

 ベルにとって、この世界はまるで現実感の無いものとしか感じられなかった。 

 

 今のベルの精神を言い表すなら、アルコールによる軽い酩酊のまま、ゲームをしているようなものであった。

 

 

 

 仮に、その姿が元のままである男性のものであるのならば、また事情も変わったかもしれない。もしそうだったのならば、おそらくナザリックの女性陣、もしくはこの世界の女たちに手を出し、それにより情が深まっていただろう。それをきっかけとして、はっきりとした地に足のついた現実認識が生まれ、行動指針とでもいうべきものが生じていたかもしれない。

 

 だが、彼は少女の姿を得て、この世界に来てしまった。

 そのため、そのような機会を得ることは無かった。女の裸を見ても、エロ本を見た程度の喜びしか生じなかった。

 また、幼い少女の肉体になったことにより、精神が少女としての肉体に引っ張られ、子供特有の後先考えない無分別さの影響を受けたことも、そのふわふわとした現実感に拍車をかけていた。

 

 

 そんなベルにとって唯一、気にかけていたのは、自分を取り巻く現実感の乏しい者達と違い、実際にその中身が人間であると認識している存在、アインズだけであった。

 

 そして、そのアインズとベルはかけ離れていた。

 アインズは圧倒的な力を発揮するワールドアイテムを保有しているのに、自分は持っていなかったのだ。

 実に身勝手ながら、この差にベルは腹が立った。向こうには自分の生殺与奪を握られていながら、自分にはなにもなかったのだ。

 現実で社会人経験のある彼本来の思考のままであるならば、そのような差も、まあ仕方ないかと腹の内に収めていたかもしれない。

 しかし、今、彼を支配する幼い子供の精神構造として、他人が持っているおもちゃを自分が持っていないような状況というのは許しがたかった。

 

 

 だが、今は……。

 

 

 ベルはアイテムボックスを開き、その中にしまっていた物に手を触れる。

 その顔がにんまりと笑う。

 

 滑らかな肌触りの布地。

 ワールドアイテム『傾城傾国』。

 

 

 この世界の人間も、そしてナザリックの者達も、誰一人としてワールドアイテムをベルが保有している事は知らないのだ。

 

 

 誰にも知られることなく、自分一人が持つ切り札。

 

 その存在がベルの気を大きくしていたといってもいい。

 

 

 ワールドアイテムの効果は絶大である。他のアイテム類などくらべものにもならない。上手く使えば、どんな状況からでも戦況をひっくり返すことが出来る。

 そしてなにより、その効果もさることながら、ワールドアイテムを所持している者は、原則ワールドアイテムの効果を受けることはないのだ。

 

 この『傾城傾国』の入手こそが、ベルがより一層大胆に、この世界に対して力を振るう事を決めさせるきっかけとなった。

 それを保有したことにより、常にベルの思考に纏わりつき、その行動に制約をかける事になっていた強者への恐れというものから、完全に解放された。

 重しとなっていた(かせ)から解き放たれたのだ。

 

 

「さあ、始めようか。新しいイベントの始まりだ」

 

 

 ベルは子供らしい無邪気な残酷さをその目にたたえ、机上に広げられた世界地図を眺める。

 

 一人しかいないその部屋にこだまする笑い声は、夜遅くまで続いた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 陰鬱たる印象を与える密林。

 絡み合う樹木は太古のまま、その葉陰には剣歯虎が潜み、灌木の下を毒蛇が這い、木々の合間には二足歩行する大蜥蜴が闊歩し、そしてそこら中にはそれらに勝るとも劣らぬ危険な猛獣たちが我が物顔で跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)している。

 

 そんな緑の海が途切れたその先。

 そこでは今、いくつもの篝火がたかれ、漆黒の夜を赤く染めていた。

 

 その炎に照らし出される人影。

 分厚く屈強な体躯を惜しげもなくさらし、申し訳程度の腰布を撒いた者達。

 広場に置かれた(かめ)から杯で酒を汲みだしては次々と飲み干し、仲間同士で敷物もなしに地の上に車座になり、蛮声をあげる。中央の焚き火で焼かれた肉を切り分け、口元が汚れるのも厭わず、そのままかぶりつく。

 

 まるで蛮族であるかのごときその姿と振る舞いであるが、彼らは人間ではなかった。

 その肩の上に収まっているのは人のものではなく、獅子や虎など猛獣の頭部。

 そして、口から生えた鋭くとがった牙で、手にした骨から肉を齧りとる。

 

 

 彼らはビーストマンと呼ばれる種族であった。

 

 

 その文明レベルは人間と比べて劣っている。

 彼らは蛮勇を尊び、怯懦(きょうだ)たることを最も嫌う。

 防具などほとんど身に着けず、こん棒などのおよそ原始的な武器、もしくは倒した人間から奪った武器しか使う事はないが、その生まれつき持った強靭な肉体こそが最大の武器であり、完全武装した人間の戦士すら上回るほどの恐るべき強さを誇っていた。

 

 

 そんな種族としての強靭さよりも彼らが人間から最も恐れられているのは、彼らの食生活ゆえである。

 

 彼らは人間を餌として(むさぼ)り食うのだ。

 

 見れば、彼らが手にしている杯は人間のしゃれこうべであり、そのかぶりついている肉は炙った人肉である。

 彼らは今日の戦果を(さかな)に酒を酌み交わし、自分たちの勇猛さをたたえ合っていた。

 そして明日以降の戦い、宵闇の向こうに影のようにそびえたつ、人間たちの立てこもる砦の攻略に備え、英気を養っていた。

 

 

 

 

 その灯りは距離を置いた砦側、現在の竜王国において最果てとなる人類の要衝からもよく見えていた。

 

「くそっ! 奴ら、夜襲の警戒すらしておらんぞ!」

 

 舐めた態度に、砦の守備隊長は歯ぎしりした。

 まだ若いながらも、その確かな実力から守備隊長を任された彼の顔は今、疲労と苦渋の色がにじんでいる。

 もし戦力が整っているのならば、例え夜目が効かない不利をおしても、酒精に浸っているビーストマン達に襲撃をかける所であるが、もはやこの砦にはそんな戦力は存在しない。

 誰もが傷つき、疲れ切っている。

 回復魔法を使う神官はおらず、負傷を直すポーションすら足りず、包帯代わりの布きれで止血するのが精一杯という有様。

 武器を手にした者達に無傷の者はなく、彼自身もまた、その片目を血で汚れた布で覆っていた。

 

 

 

 おそらく、明日の襲撃により、この砦は陥落する。

 

 

 それは痛いほど分かっていた。

 連中もそれが分かっているから、こうして視界が通るような場所で堂々と野営を行っているのだ。

 

 彼はギリリと歯ぎしりをした。

 

「ええい。王都からの援軍は来ないのか? 法国はどうなっている!? こちらを見殺しにする気か、くそっ!!」

 

 思わず、そんな悪態が口に出てしまう。

 それに答えられる者はいない。

 答えなど言わなくても分かっているからだ。

 

 

 援軍はない。

 自分たちは明日、あのビーストマン達によって食い殺される。

 

 

 もはや(くつがえ)すことのできぬ明確な未来に、誰もが悲痛の表情を浮かべた。風に乗って、誰かのすすり泣きの声が聞こえてくる。だが、それを留めることさえできなかった。

 今この砦には、近隣の村々から逃げてきた避難民も多くいる。出来れば彼らを脱出させたいが、それすらも叶わない。この砦から出た途端、奴らに捕まり、今夜のツマミに追加されることは目に見えていた。

 

 

 

 絶望に沈む隊長の頭に、かつての光景が浮かんでくる。

 

 彼がまだ新米の兵士だった頃、今回と同様、ビーストマンの大規模な襲撃があった。いくつもの村落が連中に襲われ、逃げ遅れたものは捕まり、貪り食われた。

 

 王都からはるか離れた辺境の地、そこに住まう人間たちが生命の危機に晒されていたそんな時、援軍として現れたのは隣国であるスレイン法国の魔法詠唱者(マジック・キャスター)たち。

 奇妙な服に身を包み、顔すらも不可思議な紋章を描いた布で隠していたものの、その力は確かなものであった。

 魔法によって次々と羽の生えた天使たちを召喚し、自身も様々な魔法を放ち、襲い来るビーストマン達を見事撃退したのだ。

 

 中でも印象に残っているのは、彼らの隊長の姿。金髪を短く刈り込み、その身は自信に満ち溢れていた。堂々とした態度は傲岸不遜(ごうがんふそん)と言ってもいいほどのであったが、それも彼の確かな実力に裏打ちされたものであり、まさに英雄と呼ぶのにふさわしい人物であった。

 

「ルーイン様がいてくれたら……」

 

 思わず、そんな言葉が口をつくが、そう都合よく()の人物が助けに来てくれるはずもない。

 

 

 彼は腹を決めた。

 主だった者達を集めて、作戦を伝えた。

 

 それは明日、日が昇ると同時にビーストマン達がこの砦めがけて攻めてくるはずだから、その戦闘の混乱の隙に、砦にいる領民たちを後方へ逃がすというもの。そして、砦の兵士たちは彼らが逃げる時間を稼ぐため、出来るだけ派手に敵を引き付けるというものであった。

 

 それを聞いた兵士たちは言葉もなかった。

 はっきり言って、それすらもほぼ絶望的な作戦であった。

 おそらく十中八九、逃げ出した者達も追いつかれて殺されるだろう。

 だが、砦にいるままよりは、わずかでも助かる目があるというだけの策だった。

 

 皆、悲壮な顔つきで、持ち場に戻っていった。

 数名の若い兵士たちが駆けて行く。広場で休んでいた領民たちに脱出の準備をするよう告げに言ったのだ。

 隊長はそんな彼らの背に、命を捨てること前提の戦いをさせることを心の中で詫びた。

 

 

 彼は砦の胸壁の上へと(おもむ)いた。

 その目に映る、遠くで煌々と照り続ける亜人どもの火。

 彼はその視線でわずかなりともビーストマンどもを殺せたらとでもいうように、その燃え盛る炎を睨みつけた。

 

 

 

 

 そんなビーストマンと人間たち。

 2者の関心はそれぞれ互いの事であり、魔獣たちが蠢く密林に、新たに数名の人影が現れた事に気がつく者などいようはずもなかった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「おお、いるいる」

 

 灯り一つない樹木の上、二股に別れた枝に腰かけ、アウラは目を凝らして言った。

 その隣の樹上には、体重を感じさせぬ身のこなしで、枝をしならせることなくシャルティアが立っている。

 

「あれだけいれば、とりあえずベル様が言ってらっしゃったのに十分でありんすね」

 

 その言葉にアウラが頷く。

 

「じゃあ、これからやる事は分かってるよね? 殺したりするんじゃないよ。この辺ってなんだか血の匂いがするけど、血の狂乱とかやって暴れたら、ぶっ飛ばすからね」

「そんなもの分かってるでありんす。血の匂いを少し嗅いだくらいであれは発動しんせん」

「もう一回言うけどさ。殺すのは無しだからね」

「くどいでありんす! それよりチビすけこそ間違うんじゃないでありんすよ! あくまでおんしの役目は眠らせるだけ。吐きだす吐息を間違うんじゃないかと、しっかり者のわたしは気が気でありんせん」

「誰がしっかり者だってのよ!」

 

 シャルティアはにやりと笑い、そのパットで膨らんだ胸を強調するようにそらす。

 

「ふふふ。わたしはアインズ様並びにベル様から、しょっちゅう仕事を頼まれているでありんす。それは私の事を、至高なるアインズ様が認めてくださってるからに他ならないということでありんすよ!」

「何言ってるのよ。アンタが頼まれる仕事って、ほとんど〈転移門(ゲート)〉使う事だけじゃない。どこでもドア係のくせに!」

「あん? ろくに仕事もしてない奴より、はるかにアインズ様の役に立っているって事でしょうが!?」

「あたしはトブの大森林の方を任されてるっての!!」

「ええ、アインズ様の『遠く』で働いてるんでありんすよね。まあ、認めてあげるわ。組織にはあんたみたいな、下働きも必要でありんすから」

「……あなた、喧嘩売ってるの?」

「おや? 身長に合わせて脳みそも少ないから、気がつかなかったんでありんすか?」

 

 ギンと擬音が聞こえる程に睨み合う二人。

 そんな彼女らに、傍に控えていたハンゾウが恐る恐る声をかけた。

 

「恐れながら……」

「……あん?」

「……何よ?」

 

 ドラゴンすら睨み殺しそうな2人の視線にさらされ、彼はゴクリと息をのんだ。思わず、抱えていた〈遠隔視の鏡(ミラー・オブ・リモートビューイング)〉を取り落としそうになる。

 

「その……今回の任務は極秘裏にという事ですので、あまり声を出されるのは……」

 

 冷や汗を流しながらも、なんとか言葉をつづけた。

 言われて意識を眼下に向けてみれば、今の2人のやり取りをその鋭敏な聴覚が捕らえたのであろう、武器を手にしたビーストマンが数人、警戒の足取りでこちらへと歩いてくる。

 

「……ちょうどいいね。あれからやろっか?」

「了解でありんす」

 

 

 アウラは数度深呼吸すると、大きく息を吸い込み、大樹の根元まで歩いて来た最初の標的めがけて眠りの吐息を吹きかけた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「なんだ、これは……? ……一体、何が起こったというのだ……?」

 

 

 守備隊長である彼は呆然として、呟いた。

 あまりの事に我が目を疑った。

 

 

 夜が明け、決死の戦いを迎えんと身構えていた彼らの眼前にあったもの。

 それは篝火も燃え盛ったまま、誰一人としていなくなり、もぬけの殻となったビーストマンの野営陣地であった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 ――いい朝だ。

 

 布で顔をぬぐいながらベベネは思った。

 湧水帯が近くにあるらしく、そこから引いて来た水路の冷水が気持ちいい。

 

 

 ベベネ・バイセンは騎士である。

 まだ騎士になって数年という若輩の身であり、まだまだこれから経験を積まねばならないが、人当たりの良い彼は何かと周囲の先輩達から気にかけられていた。

 

 

「おはようございます。騎士様」

 

 顔を拭いていると、通りすがりに声をかけられた。

 見ると、たしか宿として小屋を借りる際、村長の家で見た若い娘がいた。

 挨拶を返すと、彼女はそばかすの浮いた頬に、にこにこと笑顔を浮かべた。

 

 

 そのまま何気なく世間話をする。

 彼女は突然村を訪れた騎士ともう少し話したそうだったが、その手にある農具を見て、これから一仕事するところだと見て取った彼は、適度なところで話を切り上げた。

 軽く手を振って、農作業に向かう彼女を見送る。

 

 その背が見えなくなってから、彼は何気なく話した内容から、任務に関係ありそうな事を頭に並べ整理した。まあ、特にこの村は何も異常はないという事が分かったに過ぎなかったが。

 

 

 彼は任務でこの村を訪れていた。

 彼を含む帝国の騎士団は数名ずつのチームを作り、帝都近郊の村々を回っていた。

 これは騎士達および帝国魔法院の者にしか明かされていない事実なのだが、実は先日、帝都内においてアンデッドが出現するという事件があったらしい。幸い、そのアンデッドたちは即座に退治され、その原因を作った者達もすでに捕縛されているという事だが、万が一、帝都の外にアンデッドが漏れ出たという事がないか、こうして騎士団が各地を巡回して調べているのだ。

 

 

 だが、現在のところ、そんなアンデッドの情報は影も形もない。

 兆候一つ見当たらず、何ら異常なことは無かった。

 

 おそらくはこうして警戒することは杞憂に過ぎないのだろうが、帝国の治安を守る騎士として、万が一の事態に備え無駄な努力をする方が万が一の事態が起こることよりはるかにマシだと、先輩たちから口を酸っぱくして言われてきた。

 

 ――何もない事こそ、最も良い事。

 

 彼は心の中でつぶやき、傍らに置いていたヘルムを、面頬をあげた状態で身に着けた。

 

 

 そうして、同様に傍らに置いていた剣を手にとり、腰に帯びようとした、その時――悲鳴が響いた。

 

 

 

 彼は手にしていた剣を抜き放つとその鞘を捨て、声のした方へ目を向ける。

 

 先ほどの村娘がいた。

 手にした農具をかなぐり捨て、スカートをひるがえし、必死でこちらに走って来た。

 走り寄る彼女の向こう、小屋の影に奇妙な人影が見えた。

 

 彼がおや? と思う前にそいつは高く跳躍した。十メートル近い距離を一息に飛び越え、ベベネの許へ駆けてきた彼女の背へと、その錆の浮いた大剣を振り下ろした。

 背中から袈裟懸けに切り下され、驚きと絶望の表情と共に血を吐き、彼女は絶命する。

 

 

 彼はそいつの姿に目を剥いた。

 

 筋骨隆々たる(たくま)しい肉体。申し訳程度に巻いた腰巻。

 そして何より、金の(たてがみ)を靡かせた獅子の頭。

 

 

「ビーストマン!?」

 

 

 ベベネは驚愕した。

 ビーストマンの話は聞いたことがある。

 帝国の治安を預かる騎士として、各種怪物(モンスター)や様々な亜人に対する知識もまた必要なものであった。そのあたりは座学として、必須のものとなっている。

 そこで聞かされた外見そのままの存在が、今、彼の目の前に立ちはだかっているのだ。

 

 しかし、聞くところによると、ビーストマンは帝国よりはるか遠く、竜王国のさらに向こうに住むという。

 それが何故、バハルス帝国の、それも帝都近辺にいるというのか?

 

 彼が疑問に思うより先に、村長の娘の命を奪った獣人は新たな獲物に向かい、その大剣を振り上げた。

 ベベネは手にした剣でその刃を受け止めようとする。

 

 

 ギン!

 

 金属のぶつかり合う甲高い音が響く。

 

 

 だが、ビーストマンの膂力は彼の予想をはるかに超えるものであった。

 剛力と共に勢いよく振り下ろされた大剣は、人間の力で止めることなど出来はしなかった。

 

「うおぉっ!」

 

 気合の声と共にベベネは何とか身をよじり、その剣閃を己が身からそらすことに成功した。剣先が地を抉る。

 安堵の息を吐く刹那――背後に気配を感じた。

 振り向いた彼の目に飛び込んできたのは、いつの間に現れたのか、もう一体のビーストマンが振り下ろした戦斧の欠けた刃であった。

 

 

 兜を叩き割られ、彼は地に膝をつき、ゆっくりとその場に倒れ伏す。

 額を砕かれ、倒れ伏したままやがて意識が薄れて行く彼の目には、家々の影から現れた数十体ものビーストマンの姿が映った。

 

「仕留めたか」

「ああ、人間たちはすべて始末した」

「それにしても一体、ここはどこだ? 人間たちの領域のようだが」

「分からん。このようなところは見たこともない」

「他の者達とははぐれてしまったようだな。連絡も取れん」

「とにかく、今、この場にいる者達で戦列を作る以外になかろう」

「おお。帰還の(すべ)を捜すか? 他の者達を捜して合流するか? それとも、この地において生きるかだな」

 

 そんな彼らの討議の声を耳にしたまま、ベベネは死の淵に沈んでいった。

 

 

 

 死した彼は知る由もなかったが、その日こそが、バハルス帝国の災厄の始まりとなった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 帝都アーウィンタール中央にそびえる帝城。

 およそ帝国建国と同時に建設されたとされ、代々の為政者の手によりわずかずつ改修され、手が加えられていった。

 その威容は帝都に住まう者ならば誰もが誇りに思うものであった。

 

 

 その城内の一室。

 帝都の様子が一望できる素晴らしい眺望の部屋であるが、今、そこに詰める誰もがそんな眺めに気を向ける(いとま)すらなかった。

 

「グ・スクルの周辺にビーストマンの群が確認されました。その数およそ50」

「イクス村が襲撃されたようです。生存者は確認できたところで2名。襲撃してきたのは、総数不明のオークとのこと」

「フォトス近郊で、『銀糸鳥』含む騎士団がビーストマンの撃退に成功しました。こちらの被害は騎士が死亡2名、重傷5名。戦果は二十八体撃破、そして2体を捕虜にしたそうです」

「イタルカ方面に向かった騎士達と連絡が取れません」

 

 室内に怒号のように飛び交う声。

 幾多の情報が次々と届けられる。それらすべてを管理、把握することは、帝国において最高の頭脳の持ち主を集めた文官たちであっても難事であった。

 

 バタバタと足音を響かせながら、あちらに書類を持ってきては、何かを書き加え、それをこちらに運び入れて、というのを繰り返しているように見える。しかもそうしているうちに、さらなる書類が外からもたらされるのだ。もはや、どれだけ書類整理をこなせるかというスポーツのような気もする。

 

 

 そんな愚にもつかぬ考えに囚われたジルクニフの思考が、口に含んだただ苦いだけのコーヒーによって現実へと戻される。

 

「陛下、おかわりはいかがですか?」

 

 そう訊ねるロウネの目の下には、まるで染料でも塗ったかのごとく、くっきりとクマが浮かび上がっていた。

 ジルクニフは恨めし気に睨むと、もう一杯要求した。

 

 正直、このコーヒーを飲むくらいなら、泥水をすすった方がマシなのだが、頭を冴え渡らせるためには仕方がない。

 今、帝国を襲っている異常事態解決の為に、少しでも頭をはっきりとさせておかなくてはならないのだから。

 

 

 彼は傍らの菓子皿から黒糖を使った砂糖菓子を一つ手にとると、口に放り入れ、乱暴に噛み砕いた。

 

 

 

 いったい何が原因なのかは分からない。

 始まりは10日ほど前の事。

 突如、帝国のあちこちに亜人の群が現れ、帝国の領民たちを襲撃しだしたのである。

 ほとんど規則性もなく、帝都中に無作為に現れ、襲撃を繰り返す亜人達に対して、帝国の対応は後手に回った。

 そいつらはせいぜい数十から百名程度の群でしかないのだが、それらの出現した場所は、それこそ帝国中の全ての地域に散らばっていたからだ。

 まだ、組織立って行動しているのならば、こちらも軍隊を繰り出し、決戦に持ち込むなど手の打ちようがある。だが、その各自バラバラの無分別な行動と襲撃には、一つずつ対応していかなくてはならず、かえって対応に苦慮することになっていた。

 

 また、帝国中に現れたその亜人というのも、不可思議な存在だった。

 彼らは竜王国の、そのまた向こうに生息するというビーストマンだったり、ローブル聖王国近辺の荒野に居を構えるオークたちなどであり、帝国では姿を見ることもほとんどない種の亜人達であった。

 

 原因も分からず、効果的な対処法も思い浮かばず、こうして帝国上層部はモグラたたきのような不毛な対処療法をするより他になかった。

 

 

「爺、どう思う? 此度の一件」

 

 フールーダは閉じていた目をゆっくりと開く。

 

「ふむ。……正直何とも言えませんな。確かに亜人の一部は魔法などで召喚することは出来ます。しかし、それにしても規模、数共に多すぎますな。それにオークはまだしも、ビーストマンの召喚なぞ、聞いた事もありませぬ。一体どこからあの者達が現れたのか気になりますな」

「やはり、この前の邪教組織の一件と関係があるのでは?」

 

 追加のコーヒーを運んできた四騎士の1人『重爆』レイナース・ロックブルズが言った。

 

「なんでも、その集会では邪神が召喚されたとか聞きます。フールーダ様の話では、第8位階魔法を使った可能性もあると。そして、この異変が起こったのは、その儀式の数日後から。無関係にしては、あまりにもタイミングが合いすぎていますわ」

「だろうな。報告の中には、ビーストマンの撃退に出撃した騎士たちが、アンデッドの群に待ち伏せにあったというものもある。……もしや、その邪神がどこかから亜人を呼んだのか?」

「推測の域を出ませんが、もう一度邪教組織の者達を尋問してみましょうか?」

 

 ロウネの言葉に、ジルクニフは首を縦に振る。

 

「すぐに手配しろ。しかし、その役目はお前ではなく、別の者にやらせろ。経験も必要だろうし、それに今、こんなに混乱しているときに、お前がこちらの任を離れるのは許さん」

 

 その言葉にロウネが首肯するより早く、一人の文官が室内に飛び込んできた。

 ノックしなかったことを叱責する声など気にも留めず、彼はジルクニフの腰かけるテーブルの前へと転がり込んだ。

 

「へ、陛下。ご、ご報告が……」

 

 息を整える彼に続きを言えとうながす。

 彼は大きく深呼吸数すると、震える声で口に出した。

 

「陛下、……先ほどビーストマンの襲撃を確認いたしました」

「またか。こんどはどこでだ?」

 

 その文官はごくりと生唾を飲んだ。

 

「こ、この帝都内においてです!」

「なんだと!?」

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 昼下がりの帝都に怒号と悲鳴が響く。

 喧嘩でも起きたのかと振り向いた者達は、それがそんな生易しいではない事に気がついた。

 振り返ったその顔に、べったりとどす黒い血がぶちまけられる。

 突然、轟いた獣の咆哮が、市場の者達の耳朶を打った。

 

 

 どこからともなく現れたビーストマンの群が人波でごった返す市場を襲撃したのだ。

 辺り一帯は阿鼻叫喚に包まれた。

 

 彼らはその持ち前の運動能力を生かして、屋上を飛び回り、ここぞと決めた通りへと飛び降りると、その手の武器を縦横無尽に振り払った。

 その腕が振り回されるたびに鮮血が舞い、死体が道端に転がった。

 

 

 

 パニックに陥り、押し合いへし合い逃げる民衆の海の中をパナシスは必死に走っていた。

 

 彼女の仕えていた貴族の家が、何故か突然取りつぶしとなり、とりあえず実家に帰ってきていたのだが、せっかくだから妹の為においしい料理でも作ってやろうと考え、食材を捜しに訪れた市場で、まさか話でしか聞いたことがなかったビーストマンに襲われるなど夢にも思っていなかった。

 

 彼女は買い込んだ野菜でパンパンになった袋を抱え、必死で逃げた。

 

 だが無情にも、そんな彼女の目の前に、巨大な体躯が立ちふさがる。

 その獅子の瞳からは凶暴さに満ちた視線が投げかけられ、手にした大剣は、たった今誰か命を奪ってきたのであろう、鮮血でてらてらと濡れていた。

 

 その姿を前に、彼女の足は地面に縫い付けられた。

 その細い足はガクガクと震えるだけで、なんら意味ある行動を示せなかった。

 

 見上げる獣人が、獣の頭ながら、その顔ににやりと笑みを浮かべたのが分かった。

 ビーストマンは手の大剣を振り上げる。

 

 

 いよいよ最後と思い、思わず目をつぶった彼女の耳に重い音が響いた。

 ゆっくりとその目を開けてみると、彼女の目の前には首のない蛮族の身体。そして、足元に転がる、一抱えは優にありそうな獅子の頭であった。

 

 ゆらりと体勢が崩れ、どうと倒れ込んだ獣人の向こうにいたのは1人の人物。

 漆黒の全身鎧(フルプレート)に身を包み、深紅のマントをはためかせる戦士であった。

 

 

 パナシスは最初、騎士団の人間かと思った。だが、その鎧には帝国の紋章は刻まれていない。その代わり、その首にはプレートが下げられている。

 冒険者である事を示す、彼女がこれまで見たこともない不思議な色に輝くプレートが。

 

 

 彼はパナシスに向かって「自分の後ろに」と言った。しかし、彼女は突然の事態に呆然とするばかりであった。

 彼の連れらしき赤毛の女神官が彼女の手を掴み、凍りついたその体を引き寄せた。

 

 

 

 そこで起こった事、仲間が殺害された事はすぐに他の者達にも知れ渡ったようだ。その仇を取ろうと、ビーストマン達が集まってくる。

 通りの正面に、路地に、建物の屋上に、獣人たちが姿を見せる。

 漆黒の戦士を取り囲むように武器を構え、威嚇の唸り声をあげた。

 対する戦士は、本来ならば両手で扱うような大剣を、右手と左手両方に一つずつ軽々と構えた。

 

 

 じりじりとしたにらみ合い。

 誰もが息をのむような緊迫した空気の中、2体のビーストマンが飛びかかった。

 巨大な戦斧と、彼ら自身の持つ長く伸びた爪が全身鎧(フルプレート)の戦士に襲いかかる。

 

 

 しかし――

 

 ――ズンと音を立てて、獣人の巨躯が沈む。

 

 戦士の大剣が(ひるがえ)り、襲い掛かったビーストマンを2体とも瞬く間に切り裂いた。

 

 

 その様を前に、包囲の輪の中から、ひときわ大きなビーストマンが歩み出る。

 肉体は強固そのもの。上背も胸板も、他の者達とは一回りも違う。

 そして、そいつは他の者が手にしているような粗末なものとは異なる、上質の輝きを放つ剣を手にしており、その堂々たる態度は、あきらかにその群での上位者を思わせるものであった。

 

 そいつは血に濡れた剣を構え、呻る様に眼前の戦士に言葉をかけた。

 

「おい、貴様。名は何という? 俺の刃に倒れる戦士の名を知りたい。お前がラトゥス・ボウの川を渡り、ヴァトクの丘で祖霊に会いまみえたときには、赤き(たてがみ)族の勇者、グラコスとの戦いに敗れ、地に伏したと語るがいいぞ」

 

 

 そんな亜人の言葉に、彼は泰然自若(たいぜんじじゃく)たる態度のまま、口を開いた。

 

「ふむ。それがお前らの礼儀か。俺の名を聞いたな? 俺の名は……」

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「陛下! ご報告が!」

 

 また、一人の男がビーストマンの対策に追われる一室に転がり込んできた。

 

「なんだ? 今、忙しい、後にせよ! とにかく今は、帝都に侵入したビーストマンの対応を急いでせねばならぬのだ」

 

 苛立ちを隠さぬ皇帝の叱責の声。

 普段であれば、その勘気に触れた年若い文官は口をつぐんでしまうところであったが、彼は気力を総動員し、言葉を続けた。

 

「その事でございます」

「なに?」

「先ほど帝国に侵入したビーストマンはすべて殲滅されました」

「!? ……そうか。それは良かった。騎士団が仕留めたのか?」

「いえ、帝都を巡回していた騎士団ではありません」

「では、冒険者たちか? それともワーカーとか?」

「ビーストマン達を殲滅したのは冒険者でございます」

「おお、そうか。しかし、漣八連や銀糸鳥を始めとしたアダマンタイト級から、白金(プラチナ)級に至るまで、各地の亜人退治を頼んでいたはずだが? 任務を終えていち早く戻って来たものがいたのか?」

「いえ違います。それらの者ではございません」

 

 なかなか確信に至らず、本題を言わない男にジルクニフは若干苛ついてきた。

 

「では、一体誰だ? どこからともなくアダマンタイト級冒険者が現れて、帝都に現れたビーストマンたちをまとめて退治してくれたとでもいうのか?」

 

 冗談めかせた言葉であったが、目の前の彼は首を縦に振った。

 

「その通りでございます」

「なに?」

 

 彼はごくりと生唾を飲み込み、言葉をつづける。

 

「帝都に現れたビーストマンを倒したのは、アダマンタイト級冒険者です。エ・ランテルのアダマンタイト級冒険者、『漆黒』のモモンでございます!」

 

 




 ビーストマンの外見って、ウォーザードの王様みたいな感じなんでしょうか

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