オーバーロード ~破滅の少女~   作:タッパ・タッパ

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2016/12/15 「現す」→「表す」、「臭い」→「匂い」、「~見せる」→「~みせる」、「元」→「許」 訂正しました


第67話 ブルムラシュー侯との会談

「金を儲けるという事はなかなかに、周りの者に理解されないものでな。私もこれまで、業突く(・・・)だの金の亡者だのと散々言われたものだよ」

「なるほど。物事を一面でしか見ない愚か者、自らの能力不足からくる嫉妬を清貧という仮面で覆い隠した卑怯者の言いそうなセリフですな」

 

 ブルムラシュー侯の言った言葉に、その対面に位置する男――ギラード商会のヤルダバオトを名乗っていた――は深く頷いた。

 

 男の笑顔を前に、グラスに注がれたワインを口にする。

 酸味と渋みが口腔に広がる。

 

 だがその味は、目の前に出されている料理と同じく、まあまあという程度のものでしかなかった。

 

 

 

 彼、ブルムラシュー侯は今、当日の午後という差し迫った時間になってから、急遽組まれた夕食会へと臨んでいた。

 

 

 王国における六大貴族の1人である彼は、通常はそんな申し出など受けはしない。

 

 相手に対して、どれほどの猶予期間を置かずにアポを取れるかというのは、貴族としての格を表す行為である。

 例えばレストランの予約をするにしても、高位の者ならば、当日すでに予約で一杯の所であろうが割り込むことは出来るし、逆に低位の者ならば、嘲笑と共に門前払いをくらうのが関の山だ。

 誰でも平等、対等になどという概念はない。

 

 

 それこそが常識であるのだが、それに反し、ギラード商会などという貴族でもない一商会の者が貴族の、それも六大貴族の長である自分に対して、突然ねじ込んできたのだ。

 

 

 もちろん、ブルムラシュー侯もエ・ランテルの新興勢力、ギラード商会の事は聞き及んでいた。

 先のズーラーノーンの騒ぎの後で、急速に勢力を伸ばし、エ・ランテルの裏社会を制圧した謎の組織。

 彼としても、一度接触を持ちたいとは考えていたのだ。

 

 急速に勢力を拡大した者は、周囲との摩擦も大きく、また長期間にわたって支配力を維持するノウハウも持ちえない事が多い。そんな者達といち早く接触を取り、手助けしてやることで結びつきを深める。それにより、彼らが関わるもの――情報なり、取引なり――を自分の所に優先的に回させるのだ。互いに利益のある事であり、また上手くすれば新たに発生する権益すべてを握り、独占してしまう事も出来る。

 

 しかし、新興勢力というものは、勃興はしたもののすぐに潰れてしまう事も多々ある。そんな者達に金や資源を注ぎ込みでもしたら、それこそ丸損だ。

 その辺をしっかり判別できるかが重要であり、その見極めこそが肝心にして、上に立つ者に求められるものである。

 

 それに、新たな産業の隙間に潜り込んで利益を得るようになった場合、事がそれだけに収まらない事も十分にありうる。そこから更に勢力を広げていった結果、巡り巡って既存の権力と(いさか)いを起こす事になったというのもよく聞く話だ。そうなった際、あまりそちらに肩入れし過ぎていると、その軋轢の火の粉が自分の所にまで降りかかってくるやもしれない。

 

 それ故、ブルムラシュー侯はギラード商会に対して、現段階においては、あくまで情報を集めるだけに留め、配下の者や門閥貴族には接触することも控えさせていた。

 

 そうして慎重に慎重を重ね、調べを進めていたところへ、今回の会食の話が舞い込んできたのである。

 

 

 

 ちらりと壁際に控える自らの家令を盗み見る。

 老人は何ら変わった様子もなく、皺に覆われた顔はいつもと同じまま、そこに立っていた。

 

 この家令が今回の会食の話を自分の所まで持ってきたときの様子。それは明らかにおかしかった。

 いくら彼、ブルムラシュー侯がギラード商会を警戒していたとはいえ、あくまで王国領内にある他の街を牛耳る闇組織に過ぎない。それも、相手はその商会のトップでもなく、あくまで一従業員でしかないという。

 

 はっきり言って、六大貴族である自分とは格が違う。それこそ天と地ほどもだ。

 もちろん、そんな事はこの老家令も分かっているはずなのに、なぜ彼は一旦断りもせず、また自分に伺いもたてることすらなく、同日夜の会食などという、性急にして無礼と(そし)られてもおかしくないような話をそのまま受けてしまったのか?

 

 ブルムラシュー侯としてもその事は疑問に思い、彼を問いただしたのであるが、当の老家令はというと、なぜ自らの主が今回の会食を受けた事に疑念を抱いているのか、まったく理解できぬ様子であった。なにやら、その話を受ける事こそ、しごく当然の事であるという認識であったようだ。

 

 

 その老家令の奇妙な、異様といってもいい反応に対し、ブルムラシュー侯は警戒を強めるとともに、いたく興味を引かれた。

 

 この自らに忠実なはずの老家令の不可思議な態度。

 その原因は分からない。

 

 だが、彼はそこに、ゾクリとしたものを感じた。

 予感がした。

 彼の直感が匂いをかぎ分けた。

 金儲けの匂いを。

 

 彼はこれまでも、その直感に従い、海のものとも山のものともつかぬ突飛な計画に着手することもあった。誰もが反対する中、彼は自分の判断をこそ信じ、ただひたすらに邁進(まいしん)した。

 時には失敗することもあったが、大きな成功をおさめたものも多くある。そのうちの一つ、鉱山の新規発掘に手をつけ、そして見事、新たな鉱脈を発見したことが現在、王国貴族の中において随一と呼ばれる財力を手に入れることに繋がったのである。

 

 今回もまた、そんな感覚を覚えた。

 そのため、自らの直感の命ずるまま、このいささかというより明らかに急すぎる誘いに乗ってみたのである。

 

 

 そして話を受けたはいいが、その後も奇妙な点はいくつも散見された。

 

 まず、その会食場所が知らされなかった。

 

 夕刻、王都にあるブルムラシュー侯の邸宅に迎えの馬車が来た。豪華ではあるが、特徴的なものは何もない4頭立ての馬車。

 御者は鎧兜で顔を隠したまま、素顔はおろか肌すら見せない。そして、その御者以外の者は誰一人としていなかった。

 

 とりあえず、その馬車に自らの護衛の者たちと共に乗り込むと、何も言わぬまま、馬車は走り出した。

 

 そして、しばらく運ばれるままであったのだが、そこでまた不可思議な事態に気がついた。

 窓一つない馬車に揺られ、王都の道を幾度も曲がっていくうちに、馬車に同乗している者達全員が今、どのあたりを走っているのか、見当もつかなくなったのだ。

 これまでも場所を知らされない秘密の会合というものに幾度か出席した事はある。そのような会合に際しては十分な用心が必要である為、彼は今回同行させる護衛の中に、特に方向感覚に優れ、馬車の走る速度とその曲がるタイミング、どの程度の角度で方向を変えたかによって、自らの通った道と現在の位置を正確に認識することが出来るという人物までも加えていた。だが、その者をして、まるで狐狸にかどわかされ山中に迷い込んだかの如き有様であり、もはやよく見知ったはずの王都で自分たちがどこに運ばれていくのかすら測りえないような状況であった。

 

 やがて、馬車が止まった。

 供の者達は警戒していたが、すでに腹を決めていたブルムラシュー侯は狼狽えることなく、馬車を降りた。

 外は霧が立ち込めており、周囲もろくに見渡せぬ中、彼の目の前にそびえたっていたのは、何一つその素性を明かす手掛かりとなるものが扉や門柱などの表にはない、一軒の邸宅であった。

 

 そうして案内された大広間。

 そこで今こうして、得体も知れぬ男と差し向かって食事をしているのだ。

 

 

 

 銀製のフォークの先で、皿上のソテーされた黄色野菜を口に運ぶ。

 

 バターのまろやかな塩味が舌の上で踊る。

 ……だが、やはり普通の味だ。

 ついでに言うならば、このフォークも、そして皿もまた、客人を迎えるにあたって及第点とは言えるものの、到底六大貴族である彼をうならせるようなものではない。

 

 もう一口、ワインを口に含み、それを舌上で転がしつつ、彼は向かいに座るギラード商会の使い、ヤルダバオトなる男に目を向ける。

 

 

 ブルムラシュー侯の心のうちは、一体、このヤルダバオトという男は何者なのかという思いで一杯であった。

 

 

 どうにも奇妙な感じのする男である。

 上背はそこそこあるようだが、その肉体は鍛えあげられたものとは言い難い。不摂生により、たるんだ身体という訳ではないのだが、逞しく鍛えあげられ胸板に厚みのある戦士を目にすることも多いブルムラシュー侯の目からすれば、その肉体はひょろ長いと評してもいいような体型である。

 その顔ははっきり言って、あまり特徴の無い、数日おけば忘れてしまうような凡庸な顔だ。

 それでいて彼が一体何歳なのか? 20を超えたばかりなのか、それとも初老に差し掛かるほどなのか? まったく判別がつかなかった。姿勢は良く、とうてい老境に差し掛かっているとは思えないが、その口から紡がれる言葉の端々からは、深い知性を感じられる。

 特に気を引かれたのはその声。

 高くもなく、低くもないその声は、聞けば耳に心地よさを覚えるような不思議な声である。

 

 総体として見るならば、この物腰柔らかな男は、まったく素性の計り知れない正体不明の(ぬえ)的人物としか評しようがなかった。

 

 

 ブルムラシュー侯の視線の先で、男はナプキンで口を軽く拭うと、今、彼が内心で心地よさを覚えると評した声を発した。

 

「それにしても、ブルムラシュー侯。私は実に嘆かわしく思っております」

「何がだね?」

「この王国の民衆のあり方がですよ。彼らは利益を得ようとはしない。とにかく現状維持こそ最善と考えている。明日、更によい生活をすることより、今日、家族友人と共に過ごし、空腹を満たすことが出来ればいいと考えている。それでもまだ、都市部の人間は良いのですが、地方の村々に至っては、明日の事など、天気のことしか考えていない有様。生活でも、仕事でも、交友関係でも、常に向上を目指さぬ者がなんと多い事でしょう」

 

 そう言って、ヤルダバオトは大仰に嘆いてみせた。額に指先を当て、実に悲しげな表情で頭を振る。

 

 そのいささか芝居がかった仕草を前にブルムラシュー侯は、引っ掛かってはいけないなと注意を新たにするとともに、その口元に形ばかりの笑みを浮かべた。

 

「民草の考えることというのは、今日の食事の事だけ。今、自分が食べているものは、すぐ隣の人間と比べて、多いか少ないかだけだからな。とにかく今目の前にあるものの多寡でしか、物事を判断できんし、それに先の事も考えてはおらん。その分、配慮してやることが上に立つ者の債務であるな」

「愚者は最後の種芋を食べつくし、賢者は植えるというやつですな」

「その通りだとも。彼らの代わりに長期的な視点を保有する者が、『種芋』を彼らの目の届かぬところで保管してやらねばならない。しかしながら、そうやって彼らに代わり、万が一の際の余剰を確保している事を、富の独占などという喚き叫ぶ輩のなんと近視眼的な事か」

「彼らの為を思ってやっているはずの事なのに理解されることなく、また批判も甘んじて受け入れなければならない。貴族とは大変な仕事ですな」

「まあ、それも上に立つ者たる貴族の債務の一つだよ。法国で言うところのノブレス・オブリージュという奴だな」

「心中お察しいたします」

 

 そう言うとヤルダバオトは、彼もまたワインで口を湿らせる。

 そして、彼は満足そうに口元に笑みを浮かべ頷いた。

 それはワインの味に満足したのではない。この人物は、十分に交渉に値すると判断したが故の笑みであった。

 

 

 

「さて、ブルムラシュー侯。何もしないには長く、何かするには短いのが人生です。飾らぬ言葉で本題に入らせていただきましょうか」

 

 彼はグラスをテーブルに置く。

 ブルムラシュー侯は、ついに来たかと内心で身構えた。

 

「私共、ギラード商会は新たな販路をエ・ランテルの外、すなわちここ王都リ・エスティーゼにまで広げたいと思っております」

「なるほど。エ・ランテルに於けるギラード商会の噂は聞き及んでいるとも。王都で君の所の商売がうまくいくといいな。幸運を祈っているよ」

「ありがとうございます。つきましては、ブルムラシュー侯のお力添えを頂きたいと思っているのですよ」

「さて? 力添えといっても、何をしたらよいのやら?」

「恐れながらブルムラシュー侯はここ王国において、絶大な権力を誇る六大貴族の御一人。版図を広げるにあたりまして、その御方と友誼を結びたいのですよ」

「ほう、友誼ね。……君とかね?」

「いえいえ、私はあくまでギラード商会の使いの者、仲介者に過ぎません。侯には別のものと仲良くなっていただければと」

 

 

 そう言うと、彼は椅子からすっくと立ちあがった。

 カツカツと靴音高く、広い室内の中央に会食の為の長テーブルが置かれていたため数メートルは歩き、白い壁紙の張られた壁際へと歩み寄る。

 そして、彼は視線を投げかけるブルムラシュー侯の方へと振り返ると、その指をぱちんと鳴らした。

 

 

 最初何が起きたのか分からなかった。

 低い音と共に、微かな振動が部屋を包む。

 すると壁に異変が起きた。壁紙の幾何学模様が動いていくのが見て取れた。

 

 

 ヤルダバオトが鳴らした指。その音を合図に、この大広間に面した横壁が下に沈んでいくのだ。

 

 そして、その壁の向こう側が露わとなる。

 

 

 ジャラジャラと音を立てて、色とりどりに光り輝くものが広間へと零れ落ちてきた。

 

 

 

 その奥にあったもの。

 それにブルムラシュー侯は驚愕のあまり、こぼれんばかりに大きく目を見開いた。

 

 心のうちを顔に出さぬことなど、隙あらばいつでも背中から刺される、生き馬の目を抜く貴族社会を生き抜いてきた彼にとって、大地を歩むことより容易い事であった。しかし、そんな彼をして、表情を取り繕う事を忘れさせるほどのものがそこにあった。

 

 

 壁の向こうに作られた隠し部屋。

 そこに広がっていたのは、目もくらむような、まばゆいばかりの輝きを放つ、文字通り財宝の山であった。

 

 

 金や銀は言うに及ばず、ダイヤモンド、サファイヤ、ルビー、エメラルド、玉髄、瑪瑙などの宝石が石ころのように転がり、高く山を作っている。その宝玉の山のすそ野に広がるのは、無造作に投げ捨てられ、床を埋め尽くす金貨、及び白金貨。それらに埋もれるようにして乱立しているのは、一品でも千金の価値を持つであろう宝の数々。象牙で作られた美しい乙女の像。鳳凰の羽飾りを額に飾った黄金の兜。幾個もの宝玉を埋め込まれた美しい飾りの鞘。それに合わされるのは、これまた大振りの宝石をいくつも柄に埋め込まれた剣。宝石を無数にちりばめた馬具。濃緑色の輝きを放つ翡翠の床几。今にも動き出しそうなほどの黒曜石で出来た馬の模型等々……。

 

 

 およそ、財など見慣れたブルムラシュー侯をして、ただあんぐりと口を開けたままにさせるほどの財宝がそこにあった。かなりの広さがある奥の部屋を埋め尽くさんばかりに、人の身長を優に超える天井付近まで、それらがうずたかく積まれていた。

 

 これほどの財貨は、彼の領地リ・ブルムラシュールにある本宅の奥に設置された宝物庫にすらありはしない。

 一貴族の財産どころではなく、王国や帝国など一国の宝物殿、それも通常の予算執行の為に出し入れする為のものだけではなく、その最奥に厳重に保管されている国の至宝に至るまで、一切合切すべてをかき集めたものに匹敵すると言って過言ではない。

 

 

「いかがでしょう、ブルムラシュー侯」

 

 自らの足元を波のごとき金貨と白金貨に埋もれさせたヤルダバオトが言葉を紡ぐ。

 

「突然現れた私を信用しろとは申しません。ええ、信用できなくとも仕方がありません。それはしごく当然の事です。しかし――しかし、我々は金を持っております! ご覧のように! それこそありあまり、腐らせるほどに! ブルムラシュー侯、あなたには我々の持つこの金と、仲良くなっていただきたい!」

 

 

 

 ブルムラシュー侯は眼前に広がる色とりどりの輝きを前にして、図らずとも釘付けとなってしまうその目をなんとか逸らし、震える指で新たに運ばれてきた料理を切り分け口に運ぶ。

 

「むうっ……!!」

 

 それを口にした瞬間、身体がビクンとはねた。

 赤褐色のソースがかけられた肉を口に運んだ瞬間――その口腔から世界が広がった。

 

 ――これは一体なんだ?

 本当に肉なのか?

 これが肉だというのならば、今まで自分が食べていたものは何だったのか?

 およそ自分は、溢れんばかりの富に囲まれ、人間の口にするものにおいて最高級のものを食していたと思っていたのに、このようなものは今まで一度も口にした事もない。

 

 もう一切れ、口に放り込むと、二回目だというのにまったく同様の多幸感に全身が包まれる。

 その全身を駆け巡る感覚に震えが走った。眩暈にも似た感覚が彼を襲った。

 彼は理性を取り戻すのに、意思の力を総動員せねばならなかった。

 

 

 そして、ふとある事に気がついた。

 彼は肉を切り分けると、それを口に入れる前に、鼻へと近づけてみる。

 

 案の定。

 彼の予想通り――匂いがしない。

 給仕され目の前に出された状態では、この料理からは、まったくと言っていいほど香りがしないのだ。

 だが、一たび口に入れ、歯でしっかと噛みしめると、溢れだす肉汁と香りの奔流が、口腔から鼻へと抜けていく。それはえも言われぬほどだ。

 

 

 ――これは……おそらく、敢えて香りを消してある。

 口に入れ噛んだ時に、初めて肉に閉じ込められていた香りが広がるよう、下ごしらえと調理をしてあるのか……。

 

 

 

 その事に気がついた時、ブルムラシュー侯は、自分が相対している存在に寒気すら覚えた。

 

 

 彼としても、この部屋の細工には気がついていたのだ。

 この部屋に通される際、館の中を歩いた感覚から、大まかな屋敷の構造は推測していた。そして、その作りからして、なにかこの大広間の壁面に細工がしてあるようだと目星をつけていたのだ。

 ヤルダバオトという男の態度から、おそらく壁の向こうには、ギラード商会のトップが控えており、そこからこちらを監視している。そして、タイミングを見計らって、自分の目の前に現れ、突然の登場にこちらが驚愕の(きわ)にあるうちに正体を明かすという段取りだろうと考えていたのだ。

 

 

 だが、そんな彼の予想に反し、壁の向こうにいるのは人ではなかった。

 そこにあったのは、部屋いっぱいにひしめき合い、埋め尽くさんばかりの財貨の山。

 彼らの持つ余りある資金を、意表をつく形でこちらに見せつけ、度肝を抜いたのだ。

 

 そして、それに動揺したところを狙っての、この料理。

 

 香りを消してあるため、口にするまでは気づかず、口にすれば、その味に驚嘆せざるを得ない。

 おそらく、この前に出てきたオードブルやワインが普通の味だったのも、全てはこれを狙っての布石、一連の演出の一つであったのだろう。

 現に、腹芸に関しては王国内においても随一であると自負しているブルムラシュー侯をして、その動揺の激しさから、外面を取り繕うどころではなくなったほどなのだから。

 

 

 

 この会談はけっしてただ親交を結ぶための場ではない。

 いかに相手をやり込め、自分が上位に立ち、より自分に都合のいい約定を結ぶかという、武器を使わぬ戦いの場である。

 

 この場において、優位であったのはブルムラシュー侯である。

 彼は最初から六大貴族という、王国において他に比肩しうるものがほとんどいないほどの地位にあり、資金もまた豊富にある。そして、彼は自分から動くのではなく、相手からの提案を聞く立場にあるのだ。

 そして、対するヤルダバオトは貴族ですらなく、ブルムラシュー侯に対して、自分の提案を推し進める側だ。

 

 例えるならば、金属製の鎧兜に全身を包んだブルムラシュー侯相手に、裸身に剣一本持ったヤルダバオトが挑む構図である。

 

 本来であれば、ブルムラシュー侯は相手のいかなる攻撃をも意に介さぬような堅固な守りに身を固めており、攻略することは困難極まりない。ただ泰然自若たる態度でのぞみ、相手の攻撃をあしらっているだけで、相対した者は何も出来ぬまま終わってしまうだろう。

 それに向こうが焦って、無理に仕掛けてこようものなら、その隙を見逃すことなく、逆にその圧倒的なまでの政治力並びに資金力に裏打ちされ、長年舌先三寸の貴族対手に磨き抜かれた口舌を振るえばよい。それですべては事足りる。

 

 だが、そんな難攻不落の彼を前に、ヤルダバオトは意表をついた。自身が持つ莫大な財宝の誇示、そしてその魂すらを震わせるほどの料理によって、万全たるブルムラシュー侯に対して揺さぶりをかけたのだ。

 それにより、ブルムラシュー侯は心を千々に掻き乱された。体勢を崩し、膝をついたのだ。

 

 いまや、圧倒的強者であるはずのブルムラシュー侯の方が、一介の人物であるヤルダバオトの次なる出方を警戒する構図となっていた。 

 

 

 

 ブルムラシュー侯はグラスのワインを一息に飲み干し、気を落ち着かせる。

 

「……聞いていいかね?」

「なんなりと」

「なぜ、私なのかね? 私は王国でも有数の貴族であるとはいえ、あくまで一貴族にすぎない。それほどの金があるのならば、他の誰だとて、その金の前には屈するだろう。それこそ、王族であろうとも。なぜ、この私にその話を持ち掛けてきたのかね?」

「それはブルムラシュー侯、あなたこそ、この王国において最も誠実かつ公正公平な人物であると判断したからでございます」

 

 男の言葉に、思わずブルムラシュー侯は呆気にとられた。

 

「せ、誠実? 公正公平だと? この私がかね?」

 

 彼が金を第一義に考えているという事はあまねく知れ渡っている。それこそ貴族だけではなく、平民に至るまでも。広言こそしなかったが、別に隠すことでもないし、現にそうしてきた。その為に生きてきたのであり、その生き方を何ら恥じることは無い。

 

 だが、そんな彼をして、自分を評するのに誠実にして公正公平などという言葉は、ついぞ言われた事などない。

 

「ええ、そうです。あなたは金さえあれば、いかなる人間であろうと、いかなる人種であろうと、そしていかなる存在であろうと平等に扱う御仁であるとお見受けいたしました。あなたの前では、敵か味方かも、身分の貴賤も、人種も性別も思想も信条も全て関係ない。あなたにとって判断基準となるのは金。ただこの一点のみ。これを公平と言わずしてなんと申しましょう」

 

 そう言いながら、彼は足元の金貨を掻き分け、テーブルの方へと戻ってくる。

 不意に、そのヤルダバオトの姿が煙のように(かす)んだ。

 

 

 ――酔いが回ったか? それとも、まさかワインの中にでも何か仕込まれていたのか?

 

 

 目元を押さえ、もう一度目を凝らしてみる。

 

 そして――ハッと息をのんだ。

 そこにいたのは先ほどまで相手をしていた、凡庸な顔の、正体不明の男ではない。

 

 黒髪に黄色い肌と南方系の顔立ちであるが、その耳は細く尖っている。そして、彼の身体の後ろ、そこには銀色の金属でおおわれた長い尻尾が伸びていた。

 

 

 その姿は話に聞くことこそ多けれども、実際には高位の冒険者くらいしか目にすることなどない存在。

 

 

「あ、悪魔……!?」

 

 明らかに人とは異なるその姿にブルムラシュー侯、ならびに壁際に控えていた老家令や護衛の兵士たちもまた驚愕をあらわにする。

 彼らは突然現れた、人類の天敵ともいえる異形の存在に狼狽し、慌てて武器を構えようとした。

 

 

 だが――。

 

 

「『落ち着き給え』」

 

 悪魔が静かに声を発する。

 

 するといったいどうしたことか。

 その言葉を聞いた途端、色めき立っていた彼らは瞬く間におとなしくなった。

 

「ちょっと、ブルムラシュー侯と落ち着いて話がしたいのでね。『武器をしまい、部屋の外に出て行きたまえ』。おっと、あまり騒ぐと近所迷惑だから『喋らないように』ね」

 

 自らの主でもないものが発した命令。

 しかし、誰もが反論の言葉一つ放つことなく、ただ唯々諾々(いいだくだく)とその言葉のままに、ぞろぞろと連れ立って部屋から出て行った。

 

 

 バタン。

 扉が閉まる音が響く。

 

 その音にブルムラシュー侯の背筋を冷たいものが這いあがった。

 臓腑の奥に氷の塊を突っ込まれたように、際限なく寒気が身体の奥から湧いてくる。

 胸元に澱のような怖気がわだかまり、息をつくことすらままならない。

 

 

 今、彼の目の前にいる者は、恐るべき存在だ。

 それこそ、彼の命など容易く奪えるほどの。

 こいつの前では貴族としての権威も、自分がこれまで積み重ねてきた金の力など何一つ通用しない。そのことはよく分かった。

 いつの間にか、自分は強大な猛獣と同じ檻の中にいたのだ。

 この悪魔の気まぐれ一つで、自分は破滅する。

 貴族として戦場におもむくことはあっても、実際に敵に向かって剣を振るったり、逆に振るわれたりなどという事はまずない。金銭のやり取りにおける多大な損失の危険などは幾度も経験し、乗り越えてきたが、生命の危険というものはほとんど体験したことがない。

 今初めて目の前に現れた、具現化した死の危機に、彼は身じろぎ一つ出来なかった。

 

 

 やがて彼はひび割れた声でつぶやくように問うた。

 

「あ、あの者達は……?」

「ああ、ご心配なく。殺しなどはしませんよ。ただ、この場での記憶を消しておくにとどめておきますので」

 

 ――そ、そんなことまでできるのか!?

 

 事もなげにそう語る常識の理を超えた存在を前に、彼は身を凍らせた。

 頭の中が、恐怖と戦慄に塗りつぶされる。

 

 

 そんな恐れ(おのの)く彼の許に、一人のメイドが歩み寄る。

 非常に整った容姿であるが、眼帯をつけたその顔はまったくの無表情であり、まるで人形のごとき印象を与えていた。

 

 彼女はブルムラシュー侯の目の前に酒杯を置くと、手にした酒瓶から酒を注ぐ。

 

 彼は注がれた酒と、それを注いだメイド、そして悪魔へと視線を動かした。

 恐る恐るといった感じで、美しい宝玉が埋め込まれ、燦爛(さんらん)たる金細工が施された幅広の酒杯を持ち上げ、満たされている紅色の液体、その匂いを確かめてみる。

 

 それを嗅いだ途端、思わず身体が震えた。

 やがて彼は迷うことなく、中の酒を(あお)った。

 口に入れた瞬間、芳醇な香りが脳天まで突き抜ける。まろやかにして、それでいてしっかりとした酸味と苦みのある深い味わいが舌先を駆け巡った。

 飲んだ瞬間、腹の奥から湧き上がった熱が体中を駆け巡り、先ほどまで胸の奥に溜まっていた寒気を瞬く間に追い出してしまった。

 

 

 一息に飲み干し、ほうと息を吐いた。

 卓上へ戻した酒杯に、再度、メイドが同じ酒を注ぐ。

 

 彼の目に再び力が戻ってくる。

 それを見た悪魔はにこりと、その口角を上げた。

 

「あらためて自己紹介いたしましょう、ブルムラシュー侯。私の名前はデミウルゴスと申します。お見知りおきを」

 

 そう言って、慇懃にして優雅に礼をした。

 

 

「……一つ聞いていいかね?」

「なんでしょう?」

 

 ブルムラシュー侯はわずかに逡巡し、尋ねた。

 

「君は……悪魔……なのかね?」

「はい。私は悪魔です」

 

 その答えにもう一口、酒をすすり、胸の内より恐れを追い払ってからさらに尋ねる。

 

「君の……望みは何かね?」

 

 デミウルゴスはにっこりほほ笑んだ。

 

「先ほども申し上げましたように、我らは王都に版図を広げようと思っております。侯には協力者として友好関係を結びたいと考えております」

「友好関係……それは人間同士で言う友好関係と相違ないかな?」

「はい」

「……友好とはこういうものだと、私を破滅させ、苦しめる気かな? 約束をたがえ、裏切り、失意のどん底に突き落とすのが悪魔流の友好だと言って」

 

 その言葉に、デミウルゴスは声をあげて笑った。

 

「いやいや、なかなかにユーモアのセンスがおありのようで。もちろんそんな事はいたしませんとも。剣には剣を。協力には協力を。共に手と手を取り合って、互いに繁栄していければと思っております」

「すまないが、君は悪魔だろう? 今はそう言っていても、事が成ったら、その言葉を反故にする気ではないのかな?」

 

 当然の疑問を口にするブルムラシュー侯。

 対して、デミウルゴスは反駁した。

 

「これは心外ですな、ブルムラシュー侯」

 

 そう言うと、悪魔は首元のネクタイを締め直す。

 

「私は悪魔です。人を騙します。さりながら、悪魔は約束を違えは致しません」

 

 

 言われてなお、ブルムラシュー侯は口の端をゆがめたまま、判断をつきかねていた。

 そんな彼の許に、悪魔は歩み寄る。

 

「ブルムラシュー侯。あなたはこう考えておいでですな。私どもと手を組めば、莫大な金が手に入るかもしれない。しかし、人類の敵である怪物(モンスター)。とくにその中でも最悪の存在として知られる『悪魔』と手を組んでいいのかと。人としての尊厳、その一線を越えてもいいのかと。守銭奴と呼ばれることを恥じることなく、金の亡者という言葉を体現する自分といえど、人として守るべきもの、人間の良心を捨ててしまっていいのかと」

 

 今、自分の頭の中をグルグルと駆け巡る懊悩を言い当てられ、体を揺らすブルムラシュー侯。

 

「ですが、ブルムラシュー侯。逆にお尋ねしますが、その人間の良心とやらは、本当に守るべきものなのでしょうか?」

 

 その言葉に、驚愕の瞳でデミウルゴスの顔を見返した。

 

「ええ、そうですな。人間として、たとい常人の(ことわり)と異なる逸脱の道を歩む者といえど、悪魔と手を組むというのは最後の最後、どうしようもなくなった時にのみ縋りつく最終手段でしょう。ええ、あなたの考えは人として正しいですよ。種としての人間の繁栄を考えるのであれば、私の提案などすげなくはねつけるのが当然です」

 

 自分で言いながら、うんうんと幾度も頷く。

 

「しかしながら」

 

 悪魔はすぐに否定した。

 

「しかしながら、そうする事で、あなたはどれだけの利益を得ることが出来るでしょうか?」

 

 そう逆に問いただした。

 

「ギラード商会は悪魔と手を組んでいる組織だと触れ回り、異形種の息のかかった組織の根絶に動く。いやまったく人として当然の事ですな。あなたがそれを率先してやった場合、あなたの評判は良くなるでしょう。金の為ならば悪魔に魂までも売るといわれていたブルムラシュー侯、しかし、本当の悪魔に対しては屈しなかった。人としての尊厳を堅持した。貴族の矜持を守った。()の人物がいなければ、リ・エスティーゼ王国は邪悪なる悪魔の意のままになっていたかもしれない。さすがは王国における六大貴族の一員。なんと素晴らしい!」

 

 そう言って、パチパチと拍手してみせる。

 眼帯をしたメイドもまた、無表情のまま手を叩く。

 

「しかしながら」

 

 悪魔は再度言った。

 

「しかしながら、それだけですな。あなたは褒め称えられるでしょう。嗟嘆(さたん)の声がついて回るでしょう。あなたの株も上がるというものです。しかしながら! あなたが得るものは、それだけに過ぎません。あなたは人間です。人間が悪魔の策略から人間の国を守る。それはしごく当たり前の事に過ぎません。人として当然の事をやったに過ぎません。いち早く感づき対策を講じたというだけで、それなりの称賛はうけるでしょう。ですが、あなたがそれで得られるのは、ただの賛辞のみ。実際の所、銅貨一枚すら利益はありません」

 

 デミウルゴスはブルムラシュー侯の傍らに立つ。

 椅子に座る彼の肩に、そっと手を廻した。

 そして耳元で囁きかける。

 

「人間としての良心。それを守ったとしても、あなたの懐は潤いません。むしろ、他の貴族たちは、そんな事をするのは貴族として、人として当然の事であり、賛美するほどでもないと噂し、(くさ)すでしょうな。自らの主義すらまげて、金より人としての良心をとった、あなたの事を。しかしながら――!」

 

 2人の許に奇妙な服を身に纏った小柄なメイドがやってくる。

 手には大きな器を抱え。

 

「しかしながら、あなたのその人としての良心! 今ならば、この私が高く買わせていただきます!」

 

 そう言うと、悪魔はメイドが持ってきた器に手を突っ込むと、掴み上げた幾個もの大振りの宝石を、ブルムラシュー侯の手にしている酒杯の中に投げ入れた。

 

 その宝石は、どれもが傷一つなく、美しくカットされた芸術品といってもいい逸品。大貴族であるブルムラシュー侯をして、今まで見た事もないほど巨大な宝石たちは、酒杯を満たしている紅い酒の中で、怪しげな輝きを発している。

 

 

 そして、デミウルゴスはまた器から宝石を掴み上げると二度、三度とさらに酒杯の中に投げ入れる。

 

 もはや顔すら浸せるほどの大きな酒杯はまばゆいばかりの宝石で一杯になり、溢れ出た酒がブルムラシュー侯の手を濡らし、ダラダラと零れ落ち、卓上の白いテーブルクロスを紅く染めていく。

 

 

 ブルムラシュー侯は手にした杯から酒が零れ落ちていく様を、何も言わず、ただじっと見つめていた。

 ごくりと喉が音を立てる。

 その手の酒杯が微かに震える。

 

 

 そして――彼は、その酒杯に口をつけた。

 

 


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