オーバーロード ~破滅の少女~   作:タッパ・タッパ

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2017/2/1 「例え」→「たとえ」、「抑え」→「押さえ」、「追って」→「負って」、「力づく」→「力尽く」、「治める」→「収める」、「別れ」→「分かれ」、「長けて入る」→「長けてはいる」、「捕らえ」→「捉え」 訂正しました
2017/3/29 「高質化」→「硬質化」 訂正しました


第74話 戦闘―2

 たぱん、たぱん、たぱん、たぱん。

 

 室内に肉と肉が打ちつけられる音が響く。

 それを聞いている者達は眼前で繰り広げられる光景を前に、ただ無言のまま、立ち尽くすより他になかった。

 

 

 ただの命令のままに行われる動作。

 かつて人だったものが行う性交の真似事。

 何の意思もない者による、何の意味もない行為。

 

 彼女らの目の前で繰り広げられているのはまさにそれだった。

 

 

 その意味するところはただ一つ。

 

 艱難辛苦(かんなんしんく)の末、彼女、リ・エスティーゼ王国第三王女であるラナーを助けに来た者に対する底知れぬほどの醜悪なる悪意。

 人としての尊厳、たとえ本人は生命を失ったとしても、残されたものに記憶として継がれるであろうそんなたった一つの心の支えにすらも、唾を吐きかけ愚弄(ぐろう)する、まさに悪逆非道としか言いようのない行い。

 

 

 

「……ぐ、ぐぶっ……!?」

 

 不意にラキュースの喉が音を立てた。

 口元を押さえ、しゃがみ込む。

 口腔の奥から勢いよく込み上げてきたもの。それが勢いよくその桃色の唇から噴き出した。

 

 およそ乙女らしからぬ声をあげ、ラキュースはこらえることすら出来ずに嘔吐した。

 脇にいたティナとザリュースは、繰り返される彼女のうめき声、そしてびしゃびしゃと床上へ液体がぶちまけられる吐瀉音をただ聞いているしかなかった。

 

 

 

 しばらく王族の寝室に敷かれた、足が沈むほど毛足の長い高価な絨毯を、胃の腑より戻したもので汚していたラキュースは、一度床に拳を叩きつけると、すっくと立ち上がった。

 心配げにその顔を覗き込むティナ。

 その目に映ったのは心優しく、高潔で、どんなことにもくじけぬ不屈の魂をもっていた仲間の、これまで共に旅してきたものの今まで一度も見た事もないような表情。

 

 今、ラキュースの目には憎悪と復讐の炎が燃え盛っていた。

 

 

 

「……ティナ、燃やしてやりましょう」

 

 その言葉に、ティナは何も言わずに頷いた。

 

 

 ただ機械的に腰を動かす2人に近づき、バックパックから取り出した細長い、先が尖った形状の容器をひっくり返して、その口から零れるややどろりとした液体を彼女たちにふりかける。

 「それは一体、何だ?」と尋ねられるより先に、ティナはザリュースに離れているよう促す。

 

「これは何の変哲もない、盗賊御用達の錬金術油」

 

 そう言って、不審げな彼に対し、事細かに説明してやる。

 

 

 この錬金術油は普通のものより粘度が高く、また火をつけた際に高温を発するが、火の手が高く上がることはない。すなわち、油をかけた部分は激しく燃えるものの、それ以外の部分においては――もちろん、すぐ近くに可燃物があれば火は移りはするが――炎の広がりを最小限に抑えられるのだ。

 

 本来ならば、神官であるラキュースが、浄化の魔法を使ってやればいいのだが、親友であったラナー、その変わり果てた姿、それも不浄とも言い切れるほどの扱いを強制的に受けさせられていた現状を目の前につきつけられ、もはや彼女は精神的に魔法を紡げるほどの心理状況になかった。

 その為、まず先に火葬し、その後、灰となった彼女に再びアンデッドにならぬよう祝福をかけようと考えたのだ。

 

 

 ベッドに近づいたティナが、彼女らに触れぬよう注意を払いつつ、容器の中身を念入りにかつ慎重に撒き散らす。

 特に、いまだにまぐわい続けている彼女らには頭の上からたっぷりと。

 

 そして、バックパックに手を突っ込む。

 しばし、中をかき回した(のち)、一本の、彼女の二の腕ほどもある長さの、細い棒っ切れを手にとった。油に火をつけるための〈発火〉の魔法がかかったアイテムである。キーワードを唱えさえすれば、使用者のMPを消費することにより、棒の先に小さな火がともるというアイテムであった。

 買おうとすると結構な金額になるのだが、いちいち火打石を使う必要も、使い捨てになる燐寸(マッチ)を使う事もなく何度でも使える火種として、ある程度以上高ランクの冒険者たちにとっては使い勝手のいい必需品、低ランクの冒険者にとってはいつか持てるようになりたいというステータスとして知られるマジックアイテムである。

 

 

 それを手にし、いまだ油まみれになりつつも何ら変わった様子もなく、ベッドの上で動き続ける彼らに近寄る。

 

 

 これから起こることを前にして、ラキュースは胸元で手を組み、目をつむって神に祈りをささげた。

 ラナー、そして誰かは知らないが黒焦げの遺体である人物の魂が、安らかに眠れるように。

 

 ザリュースもまた視線を落とし、異様な形ではあるが、死者の埋葬に敬意を払う。

 

 

 

 そうして、アイテムを手にしたティナが魔法発動のキーワードを口にしようとした瞬間――。

 

 

 ――ヒュッ。

 

 

 何かが空を切って、上から飛来した。

 

 通常ならば、そんなものを避けることなど不可能であったろうが、さすがはアダマンタイト級冒険者。一瞬の風切り音に反応して、とっさに身を翻し、不意に襲ってきた凶刃を避けることに成功した。

 

 だが、彼女らの運があったのもそこまで。

 寝室の薄暗がりの中、ベッドの天蓋の上から飛来した幾本もの三日月刀(シミター)。それはただ一直線に射出されたにとどまらず、初撃を(かわ)されたと見るや瞬時に軌道を変え、まるで透明な者が柄を握り操っているかの如く、再度彼女らに襲い掛かった。

 さすがに最初の襲撃はからくも避けたものの、それにより体勢を崩した状態へ、さらに襲ってきたその追撃を防ぎきることは出来ず、その身に浅いながらも手傷を負ってしまう。

 

 しかし、苦痛に呻きをあげつつも各々武器を構え、それそのものが知性でもあるかの如く、宙を舞う三日月刀(シミター)を弾き落とす。

 

 

 それが再度浮かび上がり、襲い来る前に、ティナは忍者としての特殊技術(スキル)を使い、室内に隠れ潜む者の気配を探知する。

 

 彼女の合わせた両の手の平より、無数の手裏剣が次々と打ち出された。

 

 毛足の長い絨毯から舞い上がった三日月刀(シミター)の群れは、さっと一カ所めがけて集まり、そこへ飛来した手裏剣をすべて弾き飛ばす。

 

 

 ティナが狙ったのは部屋の奥。

 いびつなまぐわいが繰り広げられるベッドの横、白亜の壁に金の装飾が施された暖炉、そのすぐ脇。

 

 

 ばさりと布を払う音と共に、誰もいないはずのその場に2人の人物が現れる。

 

 1人は肌もあらわな薄絹を身に纏った、まるで踊り子のような妖艶な女。

 そして、もう1人は逞しい筋肉に様々な入れ墨を施した禿頭の男。

 

 『踊る三日月刀(シミター)』エドストレームと『闘鬼』ゼロであった。

 

 

 

「あーらら。おとなしく、そこで死んでおけばよかったのに」

 

 軽口をたたく女。

 それと異なり、男の方は無言のまま。

 

 姿を現した敵に対し、飛びのいて距離をとるラキュースら。

 しかし、バックステップしたその足元が、まるで床が歪んだかの如くよろめいた。

 

 

 驚愕に目を見開く彼女ら。

 

 ――毒。

 

 とっさにラキュースは解毒の魔法を唱える。

 すると、目の前に漂っていた霧が不意にさっと晴れたかのような感覚に包まれる。

 

 

「ちっ。解毒魔法か……。せっかく私の流儀じゃないけど、それを曲げて、マルムヴィストから毒を貰ったっていうのに」

 

 彼女たちの体を襲っていた変調が治まった様子を見て取り、女は毒づいた。

 

「まあ、いいわ。何度でも、魔法が使えなくなるまで、斬りつけてあげる」

 

 その言葉と共に、三日月刀(シミター)が再度ふわりと空中に浮かぶ。その自らが操る得物の刀身に、エドストレームは取り出した小瓶から毒々しい色の液体を振りかけた。

 そして、ゼロはその筋骨隆々たる肉体を震わせ、無言のまま前へ出る。

 

 ラキュースたちは慌てて陣形を組む。

 

 

 エドストレームは怪しく微笑んだ。

 

「ここがあなたたちの終着駅よ。さあ、踊りなさい」

 

 言葉と共に、怪しげな色で煌めく刃が彼女たちに襲い掛かった。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

「ぎ、ぎいっ! お、おい! 知ってることは話した。これで全部だ!」

 

 男が叫ぶ。

 

 もはやなりふり構わぬ哀願の声。

 だが、その哀れな男の声に対しクレマンティーヌが行ったのは、鋭い切っ先が骨まで届いているスティレット、その柄にさらに力を込めることだった。

 

 肺腑から絞り出される様な悲鳴が響いた。

 縛られ床に転がされていた男は、彼女が力を緩めると、水面から上がったかのように幾度も荒い息を吐いた。

 

「……ぅ、かっはぁ……ほ、本当だ。嘘は言っていない。信じてくれ」

 

 再び、クレマンティーヌが体重をかける。同時に剣先でぐりぐりと直接、骨を抉ってやる。

 男の口から、怪物の唸り声のようなものが漏れ出る。

 その声を耳に、クレマンティーヌはただニマニマと笑っていた。

 

 しかし――。

 

「ありゃ?」

 

 不意にそのスティレットの先が勢いよく男の身体に沈み込んだ。

 どうやら体重をかけたせいで先端が当たっていた胸骨がへし折れ、支えるものがなくなったその刃先が男の身体を背まで貫いてしまったらしい。

 しかも運悪く、動脈を傷つけてしまったようだ。

 彼女が男の身体に突きたてていた得物を引き抜くと、傷跡からとめどなく鮮血が溢れ出る。

 

 わざわざポーションを使ったり、回復魔法で治癒してやるほどのものでもないため、そのままそいつは死ぬに任せて、彼女はよっと声をあげて立ち上がった。

 

 

 そんな彼女に奇妙な紋章の描かれた白い布地でその顔を覆った男が歩み寄る。

 

「クレマンティーヌ様。やはり、この宮殿は魔術的に封鎖されているようです。ここから直接、王の間へは行けないようですな」

 

 男の報告に、心底面倒そうな表情を浮かべ、辺りを見回すクレマンティーヌ。

 

 

 

 本来、外から来たものが謁見に使われる玉座の間へ赴く際に通ることになる、王国の威容を見せつけるための回廊。その天井ははるか高く、金糸で縁取られた深紅の絨毯が床一面に敷かれ、左右には荘厳さを感じさせる彫刻の施された石柱が幾本も立ちならんでいる。

 およそ、この回廊を進む者は全て、国家としての偉大さを体で感じ取れるほど荘厳にして圧倒的な空間。

 まあ、残念ながら近年のこの国は、そんな装飾もただ国家としての(てい)を為すためだけの張り子の虎でしかなかったのは、事情通にはよく知られたものだったのだが。

 

 とにかく、そんな国家としての格を示すはずの広大な回廊。

 しかし、今その場は鮮血で汚れ、傷つき息絶えた者達がごろごろと、そこかしこに転がっていた。

 

 倒れ伏す者達のほとんどは、本来このような峻厳たる王城内に存在することがふさわしくような、見るからに無頼漢といった有様の者たちである。

 

 そして、その間を行き交うのは、たった今、クレマンティーヌに話しかけてきた者と同様の姿形をした者達。

 法国における六色聖典の一、殲滅を得手とする特殊部隊、陽光聖典である。

 彼らは戦闘により負傷した仲間を治療し、手分けして周辺を調べ上げ、そしてごろつきたちの内、まだ息のあるものを縛り上げ、情け容赦ない尋問を行っていた。

 

 

 彼らの手際は極めて合理的かつ効率的なものである。

 クレマンティーヌのように楽しみの為に行うのではなく、ただ素早く正確な情報を吐かせるため、簡素にして効果的な拷問をあちらこちらで繰り広げていた。

 

 

 

 クレマンティーヌは付近に充満する血の匂いに、鼻を鳴らした。

 

 彼女たちは、今回の王国での一件を力尽くでも収めるために投入された法国の戦力である。最後に残った3人の漆黒聖典の1人、クレマンティーヌをリーダーとする陽光聖典との混成部隊。

 

 今回彼らは、王都内で冒険者たちが起こした陽動である蜂起、そして新政権側がそれへの対応に右往左往している隙に、王族が使う秘密の抜け道を使い、王城内へと侵入したのだ。

 そこで、第三王女ラナーを救出する『蒼の薔薇』らと別れた後、漆黒聖典の隊長率いる部隊と、クレマンティーヌ率いる部隊とで二手に分かれ、今回の騒動の発端、王を僭称するコッコドール並びに彼を支持し、味方する犯罪組織八本指の者達の殲滅を目的として、ヴァランシア宮殿内へと突入したのである。

 そうしてクレマンティーヌ率いる部隊は一直線に玉座の間を目指したのだが、その途中にある回廊において、待ち構えていた八本指の者達と交戦になった。

 

 しかし、待ち伏せにあった彼女らであったが、結果としては語るほどのものでもない。

 なにせ相手は、ある程度は戦いに長けてはいるとはいえ、所詮は一般人の枠を超える者たちではない。対してこちらは英雄クラスの強さを誇る漆黒聖典、その周囲を固めるのは法国に使える者の中から厳選されたエリートたちである陽光聖典の者たちなのだ。

 陽光聖典の者の中には多少手傷を負った者もいたが、所詮はその程度。まさに鎧袖一触という有様で瞬く間に蹴散らされる結果となった。

 

 だが、一つ問題も発覚した。

 戦闘自体は難なく勝利したのであるが、その先に進もうとしたところ、この回廊の奥に進む為の扉が何やら魔法的な封印をされているために開かないのである。

 陽光聖典の者が魔法を使って開錠を試みたのであるが、余人をはるかに上回る実力の彼らを持ってしても、ビクともしなかったのである。

 

 その為、彼らはここでいったん小休憩を取り、負傷者の治療および生存した八本指から事情聴取を行っていたのである。

 

 

 

「どうやら連中の話によると、これはマジックアイテムによるもののようです」

 

 その聞かされた答えにクレマンティーヌは鼻白んだ。

 

「マジックアイテム? アンタらでもまともに解除できないほどの魔法を発動できるマジックアイテムを使ったっていうの?」

 

 陽光聖典の男は頷く。

 

「はっ。なんでも、侵入者の突入経路を塞ぐとかで宮殿内のあちこちで使用されたようです。僭王コッコドールらは玉座の間に集まっているとか。そして現在、上部の回廊を使わなければ、奴らがいる玉座の間がある中央の建物へは侵入できないそうです」

 

 その答えにクレマンティーヌは顔をしかめる。

 

 ――気に入らない。

 誘導されている気がする。

 ……上部の回廊……。

 おそらく、そこで待ち伏せされているのだろう。

 しかし、実際、そこ以外行くことが出来ないというのであれば仕方がない。

 たとえ罠だろうと食い破るしかない。

 ……本当はやりたくないのだが、バックレて法国に命を狙われるよりはマシだろう。

 

 クレマンティーヌは全員に動くことを告げた。

 目指すは中央の建物へ行くための上部回廊。

 

 

 彼女の言葉を受けて、陽光聖典の者達はすぐにこの場からの撤収の準備を始めた。

 それはすなわち、いまだ命のある八本指の者達の始末を意味する。

 

 面倒くさげに頭を掻くクレマンティーヌ。

 その後ろから恐怖と哀願、そして断末魔の声が響いた。

 

 

 

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 

 轟と空気を切り裂き、振りぬかれる拳。

 その拳が宙に浮いたティナの身体をとらえた。

 

 くぐもった悲鳴と共に弾き飛ばされる小柄な身体。

 

 だが、彼女は床の上をゴロゴロと転がり勢いを殺すと、そのまま立ち上がった。

 

 

 ゼロの拳をその身に受けてなお、立ち上がれるその理由。

 それは、ゼロがティナめがけて拳を振るったその瞬間、ザリュースが脇から切りかかったのだ。蜥蜴人(リザードマン)の振るった凍牙の苦痛(フロスト・ペイン)の一撃。それを防がねばならず、ティナの腰骨を打ち砕くはずであった必殺の一撃は、最後まで振り切ることが出来なかったのだ。

 

 

 だが、立ち上がりはしたものの、ティナのダメージは深い。

 足元がおぼつかない。

 

 そこへエドストレームの三日月刀(シミター)が襲い掛かる。

 

 とっさにラキュースは、自らの〈浮遊する剣群(フローティング・ソーズ)〉を飛ばし、ティナを狙った毒の刃を弾き飛ばす。

 

 しかし、それは囮であった。

 彼女たちの横を大きく迂回するようにして回り込んだ、もう一刃があったのだ。

 

 ラキュースはとっさに身をひねるが、その刃は彼女の柔肌を浅くではあるが切り裂いた。

 

 通常ならば、そんな浅手の傷など気にするほどでもないのだが、今、エドストレームが操る三日月刀(シミター)には同じ六腕であるマルムヴィスト謹製の猛毒がべったりと塗られている。

 ラキュースの若くしなやかな身体に、思わずのけぞってしまうほどの激痛が走る。

 

 彼女は慌てて、解毒の魔法を唱えた。

 一瞬のうちに、身体を駆け巡る激痛が消える。

 

 

 ゼロの振り回した裏拳を飛びのいて(かわ)すザリュース。

 その横にティナが並ぶ。

 

 それを見てゼロもまた追撃を止め、体勢を整えた。

 後ろに控えるエドストレームもまた自らの空飛ぶ三日月刀(シミター)を戻す。

 

 そうして、両者は再び対峙した。

 物言わぬ死者のまぐわいの音のみが、戦いとは無関係に音を立て続ける。

 

 

 

 ラナーの寝室での戦いは続いていた。

 本来ならば3対2の戦いであり、明らかにラキュースらが有利なのであるが、逆に彼女たちの方がじわじわと追いつめられる現状であった。

 

 

 理由は2つある。

 

 まず1つはゼロの存在。

 八本指の中でも荒事を得意とする警備部門、その者らを力と恐怖で束ねる六腕と呼ばれた者達、その中でも最強と言われる彼の強さはまさに圧倒的であった。

 もし、この場に専業戦士たるガガーランがいれば状況は違ったのかもしれない。だが、あくまでラキュースは神官戦士であり、ティナは忍者である。近接戦闘に特化した相手との白兵戦においては不利が生じる。ザリュースでは彼らと比較すると、どうしてもワンランク劣ってしまう。

 

 そして、もう1つはエドストレームの操る三日月刀(シミター)、それに塗られた毒である。

 まさに『踊る三日月刀(シミター)』の異名の通り、彼女の操作する宙を飛ぶ刃は変幻自在の動きを見せ、ラキュースらへ縦横無尽に襲い掛かった。しかも、その刃には毒が塗られているため、深手を負わせる必要すらないのである。ほんの皮一枚切り裂くだけで、猛毒がその身を侵す。

 その度にラキュースは回復魔法を唱えねばならず、彼女はろくに攻撃に参加できないでいた。

 

 

 ラキュースはキリネイラムを握った拳で頬をぬぐう。

 汗と共に、斬りつけられた傷跡から流れる血が、彼女の籠手を汚す。

 

 魔法を唱え、受けた毒を消しても彼女の身体には先のものも含めて、無数に傷跡が残っている。

 それはティナとザリュースも一緒だ。

 そこから流れる出血は、じわじわと彼女たちの体力を奪っていた。

 

 本当ならば、その傷も回復させたいのだが、そちらにMPを使うことにより、肝心の解毒魔法が使えなくなってしまっては一巻の終わりだ。

 

 

 ――どうする?

 一か八かで暗黒刃超弩級衝撃波(ダークブレードメガインパクト)を使うか?

 いや、それで倒せればいいが、もしその一撃に耐えられでもしたら、こちらにはもう為す術がない。

 それは危険すぎる賭けだ。

 かと言って、現状を打破できるいい考えも浮かばない。

 

 

 ラキュースはじり貧の状況に、ギリリと歯を噛みしめ、顔をゆがめた。

 

 

 

 だが、そんな中、ザリュースは胸に湧き上がった微妙な違和感に内心首を傾げていた。

 

 

 彼の違和感の正体。

 それは目の前のゼロという戦士だ。

 

 このオスは明らかに強敵である。

 しかし、そんな彼を前にしているにもかかわらず、まるで何かが噛みあっていないような、奇妙な感覚を覚えていた。

 

 

 再びゼロが距離を詰め、その剛腕を振り回す。

 大ぶりの一撃。

 ザリュースはそれを後ろに下がって躱すと同時に、拳を振りきり無防備となったその肩口に凍牙の苦痛(フロスト・ペイン)を振るう。

 だが、ゼロはそれに対し、拳を戻すことなく、そのまま肩口から体当たりを仕掛けてきた。

 

 雄牛の突撃にも似たその一撃。

 ザリュースは身を投げ出すようにして避けつつも、すれ違いざまに腕を払い、突進してきた巨体に斬りつける。

 だが、凍牙の苦痛(フロスト・ペイン)の刃はその身を切り裂くことは無く、硬質な音と共に弾かれてしまった。

 おそらく彼は素手で戦う事を生業としている者として、気により肉体を硬質化させる(すべ)を身に着けているのだろう。それでも攻撃と同時に送り込まれる凍牙の苦痛(フロスト・ペイン)の冷気によるダメージと効果は受けているはずなのだが、この巨漢はそんなそぶりなど欠片も見せぬほど生命力に満ち溢れている。

 

 

 ゼロは強い。

 こうして戦っているザリュースはその事は身にしみて分かる。

 おそらく自分より、格段に強い。

 

 

 だが――。

 

 だが、なぜだかそんな強い戦士を前にしているというのに、自分の心の中にまったく恐れが湧いてこないのだ。

 恐れを取り除く魔法というのも受けた事はあるが、そんなものとは全く異なる感覚だ。

 

 

 ――いったいなぜだ?

 

 

 ザリュースは床の上で身を返し、起き上がると同時にバックステップで距離をとり、再びこのゼロという人間と相対する。

 

「一つ聞きたい」

 

 彼は目の前の巨漢に問いかけた。

 

「お前はなぜ、この国をかすめ取ったものに仕える。聞けば、今、この国を支配している者は本当の王がこの地を離れている間に、この街を占領したと聞く。正々堂々と今の王と戦い、勝利したのならともかく、そんな卑劣にして怯懦たる行いをする者になぜおまえは従っているのだ?」

 

 その問いかけに、これまで無表情のままだったゼロの顔が歪んだ。

 ぞくりとその巨躯に身震いが走る。

 

「……お前は、ボスの恐ろしさを知らんのだ……」

 

 その言葉にザリュースは怪訝な表情を浮かべた。

 

「ボス? たしか、王を名乗っているコッコドールとか言うオスの事か?」

 

 ゼロはかぶりを振る。

 

「違う。コッコドールは操り人形に過ぎん。替えのきく、な。ボスからしたら、誰でもいいのだ。この俺にしてもな」

 

 そうつぶやいた時に浮かんだ表情。

 それを目にしたとき、ザリュースは何故、強者たるゼロを前にしても恐れを感じないのか理解した。

 

 

 ――このオスは心が折れているのだ。

 

 

 その身に宿した圧倒的な膂力。鍛え上げられた肉体。おそらく長き修練により身に着けた修行僧(モンク)としての技術。

 彼はすべてにおいてザリュースを圧倒している。

 

 だが、その心のうちにあるべきものがない。

 己の胸の芯たる魂が喪失しているのだ。

 

 今のゼロという男は、昔の積み重ねによって手にした肉体をただそのまま使い、闘っているだけ。

 戦うべき相手を目の前にしていながら、その者に対して戦意すら燃やしていないのだ。

 

 

「愚かだな」

「なに?」

 

 ザリュースのつぶやきに、ゼロはただ気のこもらぬような口調で聞き返した。

 

「お前のその在り方がだ。戦士として鍛錬し、身につけたその技術。その全てをどぶに投げ捨てるかのごとき戦い。すべてが愚か極まりない」

「……なに?」

 

 先ほどと同じ言葉。

 だが、そこには今までと違う明確な怒りの感情があった。

 

「その『ボス』とやらが恐ろしい? 自分を含めて誰でもいい存在だ? そんなものはただ理由を自分でこじつけているだけだ。諦めるためのな」

「……おい蜥蜴人(リザードマン)。少し黙れ」

「黙れ? そのボスとやらには歯向かえんくせに、俺には文句は言えるのか? 強い奴には媚びへつらい尾の先すら舐めるのに、他の者には居丈高に命令できるのか。出し入れできるプライドとは便利なものだな」

「……お前は知らんのだ。圧倒的な強さを。どんなに人が手を伸ばそうとも、絶対に手の届くことなどない高みを。巨人(ジャイアント)ならば、打ち倒せるかもしれない。ドラゴンならば、手は届くかもしれない。だが、そんな勝つか負けるかなどという次元など、逸脱した地点にいる存在の事を」

 

 

 言われて、ザリュースは思い返す。

 彼の記憶の中にある限り圧倒的なまでの強さを持つ存在。

 魔樹と人知を超えた戦いを繰り広げた蟲人コキュートス。

 そして、そんな彼が忠誠を誓う偉大なる魔術の使い手、アインズ・ウール・ゴウン様。

 

 たしかに、もし仮にあのような人知を超えた力を持つ相手と敵対したらという事を考えると、彼としても震えが止まらなくなりかねない。恐れ慄いても仕方がない。

 しかし――。

 

「しかし、お前は生きているのだろう」

 

 ザリュースは言う。

 

「生きている限り、お前は生き続けねばならん。お前は生きている間、そうやって絶望に浸ったまま、拗ねた子供のように、行動しない言い訳だけを考えて生きていくつもりか?」

 

 ザリュースの心をめぐるのはあの絶望の風景。

 圧倒的なまでの暴力に蹂躙される村。

 自身も為す術すらなく、生命を奪われたあの瞬間。

 蘇生させてもらい、目覚めた後に見た、見渡す限り死体の並ぶ岸辺。

 

 悪夢の中としか思えぬような、無慈悲にして没義道(もぎどう)なる世界。

 それをやった者はすでに倒され、仇すらもを討てないという残酷な現実。

 あの時、自分は命を断とうとした。

 だが、自分は生きる事を選択した。

 蘇らせてもらった命。この命を意義あるものへとしようとして生きた。人間の村で暮らし、アゼルリシア山脈でフロスト・ドラゴンと友となり、そして、熱い信念を胸にした『蒼の薔薇』らとともにこの王都にやって来た。

 この全てを否定することなど出来はしない。

 

 

「お前がただの腑抜けならば、いくらでも腑抜けているがいい。しかし他の、意思ある者の邪魔をする為だけに生命を費やすような屑だというのならば、ひとつ性根を叩き直してやろう」

 

 そう言って、ザリュースは自分から仕掛けた。

 自分と比べて圧倒的なまでの強者たるゼロに向かって飛びかかった。

 その様を見てラキュース、そしてティナは制止の声をあげた。

 

 だが、止まる訳にはいかない。

 オスには結果は分かっていても、闘わねばならぬときがあるのだ。

 

 

 ザリュースは凍牙の苦痛(フロスト・ペイン)を振りかざす。

 ゼロはそれを防ごうと腕をあげる。

 

 振り下ろされたザリュースの腕。

 だが、そこに氷から切り出したような不可思議な形状をした武器はなかった。

 

 ザリュースは蜥蜴人(リザードマン)の至宝にして、彼の切り札たる凍牙の苦痛(フロスト・ペイン)を投げつけたのだ。

 

 

 飛来したそれをとっさに手で払いのけるゼロ。

 その隙にザリュースは間合いに入っていた。

 

 

 ザリュースの拳が繰り出される。

 

 その拳はただの拳ではない。

 あの湖での、故郷での生活が終わり、カルネ村で暮らすようになってから、彼はより強くなることを心に刻んだ。そして、共に生活するようになったゼンベルから修行僧(モンク)の技を学んだ。その後、村を出てからアゼルリシア山脈で過ごしながら鍛錬を重ね、ついにその一端を自らのものとすることに成功したのだ。

 

 

 突き出されるザリュースの拳。

 それに対して、ゼロもまた反撃の拳を繰り出す。

 

 

 

 2人の拳は同時に、互いの顔面に突き立った。

 

 吹き飛ばされるザリュース。

 ゼロの一撃を顔に受け、まるでゴミのように吹き飛ばされ、絨毯の上を転がり、壁際に設置されていた箪笥にぶち当たる。

 

 対してゼロは拳を繰り出した姿勢のまま、静止していた。

 その膝が落ちる。

 ガッと音を立てて、床に膝をついた。

 

 

 ザリュースの拳での一撃が肉体的にダメージを与えたからではない。

 殴りかかったザリュースの瞳、そこに込められた意思の強さに、心折れたゼロの魂がしたたかに打ち据えられたからだ。

 

 

 ザリュースの一撃であるが、はっきり言って、それはあくまで素人が素手戦闘の初歩を学んだという程度でしかない。

 およそ格闘術のみにすべてを捧げ、それで一流の戦士たちとも渡り合う事の出来る、達人級のゼロとは大人と子供どころではない差があった。

 

 だが、稚拙ながらも力の限りに拳を繰り出したザリュース。

 その目はただまっすぐ、ゼロの瞳を捉えていた。

 

 対するゼロ。

 彼の目からすれば、ザリュースの拳などスローモーションで向かってくるも同然であった。最初、武器を投げつけられたことにより、わずかに意表をつかれたものの、テレホンパンチで繰り出されたその拳は、これから辿るであろう軌道も容易く予想がつき、そして仮に当たった時の威力も取るに足らぬほどのものでしかない。

 

 ゼロはカウンターのストレートパンチを繰り出した。

 人並み外れた巨漢であるゼロの腕と、普通の人間よりはやや大柄ではあるもののザリュースの腕とでは明確なまでのリーチの差がある。

 ザリュースの拳はゼロに届くことなく、逆にゼロの拳はザリュースの蜥蜴の頭部を打ち砕くであろう。

 

 

 だが――。

 

 

 しっかと見開かれたザリュースの目。

 その目にゼロは気圧された。

 

 胸の奥に宿した確固たる意思のこもった瞳。

 その瞳は微動だにせず、受ければたったの一撃で命すら危ういであろう巨大な拳を前にしても揺らぐことなく、圧倒的強者たるゼロの瞳を見据えていた。

 

 

 その眼光の圧力に、ゼロは自らの視線をそらしてしまった。

 

 

 

 ゼロは膝をついたまま、身動きできなかった。

 自分はあのベルという少女と戦った。いや、あれは戦いではなかった。ただの暴虐の嵐であった。戦士と戦士との戦いではなく、ただ強者が弱者を嬲るだけのもの、子どもが虫の手足を(たわむ)れにもぎ取るようなものに過ぎなかった。

 そんな理不尽なる加虐にさらされたゼロはただ意思を奪われ、その恐怖と苦痛の前に唯々諾々と命令に従ってきた。

 

 だが、今の一撃は――ザリュースと拳を交えた一瞬の攻防はそれとは違う。

 先の暴虐にさらされた時とは異なる、はっきりとした、一人の戦士としての敗北。

 

 そもそもの攻撃力に格段の差があるため、ゼロの拳を受けてザリュースは吹き飛び、対してザリュースの拳を受けたゼロはよろめくそぶりすら無かった。

 だが、視殺戦に敗れ、ゼロは目をそらした。

 その結果、本来当たるはずのないザリュースの拳はゼロの顔面を捉えたのだ。

 

 

 ザリュースの拳。

 それは戦士であるゼロの矜持を殴り飛ばしたのだ。

 

 

 ゼロの両目から滂沱(ぼうだ)の涙がこぼれる。

 彼は腹の奥底から慟哭の叫びを発した。

 彼から見れば技術は未熟ながらも、1人の戦士として相対したザリュース、その一撃によってゼロは、あの暴力の嵐にさらされた後、現実味の欠けた朦朧たる感覚のまま過ごしてきた日々に、ようやくケジメをつけることが出来たのだ。

 

 

 

 唐突に訪れたゼロとザリュース、2人の戦いの結末。

 それにより戦いのバランスは大きく崩れた。

 

 この場にいる者達の中でゼロは頭一つ分抜きんでるほどの強さを誇っていた。

 対してザリュースは、強さ的には他の者よりは劣る。

 そんなザリュースが、相打ちの様相であったとはいえ、ゼロを戦闘不能の状態にまで持ち込んだという事は、戦いの天秤がラキュースらに大きく傾いたという事。

 

 

 それに気がついたエドストレームは自らの不利を悟り、顔をひきつらせた。

 

「さ、さっさと死になさいよ!」

 

 彼女は乾坤一擲(けんこんいってき)に、浮遊する5つの三日月刀(シミター)全てを攻撃に回す。

 

 飛来する毒刃の猛襲。

 だが――。

 

「防御!」

 

 ラキュースの〈浮遊する剣群(フローティング・ソーズ)〉がそれを弾き飛ばす。

 彼女の操る〈浮遊する剣群(フローティング・ソーズ)〉は、同様の武器を使うエドストレームの超人的な操作術とは比ぶべくもない。

 だが、防御のみに限って使用するならば、決して引けを取ることはない。

 

 そうして、わずかの間ながら、攻撃に使う5つの三日月刀(シミター)全てが弾かれ、制御を失った形となったその隙に、ティナが手裏剣を投げた。

 思わず、身を固くするエドストレーム。

 しかし、その手裏剣は残された最後の一本の三日月刀(シミター)を握るエドストレームとはあらぬ方向へと飛んでいった。

 投げ損じかと安堵の息を吐く彼女。

 

 

 だが、その手裏剣の狙いは別の所にあった。

 

 チィン!

 

 投げつけられた刃が、天井から吊るされた鎖を断ち切る。

 支えを失った、部屋中に甘い香りを広げていた香炉が重力に従い、床へと落ちる。

 

 香炉。

 すなわち、中には入れた香を燃やす炭がある。

 それが落下した。

 そして、その火は引火する。

 こうしている今もベッドの上で、見せかけの性交をする哀れな王女を火葬するために撒かれた油へと。

 

 

 一瞬のうちに火の手は回った。

 かすかな種火は錬金術油へと燃え移り、エドストレームの背後、天蓋付きのベッドを紅蓮の炎で包んだ。

 

 

 突然、燃え上がった炎。

 ティナの目的としては、エドストレームの背後に炎を巻き起こすことによって、彼女の意識をそらすのが狙いであったのだが、それは彼女の予想を超えたさらなる効果をもたらした。

 

 その灼熱の炎に巻かれ、すでにナーベラルの魔法により黒く焦げついていたフールーダの死体。その肉体がついにボロボロに炭化し、崩れ落ちた。

 

 

 瞬間――爆発が起きた。

 

 

 ラナーの寝室において、彼女を助けに来た者に絶望を見せつけるためだけに行われていた、アンデッドにされたラナーとフールーダによる行為。

 おそらく、この部屋に来たのはラナーの救出に来た者であるだろうから、当然、そんな光景を目の当たりにすれば、その2人の行動を止めさせようとするだろうとベルは考えた。

 

 その為、秘かに仕掛けがしてあったのだ。

 

 彼女たちが際限なく繰り広げる性交の真似事。

 それが制止された時、彼女たちの肉体が爆発するように。そして、助けに来た者を巻き込むようにと。

 

 

 今、引火した油による延焼でフールーダの身体が焼け落ち、行為が途切れた事により、その悪意のトラップが発動した。

 

 ラナーとフールーダの肉体が爆発四散し、辺りに飛び散る。

 幸いにして、彼女らのすぐ傍らにいた者はいなかったため、爆発による直接的なダメージは大したことは無かった。

 だが、問題は彼女たちの肉体が千切れ、飛び散ったことにある。

 

 彼女たちの身体には火をつけ灰にしようと、特別製の錬金術油がかけられていたのである。

 それが爆発により引き裂かれ、細切れとなった肉体と共に周囲に飛び散ったのだ。

 

 

 

 それをまともに受けたのはエドストレームである。

 

 もともと、ラナーらがいるベッドを背にしていたため、他の者よりその距離が近かった。しかも、彼女の身に纏うのは動きやすさを最優先した、肌の露出が多い衣装だ。

 その為、飛散した燃え盛る錬金術油が直接、その白い肌にべっとりと付着したのである。

 

 

「なっ……! きゃああぁぁぁっ!!」

 

 慌てて払い落そうとするエドストレーム。

 しかし、今も燃え上がるその炎は叩いても消えることなく、逆に振り払おうとした彼女の指にどろりとした油が絡みつき、そのほっそりとした手を焼き焦がした。

 

 

 それを好機と見たティナ。

 両手にクナイを構え、一足飛びに飛びかかった。

 

 しかし、さすがはエドストレーム。八本指でも最強の六腕に選ばれたほどの女。

 その身を焼く炎の苦痛にもひるむことなく、宙を舞う三日月刀(シミター)を自らの許へ戻し、迎撃しようと試みる。

 

 だが、ティナの速さは彼女の予想を超えていた。

 飛び交う剣閃を潜り抜け、瞬く間にエドストレームに接敵する。

 

 

 エドストレームは顔をゆがめた。

 自分とティナの位置が近すぎて、思うように飛ばした三日月刀(シミター)を振るう事が出来ない。下手をしたら、自分まで傷つけてしまう。

 これが普段の彼女であれば、たとえ己が柔肌を傷つけることになっても、かまうことなく自らの胸元に飛び込んだ相手を仕留めようと試みたであろう。

 

 しかし、この戦いはいつもとは違うところがあった。

 今日の彼女の得物には、エドストレーム自身の手によって毒が塗られているのだ。

 

 ――もし、その毒の刃が自身を傷つけでもしたら……。

 

 エドストレームは思わず、一瞬躊躇してしまった。

 そして、その一瞬は致命的であった。

 

 

 ティナは前方に飛び込み、飛びくる三日月刀(シミター)の剣閃の隙間をすり抜ける。そして着地と同時に絨毯の上を転がり、続く斬撃を躱しつつ、左手のクナイを投げつける。その鉄刃は残った一つの三日月刀(シミター)で防戦しようと構えるエドストレームの足を捉えた。

 次の瞬間、飛び上がったティナの右手のクナイが、足に走る激痛により、動きが鈍ったエドストレームの喉笛を切り裂いた。

 

 

 驚きに目を丸くし、首筋を押さえるエドストレーム。

 だが、その手指の隙間から勢いよく鮮血が噴き出した。

 信じられないというように、パクパクと口を開閉させる。

 

 がくんとその場に膝をつき、崩れ落ちる。

 朱に染まりゆく床の中央で、その身は飛び散った油による炎に包まれていった。

 

 

 

 傷ついた体を起こすラキュースら。

 その顔には勝利を喜ぶ色はない。

 

 回復魔法を唱え、皆の傷を治した彼女の視線は、いまだ膝をつき、うなだれているゼロへと向いた。

 

「聞かせてもらっていいかしら? 私たちは王都のこの惨状、この悲劇、その全てに幕を引くわ。この暴虐の嵐を止めなくてはいけない。王城を占拠した黒幕を倒してね。ねえ、聞かせて。コッコドールはどこにいるの?」

 

 その言葉に、ゼロは振り向くことなく答えた。

 

「……玉座の間だ。しかし、宮殿のあちこちはマジックアイテムによって封鎖されている。玉座の間がある中央部に行くには、地上ではなく上部の橋を通らねば行けぬはずだ」

 

 言われて、彼女は宮殿の構造を思い返す。

 確か、ヴァランシア宮殿と呼称されるのは3つの建物からなる建造物群。その建物と建物とを地上に降りることなく繋ぐ橋があったはずだ。

 ここからだと、一度正面の建物に移動してから向かった方がいいかもしれない。

 

 

 そうして、ラキュースは(きびす)を返した。

 一度だけ、室内を振り返る。

 絢爛たる装飾の華人の寝室。そのあちこちに、いまだ炎が赤い舌をなびかせるものが飛び散っている。

 

 もはや友人の面影すら感じさせないそれらから目を離し、ラキュースは今回の全てを終わらせる固い決意と共に、部屋を駆け出ていった。

 

 


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