「ひぃ、はぁ、はぁ、はぁ……」
息が苦しい。服の中は汗でびっしょりで、額をしたたり落ちる塩辛い滴も時々目に入って視界を奪う。いつもの化粧をしていないからこそ、溶け出した化粧で顔がぐちゃぐちゃになったりはしていないけれど、それをラッキーだなんて思えない。
「なんで……ボクちゃんが」
「新入りっ、そっち行ったぞ!」
「ひゃ、ひゃいげっ?!」
反射的に声に応じて顔を向ければ灰色の盛り上がった水溜まりのようなモノが突っ込んできて、ボクちゃんの意識は、そこで途絶えた。
「……イミ、おら、起きろ新入り!」
「んう……がっ」
目が覚めたと思ったら、瞼の裏に星が散った。
「ちょ、ちょっと、アザミちゃんっ!」
「はん、どーせあたしは乱暴者の僧侶だよ! ホイミはちゃんとしてやってるんだ。グズグズして起きねぇ、こいつが悪い」
ホイミってのは確か回復呪文だったと思う。耳に入ってくる二人分のやりとりからすると、あの灰色にのされたボクちゃんに頭を襲う鈍痛の犯人が回復呪文をかけたのだろう。ただ、のんびり考察してる暇なんて無い。
「ホラ、さっさと起きろ!」
「ひゃ、ひゃいぃぃっ」
起きる、起きなきゃならなかった。アザミって呼ばれる女僧侶、自分で言う乱暴者って言葉に嘘はなかった。ボクちゃんが少しでも指示に従わないと、拳か蹴りが飛んでくる。何で武闘家やっていないのかが不思議に思えるくらいに手が早いのだ。
(どうして……こんなことに)
自分自身に問いかけてみるが、理由は解っている。ボクちゃんがあの男の名を騙ったからだ。意識は過去に飛んだ。
「えー、ヘイルさん? まさか、あのヘイルさんですか?」
綺麗なお姉ちゃんを見かけて名乗った時、そんな反応を貰ったのは何時のことだったか。最初は訳がわからなかった。いくらかして、人違いじゃないかと思い至って化粧を落としてみても、あなたがあのヘイルさんと好奇の目で見られる日は続き。
「偽物だったんだ、がっかりー」
「紛らわしい顔と名前しないでよね」
だいたいそうやって好奇の目で見た女の子達は人違いとわかると蔑む様な目をボクちゃんに向けて去っていった。そっちが勝手に勘違いした癖に。いや、それだけじゃない。
「あー、やっぱり本物は違うわぁ。ダメね、これとは全然違うわ」
「なんでこんなのと見間違えたんだろ、私」
再び遭った女の子達はボクちゃんと見知らぬ誰かを比べて吐き捨てた。
(ボクちゃん、何も悪いことしてないのに……)
どうして自分だけが、こんな目に遭うのか。見ず知らずの誰かと比べられ、けなされなきゃいけないのか。鬱屈した気持ちは、やがて見知らぬボクちゃんそっくりな誰かへの悪意に変わった。
「そっちがボクちゃんを悪者にするなら、ボクちゃんはお前を悪者にしてやるっ!」
心に決め、そっくりな誰かのフリをすると、女の子達は割と簡単に騙せた。今までボクちゃんを別人と勘違いした女の子達とのやりとりで、そっくりな別人の情報をいくらか知っていたからだ。職業は盗賊で、このアリアハン出身の英雄、勇者シャルロットの師匠。大魔王バラモスが倒されるまでは勇者と共に旅をしていたが、勇者が魔王を打ち破ったことで何処なりかに去ったのだとか。
(ふふふ、何処かに旅立って居ないなら好都合。今まで被った害の分も色々楽しませて貰っちゃうもんね)
にやけつつ、そう後ろ暗い復讐を行おうと思った時、ボクちゃんは気づくべきだった、立ち去っただけだから、帰ってくることもあるのだと。
「オラッ、ぼさっとすんな!」
「がふっ、あ」
痛みと衝撃を伴いボクちゃんは我に返った。反射的に口元を手の甲で拭うと血が付いていた。口の中を切ったっぽい。
「まったく、これっぽっちで怪我すんなよ。ホイミ……はぁ、あと少しだってのにこう回復に手を割かれちゃ、勝てやしねぇ」
「それはアザミちゃんがその人殴ってもいるからでしょ? わたしだけだよ、はぐれメタルひのき棒で殴ってるの?」
「だってよぉ、人にザオリクまで使わせといて、その恩人の尻鷲掴みにするような奴だぜ? これがスー様だったらあたしも嬉……って、何言わせんだ!」
「勝手に言ったんでしょ!」
そうして始まった口げんかもあの男が言う修行が進まない原因なんじゃとボクちゃんは思うが、流石に口には出せなかった。言えば、擁護してくれてたお姉さんもボクちゃんの敵に回る。
「ううっ」
まさにぢごくだった。アリアハンでは聞いたことも見たこともない魔物と戦わされるとか。こっちの攻撃なんてろくに当たりもしない上に、当たってもダメージを与えた気が殆どしないその灰色水溜まりもどきは、恐ろしい攻撃呪文まで使う。
「実戦経験無しも拙いか」
とか言って、麻袋から放り出されるなり参加させられた戦いで叩いたでっかいカニの化け物も知らない魔物だったが、カニなら硬くても納得出来る、だが目の前の灰色水溜まりもどきは大きさだってあれほど大きくはなく、なめらかで滑るような動きを見る限り、硬そうには見えないのだ。
「なのに、なんでっ」
振り下ろした棍棒が当たったように見えても、水溜まりもどきは平然としていた。
「うぐ……」
「おい、何やってんだ新入りぃ!」
ボクちゃんが呻く中、罵声が響いた。ぢごくはまだおわらないらしい。
主人公と比べられたり何なりでひねてしまったこっちのヘイル。
果たして更生は出来るのか?
次回、第百六十六話「効率故に」