月と薔薇   作:夕音

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 自分の命が失われていく感覚。

 感じているはずの痛みさえも消え、自分の意識が闇へと落ちていく感覚。

 きっとそれを知っている人間などこの世にはいないだろう。

 

 だが、私は知っていた。

 遠い過去のことのような、それでいてまるで昨日のことのように鮮明な記憶。

 猛スピードで迫り来るトラック、乱暴に突き飛ばされた痛みで膝をすりむいてしまったらしく、その痛さに泣いている幼い少女。

 誰かの命を助けるためには、代償として誰かの命が必要なのかもしれない。

 ランドセルを背負い黄色い帽子を被った少女が道路を渡っているところへとトラックがブレーキを踏む様子もなく迫っているのを見、慌てて走り寄った私が車道の真ん中に立っていたその少女を間一髪安全な歩道の方へと突き飛ばすと、既に逃げられないほど間近にまで迫っていたトラックの巨体が間もなく衝突し、鋼鉄の車体と比べればあまりに貧弱な私はそのまま空中へと吹き飛ばされた。

 全身に走った一瞬の痛みと、そして重力を無視して空中を浮遊させられる圧倒的な浮遊感。

 飛ばされた先でコンクリートの上に落下した身体が勢いを殺しきれずに錐揉み状に回転する中で、一瞬だけ名前も知らない少女の姿が見えたのを覚えている。

 彼女が泣いている様子を目にしたのが、その時の私の最後の記憶だ。

 全力で突き飛ばしてしまったことは悪かったと思うが、なにぶん切羽詰まっていて力を加減している余裕など無かったし、その時はむしろ罪悪感以上に彼女が轢かれずに済んだことへの安堵の方が大きかった。

 そして、コンクリートの上をサッカーボールか何かのように転がっている間中全身をくまなく走り抜けた後、突如として消え去った激痛。

 あれだけ痛かったのに何故だかもうどこも痛くないことに気付いた直後、私の意識は急速に薄くなっていき、同時にまるで水底に沈んでいくような感覚に包まれていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 いよいよ今日はリリアン女学園の入学式の日である。

 トラックに轢かれて命を失ったかと思いきや、気がつくと赤ん坊として、何故だか以前生きていた時代から見て三十年以上も前の地球に生まれ直していた私は、中学まで両親の仕事の都合でイギリスで生活した後、十五歳になったのに合わせて日本へと戻ってきた。

 そして母のたっての希望でリリアン女学園という都内にある私立の女子校の入試を受けた私は無事に合格し、四月を迎えた今こうして入学式の日を迎えたのである。

 エスカレーター式の学校だけあって編入試験はそれなりに難易度が高かった(少なくとも普通の十五歳の少女が満点を取るのは難しいだろうと感じるくらいには)が、前世ではそれなりにきちんと勉強して大学を卒業していた私にはそう難しいものではなかった。

 お嬢様学校などとは縁が無かったので面接の時はさすがに緊張したが、そちらでも特に問題はなかったようで、無事に合格することができたのだった。

 ともあれ、普段よりも早めに起きて準備を済ませた私は、新品の自転車へと乗って家を出る。

 リリアンの生徒は電車かバスを使って通学することが多いと合格通知と共に送られてきたパンフレットには書いてあったが、家からそれほど離れている訳ではないので私は自転車で通うことに決めていた。

 本当は車かバイクに乗ることができれば一番なのだが、生憎とリリアンの校則では生徒が通学時に車やバイクを自分で運転することは禁じられている(別にプライベートで乗ることや、誰かに車で送ってもらうことは禁じられていないのが面白い)し、そもそも私はまだ十五歳なので免許を取ることができない。

 自転車通学に決めたのには、そうした事情もあった。

 

 やはり、ほとんどの生徒は電車かバスを使って通学しているのだろう。

 このために買ってもらった新品の自転車の軽いペダルを漕ぎながらリリアンへと向かう中で、今着ているものと同じ制服を身に付けた少女の姿を見かけることはかなり少なかった。

 学校のすぐ近くにまで来てようやく目につくことが多くなったくらいである。

 安全のために速度を落として進んだ私は、家を出てから二十分弱ほどで学園の前に辿り着き、そのまま大きな門を潜って敷地の中へと入った。

 ここまでの道程もそうだったが、入試の際にも一度訪れているので、校舎内ならばともかく外で道に迷うことはない。

 まっすぐに駐輪場の方に向かい、空いている場所に自転車を止める。

 自転車通学の生徒の数が少ないせいか、それなりに大きな駐輪場は閑散としており、自転車も疎らにしか止められていない。

 そのため、停車させる場所に困ることはなかった。

 

 鍵をかけた私は、入学式の行われる体育館へと向かうために駐輪場を出てそちらの方向に歩いていく。

 駐輪場は敷地のかなり外の部分にあるので、校舎までには自転車通学ではない生徒達と同じように歩いていかなければならないのだが、程なくすると並木道の中に遠目にも目立つ大きなマリア像が見えた。

 その前で立ち止まって、祈りを捧げている少女たち。

 非日常的であり予備知識なしで目にした者は驚いてしまうだろう風景であるが、しかしパンフレットによればカトリック系であるらしいこの学園に幼い頃から通っている生徒の大半は、こうしてマリア像に祈りを捧げることを習慣にしているらしい。

 とはいえ、それは校則で義務付けられていたりするものではなく、あくまで生徒の自主性によるものという位置付けのようだった。

 同様に、敷地内にある聖堂で毎週末やクリスマスに開かれているミサにも出席の義務は無いそうだ。

 その辺りは、去年まで通っていたイギリスの学校とほとんど変わらなかった。

 私自身は一度死を経験していることもあってそれなりに死生観について思うところがあるし、別に他人の信仰を否定する気は無いが義務ではないというのならば神に祈るつもりはない。

 面接の際にもシスターの方に対して信仰は持っていないと明言したが合格したので、学園側としても特に問題はないのだろう。

 少女たちを横目にマリア像の前を素通りしていくと、祈らない生徒が珍しいのか少しこちらに注目が集まる気配を感じたが、元々それほど目立つ容姿ではないし、何より初めて目にする新入生の姿など明日と言わず一時間後もすれば忘れているだろう。

 特に気にすることのないまま、体育館への歩みを続ける。

 

 体育館の中は既に設営が整えられていたが、しかしまだリリアン生の姿は無い。

 新入生はクラス分けの紙を見た後、上級生は普段通りに一度それぞれの教室に集まることになっており、彼女らが体育館を訪れるのはその後なのだ。

 では何故私がここにいるかというと、それは私が新入生代表として挨拶をすることになっているからである。

 両親に喜んでもらおうと入試で全力を出したところミスなく満点を取っていたようで、代表を任せるという連絡が一週間ほど前に届いていたのだ。

 私のように途中から転入する者もいるとはいえ、原則的にはエスカレーター式の学校であるため、中等部から進級した生徒が任されるものと思っていたのでそれを聞いた時には驚いたし戸惑ったが、しかし両親に報告したところ喜んでくれたので結果的によかったと思う。

 そのリハーサルや準備のために、新入生代表を務める生徒は事前に会場である体育館に待機しておくことになっているそうだった。

 

「ごきげんよう。外部入学の子ね? まだ入学式は始まっていないから、先に教室に行って頂戴」

 

 お嬢様学校という謳い文句に何の偽りもない広い屋内。

 持ってきた上履きに履き替えて中に入ると、前方にある舞台の方向から声が掛けられる。

 声の方を見ると、そこには遠目にも分かるような艶々しい黒髪を顎の辺りまでの長さで切り揃えた知的な顔立ちの女性が立っていた。

 大人びた顔立ちは美少女というよりも美女と表現したくなるようなものだが、彼女の身体には私が着ているのと同じリリアンの制服が纏われているので、彼女もここの生徒なのだろう。

 

「ごきげんよう。岸本綾と申します。新入生代表は先に体育館で待機しておくようにと伺ったのですが」

 

 前世でも現世でも、お嬢様学校というものにはおよそ縁のない人生を送ってきた私には全く馴染みがないが、この学校では生徒は「おはよう」や「さようなら」といった挨拶の代わりに「ごきげんよう」という言葉を用いるらしい。

 この時間にここにいるということはほぼ間違いなく少女が在校生であるということなので、私はぼろを出してしまわないように気をつけながら挨拶をする。

 

「そう、あなたが新入生代表の子だったのね。初めまして、水野蓉子よ」

 

 水野蓉子という名前には聞き覚えがあった。

 これもパンフレットで読んだ知識だが、何でもリリアンには同格の三人の生徒会長がいるらしく、それぞれ紅薔薇、白薔薇、黄薔薇と呼ばれているそうなのだ。

 そのうちの一人、紅薔薇を務めている生徒として、彼女の名前は以前に耳にしていた。

 

「あなたのことは、先生から聞いているわ。外部入学でリリアンに来ると初めは戸惑うでしょうけど、困ったことがあれば力になるわ」

「ありがとうございます、紅薔薇さま」

「あら、その呼び名を知っているのね。そろそろ白薔薇さまと黄薔薇さまも来ると思うのだけど……。ひとまず、席に案内するからそこで待っていてね」

 

 そう言うと、蓉子さまはこちらに背を向けて歩き始める。

 背筋がまっすぐに伸ばされた、美しい姿勢だ。

 その後に続いた私が既に椅子や机が並べられている会場の中を歩いていくと、少しして彼女が立ち止まった。

 

「ここが三薔薇が座る席よ。すぐにでも打ち合わせを始めたいのだけど、あとの二人がまだ来ていないから一緒にもう少し待っていてもらえないかしら。ごめんなさい」

「いえ、私も伺っていた時間より早く来ましたから」

 

 下級生である私は先輩方より早めに来ておくべきだろうと思ったので、学校からの連絡で指示されていた時間より早く登校してきていた。

 なので、まだ先生くらいしかいないだろうと思っていたため、むしろ蓉子さまが既に来ていたことに驚いたくらいだった。

 

「おはよう。その子は?」

 

 蓉子さまと話していると、ふと後ろから憂鬱そうな調子の声が聞こえる。

 そちらを振り向くと、そこには明るいベージュの髪色をセミロングに伸ばした美少女が私たちの方に近付いてきていた。

 非常に彫りの深い顔立ちは色素の薄い肌と相まって見るものにエキゾチックな印象を与え、そのどこか中性的な面影を纏わせた容貌に思わず目を奪われてしまう。

 蓉子さまも並外れた美しさの持ち主であるが、たとえ隣に並んだとしても彼女も全く引けを取らないだろう。

 

「おはよう、聖。この子は新入生代表でスピーチをしてもらう岸本綾さん。昨日説明したでしょう?」

「覚えてないわ」

「あなた……。まあいいわ。綾さん、彼女は佐藤聖。白薔薇さまよ」

 

 蓉子さまの言葉を耳にして、首を傾げる聖さま。

 そんな彼女の反応と、それに対する蓉子さまの言葉を聞いただけで、聖さまがどのような方なのかや二人がどのような関係であるのかがおよそ理解できる。

 一度呆れたような溜め息を吐いた後、こちらを向いた彼女は私へと紹介してくれた。

 やはりその名前にも聞き覚えがある。

 三薔薇さまの一人である白薔薇さまを務めている生徒として、名前がパンフレットに書かれていた。

 

「……よろしく」

「はい、よろしくお願いします、白薔薇さま」

 

 すぐ目の前まで歩み寄ると、聖さまは一瞬だけこちらを見ると、いかにも面倒そうな口調でそう口にする。

 彼女のような美少女に不機嫌さを露わにされ、かつて中身が今と同じ年齢だった頃の私ならば、きっと萎縮してしまっただろうシチュエーション。

 私は、寝起きが悪いのだろうかなどと少し失礼なことを考えつつも、彼女に笑顔で挨拶を返した。

 

「それで、黄薔薇さまは?」

「まだよ。あなたが最後じゃないなんて珍しいけど」

「それなら、もっとゆっくり来ればよかったかな」

 

 自分が最後ではないことに少し意外そうな表情を浮かべた後、蓉子さまの方に顔を向けてそう尋ねる彼女。

 それに対する返事を聞くと、聖さまは自分で目の前にあった机の傍らの椅子を引き、気だるそうにそこに腰を下ろす。

 

「ごきげんよう、紅薔薇さま、白薔薇さま」

 

 すると、再び入り口の方から声が聞こえた。

 そちらを向けば、そこにはリリアンの制服を纏った少女の姿。

 流れから言って、恐らく彼女が三薔薇の残る一人である黄薔薇さまなのだろう。

 

「ごきげんよう」

「ごきげんよう。珍しいわね、黄薔薇さまが最後だなんて」

「ごきげんよう、黄薔薇さま」

 

 挨拶の言葉を返す聖さまと蓉子さま。

 どうやら、予想通り今しがた入ってきた少女が黄薔薇さまであるようだ。

 聖さまが少し嫌そうな表情を浮かべたことに気付きつつ、二人に続いて私も彼女へと頭を下げる。

 

「あなたは?」

 

 近付くにつれてはっきりと容姿が見て取れるようになったが、黄薔薇さまは和風な顔立ちに浮かぶどこか物憂げな表情が印象的な美少女であった。

 ヘアバンドで前髪を留めて額を露わにさせた髪型をしており、そちらも印象に残る。

 やはりと言うべきか、この方も紅薔薇さまや白薔薇さまに全く劣らない容姿の持ち主だ。

 

「新入生代表としてスピーチをする岸本綾ちゃんよ」

「そう……。鳥居江利子よ、黄薔薇をしているわ」

「よろしくお願いします、黄薔薇さま」

 

 自己紹介をしようとした私だが、先に蓉子さまに紹介されてしまったので、江利子さまが名乗った後に再び頭を下げる。

 

「編入試験で満点を取った子が今年の新入生代表だと聞いていたけど、あなたがそうなのね」

「満点?」

 

 私が頭を上げると、興味深げな視線で江利子さまに見つめられる。

 すると、その言葉に反応して聖さまが驚きの声を上げた。

 

「先生も驚いていたわ。新入生代表は中等部の成績優秀者から選ばれるのが慣例だから、高等部からの外部入学の子が務めるのはかなり久々のことだそうよ」

「ふうん。頭がいいのね」

「それよりも、そろそろ打ち合わせを始めましょう。もうあまり時間が無いの」

 

 話題を切り上げるように蓉子さまが壁に掛けられている時計に目を向けると、もう予定の集合時間は過ぎていてあまり時間的な余裕は無くなっていた。

 やはりというべきか、会話を伺っていてなんとなく察することができたが、山百合会と呼ばれているらしい生徒会を引っ張っているのは蓉子さまのようだ。

 そして、おしゃべりはそこまでで終わり、持ってきた原稿の最終チェックなどをしてもらいながら打ち合わせと軽いリハーサルを行った私。

 こう言っては失礼だが相当癖のありそうなお二方を上手くまとめているだけあって紅薔薇さまのカリスマ性というか、リーダーシップは凄まじく、いくつか見つかった手違いやミスなども彼女によってあっという間に解決された。

 後からやってきた先生さえも、半ば蓉子さまの指示で動いていたほどだ。

 リハーサルを終えると、私は自分の席について開始を待つ。

 そうこうしているうちに体育館の中はリリアンの制服を纏った生徒たちで満ち、入学式が始まった。




オリジナルヒロインの二次創作です。
山百合会視点ではなく、薔薇の館の住人ではない生徒から見たリリアン女学園を書きたかったので書き始めました。
原作にある関係や絆を壊すくらいなら書かない方がましなので、ヒロインが他の原作キャラの代わりに誰かの妹になったりはしません。
私の技量が許す限り原作キャラの性格をなるべく忠実に書いているつもりですが、もしも違和感があったらごめんなさい。
原作の描写との矛盾が無いよう心がけていますが、もしも矛盾があればご指摘いただけたら嬉しいです。

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