聖さまと別れた後、私は本来の予定通り街中を歩いていた。
何気に、日本に来てから街に出るのはこれが初めてである。
加えてこの時代の日本の街中を歩いたことは前世でも一度も無いので、まさしく初体験と言ってよかった。
まるで知らない場所に来たかのような感覚で、街中を眺める私。
まだWindows95が出ていない時代なのでパソコンは企業向けか、一部のコアユーザー向けのものという扱いであり、電気屋でも小さなコーナーがある程度であまり大々的には売られていない。
その代わりに、まるで虹のようにいろいろな色のポケベルが並べられ、売っているのは二十年後ではまず見られない光景だ。
せっかくなので買ってみようかとも思ったが、リリアンでは育ちがいい生徒ばかりのためかポケベルを持っている子などまず見かけないし、かといってこの歳までイギリスで暮らしていた私には、リリアン以外で同年代の日本人の友人など皆無である。
買ったところで使い所が無いと思われたので、諦めることにした。
近くの電気屋から離れた私は、今度は本を見に行こうと思い立ち、そちらの方に向かう。
駅から近い場所にある、三階建ての大きな書店。
入り口の扉を開いて中に入ると、店内には山のような本棚がずらりと並んでいる。
需要があるのか入り口の近くに並べられている雑誌の顔ぶれは、当然というべきか私がかつてよく見かけたものとは大きく異なっていた。
初めて目にするタイトルのファッション雑誌らしきものを手に取りぱらぱらとめくっていくと、テレビでたまに見かけた女優が記憶の中と比べてずっと若い姿で掲載されていて、歳月の流れを実感させられる。
とはいえ、時間によって変わるものがあれば変わらないものもある。
例えば、図書館であの方から薦めていただいた本のように。
適当に眺めた後雑誌を置いた私は、小説のコーナーへと進んでいった。
この頃の小説といえば、何と言ってもデルフィニア戦記だろう。
私は年齢的な理由でリアルタイムでは知らなかったけれど、現在大ヒットしているこの小説は平積みで並べられ、更には天井から広告のための大きな看板までもが吊るされていた。
読んだことはある、というか愛読していたけれど、改めて読もうと思い私は一巻を手に取った。
棚を見渡して他に目についたのは、コスモス文庫なる聞き覚えの無いレーベルの少女小説が大量に並んでいたことだ。
何でも宮廷社という出版社のレーベルらしい。
刊行数の多さを見るにかなりの規模のレーベルであるようだが、果たしてこんなレーベルが日本にあっただろうか。
首を傾げる私だが、とはいえ、知らないレーベルであるということは、そこから出ている作品も読んだことの無いものばかりであるということ。
新しい作品を読むことができると考えれば、むしろ嬉しかった。
適当に本を抜き出してはあらすじを眺めてみて、面白そうだと思ったタイトルを何作か手に取る。
「どうされましたか?」
すると、近くの棚の前で困ったような顔をしている少女の姿を見つけた私は、何か手伝えることはないかと声をかける。
かなり小柄で、可愛らしい印象を受ける少女だ。
私と並んだら、恐らく身長は三十センチ以上は違っているだろう。
後ろ髪を、首筋の辺りで左右それぞれ結んだ髪型が印象的である。
「あ、綾さん。ごきげんよう」
「ごきげんよう。リリアン生でいらしたのですね」
私が声をかけると、こちらの顔を知っていたらしい少女は、ごきげんようと挨拶を返してくる。
私服なので分からなかったが、どうやら彼女はリリアンの生徒であるようだ。
「ええ。二年松組の鵜沢美冬よ」
「よろしくお願いします、美冬さま。それで、何か困っていらしたように見えたのですが」
「ええ、実は、棚の上にある本に手が届かなくて……」
美冬さまは、困ったような表情を浮かべると、目の前にある棚を見上げる。
確かに、この方の身長では最上段にある本を取るのは困難だろう。
「美冬さまが取りたい本というのは、どれでしょう」
「それなのだけど……」
「これで合っていますか?」
棚の上に手を伸ばした私は、美冬さまが指し示した本に手を触れて確認する。
その拍子に太ももと腕の筋肉に痛みが走るが、無用な心配をさせてしまわないよう、それを表に出さず抑え込む。
そして、棚の中から本を取り出した。
こちらは、私も知っているレーベルの少女小説だ。
「ええ、そうよ。そんなに簡単に届いてしまうなんて、綾さんは凄いのね」
「まあこの身長ですからね」
簡単に本を取った私を見て感心したように言った美冬さまに、苦笑して言葉を返す。
背が高くて得をすることもあれば、逆に損をすることもある。
それは、別に私だけでなくこの方も同様だろう。
少なくとも、美冬さまには私よりもずっとスカートが似合うはずだ。
「どうぞ」
「ありがとう、綾さん」
そして私は、取った本を彼女に手渡した。
微笑んでそれを受け取る美冬さま。
「綾さんは……少女小説がお好きなの?」
私が手にした本の表紙を見て、彼女が尋ねてくる。
少女小説がお好きなのだろう、その表情は嬉しそうだった。
「いえ、私はイギリス暮らしが長かったので、コスモス文庫という名前さえ存じませんでした。なので、この機に読んでみようと思い、気になった小説を手に取ってみたのです」
「それなら、明日私が家からおすすめを持ってきましょうか?」
「いいのですか?」
「ええ。この本を取ってくれたお礼に」
「ありがとうございます。でしたら、お言葉に甘えさせていただきます」
私は、彼女の好意に甘えることにする。
図書館であの方に手渡された本もそうだけれど、明日からは本を読むことがかなり増えそうだった。
それから、私たちはレジに並び、手にしている本を購入する。
別に連れ立っている訳でもないのだが、先に会計を済ませた彼女は書店の入り口のところで私を待っていてくれた。
「せっかくだから、お昼を一緒に食べない?」
「はい。ご一緒します」
まだ時間があるらしい美冬さまに、ランチに誘われる。
せっかくいただいたお誘いを断るのは申し訳ないし、他に予定がある訳でもないので私はそれを承諾した。
そして、二人で入ったのは駅前にあるハンバーガーチェーン。
一九九四年でも二〇一四年でも変わらず存在しているものの一つ――そう、マクドナルドだ。
「リリアン生の方でもこうした場所に来られるのですね」
リリアンとハンバーガーというのはイメージ的に遠いので、どうでもいいことに少し感心してしまう私。
私は少し前にハンバーグ定食を食べたばかりであるが、あれは聖さまに申し上げた通り私にとっては本当に軽くくらいの量である。
これからハンバーガーを何個か食べるくらいの余裕は十分にあった。
由乃さん辺りが聞けばどれだけ食べるんだと呆れられそうだが、運動部の食事はこんなものだろう。
私だけでなく、恐らく令さまなども家ではこれくらいの量を口にされるはずだ。
あの方の実家は剣道場であり、ということは練習量に関してはイギリスでフェンシングに励んでいた頃の私より確実に多い。
それだけの練習をこなす以上、相応の量を食べなくては鍛えた身体を維持することはまず不可能だろう。
私は、イギリスにもあるこのチェーン店で一番好きなハンバーガーを二個とセットを一つ注文する。
ちなみに、私の注文を聞いて隣で驚いたような表情を浮かべた美冬さまの注文は、ハンバーガーのセット一つのみだった。
かなり小柄な方であるし、運動系の部活をなさっていないようなので、それも当然だろう。
しばらくして注文していた分が出来上がると、私たちはトレーを手に空いている席に座る。
「本当に二つも食べられるの?」
「ええ。逆に、これくらい食べないと筋肉がどんどん落ちてしまって維持できないんです」
腰を下ろすと、私のトレーの上に並んだハンバーガーの数を見て、美冬さまが尋ねてくる。
そんな彼女に、私は理由を説明する。
フェンシングは半月前に日本に来てからは、部活の見学で一度した時を除いて休止中だが、とはいえいつ再開しても、あるいは他の運動系の部活を始めても困らないように家での基礎トレそのものは続けていた。
「そう。私は、これ一個でお腹いっぱいになってしまうわ」
「女性であれば、それくらいが普通だと思いますよ。私が大食なだけです」
ジュースの入った紙コップを手にし、ストローで中身を飲みながら私の答えを聞く美冬さま。
先輩にこうした感想を抱くのは失礼だが、小柄な彼女がそうしている姿は、まるで小動物のようでとても可愛らしかった。
そして、その感想は、美冬さまがハンバーガーを小さく頬張る姿を見ても同様である。
「どうしたの?」
「あ、いえ、美冬さまが可愛いのでつい見惚れてしまいました」
じっと見つめていたことに気付いた彼女が、不思議そうに尋ねてくる。
私は、小動物のようで可愛かったからなどと正直に言う訳にはいかないので、慌てて理由を取り繕った。
ごまかすように包み紙を半分剥がして、自らの分のハンバーガーの一つを口にする。
リリアンのお嬢様たちと違って味覚が庶民である私には、それはとても美味しく感じられた。
「か、かわ……」
「申し訳ありません。先輩に向かって可愛いなどとは失礼でした」
すると、怒ってしまわれたのか、顔を真っ赤にした美冬さまが俯いてしまう。
やはり、咄嗟にとはいえ先輩に可愛いと言ってしまったのはまずかっただろうかと思い、慌てて私は謝罪をした。
「い、いえ、可愛いだなんて言われたのは初めてだから戸惑っただけよ。気にしないで」
「お許しいただきありがとうございます」
どうやら、怒っておられた訳ではないらしい。
美冬さまの返事を聞いて、私はほっと胸を撫で下ろす。
それからは、彼女からリリアンのことをいろいろ伺いながら雑談を交わした私たち。
トレーの上が空になっても、しばらくの間彼女との会話は続いた。
まだ食べるのかという感じですが、何故だか書き進めるにつれて綾の食生活がどんどん残念になっていきます。