私がかつて学生だった頃にはもう週休二日が普通になっていたので、半日とはいえ土曜日に登校せねばならないのは少し億劫さを感じてしまう。
そんな土曜日を乗り切って日曜日になると、私は一番近くにある繁華街であるK駅に向かうために電車に乗っていた。
残念ながらまだ指導をしていただける方が見つかっていないということもあって、晴れて先日正式に入部したフェンシング部は今日は休部ということになっていたのだ。
――早く指導してくださる方が見つかればいいのだけれど、フェンシングというスポーツがマイナーな日本では指導できる人物を探すのも難しいのだろう。
私の家の最寄り駅であるM駅はリリアン生が通学のために利用する駅でもある。
男性に混じっても背が高い方に分類される私は、人混みの中でもそれなりに目立つ。
改札を通りホームに立つと、我が校の制服を着た少女たちから明るい声でごきげんようという声をかけられ、私も同じように挨拶を返した。
彼女らは、きっとこれからリリアンに向かい部活に勤しむのだろう。
そして、少女たちとすれ違うようにいつものようにシャツとジーンズ姿の私は電車に乗り込む。
それなりに乗客がいるとは言っても満員というほどではなく、私は空いている席に腰を下ろすことができた。
とはいえ、電車でたった一駅であれば、揺られるのはわずか数分程度のことである。
すぐにK駅に到着した私は、止まった車両からホームへと降りた。
そして改札を抜けて外に出ると、日曜日ということもあって人波に溢れている街を眺めながら、私は駅名の書かれた壁を背に立つ。
少し離れた場所に立っている時計を見ると、時刻はまだ九時五十分。
若干早めに家を出たこともあって、待ち合わせの時間まではまだ少し余裕があった。
リリアンというまた特別な世界にいるとあまり意識することが少ないけれど、目の前に広がっている街の様子は私の記憶にあるそれとはかなり違っている。
私が生きていた時代とは大きく異なっている様子を眺めているのはまるで見知らぬ場所に来たようである意味新鮮で、全く退屈はしなかった。
「ごきげんよう、綾さん。待たせてしまったかしら」
「いえ……私もつい今しがた来たばかりですから」
すると横合いから声をかけられ、返事をしながらそちらを向くとそこにはベージュのセーターとスカートに身を包んだかなり小柄な少女の姿。
思わず見蕩れてしまうくらいに可憐で美しいその少女は、リリアンに入学してから仲良くなった友人の由乃さんだった。
いつものように髪を三つ編みにした彼女は、けれども見慣れた制服とは異なった装いをしていることによって、普段とはまた違った雰囲気を纏っている。
普段は教室で顔を合わせていることもあって私服姿の由乃さんを目にするのはこれが初めてだけれど、それはとてもよく似合っていた。
視界に映った彼女の可憐さに目を奪われて、どきりと胸が高鳴った私は束の間言葉を紡げなくなってしまう。
「綾さん、そういう格好が似合うのね。凄く格好いいわ」
「こうも背が高いと、スカートが似合わないので……。由乃さんこそとても素敵で、思わず見蕩れてしまいました」
けれど、やはり同じようにこちらの私服を見た由乃さんがそう口にしたことで、私は我に返る。
プライベートで私のような格好をしている少女はリリアンでは珍しいのだろう、褒めてくれた彼女に私はそう言葉を返した。
「やめてよ、照れるじゃない」
儚げで美少女である由乃さんの私服姿はあまりに可憐で、同性である私でさえ思わず見蕩れてしまうほどである。
そのことを素直に口にすると、彼女は頬を染めて面映ゆそうに微笑んだ。
「それじゃ、行きましょ?」
「ええ。と言っても、この辺りの地理はよく分からないのですが」
「大丈夫よ、私が案内するから」
「ありがとうございます。でしたら、お任せします」
せっかくの休日なのだし一緒に街で遊ぼうと昨日の休み時間に約束したのはいいけれど、私はこの時代のこの街には詳しくない。
もちろん大きな看板が出ている書店だとか、ハンバーガーチェーンだとか、一目でそれと分かるような店ならば発見できるものの、例えば先日聖さまにご馳走していただいたカフェのような知る人ぞ知るような場所には全くと言って構わないくらい疎かった。
私がそう不安を口にすると、いつものように儚げな笑みを纏わせた由乃さんが安心するようにと言ってくれる。
確かに、土地勘の無い私と違ってずっとリリアンに通っている彼女ならばこの辺りをよく知っているだろう。
身体が強くない由乃さんにエスコートを任せてしまうことに気が引けないと言えば嘘になるけれど、だとしても土地勘が皆無な私が無理に前に立って迷うようなことになってしまうよりはその方がずっといいはずだ。
ということで、私は案内を彼女に任せる形で隣を歩くことにした。
とは言っても、この年頃の少女の街での過ごし方は今も二十年後もそうは変わらない。
人混みをかき分けるようにしながら一直線に少し駅から離れたファッションビルに入ると、エスカレーターに乗って三階に向かった私たちはそこでお互いにどんな服が似合うだろうかと語り合いながらも入居している店舗を見て回る。
それぞれ相手に似合いそうな服を探し合ったりしているのだが、身長のせいでシャツとジーンズくらいしか似合わず可愛らしい服装とは全くと言っていいくらい縁がない私はともかくとしても、まさに絶世の美少女であり非常に可憐な由乃さんに似合う服を探すのはとても楽しかった。
儚げな印象を強く纏いながらも花が咲いたように可愛らしい彼女に着られれば、きっと服にとってもこの上ない幸せなのではないだろうか。
今、由乃さんは私が選んだ衣服を手に試着室に入っていて、彼女がカーテンの向こうから姿を見せるのを待っているところだった。
「どうかしら?」
少しすると、カーテンが開く音と共に着替え終えた由乃さんが試着室から姿を見せる。
彼女が今纏っているのは、先ほど私が似合うと思い選んだ、白地に音符の柄があちこちにプリントされたレースのチュニック。
思っていた通りそれはとても似合っていて、一度視線を向ければ見蕩れてしまって目が離せなくなるくらいだった。
「とても似合っていますよ。素敵です」
「綾さんがそう言ってくれるなら、これを買うことにするわ」
由乃さんに感想を尋ねられた私は、思っていた内容をそのまま言葉にする。
すると、彼女は少し照れたように微笑んだ。
どうやら由乃さん自身も気に入ったようで、それを購入すると言った彼女は再び試着室の中に引っ込むと、元のベージュのセーターに着替え直して今しがたのチュニックを手に出てくる。
私としても、私が選んだ服を気に入ってくれたならばとても嬉しかった。
「先にレジの方に持っていっておきますね」
「ありがとう。私もすぐに追いつくから」
まだ靴を履いている彼女にそう言うと、私はそれを受け取って先に選んでもらっていた私の分の服と一緒にレジへと持っていく。
店内には他にもそれなりに客がいたもののちょうどレジの前には誰も並んでおらず、ショルダーバッグから財布を取り出した私は速やかに会計を済ませることができた。
こうした店では買ったものを入れた袋を店の出口まで行って渡してくれるものだが、その途中で靴を履き終えた由乃さんが合流すると彼女はもう会計が終わっていたのが意外だったのか、少し驚いたような表情を見せる。
「あ、お会計」
「もう済ませておきましたよ。待たせてしまうのは申し訳ありませんでしたし。それよりも、そろそろお昼にしませんか?」
「え、ええ。そうしましょう」
楽しい時間が過ぎるのは早いもので、二人であれこれと衣服を見て回っている間にもうお昼時になってしまったので、何か食べに行こうと提案する。
もうそんな時間になっていることに戸惑ったのか、少し困惑したような表情を浮かべた彼女はそれに頷く。
そして私が袋を受け取って店を後にすると、何か食べるべくビルから出ることにした。
エスカレーターで一階に降りて入り口の自動ドアから外に出ると、四月のまだ涼やかな風が私たちの頬を撫でる。
もうすぐ五月だけれどまだ暑くはなく、それでいて寒すぎもせず、肌に心地いい気温はずっと今日のような日和だったらいいのにと思ってしまうくらいに快適だった。
風が吹いていることを含めれば、空調の効いた屋内よりも屋外の方が涼しいくらいかもしれない。
今日が日曜日であることに加えて、そんな過ごしやすい気候の影響もあってか街並みには非常に人が多く、気を抜けばもみくちゃにされてしまいそうになる。
私は別に構わないけれど、身体が強くない由乃さんをそのような目に遭わせる訳にはいかない。
彼女の隣を歩きながら、一歩分だけ先を進むことで身体を使って由乃さんが歩くためのスペースを確保する。
フェンシングのために鍛えているので物理的な意味での身体の強さには自信があるとはいえ、人波という不特定多数の力に抗うことはなかなか大変だったけれど、私でさえ大変だということは彼女にとってはもっと厳しいということであるので、ここで負けてしまう訳にはいかない。
口頭で進む方向を尋ねながら由乃さんのための空間を確保してエスコートしていた私は、裏路地に入るとようやく一息つく。
「かばってくれてありがとう、綾さん」
「いえ、私がしたくてしたことですから」
人気が無い訳ではないとはいえ、先ほどまでいた通りと比べればそれなりに静かであり、人波に圧されてしまう心配はない。
そのため、私たちはそんな会話を交わしながら元通りに並んで歩いていく。
「ここよ。令ちゃんが前に連れてきてくれたのだけど、ケーキがとっても美味しいの」
比較的静かな通りをしばらく進んでいくと、一軒の店の前で由乃さんは立ち止まる。
ここが彼女のおすすめの店であるようだった。
裏路地という立地もあって、もしも私一人であれば土地勘が無いので決してここまで辿りつくことはできないだろう。
由乃さんが先に扉を開けて中に入ると、その内側に付けられているベルが揺れて鳴る音を耳にしながら私もそれに続いて店内に足を踏み入れる。
私にはこのジャンルの知識が無いので曲名などは全く分からないけれど、妖艶な響きのあるジャズがBGMとして流れている店内は壁やテーブルなどが全て木材で統一されていて、とてもシックな印象をこちらに与えてきた。
一言で感想を述べるならば、決して派手ではないけれど落ち着いていて穏やかな雰囲気であると言える。
特に席に案内されることもないようで、立地的な理由もあってか日曜のこの時間帯でも比較的空いている店内へとそのまま進んだ彼女についていき、窓際のテーブル席に向かう合うように腰を下ろした。
すると、すぐに店員の女性が近付いてきてメニューと氷水が入ったグラスをテーブルの上に置いてくれる。
冊子状になったメニューを広げると、そこには幾種類かの紅茶を初めとした飲み物の名前とケーキの名前と、そして例えばスパゲッティやオムレツやシチューなどの洋食系の料理の名前がそれぞれページごとに並んでいた。
どうやら、それなりにしっかりとした食事もできるカフェといった感じの店であるらしい。
適当に文面を眺めて、私は何を注文するかを決める。
「由乃さんは何になさいますか?」
「私は生ハムと夏野菜のサラダ、アッサムのミルクティー、それから苺のタルトにするわ」
私自身の分の注文を決めたので由乃さんにも何を頼むかを尋ねると、彼女はそう答える。
それを聞いて、私は先ほどの店員の女性を呼ぶ。
「生ハムと夏野菜のサラダを一つ、牛ステーキ七百グラムとライスを大盛りで一つずつ、アッサムのミルクと苺のタルトを一つずつ、それからバイカルのアイスとレアチーズケーキを食後にお願いします」
そして、私は自分の食べるものと由乃さんの分とを注文する。
由乃さんの分はすぐに、私の分の紅茶とケーキは食後に持ってくるように頼むと、店員の方は注文を復唱して調理場の方へと戻っていった。
「七百グラムのステーキって……一人で食べられるの?」
「ええ。鍛錬をしながら武道に必要な身体を維持するには、これくらい食べないといけないので。きっと、黄薔薇のつぼみも普段はこれくらいの量を口にされるのでは?」
私の注文を耳にして、少し呆れたように彼女が尋ねてきたのに対して、そう言葉を返す。
ハードに自分を鍛えていればそれだけカロリーを消費するので、身体を維持するには消費した分と釣り合うだけのカロリーを毎日取らなければならず、逆にそうしなければカロリーが不足した分だけ練習するほど身体が弱っていく状態に陥ってしまう。
昔(と言っても前世の話だけれど)テレビでシンクロの選手は体型の維持のために一日に六千キロカロリーを食事で摂取すると言っているのを見たことがあるけれど、まあそれと同じようなものである。
一般に運動をすることによって筋肉を鍛えることができるとされるけれど、それはそのために消費するカロリーが足りていたらの話であって、もしも摂取カロリーが不足していたら筋肉が分解されてかえって弱くなって逆効果になってしまうのだ。
「そうね。令ちゃんも学校では普通の量しか食べないけれど、家ではそれくらいたくさん食べているわ」
ずっと隣同士で実の姉妹のようにして育った由乃さんは、当然姉である令さまのプライベートな姿もよく知っているのだろう。
家での令さまのことを思い出しているのか、私の言葉に彼女は苦笑を浮かべさせた。
やはり、私が思っていた通りらしい。
令さまのご実家は剣道場だと聞いたけれど、父娘で剣道をしているとなればそれに適した食事のノウハウもあるはずなので、ただ単に練習場所だとかコーチだとかという面だけでなく、栄養という観点で見ても武道をするのに適した環境であると言えるのではないだろうか。
――と、そんなことを話している間に先に由乃さんの分の注文が届けられる。
私の場合は純然たる食事なので紅茶とケーキを後回しにしてもらったけれど、彼女のサラダの場合は紅茶にも合うので一緒に食べることのできるものだった。
「先にいただくわね」
「ええ」
そう言って、彼女はフォークでサラダを食べ始める。
夏野菜という言葉通り、生ハムの他にレタスとトマトとキュウリが盛りつけられたサラダはいかにも夏らしい清涼感のある見た目だった。
「ご一緒してもいいかしら、綾ちゃん」
すると、不意に後ろから私の首の辺りを通って腕が回され、同時にそう耳元で囁かれる。
いきなりのことで咄嗟に防衛的な意味で身体が反応し、胴に回された相手の手首を掴んでそのまま腕をひねり上げそうになったけれど、囁かれた声が聞き覚えのあるものだったので反射的に動きかけた身体をどうにか抑え込む。
「え、江利子さま!?」
当然のことながら、私の背後に立っているということは私の正面の席に座っている由乃さんからはその姿が視認できるということである。
驚いてそう口にした彼女の言葉通り、後ろから私の首筋に抱きつくような形になっているのはリリアンの先輩である黄薔薇さまこと鳥居江利子さまだった。
「はい、構いませんが……何故ここに?」
とりあえず江利子さまの問いかけに頷いた私は、恐らく由乃さんも同じように思っているだろう疑問を尋ねる。
すると、彼女は私の首に巻きつけていた腕を解くとテーブルの傍らへと回り込み、そのまま私の隣に腰を下ろした。
「あら、きっと綾ちゃんは令と一緒に来てここを知った由乃ちゃんの案内でこの店にいるのでしょうけど、その令にこの店を教えた私がここにいるのが不思議かしら?」
「なるほど、この店のことは前々からご存知だったのですね」
私の質問に、どこか楽しそうな表情を普段は物憂げに染まっていることが多い美しい顔立ちの上に浮かべさせた江利子さまが答える。
確かに、それならば駅から見ればいささか奥まった場所にあるこの店を知っているのは当然だろう。
「少し前に、あなたたちがそこの路地に入っていくのを見かけたものだから、きっとこの店にいるだろうと思って来てみたのよ。令もよく食べるけれど、あなたもやっぱりそれくらい食べるのね。見ているだけで胸焼けしてきそうだわ」
そう言葉を続けると、彼女はちょうど私の分のステーキとライスを運んできた店員の方にアールグレイとキャラメルのマフィンを注文する。
じゅうじゅうと油が跳ねる音をさせながら鉄板の上で湯気を立てているそれは、香ばしい匂いと相まってとても美味しそうだった。
けれども、それを見て江利子さまはそんな感想を零す。
確かに、優に五センチ以上の厚さがあるだろうステーキは十代の少女には(というか十代でなくても大半の女性には)いささか重厚すぎて思わず圧倒されてしまうような気分になるのはよく理解できるけれど。
彼女の言葉に由乃さんも同意するような表情を浮かべていることに苦笑しながら、私はナイフとフォークを手に取ると塩胡椒がたっぷりとかかった肉を適当な大きさに切って口へと運ぶ。
すると、分厚い肉に歯を立てたことによって口内に肉汁がじわりと溢れ出し、広がった味は胡椒の香りによって更に引き立てられていてとても美味しかった。
口を閉ざすのがやっとなくらいの厚さであるにもかかわらずほとんど抵抗もなく噛み切ることができるくらいに柔らかいそれは口の中の熱だけで溶けてしまいそうなほどで、フォークで米を掬って口に運んだ私は共に咀嚼してからそれを飲み込む。
いかんせん七百グラムもの重さがある塊なのでまるでブロックか何かのようなサイズがあって相当な量だけれど、私が大食であるということを差し引いてもこれほど美味しければ簡単に全て食べきることができるだろう。
当然これほどの分厚さの肉に全て火を通しきることなど不可能なので、ナイフで肉を切った断面からは火が完全には通っていない鮮やかな紅色が覗き、その際に零れ出した肉汁は熱い鉄板の上に落ちると脂と混ざり合って更に音を立てる。
きっと三薔薇さまや祥子さまならば的確に表現してみせるのだろうけれど、私のあまり優れていない日本語力ではこれ以上正確に言い表すのは難しいくらいに美味しいのだが、残念ながらあまりゆっくりと味わっている訳にもいかない。
何故ならば、由乃さんの分の注文はもう既に全て来ているし、江利子さまもまだ届いていないとはいえマフィンと紅茶であれば食べ終えるのにさほどの時間はかからないだろう。
あまり急ぎすぎて食べ方が下品になってしまう訳にもいかないとはいえ、注文したものの量が最も多いのは見れば一目瞭然だが私であるし、何しろこれを食べ終えた後に紅茶とケーキが来るので、ゆっくりと食べていては二人をずっと待たせてしまうことになるからだ。
そのため、見苦しくならないように気をつけつつも、じっくりと味わうことは二の次にして少しでも短い時間で食べ終えられるようにナイフで切った肉を口に運んでいく。
幸いにもと言うべきか、急いで食べていても柔らかな食感や肉汁の濃厚さなどの味わいの素晴らしさは健在であり、これほどの量があっても途中で飽きたりすることはなかった。
肉が全体の七割ほど私の胃の中に収まり、由乃さんの苺タルトがほとんど無くなった頃、江利子さまが注文していたマフィンと紅茶が届く。
「ねえ、お肉を一口もらってもいい?」
「はい。もちろん」
店員の方が厨房の方へと戻っていくと、それらに手をつける前に彼女がそう尋ねてくる。
もちろん構わないので私が頷くと、こちらを向いた彼女はぷるんという擬音が聞こえてきそうなくらいに潤った小さな唇を開き、思わずぞくりと鳥肌を覚えるくらいに艶かしい紅色の舌を覗かせた。
適当な大きさに肉を切った私はそれをフォークで刺すと、肉汁が服に垂れてしまわないように左手を添えながらも彼女の方に運び、差し出す。
すると真っ白な歯がそっと肉に立てられ、私がフォークを引くとそれはあっさりと引き抜かれて彼女の口の中に残る。
閉ざされた彼女の唇の向こう側で何度も咀嚼され、やがては飲み込まれた。
「ふふ、とても美味しいわ」
「美味しいですよね。――由乃さんも食べられますか?」
「……いえ、私はサラダとタルトでお腹がいっぱいだから」
一切れの肉を食べ終えると、不思議と楽しそうに笑って美味しかったと感想を口にする江利子さま。
それに同意した私は、何故だかまるで睨んでいるように錯覚するくらい真剣な目つきでこちらを見つめる由乃さんに気付くと、彼女も一口食べたいのだろうかと思い尋ねてみる。
けれども、由乃さんはどこか不機嫌そうな口調でそれを固辞した。
私や令さまと違って(と言ってしまうと令さまに怒られそうだけれど)、大半の少女はサラダとお菓子を食べればそれだけでも満腹になるものである。
ステーキは美味しそうだけれどもうお腹いっぱいで食べる余裕が無いことを残念がっているのだろうとその反応を解釈した私は、まさか満腹だというのに無理に食べろと言う訳にはいかないので、次に一緒に食事をする機会があったらこちらから先に勧めてみようと決めた。
ともあれ、まだチーズケーキもあるので残りの分もなるべく早く食べてしまうことにする。
ジャズが流れる落ち着いた雰囲気の店内で生粋のリリアン育ちのお嬢様であるお二人が優雅に紅茶を楽しんでいる横でステーキを食べている私はいかにも場違いだな、などと少し自虐的なことを考えながらも全て食べ終えると、店員の方に言ってあらかじめ注文していた紅茶とチーズケーキを持ってきてもらう。
空になったプレートと皿を下げる際に、私一人でほとんど全て食べたことを見て取ってか驚いた表情を浮かべつつも、彼女は残りの注文を運んできてくれた。
「私がここに来た本題なのだけれど、少しいいかしら、綾ちゃん」
「ええ、構いませんが」
私の分の紅茶とケーキが出てきたことで話を切り出すのにちょうどいいタイミングだと判断したのだろう、ここまで先ほど二人で選んで買った服についてなどの特に当たり障りのない世間話しかしていなかった江利子さまが、ようやく本題を切り出す。
それも令さまの妹、すなわち黄薔薇ファミリーの孫に当たる由乃さんにではなく山百合会の正式メンバーではない私に。
一体何だろうと少し不思議に思いながらも、私は彼女の言葉に頷いた。
「この後、綾ちゃんの家に遊びに行かせてもらいたいのよ。どう?」
「今は由乃さんと遊んでいる最中なので……それが終わった夕方頃からでもいいのならば構いませんが」
江利子さまの本題というのは、私の家に来たいというものらしい。
もちろん来られて困るということなど無いのでそれ自体は何も問題ないどころか嬉しいのだけれど、いかんせん今は昨日から由乃さんと約束していた買い物の最中である。
彼女と街を歩くこととて私にとってはとても楽しいことであるし、それを途中で切り上げるというのは明らかに筋が通らないので、私は由乃さんと別れた後でなら構わないと告げた。
「それなら、もし構わないのならこれから綾さんの家に一緒に行きたいのだけれど……。どうかしら?」
「私は大丈夫ですが、ここで買い物を切り上げてしまっても構わないのですか?」
「もう服は買ったし、綾さんのお家に遊びに行くのも楽しそうだから」
「でしたら、ここを出たら私の家に行きましょうか」
すると、江利子さまに気を遣ったのか、会話を聞いていた由乃さんがそう提案する。
私としてはそれでも何も問題は無いのだけれど、そちらは構わないのかと彼女に尋ねると、そんな答えが帰ってきた。
二人が構わないのならば障害はない。
そう口にすると、私は香りと味が豊かなアイスティーを飲んで口腔に残っていたステーキの脂を洗い流して味覚を切り替え、二又のフォークを手に取って冷たいチーズケーキへと手を伸ばした。
側部で柔らかな手応えのそれをちょうどいい大きさに切断し、そしてそっと刺して持ち上げ、口へと運ぶ。
「先ほどのステーキもそうでしたが、こちらもとても美味しいですね」
先ほどまでじゅうじゅうと脂の跳ねる音をさせる熱いステーキを口にしていた舌には一転して冷たさが広がり、それと同時にクリーム状になったチーズの濃厚な香りと甘みを覚える。
もちろんただチーズ部分が美味しいばかりではなく、さくさくとある程度の食感がありながらもバターによるしっとりさを保っている生地がチーズの風味を脇役としてより盛り立てていた。
一口含んですぐに分かったその美味しさに、飲み込んだ私は感嘆の言葉を口にする。
「そうね。ここのケーキはとても美味しくてお気に入りなの。あなたたちも気に入ったようだけど」
「はい。お二人ともありがとうございます」
私の言葉に、江利子さまはそう言って私と由乃さんの方に微笑みを向ける。
彼女のおっしゃる通り、料理もケーキも紅茶もとても美味しいこの店のことを、私はすっかり気に入っていた。
「あ、綾さん、よければ一口交換しましょう?」
「ええ。そちらも美味しそうですし」
そして、どこか緊張したような面持ちの由乃さんがまだ手元に残っているタルトと私のチーズケーキを一口交換し合おうと提案する。
カスタードの層に乗せられた赤い苺の上に透明なシロップがかかったタルトはとても美味しそうで、こちらとしてもぜひ一口いただきたいところだった。
その申し出に頷いた私は今しがた口にした分よりも少し大きめに切ると、フォークの先端に刺したそれを左手を下に添えつつ彼女の方に差し出す。
ケーキが由乃さんの口に含まれると、こちらも同じように差し出されていたタルトを口に含む。
甘酸っぱい苺の風味、そしてそれに絡むさくさくとした土台の食感とカスタードとシロップの甘味。
舌の上に広がったそれはまさに絶妙な味であると言うに相応しかった。
由乃さんも同じ感想なのだろう、どこか嬉しそうな表情を見せている。
三人で会話を楽しみながらもケーキと(お二人はケーキではなくてタルトとマフィンだけれど)紅茶を味わっていると、やがて皿とカップは空になっていた。
「それじゃ、そろそろ行きましょうか」
全員が食べ終えたことを確認すると、江利子さまが口にする。
立ち上がりながら伝票へと手を伸ばそうとした私だけれど、後から私の隣に座った江利子さまの方がテーブルの通路側に置かれていたそれへの距離が物理的に近く、ゆえに目と鼻の先で彼女に先に取られてしまう。
思わず伝票の入った筒の方に向けていた顔を上げて江利子さまの方を見ると、彼女は悪戯げな笑みをこちらに返す。
あまりに美しい笑みで見つめられて、私はどきりとして一瞬声を奪われてしまっていた。
そのまま、伝票を手にした江利子さまはレジの方へと向かって歩いていく。
「あ、あの」
数秒遅れて、後ろ姿に向かってようやく声をかけた私だけれど、振り返った彼女が浮かべていたのは今しがた向けられたものと同じ笑み。
これが三薔薇さまのお一人としての貫禄というものだろうか、美しい表情はこちらに有無を言わせることを許さないようなもので、それ以上何も言えなくなった私の声に返事をすることなく再び前に向き直った江利子さまは鞄から財布を取り出すとレジの前に立った。
「……どうしたの?」
「いえ、何でもありません」
突然目の前で立ち止まった私のことを訝しんでか、複雑そうな表情を浮かべて隣に立った由乃さんに訝しげな目を向けられる。
江利子さまの美しさに見蕩れてしまっていたと正直に言うのも気恥ずかしかったので何でもないと言ってごまかすと、後で必ず支払いを済ませていただいたお礼を言おうと心に誓いつつ、由乃さんと共に先に店を出たのだった。