月と薔薇   作:夕音

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 取り留めのない雑談をしながらも全員のケーキと紅茶が無くなると、私たちは店を後にする。

 比較的静かな裏路地を抜けるとまた大きな通りに戻ることになるのだが、そこは相変わらず多くの人で埋め尽くされていた。

 由乃さんのことは江利子さまがかばってくれるだろうから少し安心だけれど、とはいえこの凄まじい人波の中でお二人がもみくちゃにされてしまわないよう、私は行きと同じように少し前を進み身体を張って彼女たちが歩くためのスペースを作り出す。

 そしてどうにかK駅へと辿りつくと、やはり黄薔薇ファミリーの知名度はとても高いようで、同世代の少女から時折ごきげんようという声をかけられる。

 私服であるし、まだ私が顔を覚えているリリアン生の数は限られているので声をかけられるまでそうと気付かないことがほとんどだったけれど、当然というべきか日曜日であるのでこの街へと遊びに来ている方も多いようだった。

 ともあれ、それぞれ徒歩や自転車やバスで通学しているために三人とも定期など持っていない私たちは券売機で切符を購入し、改札を通る。

 ちょうど到着した電車に乗り込むと、車内はそれなりに空いていたので端に由乃さん、その次に私、私の左隣りに江利子さまの順で座席に腰を下ろした。

 

「綾ちゃんの家はどの辺りなの?」

「最寄りはM駅ですよ。リリアンからあまり離れていないので、いつもは自転車で登校しています」

 

 リリアンの校則の特徴として、生徒が自分で車やバイクを運転して登校することは禁止されているものの、登下校時に家の車で送り迎えしてもらうことへの規制は存在していない。

 かなりの大企業の令嬢などもリリアンには通っていて、娘を電車やバスなどの公共交通機関で登下校させることに両親が主に安全上の理由で難色を示す場合もあるので、恐らくはそのような保護者への配慮という意味もあるのだろうけれど。

 江利子さまは駐輪場がある正門ではなく裏門の方から下校しているそうで、ご家族に車で送り迎えされることも多いようなので、リリアンから少し離れた場所にご自宅があるのだろう。

 逆に、徒歩通学だという由乃さんのお宅(と、その隣にあるという令さまのお宅)は私の家から自転車でそう時間がかからない程度に近いのかもしれない。

 K駅とM駅の間は一駅なので、そうして会話を交わしているとすぐに電車が停まり扉が開く。

 走り出してしまわないうちにホームに下りると改札を出た私は、一度駅のすぐ隣にある駐輪場に向かって家からここまで乗ってきていたいつも通学に使っているのと同じ自転車を回収する。

 

「お待たせしました。こちらです」

 

 もちろんお二人は徒歩なので自転車には乗らず、手で押したまま彼女たちを案内していく。

 この辺りは基本的に住宅街なので、駅から少し離れればすぐに静けさに包まれる。

 まだ買ったばかりでとても軽い自転車のチェーンが回るからからという音を聞きながら、私たちは雑談を交わし歩いていた。

 所詮自転車で通える程度でありあまり距離があるという訳ではないので、ちょうどリリアンとは駅を挟んだ逆側にしばらくの間進んでいくと、十分ほどして私の自宅の前に到着する。

 

「立派なお家ね」

「ありがとうございます。私も初めて見た時は驚きました」

 

 私が現在生活しているのは、私がリリアンに合格することを見越して(何でも母曰く卒業生の血縁者は編入試験で優遇されるらしい)一年以上前から工事を始めて一月にようやく完成したというかなり大きな一軒家だ。

 家というよりも、大きさ的には屋敷と言った方が正確かもしれない。

 イギリスを後にするための準備を終えて日本に来た時、初めてこの屋敷を目にした時は大きさに驚いたことを覚えている。

 それを見て感想を口にした江利子さまだけれど、由乃さんもそうだが建物の大きさに驚いたような様子が全く無いのは、彼女たち自身が生粋のお嬢様だからなのだろう。

 まあイギリス暮らしがずっと続いていて引っ越してきてから二月も経っていないので、まだあまり慣れていないというか帰るべき場所だという感じがしないのだが、ともあれ私は鍵を差し込んでスライド式の門扉を開ける。

 お二人を促すと最後に私が敷地内に入ってまた元通りに門扉を閉めて鍵をかけ、そして門の脇に自転車を停めた。

 

「どうぞ、お入りください」

 

 玄関の鍵を開けると、扉を開けて先に彼女たちに入ってもらう。

 そしてそれに続いて中に入り鍵を閉めると、履いていたスニーカーを脱いでお二人をリビングへと案内する。

 

「そちらのソファーにどうぞ。麦茶をお出ししますので」

 

 リビングには両親が買ったベッドとしても使えるような巨大なサイズのソファーが置いてあり、柔らかくて座り心地抜群なそこに腰を下ろしてもらうと私は冷蔵庫で冷えている麦茶をお出しするためにキッチンへと向かう。

 冷蔵庫を開けると麦茶で満たされた冷水筒を取り出して透明なガラスのコップへと中身を注ぎ、そしてトレイに載せてリビングへと戻る。

 

「ご両親は今日はお仕事でいらっしゃらないの?」

「いえ、リリアンの高等部への編入に合わせて、私だけ先に日本に引っ越してきたのです。両親は来年の春まではイギリスに留まることになっています」

 

 私が麦茶の入ったコップをお二人の前に置いていると、室内の様子を見回した江利子さまにそう尋ねられる。

 恐らくは、リビングに生活感があまり無いことと、日曜日であるにもかかわらず誰の出迎えもないことに違和感を覚えられたのだろう。

 あるいは、玄関に靴が私のもの数個しか置かれていないのを見て気付かれたのかもしれない。

 彼女に対して、私は現在は一人で暮らしているのだと説明する。

 両親はまだイギリスで仕事をしていて片付けなければならないことも多いのだが、それらが全て済むのを待っていてはリリアンへの編入に間に合わないので、とりあえず私一人だけ日本に来て生活することになったのだ。

 そこまでして(特に母が)私をリリアンに入学させようとする理由が分からずに当時は首を傾げたものだったけれど、実際に学園の雰囲気を味わった今はとてもいい場所だと思えている。

 

「それじゃ、綾さんはあと一年くらいは一人暮らしなのね」

「そういうことになりますね。これだけ広くても、一人だとキッチンと自分の部屋だけで大抵の用は足りてしまうのですが」

 

 由乃さんの言葉に、私は苦笑して言葉を返す。

 これだけ広い屋敷であっても、一人で暮らしていてはキッチンと自室とトレーニングルームと書庫、そしてせいぜいリビングだけで十分に生活できてしまうので、建物全体で見れば未だ入ったことさえ無い部屋の方が多いくらいだった。

 そのせいもあって、広さに比して物が極端に少なく、全体的に非常に生活感が薄くなってしまっているのだけど。

 何しろ、本来この大きさの屋敷であればメイドさんを雇って掃除などをしてもらわなければ維持など住人だけではとても不可能なのだが、住んでいるのが今のところ私一人なので使っている範囲が狭すぎてその必要すら無いくらいなのだ。

 きっと両親が帰ったらメイドさんを雇うことになるのだろうけれど、そうした理由もあって今のところ屋敷内で生活しているのは私だけだった。

 

「寂しくはないの?」

「こちらに来てからも国際電話で週に一度は両親と話していますし、冬になればまた一緒に暮らせるのが分かっていますからね。それに、由乃さんも江利子さまもそうですが、リリアンに登校すれば山百合会の皆さんやクラスメイトの皆さんが仲良くしてくださいますし」

 

 箱入りのお嬢様であるリリアン生の方々にとっては、一人暮らしというのは縁遠く想像が難しい話なのかもしれない。

 珍しく少し驚いたような表情を浮かべた江利子さまの隣で、由乃さんに寂しくはないのかと尋ねられる。

 確かに岸本綾になってからは一人で暮らすのはこれが初めてだけれど、かつてOLをしていた時は一人暮らしをしていたので慣れているというのもあるし、家族とは国際電話でイギリス時代の友人たちとは手紙で今でも連絡を取り合っている上に、それこそこの場にいるお二人のようにリリアン生の方々が仲良くしてくださっているので特に寂しいと感じたことはなかった。

 休日でありフェンシング部も休みの今日だって、こうして由乃さんや偶然だけれど江利子さまがいてくださっているのだし。

 

「さ、寂しくないのなら安心したわ」

「ご両親がいらっしゃったらご両親にお願いしようと思っていたのだけど、今晩泊めてもらえないかしら。父と喧嘩してしまって、今日は帰りたくないの」

 

 すると、寂しくないという答えが意外だったのかどこか動揺したような由乃さんの様子を微笑ましげに見つめ、それからこちらに視線を向けた江利子さまにそう依頼される。

 ご父君と喧嘩をされているために帰りたくないとのことだけれど、私と由乃さんがあのカフェに続く裏路地に入っていってから江利子さまが不意に私に抱きつくような形で声をかけてくるまでは少し時間的に間隔が開いていたし、恐らくご父君と一緒に外出され街を歩いている時に私たちの姿を見かけ、それから何らかの理由で喧嘩になって私たちのところに来られたのではないだろうか。

 それを聞いて、カフェでいきなり私の家に来たいとおっしゃられた理由が理解できた。

 私としてはもちろん泊まられること自体は構わないし、むしろ一人暮らしには広すぎる屋敷が賑やかになると思えば大歓迎なのだけれど、あの時ご父君が江利子さまのことを追いかけてこられる様子が無かった(面識がないのでもしかすると私がそうと気付かなかっただけかもしれないが)ということは人混みに紛れて彼女の姿を見失ってしまっている可能性が考えられるので、もしそうだとしたら今頃気が気ではないのではないだろうか。

 江利子さまがご無事でここにおられることと今晩泊まられることを伝えるためにも、ご実家への連絡はしなければならないと思う。

 

「もちろん泊まられるのは構いませんが、ご実家に連絡された方がいいのではないでしょうか」

「……大丈夫よ。別れ際に、父に友人の家に泊まると言ってきたもの」

 

 けれども、私がご実家のことに触れると彼女は少し不機嫌そうにそう口にされる。

 まあ、江利子さまがそうおっしゃるのならばこれ以上無理強いする訳にはいかないのだけれど、とはいえ一晩をここで過ごしていただくからにはご家族にその旨を私から伝えておく必要があるだろう。

 だがもちろん先方の電話番号など知らないし、彼女に尋ねても今の様子では答えてくださるとは思えないので、どうしたものかと表情から考えを悟られないように気をつけつつ思いを巡らせる。

 果たしてご存知かどうかは分からないけれど、後でこっそりと由乃さんに尋ねてみようか。

 

「そうおっしゃるなら……。明日登校すれば、とりあえずご無事であることははっきりするでしょうし」

 

 もしかすると後で江利子さまに怒られるかもしれないと思いつつ、私はそう答えを返しておくことにした。

 

「ありがとう。せっかくだから、あなたの部屋に行ってもいいかしら?」

「はい。案内しますよ」

 

 少し安心したように笑みを浮かべた彼女は、こちらにそう提案する。

 ふ、と笑った江利子さまはとても美しくて、思わず見蕩れてしまいそうになった。

 

「それなら、早く行きましょ」

 

 拒む理由は存在しないし構わないと答えると、ソファーから立ち上がった由乃さんが急かすようにそう口にされて、私は美しい表情から目線を離す。

 お二人とも、そんなに私の部屋が気になるのだろうか。

 別に大したものなど何も無い部屋なのできっと期待には添えないだろうけれど、ともあれ既に空になったカップをトレイの上に置いてキッチンへと持っていくと、リビングに戻った私は彼女たちを自室へと案内することにする。

 私の部屋は二階にあるので、リビングを出て玄関とは反対側にしばらく進んだ先にある階段を上り、二階へと向かう。

 余っている部屋の多さを考えれば別に二階を使う必要など無いのだけれど、トレーニングルームや書庫も一階にあるので一階の空き部屋を自室として利用するとせっかくの二階を使うことが全く無くなってしまうため、別に感覚がお嬢様のそれではない私的に何となく勿体ないように感じたのでそちらの部屋を使っているのだ。

 階段を上りきると、すぐ右手にある部屋の三つ先にある扉のドアノブに手をかけて開く。

 わざわざ遠い部屋まで運ぶのが面倒だったために階段の一番近くの部屋に引っ越しの際に運び込んだ家具などを押し込んで半ば物置のようにしているので、この部屋を私は居室として利用していた。

 

「綾ちゃんらしい部屋ね」

 

 先に入室した江利子さまが、室内を見回してそう感想を零す。

 家具である勉強机と箪笥とベッドとドレッサーと本棚を除けばラジカセと書籍の類くらいしか置いていない室内は我ながらいささか殺風景で、確かに私らしいといえばその通りかもしれない。

 ぬいぐるみもポスターも無いので、お二人のような年頃の少女には退屈な空間かもしれないけれど。

 およそ日本の女子高生とは縁遠い部屋に足を踏み入れた由乃さんはふかふかで柔らかなベッドの端に腰を下ろし、一方で江利子さまは何か興味が惹かれたのかまっすぐに本棚へと近付く。

 

「ラテン語の本が多いのね」

「そうですね。向こうにいる頃、古典の授業で触れてからそうしたものを読むのが好きになったので。江利子さまはお読みになれるのですか?」

「ええ。だって、ラテン語が読めるなんて何だか面白そうじゃない。それで以前勉強してみたことがあるのよ」

 

 自分が通っていた訳ではないので恐らくの話になってしまうけれど、私以外にラテン語の聖書を持っている人がいなかったことを考えても、リリアンの中等部にラテン語の授業など無いはずだった。

 私の場合は授業で教わっていたけれど、それを独学で身につけてしまわれるとはさすがは三薔薇さまのお一人だと感銘を覚える。

 そして、その理由が面白そうだからというのも何とも江利子さまらしい。

 

「読んでみてもいいかしら?」

「はい、もちろん」

 

 拒絶する理由など何も無かったので承諾すると、彼女は本棚の中から本を一冊取り出す。

 そして、由乃さんと同じように私のベッドへと腰かけた。

 ――フェンシングのために身体を鍛えていて筋肉質な私とは根本的に体重が違うためか、お二人とも心なしか私が同じように座った時と比べて沈み込み方が穏やかな気がする。

 

「ねえ、綾さん、あれってゲーム機?」

「ああ、それはメガドライブですね。もしよければ、何かゲームをされますか?」

 

 ベッドの縁に腰かけて足をぶらぶらと揺らしている由乃さんの姿はとても可愛らしく、眺めていて微笑ましい気分を覚える。

 ……もっとも、私がそんなことを思っていると知ったら怒られるかもしれないけれど。

 内心で私がそんなことを考えていると、ディスプレイを置いた棚にある機械を見つけた由乃さんがそう尋ねてくる。

 いかにも、それはメガドライブだった。

 X BOXやPS3などの(この時代から見て)未来のゲーム機を知っている私にとってはある種骨董品のような感覚というか、前世の私が生まれる前に発売されたものだったりするのだけれど、何しろセガサターンとプレイステーションが発売されるのが今年なのだ。

 もっとも、両機共に冬の発売なので今はまだ出回っていないのだけれど、そのことを考えると時代の流れというものを痛感することになる。

 この時代、日本では何年か前に発売されたスーパーファミコンが圧倒的な人気を博しているようだけれど、ヨーロッパではむしろメガドライブの方が人気があった。

 私もイギリスにいる時にそれを購入していて、たまに遊んでいたのである。

 

「ええ、ぜひしてみたいわ。どんなソフトがあるの?」

「そうですね、レースゲームはいかがでしょうか」

 

 ただでさえメガドライブは日本ではスーパーファミコンとPCエンジンの影に隠れるような形になっている上に、リリアン育ちで生粋のお嬢様である由乃さんには存在こそ知っていてもゲーム機とはあまり縁が無いのだろう。

 どんなゲームがあるのかと尋ねてきた彼女に対して、私はレースゲームを提案する。

 もしかするとテレビゲームをしたことがないかもしれない由乃さんにとってもルールが分かりやすいだろうし、何よりレースゲームならばRPGなどと違って複数人でのプレイが可能だからだ。

 幸いにしてマルチタップもあるので、5人まで同時にプレイすることができた。

 イギリスにいた頃は、向こうの友人たちとレースゲームや格闘ゲームで散々盛り上がったことを思い出す。

 

「やってみるわ。操作は教えてね?」

「もちろんです。――江利子さまはいかがなさいますか?」

 

 いずれにせよ、ただでさえ日本では影が薄いメガドライブのしかもヨーロッパの現地ベンダーが販売している英語版のソフトなど間違いなくプレイしたことが無いだろうし、初めてならば操作が分からないのは当然である。

 彼女の言葉に頷くと、私はベッドの上で分厚い本を広げて視線を落としている江利子さまに視線を向けて尋ねた。

 

「私は見ておくことにするわ。後で参加するかもしれないけど」

「分かりました。では準備しますね」

 

 江利子さまはまずは私と由乃さんのプレイを見学するとのことなので、私は本体の方に近付くと表示用のディスプレイの電源を入れ、カセットを差し込んで本体の電源も入れてコントローラーを用意する。

 ベッドの方に戻ると、二つ持っていたそれの片方を由乃さんに手渡した。

 そのまま彼女の隣に腰を下ろすと、ディスプレイには起動画面が映し出される。

 それから数秒後、スピーカーからBGMが流れ始めデモムービーが再生された。

 ボタンを押してそれを飛ばすとタイトル画面になり、私はメニューの中からマルチプレイを選択する。

 

「初めてなら左上の赤い車がおすすめです。衝撃には強くありませんが、スピードは一番出るので」

「えっと……これね」

 

 レースに使用する車を選択する画面になるが、このゲームではそれぞれの車は単に外見が違うだけではなく性能も異なっている。

 車体が軽い分スピードは出るけれど体当たりに弱い車、逆に車体が重いので重心は安定しているけれどスピードはそれほどでもない車、そのどちらにも優れていないけれどニトロを発動していられる時間が長い車など。

 初めてプレイされる方にはアクセルを踏んでいる時に出せる速度が最も速い赤のレーシングカーが一番適していると思うので、それを薦める。

 由乃さんが選択し終えると、私はスピードでは彼女が選んだものに比べて少し劣る車を選択した。

 続いてコース選択で一番難易度の低いコースを選ぶと画面は一瞬暗転し、ロード中を告げるものへと変化する。

 

「Aボタンがアクセル、Bボタンがブレーキ、Cボタンでニトロ発動、十字キーがハンドル操作です。由乃さんが操作に慣れるまでは私からはしませんが、相手の車に車体をぶつけて妨害することも可能ですよ。角度が悪いと逆に弾き返されてしまいますが、上手くぶつかると相手をコース外に弾き飛ばすことができます」

 

 ローディング画面が表示されている間に、私はゲームの操作法と概要を手早く由乃さんと、後で参加するかもしれないという江利子さまに説明していく。

 この時代の技術水準的な理由もあって、操作はさほど複雑なものではない。

 何度かプレイしていればすぐに慣れることができるだろう。

 少しするとコースと車両のグラフィックが表示され、レース開始を知らせる五秒のカウントダウンが始まる。

 私がAボタンを押すと、現実のものと比べるといささかシュールな趣きのエンジン音がスピーカーから響き渡った。

 カウントダウンがゼロになると、由乃さんと私の車が同時にスタートラインを切る。

 車体の性能に差があるので当然ながら、私よりも由乃さんの方が少しだけれど先を走る形になっていた。

 とはいえ、彼女がこのゲームを(もしかするとテレビゲーム自体を)プレイするのは初めてなので、操作技術では当然私の方が勝っている。

 カーブで壁にぶつかりそうになった由乃さんが慌ててブレーキボタンを押している隙に、私はあっさりと追い抜かす。

 

「あっ、そんな!」

 

 隣でコントローラーを操作している彼女が、思わずといった感じでそう小さく叫ぶ。

 私に少し遅れてカーブを曲がり終えた由乃さんは、エンジンを急加速させて後ろから猛然と追跡してきた。

 このコースは難易度が低いので、他のコースと比べてカーブが少なく直線がずっと多い。

 もちろん車体が並んだ瞬間にわざと体当りすれば弾き飛ばすこともできるのだけれど、まだそれはしないと決めていたので私はあっさりと抜き返されてしまう。

 その後も抜きつ抜かれつであまり引き離されないように気をつけながら後ろに続いていた私は、最後のカーブに差しかかる少し前にCボタンを押してニトロを発動させる。

 ニトロの発動時間は基本的に車種ごとに固定されているけれど、発動させた状態でブレーキを踏まず壁にもぶつからずにカーブを曲がりきった場合には少し時間が長くなるというシステムがある。

 それを利用すべく、私は瞬く間に数百キロもの速度へと達した車体をカーブへと突入させ、十字キーの右を目いっぱいに押して壁すれすれをぎりぎりで曲がりきった。

 私が操作する車がロケットのように後方へと火を噴射しながら猛スピードで迫ってくるのを見て、由乃さんも慌てて同じようにニトロを発動させる。

 この先にはもうカーブは無いので、つまり純粋にどちらが先にゴールへと到達できるかという勝負になるのだけれど。

 

「ど、どうして!?」

 

 どちらの車両もニトロを発動させた時の最高速度は変わらないので、元々の位置関係を反映してわずかに先を進んでいた由乃さんの車だったが、こちらよりも早くニトロの効果が終了したのを見て小さく悲鳴を上げる。

 元々普段の最高速が最も速い彼女の選んだ車はニトロの持続時間が他よりも短めに設定されている上に、カーブを曲がりきったために私の持続時間が通常以上に伸びていたので、後から発動させたにもかかわらずこちらより先に終わることになったのだ。

 当然、あまり距離が離れていない状態で片方だけがニトロを使っていない状態になれば、彼我の距離は瞬く間に離れることになる。

 追い抜いた私の車のニトロが切れる頃には、いくら由乃さんの車体の方が加速性能に優れているとはいえ既に逆転不能なくらいに距離が開いていた。

 私がゴールすると、五秒ほど遅れて由乃さんの車もゴールへと到達する。

 

「危ないところでした」

 

 初めてプレイするとなれば繰り返し壁に車をぶつけてしまってもおかしくはないけれど、由乃さんは三度目のカーブに差しかかる頃にはもう減速することなく曲がりきることができるようになっていた。

 体当たりを仕掛けないようにするというハンデがあったこともあって、もう少し余裕を持って走ることができるだろうと思っていた私は予想以上に危ない勝負になったことにそう呟く。

 

「綾さんはゲームも上手いのね」

「イギリスにいた頃はよく遊んでいましたから。――次はもう少し難しいコースを選んでも構いませんか?」

「ええ。次こそ勝つわ」

 

 ぎりぎりで追い抜かれたのが悔しかったのかもしれない、いつも通りの淑やかな笑顔を浮かべながらも、答えた彼女の瞳には熱いものが宿っていた。

 レースが終わると、再度車を選択し直すか車はそのままでコースのみを変えるかを選ぶことができる。

 後者を選ぶと、今度は今しがたのものよりもカーブの数が多いコースを選択したのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 さすがは黄薔薇のつぼみの妹(編入試験に合格した後に送られてきたパンフレットに振り仮名無しでこう書かれていた時にはどう読めばいいのか分からなかったのを思い出す)と言うべきか、由乃さんの上達は非常に早かった。

 コースの難易度を上げながら四度ほどレースを終えた頃にはもうこちらからは体当りしないようにするというハンデをつける必要が無くなっていたのである。

 もちろん、それを解禁した直後の勝負では車体をコース外に弾き飛ばすという直接的な攻撃に対応できずにこちらが圧勝したものの、それさえも次の周にはもう逆に彼女の側から攻撃してくるようになっていた。

 

「楽しそうね」

「きゃっ!?」

 

 由乃さんとの白熱したレースに熱中していた私は、突然後ろから抱きつかれ、同時に耳元に息を吹きかけられて思わず悲鳴を上げる。

 フェンシングをしているので普段なら他事をしていても他人の気配を察知することくらいできるけれど、今いるのが自分の部屋でしかも由乃さんと江利子さましかいないこともあって、そちらに全く注意を払っていなかったのだ。

 言うまでもないことだが、由乃さんが隣で私と競い合っている以上犯人は消去法で江利子さましかいない。

 注意が彼女へと逸れたことで私が操作していた車は壁へとぶつかり、そのまま大きく引き離されてしまう。

 

「どうなさいましたか?」

 

 抗議をしたいところだけれど、江利子さまを放置して夢中になっていた私にも非がある。

 コントローラーを膝の上に置いた私は、動揺を抑え込むと彼女へと尋ねた。

 

「代わってもらってもいい? 由乃ちゃんも随分上手くなったようだから」

「コントローラーならまだあるので用意します。五人まで同時にプレイ可能なので」

「いえ、由乃ちゃんと勝負してみたいの」

 

 マルチタップを利用すれば五人まで同時にプレイ可能であり、コントローラーも五個あるので江利子さまが混ざっても問題ない。

 私がそう答えると、それに対して彼女は由乃さんと勝負がしたいのだと答えた。

 

「構いませんが……江利子さまはこのゲームをしたことがおありですか?」

「いいえ。メガドライブ自体、実物を見たのは今日が初めてよ」

「今の由乃さんはかなり上達されているので、失礼ながらすぐには互角に走るのも難しいと思いますが」

「心配ないわ。二人のプレイは見ていたから」

 

 勝負をされたいということなら交代するのは構わないけれど、その前にこのゲームの経験について尋ねてみる。

 すると、全くの初めてだという江利子さま。

 他の三薔薇さまと同じく彼女もまたただ美しいだけでなく極めて才覚に優れたお方なのを知っているので、きっとすぐに上達されるだろうとは思っていたが、いくらなんでも初見で相当に上達している由乃さんと勝負をするのは難しいだろう。

 素直に無謀だと伝えた私だったが、それに対して江利子さまは問題ないとおっしゃられた。

 普通に考えれば彼女が勝つことはあり得ないのだけれど、自信に満ちたそのお姿を見ているともしかすると、と思えるのは黄薔薇さまとしての威風や気品ゆえだろうか。

 ともあれ、私からコントローラーを受け取った江利子さまは車両選択の画面を表示させる。

 

「綾ちゃん、一番重い車はどれ?」

「右下から四つ目の茶色の車ですが……それは扱いが」

「ありがとう。一番難易度が高いコースは?」

「Last Mountainですが、それも」

 

 一番重い車は車体をぶつけ合っての肉弾戦では当然無類の強さを発揮するけれど、その反面スピードがかなり遅い。

 工夫しなければ使いこなせないのでとても初心者向きとは言えないのだが、私の答えを聞くと彼女は迷うことなくそれを選択する。

 これまでの私との勝負の中で由乃さんは既に自分に適した車両を見つけていて、二人が選択し終えると画面はコース選択に変わった。

 同じように最も難しいコースはどれなのかと尋ねられたので答える私だが、やはり江利子さまはそれを選んだ。

 Last Mountainは文字通り山中に作られたコースという設定なのだが、ひたすらカーブの連続で直線など皆無に近く、しかもコースの外は崖なのでもしそこから落ちてしまったらペナルティとして十秒はコースに戻れないというステージである。

 崖を抜きにしてもかなり難しいコースなので、初見ではとても走り切れないのではないかと心配になってしまう。

 ロード中を告げる画面に変わると、江利子さまが口を開いた。

 

「由乃ちゃん、お世話になっているのだから、私たちが夕食を作るべきよね?」

「そうですね」

「え、江利子さ……んむ」

 

 ただでさえ昼食の支払いをさせてしまっているにもかかわらず、この上夕食までも作っていただくのは申し訳がない。

 慌てて異論を唱えようとした私だが、楽しげな笑みを浮かべた江利子さまの指が私の唇に押し当てられたことで言葉を封じられてしまう。

 

「このレースに勝った方が夕食を作るというのはどうかしら」

「いいんですか? 私が勝つと思いますけど」

「ええ。もしあなたが勝っても文句は言わないわ」

「分かりました。やります」

 

 抗議できない私の横で、お二人の間でどんどん話が進んでいく。

 既にかなり上達している由乃さんは自信があるようで、本当にいいのかと確認をしたが、江利子さまはやはり自信に満ちた様子で頷いた。

 由乃さんが賭けを受け入れると、ちょうどロードが終わり画面にはコースが映し出された。

 それを受けて江利子さまが指を離してコントローラーを握り直したために私はまた言葉を発せられるようになったものの、既にカウントダウンが始まっている以上このタイミングで口を開いて集中しているお二人の気を散らせてしまう訳にはいかない。

 私にはレースの行方を見守ることしかできなかった。

 そしてカウントがゼロになると、二人の操作する車が同時にスタートする。

 スタートが同時であると言っても、それぞれの加速性能にはかなりの差があるためにすぐに由乃さんの車が頭一つ分前に躍り出る形になった。

 

「えっ!?」

 

 だが、順当にリードしたはずの彼女の口から悲鳴が零れる。

 由乃さんが完全に前に出たことを確認した江利子さまがその瞬間にニトロを発動させ、後ろから相手の車へと思いきり衝突したのだ。

 江利子さまが操る車は速度に劣る代わりに肉弾戦では最強を誇るものであり、ぶつかれば果たしてどちらが勝つかは言うまでもない。

 勢いよく弾き飛ばされた由乃さんの車はそのまま崖から落下していき、十秒のペナルティが課される。

 ――何が起こったのか分からず呆然としている彼女と、楽しげな笑みを崩さない江利子さま。

 恐らく、江利子さまは初めからこの戦術を使う気だったのだろう。

 ある種の奇襲だけれど、極めて効果的なのは確かだった。

 極めて優位に立った彼女だが、そのままニトロを切ることなく全速を保ったまま目の前のカーブへと突っ込んでいく。

 プレイするのが初めてだということで、曲がりきれずにまっすぐ突き抜けて崖から落ちていく予想しか浮かばなかった私だが、次の瞬間には江利子さまが操作する車は一切速度を落とすことなく落下すれすれでカーブを曲がりきった。

 

「……凄い」

 

 このステージではカーブの先にあるのは更なるカーブである。

 けれども彼女は一度たりともブレーキを使うことなくそれらを次々と突破していく。

 本当に初見なのかと疑いたくなってしまうような、私などより遥かに素晴らしいテクニックを披露する江利子さまに、思わず感嘆の言葉が零れる。

 このゲームではニトロを使いながらカーブを曲がると少しニトロの発動時間が増えるけれど、それは一度きりではない。

 いくつものカーブを連続して突破しているということはその数だけ時間も伸びているということであり、ましてや彼女の使っている車は加速性能がかなり悪い分ニトロの持続時間は長めに設定されている。

 やがて由乃さんのペナルティが終わって再び操縦が可能になる頃には、両者の間にはとても追いつくのが困難なほどの距離が生まれていた。

 十秒もの間操作不能のまま相手がどんどん進んでいくのを見ていることしかできなかった彼女の表情からはスタート前にあった余裕はとうに消え去り、代わりに焦りの色がかなり濃く現れている。

 ここから逆転勝利を収めるには同じようにニトロの全速力で追いかけ、かつ江利子さまのミスを待つしかない。

 焦っていたのもあるし、初めてプレイしたという江利子さまにできるのなら自分にもできるかもしれないと賭ける気持ちもあるのだろう。

 スタート地点の直後から走行を再開させた由乃さんはその場でニトロを発動させると、目の前のカーブへと挑んでいく。

 一つ目をぎりぎりで通り抜けると勢いのままに二つ目、三つ目と突破していく彼女。

 だが、その度に美しい顔立ちには焦燥の色が浮かび上がっていく。

 

「ああっ!」

 

 そして六つ目のカーブも同じように突破しようとした由乃さんだったが、ぎりぎりで曲がりきることができずに崖から転落していった。

 すると、悔しさと清々しさが入り混じったような表情で彼女はコントローラーを置く。

 それから程なくして遂に余裕の色を崩さなかった江利子さまがゴールしてレースが終わり、勝負が決したのだった。




ストック分はここまでです。
今は19話を書いている最中なので、書き終わり次第更新します。

普段は個人サイトでオリジナルを中心に書いているので、遊びに来ていただけたら嬉しいです。
いろいろ書いているので、どれか一つでも気に入っていただけるものがあればいいな、と思います。

それはさておき、二年生になってからの話なのでまだ当分先のことなのですが、綾の孫に関しては菜々世代のキャラの絶対数が少なすぎるのでオリキャラにせざるを得ないのですが、綾の妹は綾より更に背が高い彼女にしようかなと考えています。
しかし、彼女は原作でもかなり登場頻度が高く人気もあるキャラなので、抵抗のある方もおられるのではないかなと思い、以前サイトでアンケートをしたことがあります。
そこで、こちらでも皆さまのご意見を伺いたいです。

もちろん、1話のあとがきでも書いたように原作にある少女たちの関係を歪めるつもりは一切無いので、原作のエピソードをそのことで改変したりはしません。
綾と姉妹になるとした場合、二人の関係が縮まり始めるのは原作であった紆余曲折が一段落した後になります。

感想欄では駄目だそうなので、ご意見をくださる方はお手数ですがメッセージ機能か個人サイト、またはTwitterからお願いします。

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