「江利子さまは本当に初めてだったんですか? あんなに上手だなんて……」
レースが終わり、江利子さまもコントローラーを置くと、彼女に対して由乃さんが尋ねる。
ご本人は初見だとおっしゃっていたけれど、華麗にカーブを突破していった先ほどの凄まじいまでのテクニックを目にすれば、実はかなりの経験がおありなのではないかと思ってしまうのは無理もないことだった。
「本当よ。私の家にはPCエンジンしか置いていないもの。操作はあなたたちのプレイを見て覚えたわ」
つまり、後ろから私たちの勝負を眺めていてあの奇襲にも似た作戦を思いつき、実行してみたくなったということだろうか。
それなりにプレイ経験がある私でもニトロを起動させたままカーブに突入して同じことをしようと思えば何度も練習しなければ無理だろうし、それを全くの初見でやってのけた江利子さまはさすがとしか言いようがなかった。
「それよりも、夕食は私が作ることになった訳だけど、綾ちゃんは何か食べたいものはある?」
「……あの、昼食もご馳走になってしまったのにこの上夕食まで作っていただくのは」
「いいのよ。お世話になるのはこちらなのだから。あなたの食べたいものを作るわ」
昼食の際にもそれなりの値がしたステーキの代金を払っていただいてしまっている(もし彼女が伝票を持っていかれることをあらかじめ分かっていたら決してステーキを注文しなかっただろう)し、その上に夕食までもを作っていただくとなると申し訳ない気分になってしまう。
そう申し出たものの、笑みを浮かべた江利子さまの言葉によってそれは途中で封じられる。
理詰めでこちらを納得させる蓉子さまや、さりげない振る舞いや言葉によって自然とこちらに意図を受け入れさせる聖さまとはまた違い、この方の笑顔にはこちらに反論を許さない何かがあった。
「……特に苦手なものなどはありません。江利子さまにお任せします」
それに押し切られるような形で答えを返す私。
肉料理はジューシーで美味しいけれど、美味しいから食べているというよりあくまでも身体を維持するのに必要なカロリーを確保するために食べている感じである。
もちろん魚や野菜が嫌いだったり苦手という訳ではないし、食事へのこだわりはほとんど無いのでメニューはお任せすることにした。
「分かったわ。楽しみにしていなさい」
私の答えを聞いてそう言うと、彼女は壁にかけられた時計に視線を向ける。
釣られてこちらも同じように目を向けると、時刻は三時半頃を指していた。
自覚は無かったけれど、久々のプレイだったこともあってそれなりに長い間ゲームに熱中していたらしい。
「何か飲み物を持ってこようと思いますが、麦茶でよろしいですか?」
「ええ、それで構わないわ」
さすがに精神的な疲れを少し感じたので一度クールダウンしようと思い、私は飲み物を取りに行くことにする。
先ほどと同じく麦茶でいいかと尋ねると、お二人はこくりと頷いた。
一階に降りて台所に向かった私は、手早くカップを並べると冷蔵庫から麦茶の入ったポットを取り出し、それを注いでいく。
そして部屋に戻ると、彼女たちは先ほどとは別のゲームで遊ばれていた。
メガドライブの周りでカセットを入れたケースを見つけたらしい。
「すみませんが、一時間ほど席を外しても構わないでしょうか。今のうちに今日の分のトレーニングを済ませておきたいので」
そんなお二人の様子を見て、私はそう申し出る。
客人を放置する形になってしまうのはいささか気が引けるけれど、身体を維持するためにも毎日の筋トレは絶対に欠かせない。
ならば、ゲームをされている今が抜け出すには一番いいタイミングだろう。
「ええ。後で覗きに行ってもいい?」
「もちろんです。トレーニングルームは一階の奥の方にあるので、すぐにそれと分かると思います」
画面から目を離すことなく許諾してくださった江利子さま。
その隣で由乃さんも真剣な表情を浮かべていて、お二人の勝負を邪魔しないためにテーブルの上にカップを二つ置いた私はそのまま部屋を後にした。
とはいえ、それより先にすべきことをしておくことにする。
リビングに立ち寄った私は、固定電話の前に立つと以前伺ったことがある番号を入力した。
少しの間呼び出し音が鳴り、そして電話が先方へと繋がる。
「もしもし。リリアン女学園高等部一年の岸本と申します。蓉子さまはご在宅しておいででしょうか」
繋がったのを確認すると、私は電話の向こうにそう伝える。
かけたのは、蓉子さまのお宅だった。
何かあったらかけてきてもいいと、入学してすぐの頃に電話番号を伺っていたのだ。
『私よ。ごきげんよう、綾ちゃん』
「ごきげんよう、蓉子さま。少しお尋ねしたいことがあって電話させていただいたのですが、黄薔薇さまのご自宅の番号をお教え願えないでしょうか」
『黄薔薇さまの?』
どうやら、出られたのは蓉子さまご本人だったらしい。
いつも山百合会に顔を出させていただいていて聞き慣れた声が聞こえ、挨拶を済ませた私は彼女に江利子さまのご自宅の電話番号を尋ねる。
言うまでもなく、それは江利子さまがここにおられることをお伝えするためだった。
蓉子さまに尋ねたのは、同じ薔薇さまであらせられる彼女ならばきっと番号をご存知だろうと思ったためである。
「少し事情があって黄薔薇さまが私の家に今晩泊まっていかれることになったので、そのことをご家族にお伝えしておかなければいけないと思いまして」
『大体の事情は分かったわ。黄薔薇さまがご家族のどなたかと喧嘩して、その時に偶然綾ちゃんと会ってそのまま泊まりに行くことになったのでしょう』
「ええと……ご想像にお任せします。私から申し上げていいものか分からないので」
ご家庭の事情を他者に知られたくはないだろうし、本人の承諾も無しに勝手に他言してしまってもいいことだとは思わないので、なるべく具体的な事情に関してはごまかすつもりでいた私だけれど、蓉子さまは実はあの場におられたのではないかと思ってしまうくらいに鮮明にそれを言い当てる。
見事に言い当てられてさすがに動揺を隠せなかったが、はっきりと返事はせずに言葉を濁しておくことにした。
もっとも、ここで否定をしないということは認めているのとほとんど同じであるのは確かだったけれど、こうも見事に言い当てられてしまっては仕方ない。
仮にはっきり否定したとしても、それが嘘だと簡単に見破られてしまうだろう。
『そういうことなら、黄薔薇さまのご両親には私から連絡しておくわ』
「よろしいのですか?」
『ええ。私から伝えた方が安心されるでしょうから』
「手間を増やしてしまって申し訳ございません。では、お任せします」
自分から鳥居家に連絡しておくとおっしゃる蓉子さま。
手間をおかけしてしまうことになるので申し訳ない気持ちになったけれど、ご厚意に甘えておくことにした。
『江利子をよろしくね、綾ちゃん』
「はい。お任せください」
普段、少なくとも私の前では絶対に黄薔薇さまという呼び方を崩さない蓉子さま(聖さまに対しても同様だ)だけれど、ふと名前へと呼び方を変える。
恐らくは紅薔薇さまという立場としてではなく、一人の友人としての言葉ということなのだろう。
もちろん、そうまで言われては信頼に応えない訳にはいかない。
私はそれに頷くと、蓉子さまとの通話を終えた。
受話器を置いた私はリビングを出て、部屋にいるお二人に言い残してきた通りトレーニングルームへと向かう。
廊下を奥に進むと、私は目的のドアを開けて室内へと入った。
まず私はシャツとジーンズを脱いで下着のみの姿になると部屋の片隅にそれを畳み、用意してあったホットパンツへと履き替える。
言うまでもなく、外出用に纏っていたそれまでの服装では運動をし辛いからだ。
上に関しては登校する時も含めて普段からスポーツブラを着けている(部活や体育の授業でリリアンでも運動をするので)し、下は下着の上にホットパンツを履いた格好でいつもトレーニングをしている。
自分にとってのトレーニングウェアに着替えると、私はまずはベンチプレスへと向かった。
それからしばらく筋トレで汗を流していた私は、部屋の入口の扉が開く音を耳にしてそちらへと視線を向ける。
住人は私しかいないのだから、扉を開けたのは客人であるお二人のどちらかしかいない。
私の視線の先には、まず江利子さまと、その後ろに続いて由乃さんの姿があった。
バタフライマシンに座っていた私は、握っていたグリップを離して腕を下ろす。
「どうなさいましたか?」
「一通り遊んだから、綾ちゃんのところに行ってみようという話になったのよ」
シートから立ち上がった私が尋ねると、江利子さまから答えが返ってくる。
楽しげな表情を浮かべている彼女とは裏腹に、どことなく不機嫌そうな様子の由乃さん。
どうやら、レース勝負は江利子さまが勝ち越したらしい、とお二人の様子から私は状況を察する。
「お疲れ様でした。見苦しい姿をお見せしてしまい申し訳ありません」
トレーニングは日課であり慣れているとはいえ、ハードであることには変わりはなく、今の私は汗に濡れて髪は乱れ肌に貼りついているような状態である。
とても客人の前で見せられるような姿ではないので、そのことをお二人に謝罪した。
それに対して気にしなくていい、と言ってくださった江利子さまが、私の方に近付いてくる。
「ん……っ」
目の前で立ち止まった彼女の白く細い指先が、おもむろに私の腹部に触れる。
そのまま腹筋の上をつつ、と撫で上げられて、肌の上を這う感触に私の喉からは思わず声が零れ出した。
「令もそうだけれど、あなたも腹筋が割れているのね」
「あ、あのっ、黄薔薇さま」
そう言いながら、江利子さまは私の腹筋の溝をなぞったり、指で押したりする。
さすがに男性のように鮮明に六つに割れて浮いている訳ではないものの、縦割れとでも言えばいいだろうか、それがはっきり分かる程度には腹筋が浮き出ていた。
お腹をつつかれるこそばゆさに、私は戸惑って声を上げる。
触れるか触れないかの強さで這い回る指と、時折触れる伸びた爪の固い感触とに反応し、身体をびくりと震わせてしまう。
「胸は……令よりは大きいみたいね」
「ひゃっ、そ、そこは……っ」
そして彼女のしなやかな指は私の肌を這い上がり、胸部に達する。
どうやら薔薇さま方の制服越しにもはっきりと分かる豊かなそれには到底及ぶべくもない私の胸の大きさを確かめているようで、そのまま無遠慮につつく江利子さま。
スポーツブラの布越しとはいえ膨らみに触れられて、思わず悲鳴を上げてしまう。
とはいえ、同性同士であるのだし、先輩である彼女の手を振り払う訳にはいかないので、すぐ後ろに先ほどまで使っていたバタフライマシンがあり逃げ場が無いこともあって、じっとしていることしかできなかった。
無論、そうして私の身体に触れているということは、触れられるほどに近い距離にいるということ。
こちらの方が身長が頭一つ分くらい高いので見下ろす形にこそなるものの、だからこそ自然と上目遣いになった江利子さまのぞっとするほどに美しい顔立ちに至近距離で見つめられて、私はまるで唇の端を軽く吊り上げた彼女の獲物になったかのような錯覚を感じていた。
フェンシングの試合の際に感じるような殺気とは全く性質の違う感覚に、矢に射抜かれたように身動きが取れなくなる。
逃げ場が無い、と言ったけれど、仮に後ろに何も無かったとしても今の江利子さまから逃れることは難しかっただろう。
どくり、どくりと、恐らく左胸に触れている彼女の指先にまで伝わっているだろうほどに荒々しく鼓動する心臓の高鳴りが、果たして恐怖によるものなのか、それとも別の何かによるものなのか、自分でもよく分からなかった。
「ちょ、ちょっと、何してるんですか!」
すると、横から慌てた様子の由乃さんが割り込んで、彼女を止めてくれる。
それによりようやく身動きの自由を取り戻し、かつ気恥ずかしさから解放された私は安堵にほっと胸を撫で下ろした。
「何って、見れば分かるでしょう? 気になったから確かめてみたけど、綾ちゃんの胸は令より少しだけ大きいようね」
「ど、どうして黄薔薇さまが令ちゃんの胸の大きさなんて知ってるんですか!?」
「ふふ、触ったことがあるからよ。そう、令は私に胸を揉まれたことを由乃ちゃんに話していなかったのね」
江利子さまによれば、私の胸は彼女の妹である令さまより少し大きいらしい。
まあ確かめようがないので本当かは分からないし、別に確かめようとも思わないのだが、江利子さまがそう言うとそれに対して激昂した由乃さんが噛みつく。
幼馴染としてずっと一緒に育ってきた大切な姉のこととなれば黙ってはいられないのだろうと思うが、恐らくそんな彼女の反応の理由を理解している江利子さまは、にもかかわらず面白がるような表情を浮かべて更に煽るような言葉を口にする。
当然、彼女に向けられる由乃さんの視線はそれによって鋭さを増す。
全身の毛を逆立てて相手を威嚇している猫を思わせるような今の由乃さんに鋭い目つきを向けられていても全く動じる様子を見せず、笑みを崩すことがないのはさすがは薔薇さまといった印象だった。
「た、退屈でしたら他のゲームをなさいますか? 英語のものばかりですが、カセットはいろいろ持ってきているので」
薔薇さまとしての器をお持ちの江利子さまにはとても勝てる気がしない。
とはいえ、今しがた由乃さんに助けていただいたばかりであるし、彼女を見捨てるという選択肢など私には無いので、勇気を出してお二人の間に割って入ることにした。
レースゲームで遊び終えて退屈であるがゆえに私や由乃さんで遊ばれているのであれば、他にもいろいろあるゲームを差し出せばそちらに気を移してもらえるかもしれないと考えた私は、そう提案する。
向こうのベンダーが発売したものということで、当然ながら全文英語であるが、江利子さまや由乃さんの英語力なら問題は無いだろう。
「いいえ、せっかくだからあなたがトレーニングしているのを見ていることにするわ」
「別に構いませんが……」
けれども、彼女はそれを断ると、私の筋トレを見てみたいという。
私のトレーニング風景など見ても面白いとはとても思えないけれど、とはいえ由乃さんに助け舟を出すという当初の目的は果たせそうなので、あえて何も言わないことにした。
「由乃ちゃんも見てみたいでしょう?」
「えっ、は、はい、見てみたいです」
江利子さまが、隣にいる由乃さんに話しかける。
急に矛先が自分からそれたことで、煽られていた感情の向け場が無くなり拍子抜けしたようになっていた由乃さんだったが、またいきなり話を振られたことに少し驚いたような反応を見せながらもそれに頷いた。
「では、すみませんがお付き合いください」
江利子さまのみならず由乃さんまでがそうおっしゃるのならば、私としてはそれ以上何かを言うこともない。
トレーニングメニューはイギリス時代にフェンシングを教わっていたコーチから貰ったものであるし、こちらとしても今日の分のそれをきちんと消化しておきたかったので、お二人の言葉に甘えることにした。
通常、トレーニングは他人に見せるためにするようなものではない。
にもかかわらず彼女たちに見られていたことによって居心地の悪さというか、気恥ずかしさのようなものを少し感じながらも、無事に私はメニューを消化し終える。
汗で濡れた身体をタオルで拭かなければならないし、動きやすいように薄着になっていたので着替えなければならない(薄着であることも気恥ずかしさの理由の一つだった)ということもあり、お二人には先にリビングの方へと行ってもらっていた。
用意しておいたタオルで汗を拭き、服を着直す私。
着替え終えた私がキッチンへと向かうと、そこには心なしか不機嫌そうな様子のお二人の姿があった。
――私が抜けている間に何かあったのだろうか。
「どうなさいましたか?」
「夕食の献立を考えるために冷蔵庫を開けてみたの。調味料が入っていそうな棚の中も見させてもらったわ」
「はい、それは構いませんが」
恐る恐る用件を尋ねると、彼女はいささか棘のある口調で冷蔵庫と棚を開けたことを告げる。
そして、別に構わないという私の返答を耳にすると、江利子さまはどうしてかにっこりと笑った。
この方の笑みが思わず目を離せなくなってしまうくらいに美しいことは言うまでもないのだけれど、明らかに何かにお怒りになられていると分かるだけに、その笑顔が今は逆に恐ろしい。
「冷蔵庫の中にケーキやお菓子しか入っていないのはどういうことなのかしら? ごみ箱も覗いてみたけど、お肉のパックや野菜くずは入っていなかったわ。棚の中もサプリメントばかりで、調味料なんて入っていないわね」
「ああ、ケーキは糖分とカロリーの補給用です。必要な栄養はサプリとプロテインで取っていますし、それで身体は維持できるので」
「食事はどうしているの?」
「どなたかとご一緒させていただく時には何かしらの料理を食べますが、一人の時は甘いもので済ませています。栄養とカロリーをきちんと確保できればそれで構いませんし」
彼女に言われて、冷蔵庫の中身がケーキやその他の甘いものばかりであったことを思い出す。
私にとって食事とは純粋に料理の味を楽しむものというよりも、身体を維持するための糖分やタンパク質を摂取する役割の方がむしろメインと言っていい。
効率的に糖分を摂取するには甘いものが手っ取り早いし、タンパク質はプロテインを飲めばいいし、それで不足するその他の栄養素はサプリメントを飲んでおけば補える。
もちろん、イギリスで暮らしていた頃は両親と共に住んでいたので母の作ってくれる料理を毎日口にしていたけれど、元々食へのこだわりや好き嫌いが薄いこともあって、一ヶ月と少し前に日本に来て一人での生活を始めてからは程なく今のような食生活を送るようになっていた。
料理をすることは好きであるし以前はよく作っていたけれど、食べさせる相手が自分しかいない日々の中ではつい効率を優先してしまい、工夫して美味しい料理を作ることがどんどん後回しになっていくのだ。
改めて考えてみると、四月に入ってから一度も料理をしていなかったことに気付く。
もちろん江利子さまにも由乃さんにもそのような食事をさせてしまう訳にはいかないので、泊まっていかれることや料理を作ってくださることをあらかじめ分かっていたならばそのためにまともな食材を買って用意しておいたのだが、いかんせんどちらも急に決まったことなのでどうにもならなかった。
「そんな食生活でいいと思っているの?」
「い、いえ、よくないという自覚はありますが……」
にっこりと、まるで大輪の花が咲いているかのように美しい笑顔。
けれども江利子さまの声は凍てつく吹雪のように冷たく、怒っているとはっきり分かる彼女の様子に私は気圧されて思わず後ずさった。
いくら栄養の計算はきちんとしているとはいえ、お世辞にも褒められた食生活ではないことは自分自身でも理解している。
そのことを咎められてしまえば、抗弁する余地などありはしなかった。
「黄薔薇さまの言う通りだわ。駄目よ、こんなの」
思わず目をそらした私の視線の先、こちらに鋭い眼光を向けている由乃さんも彼女に同調する。
私のことを思ってくださっての言葉であるし、お二人が全面的に正しいのでこちらとしては返す言葉も無い。
「ご両親にあなたの普段の食事を伝えたら、どう反応されるかしらね」
「そ、それはご勘弁を」
ぐうの音も出ずに黙り込むことになった私に、麗しい顔立ちに浮かべている笑みの質を幾分か変化させた江利子さまがそう告げる。
慌てて静止を試みる私。
イギリスと日本というユーラシア大陸を隔てた真逆の場所で暮らしているのである。
ただでさえ遥か遠く離れた地で一人で暮らしていることで両親を心配させてしまっているだろうし、それ以上余計な心配の種を増やさせてしまうことは避けたかった。
「なら、これからは最低限きちんとした食事を取ると約束できる?」
「お約束します」
この場にいるお二人とて心配して言ってくださっているのであるし、これ以上の心配をおかけしてしまいたくはない。
料理自体はむしろ好きであるし、明日からはまた自炊を再開してみようと決める。
「私と由乃ちゃんに貸し一つよ」
「はい。承知しました」
すると、ようやく表情と雰囲気を軟化させた江利子さまが私にそう告げる。
もちろん、非があるのはこちらなのだから私に否やはない。
由乃さんはともかく、楽しいことがお好きな江利子さまにどのようなことを求められるか少し怖くないと言ったら嘘になるが……それも含めて甘んじて受けるべきだろう。
「それじゃ、材料を買いに行きましょうか。荷物を持ってもらえる?」
「もちろんです」
当然ながら、近頃ろくに料理をしていなかった以上、肉や野菜のような食材などこの家には全く無い状態であり、料理をするにはまず食材を用意するところから始めなければならない。
私は荷物持ちとして彼女が食材を見繕うのに同行することになった。
この家は駅から徒歩十分程度の場所にあるので、その周囲にある商店街などへも歩いて気軽に行ける程度の距離である。
そのため、こうして急遽買い物に行くことになっても困らないのが幸いだった。
準備と言っても、三人とも元々数時間前まで外出していた身なので、ほとんど時間を要せずにすぐにでも出ることができる。
家を後にした私たちは、少し前に通った道を今度は逆に辿って駅の方に向かったのだった。
江利子さまは先輩であるし、病弱な由乃さんに重いものを持たせる訳にはいかない。
今日の夕食と明日の朝食の分だけでなく、きちんと作って食べると約束したそれ以降の食事の分のことも考えて買ってくださった肉や野菜が大量に入った買い物袋を両手に提げた私は、商店街での買い物を終えて家に戻ってきていた。
買ったものを冷蔵庫の中に詰め終えると、私たちはソファーに座り商店街まで歩いていったことで疲れた身体を休める。
「それじゃ、そろそろ夕食を作ってくるわ。エプロンを貸してもらえる?」
「少しお待ちください……どうぞ」
壁の時計を見ると、時刻はもう五時半を過ぎている。
買い物をしていたりしたこともあって、いつの間にか夕食を作り始めるのにちょうどいい時間になっていたらしい。
冷たい麦茶を飲んで少しの間身体を休めた江利子さまは、ソファーから立ち上がるとエプロンを求める。
最近使っていなかったので、確か棚の引き出しの中に入っていたはずだった。
私がそれを取って差し出すと、彼女はすっかり宝の持ち腐れ状態になっていた私のエプロンを着け、夕食を作るためにキッチンに向かう。
エプロンを着けた江利子さまという普段まず見ることのないだろうお姿(同じクラスの方なら調理実習の際に目にする機会もあるのだろうけど)に思わず見とれてしまいつつ、手伝いを申し出たものの待っているように言われた私は彼女を見送る。
同時に、由乃さんは室内にある電話の方に向かう。
夕食はここで食べていくのでいらないと、ご両親に伝えるためだ。
手持ち無沙汰になった私は、今のうちにダイニングのテーブルの上を片付けておくことにした。
その後、戻ってきた由乃さんと話しながら待っていると、しばらくしてキッチンから江利子さまが料理の完成をこちらに告げる。
料理を運ぶために立ち上がった私はそちらへと向かう。
やはり調理実習以外ではリリアン生が口にする機会などほぼ無いだろう彼女の手料理は、リビングにまで美味しそうな香りを運んでくる。
大小それぞれの皿や器の中に目を向けると、どうやらメニューは肉じゃがとほうれん草の卵とじ、そして豆腐らしい。
三人でそれらをテーブルの上に運ぶと、椅子に腰を下ろして席を囲む。
リリアン生らしいと言うべきか、食事の前にお二人の唇から紡がれるのは祈りの言葉。
それが終わり、私も手を合わせて箸を取ると、じゃがいもを口に運ぶ。
まだとても熱いじゃがいもには恐らく醤油ベースだろう出汁が中まで染み込んでいて、歯を立てると熱気と共に風味が口の中に広がる。
意外、と言ってしまっては失礼かもしれないけれど、珍しいものがお好きな江利子さまの料理の味は正統派なもので、非常に美味しかった。
これは私事だが、外食以外できちんとした食事を取ったのは随分と久々のことなので、その意味でも感動が大きい。
「美味しいです。毎日でも食べたいくらいに」
「ありがとう。鍋の中にまだそれなりに入っているから、足りなければ注いできなさい」
率直な感想を彼女に伝える私。
これほど美味しければ、毎日食べたとしても飽きることはないだろう。
江利子さまに手料理を振る舞っていただく機会に恵まれたのは幸運だった。
きっと、今器に入っている分が無くなったら注ぎに行くことになるだろう。
次にほうれん草の卵とじに箸を伸ばしてみると、こちらは肉じゃがとは違ってやや甘めの味付けで、やはりとても美味しい。
隣では、由乃さんも目を少し見開いて驚きを露わにしている。
誰かと食卓を囲みながら美味しい料理を食べる幸せを感じながら、私は夕食を口にしていった。
食事を終えると、私は空になった皿や器をシンクへと運んでもう少ししたら洗うために水に浸けておく。
客人である江利子さまに手料理を振る舞っていただいたのだ、せめて片付けや食器洗いくらいはしなければ申し訳がなかった。
そしてリビングに移動した私たちが会話を楽しんでいると、門に取り付けられたチャイムが鳴る。
来訪者は令さまだろう。
病弱な由乃さんを、既に外が暗くなっているこの時間に一人で帰らせてしまう訳にはいかない。
そのため、彼女をご自宅までお送りするつもりだったのだが、彼女は夕食前に電話で姉である令さまに迎えに来るように頼んでいたそうなのだ。
お二人に断って玄関に向かった私は、靴を履いて外に出ると、令さまのお姿を確認して門を開ける。
「ごきげんよう、黄薔薇のつぼみ。このような時間にご足労願ってしまい申し訳ありません。どうぞお入りください」
「ごきげんよう。立派なお屋敷だね」
「ありがとうございます。これだけ広くても、実際に使うのはごく一部でしかないのですが」
時間を問わず使うことができるのが、ごきげんようという挨拶の最大の長所である。
本当であれば私がお送りせねばならないにもかかわらず、わざわざ足を運んでいただくことになってしまったことを謝罪すると、彼女を中に招き入れた。
「ごきげんよう、お姉さま、由乃」
「ごきげんよう、令」
玄関には既にお二人の姿があり、顔を合わせた彼女たちは互いに挨拶を交わし合う。
期せずして、この場には黄薔薇ファミリーが勢揃いすることとなっていた。
しばらく姉妹水入らずで会話に花を咲かせる彼女たち。
黄薔薇ファミリーでもない私が割って入るのも無粋だと思うので、一歩引いた場所から眺めることにする。
「そういえば、綾ちゃんの胸は令より少し大きかったわよ。令の胸と違ってしっかり触った訳じゃないけど」
「お、お姉さま」
「黄薔薇さまっ!」
ふとこちらにちらりと目線を向けて意味深げに笑みを浮かべた江利子さまがそう口にすると、頬を染めて動揺を見せる令さまと、また猫が全身の毛を逆立てているような雰囲気で抗議をする由乃さん。
もちろん、その言葉にはお二人ばかりでなく私も気恥ずかしさを覚えてしまう。
そんな私たちの様子を楽しげに眺める江利子さま。
とても敵う気がしないというか、たった一言でいとも簡単に私たちを手玉に取ってしまわれるのはさすがと言うほかなかった。
「ああ、令にはちゃんと許可を取ってから触ったわよ?」
「うぐ……っ、だ、大体、令ちゃんもいつの間にそんなことを!」
「よ、由乃、その」
実に楽しそうに、由乃さんの剣幕を更に煽るようなことを言う江利子さま。
それに呻くような声を零した由乃さんは、矛先を江利子さまから姉である令さまに移す。
触った江利子さまよりも、それを承諾した令さまの方に怒りが向かったらしい。
その剣幕にたじたじとなっている令さま。
彼女が助けを求めるような目線を送られていたので、頃合いを見計らって助け舟を出そうと思っていた私だが、意外にもそれより先に助け舟を出したのは由乃さんを煽った張本人である江利子さまだった。
「それなら、由乃ちゃんも後で令に触らせてもらえばいいじゃない。あなたたちはいつでも一緒にお風呂に入れるでしょう?」
「……そうですね。令ちゃん、帰ったら一緒にお風呂に入ってもらうからね」
「え、ええ、分かったよ」
――もっとも、それは果たして本当に助け舟と言えるのかどうか分からなかったけれど。
その提案を受け入れた由乃さんは、どこか据わった目つきで令さまに対して迫る。
気圧されたような様子で令さまはそれに頷いた。
剣を持って向かい合った時にはあれほど凛々しかった令さまが、妹のことになると一転して振り回されるような形になる。
そんなギャップはこうして実際に目の当たりにしなければ分からなかったことだけれど、微笑ましいと表現してしまえば失礼かもしれないが、とても魅力的に感じられた。
ともかく、江利子さまのお言葉のおかげで(令さまにとっては幸か不幸か)場が収まったので、由乃さんが帰宅する流れになる。
靴を履いた彼女は、先を急ぐように令さまの腕を引っ張った。
お二人の後を追うように、私も門を開けるためにまた外に出る。
「ごきげんよう、黄薔薇さま、綾さん。また明日ね」
「ちょ、ちょっと由乃。ごきげんよう、お姉さま、綾ちゃん」
「ごきげんよう。お二人とも、本日はありがとうございました」
挨拶を交わすと、令さまは由乃さんに引っ張られるようにして門の外へと消えていく。
彼女たちの姿をしばし見送り、姿が見えなくなると、私は門を閉めて屋内へと戻ったのだった。
更新が遅くなってしまいすみません。
当初は由乃さんとのデートから日曜日が終わるまでひっくるめて1話で書ききるくらいのつもりだったのですが、実際に書いてみると予想外に描写が膨れ上がったのでいくつかに分割することになりました。
書き進めるたびに何故だか綾の食生活がどんどん残念なことになっていきますw
サイトではこの話以外にマリみての短編を2つ載せているのですが、それらに加筆と校正をしてこちらにも載せました。
月と薔薇とは何の関係も無い三人称の短編です。
よければご覧ください。