月と薔薇   作:夕音

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 翌朝、やはり自転車で登校した私は、相変わらずがら空きと言っていいような駐輪場に買ったばかりの愛車を停め、校舎の方へと向かう。

 三薔薇さまと入学式の打ち合わせをせねばならなかった昨日とは違い、今日は特にこれといった用事がある訳ではないので少しゆっくりと家を出た私は、昨日と同じようにマリア像の前を素通りし、けれども昨日とは違い菊組の教室に歩いていく。

 マリア像に祈りを捧げることなく通り過ぎる私はやはり異質であるようで、必然的に周囲の少女たちの視線が集まるのを感じる。

 それらとはまた異なる質の視線を感じたのでふと少し離れた茂みに目を向けると、そこには昨日声をかけられた眼鏡をかけた少女、蔦子さんの姿があった。

 カメラを構えている彼女は、どうやらここで祈りを捧げる少女たちの姿を撮影していたらしい。

 目が合うと、蔦子さんはシャッターを押して私のことも撮影していく。

 そんな少女たちの視線に見送られるようにして、私はその場を後にする。

 

 教室に着いた私が席について時計を見ると、あと数分ほどで本鈴が鳴る時間だった。

 既に、廊下にいる時に予鈴は聞いている。

 受験の時も含めてリリアンに来るのは今日が三度目である私は、まだそれに慣れていない。

 遅刻はしないだろうと思いゆっくり目に家を出たが、明日からはもう少し早く出る方がいいかもしれなかった。

 

「ごきげんよう、綾さん」

「ごきげんよう、由乃さん」

 

 私は、隣の席の由乃さんと挨拶を交わす。

 教室を見回せば、私以外の生徒は既に席についていた。

 予鈴の時点で既に席についているとは、こういったところも何ともお嬢様学校らしい。

 

「これから朝拝があるから、準備をしておいた方がいいわよ。聖書は持ってきている?」

「はい。向こうで使っていたものですが」

 

 私は神に対しての信仰心を持っていないが、キリスト教国であるイギリスに長くいたので聖書くらいは持っていた。

 ミッション校であるリリアンには、その名の通り朝の礼拝である朝拝や、シスターによる神学の授業がある。

 神学の授業の時には聖書を使うのだが、信じてもいない神のためにわざわざ新しく買うのも馬鹿らしかったので、向こうで使っていたものをそのまま持ってきていた。

 面接の時に質問してみたところ、面接を担当されていたシスターの方は構わないとおっしゃっていたし。

 鞄からそれを取り出すと、由乃さんに見せる。

 

「ええっと、これ、英語じゃないわよね。何語なのかしら」

「ラテン語ですよ。ラテン語版聖書、ヴルガータです」

 

 厚い表紙に金糸で綴られている文字を見て首を傾げた由乃さんの質問に答える。

 この歳までイギリスで教育を受けていた私だが、イギリスも含めたヨーロッパでは古典とはラテン語やギリシャ語のことを指す。

 日本では古典の授業の中で古文や漢文を学ぶが、それと同じ感覚で向こうではラテン語を学ぶのだ。

 例えばゴート語だとかアルメニア語だとか、ヨーロッパの諸言語ではその言語で初めて筆記された出版物は聖書であることがかなり多い。

 それらと違いラテン語の場合にはそれ以前にもローマの人々が書き残した書物が多くあるが、やはり聖書が有力な古典資料であることには変わりがない。

 他にも、それそのものがイギリス人にとっては馴染み深い内容だということもあり、ラテン語の授業の中でも聖書が資料の一つとして使われていたのだ。

 この聖書は、その時に使っていたものだった。

 

「綾さん、ラテン語なんて読めるの!?」

「ええ。日本に来るまで勉強していましたから」

 

 由乃さんの大声で、こちらに注目が集まったのを感じる。

 カエサルのガリア戦記だとかウェルギリウスのアエネーイスだとか、資料として聖書以外にも多くの古典を読むことができるラテン語の授業は個人的に好きな授業の一つだった。

 まだ日本に引っ越すことが決まる前の話だが、現代でラテン語の知識を最も活かせるのはやはりキリスト教関連の世界なので、ラテン語を担当されていた先生に神学科への進学を勧められたことがあったのを思い出す。

 そちらの世界に興味が無いので断ったけれど。

 

 由乃さんは興味津々といった様子だったが、ちょうどそのタイミングで本鈴のチャイムが鳴ったので、彼女は渋々といった感じで前を向く。

 その様子を見るに、昨日から何となく感じていた通り、由乃さんはやはり見た目通りのただ大人しいだけの少女という訳ではなかったらしい。

 そしてチャイムが鳴り終わると、続いて朝拝の放送が始まる。

 昨日は入学式の中で行ったが、通常時はこうして毎朝放送で行うらしい。

 流れている言葉に従い祈り始める少女たち。

 けれども、私はやはり祈ることなく、黙って前を向いて座る。

 日本と比べてキリスト教がずっと身近に根付いているイギリスでもこういった時間はあったが、その時にもやはり私は祈りには混ざらなかった。

 昨日の朝拝が行われた入学式の会場で、ふと近くの席にいた白薔薇である聖さまも祈っておられなかったのを思い出す。

 時間としては、そう長くはない間。

 程なくして朝拝が終わると、予鈴の時点から既に前の椅子に座っていた担任の聡美先生が立ち上がり、朝のホームルームが始まる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「綾さん、どうして祈られなかったの?」

 

 ホームルームが終わり、一限目の授業まで束の間だが時間が空くと、由乃さんがそう尋ねてくる。

 とはいえその口調は別に責めているようなものではなく、むしろ好奇心の色が強く含まれているように感じられた。

 

「私は神を信じていませんから。信徒でもなく、信仰心がある訳でもない私が上辺だけで祈るのは、逆に失礼でしょう」

 

 私自身が転生などという不可思議な現象を体験しているのだから神の存在そのものを信じていない訳ではないが、神がいると思うことと、神を信仰することはまた別の問題だろう。

 存在は信じていても信仰はしていない私には神に祈る資格は無いだろうし、その気も無かった。

 おそらく、幼稚舎からリリアンで育ったほとんどの少女たちは、信徒と呼べるほど熱心ではないにしろ、ある程度神への信仰心を持っているのだろう。

 そういう意味では、リリアンは一般的な日本社会よりも、むしろ生活の隅々にまでキリスト教が根付いたヨーロッパに環境が近いのかもしれない。

 

「それだけなの?」

「はい。期待に添えなかったのなら、申し訳ありませんが」

 

 本当は一度死を経験したために死生観などが大きく変わったというのが一番大きな理由なのだが、これはわざわざ口に出して言うべきことではないだろう。

 それだけだと言うと、少し拍子抜けしたような表情の由乃さんは、それでもこちらに頷きを返す。

 彼女の儚げな顔立ちにこうしてそれなりの頻度で現れる、一見受ける印象とは対照的な活発さはとても魅力的に感じられた。

 

「私たちにとっては、習慣みたいなものだから、そんなことは考えたこともなかったわ」

「それでいいと思いますよ。イギリスでは、皆さんそんな感じでしたし」

「イギリス?」

 

 何気なく言った私だが、不思議そうな表情を浮かべて尋ねてくる由乃さん。

 ……ああ、そうか。

 一瞬その反応の理由が分からなかった私だが、すぐに理解する。

 

「そう言えば言っていませんでしたね。今年の三月まで、イギリスに住んでいたんです、私」

「それじゃ、帰国子女なんだ」

「そうなりますね。リリアンを受験する時に、初めて日本に来ました」

 

 とは言っても、かつて事故で命を落とすまでの私は普通に日本で暮らしていたのだけれど。

 当時は二〇十四年、今は一九九四年と何故か時間を逆行してしまったようなので、果たして逆行を時間経過として数えて構わないのかは分からないが、それを計算に入れれば都合二十年ぶりの日本になる。

 まだ前世の私が生まれていたかどうかの頃の日本には当たり前だが勝手が全く違うことも多々あり、未だに完全に馴染めているとは言いがたかった。

 何しろ、この時代はポケベルの全盛期であり、まだ携帯電話がほとんど普及していない代わりに、テレビではポケベルの宣伝が盛んにされているのだ。

 これだけを取っても、いかに勝手が違っているかが分かるだろう。

 

「ねえ、イギリスってどんなところなの?」

「そうですね……」

 

 まだインターネットがパソコン通信と呼ばれていたこの時代、それはあまり普及しておらず、つまり日本国内にいて得ることができる海外の情報は現代に比べずっと乏しい。

 イギリスがどんな国なのかが気になるようで、尋ねてきた由乃さんにどう答えようかと考えていると、そのタイミングで一限目の始まりを告げるチャイムが鳴る。

 

「あ、始まってしまいましたね。また後でお答えします」

「絶対ですからね」

 

 気になって仕方がないのだろう、チャイムを聞いて私がそう言うと、またもやその音のせいで会話を途切れさせることになった由乃さんが強い眼光をこちらに向けて念を押してくる。

 苦笑しながらも私が頷くと、彼女は渋々といった様子で前を向いたのだった。


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