入学から数日が過ぎ、積極的に話しかけてくれた由乃さんのおかげもあって、私は次第に級友たちと打ち解けることができるようになっていた。
最初は遠巻きに見ているだけだった少女たちも、誰か一人が先陣を切ればそれに続いて次々と話しかけてくれるようになる。
その役目を担ってくれた彼女にはとても感謝していた。
「ごきげんよう、綾さん」
今しがた体育の授業を終えたばかりである私が由乃さんと話しながら教室に向かっていると、横合いから声をかけられる。
振り向くと、そこにはいろいろな部を見学している私が、日舞部というお嬢様学校らしい部で活動を体験させていただいた時に言葉を交わした二年生の先輩の姿があった。
確か、名前は莉絵さまだっただろうか。
「ごきげんよう、莉絵さま。何のご用でしょうか」
挨拶を返すと、用件を尋ねる私。
けれども、尋ねつつも私は、彼女がどのような用件なのかをおおよそ察していた。
「早速だけど、このロザリオを受け取ってもらえないかしら」
莉絵さまが口にしたのは、予想した通りの言葉。
姉妹の申し込みだった。
彼女は、手にしたロザリオをこちらに差し出してくる。
「すみません。まだリリアンに来たばかりで、私はスール制度をきちんと理解できているとは言えません。そんな状態で、大切なロザリオを受け取る訳にはいきません」
「……そう。それは残念だわ」
私は、彼女の申し出を拒絶する。
スール制度が具体的にどのようなものかはまだよく分かっていないが、姉妹がリリアンの生徒にとって非常に大切なものであることだけは分かっている。
だからこそ、まだそれについて詳しく理解できていない私が誰かと姉妹になるのは相手に失礼だろう。
少なくともこの学校でもっと時を過ごし、きちんと姉妹とは何たるかが分かるようになるまでは、誰とも契りを結ぶつもりはなかった。
その旨を伝えると、彼女は少し残念そうな表情を見せた後、この場を立ち去っていく。
「由乃さんが言っていた通りでしたね。まあ、入学式のスピーチで目立ってしまいましたから仕方ありませんが」
入学式の日に由乃さんが言っていた通り、昨日辺りから廊下を歩く度に今のように姉妹の申し込みが訪れるようになっていた。
新入生代表を務めたことで、目立ったのが原因だろう。
どうやらリリアンにはまず姉妹の関係ありき、それから絆という考え方の少女も多いようで、そうした考えの先輩方にとっては知名度だけは高い私はロザリオを差し出すのにちょうどいい相手なのだと思う。
もちろんその考え方が悪いとは思わないが、姉妹って何?というレベルの私にはいささか早急すぎるのは確か。
相手に悪気がないとはいえ、こうも頻繁だと隠れたくなったりもするのだが、全校生徒の前に立ったので顔も覚えられているし、目立たないようにするということも出来ない。
「それなら、山百合会のお手伝いに来るのはどう? 実は、あなたをお手伝いに誘うように、昨日薔薇さま方からお願いされているの」
「それはつまり、山百合会の方々が私たちを妹にしようとしている素振りを見せることで、他の上級生の方々に姉妹の申し込みをすることを躊躇ってもらおうということね?」
白薔薇である聖さまには未だに妹がおられないことは知っている。
山百合会のシステム上、通常は九人いるはずの人員が六人しかいない現状はかなりの人手不足であることは分かるが、別にわざわざ私を名指しで手伝いに選ぶ必要はないし、そもそも人手が足りないならば一年からではなく二年から誰かを誘ってもいいはずだ。
にもかかわらず私がわざわざ指名されたということは、つまりそうした意図があるのだろう。
そう考えた私は、彼女にそれを確認する。
「ええ。薔薇さま方に気に入られているとなれば、ロザリオを差し出してくる方はかなり少なくなるはずよ」
「でしたらお受けするわ。と言っても、どれくらいお役に立てるかは分からないけれど」
私は、考えるまでもなく由乃さんの誘いを快諾する。
それで昨日辺りから続いている申し込み攻勢が終わるのならば、断る理由は全くなかった。
「ありがとう。では、放課後になったら一緒に薔薇の館に行きましょう」
「そうね。そうしましょうか」
三薔薇さまとは入学式の前に話をさせていただいたが、三人ともとても素敵な方だったと思う。
彼女らが私のために助け船を出してくださったことに感謝しつつ、早速今日の放課後に薔薇の館に伺うことを決めた。
由乃さんと歩きながら話していると、やがて在籍する一年菊組の教室の前に到着する。
いったん会話を止めた私たちは、入り口の扉を開いて着替えと次の授業の準備のために室内に入ったのだった。
放課後。
掃除を終えた後、私と由乃さんはその足で薔薇の館へと向かった。
古びた建物は威容を持って訪問者を迎え、しかし住人である由乃さんに導かれた私は躊躇することなく足を踏み入れる。
一般生徒からすれば雲の上の人という扱いである三薔薇さまの過ごす場所ということもあり、古さがそのまま威容となっているこの館を訪れるのはきっと少女たちにはかなり敷居が高いのだろう、などと考えつつ軋む音を立てる扉を潜ると、イメージに違わない上品な造りの内部が見えた。
どうやら薔薇さまやその妹が過ごしている部屋は二階らしく、階段を上り始めた由乃さんの背中に続いて私も上っていく。
古いせいだろう、一段踏みしめる度に木が軋む音を立てる階段。
いつか板が抜けてしまわないのだろうかと少し心配になるが、お嬢様学校なので万が一それで生徒が大怪我をしてしまったら大問題になりかねない。
にもかかわらず予算は潤沢にあるはずのリリアンがそのままにしているということは、特に問題はないのだろう。
そんなことを考えつつ上っていくと、二階に到着する。
由乃さんは廊下の先にある茶色の扉の前で立ち止まると、そっとノックをした。
「岸本綾さんをお連れしました」
「ご苦労さま、入っていただいて」
「どうぞ」
彼女が扉の向こうに声を掛けると、中から聞き覚えのある蓉子さまの返事が聞こえる。
それに従って扉を開けた由乃さんに促されるままに、私は部屋へと足を踏み入れた。
「岸本綾です」
室内にいたのは紅薔薇さまと黄薔薇さまだった。
お二人が座っているテーブルの近くまで行くと、頭を下げて挨拶をする私。
三薔薇さまといえばリリアンの一般生徒から見れば雲の上の存在であり、強い憧れを抱いている子がほとんどである。
だが、外部生であるために薔薇さまという地位の凄さがまだあまり実感できていない私は、彼女たちを前にしてもあまり緊張などは感じない。
頭を上げると、お二方は椅子から立ち上がって私たちを迎え入れた。
「お呼びだてして、ごめんなさいね」
彼女たちはこちらに近付くと、座って頂戴、と椅子を引いて私を促す。
逆らう理由も無いので腰を下ろすと、ちょうど元の席に戻ったお二方とテーブルを挟んで向かい合うような位置になった。
室内には蓉子さまと江利子さまだけであり、他の住人は不在。
まだ来ていないだけなのか、それとも初めから今日は来る予定が無いのか、果たしてどちらなのだろう。
「私たちの方も自己紹介が必要かしら。綾ちゃんには入学式の日にさせてもらったけれど」
「いえ、結構です」
新入生代表だった私は、入学式の際に三薔薇さまと顔を合わせている。
なので、改めて自己紹介をしてもらう必要は無かった。
「あ、紅茶を淹れますね。綾さんも紅茶でいい?」
「それなら私が淹れますよ。向こうにいる時は、本場なので毎日飲んでいましたし」
「向こう?」
「ええ。三月までは、イギリスで生活していたんです」
「それは面白そうね。では、本場仕込みの紅茶をお願いできるかしら」
私の言葉に反応して尋ねてきた蓉子さまに、そう答えを返す。
すると、それに反応して目を輝かせた江利子さまが話しかけてきた。
「ちょっと黄薔薇さま、綾さんはお客様なのに失礼でしょう」
「いいじゃない、本人が淹れると言ってくれているのだから。綾さんも、構わないわよね?」
「はい、もちろんです」
江利子さまのことを蓉子さまが咎めるが、私は一年生であるし、そもそもが手伝いとして呼ばれているのだから、飲み物は私が淹れるのが筋だろう。
そのことに否やは無かった。
「茶葉やカップは向こうにあるからお願いね。由乃ちゃん、手伝ってあげて」
「はい。綾さん、こっちよ」
席を立った私は、由乃さんに案内されて部屋の隅にある流し場の方に向かう。
そして彼女に手渡された紅茶の缶を開けると、それを淹れるための準備を整えていく。
紅茶を美味しく淹れるためには、それ相応の準備と時間が必要である。
私は水を注いだ小さな鍋を火にかけると、少しの間湯が沸くのを待つ。
そして、沸き立つとその湯の一部を注いで器を温める。
やがて由乃さんにも手伝ってもらい注ぎ終えると、私はお盆の上に人数分のカップを乗せて蓉子さまと江利子さまの待つテーブルの方に向かう。
「どうもありがとう、綾さん」
私がお二方の前にカップを置くと、蓉子さまが労いの言葉をかけてくれる。
そして由乃さんの席にも置くと、最後に自分の席に置いて私も座る。
「あら、確かに美味しいわね」
「本当。祥子が淹れてくれる紅茶に勝るとも劣らないわ」
先にカップに口をつけた江利子さまが感想を言うと、少し遅れてカップを傾けた蓉子さまもそう褒めてくれる。
祥子さまとは、確か入学式の時に蓉子さまが口にしておられた彼女の妹だったはずだ。
その人物の紅茶を飲んだことはないが、けれどもそれが蓉子さまにとって褒め言葉であることはよく分かったので、私は少し嬉しくなる。
「それじゃ、綾さん。本題に入らせてもらうわ」
「はい」
そしてカップを置いた蓉子さまが正面にいる私の方を向き、本題を切り出す。
さすが薔薇さまのお一人というべきか、そうすると明らかに室内の空気が引き締まったものとなった。
「山百合会の手伝いを引き受けてもらいたいの」
「はい、おおよその事情は分かっています。薔薇さまがたのお心遣いも」
本来は九人で運営される山百合会が、由乃さんが入学式当日に支倉令さまからロザリオを受け取るという嬉しい誤算があったとはいえ、それでも六人しかいない。
そのため、六人では仕事を回しきれない分を、誰かに手伝ってもらう必要があること。
そうした事情は分かっている。
「あら、何の話かしら?」
「助け船を出してくださりありがとうございます。おかげで、明日からは少しのびのびと過ごせそうです」
微笑みを浮かべたままとぼけてみせる蓉子さまと、その隣の江利子さまへと私は頭を下げる。
私のためにわざわざ助け船を出してくださったことへのお礼は、ぜひとも申し上げておかねばと思っていたのだ。
「綾さんは頭の回転が速いのね。頼もしいわ」
何故だか楽しそうに笑って、江利子さまが私に言葉を返す。
彼女の反応にどこか違和感を覚えつつも、やり取りは続いていく。
「では、綾さんはおおよその事情は理解しているようだから、詳しい説明は省いて、具体的な手伝いの内容だけ説明するわね」
「よろしくお願いします」
「知っての通り、山百合会は薔薇と呼ばれる三人の生徒が中心になって活動している生徒会なの。でも三人だけでは手が回らないから、私たちは自分たちの妹をアシスタントにしているわけ。そのことはご存じ?」
「つぼみ、ですね」
まだ入学して一週間足らずの私だが、最も親しくなったクラスメイトである由乃さんがつぼみであるということもあって、そのことは既に知っていた。
「私にも黄薔薇さまにも、頼もしい妹がいるわ。しかし、残念なことに白薔薇さまだけは妹がいないの」
「妹がいないということは、孫ができる可能性も無いということですか」
今さらそのことを説明し始めた蓉子さまの意図はよく分からなかったが、けれども何の意味もなく説明したりはしないだろう。
私は、考えられる問題を言葉にする。
「もちろん、それも頭が痛い問題なんだけれど。例えば、これから新入生歓迎会があるでしょう?」
「はい」
「白薔薇さまにはアシストする生徒がいないから、このままでは誰かに手伝いを頼まなければならないの」
クラスメイトに頼もうにも、これから三年生は進路のことで忙しくなるから、白薔薇さまの友人をあてにするのは難しいだろう、と薔薇さまたちは言葉を続ける。
確かに、それは目の前のお二方にとっては頭の痛い問題だろう。
「そこで私、ですか」
「そうね。もちろん普段の書類仕事も手伝ってもらいたいのだけど、それと共に必要な時に白薔薇さまのアシストもしてもらいたいの」
「まだどこの部活に入るかは決めていませんが、部活をするつもりなので、毎日は来られないと思うのですが」
フェンシングをしていたので分かるが、部活で練習に打ち込んでいては、どうしてもそちらに時間を取られてしまう。
私としては、薔薇さま方が出してくれた助け船はありがたいし、ぜひ受けたいところなのだが、部活に打ち込む時間との兼ね合いが問題だった。
「あら、綾さんはフェンシング部に入るのではないの? エースの美優さんに勝ったと噂になっていたから、そうだと思っていたのだけど」
私の質問の、意外な部分に食いついてくる蓉子さま。
「確かにイギリスではフェンシングをしていましたが、日本でもフェンシングを続けるか、この機に全く違うことを始めるかはまだ決めていません。ですが、部活自体はせっかくなのでしたいと思っています」
「そうなの。もちろん、部活動と重なった時はそちらを優先してくれて構わないわ。黄薔薇さまの妹の令さんも、剣道部に入っているもの」
「では、お引き受けします。期間は、いつまでになるのですか?」
部活と掛け持ちしても構わないというのなら、何も問題は無い。
普段の学園生活をゆっくりと過ごすためにも、引き受けることを決める。
その上で、いつまでなのかを尋ねる。
まさか、一年間ずっとということはないだろうし。
「そうね……。白薔薇さまか、私の妹の祥子に妹ができるまで。もしくは綾さんに姉ができるまで、というのはどうかしら」
「分かりました。それで構いません」
「ありがとう。では、今日は特に仕事が無いから、明日の放課後からここに来てもらえるかしら。もちろん、掃除が終わった後で構わないわよ」
「はい。明日からよろしくお願いします」
今日は本当に私の面談のためだけにお二方はここに残っていたようで、話が決まると、それで解散になる。
明日からお世話になる蓉子さまと江利子さまに頭を下げると、私は由乃さんも含めた彼女たちと共に部屋を後にしたのだった。