地獄の入り口は確かに実在する。
例えばトルクメニスタンの〈ダルバザガスクレーター〉。ソ連が天然ガス採掘調査中に落盤事故を起こし、直径100メートルになる巨大な穴を開いた。
出て来る有毒ガスを無害化するために点火したら、火は穴から出るガスを苗床に絶え間無く燃え続け、最早地獄の釜の様相を成している。
例えばトルコのプルトニウム。放射性元素の名称にもなった冥界の神の門を奉る寺院がパムッカレに在り、そこは二酸化炭素の放出で近づく者全てを中毒死に処す。
タンザニア北部の炎の湖。微生物によって赤く変色された湖は正に血の池地獄。その水は高いアルカリ性で忽ち生物を石化の毒に侵す。
このように自然、人工問わず、地獄の入り口が作れるのであれば、人ならざる精霊がこの光景を生み出せるのは当然であった。
「が、ぐ、が、あがあ、ギャあああああああああああああああああああ!!!」
けたたましい断末魔をあげて士道は激痛を訴える。
だが士道にできるのはそれ位だ。
今の士道は激痛から逃れようにもそれができない。
コールタールのようなどす黒い沼――いや、黒い底なし沼から抜け出そうとする度に四方八方から手足を撃ち抜かれ、そこから地獄の業火を思わせる青色の炎を噴き出しながら再び黒い沼に引き摺り込まれる。沼に潜む白い蛇のような細い腕で。
腕、膝の関節を、背骨回りを撃ち抜かれ、再生の炎による熱発で何度も発狂した囚人のような雄叫びを上げ、身体を陸に打ち上げられた魚の様にバタ突かせる事が、士道に唯一残された活動だった。
沼に――正確にはそこから生え出て来る細腕に引き摺られながらも士道は手足関節の再生が終わろうと青い炎が消えそうなところで沼に引き摺る白い細腕を振り解こうとしたところで、また手足が撃ち抜かれ、また再生たる青い炎が吹き荒れる。
「ギャ嗚呼ああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
もう何度目かも分からない激痛に喉が潰れるのも厭わず獣声を上げて沼に顔を擦り着けて落ちる。勿論、細腕も士道の四肢に十重二十重に絡み付き、俯せながらもそれは小人による巨人の磔だ。
沼も餌が逃げ切れなくて喜んでるのか、暗さがより一層増したような気さえ感じた。
精霊たちはあまりの惨状に恐怖で足が動かない。目の前に霊力の均衡を失い、暴走した士道がいるのに。
身体が、心が、生物として本能が沼の中に踏み込むのを拒絶している。
「きひひ……」
恐怖と嫌悪、生理的な拒否感を引き起こす沼から逃れる様に視界を反らし、沼が生み出した元凶を見上げる。
「さあ、どうされます?」
当然、士道との経路を開く。
それなのに口から掠れ気味の吐息のみで言葉が出てこない。
そして元凶たる狂三も直視できない。
彼女は沼を囲むように、木々の暗闇から片目と半月の口を歪めて笑っていた。
「「「「きひひ、きーーーーーーひひひひひひひひひひひっひひひひひひひひひひひひひ」」」」
自分たち精霊の周りから笑い声が聞こえる。全方向から笑っている。
亡霊たちに包囲されてるホラー映画の登場人物の心境で思い返した。
「何…………これ?」
皆を纏めた琴里はこれまでの事を思い返した。
『何という事だ! 端末が!」
仄暗い会議室に響き渡ったのは嘆きの叫びだった。
しかし、その声の主は実際にここにはいない。部屋の中央に置かれた円卓。それを囲むように投影された立体映像の一つが絶叫を上げたのだ。
この場にいるのは五名。
実際に円卓に着いてる白髪の男――エリオット・ウッドマンと、その背後に控える様に立った眼鏡の女、カレン・メイザース。
他円卓には世界各地に点在する〈ラタトスク〉の支部から立体映像を介して参加している円卓会議の幹部三名。
ブルドッグを思わせる初老の男――ローランド・クライトン
痩身に片眼鏡を掛けたどこかネズミのような男――フレイザー・ダグラス
カートゥーンに出て来る意地の悪い猫のような雰囲気を持った男――ギリアン・オムステッド
立体映像の三名は血色失せた表情で円卓の頭上に投影された映像を見ていた。
この場にいない円卓会議最後の一人――五河琴里と今まで士道が封印した精霊7人。
そして彼女達の前方で捨てられた一見黒い携帯端末が拡大して映されてる。
士道が暴走した時に殺害する衛星軌道兵器〈ダインスレイフ〉の起動端末が、中央に蜘蛛の巣を彷彿とさせる弾痕を空けて煙を上げていた。
精霊の霊力を封印してきた少年・五河士道が突如霊力を暴走させ、凄まじい霊力の奔流と速度で東南東に移動し始めたのだ。
そんな最悪の事態に備えて衛星兵器〈ダインスレイフ〉を開発したのだが、起動端末を渡された琴里が起動に躊躇してる間にまだ封印を果たしてない精霊・時崎狂三が割り込み、端末を奪われ、破壊されてしまったのだ。
このままでは市街地に甚大な被害が出る事に三人は嘆いていたのだ。
『ウッドマン卿』
ダグラスが意見する。
『このままでは本当に大規模空間震が発生してしまう。〈ダインスレイフ〉の発動権限を五河指令のみに与えたのはなぜです?』
彼の意見に同調するようにオムステッドが首肯する。
『いくら優秀とは言え、彼女はまだジュニアハイの生徒、それに義理とはいえ兄を討つ等、出来ると思いかね?』
――だが君たちでは躊躇いなく撃つに違いないからだ。
ウッドマンは心中でその意見を吐き捨てた。
精霊を救うための組織〈ラタトスク〉。しかし心からその理念に則って行動しているのは、ウッドマンを中心とした派閥のみだった。他の面子は程度の差こそあれ、他に某かの旨味を見つけて参加しているに過ぎない。
だから〈ダインスレイフ〉の発動権限を安心して託せるのは琴里のみだった。
「落ち着きたまえ、諸君」
ウッドマンは円卓を睥睨するように見ながら静かに声を発した。
「確かに今起きてるのは最悪の事態だ。そして今責任の所在を追及する時かね?」
『そんな事は分かってる! 〈ダインスレイフ〉の起動端末は〈ナイトメア〉に壊された。この状況をどうしてくれる!?』
「そうだな。端末が破壊された以上、事は五河指令に任せるしかない」
『そんな悠長な事言ってる場合か! このままでは南関東大空災が再来するぞ!』
「ならば君たちはどうする? 応援を呼んで五河士道を始末するか? 場所によっては地球の裏側から遥々日本へ?」
ウッドマンの指摘に立体映像の三人は渋面を作る。今自分の動かせる支部は日本から遥か彼方の国に在るからだ。到底間に合わない。
これでいい。手が出せないなら琴里は立ち上がって士道を止めればよい。
〈ナイトメア〉時崎狂三が何を企んでるか見当も付かないが士道を止められるのならば、それに上手く便乗すれば事態は収束すると琴里達は読んだ。ならばウッドマンは事態を見守ればよい。円卓の三人は日本支部へは派閥はない筈。
ウッドマンは心中ほくそ笑むと映像の霊力値が瞬く間に上昇し、けたたましいアラームが鳴る。
『いや、もう駄目だ! 霊力の収束は最早不可能。ならば事前の策を打つのみ』
そう言ってクライトンは懐から端末を取り出すと手早く操作する。それは奇しくも黒く塗りつぶされていた。
「待てクライトン。それは、まさか!?」
『備えあれば憂い無し。あの国の諺でしたな。必死に探せば抜け穴はあるのですよ』
「やめろクライトン! それは――」
もう遅い。円卓の中央に高く現われた暗い画面に『Ratatoskr』と緑の雫とそこに隠れた綴りが出た後、直ぐに消えて『Dainsleif STANDBY』下の灰色の空欄が*で埋め尽くされる。
暗い画面は切り替わり、暗いままかと思いきや、金色の斑点で浮かんだ日本列島の輪郭が浮かび、その内一画が何度も拡大していく。ダインスレイヴから見た日本列島の夜間映像だ。
その一画、首都圏が拡大。
そこから更に関東甲信越、天宮市郊外、森へと拡大され、現在静止してる士道へ標準を――
(何? これは………花?)
ダインスレイヴは士道を抹殺させるための兵器だ。当然、士道の内に封印された微弱な霊波を感知して自動追尾する機能もある筈だ。
なのに何故これが、そもそも士道は何故翼型の天使もどきを顕現させて飛翔すると南東へ飛んで行ったのだろう?
それにダインスレイヴのカメラが映してるのは――
「「「「虹色の……花?」」」」
「…………悪かったわね。みっともない姿見せて」
琴里は気まずそうに顔をそらした。
「いつも偉そうに啖呵切ったのに馬鹿な事考えて、それを狂三になじられる始末。これじゃ司令官としても、妹としても失格ね」
「そんな事ない。あなたが士道の妹で良かった」
折紙が優しく琴里の頭を撫でる。
そのくすぐったさに少しは頬を緩める。
それが伝染したように他の精霊たちも顔を緩めた。
強いて例外は七罪だ。
「で、結局どうするの? 士道物凄い勢いで飛んじゃって、圧倒いう間よ。追い付けるの?」
「ふ、逃走なぞ、我らの八舞の手に掛かれば亀も同然! 容易く追い越してやるわ!」
「指摘。これは飛翔競争ではなく捕縛です。士道の先を行ってどうするのですか?」
「ち、違うし! 分かってるし! 只士道の速さに気圧されてるんじゃないし!」
「余裕。当然です。士道が夕弦達の霊力を顕現させてるかと言って、耶俱矢と夕弦に速さ比べで上を行く等、稚児の背伸びにしては無謀の極みです」
「そう! それを言ってたのよあたし!」
「………残念だけど、無理よ」
「何よ琴里! あたしらが信用ならないって事?」
「怪訝。士道の追跡に耶俱矢と夕弦では不満というのですか?」
「そう言う事じゃないのよ。仮に追い付けたとしてそれが出来るのはあんた達二人だけ。只でされ霊力が残り少ないのに、私達が後から合流するとして、それまで暴走状態の士道を押さえつけられるの?」
尤もな指摘に耶俱矢と夕弦は黙ってしまう。
これは暴走した士道の霊力鎮静化。そのステップは・士道の追跡⇒動きを拘束⇒精霊全員とキス⇒これで士道の霊力は鎮静する。
無論その場に精霊全員がいなければいけない。霊力を周囲に暴風雨の様に振り翳し、衝撃波を散らす士道に近づいてキスしなければならない。
霊力を微量且つ数分少々しか行使できない精霊が莫大な霊力を発露する士道にどう立ち向かうのか。仮に追い付いて拘束しても他が合流する前に士道は振り解くだろう。
七罪は最初から気付いてたのだろう。人間社会に馴染んでただけある。
「いっそこのまま放置ってなくない? あんなスピード出してまだ余力ありそうだよ。例の衛星砲、だいんすれいぶだっけ? ボタン壊れたんなら行き先予想して行けば――」
「そうは言っても、フラクシナスは修理中で転送装置は使えないのよ。進路を予想したところでそこまでどうやって移動するのよ」
「少しは元気になったようだな琴里。しかしシドーが苦しんでるのだ。四の五の言わずにやるしかない」
「八舞姉妹は先行して行けばよい。村雨先生からこんなモノを預かった」
折紙が見せたのはドッグタグみたいな金属片。しかし、虹色のメッキが鍍されてる。
「それは、大規模な転送用顕現装置(ビフレスト)。確かに、でもそれは座標を正確に指定しないと。だから八舞姉妹に先行させて――」
琴里の熟考中に突如インカムからけたたましいアラームが鼓膜を叩きつける。
「何!?」
『緊急事態です指令! 10km先に膨大な生成魔力を感知! すぐ近くです!』
『どういう事だ!? ここには何もないぞ!』
『……立体的に解析してくれ』
『解析完了。位置特定。付近の高度3万6千キロメートル! 衛星軌道上です!』
そんな魔力発生源なぞ一つしかない。
「ダインスレイヴが起動した!? まさか、狂三があれを打ち抜いて――」
「馬鹿言わないで! 起動直前だからって弾丸で反応する訳がないわ。それより士道は?」
『それが……魔力反応と同時に止まって――『光学映像、出ます』『これは……花?』
「何を言ってるのよ。状況を報告しなさい。士道は10キロ先で――」
情報把握は天の裁きで遮られた。重々しい曇天が中心に直線状の閃光で一石投じられた湖面のように晴れ上がり、遅れて凄まじい衝撃波が琴里達を、周囲の木立を襲う。
「「「「きゃーーーーーーーーーーーーーーーー」」」」
「「ぐぬぬぬうううううううううううううううう!!!!」」
「「ぎゃあああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!」」
悲鳴を上げ、地面にしがみ付き、それができず木々に激突しても直線の閃光(ダインスレイヴ)は一向に照射が止まる気配がない。まるで希望をいまだに持ち続ける彼女たちを挫こうと見せつけるかのようだ。
「ぐ、う、う、…………し、ど、う………しどう……士道…士道!士道、士道!士道!士道!シドウーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
必死の叫びに勘弁したのか、徐々に(ダインスレイヴ)の出力が弱まっていき、金色の昼空はやがて元の星一つない不吉の夜空に戻っていった。
夜の戸張が落ち、誰も言葉を発さない。何故ダインスレイヴが照射を止めた等、兵器そのものが壊れたかあるいは……
琴里はただ無言で照射された方向に手を伸ばす。
「…………嘘でしょ。……………………しど――」
最後まで言えなかった。突如吹き上がった閃光で遮られた。
『当魔力砲、砲身加熱量、危険域に達します。ダインスレイヴ一時冷却のために発射中断します』
ダインスレイヴのカメラから出てくるアナウンスが乾いた事情を告げると、白一色の映像が暗く、しかし肝心の現状を映してくれた。
『何!? 霊波が……消えてない!』
『何だあの花は!? イツカシドウの天使なのか?』
『このためのダインスレイヴを……塞ぎ切っただと!!!!』
映像には拡大された虹色の花弁。しかしそれは、所々欠損していたものの、輪郭を保っていた。
残った花弁は回転しながら逆立ち蕾の形に引き絞る。さながら砲身のように。
『霊力増大。ただちに回避行動に――』
映像が再び白い光一色に満たされた途端に暗転。『CONTROL LOST』と表示される。
『砲身及び受信アンテナ破損。再充填、発射不能。コントロール、不能』
ラタトスク本部のサポートAIが紡ぐ渇いたソプラノを円卓は受け入れられなかった。只目の前の砂嵐の映像に口を開けて呆気にとられてるだけだ。
『『『何だと!? ダインスレイヴを、破壊したというのか』』』
エリオットは内心安堵した。どうやら士道の命はこちらの采配に左右される事はない。
しかし、五河士道討滅兵器が通用しないのは流石に予想外だった。暴走状態の士道が真っ向から打ち破るとは」。
『何故だ!? ダインスレイヴ開発に当たってイツカシドウの潜在性能は解析した筈だ。それがどうしてこんな結果に!?』
クライトンの台詞が他三人の心情を代弁し皆の口を塞いだ。誰も士道の予想以上の反撃に狼狽えるばかり。
強いて理解したのは、
「単純に、イツカシドウに抗する殺傷力の前提を履き違えたから」
秘書カレン・N・メイザースの囁きに議長エリオットが眉を寄せる。
右手に罅割れが木霊する。
「つまり、士道さんを魔力砲で葬る事事体が間違ってるのですわ」
さらに罅割れが響く。
「そもそも人間は顕現装置を戦闘用に改造して精霊に挑んで、これまで何の成果も出せませんじゃありませんか。それがどうしてあの衛星兵器は士道さんを殺せるとお考えですの? 単に士道さんが霊力持ってるだけの人間だからではありませんのに」
言いながら狂三は正面上空に花弁の花を向けて防御態勢を敷く士道を余裕の笑みで眺める。左手に短銃を突き付けて。
「琴里さん言ってましたわ。士道さんと琴里さんを調べつくしてダインスレイヴを開発したと」
狂三は弓張月の笑みを口に歪ませるばかりで動いてない。
囁いたのは足元の影からだ。
「そう。ラタトスクが二人を回収した五年前に解析し、ダインスレイヴを開発しました。士道さんを殺すには十分な兵器ですわ」
「成程。つまり五年前と今では想定そのものが成り立たないと」
罅同士が繋がり橋を渡した。
「正解ですわ。満点ですわ。静止衛星軌道上という絶好の死角に隠された、炎の精霊さんの再生能力を上回る、大出力の魔力砲。且つての、五年前の士道さんを殺すための兵器であって、8人もの精霊の霊力を内包した現在の士道さんを殺すには、基本性能が心許ないのですわ」
「つまり、こうして士道さんが暴走して、実行しても失敗する公算が大きいって事でしたか。例えば、こうしてダインスレイヴを士道さんオリジナルの霊力砲〈瞬閃轟爆波〉で返り討ちするとか」
影から漏れ出る含み笑いと同時に罅割れが蜘蛛の巣を描く。
「ですが、こうして士道さんの気を逸らしてくれましたわ。そういう意味では、こちらの事情に貢献してくれて感謝ですわ」
銃声が鳴り響いた。狂三の短銃からではなく士道のいる空の真下から。
その所為か、士道が上空から虹色の翼を解いて落下した。
「士道さん、優秀賞、役に立ちましたわよ」
狂三は右手に握った物を見る。
それは、罅割れて蜘蛛の巣が張られ尽くした、歯車が露出した懐中時計だった。
「霊力の塊?」
休憩室で天体観測デートを終えた狂三は士道の左手に浮かぶ霊力の球体を見やる。
「ああ。最優秀賞としてこれをやるが、只やるんじゃ面白くないな」
にやけた顔で士道は空いた右手を掲げ、霊力の光を放つ。
光の消えた右手に残るは鏡。七罪の天使・贋造魔女(ハニエル)だ。
士道は鏡の光を左手の霊力塊に当てると、忽ち掌に収まるサイズの懐中時計に変化した。
「……それは、まさか!?」
「そう、刻々帝(ザフキエル)。模造品だけどな。狂三と君達の一番の違いは天使の有無だろっ。これをどうしようと君の勝手だ。狂三の霊力の足しにするも良し。でもこれなら回数制限有でも、使える筈だ」
そう言って狂三に懐中時計〈刻々帝(偽)〉を持たされた。
「士道さん、ありがたく使わせて頂きましたわ」
掌の〈刻々帝(偽)〉が、形作る霊力そのものを底尽きて粉々に砕け散り、虹色に光る砂粒大の欠片は地面に触れる直前で消え去った。
これを使って狂三はダインスレイヴの猛攻を花弁の盾で防御してる最中に士道に追いつき、霊力砲で迎撃した後から相手の動きを停止させる【七の弾(ザイン)】を撃ち、反射的に防御した士道を止め、その後で死角から分身体による一斉掃射で撃ち落とす。
どうやって追いつけばいいかが課題だったが、ラタトスクがやってくれたようだ。
「ではわたくし達、今宵の晩餐と、いえ、最後のデートを終わらせましょう」
〈刻々帝(偽)〉無き右手を地面に着けて軽い前傾姿勢をとると、足元の影が地面を一気に侵食し出し、狂三自身も地面スレスレを滑空する様に駆け抜ける。
木々を駆け抜けて狂三は地面に起き上がった士道を視界に捉えた。
対する士道は撃ち落とした元凶が眼前の狂三だと気付いて咆哮する。
それと同時に体内から森林一帯が更地になる程暴風雨の如き霊力の奔流を熾した。
銃声!? 耶俱矢、夕弦、折紙を連れて先行して! 一刻を争うわ!」
「合点承知!」
「受諾。マスター折紙も同伴ともなれば鬼に金棒です」
八舞姉妹は折紙を二人で挟むように抱えると対となる片翼の天使〈颶風騎士(ラファエル)〉を顕現させて士道が消えた先へ飛ぶ。
「私たちも急ぐわよ。狂三が危険な相手には違いないわ。どんな聖断を携えようと、あいつは自分の邪魔を奴には容赦ないわ。霊力が少ない中、交戦だって――」
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!!!!」
大気を震わせるような断末魔に琴里は遮られた。
音量の壮絶さだけじゃない。音源は聞きなれた士道の悲鳴だ!
「何だ!?」「!!!!、何!?」「ひ!?」「ぎゃああああああ!」「な、何ですかーーーー!?」
断末魔に動揺してる間に残った精霊たちの身体が光る粒子に包まれる。
「!? 何だこれは?」
「ビフレストの転送予兆。もう?」
瞬く間に琴里たちは転送され、精霊全員がすぐに揃った。
「耶倶矢、夕弦、士道は?」
「それが……」
「戦慄。なんておぞましい光景でしょう」
「時崎狂三」
三人のすぐ先は既に人外魔境の様相だった。
いくら真夜中の暗闇でも星明りで地面の不規則な凹凸に小石や雑草、枯れ枝が見えていた。
しかし、まるで墨で塗りたくったように闇が光を吸収して落とし穴のように地面が一切見えていない。
そして真ん中で蹲ってる白い蛇壷は綺麗な青白い炎がはみ出た四肢を中心に燃え上がってる。
突然全方向から銃声が響き、前方から、左右から、後方から黒い糸の軌跡が蛇壷に群がった。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■……」
黒糸が着弾した途端、蛇壷から士道の頭部が顔を出した。この蛇壷こそが士道だったのだ。
もう既に声になってなかった。喉の水分が枯れ切ったのか、そもとも自らの炎熱で焼き切れたのか、蛇壷は既に悲鳴の様相を呈してない只肺の空気が喉を通過する擦過音となり果ててる。
はみ出た四肢は再び琴里の再生の炎で燃え上がり、陸に打ち上げられた魚みたいに黒い沼にバタつかせるばかりだ。
それも目も口もない5つの髭持ちの白蛇に再び噛み付かれる。
「シドー!」
「士道さん!」『士道くん!』
「「「士道!」」」
駆けだそうとして黒い沼に足が入った。
「!…………」
虚脱感と圧迫感。一気に口の中の酸素が底を尽いたかのような眩暈に本能的に後退してしまった。
「これは、覚えがある。確か狂三が学校で皆を苦しめた……」
「時喰みの城」
「正解、意外と早かったですわね。あのままベッドで蹲ってるかと思いましたわ」
琴里達とは反対側の岸辺に狂三がいた。短銃を左手に中央の蛇壷と化した士道に標準を向けてる。
それだけではない。正面にいる和服フリルファッションの狂三の他に後と、左右に似たような気配が、赤い単眼と三日月に吊り上がった口元が木陰に浮かんでいた。
「何のつもりだ狂三!? これはどういう事だ!?」
「わたくしの目的はただ一つですわ。士道さんが孕んでる貴女方の霊力。それが思わぬ形で漏出しては勿体無いではありませんの。できれば拾い食いという野良犬染みた真似はしたくありませんが、ここまでお祭り騒ぎに昂じられますとついつい便乗したくなるのですわ」
「時崎狂三、これが貴女の秘策?」
「ええ。元は琴里さんを屠るための対策で考えたものですが、もう取るに足りませんから士道さんの霊力をいただく為に使わせましたの。どうでして?」
時喰みの城で霊力を吸い取る事で琴里の再生能力含めた精霊の力全部封じてから前後左右の狂三の分身体で再生の難しそうな四肢の関節を重点的に撃ち抜いて足止めし、対称に群がる白蛇の群れ、もとい影に潜んだ狂三の分身体が手を伸ばして相手の全身を拘束し続ける。
やがて相手の霊力が底尽いて捕食完了。
これが対イフリート攻略戦法。識別名に因んで壷帰り(オペレーションリターンポット)。
「ああ怖いでしょう。足が竦むでしょう。帰りたいでしょう。わたくし達もあなた達に食事の邪魔はおろか見られるのも好みませんの。そろそろお帰りになりません事?」
「ふざけるな! このまま士道を食われてたまるか! 今すぐ止めるのだ!」
「我ら八舞の共有財産を喰もうとは不遜極まりない。その対価、貴様の血肉で払わすぞ!」
「激怒。耶俱矢と夕弦のいる前で士道を貪るとは、貴女を自殺志願者と見做します」
「し、士道を、食べちゃ駄目です!」『狂三ちゃん、慈悲深さの四糸乃に寛容で定評なよしのんも怒り心頭だよ』
「い、今すぐ士道を返して!!!!」
精霊達が敵意剥き出しで狂三に啖呵切るが狂三は意に介さないどころか空いた右手で手招きした。
気付いてるのだ。狂三の時喰みの城は依然より強力で普通では自分らの生命力をあっと言う間に絞り尽くす事を。
「……成程、そう言う事ね。ホンットにムカつくわ」
琴里が俯いて拳を震わせていた。
「琴里?」
「思い出して。こうして追いついても士道は霊力の暴走でマトモに手が出せなかったのよ。それがこんなに無防備で――」
「無防備? つまり絶好のチャンスって事?」
「そうよ! 自分が足止めするから、その隙にケリ着けろって事よ!」
狂三が壷帰りで足止めしてその隙にキスして経穴を正常化させる。それが一番最良な手段。
彼女が一番の協力者であった。
「別にどう思おうと勝手ですけど、それならどうするつもりですの? わたくしはコレを解除する気はありませんし、貴女達はわたくしの影に入るのが怖いのでしょう。大事な大事な騎士様に任せればよろしいのでは? ああ、当の騎士様ですものねぇ。貴女達怖気づいて。もしかしたら声援を送れば――」
「その耳障りな口を閉じなさい! 燃えカスにするわよ!」
怒号と同時に中心に露出した肌が火傷するような熱波が噴き、渦巻く。
熱波の発生源は琴里だった。霊装を限定して顕現し、熱波を吹き荒らしてる。
しかし、目は涙を溜めながらも強い怒気を発散させ、歯を食いしばって酷く苦みに耐え忍んでた。
「わたし達が、いつまでも士道に甘えたがってる小娘共だと思うなーーーーーーーー!」
激昂を気合に変えて熱波を推進剤に士道目掛けて影の沼に飛翔した。ロケットみたいに。
「が……!」
突然の虚脱感に琴里は失速して顔から地面に落ち滑った。
――喉が熱い! 肌が冷たい! 瞼が重い…… 頭が揺れる……… 息が続かない………… ホントに泥の中みたい手足が動かない………… でも士道が……。
………あと少しで――「ぎゃああああああああああああああああああああああああああ!」
フラついてでも立って歩いて行く琴里の身体に青の炎が噴き、激痛でまた倒れた。
「不用意に射線上に立たないくれません事? こうして撃たれますわよ」
「狂三、貴様あああ!――」
「士、道、…あ……」
限定霊装が星粒と消えた。只でさえ経穴が狭く保有霊力が少ない状態で霊力を吸う結界に入ったら枯渇は当然だった。
――痛いよ、寒いよ、熱いよ、痒いよ、暗いよ、眩しいよ、苦しいよ、霞むよ、怠いよ。これが、士道に背負わせた罰、重み、苦しみ、寂しさ、酷さ。
わたしは、士道にこんな事を強いてきたのか? 優しいお兄ちゃんで在り続ける彼に付け込んで、災厄の元凶を、か弱き子羊達を唆して、彼の自己犠牲性を改めるつもりもなく、危険地帯に飛び込ませて……。でも――
「ぎゃあああああああ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!」
這いずって、やっと士道の眼前。
しかし士道は獣性の形相で上半身を海老反らせ、右手に赤い小刀を振り上げてた。
見た途端琴里の胸部に小刀が突き刺された。突然の凶刃に激痛だらけの身体は痛みすら感じず、兄の凶行によるショックが大きかった。何度も喧嘩した事もあっても士道が自分に手を上げるなど。
胸部に刺さった小刀が煙に消えた。
「ぎゃあああああああ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!」
士道と同じ悲鳴を上げ、全身がのたうち回り、手足が暴れて振り回す。
――痛いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいーーーーーーーーーーーーーーーー!
あの刃、わたしの霊力だ!
右腕関節を撃ち抜く筈の狂三の銃弾は琴里が射線上に割り込んだ所為で当たらず、士道は自由になった右腕で背中の枝翼型の天使から残った霊力の葉を毟り取って、偶然なのか琴里の霊力葉を刃状にして刺したのだ。
琴里の身体は、枯渇し切ったところで突然霊力が触れて全身が霊力を求めて脈動する。
僅かな霊力を一滴残らず搾り取り、全身に浸透させた結果全身が、心臓が破裂するんじゃないかの如き激痛を迸らせた。
乱暴な霊力供給に手足が暴れ、指先は激痛しかない。
それでも両手を士道に噛み付かせて彼の顔に落下させるようにキスをした。顔面に頭突きしようとしたら口同士がぶつかり合ったような、擦れ合ったようなロマンの欠片のない無様なキス。
それでも経穴が戻り、琴里の全身をたま脈動の激痛が襲った。
――嗚呼、霊力って、こんなに苦しかったんだ。自分のですら、こんなに痛かったんだ。不味かったんだ。苦かったんだ。
こんなものを、いままで呑ませて来たんだ。
自分のエゴの為に、同胞を言い訳にして、只そばにいたかっただけなのに、甘え切って、どうしてこうなったんだろう? お兄ちゃん。答えてよ。謝るから……
いままで自分の為に頑張り、苦しんできた彼に届かない声で求めながら琴里の意識は沈殿した。
『琴里さーーん! 離れてくださぁーーーーーーーーーい!』
限定霊装を顕現した美九が独奏曲と輪舞曲で琴里に退却を迫るも反応がまるでない。僅かに身体が脈動するだけだ。
『美九、琴里との経穴が正常化した。だがもう美九の歌ですら動けないくらい衰弱しきってる。早く結界から出さないと』
インカムの令音から琴里の容態が告げられる。既に危険域のアラームも鼓膜に引っ切り無しに響いていた。
琴里を移動させたいのに、すぐにはできない。影の結界は一気に霊力を枯渇させる。莫大な霊力を内包してる士道ですら身動きが取れないのだ。
「なら、『琴里さあーーーーーーーーーーーーーーん! ごめんなさーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーい!』
声の衝撃波で琴里を影の結界から無理矢理吹っ飛ばした。琴里は十回以上も転がり、結界から出たところで終えた。
『乱暴な手だが、結果オーライだ。しかし、この結界の濃度の中どうやって――』
令音の考察が美九に届いてない。
美九は士道に背を向けると振り返って士道の位置を確認。
見やると地面に向けて――
『あーーーーーーーーーーーーーーーっ!……………………』
声の衝撃波を出して自身を飛ばし、結界で霊力が枯渇し切っても慣性で到達させる。
士道に着ける為の力加減がぶっつけ本番だったが上手くいった。美九は霊装を霧散させ、糸が切れた人形の様に四肢を落としながらも士道の傍に墜落した。
四肢が碌に支えにならず背中を強打しながらも必死に上体を曲げて士道に迫った。
「だ、あ、……っ!」
先が言えない。喉が焼けるみたいな渇きが、声を音に、摩擦に変えた。
――また、声が出なくなっちゃった。
これでもう三度目だ。ファンのあらぬ嘲笑と視線に心が折れた時。DEM支社で士道を追い掛け、その過程で必死に霊力を熾して枯渇した時。
そして今回、士道を救うために命を蝕む結界に突貫した。
――酷いキスですね。愛を囁く事すらできないなんて。只の吐息しか与えられないなんて。わたしの為にファンになってくれたのに、歌を聴いてくれたのに、約束を守ってくれたのに、傍にいてくれたのに。そんなわたしに居てくれますか?
必死に身体を這って、僅かに触れただけの気付かないようなキスを、士道にしてから美九の意識は微睡みに墜ちていった。
「美九! 葉を食い縛れ!」
「謝罪。後で耶俱矢を一日愛でて差し上げます」
「ちょっ!? 止めてそれ! 流石に美九相手は止めて!」
掛け合いながら耶俱矢と夕弦が美九を突風で結界から追い出す。
それと同時に二人の霊装と天使が煙と消え、パーティ衣装に戻った。
「く、早々に消失とは、我ながら未熟さを悔いるばかりだ」
「辛酸。先に接吻された事もありますしね。耶俱矢と夕弦のファーストキスの相手に機に乗じて抜け駆けはご法度です」
二人の渋面に後ろから七罪が贋造魔女(ハニエル)を出す。
『千変万化鏡(カリドスクーペ)』
箒型の天使が光に包まれ、光の塊が分裂して二人に吸着。背中に『颶風騎士』が顕現した。
「身に余る検診に感謝だぞ七罪。後で貴様を我の眷属にしてやろうぞ」
「感激。地獄に仏とは正にこの事ですね。以前のグレた性格を鑑みて最早淤泥不染の徳!八舞、いえわたしたちにとっての蓮華、いえ菩薩です。崇め奉りましょう」
「い、いいから格好つけて難しい台詞言ってないでさっさと行ってよ!」
「良し! ではゆくぞ皆」
「進撃。では菩薩の七罪。一緒に士道を救いましょう」
「え? ちょっと――」
異議を唱える余裕無く、耶具矢と夕弦は七罪を身体でサンドウィッチして滑空する。
「が!……」
「「っ!……ぐおおおああああああたああああああああれれれれれれれ」」
影の結界で天使を霧散させて尚、削るように地面を滑って士道の前に三人に倒れ伏した。
それでも三人は腕で必死に地面を噛み付いて這いずり、七罪を士道の顔面に触れさせた。
――うっわ、酷いくらいに不細工だよ、士道。でも、それは…あたしもか……
皆あたしを綺麗にしてくれた。ありのままのあたしを認めてくれた。あたしを可愛いと言ってくれた。受け入れてくれた。
――でもまた、あたしの顔、不っ細工になっちゃった。霊力底を尽いて、地面に這いずって、泥臭くなって。でも士道も泣き喚いて、目も真っ赤で、ホッペも皮が剥がれかけてて、唇も罅割れて。
「ん……………………………………………………………………………………………!」
七罪も歯を火事場の馬鹿力出さん限り食い縛って全身し、顔を刺しこんで士道の渇いた唇にキスをした。
――うえ、へ、へ、へ、士道も、メッチャ醜男だよ。あんなにわんわん泣いちゃあねえ。
――だから士道、今度起きたら、またメイクしよう。そうでなきゃ一緒に……
七罪は僅かに口角を上げて士道に微笑んで目を閉じた。
――士道。あたしと夕弦を、耶俱矢と夕弦を邪魔した人間。
それだけじゃない。わたしたちの話を聞いた人間。わたしたち二人の関係割り込んだ人間。わたしたちの決闘に割り込んだ人間。わたしたちに必死になった人間。わたしたちと一緒に走った人間。わたしたちが迫った人間。わたしたちに文句を言った人間。
わたしたちを選んでくれた人間
だから二人は士道をモノにした。初めてだったのだ。二人の世界に割り込んで、新しい世界に、二人を連れてくれた。
――だから、我らは士道を共有財産に、…永続。これからも耶具矢と夕弦と共に……
ここから先は、二人は言わなかった。否、既に彼に言い尽くした。だから後は、二人とも爪を深く沼に食いこませていつもより深く、誰が先か競うように迫って、二人の唇を擦った。
「七罪―――――――――――! 耶具矢―――――――――――――――――――! 夕弦―――――――――――――――――――――――!」
十香が岸辺で三人の名前を呼ぶが、既に何の反応もない。
代わりに耳元経穴正常化のアラームが鳴った。
だが結界内では衰弱死は免れない。
「私がやる」
折紙が限定霊装を顕現させると天使を飛ばし、三人の衣服に引っ掛けると遥か先まで牽引した。
「よし、これで後は――」
突如蛇壺が爆発した。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!」
雄叫びを挙げて周囲に霊力の奔流を振りかざし、結界で見えなくなってた雑草や小石を、そして人型の影を吹き飛ばした。
「なんだ!?」
「こ、この人は?」
「時崎狂三?」
十香の足元に転がった狂三を見やる。
皆同じ顔立ちだが、服装は来禅の制服から分厚そうなコートにマフラーの着膨れ姿、美九の通う竜胆寺にはてはメイド服までという変わり種まであった。
「こやつらは……」
「これらが士道を影に潜んで拘束してた分身体。……まずい! 今士道は――」
「ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴっヴヴヴヴっヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴ……」
幽鬼のように、四肢を撃ち抜かれて、小鹿みたいな、安普請な人形みたいに、素人が作った案山子みたいな震えた足腰で士道は立ち上がってた。
歯が寒さで震えるみたいなガチガチと歯軋りしながら呻き、目は獣みたいに瞳孔が開き切っていた。
一歩踏み出そうとして四肢が青の業火で焼き尽されるがそれでも四肢を重く踏み鳴らし、微塵も堪えてない。
「止め切れてない」
「し、士道さんが――」『うひゃーーーー士道くん怒髪天だよ』
只でさえ衰弱死し兼ねない影の結界なのに鬼気迫る士道に迂闊に近づけない。間合いに入ろうものならものなら咬みつきかねない手負いの獣特有の怒気を撒き散らしていた。
「シドー……」
「士道さん」
物怖じする間に手で制した。
「私が行く」
折紙が出ると限定霊装のまま片手でハンドサインを複数形作ると上空に空高く飛び上がった。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!」
士道が折紙に咆哮したと同時に再び四肢が青く炎上する。折紙のハンドサインで狂三に跳躍したら斉射するよう指示した即席の連携。
折紙が自衛隊用のハンドサインに狂三が空いた手で了解のサインで応じたからこその成功だった。狂三は分身体を使ってあちこちに諜報活動してるなら言語や暗号も熟知してると読んでやってみたらまさかの成功。元自衛官として機密漏洩を憂うのと即席コンビの意思疎通を喜ぶのが僅かに強かった。
折紙は結界で霊装を消されながらも士道の許に落下し、絡みつくように士道諸共倒れ伏した。
――士道、あの時と立場逆だね。
五年前のあの時、一週目は目の前で両親亡くして、私は赤子みたいにわんわん泣いて、そんな私を抱き締めてくれて、二週目は両親を身を挺して庇ってくれて、
今度は私がそれをできて、本当に嬉しい。
手足の感覚が徐々に薄れてくのが分かる。必死にもがく彼を抑えないといけないのに組技が指先が熱と痺れでどうなってるのか分からない。
手足が、胴体が、火箸で刺し貫かれたような痛みが全身に走り、歯を食い縛る。
眼球を回すと狂三が憎らしい笑みを浮かべながら短銃を向けた。知らず知らずの内に射線上に入ってしまったようだ。身体のあちこちに弾痕が穿ってた。
それでも顎を使い、背筋を脈動させ、胸筋を這いずって士道の唇に触れた。
――士道、私は嬉しいよ。貴方、時折何考えてるか分からない時があるから。
だから、こうして感情を剥き出しにする様が嬉しかった。私みたいに心を表に出し難い顔より、物事を理路整然と纏めるより、正直に感情を露わにする方が良いと思うよ。
――だから、士道…せめて……私には何でも良いから、味方になるから、どんな事でも応じるから、こうして、………大声上げて、……………色んな顔、見せて………………。
「折紙―――――――――――――――――――!」
「お、折紙さああーーーーーーーーーーーーーーーーん! 目を覚ましてくださぁーーーーーーーーーい!」
『折紙ちゃあああああああああああああああああん! 士道くんを独り占めしちゃ、駄目―――――――――――――――――――――――――――――――――――――!』
アラームで折紙の経穴正常化は知ったが、折紙は士道にしがみ付いたまま動かず、士道は仰向けになった亀みたいに手足を振り回す。
『十香に四糸乃。シンは今折紙に寝技を組まれて動きを制限されてるが、それも時間の問題だ。今のうちに――』
「「な!」」
士道が自信にしがみ付いた折紙をそのままで枝翼を杖に立ち上がったのだ。
霊力も殆ど無いのに尋常じゃない膂力で人一人分の拘束のままで二人を圧倒する覇気を熾していた。
近くにいるだけで足元が震え、息が詰まり、歯が噛み合わず、冷や汗が肌に、衣服を貼り付ける。
歩くのではなく、靴底を引き摺るような牛歩の前進なのに心臓が破裂寸前で、今すぐに逃げ――
『四糸乃。最初に士道くんに会ったくれた時、士道くんは何してくれたの?』
「え?」
四糸乃は、左手に棲むよしのんを見やる。
『四糸乃が誰かと話しかけるなんて、よしのんと二人だけだったなら考えられない事だよ。
でも今は、士道くんだけじゃなくて、十香ちゃんや琴里ちゃん、耶具矢ちゃんと夕弦ちゃん、美九ちゃんに折紙ちゃんともよく話すようになったじゃない。よしのんとしては、いつか誰かと友達なって仲良くしたかったのが、よしのんの将来設計なんだけど、それが直ぐに叶ったちゃったじゃない? 四糸乃がここまでできたのって士道くんのためじゃない。士道くんが身体張って来てくれたから、四糸乃も士道くんに近づいたんだよね』
そうだ。士道は且つて、よしのんを失った四糸乃に再び合わせる為に、暴走した四糸乃に傷だらけになりながらも来てくれたんだ。
「士道さんが、わたしの、味方になってくれたから」
『でも、その時の士道くん、凄く苦労したよね。四糸乃が街に雪降らせて、周りに吹雪吹かせて、それでも士道くんはきてくれたんでしょ』
「うん。だから――」
『そうだよ四糸乃。どうするかは分かるよね?』
四糸乃は限定霊装を纏うと天使・氷結傀儡〈ザドキエル〉に跨り、士道に向けて咆哮する。
途端に士道はしがみ付いた折紙丸ごと頭部を除いて氷漬けになり、身動きとれなくなってしまった。
同時に氷結傀儡の開口部から伸びる士道の露出した頭部目掛けて伸びる氷の滑り台が掛かった。
「『四糸乃』」
四糸乃は滑り台と先の士道に目掛けて滑り台に駆け込んだ。
「い、いっけえええーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
だが四糸乃が滑り台に降りた途端に滑り台に罅が走った。
「■■■■■■■■■■■■■■!」
士道が咆哮と同時に滑り台が粉々に砕け散った。
突然の崩壊に四糸乃が空中へ放り出される。
それでも四糸乃は両手を目一杯伸ばして士道を目指すが目の前をかすり、すれ違う。
四糸乃は地面に投げ出され、士道自身は氷の拘束と寝技掛けた折紙を解くも仰向けに倒れてしまった。
辛うじて顔を守った四糸乃は影の結界で霊力を吸われながらも必死に這いずって、倒れた士道にキスをした。
――士道さん、これで二度目ですね。
思えばずっとこうだった。初めて会った時からマトモに人に話す事すら出来ず、ずっとよしのんに頼りぱなしだった。
そんなわたしを、よしのんを受け入れてくれた、初めての、人間のお兄さん。
そんな彼を、今度は自分が同じ様にやるなんて。
つらい。ダルい。眠い。苦しい。見えない。寒い。ノロい。正直もうやめたい。
……でも、士道も身体を圧して四糸乃に来てくれた。
だから、今度はわたしが…やらなきゃ。
体内に霊力が戻る脈動を最後に四糸乃の意識は影の中に墜ちていった。
「良し、やったな四糸乃! 最後は私が――」
十香で最後になったが、そこで異変に気付く。
士道の背中に生えた枝翼と残った葉が少しずつ光量を増し、応じて立ち上がったのだ。
「ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴっ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!」
また声にならない雄叫びを上げた途端、士道から何かが四散した。
十香は反射的に限定霊装と天使・鏖殺公〈サンダルフォン〉を捌いて身を守るが森のあちこちで断末魔が広がった。
木々から落ちたのは様々な衣装の少女達。髪型に差異が見受けられるが、全員が狂三と同じ顔をしていた。
皆胸元や手足に出血して呻いている。
向こうでは満身創痍になりながらも士道が立ち上がり、直角とも呼べる程の前傾姿勢になりながらも両手を背後に担いで枝翼を引き千切ると士道は両手で正眼を構える。同時に枝翼に残った紺色の葉が明滅し、持った枝翼が鏖殺公に変化した。
しかし、柄と鍔の拵えは鏖殺公そのものだが、刀身が鍔全体から生え出てそこから尖った扇状の大剣ではなく細身の直剣型。刺突に秀でた形状だ。
十香は察した。あの形状は霊力という巨大な鉄塊を削ぐ事なくあの細い刀身に濃縮した代物だと。自分の今の鏖殺公では触れただけで粉々に吹き飛ぶものだと。
士道の鏖殺公に怖気づいたところで、倒れ伏した狂三が起き上がった。
「あらあら、経穴が正常化した事で大分強化したようですわね。どうしましょう十香さん?」
狂三の言葉に挑発を思わせる侮蔑が混じり、無意識に引いた摺り足を止めた。
「士道さんは、霊力が枯渇し切っても、手足が潰れても全てを消すつもりですわ。誰彼構わず、自分の命も厭わず、目の前の全てが脅威と感じて。それでも十香さんは救うつもりですの?」
「救う、だと……?」
途端、十香は目の前の士道が変わり果てた。
士道が突然別の何かに変化したのではない。感じる雰囲気が変わったのだ。
全てを瓦礫の山に血と臓物の河に変える災厄の獣が、悲鳴を上げて誰も聞く耳を持たない、凶器を振り回す子供に見えた。
――それはまるで。
「十香さん!」
「!?」
掛け声に我に返って鏖殺公を無意識の内に捌いた。
突如鏖殺公が粉々に砕け散って全身を吹っ飛ばされ、木に激突して肺に満ちた酸素を余さず吐いて倒れた。
転がって止まると十香は再び士道を見やった。
士道は、声にならない呻きと血走った双眸を剥き出しにしながらも十香を追い込まず、ただ睨みつけてた。
――嗚呼、そうか今の士道は……且つてのわたしなんだ。
「まずいですわ。再び結界を張るとそれだけで敵対と見なし、斬りかかるようですけど?」
「いや、いい。私がやる」
十香は立ち上がると手で狂三を制し、呼吸を整えた。
「そうですの。実を言うとわたくし、さっきので堪えましたの。協力はここまでで」
「ああ。礼は言わんぞ。狂三、お前も士道が救うからな」
「あらあら、そうですの。では、ご武運を」
目の前の狂三。そして他に倒れ伏してる分身体たちが黒い影に沈んでゆく。
そして十香は両腕を左右に広げ、
「……シドー。今すぐ助けてやるからな」
柔らかく微笑んだ。
士道は鏖殺公を真横に構え、それに全体重掛けるように両手で抱えると地面が割れんばかりの震脚で踏み込み滑空。十香目掛けて突進した。
まともに受ければ致命傷はおろか上半身は吹き飛ぶ刺突に十香は残り僅かな霊力を熾した。
士道の鏖殺公が十香の霊装に触れる直前、霊力の奔流が上方に噴き荒れ、鏖殺公を遥か上に流した。
それに引き摺られて士道も鏖殺公諸共上へ飛ぼうとして十香に上体を掴まれ、十香と絡まる様に後方へ転がり続けた。
――シドー、お前はいつもこうして皆を、琴里を、わたしを救ってきたんだな。
ここに来て直ぐにASTに、人間に追われ、傷つけられ、撃たれ、斬られてきた。
だが、そんな自分に士道が来てくれた。美味しいものを食べさせてくれた。楽しい事を教えてくれた。自分の居場所を与えてくれた。
皆に、わたしに、お前は、自分達がされてきた仕打ち以上に苦しんできたんだな。
だから嬉しい。お前の気持ちが分かって。今度は自分達が救える事が。
何度も転がっても十香は指を絡めて士道を手放さなかった。力一杯、指先の感覚無くなるまで、背中と手足が小石や枝で刺されようとも。
必死にしがみ付いて士道によじ登り、唇に触れた。
――嗚呼、駄目だな。最初にキスされた時と比べれば全然味が違う。
硬さが違う。感触が干物みたいだ。破けてる。味みたいなのが無い。
おまけに身体中が熱い。体内に熱い粘液流されてるみたいで、耳の奥が酷く痛くて、腕の中がまだ脈動して、士道が今にも零れ落ちそうで、脈打つのが激しさを増して、胸から逃げ出しそうで、だから手の爪を食いこませて頭も自分の唇同士が密着したまま固定させて、ジタバタする全身を自らが合わせて――
「ぶふぁああああああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!っもう止めろって十香! もう正気だから! 元に戻ってるから! 身体大丈夫だから爪食い込ませるの止めてーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
「……シドー?」
「ああ。もう大丈夫だから……」
士道は商店街の時から続いた自身に溢れた余裕な笑みとも暴走した時の獣染みた必死な形相でもない、普段から見続けた優し気な微笑。もうずっと昔から見てなかったような気がした。
だから十香は指先を引き締めた。
「い痛ててて、だからもう大丈夫だから。離れろよ」
「駄目だシドー。もう離さない」
――お前の事が好きだから。
結局口にしない。
だが、いつもの士道の声、口調、態度、仕草、双眸、匂い、雰囲気。それを感じた途端身体が暖かくなったような、力が湧いたような、心臓がゆっくり収縮してるような感覚に耳を澄ませながら微睡みに流れていった。
「おい十香。もう十香ぁーーー……」