DDはようやく自分がとんでもないミスを犯したことに気がついた。
それまでは、わずかに感じ取れたダイアモンド・ドッグズのヘリとヘリが風を切るローターの匂いとオセロットの存在。そうしたものを信じて歩き続けていたせいでうっかりしたのだ。
そこは進入を許さぬと獣のやり方で主張されている場所で、いつもは彼のそばにいる人間が。今はいなかった。
そして這いよる群れがDDの後ろに回り込み、近づこうとしている。
足を速めようとしたけれど、傷ついた体ではたいした違いにはならなかった。
今度ばかりは助からないかもしれない。
DDを獣として侮った人間たちとは違う、この厳しい自然の中でDDを”人の飼い犬”として、仲間とは認めない同属が追ってきているのだ。
追いつかれれば今度こそ間違いなく殺される。
風を切って満足に走ることができず、ヨロヨロと進むDDは泣き声をあげる。
だが、同時に希望がわいてきた。
この瞬間、はっきりと感じたのだ。遠くから、一直線にDDにむかってくるオセロットの匂いを。迎えに来てくれたのだ。
だが――それには時間と距離が、どうしても足りない。
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もはやいくつ、などと数えるのをやめた砂漠の丘を越えた先でヘリはハッキリと砂上で狼に囲まれているDDの姿を確認することができた。
DDの周囲を取り囲み、3匹ほどが飛び掛る姿勢を見せ、その外側をぐるぐると残りの連中が油断なく円を描いている。
「まずいですよ!あれ、しとめにかかってます!」
「わかってる!」
「オセロット!DD、間に合いませんよ!」
パイロットはヘリの前方にあるビームライトでDDを照らしていた。それで人が近づいていることを、狼達に知らせて散らそうという思惑であった。だが奴等はそれを脅威とは思わなかった。
目の前のDDを八つ裂きにしてから逃げればいい、その程度である。
ヘリは刻一刻とDDに近づきはするが、着陸するにはもっと高度を落とし、速度も落とさなくてはならない。
着陸したころには、すべては終わっていて。DDは亡骸となり、狼達は姿を消してしまっているだろう。
「わかってる」
オセロットの声は冷静だった。
銃を構え、スコープをのぞいている。
「このままだ、上空を飛べ。それで”なんとかする”」
「オセロット!?」
「……フッ」
オセロットが構えていたライフル銃が火を噴いた。一発だが、それは外れて包囲する狼達の外側にある砂が巻き上がる。
だが、まだ狼はあきらめない。
DDは必死にぐるぐると回りながら、哀れな声を上げて必死に抵抗しようとしていた。
オセロットは機内にライフルを放り出すと、立ち上がる。
その目には力があり、立ち上るような妖しい殺気をまとい。彼の意識はすでに地上にあった。
そしてオセロットはいきなり飛行中のヘリから飛び降りた――。
山猫の体が宙にあったとき、狼達もDDをしとめにかかっていた。
襲うそぶりを見せていた2匹が噛み付き、牙を立てようとした。それはDDの臀部と、あの千切れかけた前足に突き刺さったが。DDは必死にそれを許すまいとして、蹴り上げ、噛み付こうとすることで逃れた。
だが、そのせいで3匹目の牙が、DDののど笛に――。
柔らかい砂の上とはいえ、オセロットの転がりを加えた着地は見事の一言だった。
彼は落下のダメージを見せず、すぐにも立ち上がるとその手に握られていたリボルバーが火を噴いた。地上から獣の魂が3つ、消滅する。
頭上を旋回して、ヘリが戻ってくる中。オセロットはDDのそばで絶命している3匹の狼を蹴飛ばすと、体をかがめた。
「大丈夫だ、DD。動かなくていいぞ」
「……」
「落ち着け、痛いか。待ってろ」
そう言うとオセロットは”DDの喉に噛み付いた”死んでいる狼の顔に手をやる。
狼や犬の牙というのは、調べればわかるがそれ自体には生き物を殺す力はない。
例えるなら、机の上に出来上がったばかりの皿の上のステーキ肉を思い浮かべてほしい。牙は、それを食べようとわれわれがそのときに両手に握るフォークとナイフの役目を持っている。
牙で皮膚を、肉を切り。
牙で獲物の体を押さえつける。
だが、これをどちらかしか使えない。
つまり、獲物に噛み付いても人のように切って、口に運んで飲み込むという動作はできないのである。(いや、それを言ったらそもそも前提条件にまだ生きている獣を生で皿の上に乗せる人はいない、ということになるが)
ではどうするか?
彼らが凄いのは、噛んだ後に。次に「殺す」という動作を行う。
顎や体全体で、ある時点で抵抗が弱くなったと見た獲物に噛み付いたままこれをする。獲物が死ぬのは、まさにこの瞬間である。
その破壊力はすさまじい。
どんな大きさの犬であっても、人の手に噛み付いてこれを行ったとしよう。
噛まれた周辺は肉、骨は言うに及ばず。細胞レベルで破壊がおこなわれ、場所が悪ければそのまま死にいたることもありえる。そうだ、犬などに噛まれて人が死ぬというのはそういうことなのだ。
DDは頑張った。
おかげで致命傷になるはずの部位に噛み付かれはしたが、それでも抵抗をやめなかったことで2秒ほどの時間を手に入れることができた。
その2秒で、死神は再びDDに背中を見せて立ち去らなくてはならなかった。
「ヘリまで運ぶぞ、マザーベースはすぐだ。帰れるんだ、頑張れ」
DDの目だけがギョロリと動いてずっとオセロットだけを見つめている。
危ないところだった。そして間に合って本当に、本当に――。
そばで絶命していた狼の口が、このときなぜか噛む行動を見せ。その鋭い歯が、カチリと小さく音を立てた。
無言だったオセロットはそれに反応し、死んでいる狼の頭部を躊躇することなく攻撃した。それは獣の頭蓋を割り、中のものをドロリと外側にはみ出させたが、もうオセロットはそちらを見ることはなかった。
ヘリは目的を果たし、DDを回収してマザーベースへと向かう。
ヘリの中で、オセロットはずっと横になるDDの頭をひざにおいていた。そしてDDはそんなオセロットの手の指を。ひたすら赤子の時に母の乳にしゃぶりついた時のように、なめ続けていた。
まるでそうすることで、自分はまだ生きようとしているんだとオセロットに伝えようとしているように。
マザーベースが近づくにつれ、オセロットの表情は再び感情のないものへとなっていく。
プラットフォーム上では、大勢の部下たちがあの悪夢の夜を生きて戻ったビッグボスの帰還を喜んでいるようだったが。その輪の中心に立って向かい合う、ビッグボスとカズヒラ・ミラーは向かい合っている。
オセロットはそこにDDを連れて降りていく。
結局、カズヒラ・ミラーはDDの安否を問うことはこの後、一度もなかった。
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壮絶なる地獄を乗り越え、DDは生き残ることができた。
だがその代償はあまりにも大きかった。
24時間監視の下、8ヶ月に及ぶ入院生活。
6度にわたる手術。
体毛のおかげで腹部の傷は隠せたが、結局左の前足は失う羽目になった。最後に噛まれた右の後ろ足も、調子はよくない。
そうやってようやく開放されたスネークのように傷だらけの体となったDDが見たマザーベースには、もはや彼の知る家ではなくなってしまった。
DDの愛したオセロットが消えていた。
彼はDDの最後の手術が終わってしばらく。ビッグボスを襲撃し、一人の部下を射殺し、副司令官のカズヒラ・ミラーと共に海中に消えた2つのプラットフォームで生死不明とされていた。
もし、生きていたとしても。その彼の首には賞金がかかっている。
DDと同じく、戦場でビッグボスを助けたクワイエットが消えていた。
ビッグボスを救出するのを手伝った彼女は、そのままビッグボスの前から消えた。
カズヒラ・ミラーはそんな彼女の追跡を求めたというが。その後も彼女の情報は完全に途絶えたままだ。
そしてDDの前に立つビッグボスも、そのファントムもまた。
己に新しいコードネーム、ヴェノム・スネークとなり。その隣にはもう、誰も並んで立つ必要は――。
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退院してしばらく、DDの生活は以前とは変わった。
空虚なビッグボスの部屋に、DDの寝床が新しく用意された。
朝、起床の時間。
時にはスネークが目覚めるのを察して、少しばかり早起きすることもある。そんなときはベットに駆け上ると、まだ寝ているつもりかと偉そうにその無防備な傷だらけの顔を散々に舐めあげてやる。
そんな時もビッグボスは「クソ」と悪態はつきつつも、素直に起き上がって身支度を始める。
プラットフォームに設置されている食堂で食事を終え、階段で降りる。そこから遠くに見える司令部プラットフォームの中央に向け、長い長いコンクリートの上を歩いていく。朝食後の軽い運動をかねているのだ。
朝のマザーベースはそれなりに忙しい。
途中、車で行き交う部下達と挨拶を交わし、スネークはDDを後ろに従えてこの散歩を楽しんでいる。
そして中央につくと、DDはさっさと建物の端にもぐりこんで居眠りをはじめ。
夜、戻るときは。スネークの運転する車の助手席に飛び乗って、夕方のセーシェルの海を両側にドライブを終えてから寝床へと帰っていく。
「DDはリタイアさ、それでもあれなら悪くない」「ああ、そうだな。おれもそうありたいね。優雅に居眠りしても許される毎日ってさ」
傷だらけでとても助かるとは思えなかった姿を見ていた犬好きな兵士たちはそう口にしてDDの事実上の引退生活を祝福していたが。
ワームとウォンバットは顔をゆがめるだけで、その会話には参加しなかった。
そして実際に、そんないい日は、長くは続かなかったのだ。
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退院しても、そんな生活は半年も持たなかった。
ある時からDDの様子に変化が生まれた。
ビッグボスと一緒に歩く一直線のコースからそれは現れた。
DDの3本しかない足が、次第にもつれるようにしてふらつきだすと、スネークは歩く早さをぐっと抑えなくてはいけなくなってしまう。
そこまでしてもゴール直前で座り込んでしまい、ビッグボスが立ち去ってしばらくしてからのろのろとようやくゴールする。
これが最初の症状だった。
DDの歩ける距離が毎日少しずつ短くなっていく。
そうなると動かぬ体に心だけが先にはやってしまい、信じたくないほど哀れな声を上げるようになった。そしてそんな時、スネークはわざわざ道を戻っては、DDを背中に担いでこの橋を渡っていった。
だが―ー。
その日、スネークはいつものように悲鳴を上げるDDに気がつき振り返った後で。すぐに自分が進むべき方向へと振り返って確かめた。
ゴールのあの司令部は、まだまだ先に存在していた。
もう、だましだましは通用しないところまで来ていた。DDは起床してからわずかに橋を3分の一進むだけで、動けなくなってしまっていたのだ。
スネークはついにDDを背中に担ぐのをやめた。
通り過ぎる車を待ち、その日は行きも帰りも車を使った。戦闘犬の、甘いリタイア生活はこうして終わりを告げる。
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朝、起床の時間。
時にはスネークに起こされる前に、よろよろと起き上がることもあるが。そんな日はもはや滅多にない。
戦闘服で決めているスネークに「いくぞ」と促され、ようやくのことドアから外へと体を引っ張り出すことができる。
彼とビッグボスの朝の散歩は、プラットフォームのコンクリートに立ったときに終わりを告げる。
そこに頑丈な首輪が、逃げられないようにと地面に設置された頑丈な鎖でつながっていた。スネークは無表情にその首輪をDDにつけると、振り返ることなくそのまま歩いて橋に向かう。
もう、DDがどれほど声を上げてもそれが変わることはない。
いつしかDDは静かになり、体の衰弱も徐々に悪化の方向へと転がり落ちていこうとする。
この世に生れ落ち、わずかに2年と少し。
野生の狼の一生はさまざまな要因から平均して5年から10年と言われているが。
この時のDDを人の年齢に換算すると、約25歳前後だと考えられる。人生が50年だと考えても、彼にはこれからまだ半分のつらい毎日が繰り返されるだけであった。
それから数年のときがたつと、今度はマザーベースにDDのかつての姿を知らない兵士達が増えてきた。
彼らにすればDDはただの”ビッグボスの部屋に住み着くペット”という程度の認識しかないが。そんな時、古参の兵士達がDDのかつての活躍を彼らに伝えようとした。
「へぇ、あれがそうなんですか」
ほとんど全員の彼らはそうは口にしたが、実際に目の当たりにする哀れなDDの今の姿を見たら、古参の兵士達が言うほどの敬意など微塵も沸いてはこなかった。
それどころか不自由になんとか歩くその姿を心中で嘲笑し「触ったらショック死するんじゃねーの?」と、部屋の隅に掃除箱にも入れてもらえない。そんな汚い雑巾やモップをみるように、傷だらけのDDを裏で蔑んでいた。
ダイアモンド・ドッグズは戦士しか、兵士にしかいられない場所だ。
戦闘犬ではありえなくなった時、DDはこうなる運命は決まってしまったのだ。
それでもDDは生きている。
ヴェノム・スネークは――ファントムは今も変わらぬ友情と愛情をDDに向けていたし。そばでずっと気遣ってくれていた。
ウォンバットをはじめとした古いダイアモンド・ドッグズの仲間たちも、仕事の合間には顔を出し。挨拶をしてくれた。
たったそれだけでも、DDには生きる希望にはなった。そしてDDにはそんなことしか、誰もやってやれることはなくなってしまっていた。
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この世界の神は慈悲深いのか――それとも誰かが口にした、皮肉が好きなのか?
そんな早く訪れた、そしてあまりにも長い黄昏の時間を吹き飛ばす出会いがDDにも用意されていた。
その機会を作ったのは、またもスネークであった。
首輪でつながれ、建物の影に入り。いつものように目も開けず、鼻だけ動かしてまどろみ続けるDDの元を。昼過ぎだったとしてもまだ早い時分に、そこにスネークが姿をあらわした。
「DD、起きているか?少し、お前の力を貸してほしい」
体はまだ横になったままだったが、スネークが来たとわかってうれしいと頭と尻尾だけ動かし、まだまどろんでいたDDは。いきなりがばと立ち上がる。
その鼻が、この場所にもう一人の人間の存在を告げていたからだ。
スネークは手に一人の少女を抱えていて、少女は――その体にしてはあまりにも大きなライフルを小さな手でしっかりと抱きしめて離そうとはしなかった。
DDは立ち上がると、スネークの声の方向へと近づいていった。スネークは腰を下ろすと、ライフルを離さない少女をプラットフォームの上に立たせた。
「DD、彼女の名は――」
スネークがそれを告げる前に、小さな奇跡が起こった。
それまで何があってもライフルから両手を離そうとしなかった少女は、それを自分の背中に回すと両手でいきなりDDの顔を軽くはさんで見せた。
DDはその腕の中に耳がなくなって小さくなってしまった頭を押し込むと、ぺろりと一度だけ鼻の頭を舐めてやった。
スネークは輝くような笑顔を彼らに向けていた。
何があったのか、DDにはわからなかったが。
それを周りで囲んで固唾を呑んで見守っていた大人たちはホッとすると、口々によかったとか奇跡だとか言って喜んでいた。
そこにいるすべての人は知ることはないだろう。
そのときは確かに、奇跡が起こったのかもしれない。
だが、それはもしかしたら未来に起こる不吉な死への呪いがかけられた、そんな出来事だったのかもしれないのだ、と。
我らの神は、神は――皮肉がお好きなのだ。
続きは明日。