夜、ラジオからはニュースが流れていた。
『――捜索の打ち切りを発表しました。機体の残骸から回収されたブラックボックスの内容は……』
先ほどから医師と看護士達が集まって、寝ぼけながらもなにか様子がおかしいとは感じていた。
まだ思うように体の自由が利かないこともあって「どうした?」などと聞くことはなかったが、どうやら自分の事で何かマズイことになっているらしいとわかってきた。
――そう、あなたの覚醒を望まないものもいる
医師はベットの側まで来るなり、いきなりそう口にした。
どうやら、こっちが話し合っているのをずっと聞いていたと勘違いしているようだ。一向に霧が晴れない頭と、上手く動かない口元、動かすのに一苦労する体では寝ているしかない。だから夢うつつでそれをながめていただけだったというのに。
――死んだはずのあなたが生きている。それが外の広い世界にもれた。あなたは世界中から狙われる。いますぐ、顔を変える必要があります。そうでないと生き残ることが出来ないのです
彼の口調は、こちらの意見を聞くつもりは全くないという雰囲気だった。
自分もこんな調子ではそんな彼に文句を言うこともできない。
ー今後はエイハブ、と名乗ってください。名前も過去も、全て忘れてください。
元々欲しいと思った名前ではない、それは構わない。
負け続け、なのに利用されて勝者にされ続けた過去だ、未練はない。
だがエイハブと名付けられたのはなぜだ?
疑問は湧いたが、それを追求するほどのことだとは考えなかった。この時、病室の外の廊下に出た看護士の足が不自然に宙に浮いて消えた、ように見えた気がした。
――これを……
事故の際に持っていた私物なのか。MSF時代の部下達と一緒に写真を撮った、そんな自分を見せてきた。
そして医師は鏡を取りあげて、こちらに向けてくる。
――これは、今日までのあなたです。明日にはあなたの亡霊となる
初めて深く、そう深く息を吐いた。
傷だらけの顔を、額から突き出た角のような破片を、弱々しいこけた頬の自分の横顔を見た。
なんて弱々しい悪鬼のなれの果てというべきか。
多くのものを奪い取られて、さらに9年もの時間を失ったことを、この鏡に映る男の姿から嫌でもそれは理解させるものだった。
だが、そんなことで黄昏れている時間は残っていなかった。
いきなり医師が、背面につり上げられてその足が宙を蹴飛ばし始めた。何者かが彼の背後から襲ったのだ、とわかったが自分がどうにかする前に、医師の暴れる足がこちらの身体を蹴とばしてしまい。
哀れな悪鬼はベットの上から床へと転がり落ちていた。
医師の抵抗はすぐになくなり、動かなくなった体を襲撃者はその場に放り出した。どこかで爆発する音と、その影響を受けて病院の建物が振動するのを感じる。
襲撃者は暗殺者だったのだ。
そして女であった。
俺を殺しに来たのだ、その目を見ればすぐにわかった。その物腰は普通じゃないのもわかる。
こんな暗殺者を、今の自分はどうにかできるのであろうか?
考えるよりも先に、暗殺者が動くよりも先に、乱入してくる男がいた。
そういえば、自分のベットの隣にも患者眠っていたような気がする。だがそいつが何者で、どんな人物かなど話す暇もなかったからそれ以上はわからない。
そんな男が、女暗殺者の背中に必死になって飛びついている。
その男も弱っていたのか。もちろん、病院に入っていたのだ。元気一杯というはずはない。
あっという間に女に力強く投げ飛ばされると、それでも必死になって抵抗しようと。床に散らばっているものを女暗殺者に向けて放り出していく。
必死の抵抗だ、治療に使うための器具や、薬品の入った瓶が宙を舞う。
むこうはそれを邪魔に感じたのか。
手に持ったナイフを投げて男の腕の付け根に深く突きさしてみせると、もうしんぼうできないというように男を放ってこちらの首に飛びついて来た。女とは思えぬ凄い力で絞めあげ始める。
(このまま……俺は死ぬのか?全てを失い、仲間を、部下を失い、未来に自分が生きた証をのこせないまま死んでしまうのだろうか?)
悲鳴を上げてこの暗殺者を喜ばせるつもりはなかった。かわりに自分に唯一残った腕で、なにかないかと周りのものをつかもうと乱暴にまさぐってみた。
視界が薄れ、闇に意識が零れ落ちそうになる中。
ボッと炎が近くで燃え上がる音を聞いた気がした。
どうやら僅か一瞬、気を失ってしまったらしい。気がつくと自分の首を絞めあげていたはずの女が、炎にまみれて燃え上がっており。その無残な姿に目を丸くして驚く。
いったい、あの一瞬で何が起こったのか。まったくわからなかった。
燃え続けながらも女暗殺者は、まだ任務を諦めてはいなかった。
再び立ち上がり、せめてこちらの息の根を止めようというのか。炎の中から鬼気迫る目でこちらを睨みつける。
そこにさきほどの乱入してきた男が再び横槍を入れ、床に転がった薬品の瓶を拾い上げると躊躇をみせずに女にむかって投げつけた。
それはなにかまずいものだったらしい。女にまとわりついていた炎がひときわ大きく勢いをえて燃え上がると、女はついに悲鳴を上げながら病室の窓から外へ向かって身を投げ出していった。
病院はこの時、襲撃部隊に加え。女暗殺者の他に近づいてくる存在があった。
輸送機には不気味なマスクをした子供と床に横たわるまごうことなき死体。
丁度この瞬間、殺戮が始まったばかりの病院に送り届けるにはおかしいこの2つの荷物を運んでいる。
目的地に到着するにはあと数分あるが、大きさの合わないガスマスクをした少年の体がなにかに反応してビクンとはねた。
彼の脳裏に、いつものごとく他人の意識が。感情やら想いといったものが、激しく、それもいきなり大量に流れ込んできた。
それは女の悲鳴であるらしかった。
任務に失敗したという絶望、悲しみ、そして全ての男という存在に向けた憎悪に似た怒り。
女というだけで笑い続けた男達が、彼女の足元で這いつくばってのたうちまわり。泣いて謝る記憶がみえてくる。それを喜んでいた。笑っていた。
だが、それは次々とやってくる。まったくきりがないのだ。
そして渇望していた。憎悪に負けないほど狂おしく、皆に認められる優れた軍人でありたいという輝く夢。
それらが全て燃え上がり、燃え尽きようとして重力に引かれて地面に墜落していくのを感じた。
彼女を感じすぎている中で、この奇妙な姿の少年はわずかに残っている自我が自分もあそこに今から堕ちていくのだと思った。
女暗殺者は撃退したが、病院への攻撃は続いているようだった。
「さぁ、エイハブ。ここから逃げよう」
先ほどの医師との会話を、彼は隣のベットで聞いていたようだ。
「あの女はどうした?」
「女?俺、いや。俺達が火をつけて窓から堕ちたよ」
どうやらこの期に及んでこれが悪夢でした、ということでは本当にないらしいとボウとする頭に言い聞かせた。俺も彼も運が良かったということか。いや、撃退できたのだ。そういうことじゃない。
自分を助けた男は、自分と同じ。顔を隠すかのように包帯を巻いていて、そこから綺麗な目だけが外にのぞかせているという入院患者のようであった。
「あんた誰だ?」
「俺か?俺はお前だ。9年、お前を見守った。イシュメールと呼んでくれ」
勇敢で頼もしいということの他に、ふざけた男だということもわかった。
どうやらこちらがエイハブと名乗れと言われたことを聞いたせいなのだろう。「白鯨」の登場人物の名をこちらに告げてきた。それが彼の本名ではないのはすぐにわかる。
自分の隣に寝かされているような男なのだ、なにか事情があるのかもしれない。ふと、そう思った。
「どうなっているんだ?」
思えば医者や看護士以外と目覚めてから話したのはこれが初めてだった。
そのせいだろうか、出てくる言葉はいちいち自分の事なのに笑ってしまうほど弱々しいものばかりだった。
「ようやく話せるようになってきたな。世界中があんたを狙って殺そうと――」
再び、どこかで爆発する音と振動を感じた。
暗殺者に続いて、攻撃が始まったのかもしれない。
「さあ、早く。ここはもうすぐ燃え落ちる」
次々と海中に沈んでいくMSFのプラットフォームが瞼の裏に映し出された。フラッシュバック、それともトラウマの発露か?
イシュメールはすぐにでも部屋を出ていこうとしたがったが、こちらの体は思うようには動こうとはしてくれなかった。
彼は知識があるのか、こちらに針の先を見せると「これをうってやる」と言って強心剤を投与する。それでも、自分が出来るたことといえば床をようやく必死に腕で這って進むというありさまだ。。
だが、それでもこの病室から出ていくことはできるし十分だ。
イシュメールは最初、エレベーターに向かおうとしていた。
彼はこちらを一切助けようと申し出なかったし、自分も助けろ肩を貸せなどと要求もしなかった。
奇妙な話だが、一緒に逃げるなら少なくとも逃げようとする意志を示すだけの体力をのこしてなければいけない。そんなような考えがお互いあったように思える。
だが、ようやくエレベーター前の通路に到着しても、そこから先には進めなかった。
エレベーターが火を噴き、爆風で自分もイシュメールも吹き飛ばされ。病院の床に叩きつけられるように投げ出されたのである。その瞬間、脳裏にあの夜の最後を思い出した。
==========
――爆弾が
大丈夫、もう取り出した
――もうひとつ、ある
それが彼女との最後の会話だった。
カズは我を忘れて怒っていたが、自分は今こそ彼女と話したいと思っていた。
彼女はサイファーの、ゼロの意志を自分に伝えに来たスパイだった。そんな自分もかつては、ゼロの部下として。特殊部隊フォックスに在籍していた過去がある。
かつて自分を見出したザ・ボスとは違う。あの彼女と自分とは違う関係が、この少女となら築けるような予感が。あの決裂した日から思った、わずかに生きているかもしれないという希望につながったのではないだろうか。
だが、彼女はわかっていた。
ビッグボスの任務に自分が失敗し、戻ってきた3重スパイにそんな奇跡は用意されてないということを。
彼女は夜の海に向かって、身を躍らせた。
その体を誰にも触らせたくなかったのか、それともまだ体内に残っている爆薬をなんとしても封じ込めたいと思ったのか。
そのやせ細った肩を強く、強く抱いて。その瞳はずっと最後の瞬間までビッグボスと呼ばれる英雄へとむけていた。
やめろ!!
パスの背後に、いつの間にかこちらのヘリを追走する見たことのないヘリを見て。なぜか手遅れなのに、叫んでいた。叫ばずには居られなかったのだ。
最初に衝撃が襲ってきて、続いて炎がヘリの内部に押し入ってくる。それで十分であるはずだったのに、炎のむこうから。先ほどこちらを追走して飛んでいたヘリの運転席が姿をあらわし、そのまま突っ込んでくる。
==========
はあぁ。
息を吐いて、体を動かした。
短いほうの左腕が、肩が外れているのがわかった。
「エレベーターは使えない。非常階段を使おう」
イシュメールに先導され、新しい道を探して動き出す。脳裏に消し飛ぶ直前のパスの顔が浮かび上がると、それまで力が入らなかった腰から下に変化が生まれた。
不格好に、腰だめによろよろと歩きだす。
瞼の裏に浮かぶ少女の最期が怒りの炎をこの弱った体の奥で吹き上げ、それを力に歯を食いしばってようやくそれをやりとげた。
薬が効いてきたか、とイシュメールがいったが。今はこの憤怒でも薬でも、生き延びるために必要な事が出来るならどれでもよかった。
病院内は次第に地獄と化していくのがわかった。
部隊らしき兵士達が、武器を手に言葉を発することなく殺戮を続けている。
襲撃者達は病院関係者ばかりではない、目に付いた患者もかまわず。相手が生きているとわかれば銃口をむけて即座に銃爪をひいた。
そして死んだことを確認するついでに、顔も確認しているようだった。
――世界があなたを狙っている
自分1人を殺すために、あいつらはここにいる全ての人間を奴等は殺そうとしていることを理解した。殺された医師の言葉は正しく警告であったのだ。
そんな周囲のありようとは別に、イシュメールと自分は息の合ったコンビとなって間断なく襲ってくる死の危機を何度も回避していく。奇妙な、そしてそれは不思議な体験でもあった。
9年もの間、寝こけていたこの元英雄をイシュメールは文句ひとつも言わずに先導し。時にフォローをして救ってもくれた。
その見事なキレのある動きに自分も触発されていったのか、こちらの身体もゆっくりとだがかつての感覚を取り戻そうとしていた。
それでも次第に向こう側の捜索網にこちらが引っ掛かり始めたのか、しばしば通路の前後を挟まれようになる。
イシュメールと共に大部屋の病室に滑り込むと、まだ眠っているらしき患者のベットの下にそれぞれが身を隠した。
すぐに襲撃者達は病室の存在を嗅ぎつけると、そこに眠る患者達をやはり他と同じように無慈悲に殺して回った。イシュメールも自分も、それをじっとベットの下で見ているだけだった。
「死体にまぎれて移動するしかない。ここからは這って出るんだ」
襲撃者達が去った病室から出る時のイシュメールの判断は的確に過ぎて、こちらが口をはさむ必要は全くなかった。
そしてそのせいだろうか、いつしかこの男は自分と同じ兵士ではないかと思うようになっていた。だが、それを本人に確かめる暇は今はない。
死体が無造作に転がされている病院の廊下でまたもや前後を襲撃者達に挟み込まれて身動きが取れなくなった時も、イシュメールは見事な機転を見せてくれた。
人は死ぬと、体の筋肉の力が抜けて糞尿を垂れ流す。
彼はいつの間にか病室で手に入れたらしい点滴剤を自身の腹の下で破ってみせることで、まだ息のある犠牲者にとどめを刺して回る襲撃者達の目を欺き。自分を死体にみせたのである。
一方で、情けないのはこの英雄殿であった。
いくらおとなしく黙って転がってみせても、注意深い連中に怪しまれてひっくり返されれば、死んだふりも意味はない。
無様にも顔を確認され、これでいよいよ終わりかと思ったその時であった。
廊下に誰か現れたのか、一斉に襲撃者全員がそちらの方を振り向いた。
次にやはり警告もなく彼等の銃口が一斉に火を吹くが、それが相手には当たらなかったのか反撃をくらって1人が炎に包まれた。
普通の廊下であるというのに、兵士達の相手への報復はエスカレートしていく。手榴弾を投げつけ、バズーカを至近距離でも構わずに撃ちこんでいったのだ。
そんな相手からの反撃は壮絶の一言に尽きた。
廊下が炎の突風によって吹き荒れ、気がつけば兵士たちの姿はそこに誰も残っていなかったのである。
イシュメールとエイハブの2人は、そこでようやく頭を上げる。
兵士達を炎で消し炭にした相手は燃え上がる男の形をした”ナニカ”、としか言いようがない存在だった。
しかしそいつのその異様な力は病院の外からでもしっかりと見えていたらしく、一機のヘリが近づいてくるとなんとそいつとヘリは互いを攻撃し始めたのだ。
「走れ」
イシュメールの言葉に反応して、駆け出す。彼はどこで手に入れたのかいつのまにかハンドガンを手にしていた。
今夜何回目かの階段ホールに出ると、2人は無言のまま次の廊下へと入っていく。
どうやら襲撃者達と炎の男は味方同士というわけではないらしい。あちこちの騒ぎも、爆発音もそれぞれが暴れた結果であるらしいが。その激しい戦いで襲撃者達も次第にあの炎の男の存在を無視できないでいるような気配を感じていた。
廊下を進む中、次々にあらわれる襲撃者達をイシュメールは見事に一発で倒していく。ここでようやく自分も彼と同じようにハンドガンを手にすることができた。
出口を求めてこうして2人、彷徨ってきたわけだが。
皮肉な話で彼等がたどり着いたのはなんと正面玄関前のエントランスであった。
彼等の下では、今も兵達が誰も外には逃がすまいと燃えている1階を銃を構えて見てまわっている。
「俺が囮になる」
こんな状況で驚いたことに、イシュメールはあっさりとそう言うと。自分の銃についた消音器をはずして、エイハブの返事も聞かずにそれをホールに投げ入れ。飛び出して行きながら兵達に向けて撃ちまくって階段下へと落ちていく。
(なんて奴だ)
称賛をこえてただただ素直に驚嘆するしかなかった。
ここまでうまいように2人でやってこれたのは、あの男の優れた力があればこそだと認めないわけにはいかない。
そしてもう疑う余地もなかった、彼は軍人だ。それも優れた技術を持った兵士だった。
ということであるならば、ビッグボスと呼ばれた自分だってやって見せなくてはならないだろう。
階段には、階下に落ちていったイシュメールの姿を探そうと兵士が駆け上ってきて必死になってそこから見下ろせる床の上を探していた。その無防備な背中に、銃口を思わず向ける。
(やめたほうがいい)
のばした片手の先の銃口がまだ震えている。
多少はマシに動けるようにはなったものの、集中しようとすれば手先が震えて定まろうとはしない。強心剤とやらの効果もあるのだろうが、繊細な指の動きがまだ戻っては来ていない。これでは撃ち合いはできない。
半端なやり方をしてミスをすれば、進んで危険を買って出てくれたイシュメールに申し訳ないことになる。
決断を下せばそこからは早かった。
すぐさま自分も1階に飛び降りると、受付の後ろから移動して柱の影へとダイブする。
たったこれだけでも今の自分は呼吸を乱していた。体の切れなんてひどいもので、柱の影に何かを見たのではと思っているらしい兵士がこちらを見てキョロキョロと怪しんでいるのを感じる。
伝説のビッグボスがなんてザマだ。
情けないなんてもんじゃない。それでも、ふと反対側からのぞくとイシュメールの姿を捉える事が出来た。
囮をかって出たはずの彼は、すでに建物の外に脱出しているようだった。
発砲して敵に向かって飛び込んでいった男が無事に脱出して、囮をやってもらった自分が失敗する。いくら錆ついて勘が鈍っていると言っても、ビッグボスと呼ばれた男がそんな恥ずかしい終わりかたをするわけにはいかない。
もう一度確認する。
出口までは残り15メートルほど。撃ち合いはしたくないから、走り抜けるしかないが、どのタイミングでそれをやろう?