目を覚ました時、まず目の前に見えたのはまったく知らない奴の顔だった。中性的な顔立ちはどちらとも取れるものだったが、短く切り揃えられた髪型とやや筋肉質な体つきからおそらく男のようだったと思った。
つまり、その、わたしは男の人と一緒に寝ているわけで。
「…………って、ちょ、まっ、ええええええええええええっ!?」
わたしに被さっていた着物から抜け出し、体はその男の方に向けたまま壁際まで一気に駆け寄った。そして現状を把握しようと頭を回転させる。
見知らぬ男と同衾していた? 冗談抜きで? いくらなんでも昨日のわたしはいったい……。
あれ。わたしは昨日どうしていたんだっけ。
というより、わたしは今までどうやって生きてきたんだ?
んーっと……?
ふと引っかかりを覚え、現状以前に今より前、目が覚める前のことを思い出そうとした。
「思い出せん……」
なにかないか、なにかないかと頭の隅々をつついてみるも、何も出てこない。父の顔、母の手料理の味、生まれ故郷の風景、親しかった友だちの姿……。1つとして浮かび上がるものはなかった。
そりゃ、遠い昔のことなら仕方がない。忘れることだってあるとは思う。でも今に限ってはすこし異常なように思えた。
まともに考えて、あまり思い出せないことはあってもまったく思い出せないということがあるだろうか。記憶は薄れていくものなのは事実だが、全て消えてしまうことなどそうはない。
どうしてだ?なんで思い出せない?どうしてなにも思い出せないんだ・・・・・・・?
意味もない焦燥、判然としない不安が襲ってくる。内蔵がひっくり返るような吐き気と立っているのも辛くなるような寒気が全身を襲った。
そんな時だった。そいつが起きたのは。
「ええと、おはよう?ってところかな」
「お、おはよう……?」
起きてすぐわたしの方を見るなりその男(?)はそう言ってきた。
あれだけ騒いでいれば起きるのも無理ないか。でも、第一声がおはよう? ずいぶんとのんきなことを言ってるな。
わたしは今、それどころじゃない。自分のことで手一杯なんだ。こんな奴のことを気にしている場合じゃ……。
そこでまだ眠そうに目をこするそいつを見て、数分前に鼻の先にまで近づいていたそいつの顔や、その時に感じていた着物の中の温もりを思い出してしまった。
「そうだよ、目を覚ましたら誰かに伝える挨拶。なにかおかしなこと言った?」
「いや…………、いやいやいやいやいやいや。ちょっと待って、そこじゃないけど色々とおかしいでしょ!? なんでそんな冷静に挨拶ができるんだ!? わたしたちお互いに顔見知りでもないじゃないか!」
急に熱くなってきた顔を隠しながらまくし立てるように言い切った。
そ、そうだ。わたしこそなにをのんきなことをしているんだ? 男と寝ていたんだぞ? 何も思い出せないんだから、コイツから聞き出さなくちゃいけないことが山ほどあるだろ。具体的には言えないけど、昨日の夜のこととか、あれとかそれとかこれとか。
自分でもなにを言っているかよくわかってないが、とにかく話し続けなければ。いったん話が切れたら、こちらからは話しかけづらくなる。
「顔見知り?冷静って、なにかそんなに慌てるようなことあった?」
「いや、だって、ほら、い、一緒に……ね、寝てたし」
それをわたしに言わせるのか!? こいつ、なよっとしてるくせに頭おかしいんじゃないのか!?……頭がおかしいって意味なら、現状わたしのほうだけどさ。
くそう、さっきからずっと顔が火照って仕方ない。いつまでも前を向けないじゃないか。こんな顔を見られたくないし。
そんなわたしの様子を見て、なにやら安心したのか、そいつは手で胸を撫で下ろしてから話し続けてきた。
「よく分からないけど、とりあえず生きてて良かったよ。君、昨日の夜まで雪みたいに冷たくなったまま目を覚まさなかったから」
「え? そうなのか?」
「そうだよ。こんな季節の道端にあんな格好で気絶していたら当然でしょうよ。正直死んでるとすら思ってたぐらいだし」
「あんな格好? 道端で気絶?」
お、ここに来てようやく新情報だ。どうやらわたしは昨日までかなり危ない状態だったらしい。でも、こうして助かっているということはコイツのおかげなのかな。
寄りかかっていた壁から体を離して、手を開いて閉じてを繰り返してみたり、両腕を肩から回してみたり、軽くその場で飛び跳ねてみたりした。
うん、わたしの体は快調そのものだ。今は比べるものがないのが残念だが、どこか具合の悪いところは見当たらない。
にしても、どういうことだ? さっきからなんだか言葉の端々に違和感を感じる。
窓から外を見ると雪が降ってるし、指先かかじかみそうなぐらいだから、相当寒いのもわかる。だからあんな格好と言われたらおそらく、それほど着込んでないような服装だよね。
だけど、わたしが着ている服はかなり厚着で正直動きづらいほどだ。そう言われてしまうほど薄着じゃない。
それに道端で気絶とはどういうことなんだ? わたしは行き倒れでもしたのか、それともなにか別の理由で道端で寝ていたというのか?
そんな風にして、すぐに答えないわたしを見て、なにか感づいたらしい。そいつは潜めるような静かな声音でわたしに訊ねた。
「……まさか何も覚えていないの?」
……最も知られたくないことを訊かれてしまった。
思わず、喉元まで出かかった否定をゆっくりと飲み込む。否定したところで、きかれたことは事実なのだから、素直に認めるしかない。それよりもどう答えるかが大切になる。
こいつがどんな人間であるかもわからない状態でこちらが一方的に得しない情報を教えるのはあまり好ましくない。とはいえあまり現実的でない答えをするとボロが出る。避けておきたいところだ。
しかし、そこで一つだけ引っ掛かる部分があり、そこの認識だけは改め直した。
……人物像がまったくわからないというわけでもないな。少なくともこいつは見ず知らずのわたしを助けて、こうして普通に会話をしてくれる程度にはまともな人間だ。それがどういった理由かはまだ知らないから安心はできないけど。
信頼はまだできないものの、不必要に疑いかかる必要もない。あと、できることなら助けてくれた相手を騙すような真似はやはりしたくない。
ただ、素直に答えてしまうのはなんだか負けを認めて、開き直っただけのような気がしたので、黙って頷くだけにした。
すると、そいつはうむむむむ、と腕を組んで唸り始めてしまった。
すこしの間、静かな時間が流れる。わたしはただ黙って、そいつのことを見ていた。そいつがどういう決断をするのかそれを見たかったからだ。
本気で考えている振りをしているみたいだけど、おそらくはわたしをいつ手放すかを考えているんだろうな……。部屋の中の内装を見ても、それほど豪華には思えないし、この様子だと、わたしを一時的に預かることは可能だろうけど、ずっと、となると難しいだろうし。
さて、どうなるかな。
「じゃあさ、名前とか、年齢とか、なんでもいいから覚えていることってない? どんなに些細なことでも構わないから」
意外だ。どうやらまだ、決断を出さないつもりらしい。まあ、助けてくれたお礼で、聞かれたことには最低答えようかな。
とはいえ、起きた時からわかっていたことだが、どうやらわたしには記憶がない。明確には思い出というものだけがすっぽり抜けてしまっている。雪という言葉の意味だとか、歩く方法だとか、一般的な家屋の内装だとか。そういった知識しか基本的には残っていない。
先の相手の訊いていることはその思い出に分類されるのだろう。思い出そうとしてもなにも出てこない。出てきそうな気もしたが、出てきたそれも私が今作り出した空想でしかないように思えた。
そんな中、確かなことがひとつだけあった。根拠のない自信が後押しする思い出があった。自分の名前だ。
わたしの、わたしの名前は…。そう、萃香だ。伊吹 萃香。それだけは間違いない。
たったそれだけしか思い出せなかったのだが、なんだか何かに勝ったような気分になって、すこしだけ胸を張りたくなった。
「自分が誰かぐらいは覚えてるよ。わたしの名前は萃香。それは自信持って言える。でもそれ以外は……、ごめん、よく分かんない」
「なら萃香。君はこれから一体どうしたい?」
「これから……、これからって?」
「その言葉のとおりだよ。萃香はこうして目を覚まして、動けるようになって、次にどうしたいと思った?」
「どうしたいか?どうすべきかじゃなくて?」
「そうだよ。生きていくためにしなくちゃいけないことじゃなくて、これから君自身がなにをしたいかってこと」
これから、か。考えるまでもない。どうにか山でも海でもどこにあっても構わないからどこかの村に潜り込むしかないだろう。土下座でもなんでもして、衣食住を確保しなくちゃいけない。問題はそれまでの食い扶持をどうするかになる。
でもそれはどうすべきかであって、どうしたいかではない。生きるために必要なことだ。そして、わたしがそれをしたいと思っているかと言われると答えは否になる。なのでもう一度自分が何をしたいか、よく考えてみる。
そこでまた、わたしにはなにもないことに行き着いた。記憶と同様、真っ白でそれに対する答えが見つからない。
そしてそれを伝えるべきではないんじゃないかと少し悩んだ。それは危険な気がしたのだ。
・・・・・・でも、まあ、コイツがもしもおかしい奴だったとしてもなんとかなるでしょ。
素直に答えてしまうのが危険なことはわかっている。けれど、なぜかわたしはなにか荒事があってもわたしならどうにかできると自然と思っていた。と同時に、わからないならわからないなりに、自分を偽ることはしたくないと思ってしまっていた。
「……わからない。今のところ、なんにもない」
「そっか。じゃあさ、1つ提案をしてもいい?」
「なに?」
「一緒に暮らしてみない? 君と私、二人でここでさ」
「・・・は?」
なかば投げやりだったわたしにその言葉はあまりにも予想外だった。
萃香ちゃん、かわいいですよねえ••••••。
追記※ 誰視点か追加しました。