その知らせはいつにも増して珍しいものだった。足取りが早くなるのに迷いはなく一分一秒でも時間を無駄にできない、そう感じさせるには充分な力強さを持っていた。
「雪音が風邪?」
「ええ、翼さんには黙っていてほしいとの事だったんですが……さすがに伝えないわけにはいかないと思って」
「次オフなのはいつですか緒川さん」
「一日ではないですが明日が午後から一件だけ、短いのだけですね」
自分に内緒にしていて欲しい、というのがいまいち要領を得なかった風鳴翼だがきっと彼女は私を心配させたくなかったのだろう、さて何をお見舞いに持って行ってやろうか、とバラエティ番組の収録中でありながら気が気でなかった。
(言うにしてもせめて収録が終わったあとにするんだったな……)
口約束を破ってしまった緒川慎次も同様に落ち着きがなく、スタッフやクルー一同がみな一斉に不思議がっていたがそんなことお構い無しと彼女らは局を後にした。
「翼さん、今から行くのじゃちょっと迷惑じゃないですか?」
「私だって流石にそこまで失礼な人間じゃないです」
「じゃあ、なんだってそんなに急いで」
「今日のうちに買えるものは買っておこうかと」
ただの風邪なのに過保護すぎるなぁ、でかかった言葉は喉で止まり変わりに大きなため息が逃げていった。
(ま、翼さんらしいといえば翼さんらしいな)
『わりぃ先輩、明日の予定なんだがキャンセルで頼む……その風邪ひいちまってな』
「ああ昨日緒川さんから聞かされたよ、ふふっ珍しいな雪音が風邪をひくなんて」
『あの人……黙っててくれって言ったのに。まあそんな訳だごめんな先輩せっかく空けてくれたのに』
言葉のあちこちに抑えきれない咳が散っていて、おまけにいつもでは考えられないほど弱気な声。ここまで弱っているのは初めてで電話越しに聞いているだけで翼の胸が少し締め付けられていた。
「いやそれに関しては気にするな、今はゆっくり休め。ところで今から見舞いに行こうと思うのだが構わないな?」
『お見舞いだとぉ?』
「ああ」
『いやちょっとまて、先輩にきてもらうほどでもないし伝染しまったら』
半ば強引な確認を取ると言い切る前に閉じてしまう。
長々と聞いていたらどうせ断られるだろうと思ったからだ。
「さて」
昨日の夜買い込んだ物を逆の手に持ち直すと、足早に向かい始めた。
「おう、先輩。来ちゃったもんはしょうがないからな、上がってくれ」
「意外と平気そうだな安心した」
玄関に覗かせる顔は少しだるそうではあったが、口調からは心配していたほどのものではないということがわかった。
「その……ありがとな、わざわざ来てもらって」
「なに雪音の家にくるなんていつもの事だ」
「昔はこういう時も独りだったから、なんていうかいいな誰かが側にいてくれるっていうのは」
恥ずかしさに耐えられず天邪鬼な発言をしてしまうクリスが素直な言葉を並べてくれたのはきっと風邪で弱っているからなのだろう。そんな面を見せてくれたのがただただ嬉しく、思わず少しだけ笑みが零れた。
「ただ……」
「ただ?」
「緒川さんに内緒にしてくれって言ったのは、こうなることがなんとなく予想できたからなんだよ」
翼が買って来たものを並べていると、クリスは手を顔に当てて呆れた声でそういった。
「まだ家に来て五分しか経ってないよな?なんだこの荒れようはっ!」
キッチンとテーブル、床にはスポーツドリンクやタオル、いくつかの栄養食などが散乱していた。
「これは雪音が欲しいと思った時にすぐ渡せるようにだな……」
「にしたって置き方とかあんだろうがよぉ」
軽い悪態をつきながら物を集めていくクリス、しかし完全に体調が治っているわけではなく時折ふらつくその姿は弱々しいものだった。
「まあまて、雪音はゆっくりと休んでいてくれ今から何か適当なものを作ってやるから」
「本当に大丈夫かあ?」
「案ずるな、私だって一人暮らしの身だ病人食くらい作れるさ」
ぶつぶつ不満を言いながらも頼れる先輩が任せてくれと胸を張って言ってくれ、それにやはり立っているよりも横になっている方がまだよかったクリスにとって何か口に入れるものを作ってくれるというのはありがたい事だった。幸い横目に見ていても危なっかしい所はなく気が付けば完全に夢の中へと落ちていたのだった。
どれくらい眠っていただろう、目が覚めるとそこに翼はいなかった。変わりに寝ている間に作ったであろう品がいくつか、お粥とスープと何かよくわからないものが並んでいた。
ぼーっとした頭で眺めていると翼が書いたであろう一枚のメモに目が止まった。
「ったく、仕事あんのにうちきてたっていうのか……」
クリスの家はオートロック式で、出ていくだけなら鍵は要らない。ひとしきり家事を終えて仕事に向かったのだろう。
大きな欠伸と同時に全身を伸ばしてリラックスするが、まだ体は怠さを持っていた。丁寧に置かれた蓮華を摘む。空腹ではあるのだがどうにも食欲が無く手をつけようと思えない。理由は分かっている。
「先輩、帰っちゃったな」
来るな来るなと口ではいいつつもやはり翼に来てもらえたのは嬉しかった。それも自分では気が付かないほどの喜びがあったのだ。だからてっきり今日一日つきっきりなのかとも思った。思ってしまった。
風邪で気持ちが滅入ってしまっているクリスにとって今の閑散とした状況はよくないものだった。
(あたしってこんなに弱い人間だったのか)
瞳が濡れていると分かったのは、頭痛に響くほど大きな音のインターホンが鳴った時だ。慌てて袖で顔を擦りドアを開ける。見知らぬ来訪ではなかった。
「はぁ、はぁ、すまない雪音勝手に鍵がかかるタイプとは知らなかったものでな。呼び鈴を鳴らさせてもらった」
「なっ、先輩今日は仕事で帰ったんじゃ……」
「ん?ああインタビュアーが素人だったのでな、なかなかに時間がかかってしまったようだ」
体力には自信のある翼が肩で息をしているのを見るに物凄い速さで帰路を辿ってきたのであろう。
「戻ってくるならちゃんとそう書いておけよな……ぐすっ」
嬉しさのあまり泣いてしまっていたクリスは玄関から戻るなりベッドに潜り込んでしまう。
「なんだ?そんなに嬉しかったか?」
「うるせ」
これを逃す手はないと、負担にならない程度にクリスを攻める翼だったがそれも数回で口を止めることになった。
「すまん雪音口に合わなかったか?」
食卓に一切手のつけられていない様子を見て不安が募る。
「あっ違うんだ先輩!さっきまで食欲がなくて」
一瞬だけ、先程まで感じていた不安を思い出し複雑な顔をするが、今はもう大丈夫だった。目の前には大好きな先輩がいてくれる。
「でも今はもう大丈夫だ」
「そうか」
翼も何か察していたのだろうか、それ以上は追求しなかった。食欲があると言いながらも布団の中に潜ってしまったクリスを見てふと、思いつく。これまでそういう経験はしたこともないしされたこともなかったのだが、今の彼女にはそうさせる物が、母性本能をくすぐられる何かがあるのだろう。これはひとつ貸しが作れるな、そんな悪魔的囁きもあった。
「なら雪音、私が食べさせてやろう」
「は?」
思わず飛び起きるクリスだったが、お盆に食事を乗せこちらに近づいてくる様を見ていると、どうにも不思議な感じがした。
(たまにはこういうのも悪くねぇか)
いつもなら恥ずかしくて頼めないような事でも今なら風邪を理由にしてしまえばいい。たまにはひくのもわるくねぇな、そんな事を思っていると翼がすぐ側まで来て腰掛けた。
「温め直して少し置いたが、まだ熱いだろう。冷ましてやる」
彼女の普段ではあまり見られない世話を焼く、という姿に異常なまでの体温の上昇を感じられた。恥ずかしいとは一言で言い表せないほど色々な感情が渦巻いてたがそれを気にもせず差し出してくる。
「はい、あーん」
「あむ」
程よい温かさに丁度いい塩加減、米も柔らかくなっていて、いい具合の出来だった。いつもなら「さすがに先輩でもお粥くらいは作れるんだな」と言っていたかもしれない。
これを機にいつもの口悪さを直してみようかな、なんて考えているといつの間にか食べ終えていた。
「これも飲むといい、食後のデザートみたいなものだ」
これまた温め直してきたのか、マグカップからは少しの湯気が立っている。先程見たテーブルの上に置いてあった知らない飲み物だった。
「ん、おいしい……」
それは甘くてふわふわしたものだった。牛乳と砂糖と、あとはなんだろうか。疑問を浮かべていると翼がそれに応えてくれた。
「エッグノッグという飲み物だ、雪音は知らなかったか?」
「エッグノッグ?」
初めて聞く単語に思わず聞き返してしまう。
「ああ、卵と牛乳でつくる品だな。簡単なものから凝ったものまで様々なものがあるんだ」
蕩けるような味わいに翼の優しい語りがとても心地よく飲みきる頃には、起こした背もたれに寄りかかりながら寝息をたて始めていた。
洗い物をしながら翼は考え事をしていた。今まで自分は剣として育てられ生きてきた。そんな自分がはたして大切な後輩の為にうまくやれたのだろうか。ふと眠っているクリスに目をやる。気持ちよさそうに夢を見ている姿を見ると少しは安心できた。
(緒川さんもいつもこんな気持ちなのだろうか)
初めて誰かの為に世話を焼いたような気がした。戦いの中でアドバイスや手助けをした事が何回もあるがそれとはまた違う。むしろ戦いの中でのそういったことは必要な事で欠かすわけにはいかない。決して必要ではないが、相手の為に行動する。それに伴う努力は惜しまない。思えばそういうことをする人生ではなかった。
(奏にも緒川さんにも、いつも何かをしてもらう側だったな私は)
自分が何かをしてやれる側に立っていたことに改めて気付いた。クリスに対して先輩風を吹かせていたもののいまいち実感が湧かなかったが、先輩という言葉が現実味を帯びてきたのが妙に嬉しく一人高揚する翼。
「ふふっこういう生き方も悪くないかもな」
クリスの柔らかく陽だまりのような頬を、手の甲でそっと優しく触れてやると翼も横からベッドに寄りかかり意識が遠のいていた。
「ありがとう、先輩」
クリスの声が届くことはなかったが、夕焼けに包まれた空間は居心地がとてもよかった。
この前風邪ひいた時に、あー1人なの寂しいなークリスちゃんだったらどんな感じになるのかなーって思ったのが始まりでした。まあクリスちゃんか翼さんが風邪ひいてもどっちかが必ず駆けつけるだろうな、ということで……どこまでいってもつばクリ脳な自分がそこにいただけという。先輩後輩ということでつい最近プレイしたChaos;child らぶchu☆chu!!の有村さんルートに似たような事でもやろうかと思ったんですが最後の方を似せるだけで終わっちゃいましたね、ほんとに最後の最後。カオチャとシンフォギアのクロスオーバーみたいなの、あとは似たシチュなんかを考えている最近です。