現実世界と時間の流れから切り離された空間に、一人の少年と少女がいた。
「ぐっ、くあっ……」
胸に突き立てられた氷槍を、少年は苦悶に満ちた表情で見下ろす。止めどなく流れ込んでくる第四真祖の“血の記憶”に呑まれまいと必死に抗っているのだ。
だが、長い時に渡り蓄積された第四真祖の“血の記憶”は、十二の少年が受け止めるにはあまりにも膨大がすぎた。それ以前に、既に肉体的な死を迎え魂レベルでボロボロの少年が真祖を喰らうなど、無茶無謀を通り越して不可能であったのだ。
『やはり、只人の身で我の記憶を喰らうのは、無理であったか──』
厳かな声が響いた。
声の主は少年に槍を突き立てた張本人にしてこの空間の支配者。逆巻く炎のような髪と焔光に輝く瞳を携えた少女だ。
落胆しているようにも、悲しんでいるようにも取れる表情を浮かべて、少女は少年を見下ろす。
限りなく無力な人間の身でありながら、真祖だけが制御可能な無限の“負の生命力”を、少年は取り込もうとしている。常人ならば一瞬の内に気が狂うのが当然であろうに、少年は歯を食いしばりひたすら耐えていた。それだけでも十二分、賞賛に値することだろう。
だが、それもここまで。徐々にではあるが、少年の魂は真祖の“血の記憶”に侵食されつつあった。それを少年も理解していた。
しかし、少年は決して諦めない。諦められない。
まだやることが残っている。護らなければならない存在がいる。こんな所で死ぬわけにはいかない。
だがどう足掻いたところで少年には現状を覆す手立てがなかった。魂が喰われていく、意識が遠退いていく最中、
──なにか、何かないのかよ……!?
藁にも縋る思いで少年は叫んだ。
その叫びに応える者がいた。
少年と少女の間に割り込むように一つの影が現れる。まるで最初からそこにいたかのように、滲み出てきた。
影の正体は何処にでもいそうな男だった。顔立ちがどことなく少年に似ているようにも見えなくないが、こちらは明らかに成人している男性だ。
だが、纏う雰囲気が異常だった。男はその身から怖気がする程の何かを放っている。それは焔光の少女から送り込まれてくる“負の生命力”に非常に似通っていた。
『馬鹿な。この空間に侵入することは何人たりとも出来はしない。何者だ、貴様──?』
驚愕の相を浮かべて、少女が問う。男は困ったように頭を掻きつつ、口を開いた。
「────」
男が何かを喋っている。だが少年にはその内容が聞こえなかった。まるでノイズが走ったかのように、男の言葉が聞き取れなかったのだ。
しかし少女のほうはきちんと聞き取れたらしい。その端正な顔を驚愕に染めて男を見つめていた。
『土壇場で覚醒した、そういうことか──』
「────」
少女と男が言葉を交わす。少年には依然として男の言葉が聞き取れなかったが、それでも漠然と目の前の男が自分の味方であることは理解できた。
そして同時に、この男になら託せるとも思えた。会った覚えのない男に、何よりも大切なものを任せることができると思えた。
どうしてそう思えたのか、少年は自分の思考に混乱したが、男の横顔を見て理解した。
この男は少年自身だ。だから、不安なく安心して託すことができる。
──あとは、頼んだぜ……。
少年の声が届いたのだろう。少女と会話していた男が振り向き、驚愕に目を見開く。
「────!?」
男が何かしら叫びながら少年に手を伸ばす。だがその手が少年に届くことはなかった。
本来の主人公である少年──暁古城。しかし彼は真祖が持つ悠久の記憶を喰らうこと叶わず、第四真祖の“血の記憶”に呑まれて消えた。
そして代わりに、古城から託された男が“まがいもの”の主人公として誕生したのだった。
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ゴーンゴーンと鐘の音が響いている。今はもう壊れてしまった時計塔の鐘の音だ。
炎の海に囲まれ、紅い月が見下ろす中、積み重なる瓦礫の上に二人の人間が立っていた。
一人は少年。色素の薄い髪を靡かせる高校生くらいの少年。名前は暁古城。
もう一人は少女。燃え盛る炎のような髪を揺らし、その手に金属製のクロスボウを握る少女。
二人は互いの息がかかる程の距離で見つめ合っていた。
不意に古城が自嘲するように笑う。
俺に寄越せ、と古城が告げる。その口元は自嘲げに歪められている。
少女が緩やかに首を横に振る。その瞳は慈愛に満ち、目の前の少年を優しく見つめていた。
少女は手に持つクロスボウの矢先を自らの胸に向ける。クロスボウには銀色の聖槍が番えられていた。
違う、そうじゃない、やめるんだ。古城が動揺を露わに叫んだ。
だが少女が古城の言葉に耳を傾けることはなかった。
時計塔の鐘の音が鳴っている。その音に混じって、一人の少年の慟哭が世界に響き渡った。
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第四真祖という吸血鬼の噂話をご存知だろうか。
不死にして不滅、一切の血族同胞を持たず、支配を望まず、ただ災厄の化身たる十二の眷獣を従え、人の血を啜り、殺戮し、破壊する。世界の理から外れた冷酷非情な吸血鬼なのだと。過去に多くの都市を滅ぼした化け物だそうさ。
──へえ、そうなのか。知ってた。
黒いパーカー姿の少年は別段驚くこともなく聞き流した。
ここは絃神島。太平洋上に浮かぶ、カーボンファイバーと樹脂と金属、そして魔術によって造られたファンタジー要素満載の人工島だ。
絃神島の住民にとって、吸血鬼の十や百、特別珍しいものでもない。たとえそれが世界最強の吸血鬼であったとしても。