いやぁ……もう勉強いやだぁ。
時は少し遡って雪菜宅──
居残り組である雪菜と夏音は一日部屋に篭っていた。言うまでもなく学校は休み。夏音は欠席の連絡を入れるのも足がつく可能性があることから無断欠席だ。
二人とも家からは一歩も出ていない。古城たちと携帯でやり取りしていたのもあるが、外を彷徨いてメイガスクラフトに見つかる事態を避けるため。雪菜と夏音は完全篭城の態勢を取っていた。
そんな二人の心情はあまり穏やかなるものではなかった。
古城と紗矢華がメイガスクラフトの思惑に乗って音沙汰が途絶えてから半日以上。島外に居るために携帯が繋がらないのは理解しているも、感情の部分では不安で不安で堪らなかった。
家具の少ない飾り気がないリビングで雪菜は古城のスマホを握り、夏音は思い詰めたような表情でフローリングの上に座り込んでいる。二人とも一様に背負う空気が重い。
今の二人にできることはない。いや、何もせず大人しくしていることが最善なのだ。最悪なのは夏音の身柄がメイガスクラフトの手に落ちること。それだけは避けなければならない。
故に夏音は雪菜の家に留まり、雪菜がその護衛をするのは非常に合理的な判断だ。だが感情では納得できない。
今こうしている間にも古城と紗矢華はメイガスクラフトの企みと真っ向から対峙している。それなのに自分は助力できない歯痒さが雪菜は辛い。
夏音に至っては自分の事情に巻き込んでしまった挙句古城たちと連絡がつかなくなってしまった現状に途轍もない自責の念を抱いていた。なまじ心根が優しいだけに良心の呵責が凄まじい。
お通夜もかくやの空気の中、それでも何かできることはないのかと雪菜が思索に暮れていた時だった。不意に握り締めた掌のスマホが電子音と共に振動する。
「もしかして……!」
古城と紗矢華からの電話かもしれない。そう思った雪菜は慌てて明滅する画面の表示を見やり、あからさまに落胆する。
スマホの鳴動は着信を報せるものではなくアラームだった。どうやら前もってこの時間に鳴るよう設定されていたらしい。余りにも間が悪いというか、紛らわしいにもほどがある。
深々と溜め息を吐きつつ未だ鳴り続けるアラームを止めようとして、ふと雪菜はラベルに表示される文字の羅列に目を留めた。
──メモの三番を開け。
「メモの三番? これって先輩からのメッセージなんでしょうか……」
不思議に首を傾げながらも雪菜はアラームを止め、ラベルの指示にあった通りにメモ帳のアプリを呼び出す。幸いというか古城にスマホを預けられた際に使い方を一通りレクチャーしてもらっていたので問題なく操作できた。
メモ帳内には妙なことに一つだけノートがあった。タイトルは三番。一つしかないのに三番が付けられているノートに引っ掛かりを覚えながらもメモをタップする。
開かれたノートにはもしもの時に雪菜と夏音が取るべき行動が幾つか書き留められていた。
古城と紗矢華がメイガスクラフトと直接的な戦闘に入った場合や連絡が取れなくなった状況、その他不測の展開に際して取るべき行動が事細かに記されている。その内容に雪菜は安堵よりも心底驚愕した。
備えあれば憂いなしとは言うが、逆にここまで不測の事態を想定して用意周到にするのは過剰と言っても過言ではない。それこそ見えない何かに怯え、その恐怖から逃れようとしているかのようだ。
「先輩……」
ふとした拍子に気にかかってしまう。暁古城は致命的なまでに何かが欠けていて歪だ。近くにいるからこそその異常性が際立つ。彼の世界の見方は普通から掛け離れている。人間から第四真祖になったとかそれ以前の問題なのだ。
より近づいてみても分からない。それは肉親たる凪沙も例外ではなく、彼の歪みの根源を知ることはなんぴとたりとも叶わない。何故なら理解できる話ではないからだ。
だがそれで引き下がるような諦めの良さを雪菜は持ち合わせていない。今は無理でも少しずつでいいから、いつか本音を明かしてくれる日が訪れることを信じて努力するのだ。それが第四真祖であり優しい先輩に対する雪菜なりの覚悟だ。
メモの内容を上から下まで流し読み、雪菜は現状に最も近いであろう状況に対する行動指示を見つける。というか殆どこの状況まんまを予想したものがあった。
指示内容は対して難しいものではない。いや、ある意味では難易度ルナティックかもしれない。何故なら──
「南宮先生に協力を申し込む……」
古城の担任教師である南宮那月は絃神島において屈指の実力者だ。欧州で“空隙の魔女”とまで恐れられる彼女の庇護下に入ればまず夏音の安全はより確実なものとなるだろう。加えて那月は
理屈では至極正しいことは分かる。だが雪菜の内心は複雑だ。よりにもよって他の女性に助けを求めろというのは心情的に許容し難い。そも古城と那月は何故こうも親密そうな関係なのか、雪菜は常々疑問に感じていた。
まさか教師と生徒の道ならぬ関係……などと密かに戦慄しているとそんな雪菜を訝しんだ夏音が側まで接近してきた。
「あの、どうかしましたか雪菜ちゃん」
「え!? あ、いえなんでもありません。はい、本当に何でもありませんから」
脳内に湧きかけた妄想を振り払って雪菜は努めて明るく笑ってみせた。
今は私情を持ち込んでいる場合ではない。雪菜にとって大切な友人の一人である夏音を救うため、最善の選択をしなければならないのだ。だから今は文句を飲み込む。その代わり無事に戻ってきた暁にはこの消化不良な感情を思う存分ぶつけよう。
そう誓って雪菜は那月と連絡を取ろうとして気づく。メモの指示に那月の電話番号が電話帳に登録されている云々の記載。開いてみれば確かに電話帳に南宮那月の名前がある。
──何でしょうか、この言いようのない敗北感は……。
釈然としない想いを抱きながら雪菜は自分用のスマホを購入しようと誓ったのだった。
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「何時まで経っても帰ってこないもんだから、まさかとは思ってたけど。こんなガキ共にやられてたなんて情けない」
紗矢華の呪術によって拘束されて身動きの取れないキリシマを一瞥し、ベアトリスが悪態を吐く。当初の予定が大幅に狂わされたことに苛立っているようだ。
「まあいいわ。王女サマの居場所はわかったことだし、大人しくついてきな。そうしたらとっても気持ちいいことしてあげる」
「そう言われて、はいそうですかって引き渡すとでも思うか?」
「なに? たかが獅子王機関の、それも助手風情が出しゃばるわけ」
見下す態度のベアトリスと真っ向から睨み合う古城。両者ともにいつ破裂しても可笑しくない一触即発の雰囲気だ。
一方でラ・フォリアと賢生の二人は二人で張り詰めた空気を醸し出していた。
「久しぶりですね、叶瀬賢生。貴方が宮廷魔導技師を辞めてから七年でしたか。なおも我々の血族を供物に儀式を執り行おうとしていたとは思いもよりませんでした」
「その口振りですとやはり夏音はそちらの手の内にありますか。困りますね。まだ儀式の途中であるというのに連れ出されるのは」
「夏音は貴方にとって実の娘も同然であるのに、彼女を人外に仕立て上げる所業。正気を疑います。血迷いましたか賢生」
夏音の母親は賢生と兄妹の間柄だった。賢生は生まれ落ちた赤子である夏音を抱き上げたことすらある。
叶瀬夏音は養女として引き取られ、賢生は養父となった。しかしそれ以前に二人の間には叔父と姪という関係性があったのだ。
実の娘同然の少女を悍ましい魔術儀式の実験台にする。到底正気の沙汰とは思えない行いだ。許されるはずもない。真に愛しているのならばこんな真似はしないだろう。
しかし賢生は一点の曇りもない瞳で王女を見つめて答える。
「血迷う? いいえ、違いますとも。私は今でも変わらず夏音を実の娘として愛している。一度たりとも哀れな儀式の供物として見たことはない」
「では何故このような行いに手を染めたのですか」
「夏音のためだ。
幼い頃から修道院暮らし。親の顔は終ぞ知れず、修道院は事故で崩れ落ち居場所を失う。端的に言って不幸な生い立ちだ。さぞ苦しんだことだろう。そんな夏音から、賢生は苦悩の一切を取り除いてやろうとしているのだ。たとえそれがどれほどに人道を外れた外法であったとしても。
それは確かにある種の救いであるのかもしれない。娘を想う賢生の心にも偽りはない。だが──
「それは本当に夏音にとっての救済になると思っているのですか?」
「無論だ。親として、娘の幸福を第一に願うのは当然のこと」
「そうですか」
淡々と己の心情を語る賢生をラ・フォリアは憐れみを込めた眼差しで見返す。
「でしたらはっきり言わせていただきます。親が願う幸福と子供が思い描く幸福は必ずしも一致するとは限りません。話を聞いた限り、夏音は儀式を望んでなどいない。故に貴方のそれは一方的な押し付けに過ぎないのです。それを理解しなさい、賢生」
ラ・フォリアも王女だけあって自分の思い描く幸福と父親たる国王が願う幸福で食い違いが生じることは一度や二度ではない。むしろ一般家庭よりもその手の諍いはスケールも回数も多いことだろう。
親が子供の幸せを願うのは至極真っ当なことだ。それを否定することはない。だからといって一方的に押し付ける幸福にどれほどの価値があるのか。まして自分の望むものとはまるで異なる代物、享受などできようもない。
だが目の前の男にその正論は通用しない。既に自己の中で完結してしまっているのだ。天使へと昇華し天界へと誘われることこそが夏音にとっての至福だと。どれほど理屈を並べ立てようともう止められはしなかった。
完全に決裂したと見るやベアトリスが一歩前に出る。瞳は怪しい光を湛えており既に臨戦態勢だ。
「長々と育児方針について語ってもらったとこ悪いけど、正直どうでもいいのよ。
ギロリと赤い双眸が古城たちを睨み据える。しかし古城もラ・フォリアも一切怯むことはなく、毅然とした態度で睨み返した。
「悪いがそっちの事情なんて知ったことか。こっちはあんたらの目論見全部台無しにするつもりできてるんだ。予定通りいくと思ったら大間違いだぞ」
「言ってくれるじゃない。その余裕がいつまで続くか見ものだわ──賢生、やっちまいな」
ベアトリスの指示に従って賢生が懐のリモコンを操作する。すると彼らの揚陸艇の甲板で無数の人影が蠢いた。
ライトを背に甲板に現れ出でたのは全身を黒い鎧に包んだ兵士たちだ。手には大型のライフルが握られており、それら全ての銃口が古城たちに向けて固定されている。
「毎分七百二十五発のライフル二十挺。獅子王機関の舞威媛だか何だか知らないけど足手纏い守りながら凌げる代物じゃない。ましてや半人前の助手なんて論外。格好良く啖呵切ってくれたとこ悪いんだけどさ、大人しく諦めてくんない? こっちも貴重な実験材料を傷つけるような真似はしたくないんだよ」
己の優勢を欠片も疑わない上からの物言い。驕りとも慢心とも言えるが、第三者から見て圧倒的に不利なのは古城たちである。何せ相手は複数、おまけに凶悪なライフル装備ときた。如何に紗矢華が腕の立つ攻魔師であったとしても降り注ぐ弾丸の雨を防ぎながら吸血鬼であるベアトリスを相手取るのは無理な話だ。
そう、戦う面子が紗矢華だけならば。
「一つ教えてやるよ。俺はあんたたちに嘘を吐いた。俺は獅子王機関の人間じゃない」
「なんだって?」
古城の唐突な告白にベアトリスは怪訝に眉を顰め、不意に滲み出した負の魔力に赤い双眸を目一杯見開いた。
砂浜に立つ古城の総身から怖気が走るほどの魔力が溢れ出る。吸血鬼には馴染み深い負の膨大な魔力だ。だがその密度と量がおかしい。明らかにそこらにいる吸血鬼を超越している。これではまるで──
「“旧き世代”……いや、こいつはそれ以上の……!?」
意図的に放出される魔力はある種の圧力となってベアトリスたちを襲う。息が詰まりそうなほどの重圧に呻きながらもベアトリスは目の前の怪物に問うた。
「てめぇ、何者だ!?」
真祖にも匹敵する魔力量と考えれば自ずと答えは出るものだが、古城は律儀に名乗り直す。
「──第四真祖、暁古城。お前たちの下らない企みを粉砕する男の名だ」
古城の真の肩書きにベアトリスと賢生は柄にもなく呆然と間抜けな面を晒した。