カーテンの隙間から差し込む朝日に瞼を焼かれるような感覚を味わいながら、古城は鬱屈にベッドから身を起こした。
枕元でアナログ式の目覚まし時計が鳴っている。古城は手探りで目覚ましを止めると、鈍い頭痛を堪えながらベッドを抜け出した。
吸血鬼にとって朝、午前中は非常に辛い時間帯だ。なにせ吸血鬼は基本的に夜が活動時間であり、本来なら朝は寝ている時間帯なのだ。しかし一般的な高校生の生活習慣は朝に起きて夜に寝る。吸血鬼の生活習慣とは真逆といってもいいだろう。
それを押して普通の人間と同じ生活を送ろうとするのだから、睡眠不足に悩まされるのは必定。他にも食欲不振と頭痛、思いつく限りの体調不良に襲われている。原作古城が遅刻やサボりの常習犯であった理由がよく分かった。
だが中身が成人した社会人であるこの古城は染みついた社畜根性とでもいうのか、どれだけ辛く憂鬱であっても朝は起きる。遅刻もサボりも余程のことがない限りしない。そのため追試や補習も元から苦手な英語以外はなく、教師陣から目の敵にされるなんてこともない普通の学生生活を送っている。
寝ぼけ眼は半開き、頭は寝癖だらけ。寝起きを体現したような姿で古城がリビングに出ると、台所から賑やかな声が飛んできた。
「あ、おはよう、古城くん。いつものことだけど、ホントに眠そうだね。コーヒー淹れとくから、先に顔洗ってきなよ」
エプロン姿で台所に立っていたのは暁凪沙。古城の妹だ。
円らな瞳が印象的で、ころころと表情の変わる少女だ。
顔立ちや体つきはやや幼さを残しているが、十二分に美少女の枠に当て嵌まるだろう。事実、その裏表のない性格も相まって男子からの受けは良いと、古城は友人から聞き及んでいた。
古城は気の抜けた声を返し、洗面所で顔を洗う。冷たい水が眠気を飛ばしてくれるが、やはり頭が覚醒しない。タオルで水気を取りながらリビングに戻ると、コーヒーの香ばしい香りが漂ってきた。
「はい、古城くん。熱いから気をつけてね。あと、朝ご飯作ってあるから食べてね」
「おう……」
凪沙からコーヒーを受け取り、古城はすぐにカップに口をつける。
火傷しそうな程に熱いコーヒーを一口。それでやっと頭のほうも回り始めた。
古城はほっと一息ついて、どことなく楽しげな顔で自分を見る凪沙に気づいた。
「なんだ?顔になんかついてるのか?」
「ううん。ただ、古城くんがこんなにも朝が弱い人だって知ったら、学校のみんな驚くだろうなって。あの“彩海学園の紳士”が、寝癖だらけでコーヒー啜ってるなんて。あ、でも、むしろ需要があるかも」
「あのってなんだよ、あのって。そんな有名人になった覚えないぞ」
呆れたように言う古城。時折見知らぬ生徒から視線を向けられたり指を指されたりしていたが、まさかそれが原因なのだろうか。
妙な居心地の悪さを感じつつ古城が食卓についたところで、そういえば、と凪沙が声を上げた。
「ねえねえ、古城くん。夏休み明けからうちのクラスに転校生が来るんだけど、知ってる?」
「転校生……」
「うん、女の子。昨日、部活で学校に行った時に先生が紹介してくれたんだあ。転校前の手続きとかで来てたらしくて、すっごく可愛い子だったんだよ」
「ほーん、そうか」
興奮して語る凪沙の話は所々脈絡が繋がってなかったりするが、それでもなにが言いたいかは分かる。つまり彩海学園の中等部、それも凪沙と同じクラスに可愛い女の子が転校してくるということだろう。
古城は凪沙の話に素っ気なく返しつつ、脳裏ではファミレスで昨日会った雪菜の姿を思い浮かべていた。凪沙の言う転校生とはもろに雪菜のことである。古城の監視のため、同じ彩海学園の中等部に転校してきたのだ。
「すっごく興味なさそうだけど、古城くんにも関係あるんだよ?その子、どうしてか古城くんのこと知ってたし。あたしが自己紹介したら、お兄さんはいるのかって、どんな人なのかって、訊かれたんだよ?」
「それで、おまえはなんて答えたんだ?」
「色々お話したよ。古城くんの学園での評価とか、英語がすっごく嫌いなこととか、他にも色々。でも、安心して。朝が弱いことは話してないから!」
「ぜんぜん安心できないからな」
声を弾ませる凪沙に苦笑いで一応突っ込みを入れる古城。朝が弱いことに関してはそのうちしっかりバレることになるのだが、まあいいか、と古城は投げやりに納得した。
「でも、どうして転校生ちゃんが古城くんのこと知ってるのかな。いくら彩海学園の紳士で有名でも、さすがに島の外まで知られてるなんてことはないだろうし」
「なあ、その恥ずかしいあだ名はどこまで広がってるんだ?学園内だけだよな?」
軽く不安を抱きながら古城が尋ねるも凪沙は答えない。そんなことよりも、と転校生の話を続ける。
「古城くん、実は転校生ちゃんのこと知ってるんじゃないの?さっきからあんまり驚いてないし」
疑惑の目を向けてくる凪沙に、どう答えたものかと古城は頭を掻く。
凪沙の指摘通り、古城は転校生こと雪菜を知っている。それは原作知識であり、そして昨日直で会って話したからだ。故に凪沙の問いに対する答えはイエス。
しかし古城はそれをそのまま答えていいものか悩む。あまり余計なことを話して凪沙を第四真祖絡みの厄介事には巻き込みたくない。それに古城と雪菜に妙な関係があると疑われて、凪沙と雪菜の関係が悪くなるというのも面白くない。
うーんとコーヒーを啜る古城。そんな様子を凝視する凪沙。
仕方ないな、と古城は当たり障りないように答えた。
「昨日、たまたま会ってな。その時に少し話した程度だよ」
「それだけ?」
「まあ、慣れない新天地ってこともあって色々混乱してたんだろ。悪い子じゃなさそうだったし、仲良くしてやってくれよ」
「古城くんに言われなくても分かってるよ」
ふふん、と楽しげに笑う凪沙。微妙に話がずらされてることに気づいてない。
そんな凪沙の姿を眺めて古城は、胸の内をチクリと刺す痛みに目を細めた。
自分はこの少女をずっと騙している。もう三年近くもだ。その事実が常日頃から古城の心に重くのしかかっていた。
もし、今目の前にいるのが本当の兄ではないと知ったら、凪沙はどうするだろうか。そんなことを考えつつ、古城は凪沙が用意した朝食に手を伸ばすのだった。
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南宮那月は国家攻魔官であり、そして彩海学園英語教師でもある。
例の如くレースアップした黒のワンピース。襟元や袖口はフリルがあしらわれ、腰回りはコルセットで締めている。
幼い容姿には見合わぬ威厳とカリスマを漂わせていて、それも手伝って教師としての能力は高く、生徒から舐められることもなくむしろ好評を集めている。
真夏の殺人的な紫外線が降り注ぐ窓際を少し離れた教室中央の席から古城は、英語追試の解答用紙を採点する那月の姿を眺めていた。
「いつも思うけど、暑くないんですかね。那月ちゃん?」
「教師をちゃんづけで呼ぶなと言ってるだろう」
「おっと」
那月が手に持つ黒レースの扇子を構えるのを見て、古城が右手を額の前に翳す。いつもならばこれで那月の一撃を防げただろう。しかし、人は学習する生き物だ。
にやりと那月が口角を上げて扇子を横に一閃。次の瞬間、後頭部に強い衝撃を受けて古城が顔面から机に突っ伏した。
「ま、魔術の無駄使いを見た……」
「言っても聞かない生徒に灸を据えただけだ」
ふふんと得意げに笑う那月。叩かれた後頭部をさすりながら、次は後ろも守らねば、と古城は懲りずに考える。ちゃんづけを止める気は毛頭ないらしい。
「それで、結果はどうですか?」
「正答率六割、まあ合格ラインだ。普段の定期テストでもこれくらい取ってみせろ、馬鹿者」
「無理ですよ。英語なんて、見たくもないんだから」
「それを英語教師の前で言うとは、いい度胸だな」
滑らかに扇子を構える那月に、さすがの古城も分が悪いと感じて即座に頭を下げる。
「冗談だよ、冗談。生徒のお茶目なジョークだって」
「ジョークを言う暇があるなら勉強しろ」
「ラジャー」
ぞんざいな返事をして古城はふと思い出したとばかりに口を開く。
「そういえば、獅子王機関とかいうところから俺に監視役がつくことになったよ」
「──なに?」
獅子王機関という単語を出したところで那月の機嫌が目に見えて悪くなる。眉根を寄せ、滲み出る嫌悪感を隠そうともしない。予想していた反応なだけに古城は苦笑いだ。
国家攻魔官である那月と獅子王機関はあまり仲がよろしくない。両者とも攻魔師であることは同じであるが、互いに取り扱う管轄が違ったり微妙に被ったりするところがあるためだ。端的に言えば、警察と公安という関係である。
そのため、那月はあまり獅子王機関に対して良い感情を持っていない。
「そんなことをわざわざ、何故私に言った?」
「那月
わざわざ先生呼びにして言う古城。世話になっているというのは国家攻魔官である那月に対して、ということだろう。勿論、教師である那月にも世話はかけているのだが。
そんな古城を那月はしばし睨んで、やがて諦めたように苦々しい溜め息を吐いた。
「まあいい。せいぜい気をつけるのだな。連中は真祖が相手でも本気で殺しにくる。やつらはそのために造られたんだからな」
「みたいだな。昨日早速、危険なら抹殺する宣言されたところだよ」
那月の警告に、古城は曖昧な笑みを以って返した。そんな古城に、那月は採点を終えた答案を放り投げて立ち去っていった。
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唯一くらった英語の追試を無事終えた古城は、特に予定もなかったので丸々空いた午後をどう過ごすか考えていた。原作では雪菜の財布を届けに行くイベントがあったが、今回はそんなこともない。今頃雪菜は中等部で残りの転校手続きか何かを恙無く進めていることだろう。
することもなく暇を持て余した古城が校門を潜ろうとしたところで、
「あ、お兄さん」
透き通った声に呼びかけられて足を止めた。
古城は聞き覚えのある声に振り返り、そこに一人の女子生徒を認めた。
銀色の世界を連想させる髪と氷河の碧さを思わせる瞳を併せ持つ少女は、“中等部の聖女”と呼ばれる叶瀨夏音その人だ。
この常夏の絃神島においていつもハイネックの長袖シャツを着込んでいるが、身に纏う涼しげな雰囲気からか、どこぞの英語教師と違って暑苦しさは感じない。
夏音は凪沙の友人であり、また古城の後輩にもあたる。そして古城とはとある秘密を共有する間柄だ。
「お久しぶりでした。今日は、どうしてここに?」
「あーいや、ちょっと……追試がな」
英語の追試をくらったのが気恥ずかしくて、答える古城の声は酷く小さかった。
夏音はしばしばと瞬きをして、くすりと慈愛に満ちた微笑みを浮かべる。
「意外でした。お兄さんでも、追試を受けるんですね」
「そりゃまあな。俺はなんでもできる完璧超人ってわけじゃないし」
首を横に振って、古城は夏音が手に持つ荷物に気づく。
手提げ袋から覗く市販のキャットフードの袋とその他子猫用おもちゃなど。猫を飼っている人間ならば持っていてもおかしくない代物であるが、夏音の場合は事情が違う。
「今から修道院に行くのか」
「はい、丁度向かっているところでした」
「なら、俺も行こうかな。丁度暇してたところだし」
「いいんですか?」
「おう。人手があったほうが、叶瀨もいいだろ」
「はい、助かります」
穏やかな微笑を湛えて答える夏音に、古城も柔らかな笑みを返す。校門前で二人が無意識に張る固有結界を、遠巻きに生徒らが見ていることには、二人とも気づいていなかった。
「じゃあ、行くか」
言って古城はすっと手を差し出す。その手を夏音は首を傾げて見つめ、ややあってから自分の手を重ねた。
その行動に驚いたのは古城だった。古城としては夏音が抱える荷物を持ってあげようというつもりで差し出した手であったのだが、まさかこんな認識の齟齬が生じるとは思いもしなかったのだ。しかし今さらそれを指摘するのも気まずい。
古城が対応に困っていると、どうかしたのかと夏音が見上げてきた。軽く天然が入っている夏音は古城の困惑にこそ気づけど、その理由にまでは思い至らないらしい。
まあいいか、と古城は頭を掻きながら、もう片方の手で夏音から手提げを受け取り、そのまま二人一緒に修道院へと向かうのだった。
▼
学校の裏手にある丘の上、深い緑に覆われた公園の奥に古城と夏音の目的地である修道院はあった。
建物自体は昔に起きた事故によって酷く損壊しており、ほぼ廃墟となっている。辛うじて屋根や内装が残っている部分もあるが、人が住むには無理がある状態だ。
そんな場所に何があるのかといえば、
「おーおー、相変わらずたくさんいるな。この前来た時よりも増えてないか?」
修道院の床に溢れ返らんばかりにいる子猫の数々を見て、古城が驚きに軽く目を見開く。
「はい、また拾ってきてしまいました。すいませんでした」
「や、いいんだけどさ。俺も嫌いじゃないし」
申し訳なさげに言う夏音に気にするなと古城は手を振る。
夏音には捨て猫を拾ってくる癖があった。どうにも見つけてしまうと放っておけなくなるそうだ。夏音としては引き取り手を見つけるまで預かっているだけのつもりだったらしいが、なかなか里親が見つからず預かる猫が増える一方だった。
古城はそれを原作知識で知っていた。しかし今こうして共に猫の世話をしているのは本当に偶然だ。たまたま夏音が捨て猫を拾う場面に出くわし、成り行きで時折猫の世話を手伝うことになったのである。
古城は持っていた手提げの中身を手早く広げ始める。夏音は寄ってくる子猫の相手をしつつ、古城がキャットフードを用意する姿を見つめていた。
「うし、エサの用意完了。ほーらこっちこいこい、エサの時間だぞ」
キャットフードをこんもりと盛ったエサ皿を床に置いて、古城は子猫たちを手招きする。が、みんな夏音のほうへと行ってしまい一匹たりとも古城には寄ってこない。
「団子より花、ってか。ショックだわ……」
がっくりと古城が肩を落とす。“
待っていても寄ってこないならば仕方ない。古城は自らエサ皿を持って夏音に近づこうとして、不意に修道院の入り口から人の気配を感じた。
気配のしたあたりに目を向けると、姿こそ見えないが日差しによって人の影が地面に伸びていた。
古城はなんとなくデジャヴを感じて、若干呆れながら隠れている人物に声をかけた。
「姫柊か?」
ぴくりと影が動いた。隠れている人物は雪菜で間違いないようだ。
きっと生真面目に古城の監視をしているのだろう。しかし子猫の群れに思わず反応してしまったというところか。古城に気配を読まれてしまったのだ。
「そんなところで隠れてないで、姫柊もこっち来いよ。可愛いぞー」
エサ皿を置いて古城は雪菜を呼ぶ。しかし雪菜は影を揺らすだけで姿を現そうとしない。
ふむ、と古城は頷いて、
「ああ、可愛いなぁ。こんなに一杯猫がいる光景なんてそうそう見られないだろうな。ほら、好きなだけ遊び放題だ。しかも女の子相手ならすりすりと寄ってきてくれるサービスつきだ」
「あの、お兄さん?」
ペラペラと饒舌に喋る古城に夏音が困惑の視線を向ける。古城は悪戯っぽく笑い返し、雪菜の反応を窺う。
日差しによって作り出されている雪菜の影はさっきからしきりに跳ねている。古城の言葉に心が揺れ動いているのだろう。きっと今頃、内心では激しい葛藤に襲われているに違いない。
そんな雪菜の背を後押しするように古城は一言付け加える。
「どうせ監視するなら、より近くでのほうがいいんじゃないのか」
その一言で城壁は陥落した。
おずおずと扉の陰から姿を現わすギターケースを背負った雪菜。その表情は分かりやすく不機嫌に膨れていて、ちょっとからかいすぎたかと古城は少しばかり反省した。
「紹介するよ。こいつは姫柊雪菜。夏休み明けから中等部に転校してくる子だ。仲良くしてやってくれ、叶瀨」
「はじめまして、姫柊雪菜です。よろしくお願いします」
丁寧にお辞儀する雪菜に、夏音は展開についていけてないのか困り顔で首を傾げる。ただ古城の言葉の中に気になるワードを見つけて、それを口にした。
「あの、監視ってなんですか?」
はっ!と雪菜が目に見えて動揺する。一般人と見られる夏音に自分が第四真祖の監視役であり、あまつさえその第四真祖が夏音の隣にいる人物だとばれたら拙いと考えたのだ。
しかしそこは古城が適当にフォローを入れる。
「ちょっとしたゲームをしててな。姫柊はそのゲームで監視役なんだよ」
「そうでしたか」
純粋な夏音は人を疑うことを知らない。古城の口から出まかせも夏音はそのまま鵜呑みにしてしまう。ある意味信頼の裏返しとも取れるが、古城は少しばかり夏音の行く末に不安を感じた。
「叶瀨夏音です。えっと、触りますか?」
夏音は胸に抱いていた子猫を差し出す。
「いいんですか?」
「はい、どうぞでした」
瞳を歳相応の女の子らしく輝かせて、雪菜は子猫を受け取る。
ふさふさふわふわの黒い子猫を抱き上げて、雪菜は心底幸せそうに笑う。その表情に夏音も少しずつだが心を開き、二人は仲良く子猫と戯れながらガールズトークへと突入していった。
可愛い女の子たちが仲良くお喋りする光景を微笑ましいものを見るように眺める古城。その姿は休日に子供が遊ぶ姿を見守る父母のようであった。
そんな古城の目線が雪菜と夏音から修道院の奥へと向けられる。視線の先にあるのは壁に埋め込まれた、一枚の
古城はその彫刻を無感動な瞳で見つめて、ややあってから再び少女たちへと視線を戻した。