周辺一帯の大気が急激に冷やされ、空気中の水分が凍り付いて氷の結晶が舞い散る。禍々しい監獄が氷の結晶に彩られて幻想的な景色が創り上げられるが、この場に呑気に風景観賞をするような人間はいない。
「次から次へとガキがしゃしゃり出てきやがって。どうなってやがる!」
「魔術にしては規模が桁違い……彼女はいったい何者だ……?」
またもや己の攻撃を妨げられて憤慨するドレッドヘアの男と、突如として現れた謎の少女に対して警戒を募らせる魔術師の紳士。しかし彼らは凪沙の介入に驚きはせよ、大して脅威には感じていなかった。
所詮は女子供が一人増えただけ。先の氷壁を一瞬で生成した能力こそ目を瞠るものがあるが、それだけの話。氷の壁程度、砕くか溶かし尽くしてしまえばいいだけの話だ。
ドレッドヘアの男と魔術師の紳士が再び攻撃態勢に入る。氷の壁越しにその様子を見ていた凪沙らしき少女は無造作に右手を振り翳した。
それに気付けたのは一重に運が良かったのだろう。いつの間にか自身の足元まで滞留していた冷気の奇妙な動きに、ドレッドヘアの男は咄嗟に隣の紳士を引き寄せて盾にした。
次瞬、冷気の中から生えた無数の氷槍が脱獄囚たちを襲った。
「がふっ!? シュトラ・D、貴様ァ……!」
「恨むんなら鈍間なテメェを恨むんだな!」
鋭利な氷の槍に全身を串刺しにされ、魔術師の紳士が怨嗟に満ちた声を上げる。平然と他人を身代わりにしたドレッドヘアは悪びれもせず、即座に冷気の範囲外へと離脱した。
鋭い氷の槍に貫かれて出血と急激な体温低下に見舞われた紳士を取り巻く空間が、水滴を垂らされた水面のように揺れる。次の瞬間、虚空から吐き出された大量の鎖が紳士を縛り上げた。辛うじて機能している監獄結界が弱った囚人を連れ戻そうとしているのだ。
「おのれぇ、この程度で私がああああああ──!」
必死に逃れようとする紳士だが、極低温まで冷やされた身体では碌な抵抗もできない。間もなく魔術師の紳士は虚空へと引き摺り込まれ姿を消した。
脱獄囚の一人が早くも脱落したことで他の脱獄囚たちに動揺が走る、などということはなかった。高みの見物をしていた面々は小娘一人に倒された紳士の無様を冷ややかに笑っており、身代わりにした当人に至っては邪魔が減ったとばかりに嬉々としている。
彼らには仲間意識など欠片もない。目の前で殺されようと微動たりとしないだろう。
「一人だけか。まあいい……」
脱獄囚の一人を瞬殺してみせた凪沙は、用は済んだとばかりに踵を返すと元来た道を戻り始めた。
「待って下さい、あなたは……!?」
まるで嵐のように訪れそのまま去ろうとする凪沙の姿をした誰かを、雪菜が咄嗟に呼び止める。背中越しの呼び掛けに少女は歩みを止め、肩越しに雪菜たちを振り返った。
「潮時だ。退き際を見誤れば死ぬぞ、剣巫の娘」
「──ッ、撤退します!」
決断は早かった。
凪沙の介入によって脱獄囚たちは動きが鈍り、追撃しようにも巨大な氷壁が邪魔をしてできない。撤退するなら今この時しかなかった。
雪菜の即断に紗矢華と優麻も追従してこの場からの離脱を始める。
「待てやコラ、逃すとでも思ってんのかァ!!」
ズドン! と大砲のような音が響いて氷壁に罅が入る。ドレッドヘアの力任せな攻撃に早くも氷壁が悲鳴を上げていた。防壁が崩れるのも時間の問題だろう。
氷壁が破られてしまえばあっという間に追いつかれてしまう。雪菜たちは焦燥に表情を歪めるが、凪沙だけは悠然と笑みを零していた。
「案ずるな。加勢は我だけではない……」
凪沙が意味深に呟くと雪菜たちを眩い照明が照らす。光の先を目で辿ると、監獄結界と絃神島を繋ぐ桟橋の先に見慣れない多脚型の戦車のような乗り物が停車していた。
その戦車の上部、開閉ハッチから身を乗り出して上半身だけの人影が存在を主張するように手を振っている。
「全員、早くこっちに来て!」
「藍羽先輩!? どうしてここに……!?」
桟橋を渡り切った先で待っていた人影の正体は雪菜の先輩であり、古城の同級生でもある藍羽浅葱だった。
凪沙に続いて浅葱までもがこの場に居合わせる状況に思わず足を止めそうになる雪菜。そんな雪菜を叱咤するように浅葱が切羽詰まった声を張り上げる。
「いいから、乗って! 今すぐ逃げないと追いつかれちゃうでしょ!?」
「乗ってと言われても、何処に乗れば……」
目の前に停まっている戦車らしき乗り物は装甲が流線型で、足や手を掛けるような場所がない。鍛えている雪菜と紗矢華であればバランスを取れるだろうが、他の面々には難しいだろう。
「あー、じゃあ手狭だけど
早口で捲し立てて浅葱は操縦室に引っ込む。他の面々も即座に戦車へ乗り込んだ。
雪菜と紗矢華が上に乗り、古城を抱えた優麻が中に乗る。凪沙は優麻に続いて音もなく操縦室内へと滑り込んだ。
「ちょっと待って。なんで凪沙ちゃんもいるの? え、その子、だれ? 古城? 嘘でしょ!? 何がどうなってんのよ、もう!」
操縦室内から浅葱のテンパった叫びが聞こえてくる。同級生だった少年が縮んだ姿で現れれば誰だって驚く。雪菜だって驚く、というか既に驚いた後である。
「全員乗った? 乗ったわね!? かっ飛ばすから上の人たちは落っこちないように気をつけてよ!」
浅葱の警告の声に雪菜と紗矢華が身構えると同時、エンジン全開で戦車が走り出した。戦車は物凄い速度で監獄結界から離れていく。さしもの脱獄囚たちも足で戦車の速度には追いつけないだろう。
雪菜たちを乗せた戦車はそのまま夜の絃神島市内へと消えていった。
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監獄結界からある程度の距離を取り、追手の気配もないと確認できたところで戦車は人気のない路肩に停車した。
雪菜と紗矢華が軽い身のこなしで降りると、操縦室のハッチが勢いよく開いて浅葱が顔を出す。その顔には色濃い疲弊が貼り付いており、彼女の精神状態を端的に表していた。
「いくらなんでも操縦室に四人は無理があったわ……」
這いずるように外へ出て車体を滑り降りる浅葱。そのまま車体に凭れて地べたに座り込んでしまう。一人乗りを想定して設計された操縦室に四人で乗り込めば相当に窮屈だっただろう。加えて雪菜たちと違い修羅場に慣れていない浅葱にとって、殺し殺されかねない戦場の空気も堪えたらしい。
長い沈黙が流れる。この場において最も問い質したいことがあるだろう浅葱は口を閉ざしたまま、紗矢華は念のために周囲の警戒に気を張っており、誰も口を開かない微妙に重苦しい空気が漂う。
静寂を破ったのは痺れを切らした雪菜だった。
「何も訊かないんですか?」
沈黙に堪えかねて切り出した雪菜に、浅葱はやや険の篭った目を向ける。
「なに? 訊いたら答えてくれるの?」
「それは……」
向けられた厳しい眼差しにたじろぐ雪菜。
浅葱は雪菜や古城とは違う、完全無欠な一般市民である。巻き込んでしまったとはいえ、雪菜の一存で教えられることには限りがある。特に古城を取り巻く事情に関してはデリケートを超えて爆弾級であり、下手に知ってしまえば浅葱の今後が危ぶまれる。何より、当人である古城に断りもなく話すわけにはいかない。
返答に窮して目を伏せてしまう雪菜をしばし見つめ、浅葱は罰が悪そうに視線を逸らした。
「ごめん、意地悪言った。色々と立て込んでて、あたしも気が立ってるみたい」
乱れた感情を落ち着けるように吐息を零し、落ち着きを取り戻した上で浅葱は雪菜と向き合う。
「そりゃあ、訊きたいことは山ほどあるわよ。この島に何が起こってるのか。どうして古城が戦王領域の貴族と戦ってたのか。そもそも古城は何者なのか。あなたたちと古城はどんな関係なのか。洗いざらい、全部話してもらいたいさ。でも……」
背凭れにしていた戦車を振り返る浅葱。その視線は操縦室内で未だに目を覚さない古城に向けられていた。
「後で全部話すって約束したから、今はいいわ」
きっぱりと割り切ってみせた浅葱。この状況で割り切ることができる浅葱の強かさに雪菜は少なからず感心させられた。
「それに、ここで悠長にお喋りしてる時間もないんでしょ? 状況はさっぱりだけど、絃神島に良くないことが起きてるのは分かる。何ができるのかは分からないけど、何かしなきゃいけないんじゃない?」
少ない情報を冷静に分析した上で浅葱は異変の解決を見据えている。私情よりも優先すべきことがあると理解しているのだ。
浅葱の指摘通り、雪菜たちには絃神島を守るために優先すべきことがある。またも行方知れずになった那月を捜索し、脱獄囚たちの魔の手から守らなければならない。加えて仙都木阿夜に奪われた時間を取り戻し、那月と古城を元の姿に戻す必要もある。浅葱に事の始まりから最後までを説明している時間はなかった。
「今、何が起きているのか。何をすべきなのか。これだけでいいから教えなさいよ」
「ですが、藍羽先輩は……」
「無関係なんて言わないわよね?」
キッと睨み付けられて雪菜は小さく呻いた。
監獄結界から離脱するために危険を顧みずに協力してくれた浅葱を、無関係の部外者だからと突き放すのは無理があった。
しかし、浅葱は雪菜たちのように身を守る術を持たない、ごく普通の高校生なのだ。凶悪な犯罪者たちに関わらせるのはあまりにも危険である。
雪菜の葛藤を察して、浅葱が気遣わしげに微笑む。
「何となく、姫柊さんがあたしのことを考えて悩んでるのは分かった。でもね、あたしだって伊達に“魔族特区”育ちじゃないのよ」
微笑みを勝ち気な笑みに変え、雪菜の懸念を吹き飛ばすように浅葱は言う。
「今更、テロだなんだでビビるほど柔な性格してないのさ。分かったら大人しく先輩を頼りなさい」
先輩風まで吹かせ始めた浅葱に雪菜はしばらく悩んでいたが、やがて折れたのか肩を落としながらポツポツと話し始める。
説明するのは監獄結界が破られ、凶悪な国際魔導犯罪者たちが脱獄したこと。彼らが完全なる解放のために古城と同様に幼児化した那月を狙っており、彼らより先に那月を保護しなければならないことを端的に話した。また、古城と那月を元の姿に戻すため、仙都木阿夜の打倒も必要だと付け加える。
その他の因果関係などに関しては伏せた。話せば長くなるし、浅葱が必要ないと割り切った以上、無理に聞かせることもない。
雪菜の話に耳を傾けていた浅葱は、しばしの吟味のあと納得したのか口を開いた。
「色々と気になることはあるけど、やるべきことは分かったわ。監獄結界の囚人とか明らかにヤバイけど、とりあえずの方針は那月ちゃんの保護ね」
「はい。ですが、居場所が分からないことには……」
那月は最後の力を振り絞ってあの場から姿を消した。行方は知れず、今何処で何をしているのかも分からない。捜索は難航するだろう。
しかし忘れてはならない。雪菜の目の前にいる少女は絃神島のネットワークを軽々と支配し、当然のようにカメラをハックできるとんでも少女だ。絃神島内を彷徨う幼児化した那月を探すくらい朝飯前である。
「那月ちゃんの居場所はあたしが探すわ。それより、あなたたちはどうやって囚人の手から那月ちゃんを守るのかを考えて──」
「──話の途中にごめん、二人とも」
浅葱の言葉を遮って操縦室のハッチから優麻が顔を見せる。その表情は焦燥に満ちており、何か問題が起きたことを示していた。
「凪沙ちゃんの様子がおかしいんだ……!」
優麻の言に雪菜と浅葱は互いに顔を見合わせ、息を合わせたように凪沙の様子を確認に動き出す。異変を察した紗矢華も駆け寄ってきた。
狭い操縦室内から優麻の手で外に出され、そっと地面に横たえられた凪沙の表情が苦しげに歪む。
「どうしたのよ、その子。さっきまで元気に動いてたと思ったのだけど?」
「分からない。古城の様子を見てたら、いつの間にかこうなってたんだ……」
自分を慕ってくれていた少女の急変に動揺が隠せないようで、優麻は不安げな顔をしていた。
凪沙の傍らに膝を突いた雪菜は、苦しげな呼吸を繰り返す凪沙の手を取る。死人のように冷たい感触に雪菜は驚愕した。
「これは、まさかそんな……」
先の神憑りのような様子から予想はしていたが、直接触れたことで雪菜は凪沙の身を苦しめる原因を直感的に把握してしまった。偏に雪菜が剣巫──巫女の系統だったからだ。
古城と凪沙の間には秘匿された繋がりがある。恐らくは当人たちも知らない。雪菜だからこそ気づけた。
「紗矢華さん」
同じく獅子王機関所属で舞威媛の紗矢華を、同意を求めるように見上げる。触診で凪沙を診ていた紗矢華も概ね同じ結論に至ったらしく、重々しい頷きを返す。
「雪菜の見立てで間違いないわ。極度の霊力欠乏症ね。すぐに命がどうこうとまではいかないでしょうけど、早いところ専門の医療機関に連れていったほうがいいわ」
「霊力欠乏症? どうして凪沙ちゃんがそんなことに……」
「それは……分からないわ」
一瞬だけ雪菜と目配せを交わし、紗矢華は答えを濁した。そのやり取りを怪訝に思い、雪菜と紗矢華をじぃっと見つめる浅葱。
「……まあ、いいわ。今は凪沙ちゃんが優先だし、診てもらえる医療機関を探さないと──」
「──その必要はなかったりするんだよね」
焦燥に支配されていた一行の空気を打ち壊す、底抜けに明るい女性の声が響いた。
反射的に雪菜たちは声の発生源に対して身構える。すわ脱獄囚に追いつかれたのかと思ったのだ。
雪菜たちの危惧は、しかし不要のものだった。
歩道を照らす街灯に背中を預け、雪菜たちを品定めするような視線を向けてくる女性がいた。
背格好は高からず低からず、しかして胸部の主張はかなり激しい。よれよれの白衣がだらしない雰囲気を醸し出している。伸ばされた髪がぼさぼさだったり、やや眠たげな目付きもだらしなさに拍車を掛けているだろう。
見覚えのない女性の存在に警戒を強める雪菜たち。監獄結界の囚人ではないようだが、こんな人気のない場所で接触してきたことから、ただの通りすがりとは考えづらい。自然と身構えてしまうのも仕方ないだろう。
そんな雪菜たちの態度など気にも留めず、女性は鼻歌交じりに近づいてくる。歩みは真っ直ぐ、苦しげに横たわる凪沙を向いていた。
すっと雪菜が凪沙を庇うように立ち位置を変える。
「待ってください。あなたは何者ですか?」
「んー、私? ふふっ、私はね──」
悪戯を思い付いた子供のように笑って歩みを止める女性。その場で無駄にくるりと一回転して、恥ずかしげもなくキャピルンとポーズまで決めて、女性は高らかに名乗りを上げる。
「──暁深森。凪沙ちゃんと古城くんのお母さんでした!」
白衣の女性──暁深森は場違いなほどのハイテンションで己の正体を明かした。
警戒していた中で明かされた女性の正体に雪菜たちは石像のように硬直。ややあって理解が追い付き、口を揃えて叫んだ。
「──お、お母様!?」
少女たちの驚愕に満ちた絶叫に、満足げに深森は笑みを浮かべた。
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MAR──マグナ・アタラクシア・リサーチ社は東アジアを代表する巨大企業であり、世界有数の魔導産業複合体だ。絃神島にも巨大な研究所を有しており、雪菜たちはその敷地内に設立されたゲストハウスの一室に案内されていた。
案内人はゲストハウスの一室を私物化し、週の大半をそこで過ごしている深森だ。深森はMAR医療部門の主任研究員であり、多少の無茶なら通せる立場にある。
最初、雪菜たちは深森に対してどう接すればいいか分からず戸惑った。一度も会ったことのなかった古城と凪沙の母親ということもあったが、息子と娘が方向性は違えど大変な状態に陥っており、何と説明すればいいのか分からなかったのだ。
しかし深森は雪菜たちの懸念など知らぬとスルーし、苦しむ凪沙を見ても動揺せず、縮んだ古城を見た時は「あらぁ、随分と可愛くなっちゃって。後で写真撮っておかないとね!」などと呑気な反応のみ。平静過ぎる態度に雪菜たちのほうが困惑させられた。
「じゃ、私は凪沙ちゃんを研究所に運んでくるわ。あなたたちはてきとーに寛いでいていいわよ。あ、お腹減ってたら冷蔵庫のピザとか食べていいからね。あと、寝てる古城くんに悪戯とかしちゃダメよ? 勿論、フリだけど」
嵐のようなマシンガントークをかまし、凪沙を抱えて部屋を出ていってしまう深森。残された面々は暫くの間、深森の色々と凄まじい勢いに圧倒されていた。
深森が私物化している部屋はゲストハウスの中でもかなり上等な部屋らしく、雪菜たちが腰を落ち着けて話をするだけの広さは十二分にある。干しかけの洗濯物や郵便物、怪しげな医療器具などが散乱していて本当に落ち着けるかどうかは微妙であるが。
雪菜たちは部屋の中で比較的片付いていたテーブルを囲み、改めて話の続きを始めた。
「凪沙ちゃんのことはお母様にお任せして、今後の方針を確認しましょう。優先事項としては南宮先生の捜索と保護ですけど、捜索は藍羽先輩にお願いしても大丈夫ですか?」
「いいけど……」
先ほどまでの自信に満ちた態度から打って変わり、浅葱は何か突っ掛かりを覚えたのか怪訝な顔で考え込む。
雪菜たちの見守る中、暫く難しい顔で唸っていた浅葱がハッと顔を上げた。
「そうよ、おかしいじゃない。
「あの、藍羽先輩。一人で納得されても困るのですが……」
「え? ああ、ごめん。ちゃんと説明するわ」
雪菜の声で我に返り、浅葱はこの場の面々に己の考えを語り始めた。
雪菜から簡単に状況を説明された時点で浅葱は引っ掛かりを覚えていた。
脱獄した仙都木阿夜は固有堆積時間操作の魔導書で那月と古城の記憶を奪った。奪い取った記憶は阿夜の手元にあるのだろう。ならばその記憶の中には、脱獄囚たちを縛める監獄結界の“鍵”──解除プログラムがあるはずだ。
しかし現実は、脱獄囚たちは血眼になって那月を探しており、彼女を殺せば自由になれると信じている。そう仕向けたのは他でもない阿夜だ。
明確に指示したわけではないが、那月の弱体化を脱獄囚たちに仄めかした阿夜はその実、那月を殺さずとも自由になる手段を持っていた。その鍵の存在を脱獄囚たちに秘匿し、敢えて那月を狙うように誘導した目的は何か──
浅葱の意見に雪菜たちは険しい表情で黙考する。腕利きのハッカーでプログラマーの浅葱だからこそ気づけた違和感。筋は通っているし、納得もいく。しかし、そうなると阿夜の目的が分からない。
「もしかして、お母様は……」
思い当たる節があったのか、優麻が小さな呟きを零す。
憶測だけど、と前置いてから優麻は話し始めた。
「お母様は十年前、絃神島でとある魔術儀式を敢行しようとして、南宮那月に敗れ監獄結界に送られた。世間一般には“闇誓書事件”と呼ばれてるはずだよ」
十年前に仙都木阿夜が絃神島で引き起こした“闇誓書事件”。儀式によって大規模な魔力消失現象が引き起こされ、魔術によってその大部分を支えている人工島である絃神島は少なくない被害を被った。
絃神島での日が浅い雪菜と紗矢華は“闇誓書事件”と聞いてもピンと来なかったようだが、唯一浅葱だけが目に見えて顔色を変えた。今回の事件がLCOの魔女が発端であり、十年前にも似たような空間異常があったということで色々と調べていた浅葱は優麻の言わんとすることを理解したのだ。
浅葱は私物のノートパソコンを広げ、鬼気迫る様子で何やら調べ始める。そんな浅葱を横目に優麻は続けた。
「魔術儀式は南宮那月の介入によって失敗に終わった。もしも、お母様があの日の続きを諦めていなかったとしたら、再び“闇聖書”を利用して儀式を実行しようとしているかもしれない」
確かな根拠があるわけではないが、優麻の推測はそれなりに説得力があった。
阿夜があの日の儀式の再演を目論んでいるとすれば、脱獄囚たちを解き放ったのも陽動の一環だと納得できる。脱獄囚たちから那月を守らせることで、自分は誰に邪魔されることもなく儀式の準備ができるのだから。
耳を傾けていた雪菜と紗矢華も、可能性としては十二分にあり得ると肯く。丁度そのタイミングで、ノートパソコンと睨めっこしていた浅葱が声を上げた。
「ビンゴ! 彩海学園を中心に謎の結界が発生してる。今は狭い範囲だけど、このペースだと今夜中には絃神島全域を覆う規模になるわ」
優麻の推測を裏付ける情報が浅葱によって齎され、いよいよもって事態は混迷を極め始めた。
阿夜の真の目的が判明したことで状況が好転したかと言えば、そんなことはない。むしろ対処しなければならない事柄が増えただけだ。
脱獄囚たちの完全解放を防ぐために那月の保護に注力すれば、闇誓書によって絃神島のありとあらゆる魔力が消失してしまい、魔術で造り上げられた絃神島は海の底へ沈む。だからといって那月の保護を後回しにしてしまえば、最悪の場合は監獄結界が破られ絃神島を凶悪な魔導犯罪者たちが闊歩しかねない。
戦力となる人間は雪菜と紗矢華のみ。たった二人で両方に対処するのは無理があり、彼方を立てれば此方が立たない状況だ。
那月の保護と阿夜の打倒。何方を優先すべきか、或いは戦力を分散して対処するか。雪菜たちも即座に決められないでいた。
せめて古城が万全とは言わずとも弱体化しないでいたら、と雪菜はリビングのソファに寝かされた古城を見遣る。消耗が激しかったのか、監獄結界で一度目を覚まして以降は起きる気配がなく、今も比較的穏やかな寝息を立てている。
人手が足りないという思いはこの場にいる全員が共有しており、浅葱も縋るように眠りこける古城に視線を向けていた。
「緊急事態だっていうのに、気持ち良さそうに眠りこけちゃって。こいつめ」
うりうりと浅葱が眠る古城の頬を突く。思索に煮詰まった末の現実逃避のようなものだったが、あどけない寝顔をむず痒げに顰める古城の反応に、浅葱は言い知れぬ興奮を覚えていた。
普段は高校生とは思えないほどにしっかりとした好青年である同級生の幼く無防備な寝姿。深森からも悪戯していいよ的なお言葉を頂いている。ちょっとくらいならいいのでは、と浅葱がごくりと生唾を呑む。
しかし忘れてはいけない。今この場にいるのは浅葱だけではない。
「藍羽先輩……」
無表情で呆れた空気を醸し出すという器用な真似をする雪菜が、冷ややかな眼差しで音もなく背後に立っていた。見れば紗矢華と優麻もテーブルを離れて古城を囲む立ち位置に移動している。
「違うのよ、これは決してそんな邪な想いがあったわけじゃなくて」
「じゃあ、なんで顔を近づけようとしていたんですか?」
「……キスしたら目が覚めたりしないかなぁ、って」
「立場が逆だと思うんですけど」
もはや言い訳にすらなっていない浅葱の発言を雪菜はバッサリと切って捨てた。
「藍羽浅葱、あなたねぇ……」
「あはは、本当に古城の周りは面白い子が沢山いるんだね」
呆れて物も言えないとばかりの紗矢華と楽しげに展開を見守る優麻。自分だけが暴走していた状況に浅葱は顔を真っ赤にする。
「だって仕方ないじゃない。こんなあどけない顔で寝てたら、ちょっと悪戯してみたくもなるでしょ!?」
いっそ清々しいまでの逆ギレであるが、浅葱の言にも一理あった。
ソファで眠る古城の寝顔はあどけなくて普段とのギャップが著しい。加えて今は見た目も幼くなっており、庇護欲やら何やらを非常に掻き立てられる。それでも寝ている相手の唇を奪うのはどうかと思うが。
まじまじと少年の寝顔を覗き込む少女が四人。側から見たら事案かと疑われかねない絵面である。
四対の視線に曝されたことが切欠なのか、不意に小さな唸り声を上げて古城少年の目蓋が開く。寝ぼけ眼を何度か瞬かせて、見覚えのない少女たちに囲まれている体勢に目を点にした。
「うおわっ!?」
あ、と声を上げたのは誰だったか。完全に目を覚ました古城少年はやたらと見目の麗しい少女たちに囲まれていることに驚き、慌てて距離を取ろうとしてソファから転げ落ちた。
「あの、大丈夫ですか……先輩?」
頭を打って悶絶する古城少年を気遣う雪菜。驚かせてしまったことを申し訳なく思いつつ手を差し伸べる。
しかし古城少年は差し伸べられた手を取らず、不審者を見るような目を返した。
「先輩? 誰だよ、あんたたち。なんか知らない奴も増えてるし」
目覚めてすぐに目が醒めるような美少女たちに囲まれていたと思えば、面識のない年上の少女から親しげに先輩呼びされ、古城少年は訳が分からず困惑と警戒の入り混じった顔をした。
古城少年の余所余所しい態度に、優麻以外の三人が衝撃を受けた。
「そうでした。今の先輩はわたしたちを知らない……」
悪気のない古城の初対面の反応が、雪菜たちに少なくないダメージを与えた。
ズーンと落ち込む雪菜たちを見兼ねて、この場で唯一コミュニケーションを取れるだろう優麻が進み出る。
「大丈夫だよ、古城。この人たちは怪しい人じゃないから」
「ユウマ、だよな?」
記憶にある姿よりも背丈やら身体つきやらが成長している幼馴染に戸惑いを隠せない古城。まるで自分だけが時間の流れに置いてけぼりを喰らったような疎外感が拭えない
「古城、今から話すことを落ち着いて聞いて欲しい」
不安に揺れる古城の瞳を真っ直ぐ見据え、優麻はゆっくりと幼子に言い聞かせるように事情を説明する。
変に誤魔化すよりかは自身の置かれた状況を伝え、理解させたほうが良いと考えたのだ。この頃の古城ならば、驚き混乱はすれど事態を呑み込むのに大した時間は要さないと判断したのである。
しかし優麻の見込みは外れてしまった。
「魔導書で記憶喪失? なに言ってんだよ、そんな御伽話みたいなことが……っ!」
「どうしたんだい、古城!?」
魔導書やら何やら非現実的な単語が出たあたりで胡乱な顔付きになっていた古城が、唐突に頭痛を堪えるように頭を抱えて蹲る。慌てて優麻が駆け寄ると、ぶつぶつと虚な呟きが聞こえてきた。
「なんだ? 俺は、
顔色を真っ青にして頭を抱え、今にも錯乱して発狂しそうな勢いで身体を震わせる古城。記憶が混乱しているのか、自分自身が誰なのかすら判別がついていない。
尋常な精神状態ではなく、このまま放置すれば自我が崩壊しかねない。危険な状態だと判断して、呪術に長けた紗矢華が催眠暗示で落ち着かせようと動きだした時、カチャリと音を立ててリビングのドアが開いた。
「やあやー、たっだいま。私が居ない間に色々と楽しめたかしら……って、あら?」
凪沙を研究室に送り届けて戻ってきた深森は、室内の騒然とした様相に目を丸くする。次いで少女たちから少しばかり距離を取った位置で頭を抱える古城少年を認め、なるほどと口の中で小さく呟く。
「ふんふー、目が覚めたら可愛い女の子たちに囲まれててビックリしちゃったのかしら。私だったら選り取り見取りだーって舞い上がっちゃうけどなー」
「違うんです、深森さん。古城は……」
錯乱の原因を説明しようとする優麻を手で制し、深森は少女たちの間を擦り抜けて蹲る古城少年の目の前に蹲み込んだ。
新たな人の気配を感じて古城少年が顔を上げる。
「あなたは……?」
「酷いなぁ、ちょっと会わないうちにお母さんを忘れちゃったの?」
「母、さん……?」
まじまじと目の前の女性を見やる古城。必死に思い出そうとして表情を歪め、その度に襲いくる頭痛に頭を抱えてしまう。
深森はそんな少年を壊物を扱うように優しく抱き寄せ、落ち着かせるように背を撫でながら耳元で語り掛ける。
「そう、私はあなたのお母さん。
深森は迷い子を導く聖母のように、古城少年が落ち着くまで抱きしめ続けた。
やがて古城少年の震えが収まり、頭痛からも解放されたのか顔色が良くなる。そして自分を見つめる四つの生温かい眼差しに気がつき、ジタバタと暴れ始めた。
「ちょっ!? もう落ち着いたから離してくれ!?」
「えー? どうしよっかなー」
ふんふ、とご機嫌に鼻歌を歌いながら思う存分古城を抱きしめ続けた深森だが、当人が全力で抵抗を始めたことで泣く泣く手を離すことに。解放された古城少年はばっと深森から距離を取った。
羞恥から顔を赤くする古城少年。記憶の混乱は完全に落ち着いたらしい。おちゃらけた態度を取っていても母親の力は偉大であると、雪菜たちは深森に尊敬の眼差しを送る。ただ一人だけ、今のやり取りに若干の違和感を抱いていたが。
「さてと、では……」
すくっと立ち上がった深森が徐に懐から取り出したるはハンディサイズのデジカメ。何をするつもりなのか、なんとなく察しがついた古城少年は顔を引き攣らせ、雪菜たちは静かに黙祷を捧げた。
「──写真撮影の時間だよ、古城くん!」
「──止めろおおおおおお!?」
(ユウマに纏わる記憶+
ごちゃ混ぜになった意味記憶+
???)=小城くん
記憶関連で残ってるものはこれくらいです。